2016年6月25日土曜日

若者の自殺について



人は何の目的もなく、生まれて来たわけではありません。

本当の自分である「魂」を成長させるためです。

魂を成長させるために、この世でどんな出来事が自分に起こるのかを、ちゃんと承知した上で生まれて来ています。

人生で待ち構えていた数々の出来事を、どうにか乗り越えて行き、予定通りに魂の成長が得られた時に、自然法則に従ってこの世を去る時が訪れるようになっています。

しかし、現実にはとても多くの人が、自らの意思により予定を早めて、向こうの世界に移ってしまっています。



この世を生きるのがつらくて、死んでしまえば楽になると信じ、自らの(肉体の)命を絶ちますが、現実は、ブラックアウトの後、意識は存続していることに気付きます。

戻った意識は死ぬ直前の状態であり、苦しい上に、死ぬか生きるかと言う、極めて深刻な葛藤を抱えたままです。

あまりの苦しさ、激しい情動により、錯乱状態に陥ってしまうようです。



苦しいのは、まだ死んでいないためと思い込んでいるため、早く死んで楽になろうと強く思います。

駅のホームに、同じ様に日々の苦しみから逃れたいと思っている人がいると、苦しさから逃れようとする自殺した魂は、引き寄せられてしまうかもしれません。

お互いの魂が同調すると、思いが増幅されて、突然ホームから飛び込みたくなる衝動が生まれてしまうかもしれません。

錯乱した自殺者の魂は、苦しさのあまりに新たな悲劇を生んでしまい、罪をさらに大きくしてしまっている可能性があります。



錯乱状態をどうにか抜け出し、自分の置かれている立場を理解すると、とんでもないことをしてしまったと、激しい後悔の念にかられることになります。

今まで、自由に動かせていた肉体は、もうないのです。

いくら元に戻ろうと思っても、もう遅いのです。

自分のせいで、他の人を巻き込んで死なせてしまったのあれば、なおさらです。



向こうの世界で、その行為が過ちだったと知り、大きな後悔をすると共に、周りと隔絶されて暗闇に閉じ込められると言われています。

その状態を抜け出すためには、過ちを償わなければいけません。

過ちを償うために、もう1度、この世に生まれるのを許されますが、死の誘惑を伴うような、さらにつらい試練が待ち受けていると予想されます。

今度は、何があっても生き抜かなければならないと固く決意して、魂は母体に宿ります。

つまり、自殺は苦しみから逃れられないどころか、さらに過酷な苦しみを経験することになってしまうと思われます。



しかし、全ての自殺者が闇に閉じ込められ、悶え苦しむ訳ではありません。

自殺した時の動機が問われます。



逃げたり、臆病なために自殺したのであれば、それは神の意志に反した行いのために、相応の償いが必要となってくるでしょう。

映画のワンシーンにあるかもしれませんが、ロッククライミングをしていて絶壁で宙づりとなり、仲間を助けるために、自分の命綱を外して死んでしまったとしたら、それは自らの(肉体的)命を絶つ行為には違いありませんが、動機は人を助けるためであり、償いが必要になるわけがありません。



では、病気で自殺してしまった人はどうでしょうか?



自殺の原因の第1位は、うつ病です。

うつ病について、少し書いていきます。

抑うつ状態がある程度以上、重症である時に、うつ病と診断されるようです。

抑うつ気分(状態)とは、「憂うつである」、「気分が落ち込んでいる」などの症状がある時を言うそうです。

とても嫌な出来事が起きたり、不安や恐怖を抱えていたり、日々の生活に疲弊してしまうと、誰でも、抑うつ状態になる可能性があります。

そんな状況がしばらく続いたなら、抑うつ状態はひどくなってしまうでしょう。

感情の高ぶりが治まらずに、眠れなくなってしまうことも、当然あると思います。

テレビCMで、2週間不眠が続くと、うつ病を疑った方が良いとキャンペーンしていましたが、本当にそうなのでしょうか?

病気と言うより、生理的反応が過剰に起きているだけではないでしょうか?

