2017年4月30日日曜日

自分を成長させるために出来事は起こる



人は、何のために生きているのか?

答えは明快であり、魂を成長させるためです。

魂とは生命そのものです。

時に笑い、時に泣き、日々悪戦苦闘しながら、この世を生きているのは、魂を成長させるためです。

人や動物や社会のために、何か貢献したいと思うのは、その行為が魂を成長させるからです。

何かに挑戦したいと望むのは、魂がより一層強くなりたいと希求しているからです。

同じ場所に留まっていると、苛立ちを覚えたり、苦痛に感じてしまうのは、魂は成長して行くように定められているからです。



私たちは、大まかな人生のシナリオを承知した上で、この世に生まれてきています。

出生時の環境や、人生で起こる出来事や、出会いなど、生れる前の自分は承知していましたが、そのことをすっかり忘れてしまっています。

何故、忘れてしまうのか?

もし、事前にシナリオが判っていたのなら、どうなるのでしょう?

気になってしまい、落ち着いて生きることなどできません。

人によっては、こんな人生など耐えられないと、逃避してしまうかもしれません。

人はそれほど強くないので、逃避する過ちを犯さないように、判らないようになっていると思います。



一人ひとりに、この世で果たすべきことがあり、学ぶべきことがあるようです。

今、立ち向かっている試練は、今生で果たすために、生まれる前に約束していたものかもしれません。

最中にいる出来事は、経験を通して、大切なことを学ぶために起きているのかもしれません。



大きな出来事を乗り越えた時に、以前より成長したと感じるのは、困難や障害を乗り越えることで魂が成長すると言う、霊的な法則があるためと思われます。

出来れば避けたい不幸や不運と思われるような出来事であっても、苦しみながら乗り越えて行くことで、魂は大きく成長し、この世に生まれた目的を成就していると考えられます。



この世の中には、さまざまな才能を持った人たちがいます。

芸術家と言われるような人たちは、多くの人の魂に響くような作品を創り出すために、天賦の才能を与えられています。

しかし、その人生は平凡ではなく、波乱万丈であることが多いようです。

繊細かつ豊かな感性を磨き、表現する才能を花開かせ、優れた作品を創るためには、さまざまな苦悩や人生経験が必要なのかもしれません。

ベートーヴェンの人生は苦難の連続であり、さらに全聾という音楽家として致命的な障がいがありましたが、全てを乗り越えた末に辿り着いた境地が、第9の「歓喜の歌」に表現されていると思います。

ブログにも書きましたが、フランスの彫刻家であるカミーユ・クローデルは、ロダンとの身が引き裂かれるような別れがなかったとしたら、極限の悲しみを作品に表現出来なかったでしょう。

人はその芸術的才能に憧れますが、もし、その波乱に満ちた人生のシナリオを同時に経験しなければいけないとしたら、ほとんどの人は尻込みしてしまうかもしれません。



多くの人は、特異な才能があるわけではありません。

平凡と思える人生を送っています。

そんな人生であっても、1人ひとりにオリジナルのシナリオがあります。

生まれる国、性別、家庭はもちろん、就職や結婚といった魂の成長にとって重要なライフイベントも、予め決められていて、それに沿わせるように、霊界(守護霊)によって導かれていると考えています。

生活して行くために仕事や家事をしているのですが、少なからず忍耐や自己犠牲が必要です。

1つ1つは小さな行いであっても、社会や家族のためにする立派な奉仕であり、長い年月、続けていくうちに、魂は大きく成長して行くと思います。

結婚する人は、相性が良い人ではなく、自分の魂を大きく成長させてくれる人が、導かれて来ると考えています。



誰1人として平坦な人生はあり得ず、必ず山があったり、谷があったりします。

人は、何とかして山を乗り越えたり、谷から這い上がろうとしますが、何故なのでしょうか?

