2016年8月21日日曜日

人にしてはいけないことは、自分にもしてはいけない



先日、中学の同窓会に行きました。

久しぶりに見る顔ばかりで、若き日の思い出話に花が咲いて、楽しい時間を過ごしました。

話をしていると、あることに気付きました。

自分は言われたことは覚えているのに、言った本人はすっかり忘れていることが多いのです。

中学時代は多感な時期なので、人から言われた言葉に傷つき易かったように思います。

お前から、こんなひどいことを言われてショックだったと伝えても、「えっ、そんなこと言ったっけ」とすっかり忘れているのには驚きました。

そう考えると、覚えていないだけで、何気なく言った言葉で人を傷つけてしまったことが、私にもたくさんありそうです。



人から傷つけられたくはありませんので、人も傷つけたくはありません。

もし、傷つけてしまったら、良心の呵責が生じてしまいます。

良心とは、何だろうと思います。

実は、本当の自分である魂に宿っている、神のモニター(監視装置)言われています。

全ての言動、そして想いにも、目に見えない自然法則(神の摂理)が働いています。

この世の法律に触れなくても、自然法則に反した行いをしたならば、その責任を取らなければいけません。

良心を無視して人を傷つけてしまえば、他の人に判らなかったとしても魂に刻まれてしまい、因果律の働きにより、相応の苦痛がもたらされます。

人を傷つける悲惨な出来事が、毎日のように起こっていますが、無知とは恐ろしいと感じざるを得ません。



日常生活の中でも、人を傷つけてしまう恐れがある出来事に遭遇します。

もし、人が失敗したり、期待していた結果を出せなかったり、迷惑をかけてしまった場合、どうするでしょうか?

注意をしたり、反省を促したりするでしょうが、それでは甘いと考え、叱責する人も多くいるでしょう。

叱責するにも、動機はさまざまです。

その人のためを思って叱責する人もいれば、自分の立場を誇示するためや、単に怒りの感情をぶつけているだけの人もいます。



その人のために叱責するのであれば、相手は傷つかずに成長につながり、それは摂理(愛)に適った行いであり、自らの成長にもつながります。

しかし、自分本位に叱責すると、時に相手を傷つけ、成長を妨げてしまう可能性があります。

もし、傷つければ、その責任を取らなければならず、自らの成長も妨げられてしまいます。

叱責する行為そのものではなく、叱責する動機に、神の摂理が働いています。



ところで、自分が失敗をしたり、結果を出せなかったり、あるいは人に迷惑をかけてしまったらどうするでしょうか?

