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2025年10月19日日曜日

1人で生きているのではない


先週末は学会参加のため、鹿児島市に行って来ました。

空港からバスに乗り市内で降りて、スマホのグーグルマップを頼りに、予定通りに学会場に着くことができました。

昔は、地図を見たり、道を尋ねたりしていたので、便利になったものです。

人生においても、どちらに進んだら良いのか、迷う局面があります。

これから先、スマホでAIに尋ねる時代が来るのでしょうか?



AIよりも、はるかに信頼できる存在が、私たちには付いています。

それは守護霊です。



守護霊は、地上の人のことを知り尽くしています。

人生の計画も知っていて、それに沿って生きて行けるように導いています。

どんなことがあっても、見放すことはありません。



ふと気が付くと、行動に移していたという経験はないでしょうか?

それは、守護霊を始めとする霊界の存在の働きかけによるものかもしれません。



霊界の存在は、地上の人にインスピレーションを送っています。

それを受け取った地上の人は、理由もなく行動に移したくなる衝動を覚えます。



子供の頃、家族で海に行った時のことです。

海に入って夢中になって遊んでいましたが、「ふと」後ろを振り向きたくなりました。

振り向いてみると、当時、幼稚園児であった妹が海面に顔を浸けていました。

変だなと思って起こしてやると、目を丸くし驚いた表情で、大きく息を吸い込みました。

遊んでいたのではなく、溺れていたのです。

振り向かなければ、どうなっていたのか考えると、今でもぞっとします。

霊界の存在は、妹の危機的な状況を知らせるために、インスピレーションを伝えて、私を振り向かせたと考えています。

胸騒ぎを感じる時は、霊界の存在が何かを訴えている可能性があります。



生きていると、さまざまな人に出会います。

そんな中で、どうしても気になる人がいます。

理由もなく意識が向いてしまうのは、霊界の存在がインスピレーションを伝えているせいかもしれません。



地上の人の学びや成長のために役割りを果たす人であったり、今生で出会うことが予定されている人かもしれません。

そんな人が出現すると、関りを持ちたくなるようなインスピレーションを地上の人に吹き込んで、会いたくなる、話したくなるような衝動を起こさせるかもしれません。

重要な出会いの多くは、霊界の存在が深く関わっていると考えられます。



霊的真理(シルバーバーチの霊訓)との出会いもそうでした。

さまざまな情報が飛び交うこの世界で、何も知らない私が最短で霊的真理に辿り着けたのは、いくつかの局面において、インスピレーションを伝えて導いてくれたおかげです。

今、振り返ってみると、それが良く分かります。



霊的真理には、生きる目的、死の意味、神について、霊界や守護霊の存在など、漠然と抱いていた疑問に対する答えが書いてありました。

それらは誰も教えてくれなかったことであり、真実と確信した私の生き方は大きく変わりました。



霊的真理によって、霊界の存在が身近に感じられるようになりました。

想いを寄せれば、何かしらの形で応えてくれます。

そのことが分かり、この世を一人で生きているという感覚はなくなりました。

自分の存在に気付いてもらい、霊界の存在も安心したと思います。



ふと思いついたこと、気付いたことは、霊界からのインスピレーションかもしれないと思うようになりました。

思考の産物ではないかと思うこともありますが、その場合はその前に必ず「入力」があります。

例えば、「2」と思いついたとすれば、思考であればその前に「1+1は?」などの入力があるはずです。

入力がないならば、霊界からインスピレーションが伝わって来て、ひらめきや気付きとして顕在化した可能性があります。



霊界に何かを尋ねた時、「瞬時」に答えが返って来たのであればインスピレーションの可能性が高いです。(忘れた頃に返って来ることもあります。)