多くの人は、ゆっくりと休養すれば、良くなってくるのではないでしょうか。



精神医学で、うつ病の原因は突き止められていません。

遺伝的、環境的、肉体的要因が重なって発症すると言われていますが、それらは物質的次元の要因です。

精神は物質を超えた存在であるのは明らかであり、原因は別次元にあると考えられます。

私は、うつ病の根本原因は、精神的次元、霊的次元にあると考えています。

精神的次元の原因として、心のエネルギーの絶対的な不足があり、霊的次元の原因として、表現できなかった想い(恐怖、不安、怒りなど)が内に存在していると考えています。



心のエネルギーは、どこから来るのでしょうか?

脳は肉体の一部なので、活動するエネルギーは物質的なものから供給されます。

しかし、心は肉体(脳)とは別次元の存在であり、医学では認められていない、魂(霊)から供給されていると考えられます。

魂に供給されているエネルギーは、霊的なエネルギーであり、生命エネルギーと言い換えて差し支えないと思います。

生命エネルギーが変換されて、心を動かしているエネルギーとなっていると考えられます。



生命エネルギーは、心の状態により、供給される量が変化すると考えられます。

喜びや、愛する想いを抱けば、より多くのエネルギーが供給されます。

そのため、とてもうれしいことがあれば、心は躍動します。

恐怖や不安、悲しみなどがあれば、供給される量は逆に減ってしまいます。

怖いことがあれば、心は縮み上がってしまいます。



心のエネルギーは、2種類の系統で消費されると考えています。

一つは感情を生み出すためであり、もう1つは、脳に事務的な指令を与えるためです。

魂で生まれた想いが、心(精神)で感情となりますが、霊的なエネルギーが精神的エネルギーに変換される現象と言って良いと思います。

そして、感情は脳に指令を与えて、肉体により言葉や行動による指令を出しますが、精神的エネルギーが肉体的エネルギーに変換される現象と言って良いと思います。

つまり、魂で受け取った霊的エネルギーが、精神的エネルギーに変わり、さらに肉体的エネルギーとなり、言葉や行動によって表現されて完結していると考えられます。



心は脳が作り出しているのではありません。

うつ状態とは、内に恐怖や不安、怒りや悲しみなどの感情が溜まっているため、生命エネルギーの供給が減ってしまっている上に、同様の感情を生み出すために消費されてしまい、脳に事務的な命令を与えるためのエネルギーが枯渇しかけている状態を指すと思います。



