2018年10月28日日曜日

霊的な世界に不幸は存在しない



人は死んだらどうなるのか?

長い間、この問題は人間を悩まして来ました。

答えは、2つに1つです。

生命とは肉体であり死んだら無になる。

死んでも何らかの形で生命は存続している。

そのどちらも客観的に証明されていません。

これだけ文明が発展したにもかかわらず証明できないのは、生命は物質的なものではないので科学的手法では探究できないからです。

そして、今の段階で結論が出てしまうと、不都合が生じてしまうからだと思います。



命が限られたものと意識すればこそ、日々を一生懸命に生きるのかもしれません。

もし、死の後にも生は続き、素晴らしい世界が待っていることが判っていたとしたら、この世に生まれて来た意味も知らないまま、そちらの世界に行ってしまう人が続出するかもしれません。

死の先がどうなっているのか判らず、恐怖を感じるからこそ、自らの意思で行ってしまう重大な過ちが抑止され、人は苦しくても生きようとするのだと思います。

どんなにつらくても生き抜いたその報酬として、新しい世界で悦びが待っています。



この世に生まれて来た目的は、魂を成長させるためです。

自分に足りない部分を、経験を通して、補うためです。



それぞれの人生には、大まかなシナリオ(青写真があると言われています。

シナリオに沿って人生は展開して行きますが、その意図は効率良く魂を成長させて、必要なことを学ぶためと考えられます。

また、過去生での神の摂理に反した行いに対し、それを償うためのシナリオが用意されることがあり、苦痛の経験によって魂は浄化されます。



私事ですが、人生にシナリオが存在し、偉大な叡智が働いていることを認識したのは、今から十数年前のことです。

ある朝、左手から病気を癒やす力が出ていることに気付きました。

そして、数週間後に霊的真理(シルバーバーチの霊訓)に出会いました。

ほどなく人生の試練がやって来ました。

人生を大きく変える3つの出来事が、わずか1ヶ月の間に立て続けに起きて、鈍感だった私も偶然でないことを悟りました。



全ての事象に偶然はなく、因果律の働きによって起きています。

2011年3月11日、東日本大震災が起きました。

一万五千人を超える人が犠牲になり、まだ行方不明の人も数千人います。

地震はどうして起きたのでしょうか?

これも因果律の働きにより起きたのであり、プレートテクトニクスにより内部に歪が生まれ、巨大なエネルギーが溜まっていたのが原因であり、歪が元に戻りエネルギーが解放された結果として、地震が起きたと考えられます。

地球は動的なもので絶えず変化していて、その変化が地震となって現れたと考えらます。

神が人類に警鐘を鳴らすためではなく、物質的次元に原因があったと考えらます。



ところで、津波で亡くなった人たちは、皆、亡くなることが予め決まっていたのでしょうか。

いろいろな考えがあるようですが、私は決まっていたとはどうしても思えません。

もし、予定されていたとしたら、決められていた通りにそこに住み、津波に襲われるためにその場所にいたことになります。

人には自由意思があります。

どこに住もうと、どこに行こうと自分自身で決めることが出来ます。

津波で亡くなることを前提にその場所に住んだり、行ったのではなく、自由意思によってそこに住み、その場所に行き、その時、物質的次元で因果律が働いて地震が発生し、津波に襲われたと考えています。

交通事故のようなアクシデントにしか思えない事象でも、様々な次元の法則が働いた結果として起こるようです。

地球的規模の物質的次元の因果律が働いて、その場所にいた人が犠牲になったのであり、霊的次元に原因は存在しないと考えています。



過去生でのカルマを清算するために、犠牲になったと考える人もいますが、そうなのでしょうか?