責任を強く感じる人もいれば、そうでない人もいます。

中には、自分を絶対に許せない人がいます。

そんな人は心の中で、「本当に自分はどうしようもない」とか「だめなやつ」と、叫んでいるかもしれません。

すると、人から言われた訳でもないのに、落ち込んだり、苦しくなってしまうような気がします。

心の中で言って、苦しくなるのはどうしてなのでしょうか。



私たちは、肉体を携えた魂です。

死んでお終いなのは肉体であり、魂は生き続けています。

小さな時は、本当の自分で生きていますが、大きくなるに従い、もう一人の自分を作り始めます。

それをエゴと呼ぶ人も多いのですが、私は「この世を生きる自分」と表現しています。

この世を生きていくのに都合の良いように、支障のないように、学習しながら、もう一人の自分を作り上げて行きます。

愛想笑いをしたり、お世辞を言ったり、強がりを言ったりするのは、この世を上手く生きようとしている自分がいるからです。

本音を隠すとは、この世を生きる自分が、本当の自分の想いをブロックしている状態です。



この世を生きる自分が壁のように、本当の自分(魂)の外側に築き上げられて行きます。

この世界と接触するインターフェイスであり、本当の自分(魂)を守る役目もあるのですが、あまりに強固になると、本当の自分が前面に出るのを妨げてしまいます。

魂から生じている本当の想いを、遮ってしまっていると考えられます。



多くの人は、本当の自分と、この世を生きる自分の、せめぎ合いの中で生きています。

しかし、上手く生きることばかりに捉われていると、本当の自分が表に出る機会がなくなり、奥に引っ込んでしまいます。

頭を使って賢く生ようとすればするほど、本当の自分が埋没して行きます。

そんな生き方を長い間続けてしまうと、作り上げられた自分が、自分だと錯覚してしまうかもしれません。



自分を責めてしまうのは、この世を生きる自分が、本当の自分に向かって責めている状態です。

そのために、自責の念が生まれ、苦しんでしまいます。

人から責められているのと、全く同じことが、自分自身の中で起きています。



この世を生きる自分が大きくなると、自分を責める気持ちも強くなり、苦しみも大きくなってしまいます。

自分を責め立てるのは、深く反省をして、罪が軽減されるようにも感じられますが、本当の自分(魂)に、責任を押し付けているようなものです。

他人から責められているのと全く同じであり、自分を苦しめてしまうことになります。

もし、苦しんでいるのであれば、それは自分を責めているためと思われます。



人に責め続けられたとしたら、心身の調和が失われてしまい、病気になってしまうかもしれません。

それと同じで、自分を責め続けたら、病気になってもおかしくはありません。

容赦なく自分を責め続けると、本当の自分(魂)が傷つけられ、容易に立ち直れなくなってしまいます。

人を傷つけるのが許されないように、自分自身を傷つけるのも許されません。



失敗をしない人は、この世に生まれて来ません。

失敗しながら、学んで行くのが、この世に生まれた人の務めです。

学んだことを次に活かせば良いのであり、自分を責めてはいけません。

もし、誰かに迷惑をかけてしまったのであれば心から謝罪をして、償う必要があれば誠心誠意するだけです。

結果責任は、どちらにせよ自分で取らなければいけないので、責める必要は全くありません。



人に言ってはいけない言葉を、自分に向けるのはやめましょう。

つぶやきであっても、自分(魂)に響いていることを忘れてはいけません。

思っただけでも、届いているので、注意しなければいけません。



神は、人にやさしくするのを、とても喜びます。

人にやさしくする人が、自分にやさしくしないのは、明らかに不自然です。

魂は自分であると同時に、神のものです。

神のものなので、全てが知れてしまいます。

だから、自分の魂にもやさしくしないと、神に知れて、苦しみが与えられてしまいます。



もしそうであれば、責任を感じてしまった時はどうすればいいのでしょう。

今までに、人にかけられて、救われた言葉を思い出して下さい。

あるいは、落ち込んでいる人のために、かけてあげたい言葉を探してみましょう。

救われた言葉や、かけてあげたい言葉を、自分にかけてやれば良いだけです。

そんな言葉を、自分(魂)に向けて素直にかけてやれば、気持ちは安らぎます。

繰り返しかけてやれば、とても落ち着き、前向きになれます。

人を励ましたり、慰めたりする言葉には、愛が込められています。

言葉をかけられて気持ちが安らぐのは、愛により魂が癒やされるからです。

それを自分に言葉をかけてやれば、魂が癒され、気持ちが安らぎます。

過去を変えることは出来ませんが、自分が進んで行く方向は変えられます。

自分にかける言葉で、苦しむ方向に行くのか、癒やされる方向に行くのかが決まります。

どちらが賢明な選択なのかは、明らかです。

精一杯やったのであれば、思い切り慰めてやりましょう。

立ち止まっているのなら、励ましまてやりましょう。

そうすれば、魂は生きる力を多く受り、前に進んで行けます。



物事が上手く行かなかったり、失敗してしまうのは、この世で起こるのは当然です。

この世は、想ったことが具現化しにくい、不完全な物質の世界です。

思い通りにいかない世界に、私たちは生きているのです。

失敗や挫折を経験しながら、成長して行くために、この世に生まれて来ています。

失敗や挫折から何かを学んで行くのが、生きる目的の1つになっています。

小さなことでも良いので、そこから何かを学ぶことが大切です。

責めてしまえば苦しくなるだけで、学ぶことが出来なくなります。



自分で自分を責めると、苦しくなるのは、摂理に反していることの証明です。