表現できずに溜まっている強い想いがあるのならば、新たに生み出される感情も同化されてしまいます。

強い恐怖が溜まっていると、何事に対しても恐怖を感じてしまいやすくなります。

強い怒りが溜まっていると、何事に対しても怒りやすくなってしまいます。

そして、新たな感情が生まれるためにエネルギーが消費されるため、心が脳に指令を与えるエネルギーが、さらに少なくなって行きます。

悪循環が起こり、心は脳に指令を与えられなくなって行きます。

脳に指令が行かなくなれば、頭は働かなくなり、肉体に出す指令も少なくなり、結果的に肉体は働かなくなります。



現代医学では、うつ病の治療の主流は、薬物によるものです。

薬物は、脳内神経伝達物質をコントロールして、脳の働きを高めようとします。

そのため、事務的に多少動けるようになりますが、心へのエネルギーの供給は、内にある強い想いがあると減ってしまうので、感情は生み出されにくくい状態のままです。

事務的には動けるのですが、感情を伴った行動は出来ません。

薬を止めれば、元の状態に戻って動けなくなりますので、依存状態となります。

感情がないまま、薬により身体は動かされ続けます。



うつ病の患者さんは、好ましくない感情に苦しんでいると言われています。

その感情は、過去の出来事により生まれていた想いと考えられます。

何かの理由があって、想いが肉体で表現できずに、内に溜まっていたと考えられます。

しかし、溜まっている想いがあっても、精神活動を活発に続けている内は、その陰に隠れて、表に出ません。

心のエネルギーが不足して精神活動が弱まってくると、表在化してきます。

うつ病の患者さんは、今生まれている感情に苦しんでいるのではなく、過去に生まれていた、言葉に出来ないような想いに、苦しんでいると考えられます。



抗うつ剤は、脳の働きを活発にさせるので、表在化した過去に生じた想いが再び隠され、苦しみが少し和らいだ気がします。

けれども、心のエネルギーは相変わらず不足しているので、感情が生まれないまま、脳の働きだけ活発になっています。

それは目的もなく走り続けて、息切れしているのに、また走らされているような感覚なのかもしれません。

ゆっくりと休まなければいけない状態なのに、薬により脳が働き続けます。

薬を飲む前とは違った、生き苦しさを感じているのかもしれません。

そのアンバランスな状態が高じてくると、衝動的に破壊願望が生まれてしまうのかもしれません。



以前、「自殺者の9割以上が何らかの精神障害に罹患した状態にありながら、精神科治療につながっているのは少数である」という知見が出されたそうです。

そのため、現在、自殺を未然に防ぐために、精神科の受診が勧められています。

ところが、東京都福祉保健局の調査によると、自殺者の54%が死亡2週間前に、精神科・心療内科に受診していたそうです。

さらに、2009年度「自殺白書」では精神科を受診して自殺した人の6割が20~30代の比較的若年者と報告しています。

驚くことに、20~30代の精神科を受診していた自殺者は、受診していなかった人たちに比べて2倍になっています。



若者に、一体何が起こっているのでしょうか?



興味深い資料があったので、引用させてもらいました。

この表は、1999年から2012年までの間で、自殺者が増えた年齢を黄色で塗りつぶしています。
19歳から27歳までが顕著に増加しています。



それをグラフ化したのが下図です。
20代だけが、特異的に自殺者が増加しているのが、良く判ります。

このグラフ作成した、教育社会学者である舞田敏彦さんは、若者の将来展望不良、就活の失敗などを理由に挙げていますが、果たしてそうなのでしょうか?



2000年にパキシル®(SSRI)という薬が販売されました。

脳内神経伝達物質であるセロトニンの量が減るとうつ病になるとも言われていますが、SSRIはセロトニンを増やす作用のある向精神薬です。

製薬会社は軽症のうつ病は「心の風邪」というキャッチコピーで、精神科の受診を促すCMを、マスメディアを通して、大々的に流しました。

その結果、2000年から2008年までの間で、パキシル®の売り上げは10倍になったそうです。



若い人の中に、気分がすぐれなかったり、眠れない日々が続いてしまうと、もしかしたら自分はうつ病かもしれないと思い、精神科や心療内科を受診し、パキシル®などの向精神薬を処方された人も少なくないと考えられます。

薬を飲めば治ると信じて、飲み続けている人も、きっとたくさんいると思います。

しかし、パキシル®という薬には、重大な副作用があると書かれています。

以下の文章は、パキシル®の日本の説明書きからの抜粋です。

『米国食品医薬品局(FDA)がSSRI、SNRI に加えて他の抗うつ剤及び成人にも対象を広げて検討を行った結果、24 歳以下の患者では抗うつ剤を投与された患者で、プラセボを投与された患者と比較して、自殺念慮や自殺企図等の自殺関連事象の発現リスクが高くなることが示唆されました。』

米国では、パキシルを18歳未満のうつ病患者に対して投与した場合に、自殺行動の危険性を増すという事実が製造元によって隠されていたのが発覚し、ニューヨーク州司法長官に訴えられ、巨額の賠償金の支払い命令が出たそうです。



日本でも平成17年度第1回薬事・食品衛生審議会、医薬品等安全対策部会安全対策調査会(厚労省 )において、タミフル(抗ウィルス薬)とパキシル(SSRI)について死亡(自殺例)を報告しています。