それは、自分に与えられた試練であり、自分が成長することを、魂は知っているからだと思います。



困難や障害のない人生が、1番幸せと考えている人が多いのですが、それは誤りです。

真に幸せな人生とは、自分を大きく成長させた人生です。

困難や障害を、苦しみながらも、乗り越えて行った人生です。

いくら困難を乗り越えて自分が成長しても、死んでしまえばお終いだから、楽しい人生であれば良いと思う人がいるかもしれませんが、その誤った認識も改めなければなりません。



この世界が、全てではありません。

この世界は感触に実感があるので、他の世界など想像もつかないのですが、死んだ後に別の世界が待ち受けています。

そこでは、物的なものはなくなり、霊的なものが実在となります。

肉体は失われ、あるがままの自分(魂)が、むき出しになります。

この世では、心の中で憎んでいても、笑顔で対応することが出来ます。

あの世に行くと、憎しみを隠し立てするものはなくなり、その想いは光となって放射されます。

光が放つ色によって、その魂がどんな想いでいるのかが判ります。

自分の偽らざる想いが人に知られるため、嘘が存在し得ず、隠し立ても出来ず、裏表はなくなり、真実しか存在しない世界に、私たちは必ず行きます。



この世を、どう生きたかによって、魂のありさまは、大きく変わってきます。

この世で、人に優しく、思いやりを持って接して来た人は、慈愛に満ちた魂となります。

この世で、周りに怒ってばかりいた人は、怒りに満ちた魂となります。

この世で培った本性は、そのままあの世に持ち越されます。



この世で人を評価する時には、知性や地位や財産が基準となることが多いのですが、あの世では魂を評価する絶対的な基準は霊性になります。

自己を犠牲にして、他者に愛が表現できる魂ほど、霊性が高いと考えられます。

霊性が高い魂ほど、神からふんだんに生命力が流れ込み、美しく光り輝いていると考えられます。

完全(神)に近づくほど、次元の高い愛を表現できるようになると考えられます。



あの世では、自分と同じような霊性(格)の魂と共に暮らすことになります。

お互いの想いが判り合える、すばらしい境涯であり、この世のような苦しみや、痛みや、悲しみは、もうありません。

当然、いつまでもそこに居たいと思うような気がしますが、実はそうではなさそうです。

魂(生命)は、完全に向けて成長して行くように、定められているからです。

あの世に行くと、それまで内にあった魂が露わになるために、嫌でも自分の不完全さに気付き、足りないところを、どうにかして補おうとするようです。

しかし、物を買うように手に入れられるはずもなく、それに見合った経験を積まなければいけません。



例えば、他者を信じようとしないという自分の欠点に、ようやく気付いた魂がいたとします。

あの世では、自分と同じような魂と共に平穏に暮らしているので、深く響き、魂を変えられるような出来事は起こり難いと考えられます。

平和で快適な世界なのですが、比較対象となるものがなく、何かの教訓を学んだり、経験を通して叡智を身に付けるのには適していないと言えます。



そこで、自分とは違う魂が集い、魂に響くような出来事が起こる地上に、志願して生まれてきます。

人を信じようとしない魂は、信じることを信条としている両親の元に生まれて育ててもらったり、信じるのに値する人と出逢うことで、考えを改めて行くかもしれません。

あるいは、徹底的に窮地に追い込まれた末に、人に助けてもらうような、強烈な出来事を経験する人生を選ぶことで、人は信じられるものであると得心して行くかもしれません。

この世でしか経験できないさまざまな出来事を通して、自分の欠点を正し、魂の足りない部分を補いながら、成長して行くと思われます。

出来事には必ず意味があると良く言われますが、それは自分(魂)の成長にとって意味があるのであり、完全に一歩近づくために、起きていると考えても良いのかもしれません。



足りないところ、学ばなければいけないことは、誰一人として同じではありませんので、人それぞれ違った人生になります。

従って、人の人生を羨んだり、自分の人生を恨んだりするのは愚かと考えられます。

この世の目でしか見られず、霊的な意味が判らないと、そんな思いを抱いて、苦しんでしまうかもしれません。



人生は死んだ後も続いています。

そこで、今生での苦しみ、悲しみは、全て報われます。

完全な公平、公正、平等が行き渡っていたことを知り、神に深く感謝すると思います。







2017年4月16日日曜日

霊的な病気について



現代医学でも、多くの病気は、精神(心)と密接な関係があると考えるようになってきました。

昔から、胃潰瘍はストレスにより起こることが知られていましたが、現在は、高血圧症やぜんそく、アトピー性皮膚炎なども、精神的な要因によっても引き起こされると言われています。



