2019年12月22日日曜日

死は次の世界に生まれること



日本では人が死んだら、亡くなると言います。

亡くなると言う言葉の響きは、もう存在していない「無くなる」を連想してしまいます。

跡形もなくなり、視えなくなってしまえば、無くなったと思ってしまっても仕方がないような気がします。



しかし、現実は違います。

人間は肉体だけの存在ではありません。

肉体を動かしているのは精神です。

そして、精神の高次に「魂」が存在しています。



死とは、魂が肉体から抜け出す自然現象です。

心臓が停止して脳波が平坦になるのは死の前段階に過ぎず、肉体から魂が完全に分離した瞬間が死です。

死によって肉体は活動を完全に停止しますが、生命の本質である魂は変わりなく生き続けています。



残念ながら死におけるこの現象は、いかなる機器をもってしても観察することは出来ないので、唯物的な人にとって根拠のない戯言にしか聞こえないかもしれません。

真偽のほどは、死を経験すればはっきりします。

けれども、事前に正しい知識を身に付けておいて損はありません。

正しい知識を身に付けていれば、死後の環境に直ぐ馴染むことが出来るからです。

魂など存在せず、死後の世界などない思っていれば状況は全く違って来ます。

意識があり、自分が存在しているので、まだ地上で生きていると錯覚してしまいます。

違う世界にいることが判らず、新しい環境に適応出来ません。

私が正しいと思っている知識が間違っていないと言う保証はありません。

しかし、たとえ間違っていたとしても、その時は無になっているので、騙されたと悔しがる心配もないでしょう。



死を境に肉体は活力を失い、分解され土に還ります。

一方、魂は肉体とは違う媒体(幽体)で自己表現を始めます。

幽体の波長は物質に近いので、半透明な「幽霊」として観察されることがあります。



肉体から抜け出した魂は、しばらくすると先に逝った親愛の情で結ばれた人と再会します。

再会の悦びに浸ると同時に、もうこの世の人間ではないことを自覚します。



それからどれ位経ってからでしょうか、人生を総括する時が訪れます。

この世で、想ったこと、言ったこと、行ったこと、その全てが魂に刻み込まれています。

目の前にスクリーンの様なものが現れ、全人生が映し出され、一部始終を観ることになります。

さまざまな出来事を振り返って行きます。

出来事を通して学ぶべきことを学んだか、予期していた成長が得られたかどうかが、つぶさに判ります。

苦しみながらも、どうにか乗り越えて行けたのなら、安堵と共に悦びに包まれるでしょう。

逃げてしまい、何も学ぶことが出来なかったとしたら、自分の取った行動を後悔することになるでしょう。



人のために役に立つのは、想像してた以上に価値があったことに気付きます。

喜んでもらえた上に、自分も成長していたことを知り、大きな悦びを感じます。

人を傷つけたり、苦しめたりしたらどうでしょう?

自分が取った行動の結果を見せられて、その責任を取ることになります。

たとえ地上の法律から逃れられたとしても、自然法則の働きからは逃れられません。

苦痛を伴う、相応の償いをしなければいけません。

後悔を晴らすため、償いをするために、もう1度この世に生まれて来る人も少なくないようです。

それを済まさない限り、前に進むこと(成長)が許されないのです。

死んで終わりになると信じていると、後悔をしたり、償いをしなければならない人生を送りやすくなります。

無用な遠回りをしないために、霊的な真実を早く知っておくことは、とても大切です。



ただ、平穏無事な生活を送っている人にとって、霊的な真実など関心はないようです。

太陽が出ている時に、明かりは必要ないのです。

けれども、出来事に打ちのめされ、真っ暗闇の中にいる人にとって、足元を照らす明かりになります。



この世界で起きる全ての出来事は、無限の叡智によって創られた、自然法則の働きによって起きています。

偶然はなく、原因(目的)が必ず存在しています。

学びと成長を得るために、(無限の叡智によって)計算し尽くされた上で、出来事は起きています。

挫折させるためではなく、霊的な進化を目的としているので乗り越えられない出来事は絶対に起きません。


この人生が全てではありません。

窺い知ることは出来ませんが、生まれる前にも人生があり、今生へとつながっています。

まだ学んでいないことを学ぶために、ふさわしい経験が必要だったと考えられます。

足りない部分を補い、強くなるために、避けて通ることが出来なかったと考えられます。



では、何故、私たちはそこまでして学び、成長して行かなければならないのでしょうか?