タミフルの異常行動については、マスコミで取り上げられたため、多くの人の知るところとなりました。

しかし、パキシル®については、タミフルほど一般の人に認知されていないのも事実です。

説明書きには、18歳未満の人には適応を慎重に検討することと書かれているので、18歳以上の若年者に対して、医師は抵抗もなく処方している可能性は高いと考えられます。



しかし、パキシル®の説明書きには、実はこうも書かれているのです。

『海外で実施された、本剤の成人を対象としたプラセボ対照比較臨床試験を検討した結果、統計学的に有意な差はないものの、プラセボと比較して本剤を投与された若年成人(本解析では予め18~24 歳と定義)で自殺行動の発現頻度が高いことが示されました
また、大うつ病性障害の成人では、プラセボと比較して本剤を投与された患者で自殺行動の発現頻度が統計学的に有意に高いとの結果が得られ、この多くは18~30 歳の患者で発現したものでした。』

これだけのエビデンスがあっても、若年成人に対して、禁忌でも、慎重投与でもなく、『使用上の注意』として扱われています。

前出のグラフで、特異的に20代に自殺者が増加しているのは、精神科でパキシル®などのSSRI製剤が安易に処方され、タミフルと同様に異常行動が出現したためと考えるのは、無理があるのでしょうか。



現代医学は科学に根差しているため、目に見えない心や精神について理解はきわめて乏しいと考えられます。

物質的な薬で、心の病が治るとは、とても思えません。

それどころか、若者を中心に、思わぬ弊害を生んでいる可能性があります。



自殺者の魂は、暗闇に閉じ込められて悶え苦しむと書きましたが、うつ病、特に薬の副作用で突発的に亡くなった人は、その限りではないと、私は思います。

なぜなら、自由意志で命を絶ったのではなく、医者から処方された薬物により、異常行動を起こしてしまった結果、魂が肉体からの分離を余儀なくされてしまったと考えられるからです。

そんな人たちは、罪を背負うことはないと思われます。

調整期間は必要ですが、次第に穏やかさを取り戻していくと思われます。



心残りは、この世に残してきた人に、何も伝えられずに、逝ってしまったことです。

そして、深く悲しませてしまったことです。

そんな理由から、地上に残してきた人に、メッセージを送ることが許されているのかもしれません。




















2016年6月12日日曜日

自分を救うのは自分



何気なくテレビを見ていたら、一人の車いすに乗った男性が映っていました。

その男性は、ある進行性の難病を患っていました。

病名はALS(筋萎縮性側索硬化症)と言い、全身の筋力が徐々に弱まっていく原因不明の病気です。

彼は藤田正裕さんと言い、将来を大いに期待される広告プランナーですが、30歳を目前にして、ALSと診断され、余命3年と告げられました。

命の期限が切られてしまうのは、耐え難いことです。

それ以上に、この病気の恐ろしいところは、動かなくなっていく身体とは裏腹に、意識や五感は最後まで残り、多大な精神的ストレスを患者に強いることです。

こんなに容赦のない非情な病気は、他には見当たりません。



現在、彼は「END ALS」と言う組織を立ち上げて、日本だけでなく世界中にALSの認知・関心を高めるとともに、厚生労働省や医療研究機関などに対し、迅速な治療法の確立やALS患者の生活向上を働きかけています。

彼は、ホームページの中でこう訴えかけています。

「私は藤田ヒロ ALS患者。
ALSは 2年かけて、何があっても戦って生きる勇気をくれた。
ALSは 人や社会の 理由なきやさしさ 疑うほどの 残酷さを 同時に見せてくれた。
ALSに 自分の 隠されていた 強さ 同時に 自分の器の 小ささを見せられた。
ALSは オレから全てを 1つ1つ ゆっくりと奪った。
あれ? 腕が何故か上がんない...ん?ヤバイ、痒いのにかけないところが増えてきた...
私にも 「動くこと」は 昔あたり前だった...
ALSは 3年かけて ゆっくりと体の動きを すべて奪った
ALSのお蔭で 本当の意味で 生きることや 仲間の 大切さを知った
ALSに 声を取り上げられる前に 何を口にする?感謝? 憎しみ?
ALSに逆らって 延命するのは 力強い? それとも迷惑?
どちらにしても 私はまだ生きている。
I still alive
早く解放して下さい。」