一般的に、人間は目に見える肉体と、目に見えない精神から成り立っていると考えられています。

実際は、精神の上位に魂(霊)が存在しています。

3者は密接につながり、連携しながら活動しており、魂が精神を支配し、精神は肉体に命令を下しています。

原因が未だ明らかにされていないガンや膠原病などの病気は、目に見えない魂(霊的次元)に、根本原因があると考えています。



では、なぜ霊的次元にある原因が、心身に変化をもたらすのでしょうか?

肉体は、口から入る食物によってエネルギーを摂取して活動していますが、目に見えない魂と精神は、それとは別系統の生命力(霊力)によって活動しています。

魂は、生命力の始源(神)とつながっていて、絶えず生命(霊)力が流れ込んでいます。



私たちは、この世でさまざまな出来事を経験します。

出来事が起こると、さまざまな想いが生まれます。

悦び、悲しみ、怒りなどの想いは、魂から生じていて、精神を経由して、肉体で言葉や表情あるいは行いとなって表現されています。

想いは、肉体で表現される元となる力であり、魂から精神、精神から肉体へと、それぞれの次元に変換されながら流れて行きます。

3者が一直線で結ばれ、肉体に滞りなく力が行き渡って、(肉体的)表現がされている状態が健康と考えられます。



生じた想いが、そのまま肉体で表現されているのであれば、病気になりにくいと思われます。

しかし、想いとは全く違うものを、精神(自我)が命令し、肉体で表現し続ければ、3者の間に、不調和が生じてしまうと考えられます。

具体的に言えば、憎しみを抱いている人に、愛情表現を続けたら、想いと行動が一致していないので、心身を病んでしまう可能性があります。

動物が大好きな人が、殺処分を開始する機械のボタンを毎日押し続けたとしら、病気になってしまうと思います。



また、自分の想ったことが言い表せなかったり、行動が出来なかったりしても、不調和が生じてしまうと考えられます。

他者から、精神的、肉体的暴力を受け続けて、何も言い返せなかったり、逃げ出せなければ、内に想いが滞ってしまい、病気になり易いと思います。

生じた想いが小さなものであっても、長い間、押し殺し続けてしまえば次第に大きなものとなり、不調和が生じて、病気になり易いと思います。



大変稀ですが、熱心なキリスト教信者に聖痕(スティグマ)が現れることがありますが、強い想いが、肉体上に変化を起こしていると考えられます。

その現象は、想いは肉体上に変化を起こす力であることを、物語っていると思います。

魂から生じた想いは、肉体的次元で表現されて、解放されています。

しかし、何らかの理由によって、表現されなければ、霊的次元に滞ってしまいます。

肉体は魂(霊)を表現している媒体です。

霊的次元で起きている変化は、肉体的次元の変化として反映されます。

表現されなかった想いは霊的次元の変化として、肉体的次元において組織を変化させたり、機能異常を起こしていると考えられます。

肉体上の病気と言う、別の形となって、想いは表現されていると考えられます。



今、日本人の2人に1人がガンになります。

高齢化社会になったとは言え、医学が発達した現在、この割合はあまりにも多いと思います。

一般的に、発ガン物質や放射線、あるいは遺伝因子によって細胞分裂時のコピーミスが起こり、無秩序に増殖を繰り返すようなガン細胞が生み出されると言われています。

タバコを吸ったり、放射線を被爆するとガンの発生リスクが高まるのは、周知の事実です。

最近の研究で、ガンになり易い性格(気質)があるらしいことが判ってきました。

L・テモショック、H・ドレイアというアメリカの心理学者が、150人以上のメラノーマ(悪性黒色腫)患者を面接し、その約4分の3に、以下のような共通の性格的特徴があることを認めたそうです。