思考によるものであれば、答えが出るのに時間がかかります。

霊界からインスピレーションが伝わっていることを地上の人が自覚すれば、気のせいにして無視してしまうことも少なくなり、霊界の存在も導きやすくなると思います。



霊的真理を知り、自分の中にある神性をはっきりと自覚するようになりました。

神性は良心となって顕現しています。

進むべき方向を、良心は指し示しています。

しかしながら、その方向は地上の自我(以下自我)が望んでいないことがほとんどです。



例えば、学校で誰かがいじめられているのを見かけたとしたら、良心は助けるように働きかけます。

助けたら自分までいじめられてしまうかもしれないと自我は考えます。

会社に不正があったとして、告発して正さなければいけないと良心は訴えます。

けれども、告発すれば職を失いかねないと自我は考えます。

両者の間で葛藤が起きますが、自我に打ち克つのは難しいです。



神性を発揮することで、人は成長が得られます。

霊界の存在は、良心に従って行動するように、想いを送って促しています。

勇気が湧くのは、そんな時です。



何かをやり遂げようとする時、それを後押しする想い(力)を、霊界にいる存在は送っています。

その想いによって、妨げている感情や考えが一掃され、前向きになれる時があります。



仕事の時にも、そのことが分かります。

難しい治療(手術)を行う前に、霊界の存在に意識を向けるようにしています。

手伝ってもらえるわけではありませんが、正しい方向を気付かせてもらったり、挫けそうになりそうな時は続ける力をもらえます。

感謝しています。



日常生活全般に渡って、想像している以上に、地上の人は霊界から恩恵を受けています。

日頃から霊界の存在を意識し、感謝を忘れないことは、人生の計画に沿って生きることにつながります。



周囲にいる人が、何かに挑戦する時や挫けそうになっている時に、勇気づけたり、励ましたり、慰めたりするのは、霊界の存在に代わって、想いを伝えていることになります。

自分の成長だけでなく、周囲の人の学びや成長につながることを手助けするのは、霊的な真実を知った者の責務なのかもしれません。





2025年9月7日日曜日

霊的なつながりを意識する


 生きていると、不安になる時があります。

一人で生きている不安、経済的な不安、病気の不安、死の不安等々、挙げれば切りがありません。



肉体を持つと、五感で外部を認識するようになります。

目に見える世界が全てになります。

1人1人は完全に独立しているように見えます。



けれども、人と人の間には目には見えない霊的なつながりが存在しています。

語らなくても、相手の気持ちが分かる時があるのは、霊的につながっているからです。

遠く離れた人に、ヒーリングの力が届くのも、霊的につながっているからです。

困った人がいると、助けてやろうとするのも、霊的なつながりを感じるからです。



人間は独立して存在しているのではありません。

それぞれが自分の役割りを果たすことで、周囲(全体)とつながっています。

霊的につながっていることが分かれば、1人だと錯覚して、孤独や不安に襲われることはないでしょう。




経済的な不安を感じている人も少なくありません。

「魂が正常なら、つまり魂と精神と身体が調和して機能している限り、物的生活に必要なものは必ず手に入ります。」

別のところで「条件が整い、正当な必要性がある時は、背後霊は地上に物的な結果をもたらすことができます。」とシルバーバーチは言っています。

背後霊の導きを感じ取り、素直に行動に移すことができれば、必要なものが手に入るようになっていると考えられます。

そして、摂理に従って生きていれば、贅沢はできないけれども、生きて行くことはできると信じています。



病気は、魂と精神と身体の調和が失われると生じると言われています。

エゴ(精神)の働きが強くなり、本来の自分(魂)の想いを表現できなくなると、不調和が生じ、肉体上に病気として現れると考えています。

病気になり苦痛を味わうことで、本来の自分が目覚めて、想いを表現できるようになると、調和が取り戻されると考えられます。

付き合わなければならない病気もありますが、その経験により学ばなければならないこと、償わなければならいことがあるためです。

いづれにしても魂の成長へとつながっています。



死の不安ですが、肉体は消滅しても生命は存続しています。

記憶も個性も失われることはありません。

待っているのは、地上の苦から解放された世界であり、喜ばしいことです。



霊的な知識があれば、この世を生きる不安はかなり解消されるはずです。

けれども、地上を生きている限り、不安はどうしても生まれます。



不安は、肉体を持つと同時に生まれる、地上的な自我から生じます。

あの世に行き肉体がなくなると、その自我はなくなり、不安から解放されます。

そして、霊的な感覚がよみがえり、生命のつながりをはっきりと認識できるようになります。



地上的な自我(エゴ)の働きが強くなると、不安も強くなります。

解決不可能な現実に直面すると、地上的な自我(エゴ)に代わり本来の自分である霊的な自我が前面に出て来ます。

本来の自分を取り戻すと、生き方や考え方が大きく変わります。

安らかな気持ちでいられるようになるのは、霊的な自我からは不安や心配や怖れは生じないからです。



本来の自分を取り戻すためには、強くなったエゴの働きを抑えなければいけません。

座禅や瞑想をするのは、エゴの働きを抑えて、本来の自分を見い出すためです。



霊的次元に意識を向けるのは、本来の自分を取り戻すために有効と思われます。

意識するのが難しければ、守護霊の存在を思い浮かべてみて下さい。

自分よりも自分を知り尽くしているのが守護霊です。

何を求めているのかも承知しています。

守護霊を思い浮かべるのが難しいのであれば、亡くなった最も愛おしい人を思い浮かべて下さい。



思い浮かべた瞬間、傍に寄り添い、こちらからの想いが届くのを待っているでしょう。

親愛の想いが届いたならば、霊界にいる存在も親愛の想いを返してくれるでしょう。

その想いはエゴから生じる感情を抑え込む力となり、本来の自分を取り戻すことができると思います。



霊界の存在とのつながりが途絶えることはありません。

なぜなら、肉体があるかないかだけの違いで、地上に生きる私たちも同じ霊的な存在だからです。

目に見えなくても、つながっていることを忘れてはいけません。



神ともつながっています。

神を一言で表現するならば「全て」です。

私たちは神の心を表現する極小の一部です。

神の心である愛を表現すればするほど、神とのつながりは強くなります。

「全て」に感謝することによっても、つながりは強くなり、内から力が湧き出して来るのを感じられるかもしれません。



地上の人は、神そして霊界の存在とつながっています。

つながりを意識することで、内から湧き出す霊力、外から伝わる霊力により、不安や心配は和らぐはずです。



今朝、つながりを意識してみました。

しばらくして、自然に笑みがこぼれました。

霊界の存在たちの喜びの想いが伝わって来たようです。

霊界の存在が地上の人の想いを共有しているように、地上の人も霊界の存在の想いを共有することができると思います。



「神」や「魂」の存在の有無を論じる不毛な時代は終わりを告げようとしているように感じられます。

信じない人にも、神から届く生命力は流入し、神の法則は働いています。

守護霊は変わりなく守り導いています。

霊的なつながりが途切れることはありません。

死んでから、そのことに気付くのでは遅すぎます。



つながりを信じられる人は、霊的な恩恵をより享受することが出来ます。

意識することにより、本来の自分でいられます。

神の法則に背くことで生じる苦しみや痛みを味わうことなく、生まれて来た目的を成就する方向へと進んで行けます。



どちらを選択するのかは、個々の人に任されています。




2025年8月24日日曜日

背後にいる存在を信じる


30年前、都内を車で走っていた時のことです。 

信号待ちで止まっていて、ふとバックミラーに目をやると、後続車がかなりのスピードで近づいて来るのが見えました。

ぶつかると身構えた瞬間、追突されました。

私の車は飛ばされて、前に止まっていた車にぶつかり、その車も飛ばされて前の車にぶつかりました。

いわゆる、4重衝突です。


車はかなり損傷しましたが、身構えることができたので、怪我をしないで済みました。

その話をある人にしたら、「守護霊に守ってもらったのね」と言われました。

当時は霊的なことに関心がなかったので聞き流しましたが、正しかったようです。

ミラーに目をやったのは偶然ではなく、事故を予見した守護霊に促されていたと、今は考えています。



生涯に渡って守護霊は付いています。

ほとんどの人はその存在を意識することはありません。

けれども、地上の人が学びや成長を得るために、人生のさまざまな局面で働きかけています。



働きかけは、主にインスピレーションの形を取ります。

言葉を超えたインスピレーションが、地上の人の魂に伝わって来ると、行動を起こす衝動が精神で生まれると考えられます。



何となく気が進まない、行きたくない感じがして、その衝動に従って難を逃れたという話を聞きます。

そんな時は、背後にいる存在からインスピレーションが伝わって来たと考えられます。



音楽家がメロディーが降って来た、小説家が言葉が湧いて来たと表現する時があります。

そんな時も、同調する霊界の存在からインスピレーションが伝わって来たと考えられます。



霊的真理に出会ったのも偶然ではありません。

インスピレーションを受け取り、無意識の内に行動したことで、辿り着いたと考えられます。



仕事である学会に所属しています。

年に1度総会が開かれて、全国から同業者が集まりますが、最も重要なセクションの座長をやってみないかと打診されました。

大きな会場で、たくさんの人の前で話すのは得意ではありませんが、「乗り越えられない困難は与えられない」という霊的真理を信じて、思い切って引き受けることにしました。

実際の会場

初めての経験で、かなりの重圧を感じました。

上手く行くだろうかと不安に思っていた時に、背後にいる存在に意識を向けてみました。

すると、一瞬で不安が解消し、心が明るくなるのが感じられました。

当日も、意識して臨んだところ、自分でも驚くほど冷静に対処することができました。

背後にいる存在は、想いという力を伝えることで、地上の人の心のありさまを変えることができると思いました。



話は変わりますが、1970年アポロ13号は月に向かって航行中に酸素タンクが爆発しました。

地球から遠く離れた宇宙空間で想定外の事故が起こり、助かるのは難しいだろうと思った人は少なくありません。

極めて困難な状況の中で、いくつかの画期的なアイデアが生まれて、それを実行することで全員無事に帰還することができました。

「万事休すとあきらめかけた、その最後の一瞬に救いの手が差しのべられることがあります。」とシルバーバーチは言っています。

絶対に助けると言う関係者の強い意志と、世界中の人たちの祈りによって、霊界の人たちが突き動かされ、人類の英知をはるかに超えた英知が結集され、最善のンスピレーションが与えられて、このミッションは成功したと思います。

霊界にいる存在の力が遺憾なく発揮された時、「奇跡」と呼ばれる現象が起きると思います。

帰還したアポロ13号

インスピレーションの恩恵に与かるために大切なのは、背後にいる存在を心から信じることです。

信じることにより、両者のつながりは強くなります。

そして、存在を意識しながら、頭を空っぽの状態(感情にも考えにも捉われない)でいると、必要としているインスピレーションが心に浮かんで来るかもしれません。

それを、気のせいや思い付きにしてはいけません。



背後にいる存在が、もっとはっきりと分かったら良いのにと思う人もいるでしょう。

地上の人を導きやすくなると思います。

それにより、霊的な罪を犯す人も少なくなると思います。

けれども、頼ろうとしたり、利己的なことに利用しようとする人もいるでしょう。

学び成長させるために付いているのに、それでは意味がなくなってしまいます。

地上の人の進化の程度に合わせて、はっきりと分からないようになっていると考えられます。



インスピレーションに従って行動するか、それとも無視するかは自由です。

決めるのは地上の人であり、背後にいる存在は干渉することはできません。

自分で決めたことを、自分で責任を取るようになっています。



信じて進んで行くと、困難や障害が待ち受けているかもしれません。

間違っているのではなく、それが霊的に正しい方向、予定されていた方向かもしれません。

学びや成長は、困難や障害を乗り越えて行く過程で得られるからです。



背後にいる存在は、地上の人を懸命に導き、正しい方向に進んで行くのを固唾を飲んで見守り、進み始めたら惜しみのない援助を与えています。

その恩恵は計り知れません。



地上の人が学び成長している様子に、背後にいる存在は喜びを感じているはずです。

その喜びが守り導くことに対する報酬となっているのでしょうが、感謝の想いを忘れてはいけないと思います。





2025年2月9日日曜日

与えられた自由意志


人は1日に何回決断をしているのでしょうか?

ケンブリッジ大学の研究によると、何と3万5千回の決断をしているそうです。

朝、目が覚めたら、起きるか、もう少し布団の中にいるかに始まり、どんな服を着るか、何を食べるか、仕事が始まれば決断の連続です。

決断は労力を伴うものです。

アップルの創始者であるスティーブ・ジョブズは無駄な労力を使わないために、いつも同じ服を着ていたそうです。



さまざまなことを決められるのは、他の動物たちと違って人間に自由意志が与えられているからです。

自由意志があって良かったと思いますが、決めたことに対して責任が伴うことを忘れてはいけません。

20年以上前ですが、過った行いをして行政処分を受けて、大変苦しい思いをしました。

その時に霊的真理と出会い「因果律の働き」を思い知りました。

いっそのこと自由意志などなければ、過ちを犯さず、苦しい思いをしなくて済むのにと思いました。



けれども、自由意志がなければ、シルバーバーチが言うようにただの操り人形になってしまいます。

自由意志が与えられたのには、何か理由があるはずです。


宇宙を創造した神は完全です。

私たち人間は、神の心を表現する宇宙の一部として創られました。

けれども、極めて不完全な存在です。



シルバーバーチの霊訓にはこのように書かれています。

「完全が存在する一方には不完全も存在します。しかしその不完全も完全の種子を宿しております。完全も不完全から生まれるのです。完全は完全から生まれるのではありません。不完全から生まれるのです。」

不完全な私たちにも、完全(神)が宿っています。



別のところで、こうも書かれています。

「こう考えるとよろしい。光と鏡があって、鏡が光を反射している。鏡が粗末であれば光の全てを反射することはできない。その鏡を磨いて立派なものにすれば、それだけ多くの光を反射することになります。」