遠い遠い過去に宇宙は誕生し、元々は1つだったものがバラバラになりました。

そして、長い時を経て生命が誕生します。

生命は偶発的に誕生したのではなく、目的を持って創造されています。

創造した者を「神」と呼ぶことにします。

生命は神によって創られた、神の一部です。

勿論、人間もそうです。

一人一人の魂に神がいます。



神は無限の叡智です。

私たちの魂にも、無限の真理(叡智)が内在されています。



人生において、耐え難い出来事が起きる時があります。

なぜ、こんな目に遭わなければいけないのか?

どうすればこの苦しみから逃れられるのか?

真実を教えてくれる人は、どこにもいません。

いくら考えても、答えは見つかりません。



追い詰められ、頭で考えてもどうにもならなくなった時、それまで眠っていた魂は目覚めます。

悲嘆、落胆、失望、屈辱など、苦痛と感じる心的状況は、魂を目覚めさせるための神の触媒です。

思考することによって、真実が判るわけではありません。

真実は霊的次元に存在しています。

目覚めた魂に内在している無限の叡智から、必要としている真実がインスピレーションとなって啓示されます。

啓示された真実は魂の学びとなり、苦しみから救われ、出来事が乗り越えられます。



話は変わりますが、人体は小宇宙と言われています。

数十兆個にも及ぶ、多様な細胞から構成されています。

たとえば指先の皮膚の細胞と脳の細胞ですが、お互いに関係がないように見えます。

しかし、どちらも人体を構成する一部であり、それぞれに果たすべき役割があります。

全体の中でつながっています。



広大な宇宙の中で、一人の人間は極小の存在です。

けれども、宇宙を構成している一部には変わりはありません。

どんなに小さな存在であっても、全体の中で果たすべき役割りが与えられているはずです。



全ての細胞に、同じ血が流れていて、私たちは生きています。

全ての生命に、同じ力が流れていて、私たちは生きています。

その力とは、生命(霊)力です。

生命力と言う共通の力で、全生命はつながっています。



ヒーリングの力は生命力です。

その力により魂と精神と肉体が癒やされます。

その様子を見る度に生命力は神を始源とした、愛を帯びた力であると強く感じます。

神は生命力を通して、全ての生命に自らの心、愛を表現させようとしていると思います。



しかし、私たちはいつも愛を表現しているわけではありません。

愛を表現するどころか、反対に怒ったり、憎んだりすることもあります。

それはどうしてなのでしょうか?