1.怒りを表出しない。過去においても現在においても、怒りの感情に気付かないことが多い。

2.ほかのネガティブな感情、すなわち不安、恐れ、悲しみも経験したり表出したりしない。

3.仕事や人づきあい、家族関係において、忍耐強く、控えめで、協力的で譲歩を厭わない。権威に対し従順である。

4.他人の要求を満たそうと気をつかいすぎ、自分の要求は十分に満たそうとしない。極端に自己犠牲的になることが多い。

メラノーマ(ガン)になった人は、怒りの感情に気付かないことが多く、怒りなどのネガティブな想いがあったとしても表現しない傾向がありそうです。

つまり、怒りや恐れなどが生じても、上手く表現できずに、内に溜めてしまった人が、ガンになり易いと言えます。

もう一歩踏み込んで、内に溜まっていた想いが、ガンを発生させる原因となっていると考えるのは行き過ぎなのでしょうか。



ガンの本体は霊的次元に存在する、表現されなかった想いであり、長い年月をかけて蓄積した怒りなどの(摂理に反した)想いが、攻撃的で暴力的な細胞に変化させる力となっている可能性があります。

そのために感情と連動していて、強い怒りや憎しみが生じた時には、活性化してより攻撃的な組織に変化すると考えられます。

強い恐怖や不安なども、ガンの元となる想いであるため、怖れや不安を感じた時には連動して、ガンは活性化すると考えられます。



多くの人は、肉体に起こった変化に恐怖や不安を感じて、病変を消滅させようとしますが、その行為が攻撃的で暴力的であるため、ガンを活性化させていると思います。

もし、何者かに攻撃をされれば、自己を守るために、反撃に出ると思いますが、同じことがガンに起きていると思います。

こちらから攻撃をすれば、因果律の働きにより、さらに攻撃的な組織に豹変する可能性があるので、厳重な注意が必要です。

霊的次元の想いが、肉体次元の病変となって反映されていることを忘れてはいけません。

消滅させようとする攻撃的な想いを抱いたならば、その想いがより攻撃的な組織に変えてしまう力になると考えられます。

抗ガン剤を投与したり、放射線を照射して消滅させようとしても、攻撃性が増してしまうだけであり、一時的に病変が縮小したように見えても、より強い攻撃的な組織となって、失地を回復して来るのは目に見えていると思われます。

ガンと闘おうとする想いは、ガンに生命力を与えてしまっています。、

ガンと闘えば、自分と闘ってしまうことになり、損傷を受けてしまうのは自分です。

ガンを消滅させようとする行為は、因果律の働きで、全て自分に苦痛として返って来てしまいます。

ガン患者さんは、肉食をしてはいけないと言われていますが、屠殺された時の、恐怖や怒りなどが残留思念として肉の中に残っていて、それが内に溜まっている想いに影響を与えていると仮定すれば、うなずけるのではないでしょうか。



膠原病の原因についても、未だに不明です。

膠原病は、外敵から守るためにある免疫機能が、自己を外敵とみなして攻撃している病気です。

私たちは(この世だけの)自我を作り、自分(魂)を守っています。

他人から、攻撃されても自我が壁となり、自分(魂)を守っています。

ところが、自我の未発達な幼少期には、他者からの攻撃により、容易に自分(魂)が傷つけられてしまいます。

未発達な時期に傷つけられると、それを防ぐために、自我の壁を高く張り巡らして、自分(魂)を守ろうとします。

また、愛情が不足していると、安心感が得られないために、守ろうとする意識が強くなり、自我を強固に作り上げていきます。

幼少期に自分(魂)を傷つけられたり、愛情が不足して、自我を強固に作り上げて行った人が、何らかの出来事により、自分を責めてしまう想いを抱き続けた時に、膠原病が生じてしまう可能性があると考えています。

霊的次元での様相は、肉体上に病態として反映されています。

自分(魂)を守るべき自我が、自分(魂)を責めてしまっている霊的次元での様相が、自己を守るためにある免疫機能が、自己を攻撃してしまう肉体的次元の病態として表現されていると考えられます。



内に滞った(摂理に反した)想いがあると、怒りや恐怖などの想いは生じやすくなります。

苦しくなるのは判っているのに、自分を責めてしまうこともあります。

それが常態化してしまい、魂の成長を著しく妨げてしまうほどになると、因果律が作動して、霊的次元の様相が肉体的次元の病気として表現されると考えています。

霊的次元で起きていることを、人は認識出来ません。

肉体的次元の変化として表現され、五感で判るようになって、はじめて気付くと考えられます。



では、ガンや膠原病になったらどうすればいいのでしょうか?