私たちは完全な光(神)を宿していますが、映し出す媒体(自我)が不完全なために、そこから放たれる光も不完全なものになってしまいます。

媒体(自我)が進化するのに従い、表現も完全になって行きます。



完全な神が、何故不完全な存在を創ったのかは分かりません。

それでも、こんな風に思えるのです。

完全(100%)は変化しようがありません。

不完全であればこそ、完全に向けて変化の余地が残されています。

完全へ向けての変化が進化であり、進化こそが生命創造の目的になっていると考えています。



変化しているのは生命だけではありません。

物質もミクロの原子からマクロの宇宙まで常に変化しています。

神の創ったもの全てが、自然法則の働きによって、進化して行きます。



生命(魂)には、完全に向けて進化しようとする根源的な欲求が存在しています。

けれども、人間には自由意志があります。

そのために、完全とは違う方向に行ってしまうこともあります。



自然法則の働きの中に、神の心が顕現しています。

自由意志により不完全さが表現されると、自然法則(因果律)が働いて、苦痛を伴う事象が生じます。

わがままばかりを言っていると、疎外されるのもそうです。

孤独という苦痛を経験して、不完全な表現(わがまま)を改めて、協調的な行いをするようになります。

自然法則の働きによって、神の心を学びながら、完全に近づいて行きます。



神の意図は完全です。

無駄なものは一切ありません。

全ての生命は、全体のために役割りがあって存在しています。

それぞれが役割りを果たすことによって、全体に調和が生まれ、美しくなって行きます。

そして個の進化が促されます。

個々が進化することで、全体が進化して、神の意図する世界となって行きます。



神は進むべき方向を、良心の声として示しています。

進化を妨げる行いをしようとすると、良心が咎めるようになっています。

いざ行ってしまうと、良心の呵責を感じるようになっています。



生れる前に決めていたことであれば、それを知っている霊的な自我(インディビジュアリティー)は、その方向へ進もうとします。

進化のために計画された人生であることを忘れてしまっている地上の人のために、守護霊が付いています。

目的を果たすために、生涯に渡って守り導いています。



見捨てられることがないのは、神は自然法則の働きとして顕現しているからです。

良心の声を無視したり、守護霊の働きかけに気付かず、進化を妨げる方向に行ったとしても、自然法則の働きにより苦痛を伴う事象が生じ、過ちに気付いて、進化を促す方向へと軌道修正されます。



明日も、たくさんのことを決めなければいけません。

大切な決断をする時は、直感を信じるようにしましょう。

直感とは、霊的なインスピレーションです。

霊的な自我(インディビジュアリティー)の訴え、内在する神(良心)の声、あるいは背後霊の働きかけを、インスピレーションとして受け取っていることがとても多いです。

自分の頭で考えたことよりも、広く、深く、先まで見渡せています。



時に直感は、難しい方、避けたい方、面倒な方向を指し示すかもしれません。

けれども、その方向は自らの学びや成長につながっているので、後悔することはありません。



進化を促す方向に行くのか、進化を妨げる方向に行くのかを決めているのは自分です。

決めたことに対する責任を地上の人に取らせるために、守護霊と言えども干渉できません。

無事に進化を促す方向に進んで行くことを決めたのなら、惜しみのない援助を始めるでしょう。



どんなに抗ったとしても、結局は神の心を表現する方向へと進んで行くことになります。

もしそうであるならば、遠回りをしないで、最初からそちらに行く方が良いのに決まっています。





2024年10月27日日曜日

予定している人生を歩むために


今から数十年前、都内の幹線道路を車で走っていた時のことです。

信号待ちで止まっている時、ふとルームミラーに目をやると、後続車がかなりのスピードで迫って来るのが見えました。

危ないと思った次の瞬間追突し、私の車ははじかれて前の車に追突し、前の車もはじかれてその前の車に追突しました。

いわゆる4重衝突です。

車は壊れましたが、むち打ちなどのケガは全くありませんでした。

そのことをある人に話したら「守護霊に護ってもらったのよ」と言われました。

霊の存在を信じていなかった私は、聞き流していました。 



霊的真理を知り、考えは変わりました。

その人の言っていたことは正しかったのです。

追突する直前、守護霊はインスピレーションを送ってルームミラーを見るように促していたと考えられます。

迫って来る後続車を見つけて身構えられたので、ケガをせずに済んだのです。



この世界を一人ぼっちで生きているのではありません。

私たちには守護霊が付いています。

地上の人に危害が加わらないように守りながら、予定されている人生を歩むために導いています。



守護霊が付いているのなら、もっとはっきりと存在を示してくれたら安心するのにと思う時があります。

守護霊は霊的な存在です。

そのために五感で認識することはできません。

地上の人も霊的な感覚を持っているので、守護霊の存在やそこから届くインスピレーションを認識できるはずですが、目や耳などの五感から入る情報が圧倒的に多いために、気付きにくくなっています。



仮に守護霊と意思の疎通がスムーズにできたとしたらどうでしょう?

きっと人生の指南役のような存在になるでしょう。

迷った時、悩んだ時、苦しい時など、守護霊に頼る人も少なくないと思います。



地上の人生は、地上の人のものです。

守護霊が干渉してしまうと、それは地上の人の人生にはなりません。

自分で決めて、自分で責任を取ります。

どのような決定をするのかを、じっと見守るしかありません。



守護霊は、地上の人が予定している人生を知っています。

首尾よく予定していた方向に進んで行くことができたのなら、成就させるために惜しみのない援助を始めます。

思念を送り、それを地上の人が受け取ることによって、前に進んで行こうとする力が湧いたり、勇気が出たりします。

間違った方向に進んでしまったのなら、これ以上進みたくない、戻りたくなるような思念を送り続けます。



地上の人の成長に重要な役割りを果たす人が現れたら、特別なものを感じさせるような思念を送るでしょう。

目に飛び込んで来た文字、気になる言葉があれば、守護霊によって印象付けられている可能性があります。

急に頭の中に浮かんだイメージや概念も、守護霊からの思念が地上の人に投影されたものかもしれません。

気のせいにしないで、そこから意図(目的)を感じ取るようにしましょう。

地上の人に危害が加わりそうな時は、胸騒ぎを生じさせる思念を送って、回避させようとしています。

そんな時は、一度立ち止まってみましょう。



自分の思考と霊界からのインスピレーションの判別はつきにくいかもしれません。

もし思考であれば、頭を使って考えているために、答えが出るまでに多少の時間がかかります。

それに対して、インスピレーションは電光石火です。

あるいは、忘れた頃に伝わって来ることもあります。

何も考えていない、感情にも捉われていない、空っぽの頭に思い浮かんだイメージや概念や言葉であれば、霊界からのインスピレーションと考えるようにしています。



守護霊を含む背後霊に、気にかかっていることはどうなのかと、想いを投げかけてみることがあります。

直ぐに「大丈夫」という言葉が思い浮かぶことがあります。

自分の希望的観測ではと思いましたが、守護霊には結果が分かっていますので、その通りになります。



地上の人のほとんどは、生まれる前の記憶を忘れています。

後悔のない人生を歩むためには、守護霊とのつながりを強くすることが望まれます。

そのためには、守護霊の存在を心から信じなければいけません。



信じることができたのなら、親愛の想いを守護霊に送りましょう。

「いつもありがとうございます」と言う感謝の想いでも結構です。

守護霊の愛により、地上の人は導かれています。

お互いの愛によって、霊的なつながりがさらに強くなり、導きやすくなります。



地上の人が失敗や挫折したとしても、守護霊は慌てることはありません。

何かを学んで、立ち直って行くと信じているからです。

それが生れて来た目的でもあり、成長につながるのを知っています。



守護霊にとって1番厄介なのは、地上の人の恐れや不安です。

思念を送っても遮られてしまうからです。



恐れや不安や心配が生じた時には、守護霊の存在を思い出しましょう。

そして、つながっていると強く信じましょう。

そうすれば安らかな気持ちを取り戻すことができるかもしれません。



現実を変える力は、守護霊にはありません。

けれども、守護霊から送られて来る思念には、地上の人の心のありさまを良い方向に変える力が秘められています。

心が急に明るくなったり、前向きになれたとしたら、それは霊界から届く想いが魂に届いていたのかもしれません。



守護霊と共に生きていることを忘れないで下さい。

信じて、親愛(感謝)の想いを向けていれば、霊界からの恩恵を受けやすくなり、予定している人生を歩んで行くことができます。




2024年5月12日日曜日

守護霊の存在を信じる


一人でいても、一人ぼっちではありません。

地上を生きている人には、守護霊が付いています。

一生涯、守護霊は変わることはありません。

片時も離れることはありません。



私たちは、自分を成長させるために、地上を生きています。

そのために最適な人生が計画されています。

計画に沿って生きることで、予定されていた学びや成長が得られます。



けれども、地上の人には自我(エゴ)があります。

エゴに負けて、計画されていた人生から逸れてしまうことがあります。

そうならないように、守護霊は地上の人を導いています。



霊界からの導きは、インスピレーションの形を取ることが多いです。

私事ですが、20年近く前に仕事で不祥事が起こり、行政機関に呼ばれて事実確認されることになりました。

行政の判断によっては、仕事が立ち行かなくなり、廃業の可能性がありました。

それを避けるためには、不都合な事実を隠すしかありません。



その時、私の心の中に浮かんだのは「正直に全てをさらけ出せ」と言うものでした。

少し前に、霊的真理(シルバーバーチの霊訓)と出会っていました。

そこには「乗り越えられない困難は起きない」と書かれていました。

その言葉を信じて、インスピレーションに従い、全てをさらけ出しました。



その結果、想定された中で最も重い処分が下されました。

明日をも知れぬ、暗闇の日々が続くことになります。



処分を受けたのも、元へと言えば自分が原因です。

霊的真理に書かれていた「因果律の働き」を、この経験から痛いほど学びました。



あの時、嘘をついていたらどうなっていたのだろう?と想像する時があります。

処分は軽く済んだと思われ、胸を撫でおろしたでしょう。

運が良かったと思いながら、それまでと同じような生き方をしていると思われます。



私たちは寿命が来ると、肉体から離れて霊界に行きます。

そこで地上の人生を振り返ります。

何を思いながら、何をしたのかを、全て思い出します。

あの時、処分を逃れるために嘘を付いたことが、いかに愚かな行為だったのかに気付くことになるでしょう。

インスピレーションに従わなかったために、魂が目覚める機会を逸してしまったことを知るからです。

せっかく出会った霊的真理は目の前を素通りしています。

ヒーリングの力の意味を知らないまま、利己(金銭)的な目的のために使って、霊界から見放されてしまうかもしれません。

生まれる前に決めて来たであろう、霊的真理を多くの人に知ってもらうという目的を果たせずに地上の人生が終わってしまったことに気付き、深い後悔の念に襲われるでしょう。



地上での後悔を晴らすのは、地上しかありません。

今度こそは決めたことをやり通すと覚悟して、さらに過酷な試練を経験する人生を承知して生まれることになると思います。



地上で凶事や不幸と言われる出来事は、魂が目覚めさせるために起きていて、そこから目的を果たす人生が始まることがあります。

シルバーバーチの霊訓にはこう書いてあります。

「魂は肉体の奥深くに埋もれているために、それを目覚めさせるためにはよほどの体験を必要とします。悲しみ、無念、病気、不幸などは地上の人間にとって教訓を学ぶための大切な手段なのです。」