津波に襲われて亡くなったのは一瞬だと思われます。

もしカルマであれば、償いのためにもっと長い間苦痛を味わなければならないはずです。

そして、苦痛の取り払われた死後の世界に行くことが清算になっているとは、どうしても思えません。

学び、成長するためにこの世に生まれて来るのに、それを中断させることを、神が計画するはずはないと考えています。



人間の過った行為によっても、地上生活の中断を余儀なくされる人たちがいます。

2001年9月11日、ニューヨークにあるワールドトレードセンターにテロリストたちに乗っ取られた旅客機が衝突しました。

このテロで亡くなった人たちが、もしカルマの清算のために犠牲になったのであれば、神が承認した上で起きたことになります。

殺人と言う重大な摂理に反した行いを、神が計画していたことになります。

それは絶対にあり得ませんので、あくまでもテロリストの自由意思によるものであると考えています。



地上には、自分に全く落ち度がないのに、この世を生きるのを中断される人がいますが、その人たちの人生が道半ばで終わってしまうのは、あまりにも不公正で不公平です。

シルバーバーチは、大自然の中核をなす法則として「埋め合わせと懲罰」が存在すると言っています。

罪もない人たちが支配者の横暴な振る舞いによって犠牲になったり、人間が動物に対して間違いを犯した場合(動物実験などで)は、その犠牲になった人や動物に埋め合わせの法則が働くようです。

勿論、自由意思を過って行使した人には懲罰の法則が働いて、苦痛の経験による償いをしなけなければなりません。

当然のことながら、地震やテロ犠牲になった人たちも、自分に原因(非)がないので、この法則が働いていると考えられます。

もし、飲酒運転をして事故を起こして死んでしまったのなら、その原因は自らが作っているので、埋め合わせの法則は働かないと考えられますが、飲酒運転をした車によって事故に遭い死んでしまったのなら、自らに原因(責任)はないので、埋め合わせの法則が働いていると考えられます。



自分に起きる全ての出来事は、生まれる前に決まっていて、計画の通りに起きていると考える人がいます。

もしそうであれば、埋め合わせの法則が存在する必要はありません。

そもそも、カルマが生じるような摂理に反するような行いを、神が計画するはずがありません。

神が自由意思を与えたからこそ、人は過ちを犯すのであり、その過ちに対応した救済措置として、埋め合わせの法則を用意したと思います。



埋め合わせの法則について具体的には書かれていませんが、どの様なものなのか考えてみました。 

繰り返しになりますが、この世を生きる目的は、さまざまな体験を通して、学び成長するためです。

地上に誕生する魂のほとんどは、霊的に成長しているとは言えず、過ちから生じる苦痛を通して、学びながら進化していると考えています。

ところが、霊界にいる天使的な存在の中には、1度も地上に降りることなしに、高度な進化を遂げている者も存在すると言われています。

もし、それが事実であるならば、地上的な経験を通さなくても、高い霊性と叡智が神から直接授けられていることになります。

このことから、地上の人生が外部の要因によって短縮されたとしても、得られるはずであった成長と叡智が、何らかの手段によって授けられるのではないかと考えています。

れが私の考える埋め合わせの法則であり、それによって神の公正が完全に保たれると思います。



と、こんなことを考えてしまいます。

予期しない事件や事故、あるいは自然災害で亡くなったとしても、その人の心は生前と何も変わっていません。

地上にいた時の願望はそのままです。

愛情で結ばれていた地上の人とは、以前と同じ様に結ばれること強く望んでいます。

しかし、地上とは違い、言葉や行動によって愛情を表現をすることは出来なくなり、その代わりに、意念を送って守り導くようになると考えられます。

残された地上の人の幸せを願い、意念を向けて守り導くことは、自己を犠牲にして愛を表現することであり、自らの成長につながっていると思います。

また、地上でやり遂げたかったことがあれば、その志を継いでくれる人に、意念を向けて実現してもらえるように働きかけていると思います。

地上の人によって、その願望が実現したのならば、霊界にいる身でありながら、同じ経験を共有したことになり、実現した悦び共に、学びと成長が得られていると思います。



地上に残された人は、亡くなった人と直に接して学ぶことが出来なくなりましたが、失ったことから生じる悲しみ、苦しみを通して、極めて大切なことを学んでいると考えられます。

愛について、生きる意味について、故人の優れたところなど、別れの経験がなければ、深く思いを巡らせることはなかったと考えられます。

魂が目覚め、大切なものに気付いて、より大きな成長へとつながったのであれば、地上に残された人も、失ったことに対する埋め合わせの法則が働いていると考えられます。

予期せぬことで肉体を失う時ことがあっても、霊的な損失が生じないように、あらゆる次元で埋め合わせの法則が働いているので、故人のことを嘆いたり、心配したりする必要は全くありません。