広告マンとして、誰もが認める才能に恵まれ、人生を謳歌していた時に襲ったALSという病魔。

治ることはおろか、進行さえ止められず、その先に待ち受けている考えたくもない事態。

自らの運命を恨み、不条理を嘆き、そして絶望の淵に突き落とされるのは、避けられないと思います。

夢と希望に溢れた生活から、徐々に身体の自由を奪われ、呼吸さえ止まってしまう恐怖に襲われて、平静でいられるような人は、果たしてこの世にいるのでしょうか?

恐怖から逃れたくて、死にたいと思っても、何ら不思議ではありません。



この文章の中で、ALSは2年かけて生きる勇気を与えてくれたと書いてあります。

その2年間は、恐らく、この病気になった人しか判らない、言葉では言い尽くせない精神的な苦しみがあったと考えられます。

もし、私が同じ年代でALSになったとしたらどうでしょう?

おそらく、こう心の中で大声で叫ぶでしょう。
「うそだ、信じられない」

たとえ病気を受け入れたとしても、こう叫んでしまうでしょう。
「何で自分が、これからと言う時に」

そして
「ふざけるな!何で死ななければいけないんだ」と憤慨し、

最後には、
「怖い。誰か助けて」と怯えてしまうかもしれません。

医者は助ける手段を持ち合わせていません。

周囲の人も、ただ見守るだけです。

頭脳をいくら駆使しても、解決策はどこにも見つかりません。

絶体絶命の窮地に、追い込まれてしまいます。

頼れるものは何も存在せず、この状況から脱出する手立てはありません。

万事休すとしか思えません。



ただ、精神的にもがき苦しんで生きるだけなのでしょうか?