できれば避けたかった出来事を通して学んだ教訓は、次の世界に持って行ける貴重な財産となります。



生れる前の自分は、地上の人生を承知していたのですが、そのことをすっかり忘れています。

もし、覚えていたとしたら、どうにかして回避しようと躍起になってしまうでしょう。

忘れてしまう地上の人のために、守護霊が付いているのですが、自我(エゴ)の働きが強くなると、影響力を行使しにくくなります。

自我(エゴ)を認識しておく必要があります。



もっとはっきりと分かるように、守護霊が導いてくれたら良いのにと思う時があります。

守護霊は、家族でも友達でもありません。

魂を成長させるための同志です。



学校で宿題が与えられ、大変だからと親が代わりにやってしまったら子供のためにはなりません。

それと同じで、守護霊が安易に助けてしまったら地上の人ためになりません。

地上と同じように意思疎通ができたならば、頼り切ってしまう人も少なくないでしょう。



守護霊は地上の人の決断には干渉できません。

エゴに負けてしまう時もあります。

摂理に反した行いをすれば、後で痛い思いをしますが、そこから摂理の働きを学んでいます。

摂理に適う決断ができたのなら、目的が果たせるように、惜しみのない援助の力を送り続けるでしょう。

存在をはっきりと示さないのは、自分で決めて自分で責任を取らせるためであり、それが地上の人の学びや成長につながるからです。



守護霊の存在を信じていた方が、インスピレーションを受けやすくなるのは確かです。

ある局面に差し掛かった時に、送ってくれるかもしれません。

送ってくると、地上の人の心の中に、突然アイデアや概念やイメージが浮かんで来ます。

理由もなく、急に何かをしなければいけない衝動にかられた時も、思念を受け取っている可能性があります。



昨日ですが、同業者(歯医者)の患者への気を遣う手術がありました。

朝から体調不良で、上手く行くか心配していたところ、心の中に「25」という数字が何度も浮かんで来ました。

予定通り手術を行い、終わりかけてホッとした時に、ふと置き時計に目をやったところ午後3時24分でした。

1分の違いはありましたが、「見守っている」という確信を深めるための霊界からのメッセージであり、今、書いているブログの内容を後押しさせるものと感じました。

気付く、気付かないに関わらず、想像以上にインスピレーション(メッセージ)は伝わって来ていると考えられます。



心の中に浮かんで来たことは、地上の人の全てを知っている守護霊からのインスピレーションかもしれません。

繰り返し浮かんで来たのなら、その可能性はさらに高いと思われます。

インスピレーションに従うことで、今よりも苦しい状況になるかもしれませんが、そこから何かを学ぶことができ、自分の成長につながります。

後悔することはないので、迷わずに進んで行きましょう。




2023年11月19日日曜日

真実を分け与える


聖書の中に「金持ちとラザロ」と言う話があります。

ラザロはとても貧しく、毎日の糧にも事欠く次第でした。

全身のできものを野良犬がなめているような、哀れな身の上でした。

空腹に耐えかね、豪華な衣服を纏い、贅沢な暮らしていた金持ちの家に行って、食卓から出るくずを分けてくれるように乞いました。

けれども、金持ちはそんなラザロを無視し続けました。

エドゥアルト・フォン・ゲープハルト 1865年
ラザロは息絶えます。

そして、金持ちもこの世を去る時が来ます。

死の後に目覚めると、彼方にラザロとアブラハム(旧約聖書におけるイスラエルの民の祖)の姿が見えました。

金持ちはあまりに苦しさに、こちらにラザロを遣わすようにアブラハムに懇願しました。

それに対して、アブラハムはこう答えました。

思い出すが良い。あなたは生前良いものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない」

今、味わっている苦しみは、生前の行いが原因で生じているので、どうすることもできません。

金持ちとラザロの関係は逆転していて、霊的な隔たりがあるために一緒にはいられないのです

自分が得たものを、世の中や人のために活かせなかったことを大いに悔いて、地上にいる兄弟たちが同じように苦しまないために、真実を伝えてもらうようにアブラハムに頼みました。

しかし、伝えたとしても信じることはないだろうと言われて断られます。

最近になりこの一文を知りましたが、おとぎ話などではなく、死の後に誰にでも起こり得ることです。



世の中は、急速に2極化が進んでいます。

富む者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなっているようです。

たくさんの「ラザロ」と「金持ち」が生まれています。

才能がある者が評価されて、努力して富を築くことは悪いことではありません。

けれども、才能は自分のためではなく、世の中のために与えられたものです。

築いた富を、どう世の中に返していくのかかが問われています。



救いを求めている人を無視するのは、想像している以上に罪なことなのかもしれません。

手を差し伸べなければいけないのですが、自分のことで精一杯になると、その余裕がなくなってしまいます。

自分のことが心配になると、人のことまで心配していられません。

シルバーバーチの霊訓では、心配や不安を抱いたり、取り越し苦労をすることを強く戒めています。

それは、利己的になるのと同じで、他者を無視することにつながるからなのかもしれません。



求めているのは、的なものだけではありません。

目に視えないもの、心の安らぎや、触れ合いを求めている人もいます。

物的なものが少しくらい足りなくても、心が満たされていれば、幸せを感じます。

その逆に、有り余るほど物的なものがあっても、心が満たされていなければ、虚しさを感じます。

人間の本質は、物質を超えたものだから当然です。




宇宙全体が神です。

宇宙を構成する私たちは、神の一部です。

存在している限り、神とのつながりが断たれることはありません。



世の中から隔絶されていても、心を満たすことはできます。

私たちの中にいる神から生命力が供給されていて、その力は愛を帯びているからです。

愛を帯びているのは、同じく神から供給されているヒーリングの力により病が癒されることで、私自身は実感しています。

霊的につながっているのは、遠く離れたところにいる会ったこともない人に、ヒーリングの力が届くことで実感しています。

地上に誕生して、五感を頼りに生きるようになったので、神の力(生命力)で生かされていること、全てが霊的につながっていることを実感できなくなっただけです。

死んで肉体(五感)がなくなったら、再び強烈に実感するようになるでしょう。



気力が充実している時は、生命力で満たされています。

神とのつながりが強くなっているので、安らぎや悦びが感じられるかもしれません。

反対に、生命力が枯渇している時は、神とのつながりが弱くなっています。

そんな時は、孤独を感じたり、不安や心配や怖れの感情が生じやすくなります。

ヒーリングをすると、心配や不安が和らぎ、穏やかな気持ちになる人が多いのですが、それは魂に生命力が注ぎ込まれたためと考えられます。



神とのつながりを信じない人がいます。

そんな人に質問したいです。

怪我をした時に、傷口が治って行くのはどうしてでしょう?

「自然治癒力」があるからと答えると思います



その力は、自分の意思で作っているでしょうか?