もちろん、全てのガンや膠原病が、霊的次元の原因によって生じているわけではありません。

けれども、もし霊的次元に原因があれば、その原因となっている想いを抱かないようにするのが、病状を安定させるために有効と思われます。

ガンを患っているのであれば、心穏やかに過ごすのが何より大切です。

怒りなどの想いが沸き上がらないように、寛容な気持ちを心がけた生活を送るべきと考えられます。

過去の出来事から生じていた強い恐怖や不安は、長い間、封印されたままになっていて、命にかかわる病気であるガンの恐怖や不安として表出していると考えられます。

ガンになって怖いのは、死ぬかもしれないと思うからですが、死ぬかもしれないと思うほどの出来事によって生じた想いが、内に溜まっていたのかもしれません。

恐怖や怖れを覚えても、時を経て過去の想いが表に出てきていると考えて、過剰に反応しないのが賢明と思われます。



疫学的な研究は存在しませんが、膠原病の人は、自分を責めてしまう、性格的傾向があると推察されます。

無防備な時に、愛を受けるべき人からの言動によって、魂が深く傷つけられ、それでも、要求や期待に応えようと、必死に生きてきた人がなり易いと考えられます。

期待に応えられなかった時や、愛を受けるべき人に激しく叱責された時に、強い自責の想いが生じてしいたと考えられます。

期待に応えようとする欲求が強く、達成できないと自分で自分を責めてしまう方向に向かいやすいことを自覚した方が良いと思います。

期待に応えようと必死になっている自分は、本当の自分ではありません。

人のことを気にし過ぎないように、強く自分を戒めて下さい。

自分を責めても、良いことは何1つありません。

人を責め過ぎてはいけないように、自分自身を責め過ぎてもいけないのです。



過去に生じていた想いがあるために、本当の自分(魂)の想いが表現できなかったり、自分の成長を妨げている想いが生じ続けている時に、病気が起きると思います。

霊的次元の病気とは、内にある想いに気付き、苦痛により魂が目覚めて成長し、その想いを解放するためにあります。

あるがままの自分でいられ、成長して行けるようになるために、霊的な病気は存在すると考えられます。



表現されずに滞っている想いは、魂から精神、精神から肉体へと行き渡っている生命力の流れを、阻害しています。

滞っている想いがあるために、本来の自分の想いが表現しにくくなってしまいます。

魂を成長させるような、愛情を表現をしようとしても、成長を妨げている想いが内にあると、その影響を受けて出来にくくなります。



物質的な力では、霊的な病気は治せません。

霊的な病気を根本的に治すためには、想いを解放したり、生じさせないようにするしかありません。

想いを解放させるには、解放させる想いを向けるしかありません。

生じさせないようにするには、自分に想いを向けるしかありません。

その想いは、愛です。



おまじないのようですが、

鏡の中にいる自分に向かって、「あなたのことが大好き」と、言ってみて下さい。

出来事が起きた当時の自分の写真を見つめながら、「もう大丈夫だから」と、その時の自分を安心させるように声をかけて下さい。

毎日、続けていると何らかの変化があるかもしれません。




参考ページ: 「ガンは愛により癒される」



2017年4月10日月曜日

お母さんへ


僕が何か言ったら、またお母さんが悲しんじゃうかな
僕を思い出して泣くのはやめて欲しい
死んで、いなくなってなんかいないから
お母さんは自分を責めてしまっているけど、違うんだ
僕が死んだのは誰のせいでもない
お母さんのせいなんかじゃない
涙を流しているのを見ると、どうしても拭いてやりたくなっちゃうんだ
こうしてそばにいるのに分ってもらえずにいると、僕も結構苦しいよ
僕がこうして話すと、またお母さんは泣いちゃうんじゃないかな
とってもやさしいお母さんだからね
僕がどんな大人になるのか、とっても楽しみにしていたね
こちらでも、少しずつ大人になっているんだよ
学校みたいなところもあって、勉強もしているんだよ
みんなが僕が死んで悲しんでいるけど、本当にいなくなったわけじゃないから、その必要はないんだよ
お母さん、僕は死んでいなくなってしまったのではないんだ
いい加減、気付いてくれないと、僕も疲れちゃうよ