自分を責めてはいけないのは、人を責めてはいけないのと同じであり、良いところは何一つないどころか、過った行いです。

人に言われてうれしかった言葉を、内にいる本当の自分に向けて、心の中でささやいて下さい。



(この世を生きる)自分が認められない悔しさ、怒りから、本当の自分を責めることにつながります。

認めてもらおうとする気持ちが強いほど、認められないと自分を責める方向に向かいます。

認めてもらおうとするのは、この世を生きる自分であり、本当の自分ではありません。

本当の自分は、ありのままを表現するだけであり、どのように思われても気にしません。

つまり、自分を責めてしまうのは、本当の自分として生きていないからです。

本当の自分が主導権を握って生きれば、自分を責めてしまうことはありません。







2016年8月6日土曜日

この世を生きる意味  その2 



昔、私が東京に住んでいた若い頃の話です。

1989年、時代はバブル景気真っ盛りでした。

車を買おうと思い、駐車場を探しましたが、どこもいっぱいです。

家から少し歩いたところに、駐車場を見つけました。

とても大きな駐車場でしたが、個人の所有で、敷地内にある家から初老の女性が出てきて、話をしました。

1ヶ月の駐車料金を尋ねたところ、確か4万円くらいと言われました。

地方出身者である私は高いと感じると同時に、駐車場の台数分の収入が1ヶ月で入るのはすごいことだと思いました。



この駐車場の所有者の様に、土地があるだけで数百万円の月収がある人もいれば、大変な思いをしながら働いても、食べて行くのが精一杯の人もいます。

これと言った苦労もしないで一生を終える人もいれば、苦労が絶えることなく一生を終える人もいます。

長生きをする人もいれば、早死にをする人もいます。

両者を比べれば、前者が幸せな人で、後者が不幸せな人に思え、この世は、不公平で不平等に出来ているような気がしました。

今は、霊的な知識を得たので、そのように思わなくなりました。



人は、生まれて、生きて、死ぬだけの希薄な存在では、決してありません。

この世で終わりではなく、死の後にも人生は続いています。

そこで全てが清算され、この世での苦労は報われ、完璧な公正が保たれています。



本当の自分とは、鏡に映る身体ではありません。

目に見えない魂です。

目に見えなくても、愛が存在しているように、魂も存在しています。

愛は実感があるので信じられるけど、魂は実感がないので信じられないかもしれません。

けれども、愛の存在を信じられる人ならば、魂の存在も信じられるはずです。

なぜなら、愛は魂から生まれ、魂で感じ取るものだからです。



この世は、魂が肉体という媒体を使って、自己表現をしている世界です。

肉体は、鈍重で不完全な魂を表現する媒体であり、想いや概念の全てを伝えることは出来ません。

文字や言葉は、想いや概念を伝える代用品に過ぎません。

満天の星空を見て、その神秘性を表現する言葉は、どこにあるのでしょうか?

愛する人と会えた時の歓喜を、言葉で表現できるのでしょうか?

伝えたいことが、上手く伝えられないのが、この世の宿命だと思います。



死んだ後に行く世界は、自分の概念や想いは、そのまま相手に伝わります。

肉体と言う媒体を通さないために、伝える概念や想いに、齟齬(そご)は生じません。

全てが分かり合える、素晴らしい世界であるのは間違いありません。



しかし、人によっては良いことばかりではありません。

想ったことが、直ぐに相手に知れてしまいます。

この世では、表と裏、本音と建前がありますが、表と建前はなくなり、裏と本音だけになります。

そして、嘘が存在できません。

隠し立てが出来ず、ありのままが知られてしまいます。



肉体があれば、自分の想いを知られずに済みます。

相手に対して、強い憎しみの想いを抱いていても、顔では笑っていられます。

それが全く出来ない、真実の世界に、私たちは行かなければなりません。

想いを隠せない世界に行く前に、魂を成長させ、誰に知られても恥ずかしくない想いに、変えて行かなければなりません。



喜びの想いは笑顔となり、表に出すことはできます。

しかし、怒りや憎しみや恨みや嫉妬の想いは、表に出すと生きていく上で支障が出てしまうので、内に秘めてしまうことが多いです。

そんな想いが大きくなって行くと、徐々に魂のありさまを変えて行きます。

怒りの想いが溜まっていて、人にやさしく出来るでしょうか?

憎しみの想いが溜まっていて、人を思いやれるでしょうか?

人にやさしくしたり思いやりを表現するのは、神の摂理(愛)に適った行いであり、魂を向上させます。

人は魂を向上させるために生きているので、内に秘めた想いが大きくなってしまい、摂理に適った行いが出来なくなるのは、極めて深刻な問題です。

そのために、内に秘めた想いに因果律が働いて、肉体上に病気として表現される時があります。

苦痛は、愛に反する想いを抱くのが過ちであることに気付くためにあり、(想いを抱いていた)償いとしてあります。

魂が目覚め、内に秘めた想いが解放されて本来の自分を取り戻し、忘れかけていた愛を表現して、再び魂を成長させて行くために、病気になるのだと思います。



かと言って、怒りや憎しみの想いを、そのまま表に出してしまえば、どうなるのでしょうか?

攻撃的なものになってしまい、争いが起きて、お互いに傷つけ合うことになります。

世界には、言語、文化、宗教、人種が異なる、さまざまな人が共に暮らしています。

さまざまな相違がある上に、伝えたいことが上手く伝えられない世界にいるために、誤解やくい違
いが生まれ、それが怒りや憎しみになってしまうと、衝突や争いに発展してしまいます。

衝突や争いからは、精神的、肉体的苦痛が生まれます。

誰もがそんな苦痛など、味わいたくありません。



苦痛を味わないためには、どうすれば良いのでしょうか?