そうではなく、初めから備わっているものです。

自分の意思とは関係なく、傷口は自然に治って行きます。



自然とは、神が顕現したものです。

自然治癒力とは、肉体を治癒させる神の力が、法則に従って顕現したものです。

傷口が塞がって行くのは、神の御業です。

私たちは、神とつながっています。



それとは別のつながりもあります。

私たちは守護霊と強くつながっています。

また、生前、愛情で結ばれていた人とのつながりも失われていません。

ヒーリングの力が届いて病が癒されるのと同じように、霊界にいるつながりのある人たちから、想いと言う力が魂に届くことで、無意識の内に励まされたり、勇気付けられたり、癒されたりしています。



この世界を自分一人で生きていると思っているとしたら、大間違いです。

内にいる神とつながり、外にいる霊に支えてもらいながら生きています。

そのことが信じられた瞬間、内と外から力が伝わって来て、心配や不安が消えて、心が明るくなるのが実感できると思います。



持てる者が、持たざる者に分け与えるのは、物的なものだけではありません。

孤独な人、愛情に恵まれない人、見放されたと思っている人に、目に視えない存在とつながっていて、常に愛されているという真実を分け与えることで、霊的な飢えが和らぎます。



真実は分け与えても減ることはありません。

知っていて分け与えようとしないのは、飢えたラザロに食べ物を分け与えようとしなかった金持ちよりも、罪深いことなのかもしれません。

気持ちを新たにして、取り組まなければいけないと思います。


出典:Karapaia.com






2021年9月12日日曜日

人生の伴走者


東京オリンピック・パラリンピックが終わりました。

当初は、コロナ禍での開催を疑問に思っていました。

いざ始まると、持てる限りの力を出し切り、良い結果が出た時の選手の歓喜の姿に、素直に感動しました。

中でも印象的だったのは、パラリンピックの女子マラソン(視覚障がいクラス)で、金メダルを取った道下美里選手の笑顔でした。



インタビューで、「最強の仲間と伴走者がいたので、ここに辿り着いた。」と答えていました。

この競技に出場する選手は視力が失われているので、伴走者が付いて一緒に走ります。

伴走者は、選手に進路を指示したり、ラップタイムや他の選手の情報を伝えたりしています。

今回のオリンピックでも、ラストスパートをかけるタイミングを計っていたのは伴走者であり、道下選手がそれに応え、最高の結果を得ることができました。



競技中だけではありません。

道下選手は、練習で毎月600~700Kmも走っているそうです。

当然のことながら、伴走者も同じ距離だけ走っていることになります。

これだけの距離を走れるのは、選手と伴走者は同じ目的に向かって進んでいる同志という思いがあるからでしょう。

そんなこともあり、優勝した歓びを分かち合い、感謝の言葉が自然に出たのだと思います。



伴走者には、1つのルールが課せられています。

それは、選手の前を走ってはいけないということです。

前を走ると、選手を助けた(助力)とみなされて失格することがあるので、前に行かないように、常に注意を払っています。



この競技を知って、あることを思い浮かべました。

地上の人と守護霊との関係です。

守護霊は、生まれた時から死ぬ時まで、生涯に渡り1人の地上の人に付いています。

選手がコースから外れそうになった時に、伴走者がコースに戻しますが、それと同じように、地上の人が予定していた人生のコースから外れそうになった時に、様々な手段を駆使して、元に戻そうとしています。



伴走者は言葉で指示を伝えていますが、守護霊にはそれは出来ません。

言葉を超えた思念で伝えています。

それがインスピレーションとなって地上の人に伝わっています。

もし、何の考えや、脈絡もなく、「こうしてはいけない」、「こうしなければいけない」そんな衝動が心の中に生まれたのなら、守護霊から思念が伝わって来たせいかもしれません。

両者が緊密な関係であれば、衝動も感じずに、無意識に行動に移していることもあると思います。



視力を失った選手の代わりに、伴走者は周りの状況を把握しています。

地上に生まれた人も、霊的な視力を失っています。

何のために生まれたのか、どんな人生を歩むのか、いつ死ぬのかも分からなくなってしまいます。

霊的に盲目になってしまった地上の人が、生まれて来た目的を果たすために、守護霊は付いています。



人生の要所で、正しい選択をするように働きかけています。

けれども、地上の人の自我が強くなってしまうと、働きかけが上手く出来なくなってしまいます。

欲に溺れたり、誘惑に負けたりして、道から外れてしまう時があります。

外れていることに気付いたり、その先で痛い思いをして、元に戻って来ることを期待して、守護霊は地上の人をなすがままにさせることもあります。

中には、死ぬまで元に戻らない人もいるでしょう。

そんな人は、死後に人生を振り返る時が来て、後悔することになります。

後悔を晴らすために、今度は道を外れないと決意をして、誘惑の待ち受ける地上に、再び生まれることになると考えられます。



マラソンでは、伴走者の走力が選手より高くないと、足を引っ張ることになります。

同様に、守護霊の霊格が地上の人よりも高くないと導くことはできません。

しかし、高すぎてしまうと波長が合わなくなり、インスピレーションは上手く伝わらず、導くのは難しくなると考えられます。

従って、守護霊として付くのは、地上の人と同じ類魂の上位にいる者と考えています。



選手が疲れてきて、苦しそうにしていれば、伴走者は「がんばれ!まだ走れる!」などと、声を出して励ましたり、気持ちを鼓舞しているでしょう。

地上の人が困難な状況に陥り、だめかもしれないと思いかけたのなら、守護霊は乗り越えさせようとして、必死に思念を送っているでしょう。

思念はエネルギーです。

受け取った瞬間、内から力が湧いて来るのが感じられるかもしれません。



選手に走ろうという気持ちがなければ、伴走者は必要ありません。

同様に、地上の人に何もする気がなければ、守護霊はお役御免です。

何かをしようとする意思に協調して、守護霊も動き出します。

迷っている時には、一歩を踏み出させようと後押をしているでしょう。

「何とかなる」「上手く行く」そんな前向きな気持ちが生まれたのなら、それは守護霊から思念が届いていたのかもしれません。



選手が走り出したら、伴走者も一緒に走り出します。

止まったら、一緒に止まります。

守護霊も同じです。

地上の人が動き出したら、守護霊も一緒に動き出します。

止まったら、動き出すまで、じっと待っています。



競技では、途中で歩く選手も、立ち止まる選手もいます。

疲労が限度を超えたり、体調が悪くなったのであれば、やむを得ません。

再び走り始める人もいれば、途中で棄権する人もいます。



人生は苦しくても棄権はできません。

立ち止っても良いでしょう。

動けるようになったら、前に進むしかありません。

進もうとする意思に守護霊は連動し、一歩を踏み出させようとしています。



止まっているのも、決して楽ではありません。

むしろ苦しみを感じます。

何故ならば、人は成長するように定められているからです。

苦しみを通して、成長する方向に進むように促されているからです。



死は、地上の人生のゴールです。

悲劇ではなく、苦しみからの解放です。

先に逝った人たちが待ち受けていて、ゴールを祝福してくれます。

そして、守護霊の存在に気付くでしょう。

地上から解放された喜びを共に味わいます。

やがて、地上の人生を振り返る時が来ます。

惜しみない援助を与えてくれたこと、予定されていた人生を歩むために導いてくれていたことが、はっきりと判ります。

目的を果たし、予期していた学びや成長が得られたことを知り、感謝の気持ちが湧き上がります。



たとえ存在は感じられなくても、守護霊が守り導いてくれていることを、強く信じましょう。

一人ぼっちになっても、守護霊だけはいます。

人生の主役は地上の人です。

責任は地上の人が負います。

従って、進む方向を決めたり、表立って助けることは許されません。

頼ってしまうと成長につながらないので、存在が感じられなくなっていると考えられます。

成長するために生まれて来た、地上の人の人生を並走しています。



目をつむりながらでは、怖くて歩けません。

走るのは、想像している以上に怖いはずです。

伴走者を絶対的に信じていなければ、思いっ切り走ることはできません。

両者は信頼と言う絆で結ばれています。

ちなみに、選手と伴走者を結ぶロープのことも「絆」と呼ぶそうです。


伴走者が右手に持っているのが「絆」(読売新聞より)


地上にいる私たちは、守護霊をもっと信頼して、怖がらずに、勇気を出して、思いっ切り人生を走らなければいけないと思います。



2021年8月22日日曜日

二人三脚



もし今の私が、20年前の私に会って、こんなことを言ったらとしたらどうでしょう?

「あなたの人生は、初めから大体決まっているのだよ」

20年前の私は、

「何を馬鹿なことを言っているんだ。自分の人生は自分で決めている」と反論したでしょう。

それに対し、「それでは、生まれた国も、家庭も、性別も自分で決めたの?」と今の私が尋ねたとしたら、

「決められるはずがないだろう。それは偶然だ。」と言われて取り合ってもらえないでしょう。

人生はこの世だけと思っていれば当然です。




人間は肉体を超えた存在です。

生まれる前、そして死んだ後に肉体はありませんが、生命は変わりなく存在しています。

生命とは魂です。

魂はエネルギー体であると同時に意識体であり、この世の人と同じ様に意思決定をしています。

国も、親も、性別なども、自分(魂)が決めて生まれて来ています。




この世に生まれた目的は、自らを成長させるためです。

全ての次元においても、一貫して生きる目的は成長することですが、肉体を持ち、自分と違う人たちと接する、特殊な環境であるこの世でしか経験できないことがたくさんあります。

病気や障害を通して、学ぶこともたくさんあるでしょう。

争うことによって生じる苦痛を通して、大切なものに気付くこともあるでしょう。

自分を大きく成長させるため、大切なことを魂に刻み込むために、敢えて逆境と言われる環境に生まれ、過酷な人生を選ぶこともあります。

地上ならではの経験を通して、自分の弱いところを克服し、足りないところが補われて行きます。

自分を変えるために、生まれて来たのです。




人生には、おおよその計画があります。

その計画は、無限の叡智(神)によって立案されるので、自分を成長させるために最適な計画と考えられます。

起きる出来事には、学びや成長のために何かしらの意味があります。

けれども、この世の人にはそれが判らないので、何で自分がこんな目に遭わなければならないんだと思ってしまいます。




計画に沿って人生は展開して行きますが、至るところで自分自身で決めなければならない局面があります。

人間には自由意思が与えられています。

わがままや臆病や怠慢などにより、予定していた方向に進むべきところを、違う方向に進んでしまうこともあります。

違う方向に進んでしまえば、予期していた学びや成長は得られなくなります。

後に、そのことを知り、後悔することなります。




もしそうであるならば、予め計画が判っていれば、違う方向に進まずに済むのではと考えてしまいます。

学びや成長を得るために起きるのは、過酷な出来事が多いです。

不幸や凶事と言われるような出来事が、予め判っていたとしたらどうでしょう?

