その人たちはカタコトの日本語で「あなたは神を信じますか?」と尋ねて来ます。
後で布教活動だと知りましたが、神など関心のなかった私は、ちょっと変わった人たちだと思っていました。
それから30年以上経ち、霊的真理(シルバーバーチの霊訓)と出会い、神について学ぶことになります。
そこに書かれていた神は、その人たちが説いているものと違っていました。
願いを叶えてくれたり、守ってくれる、人間を限りなく大きくしたような存在ではありません。
神は「法則」によって、この世界を経綸しています。
法則なので、誰に対しても平等であり、厳格に働いています。
言葉に出さなくても、人間の願いは神に届いています。
神の心に適う真摯な願いであれば、法則の働きによって力が与えられ、叶えられる方向へと向かって行きます。
誰かのために何かをすると、想像以上の力が出て、上手く行くのはそのためです。
神の心に適った行いをすると、法則の働きによって、喜びを伴う結果が生じます。
優しくしたり、親切にすると、された人は笑顔となり、こちらにも喜びが生まれます。
それとは逆に、神の心に反した行いをすると、法則の働きによって、苦痛を伴う結果が生じます。
自分勝手な行いをしていると、周りから避けられるようになり、孤独と言う苦痛を味わいます。
神は法則の働きによって生じる、喜びと苦痛により、自らの意図する方向へと導いています。
神の力によって生かされています。
その力は愛を帯びています。
いや、愛そのものと言って良いのかもしれません。
私たちは、神の愛を表現する媒体として、この世界に存在しています。
けれども、肉体がある地上では、自我が不完全なために、思うように愛を表現できません。
自我の働きによって、自分が一番大切に思えてしまうと、他者のために何かをしようとしてもできなくなります。
神の力は、さまざまな形となって現れています。
傷ついた心身が、時と共に癒されて行くのは、「自然治癒力」という神の力によるものです。
この力を愛と呼ばずして、何と呼ぶのでしょう。
同じ次元で生きていた人が、死によって違う次元に行ってしまうことがあります。
隔たりが生まれますが、両者の間に愛があれば、再びつながることは可能です。
次元を超えて、想いを交わし合える余地が残されているのも、神の愛に他なりません。
乗り越えられないほどの困難な出来事は起きません。
それは、神の法則(因果律)の働きによって、出来事は起きているからです。
挫折させるためでも、絶望させるためでも、苦痛を与えるためでもありません。
私たちを、学び成長させるために起きています。
目的が成就された時点で、その出来事は乗り越えられています。
霊界に行き、佳きに計られわれていたのを知った時、神の愛に感謝するでしょう。
神だけではありません。
無用な危害が加わらないよう、予定されていた人生を歩むように、霊界にいる存在によって守り導かれています。
一人ぼっちで、愛とは無縁に思える人も、愛されています。
私たちは「神の法則」と「神の力」の働きによって、いつどこにいても愛されています。
地上にいると、霊的な目が閉ざされてしまい、愛や法則の働きが見えなくなるため、そのことが分からなくなってしまいます。
もし、神から愛されていると、心から信じることができれば、安らぎや悦びを感じるでしょう。
愛されている悦びを感じると、今度は誰かに愛を表現したくなります。
愛を表現された人は、他の人に愛を表現したくなります。
このようにして、愛は全体に伝わって行き、神が意図した世界となって行きます。
愛は魂を結び付ける力です。
この世界は、神の愛が隅々にまで伝わることによって、1つになって行きます。
その流れに逆らうことができないのは、それが神の意図であり、法則の働きによるものだからです。