神は、宇宙に起こり得る事象の全てを承知しています。

当然のことながら、人が無知や未熟さのために過ちを犯すことや、地上で起こる全事象も織り込み済みであり、あらゆる事態に備えた法則が用意されています。

あまりの理不尽さに言葉を失ってしまうような出来事であっても、亡くなった人は落ち着きを取り戻し、新しい世界に順応し、地上の人が想像しているよりも悦びに満ちた生活が始まり、埋め合わせの法則の働きにより魂は救済されて、成長を続けています。

霊的な世界にあるのは永遠不滅の自然法則の働きであり、不幸は存在しません。




「その法則が構想においても働きにおいても完璧であるからには、当然その中に人間的な過ちに対する配慮も用意されているに決まっております。埋め合わせと懲罰が用意されております。」  シルバーバーチの霊訓(7)6章より








2018年10月14日日曜日

真の悦びが人を成長させる



2018年度のノーベル医学・生理学賞に京都大学の本庶佑さんが選ばれましたが、記者会見の席で「常識を疑え」と言ったのが印象に残っています。

常識だと思っていたことは、実は真実ではないかもしれないので、自分で確かめることの重要性を訴えていたと思います。

ドイツにマックス・プランクという量子学の父と呼ばれる物理学者がいました。

彼も1918年にノーベル物理学賞を受賞しましたが、物質についてこんなことを言っています。

「全ては振動であり、その影響である。現実に何の物質も存在しない。全ての物は振動で構成されている」

目に見える物は、振動によって五感による実感が与えられているだけで、人が思っているような物質は存在しないようです。

例えば地面にある石ですが、当然のことながらとても固いですが、固いと感じるような振動をしていると考えられます。

常識として思っていることと現実との間に、大きな隔たりがあるようです。



人は、目に見えない、触れられない、実感がなくて証明されないものを信じようとしません。

人間は肉体だけの存在ではなく、目には見えない精神が存在しているのは誰もが認めるところです。

その高次に魂(霊)が存在しているのですが、客観的に証明する術はないので、多くの人は懐疑的または否定をしています。

紫外線は振動数が多すぎて目に視えないため、数百年前の人はその存在を知りませんでした。

同様に、魂は紫外線よりもはるかに振動数が多いために、地上のあらゆる機器を使っても検出できないと考えるのは、無理があるのでしょうか?



証明されなければ存在を否定するのは、好ましい態度とは言えません。

心や生命は科学的に証明されていませんが、存在していないのでしょうか?