何とかして避けようと、躍起になるかもしれません。

あるいは人生を悲観したり、絶望してしまうかもしれません。

この世に生まれる人はそこまで強くありません。

まともな精神状態では生きていられないと思います。

そんな理由から、人生の計画は判らないようになっていると考えられます。




計画が判らなくなり、与えられた自由意思によって、間違った方向に進んで行かないように、成長を願う神の愛により、人生の水先案内人が付けられました。

この世の人には、必ず1人の守護霊がいます。

生涯変わることも、離れてしまうこともありません。




この世の人の計画が判っている守護霊は、間違った方向に進んで行かないように導いています。

間違った方向に進んで行きそうになると、阻むような思念を、この世の人に送っていると考えられます。

その思念を受け取ると、何となくそちらには進みたくないような、ためらうような衝動が生じると思います。

特別な理由もなく、自分の考えとは違う気持ちが心の中にふと生まれたのなら、それは守護霊から届いた思念かもしれません。




霊界にいる人たちは、この世の人がその先で遭遇するかもしれない事象を予見しています。

計画されていた人生を狂わすような事象であれば、回避させるように導いていると思います。

「何となく気が進まない」「どうしてもやりたくない」そんな気持ちが生まれたのなら、それは自分の考えではなく、霊界から思念を受け取った結果かもしれません。

学びや成長を放棄する方向に進もうとしているのであれば、そんな選択をしないように働きかけていると思います。

「逃げてはいけない」「避けてはいけない」そんな気持ちが生じた時には、正面から立ち向うように促す、霊界からの思念を受け取ったせいかもしれません。

「何とかなる」「もう少し頑張ってみよう」そんな気持ちが心の中に生れた時は、勇気付ける、鼓舞する思念が送られていたのかもしれません。




振り返ってみると、今までの人生でそんな場面はいくらでもあったような気がします。

人生は自分で切り拓いているつもりでも、実は守護霊からの導きや、強力な後押しによって、計画に沿うように生きていると考えられます。




導いてもらっていることや、後押しをしてもらっていることが、もっとはっきりと判れば良いのにと思うことがあります。

この世を生きる人は未熟です。

神頼みではありませんが、明確に判ってしまうと頼り過ぎてしまう可能性があります。

自力で何とかしようとするところに意味があり、頼ろうとした時点で成長が損なわれます。

そう言った理由から、霊界からの援助は、あからさまにならないよう、悟られないように配慮されていると考えられます。




時に、守護霊は導くのをやめて、なすがままにさせて、失敗を経験させることもあるでしょう。

痛い思いをさせて、過ちに気付かせるためです。

この世で生じる苦痛は、学びへとつながっています。




生まれた目的を果たすために、守護霊は付いています。

しかしながら、最終的に決めるのは自由意思が与えられているこの世の人です。

守護霊と言えども干渉はできません。

どんな方向に進んで行くのか、固唾を飲んで見守っています。




計画に沿うような方向を選んだのなら、守護霊は大いに喜んでいるでしょう。

しかしながら、それは苦難が待ち受けている方向かもしれません。

決めた瞬間から、目的としていた学びや、予期していた成長が得られるように、後押しする思念を送り続けるでしょう。




霊界の存在を心から信じることによって、つながりが深まります。

つながりが深まるほど、霊界の影響力は大きくなります。

守護霊からの思念が届きやすくなり、計画していた通りの人生を歩むことができると思われます。




朝起きた時に、今日1日を乗り越えられるように祈って下さい。

そう祈ることで、生きる力が湧き出るような思念をこの世の人に送ってくれて、その結果、不安や心配が和らぎ、勇気が湧いて来ると思います。

無事に乗り越えられた時には感謝して下さい。

この世の人の想いは霊界に届いているので、より多くの援助の力を授かれると考えられます。




1人ではありません。

霊界にいる人たちと一緒に、この世を生きています。






2020年10月25日日曜日

難しい方を選ぶ

 

人生は、選択の連続です。

小さなことでは、着る服を選んだり、ご飯を選んだり、読む本を選んだりしています。

大きなことでは、学校を選んだり、職業を選んだり、結婚相手も選んでいます。



こんな選択もあると思います。

思いもよらぬ役回りが巡って来た時に、引き受けるのか、辞退するのか。

壁が立ちはだかった時に、乗り越えて行こうとするのか、避けるのか。



そんな時に、相反する自分がいることに気付きます。

失敗を怖れ、無難で安全な選択をしようとする自分と、難しいけど挑戦してみようとする自分がいます。

両者のせめぎ合いがしばらくあり、最終的に優った方の行動を取ることになります。



失敗を怖れているのは、「地上的な自我」と考えています。

一方、挑戦しようとしているのは「霊的な自我」と考えています。

地上的な自我は、本当の自分である霊的自我と表現媒体である肉体との間に介在していて、霊的な自我から生まれた思念を、表現するべきかどうか、どう表現すれば良いのかを、頭を使って考えています。