地上の人間は、自分の想いを、精神(自我)を介し、肉体と言う媒体で表現しています。

肉体からは様々な欲求が生じていて、そのほとんどが自己保存的なものです。

自我は肉体と強く結びついているため、どうしても自分に意識が向き、他者に意識が向きません

地上では、自分が1番可愛いのです。

自分が1番可愛いと思っている者同士の間には、反発が生じてしまいます。

自分に意識が向いてしまう中で、他者に意識を向けて、調和を図ろうとするのが、肉体を持つ地上ならではの修練と考えられます。



昔、駅のホームに転落した人を、自らの命(肉体)を犠牲にして、助けようとした人がいました。

その人は、頭で考えて行動したのではなく、魂に内在する神性(愛)が強く発現したと考えられます。

その場に居合わせた多くの人が助けられなかったのは、自我の働きにより、神性の発現が抑制されたからと考えられます。



人生では、このような自我と魂のせめぎ合いが起きています。

私たちは、常に試されているのです。

自我に打ち克ち、他者に愛を表現することによって、魂は進化向上します。

進化向上の果てに待っているのは究極の愛の境涯であり、神は自然法則の働きによって私たちを導いています。



この世界では、様々な人間が同じ平面に生活をしています。

考え方や価値観が異なる、自分とは違う人たちと一緒に生活するのは大変なことです。

平穏無事に生活するためには、お互いを認め合い、許し合わなければいけません。

それらが欠如したならば、争いが起きてしまいます。

争いから生じるのは、苦痛です。

私たちは苦痛を通して、認め合い、許し合うことの大切さを学びながら、次第に信じ合うようになって行きます。



この世界に生まれて来たのは自分に打ち克ち、自分とは違う人たちを信じ、愛を表現するためです。

愛は魂は引き付け合う、神的なエネルギーです。

バラバラになった生命が、愛によって再び1つになるために用意されたのが、この世界です。

気の遠くなるような長い年月をかけて、神の計画は成就されて行くはずです。





死とは、次の世界に生まれることです。

新しい媒体によって自己表現を始めることです。

肉体のような自己保存のための欲求はもうありません。

食べる必要も、休息する必要も、お金のために働く必要もありませんので、自分ではなく他者に意識が向けられるようになります。

自分に向けていた(生命)力を、自然に他者に向けられるようになります。

お互いを思いやり、助け合う世界です。

そして、本当の自分の想いを隠していた肉体はもうないので、周りに全てが知れてしまう世界でもあります。



この世界とは大きく違うところが、他にもあります。

周囲には自分と類似した魂しかいません。

従って、他者との関係で悩んだり、苦しんだりすることはありません。

類似した魂から生じる想いは、自ずと似通っています。

お互いが同じ想いを共有しながら生活しています。



素晴らしく快適な世界です。

本来は、喧騒と争いに満ちたこの世界に生まれようとは思わないでしょう。

それでも、生まれて来るのは、次の世界では決して起きることのない出来事を通して、大切なことを学び成長するためです。

神の計画に従い、想いを共有して1つになって行くために必要な経験をするためです。



大切な人が死んでしまったら、この世にいられなかったと悼みます。

それは大きな間違いであり、想像を超えた素晴らしい世界に誕生したのです。



他者を自然に思いやれる人は、次の世界に行く準備が整っていたのです。

肉体がなくなり、ありのままの想いが周りに知れたとしても、恥ずかしくない人だったのです。






2019年12月7日土曜日

才能について



仕事が休みの日に、音楽を聴こうと何気なく観ていたら、テレビ番組の中で小さな子がピアノを弾いていました。

とても可愛いらしい男の子だったのですが、あまりに上手なので驚きました。

この時の年齢は5歳で、ピアノを習い初めてから3年も経っていませんが、すでにピアニストととしての風格のようなものが感じられました。 




                  
                               
私も、この子と同じ位の年齢の時に、ピアノを習っていました。

当時、子供にピアノを習わせるのが流行っていて、私の親もピアノが弾けるようになって欲しかったみたいです。

ところがピアノのレッスンが大嫌いな私は、早く終わることしか考えていませんでしたので、長続きはしませんでした。

残念ながら、私にはピアノの才能はありませんでしたが、この子はあり余るほどの才能を持って生まれて来たようです。



ところで、この子が才能を持って生まれて来たのは、偶然なのでしょうか?

そうではないと思います。

予めこの世でピアニストになることを決めていて、そのために才能が与えられ、予定通りに開花していると考えています。



そうなると、誰が、何のために才能を与えたのかと言う疑問が生じます。

話は少しそれますが、この宇宙は想像を超えた存在によって統括されています。

その存在は、目に視えるもの、形あるものではなく、自然法則として顕現し、宇宙を経綸しています。

138億年の遠い過去に宇宙が誕生し、46億年前に地球が誕生し、約700万年前に人間は誕生しましたが、これらも自然法則の働きによるものです。

人間が生まれるのも、病気になるのも、そして死ぬのもそうです。

何気なく起きている現象、例えば悲しくなると涙が出るのも、うれしくなると微笑むのも、全て自然法則が働きによるものです。



あらゆる事象は、自然法則の働きによって起きています。

って、偶然は存在しません。

しかし、人は自然法則の働きが判らないと、偶然として片付けてしまいます。

この男の子に才能が与えられたのも、もちろん偶然ではなく自然法則が働いた結果です。



結果には、それに先立って原因があります。

何らかの原因(目的)があって、その結果として私たちは生まれて来ています。

生まれた後も、原因と結果の連鎖を繰り返しながら、人生は紡がれて行きます。

今の自分は、これまでの人生の結果です

その後も、連鎖を繰り返しながら、今の自分は上書きされて行きます。



この子は、ピアニストになりたいと強く願い、生まれて来たと考えられます

(過去生において)やり残したことがあり、今度こそ成し遂げたいと願っていたのかもしれません。

才能は突発的に生じたのではなく、過去生において培われたものが、この世に引き継がれて、早期に発現したと解釈する方が、より自然と考えられます。

強い願望が原因となり、その結果として才能が与えられたと考えられます。



この世に生まれて来た目的は、大切なことを学び、成長するためです。

さまざまな困難や障害を乗り越えて行くこと、人や動物や社会のために奉仕をすることで、その目的は成就されて行きます。

人は、この世でどの様な人生を辿るのかを承認して生まれて来ていますが、その記憶はどこにもありません。

ほとんどの人にとって、困難や障害は歓迎するものではありません。

出来れば避けて通りたいものです。

もし、ぎりぎりまで追い詰められるような困難や障害に遭遇することが、事前に判っていたらどうでしょう?