お母さんの子供に生まれてこなければ、もっと長生きして、幸せだったのにと思うのはやめてね
そう思われるのが一番悲しいよ
だって、それじゃ僕がお母さんの子供に生まれてきたのがだめみたいじゃない
そんなこと、あるわけないんだよ
みんな僕が選んだことだし、お母さんも知っているはずなんだよ
お母さんにどうしても伝えなくちゃいけないのは、お母さんは生きなければいけないことだよ
どんなに苦しくても
それが約束なんだよ
みんな約束して生まれて来ているんだよ
忘れちゃっているけどね
僕はこっちで待っているから、お母さんはそっちで頑張って生きなきゃいけないんだ
僕も約束を守っているから、お母さんも約束を守ってね
ちゃんとだよ






2017年4月2日日曜日

2つの自分



イタリアの天文学者であるガリレオ・ガリレイは、手作りの望遠鏡で星を観測していました。

木星をのぞいてみると、周りを回っている衛星の位置が、日によって変わっていました。

今度は、金星をのぞいてみると、季節によって見かけ上の大きさが、変化しているのに気付きました。

それまでは、地球を中心にして、天の星が回っていると、当たり前のように信じられていましたが、この2つの発見は、天の星ではなく、地球が動いていることを示す有力な証拠となり、ガリレオ・ガリレイは「地動説」を主張します。

しかし、その事実を見ていない人たちは、頑なに認めようとせずに、彼を異端者として扱い、宗教裁判にかけて終身刑を言い渡します。

かの有名な言葉である「それでも地球は回っている」を遺して、この世を去りましたが、真実が認められずに、どれほど悔しい思いをしたのか想像も出来ません。



魂が存在するか、しないのかは、長い間、論争されていますが、地動説に似ているような気がします。

目の前で証明して見せないと、人はなかなか信じようとしません。

証明されないものを疑うのは理解できますが、証明されないものを存在しないと結論付けのるは、あまりにも強引で、愚かであると思います。

それでは、天の星が地球を回っていると主張した、望遠鏡がない時代の人たちと同じような気がします。



生命が永遠かどうかは、残念ながら私には判りません。

けれども、魂は存在し、死の後にも生命が続いているは、確かなことだと思っています。

死後の世界や魂の存在が明確にならないのは、今生を精一杯、生きるためだと考えています。



この世の人は、肉体と精神と魂(霊)から構成されています。

誕生とは地上に出る瞬間ではなく、受胎時に魂が宿った瞬間であり、死とは肉体から魂が完全に分離した瞬間です。

どちらも、自然法則の働きにより起こり、偶発的なものではありません。

世の中には、死んで無になるのを怖がる人がいますが、全く心配する必要はありません。

人は死にたくても、死ねないのです。



なぜ、この世とあの世が存在するのか?

それには、生きている目的について知らなければいけません。

生きている目的は、自分(魂)を成長させるためです。

すごく簡単に言ってしまえば、より強く、より美しくなるためです。

どんな人でも、自分を成長させようという欲求があるので、成長できない状況になると苦痛として感じ、成長を促されます。

人は1ヶ所に留まらず、あの世とこの世を行き来しながら、常に成長して行くことが義務付けられているようです。



人生には、およそのシナリオがあります。

その目的は、効率良く、その人に合わせた成長をさせるためと考えています。

11年前、私の身に大きな出来事が起きました。

それ以前は、問題が起きると、頭を働かせて解決して来ましたが、その出来事はいくら頭で考えても解決できませんでした。

次第に絶望的な状況に追い込まれて行く中で、それまで眠っていた本当の自分(魂)が目覚めたようです。



それまでの私は、本当の自分(魂)に忠実に生きていなかったようです。

赤ちゃんの時は、魂がむき出しの状態ですが、神の摂理により、親などの他者により守られていたと思います。

大人になるのに従い、周りに順応して、自分(魂)を守るために、自分の中にもう1つの自分を作り上げて行ったと思います。

幼少の時に、他者により守られていた人は、守られているという安心感があるので、あえて自分を守ろうとはしませんが、守られていなかった人は、安心感が少ないので、もう1つの自分を強固に作り上げて、守ろうとしていると思います。