お互いを認め合い、許し合うしかありません。

認め合い、許し合うためには、自己犠牲が必要です。

自己犠牲とは、間接的な他者への愛の表現に他なりません。

争いを避けるためには、怒りや憎しみの想いを変えていかなければなりません。

苦痛を経験して、そのことを学んでいると思います。



この世は、肉体的、精神的苦痛を通して、怒り、憎しみ、恨み、嫉妬、貪欲など、愛に反する想いを抱いたり、表現するのが過ちであることを気付くためにあると思います。

この世にしかない苦痛を通して、愛の大切さを学んでいます。



生きることの真相は、愛を知り、深く学び、そして表現して行くことにあると思います。

愛に反する想いを表現すれば苦痛が生まれ、愛の想いを表現すれば悦びが生まれるのは、神の摂理(自然法則)が、愛を表現する方向に向かうように、創られているからだと思います。

極めてシンプルな法則が支配していますが、この世は物質の世界なので、判り難くなっています。



多くの人が誤解していますが、死ねば直ぐに、魂が浄化されるわけではありません。

魂のありさまは、死ぬ前と、何1つ変わってはいません。

生前、愛の想いに溢れた人は、死後、美しい光を放つ魂となり、怒りや憎しみを抱いていた人は、醜い光を放つ魂となります。

肉眼はなくなり、霊的な目が開かれるので、周囲にいる人の想いが一目瞭然になります。

そして、自然法則の働きにより、親和性のある魂同士が、引き付けられます。

愛の想いを放っている魂には、同じような想いを放っている魂が引き付けられて集団を形成するので、必然的に、他者を思いやり、やさしさに溢れた世界となります。

怒りや憎しみの想いを放っている魂は、同じような想いを放っている魂が引き付けられて集団を形成するので、争いやいさかいを繰り返す世界となります。

ところが、そんな醜い世界にいても、周りには同類の魂しかおらず、この世のような苦痛が生じないので、そこから中々抜け出そうとはしません。

あの世は、過ちに気付きにくく、大切なことを学びにくい世界なので、この世にいるうちに、さまざまな出会いや出来事を通して学んでおく必要があると思われます。



人生でさまざまな出来事に遭遇しますが、その多くは生まれる前に承知していたようです。

意識には上がって来ませんが、魂の深いところでは、全て判っているはずです。

なぜ、そのことが判らないようになっているのでしょうか?

災難のような出来事や、悲しい別れや、つらい病気などが起こることを予め知っていて、その時まで平常心でいるは、極めて困難です。

回避するために全身全霊を傾けてしまったり、もしかしたら、人生を諦めてしまうかもしれません。

地上に生まれる人は、知っていて耐えられるほど、魂が向上してないので、判らないようになっていると思います。



人生の苦難には、魂を成長させ、何かを学ぶと言う、意味があります。

これと言った苦難もなく過ごす人生は、一見すると幸せのように見えますが、真相は魂を成長させる機会に乏しく、学ぶことの少ない人生かもしれません。

逃げてしまいほど過酷な現実に直面し、何で自分だけがと思いながら、耐え忍んでいる人がいますが、その現実を乗り越えて行く時に、魂は大きく成長していることを忘れてはいけません。

本当に大切なことは、人から教えてもらうのではなく、出来事から生じる苦しみ、悲しみ、痛みを通して身に付けるしかありません。

真に幸せな人とは、この世で多くを学び、魂を大きく成長させた人であるため、大きな苦難を乗り越えて来た人ほど、大きな悦びに包まれるでしょう。



出来事の意味が、たとえ今、判らなくても、死後に明らかになります。

生まれる前にした約束を成就するために、この出来事がどうしても必要だったことを知り、完璧な公正、公平が行き渡っていたことに感謝するでしょう。



この世を生きているのは、あの世で幸せに暮らすためです。

汗水たらしながら働いているのは、人や社会のために役立つ悦びを見出すためであり、食べるために働く必要のないあの世で、自ら進んで奉仕が出来るようになるためです。

苦難を経験するのは、それを乗り越えて行くことで、魂がより一層力強くなるためです。

つらい出来事を経験をするのは、苦痛を通して、愛の大切さを学び、想いを共有するためです。

そして、ありのままの自分が表現されても、恥ずかしくないように、魂を成長させるためです。