そのことが気になってしまい、まともな精神状態ではいられません。

どうにかして回避しようと躍起になったり、耐えられないと思い、生きることを放棄してしまうかもしれません。

人はそれほど強くはないので、思い出せないようになっていると考えられます。



この子のピアニストとしての才能を、羨ましがったり、欲しがったりする人は、きっとたくさんいます。

けれども、この子がこれから辿る人生を、垣間見ることが出来たとしたらどうでしょう?

遊びもせずにレッスンに明け暮れ、演奏本番は極度の緊張を強いられ、そんな生活を死ぬ時まで続ける・・

表現力を豊かにするために、人よりも多くの苦難や悲しみを経験する・・

そんな人生を送るのかもしれません。

才能ばかりに目が行き、犠牲にしているものに気付きません。

こんなに大変な人生なら、ピアノの才能などいらないと思う人がほとんどかもしれません。

この子は生まれる前に、全てを犠牲にしてでも、ピアノを演奏する才能を手に入れることを承認していたはずです。



それでは、才能が与えられるのは、何のためでしょうか?

自分の願望を叶えると同時に、人や社会のために活かすためと考えられます。

この子の場合は、ピアノの演奏を通して、人に感動や喜びを与えるためです。

芸術性を高めて、魂に響く音楽を届けるためです。

人や社会のために活かされるほど、才能はさらに伸びて行くと考えられます。

そして、この世に生まれて来た目的が成就されて行きます。



人は願望(目的)を持って、この世に生まれて来ているはずであり、人生のどこかで具現化し始めるはずです。

今から約30年前の話ですが、研修先にある女性医師がいました。

彼女の顔には生まれつき大きな瘢痕があって、それを手術で取り去って、周りの人に気付かれないほどになりました。

そんな経験があり、医者になって自分と同じように見た目で悩んだり苦しんいる人を救いたいと思ったようです。

人を助けたいと言う願望と、顔に瘢痕を持って、彼女はこの世に生まれ、手術を契機に果たすべき目的に気付いたと考えられます。



才能の有無と、人間の成長度とは関係ないようです。

その人の成長にとって都合が良いので、才能が与えられると思います。

話術に才能がある人は、アナウンサーや司会者、あるいは弁護士になるなどして、人や社会のために活かすことで、成長が促されます。

道を誤り、詐欺師になってしまえば、自らを貶めることになります



勉強ができるのも、一種の才能かもしれません。

勉強がすごく出来て、最高峰の大学に入り、国のために働いている人がいたとします。

その人には、生まれる前に国のために働きたいという願望があり、それを叶えるために優れた知性が与えられたと思います。

与えられた知性を、私利私欲のためにしか活かせなければ、完全に道を誤っていることになります。



才能は願望により与えられるものですが、特別な才能を持っていないと思っている人がほとんどです。

しかし、この子のような目を引くものだけが才能とは限りません。

気付かずにいる、目立たない才能もたくさんあります。

人に優しく出来るのも、過去生から引き継いだ立派な才能です。



才能が、人や社会のために神から与えられる能力であるならば、人や社会のために何かしようとする時、神から能力が与えられると考えてもおかしくはありません。

例えば、溺れている者を助けようとする時に、助けるための能力が与えられ、同時に霊界からの援助も受けていると考えられます。

しかし、自然法則の働きを超えて願望は叶えられないので、残念ながら溺れてしまうこともあります。



前述の女性医師も、患者を助けてやりたいと思いながら手術をすれば、背後にいる目に視えない存在を通してインスピレーションと能力が与えられて成功し、それが才能として認識されると思います。

願望により与えられた能力と、背後にいる存在からの援助により、奇跡的な結果が生まれることもあります。

地上の人が、全て自分の力で成し遂げていると思ったら、大間違いです。



子育てにおいても、子供への愛情を抱いた瞬間、育てる能力が神から与えられます。

人間だけでなく動物も、子供に対して愛情があれば、育てる能力が与えられます。



願望の中に愛の要素があれば、神とのつながりが強まり、成し遂げるための能力が与えられます。