もう1つの自分が発達して来るのに従い、この世を上手く生きようとして、他人と迎合したり、本音と違うことを言ったりしてたと思います。

それを大人になったと勘違いしていたのかもしれません。

より安全で無難な方向を選んだり、社会的な地位や財産を求めているのも、もう一つの自分だと思います。

知らず知らずの内に、本当の自分は、もう1つの自分の影に隠れて行ったと思います。



出来事をきっかにして目覚めた本当の自分は、進むべき方向を指し示しました。

指し示した方向は、良心に従い、正直に生きようとするものでしたが、それは自分を窮地に追い込むものでした。

その先に、今まで経験のない苦難が待ち受けているのは明らかでした。



一方、前面に出ていたもう1つの自分は、本当の自分が指し示した方向とは真逆でした。

自尊心を守ろうとするものであり、苦難を避けようとするものでした。



その時、自分の中に2つの自分が確かにいました。

正直に生きようとする自分と、偽ってでも守ろうとしている自分がいて、せめぎ合っていたように思えました。

苦しい方向に進んで行くのは、もちろん抵抗がありましたが、それでも正直に生きたいと思い、そちらに進んで行きました。

自分に正直に生きるためには、もう1つの自分が追い求めていたものを捨てる勇気がなければいけないと思いました。

本当の自分は、正直に生きなければ後悔することを、知っていると思います。



良く考えてみると、過去に経験した出来事においても、いつも2つの自分がいて、せめぎ合っていたように思えます。

本当の自分が勝った時は、苦しい方向に進むことが多く、大変な思いもしましたが、相応の成長が得られていたと思います。

もう1つの自分が勝つと、楽で安全な方向に進み、一瞬の安堵を感じたかもしれませんが、成長させる機会を1つ失っていたと思います。



正直に生きようとする自分が、本当の自分であることに気付きました。

本当の自分は、留まることなく、成長しようとしています。

追い風の中ではなく、向かい風の中で生きることが、成長につながることも知っていると思います。

自分に正直に生きると、どうしても苦しく、つらい状況に追い込まれてしまうことが多いのは、神の摂理により成長する場が与えられていると考えた方が良いのかもしれません。

今まで知らなかった大切な真実と、苦難を乗り越え成長した悦びを、手に入れることが出来るのは、本当の自分の声に従って生きた時なのかもしれません。



もし私が、もう一つの自分の声に従っていたのならば、自分を守ることが出来て、失うものはなかったのかもしれません。

しかし、自分を偽ってまで、この世のものに捉われていたのを恥じることになると思います。

さらに、その出来事を通じて、もたらされる予定だった真実を掴み損ねたこと、成長の機会を失ったことに、強い後悔の念が生じるのは間違いありません。



この世の先に、あの世があります。

あの世は偽りのない、あるがままの自分が表現される世界です。

この世で作り上げた自分は、はぎ取られてしまい、本当の自分(魂)がむき出しになります。

オーラには、この世の想いや行いの全てが刻み込まれていて、光となって周囲に知れ渡ります。

そして、死んでしばらくすると、この世を振り返る時が訪れます。

自分に正直になり、勇気を出して進んで、それが成長につながっていたのを知って、悦びを味わうこともあれば、せっかくの成長の機会を逃してしまったのを知り、悔やむこともあると思います。



この世で、私たちはさまざまな出来事を経験しますが、その中には予定されていたものがあり、試されているのかもしれません。

あの世での後悔の念を消し去るために、この世にもう1度生まれて、同じような選択を迫られる出来事を経験している可能性があります。

今度こそは、自分に正直になり、苦難を甘受して、乗り越えて行くことを決意して、生まれて来たのかもしれません。



もし、自分の中に2つの存在がいることに気付いて、どちらに進もうか決断に迷った時には、覚悟を決めて、正直に生きる方向、自分を成長させる方向に進んで行った方が後悔しないと思われます。