常識という固定観念を捨て、偏見がなくなった時に、真実は見えて来ると思います。

心と生命が統合されたもの、それが魂(霊)と私は考えています。



改めて言います。

人間を構成しているのは肉体、精神、魂(霊)です。

3者は、完全に独立した存在ではなく、お互いに影響し合い、依存し合っています。

最上位の魂から生じた思念を、精神が司令塔となって脳に伝えて、肉体を動かして自己を表現をしています。

出来事によって生じた喜怒哀楽の感情を、笑ったり、怒ったり、泣いたりして、肉体で外に表現しながら人生は紡がれて行きます。



人は悦びを感じたい生き物です。

悦びは内面の様相を表すものですが、本質は3つに分類されると考えられます。

肉体的な欲求を満たした時、精神的な欲求を満たした時、霊的な欲求を満たした時に生じる悦びがあると考えています。



肉体的な悦びは、五感を通した体験によって得られます。

食欲や性欲などを満たす悦びは、自己を保存するために初めから備わっていると考えられます。



精神的な悦びは、知的な活動を通して得られ、新しいことを知ったり、発見したり、創造したり、問題を解決した時に得られると考えられます。

難しい数学の問題を解いた時には、精神(知)的な悦びを感じると考えられます。



霊的な悦びは、自分のためではなく、他者のために何かをすることによって得られると考えられます。

人に親切にして感謝されると、心の中が温かくなりうれしくなりますが、それは霊的な悦びを感じていると考えられます。



人は死ぬと肉体がなくなります。

そのため、霊的な世界に行くと、肉体的な悦びは消滅します。

従って、肉体的な悦びしか知らない人が死ぬと、悦びのない世界で生きなければいけなくなります。



人(魂)は、他者のために何かをすると自然法則の働きで成長します。

他者のために何かをしても悦びを感じない人は、霊的な世界では成長を臨めません。

霊的な世界で成長できない人は、その境遇に適しているとは言えず、ふさわしい資質を身に付けなければいけません。

この世に生まれて来るのは、霊的な世界で成長するために、ふさわしい資質を身に付けるためと考えられます。



この世は、心行くまで肉体的な欲求を満たすことの出来る世界です。

肉体的な欲求が満たされる悦びは、鮮明な実感を伴っています。

しかしながら、それは一時的なものです。

いくらおいしいものを食べても、しばらくするとまた食べたくなります。

綺麗な服を着て喜んでいても、そのうちにまた別な服を着たくなります。

人はお金を得ると喜びを感じますが、それは肉体的な欲求を満たすことが可能になるためであり、どんなにお金を得てもそれに満足せずにもっと得ようとします。

権力や名声を手に入れたとしても、その喜びは束の間であり、しばらくすればその上を目指そうとします。

地上(物質)的な悦びは永続的ではなく、さらに強い悦びを味わおうとしてしまうからです



肉体(地上)的な悦びを感じること自体は、この世の人にとって罪ではありませんが、それを追い求め過ぎるのは過ちだと考えられます。

何故なら、一時的な悦びを得ているに過ぎず、生きている本来の目的である成長が得られないからです。

限なく追い求めていると虚しさを感じるのは、過ちに気付くように自然法則が働いているからと考えられます。



一方、霊的な悦びは、自分から求めるのではなく、他者に与えることによって自然に得られるものです。

与えれば与えるほど得られるものであり、肉体的な悦びと違って不足を感じることはありません。

一時的なものではなく、永続的なものなので、思い出してまた悦びに浸ることも可能です。



肉体的な悦びは、自分の欲求を満足させることによって得られるため、利己的な悦びと言えます。

一方、霊的な悦びは、他者に与えることによって得られるため、利他的な悦びと言えます。

利己的な悦びに際限はなく、長くは続きませんが、利他的な悦びはより深く、永続性があります。

この世での経験を通して、肉体(物質)的な悦びよりも霊的な悦びの方が優り、利他的な行いの中に真の悦びを見出すための人生のシナリオが与えられると思います





もし仮に、人間が肉体だけの存在であればどうでしょう?

食べて飲んで、好きなことをして、肉体的な欲求を満せば、それで良いはずです。

しかし、人はそれだけでは満足しません。

人や社会に奉仕することで、悦びや生きがいを感じます。



困難や障害を乗り越えて行こうとするのは何故でしょうか?

自分に負荷のかかることは、避けて生きれば良いはずです。

避けようとする気持ちに打ち克って乗り越えようとするのは、肉体を超えた存在である魂が希求しているからであり、乗り越えた時に悦びを感じるからです。

他者のために奉仕をしている時、困難や障害を乗り越えようとしている時に、自然法則の働きにより、成長するようになっているからです。



無限の愛、無限の叡智、それが神です。

他者のために何かをしたり、困難や障害を乗り越えた時に悦びを感じるのは、私たちを自らの元に導くためと考えられます。



この世に生まれ来た大きな目的の1つは、霊的な悦びに気付くためです。

霊的な悦びを知れば、他者に関心が行くようになり、進んで奉仕が出来るようになります。

他者に関心を示さなかった人が、自発的に奉仕が出来るようになれば、霊的な世界にふさわしい資質を身に付けたことになります。

肉体のない霊的な世界では、利己的な自分を変えて行くのは容易ではなく、この世で双方の悦びを経験して、真の悦びに気付くことによって、利他的に変わって行くと考えられます。

自分を変えるため、より大きく成長して行くために、肉体のあるこの世に生まれて来ると考えられます。



肉体的な悦びには成長はありませんが、霊的な悦びには成長を伴います。

霊的な悦びを深く知るほど、成長は加速して行きます。

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