「失敗したらどうしよう」と心配しているのは、地上的な自我です。

地上の自我は、自分の立場が悪くなったり、人から非難されるを嫌うので、挑戦を避けようとします。

「どうせ~だから」と言い訳を考えて、霊的な自我から生じている本当の自分の想いを否定しようとします。



そんな時に取るべき態度について、シルバーバーチの霊訓にはこんなことが書かれています。

「困難との闘いを前にして逃げ出すよりも堂々と戦って負ける方が立派です。」

判っていても、進むのをためらう時はありますが、後悔しないために挑戦した方が良さそうです。




この世に生まれて来たのは、自分を成長させるためです。

困難を乗り越えることで、成長するようになっています。

負荷がかかり、緊張を強いられ、苦しいのに決まっていますが、成長するためには挑戦する方を選んだ方が良いのです。




失敗したり、挫折したり、期待したほどの成果が得られない時もあります。

たとえ、結果が出なかったとしても、奮闘努力する中で霊的な成長が得られます。

地上的な結果よりも、霊的な成長の方が永続的な価値があります。




人一倍奮闘努力して挑戦しても、自分の望んでいる結果が得られない人もいます。

しかし、その姿を見て、勇気付けられ、元気をもらった人は、たくさんいます。

多くの魂に生きる力が与えられたので、努力以上に霊的な成長が得られていると思います。
ソチ五輪の浅田真央選手



私たちには、例外なく守護霊が付いています。

その目的は、地上の人が予定されていた人生を歩んで、学び成長するためです。

様々な手法を用いて、訴えかけ、時に警告を発して、導こうとしています。




ひとりぼっちで生きているように思えますが、それは大きな間違いです。

霊界から無形の援助を受けながら、私たちは生きています。

守護霊と二人三脚で、この世界を生きていると言っても過言ではありません。




人には自由意思が与えられています。

自由に決めることが出来ますが、その代わりに結果責任を取らなければなりません。

全責任は地上の人にあるので、守護霊は決定に干渉出来ないと考えられます。




地上の人の目の前に困難が生じた時、乗り越える方向に進んで行くことを、守護霊は切望しています。

乗り越えられないことは、この世で起きないことを知っているからです。

避けないで前に進むように、意念を送り促しているのですが、最終的に決めるのは地上の人です。




固唾を飲んで、地上の人の決定を見守っています。

もし、避ける方向に進んでしまったのなら、学びや成長の機会を失ったことになり、残念に思っているでしょう。

首尾よく、挑戦する方向、乗り越える方向に進んで行ったのなら、大いに喜んでいるでしょう。




難しい方を選んだ瞬間から、地上の人に意念という力を送り続けていると思います。

その意念を地上の人が受け取ると、内から力が湧き出て来て、前に進んで行けるような感覚になると考えられます。

挑戦しようとする意志が鮮明になると思います。




霊界から届く意念によって、地上の人の意志は強固で、新たなものになります。

「大丈夫だろうか?」と言う気持ちが、「何とかなる」と前向きな気持ちになります。

視界がパッと明るくなったり、心が急に軽くなって、前に進んで行こうとする気持ちになるのは、霊界から意念と言う力が届いたせいかもしれません。




せっかくの霊界からの援助の力を妨げてしまうものがあります。

それは、怖れであり、不安であり、心配であり、取り越し苦労です。

そんな気持ちが地上の人を支配してしまうと、援助の力が届き難くなってしまいます。




挑戦しようとする時に、どうしても不安や心配が生じてしまいます。

そんな時は、自分一人ではなく、霊界にいる人たちと一緒に挑戦していると思うことが大切です。

そうすることで、両者のつながりが再び強くなり、援助の力が届きやすくなります。




落ち込んでいる時に、人から励まされたり、勇気づけられたりすると元気になったり、気持ちが前向きになったりします。

それは、言葉や行動を介して、目に視えない力を人からもらっているためと考えられます。

励まそう、勇気付けようとする気持ちの根底にあるのは愛であり、それが相手に伝わると生きる力に変わると考えられます。




霊界にいる人も、地上にいる人と同じことが出来ます。

言葉や行動を介さずとも、意念という力を、地上にいる人の魂に伝えることが出来ます。

伝わった意念は、地上の人に生きる力を与え、気持ちを変容させます。




魂の存在を信じていない人でも、霊界の援助を受けています。

ふと思い付いて行動したり、無意識の内に行動したりする時は、霊界からの意念に促されていることが多いと思います。

逆に、何となく気が進まない、やってはいけないと胸騒ぎがする時は、霊界から止めさせるような意念が届いている可能性があります。




霊界からの援助は、明確な線引きがされていると考えられます。

地上の人が予定通りに学び、成長をしていくために守護霊が付いています。

守護霊が、無闇に助けてしまえば、その人の成長を妨げてしまうことになりますので、何にもなりません。




そうであれば、何かあった時に「助けて下さい」と祈るよりも、「乗り越えるための力を与えて下さい」と祈った方が効力があるはずです。

もちろん、お金や地位を手に入れるような、地上的な願望実現のための祈りは聞き届けられることはありません。

自らの学びや成長を望む祈りが霊界に届くのは、それがこの世に生まれていた目的そのものだからです。




全ての起点が、思念です。

思念から肉体的表現が生まれます。

動機が神の摂理に適っている、または成長させるものであれば、その時から霊界からの働きかけが始まり、表現するための援助が得られます。




人や動物や社会のためになることであれば、迷わずにやる方を選んで下さい。

地上的な努力と、霊界の援助によって、良い結果が必ず生まれます。

直ぐに結果が得られなかったとしても、当初の想いを持ち続けていれば、最終的に目的は成就されます。




1人で成し遂げようとするのではなく、霊界との共同作業と思って下さい。

難しく思えても、霊界からの援助があるので、そちらに進んで行けば大丈夫です。

想いを持ち続け、霊界とのつながりを信じていれば、それで良いのです。




振り返ってみると、どうなるだろうかと案じていたことが、何とかなっていることに気付きます。

自分を信じて取り組んだ時は上手く行き、失敗した時は決まって不安や心配が先行し、自分を信じられなかった時のようです。

それは、霊界からの援助を上手く受け取れたかどうかの、差なのかもしれません






2020年8月9日日曜日

霊界の存在を信じる




シェラーグ・ボルテン(ノルウェー)水田秀樹氏のブログより

断崖絶壁の前に立つと、思わず足がすくみます。

これは心が恐怖を感じているからです。

何故、感じるのかと言えば、身を守りたいと言う欲求が、私たちに備わっているからです。




それでは、身を守りたい欲求は、どこから生じているのでしょうか?

私たち人間は、魂(霊)、精神、肉体によって構成されています。

本当の自分とは、肉体ではなく魂です。

魂とは生命そのものであり、大生命である神の一部を構成するものです。

個々の魂には「霊的自我」が存在し、そこから自分の偽らざる想い(思念)が生じています。




そして、精神上には「地上的自我」が形成されています。

霊的自我から生じた思念は、地上的自我を通して、肉体によって表現されています。

私たちは、地上的自我と霊的自我(魂)の間で、バランスを取りながら生きていると言えます。

しかし、地上的自我の働きが強くなると、それに負けて、霊的自我から生じた本当の自分の想いが表現されにくくなります。




霊的自我は、成長して行くことを志向しています。

成長は、他者に愛を表現すること、困難や障害を乗り越えて行くことで得られるので、そちらの方向へ進んで行こうとします。

一方、地上的自我は、肉体と強く結びついています。

そこから、身を守りたい欲求が生じていると考えられます。

地上的自我は、安全に生きることを志向していますので、その働きが強くなると恐怖や不安が大きくなります。

また、快適に生きようとするためのに、お金、地位、名誉などへの欲求が高まります。

逆に弱まり過ぎると、危険にさらされても恐怖を感じなくなり、身を守れなくなります。

霊的自我と地上的自我の関係 その1

登山家を例に挙げます。

霊的自我は、自分を成長させようとするために、危険を伴う険しい山に挑戦しようとします。

一方、地上的自我は、肉体を守ろうとするために、理由を考えて止めさせようとします。

駅のホームから、線路に人が落ちたとします。

霊的自我は、良心に従い助けようとしますが、地上的自我は、自分まで巻き込まれてしまうと考え、抑止します。

道端で子猫がないていたとします。

霊的自我は心配になり、近寄ろうとしますが、地上的自我は、飼うことになると大変なので、止めさせようとしています。

このように、人生のさまざまな場面で、両者の間でせめぎ合いが起きていると考えられます。

地上的自我は霊的自我に対し、この世では抑制的に働くように仕組まれていると考えられます。




精神は肉体に優り、魂(霊)は精神に優ります。

霊的自我(魂)から生じた本当の自分の想いが、地上的自我(精神)を通して、肉体で表現されているのが健全な姿です。

ありのままの自分が表現されています。

しかし、いろいろな理由から地上的自我の働きが強くなると、本当の自分の想いが表現され難くなります。




地上的自我が強くなったものを「エゴ」と呼ぶのならば、エゴが要求するままに生きている人は多くいます。

エゴから発する考えは、神の摂理に適っていないことが多く、要求のまま生きていては、予定されていた成長が得られなくなってしまいます。

利己的になったり、傲慢になったり、見栄を張ったりするのも、エゴの特性と考えられ、成長しないばかりか、業(カルマ)が生じてしまうかもしれません。

業(カルマ)が蓄積して行くと、ある時に因果律が作動し、苦痛を伴う出来事が生じると考えられます。

また、地上的自我の働きが強くなり、本当の自分の想いが表現されないと、内に溜まってしまいます。

内に溜まった想いが、因果律の働きにより、病気として肉体上に表現されるかもしれません。

いずれの場合も、事象が引き起こす苦痛によって、奥で眠っていた本当の自分が目を覚ますことになります。

それまで「自分」と認識していたのは地上的自我です。

それに代わって、霊的自我(本当の自分)が表に現れて主導権を握り、子供の時の様にありのままの自分が表現されるようになります。

これが魂の目覚めです。




霊的自我(魂)は、この人生をどう生きれば良いのかを知っています。

その声に耳を澄ませて、素直に従えば、予定されていたシナリオに沿って、成長しながら生きて行くことが出来ます。




そして、守り導いている霊界の存在(背後霊)が付いていることも忘れてはいけません。

霊界の存在も辿るべき人生が判っていて、地上にいる人の成長を願いながら、生まれて来た目的が果たされるように導いています。

危害が加わりそうになったり、進んで行くべき道を誤りそうになった時に、思念(インスピレーション)を送って、回避させようとしています。




ところが、強くなった地上的自我は、援助をしようとしている霊界の存在にとって、取り囲んでいる壁のような存在です。

インスピレーションを伝えようとしても、霊的自我(魂)まで到達しなくなります。

エゴが強い人は、人の意見を聞こうとしません。

そればかりか、霊界からの助言や警告も受けられなくなってしまいます。

霊界の存在にとって1番厄介なのは、地上の人の恐怖や不安や取り越し苦労の様です。

恐怖や不安も、地上的自我から生じているので、それが大きくなってしまうと、霊的な感受性は低下してしまい、援助(インスピレーション)を受けられなくなってしまいます。
霊的自我と地上的自我の関係 その2

援助をしようとしている霊界の存在にとって、地上の人の恐怖や不安、取り越し苦労は大きな障壁となります。

私は遠隔ヒーリングを行う時に、受ける人にリラックスするようにお願いしています。

受ける側に不安感や緊張感があると、それが障害となり、霊力が伝わりにくくなると感じているからです。

上図の様に、恐怖や不安を感じている時は、地上的自我が強くなっていることを意味し、バリアの役目を果たしてしまい、インスピレーションを含めた霊力が伝わる際の妨げになると考えています。




もし、恐怖や不安を感じたらどうした良いのでしょう?

霊的自我の働きを再び強めてやれば、良いと思います。

そのために、私たちは神の一部であることを強く意識するのも良いでしょう。

そして、霊界の存在が守り導いてくれていると信じることも大切です。

そうすれば、地上と霊界のつながりが深まり、霊的自我が強くなると考えられます。




霊界は、地上のような恐怖や不安は存在しません。

穏やかで安らかで平和な境涯です。

良きに計られている、見守ってくれている強く信じるとことによって、霊界と同調することが出来れば、心の平穏を取り戻すことが出来ると思います。




朝起きると、今日1日の予定が頭に浮かぶ時があります。

大丈夫だろうか、上手く行くだろうかと、思うこともあります。

今でしたら、新型コロナウィルスの感染が不安です。

そんな時に、寄り添ってくれている存在を意識し、乗り越えて行けるよう、守ってもらえるように祈ります。

すると不安や心配が和らぎ、平穏な気持ちに一瞬にして変わるのが感じられるかもしれません。

霊界の存在は、いつもこちらの想いに応えてくれていて、勇気付けて、励ましてくれています。




自分がこれからすることに、怖れや不安を感じることがあります。

問われるのは、言動の動機となっている想いです。

動機が、怒りや恨みや憎しみや嫉妬など、摂理に反する想いに根差しているのであれば、結果として苦痛となって自分に返って来ます。

エゴから発している、自己保身的、自己満足的なものであれば、それは利己的なので、良い結果をもたらしません。

静かに自分に問いかけて、摂理に適っている、あるいは反することがなければ、外に向かって表現しても、怖れることはありません。




恐怖や不安は、地上的自我が作り出した心の蜃気楼です。

実際には存在していません。

存在しないものに振り回されて、自分や他者を信じられずに、想いが表現されなくなってしまわないように、払いのける不断の努力が必要です。

地上では恐怖や不安は付きものであり、それ払拭するように努めるのが、生まれて来た目的の1つになっていると考えられます。




思念は具現化する力を秘めています。

けれども、精神で作られた恐怖や不安には、その力はありません。

ただし、思念が具現化される妨げとなります。

恐怖や不安や取り越し苦労は、霊的な援助を授かる通路を塞いでしまいます。

地上的な欲望、思い込みや固定観念も、インスピレーション伝達の妨げとなります。

霊的な通路を塞がないために、霊的自我の働きを高める必要があります。

それには、自分の中にいる神、背後で見守っている霊の存在を強く信じ、霊界と一体化を計るのが有効と考えらます。











2020年7月12日日曜日

自分を信じられない時は守護霊を信じる



新しいことにチャレンジしたり、困難な状況で結果を出さなければいけない時、上手く行くのだろうか?失敗したらどうしようと、緊張したり、不安になってしまうことがあります。

そんな時、多くの人がしているのは「自分を信じる」ことです。

そうすることによって、願望が叶う可能性が高くなるのを、経験的に知っているからです。




けれども、自分を信じるとはどういうことなのか、判っているようで判っていません。

過去を振り返り、今までこれだけのことをやって来たのだから、今度も絶対に出来るはずと、自分に言い聞かせることだと、私は思っていました。

それは間違っていないのでしょうが、最近になり、違う意味もあるのではないかと思うようになりました。




何かをしようとする時、上手く行くように、神にお願いする人は多いです

以前の私は、神など信じていなかったので、自分一人の力だけでするしかないと思っていました。

十数年前、シルバーバーチの霊訓(霊的真理)に出会い、多くのことを知りました。




神は実在します。

ただ、神は自然法則としてこの世界に顕現しているので、お目にかかることも、助けてくれることもありません。




神以外にも、自分にとって身近で極めて重要な存在がいます。

それは守護霊です。

しかし、どのような形で自分に関わっているのかは判りませんでした。




守護霊は、霊的次元にいる存在です。

そのため、神と同じ様に、私たちは目で姿を見ることも、耳で声を聴くことも出来ません。

地上の人と霊的につながっていて、思念」を送ることで、関わっていると考えられます。




地上では、思念に実体がありません。

そんなものは存在しないと言われてしまえばそれまでです。

ところが、私たちが死んだ後に行くのは物質が取り払われた世界であり、思念は実体そのものになります。

想像するのが難しいのですが、思念が直ちに具現化します。

死後の世界が天国と呼ばれる1つの理由は、思い描いたことが実現する世界だからかもしれません。




ところが地上は違います。

思念(想ったこと)は、精神と肉体を介してを具現化しなければなりません。

その過程で、精神的、肉体的な労力が必要となります。

具現化させるため、奮闘努力する中で、魂が鍛えられ、成長するようになっています。




守護(背後)霊からの思念の影響力ですが、私は内部から力のようなものが湧き上がり、心が奮い立ったり、晴れやかになったり、楽観的になったりするのを感じます。

また、精神が清明になり、視界がはっきりとするのを感じます。

自分では何もしていないのに、急に心が明るくなったり、気持ちが前向きになるのを感じたら、それは守護霊から愛念が届いたからと考え、感謝しています。




守護霊は一生涯に渡り、地上の人に付いています。

目的はただ1つ、地上の人を霊的に成長させるためです。

守護霊が付いていなかったり、見放したり、途中で代わったりすることはありません。

同じ類魂の上位のものが付いていると考えられますが、その理由は、自分より格段に高い霊が付いたとしても、両者の波長が違うため、地上の人への思念の伝達が難しくなり、上手く導くことが出来ないからです。




守護霊の存在など、全く感じないと言う人がいます。

地上の人は五感を使って生きているので、それは当然かもしれません。

また、霊界の人は地上の人の意思決定を尊重しなければならず、無用に干渉してはいけないために、はっきりと感じられないようになっていると考えられます。

送られて来た思念は、霊的な感覚を通して伝わり、インスピレーションとなります。

それが精神によって変換されて、言葉やイメージとして認識されます。

残念ながら、それを単なる思い付きとして片付けてしまうことも多いでしょう。

そして、自分の思考と判別が付きにくいのも事実です。

両者の違いですが、思考は大脳を介しているので答えに時間がかかるのに対して、インスピレーションは一瞬です。

考えて行動したと思っていても、実はインスピレーションに促されて、無意識の内に行動していることは想像以上に多いと思います。

地上の人がどう思おうと、意図した通り行動してもらえれば、守護霊はそれで良いようです。




自分と守護霊が同じ類魂ならば、霊的に似た者同士のはずです。

生じる思念も、似通っていると考えられます。

地上の人が、どの様な行動を取るのか予測が付くので、先回りをして、望ましい方向に導いていることもあるでしょう。

望ましくない方向に行きそうになった時には、思い止まるような思念を、しきりに送っているでしょう。

何となくこうしなければならない、あるいはしてはいけないと思った時、それは守護霊から届いた思念に促されている可能性があります。

また、あえて思念を送らずに、思うがままにさせて、摂理に反する行動に対する責任を取らせて、学ばさせている時もあると思います。

そして、地上の人の思い込みが強かったり、自意識が過剰となっている時は、守護霊から送られる思念が入り込む余地はなくなってしまうと思います。




人は、困難や障害が立ちはだかると、どうしても避けて通りたくなります。

そんな時、守護霊は成長の好機と捉えています。

あえて、そちらに進んで行くように誘導し、望み通りに一歩を踏み出したら、今度は乗り越えるための思念を送り始めます。

その思念は、前に進んで行こうとする力、やり遂げようとする力となります。

敢えて困難な方向に進んで行こうとするのは、自分の意思だけではなく、霊界の存在からの後押しもあると考えられます。




ところで、「自分を信じる」とは、自分の何を信じるのでしょう。

信じようとしているのは、本当の自分である「魂」と考えられます。

表に現れている「自我」が、奥深くにいる本当の自分である「魂」を信じようとしていると考えています。

自分を信じようとすると、魂が呼び覚まされ霊的な意識が高まり、霊界で見守っている存在とのつながりが強化されると思います。

その結果、援助を受けやすくなり、予期していた以上の力が発揮されることもあります。




守護霊が働きかけやすいのは、地上の人の自我(頭)の働きが弱まっている時です。

先のことを心配したり、あれこれ考えたりすると、自我の働きは強くなってしまいます。

無心になっている時ほど、思念の伝達は上手く行くと考えられ、良いインスピレーションに恵まれると思います。

自我の働きが弱まり、霊的な感性が高くなると、霊的次元の影響を受けやすくなりますが、それが高じるとトランスと言われる状態になる可能性があります。




目には視えませんが、守護霊は確実にいます。

自分をどう信じたら良いのか判らないと思った時、守護霊を信じた方が良いかもしれません。

そうすれば、援助を受けやすくなり、物事が成就されやすくなります。

ただ、恩恵を求める前に、目に見えない存在を心から信じなければいけません。

しっかりと守り導かれていると、全幅の信頼を置いた上で、意念を向けることにより、両者のつながりは強くなります。




親、兄弟よりも親密な関係なのが守護霊です。

この世の人生を、共に分かち合っている存在です。

自分を信じるのと、守護霊を信じるのは、大差はありません。

なぜなら、経験や想いを共有している、霊界にいる自分自身とも言える存在だからです。




地上の人が、苦難を乗り越えようとしている時に、励ましや生きる勇気になる思念を送り続けているのは、成長して行く姿を見るのが守護霊にとって大きな悦びとなるからです。

自らの役目を果たし、引いては自分自身や類魂全体の成長も促されるからです。




地上の人の辿るべき人生は、生まれる前に大体は決まっています。

その記憶は、地上にいる時は意識に上って来ないので、シナリオ通りに生きられるように守護霊は付いています。

生まれて来た目的を遂行するために、適切な思念を送り続けています。

その内容が具体的に判らないとしても、地上の人に大きな影響を及ぼしているのは事実であり、認識しておかなければなりません。




もし、守護霊が付いていなかったらどうなるのでしょうか?

(地上の)自我の暴走に歯止めがかからずに、多くの過ちを犯してしまうかもしれません。

苦難に遭遇した時、直ぐに諦めてしてしまうかもしれません

誘惑に負けて、予定されていた人生から大きく逸れてしまい、繰り返し地上に生まれて来なければならなくなるかもしれません。

きっと、後悔の多い人生になってしまうでしょう。




相談できる人や、信じられる人がいなくても、心配ありません。

地上の誰よりも、心を知り尽くし、想ってくれている守護霊が付いています。



人生の荒波は、1人で乗り越えているのではありません。

常に、守護霊と一緒です。



自分を信じるのが難しいと感じたら、迷わず守護霊を信じて下さい。

守護霊を心から信じれば、自分との距離はなくなり一体となります。

心の中に思い浮かぶものに素直に従えば、魂が望んでいる通りに生きて行けます。