そんなはずはありません。

藤田さんは、生きる勇気をもらったと言っていました。

もがき苦しんだ後に、何かがあったからこそ、そう言えたのだと思います。



心境の変化は、魂の存在を抜きにしては、理解できないと思います。



普段の生活をしている時に、自分だと意識しているものは、実は真の自分ではないと考えられます。

この世を生きている人は、今までの人生で無意識のうちに作り上げてきた「自分」を持っています。

自我やエゴと言うのかもしれませんが、「この世を生きる自分」と私は表現しています。

多くの人は、この世を生きる自分を前面に出して生きています。

この世を生きる自分は、より良く生きるため、失敗しないために、常に思考しています。

また、周りに影響されたり、人からの評価を気にしたり、地位や財産を欲したりしています。

嘘をついたり、ごまかしたり、本音を隠している自分です。

この世だけの、考え方や価値観に捉われて、あれこれと考えている自分です。



もし、深刻な出来事が起きたなら、事態は一変します。

さまざまな思いや考えが錯綜して、心が休まる暇はありません。

解決策を見出せなければ、恐怖、不安、怒り、悲嘆などの感情が生み出され続けます。

生み出された感情により、自分が苦しめられてしまいます。

自分を苦しめているものは、出来事そのものよりも、自分の感情と言えるのかもしれません。

自分が大きい人ほど、生み出される感情は大きくなるので、苦しみも大きくなってしまいます。

恐怖や不安そして悲嘆や怒りに押しつぶされてしまいそうな人は、この世を生きる自分が、とても大きくなっている人と考えられます。

今までの自分を、捨て去らないと、苦しくて生きていけません。

自らが生み出した感情により、苦痛が限界に達した時に、その人の中で何かが変わるようです。

今まで自分は自壊して行き、それまで隠れていた、本当の自分が姿を現します。



どうすることも出来なくなって、今までの自分を捨て去った時に、本当の自分は目覚めます。

頭でいくら考えても解決できず、感情に押しつぶされそうになり、(この世を生きる)自分が白旗を挙げた時に、代わって本当の自分が表舞台に登場し、主導権を握ります。

本当の自分とは、魂です。

長い眠りから、魂がようやく目覚める時が来たのです。



 本当の自分(魂)は頭で思考するのではなく、この世的な考えに捉われず、高い次元から物事を洞察し、直感を生み出しています。

思考では解決できず、直観に従って生きることが必要になったのです。

痛み、苦しみ、悲しみが触媒となり、本当の自分(魂)が目覚め、困難に立ち向かって行く体制が整います。

進むべき方向が判らない時には、考えるのを止めて、魂に身を委ねればいいだけです。

心を鎮め、魂の声に耳を傾けます。

そこからは、たえず直観が生まれて、導いています。

しかし、現実に捉われてしまい、身を委ねるのが難しいのも事実です。

直観が生まれても、頭で考えたことが優先されてしまいます。

たとえば、学校で、同級生がいじめられていたとします。

本当の自分には良心が内在されているので、何とかして助けてやりたいと直観として思います。

しかし、頭で考えてしまうと後のことを予測し、自分に危害が加わることを恐れて、目をつむってしまいます。

自分には、本当の自分(魂)と、頭で考えようとする(この世を生きる)自分がいて、そのせめぎ合いの中で生きています。

本当の自分の想いを表現できなくて、後悔してしまうのは、誰でも経験することではないでしょうか。



藤田さんは、運命を恨んだり、現実を嘆いたり、恐怖に苛まれて、苦しくて生きて行けなくなったのかもしれません。

苦しみ抜いた末に、今までの自分を手放して、魂が目覚めたのかもしれません。

彼の、澄んだ瞳からそれが窺えます。



乗り越えられない困難はないと、霊的真理にはあります。

頭で考えると、ALSを治す手段はなく、5年以内に、自力では生きられなくなる現実を、どうやって乗り越えて行くんだと思ってしまいます。

この世を生きる目的は、肉体を維持することではなく、魂を向上させることです。

病気を治すのが乗り越えることではなく、困難から生まれる苦しみを乗り越えて行くことを言っていると思います。



苦しみを乗り越えるためには、本当の自分に目覚め、真実を見つけなければなりません。

真実は、本に書いてあることでも、人から聞くのでもありません。

真実の所在は魂にあり、魂の中に見出して、窮地から救ってくれると思います。

困難が大きい人ほど、見付け出す真実に価値があり、一度手にいれたら永遠の財産となります。

そして、この世を生きる、絶対的指針となります。

聖書には「求めよ、さらば与えられん」と書いてあります。

苦しみの中にあって、生きていくための真実を求めていれば、魂から回答が返って来ると思います。



藤田さんは、「勇気」という真実を見出して、何が何でも生きることを選択したと思います。

生きる苦しみから救い出してくれるのは、自分(魂)です。

自分(魂)には、神がいるからです。

救ってくれるのは、他者ではなく、自分の中にいる神です。



ALSのお蔭で 本当の意味で 生きることや 仲間の大切さを知ったと、藤田さんは言っていました。

魂に目覚めると、一番大切なものが見えてきます。

人は支えられて生きている、そして人を支えるのが生きる目的であることを、藤田さんにははっきりと見えていると思います。

辣腕の広告プランナーとして、世界中のALSに苦しむ人たちの切実な願いを、残されたわずかな身体的機能で、精一杯、表現しています。



ハッピィーデー・プロジェクトというブログに、藤田さんからの応援メッセージを見つけました。

「しあわせとは、感じるもの。
私は藤田正裕。三十四歳。
意識や感覚は正常なまま、ゆっくり全身の運動神経が麻痺してゆく難病、ALS患者です。
ちなみに平均寿命は三~五年。
発病し四年半、今や、動かせるのは顔の筋肉と左手の人差し指だけ。口から食べることも
飲むこともできず、人工呼吸器がなければ息を することもできません。
でも、気づきが多い今、今までの人生で一番しあわせについて学んでいます。
今まで「当たり前」に「普通」にしてきたことが どれだけしあわせなことだったのか。
しあわせな人ほど、自分がどれくらいしあわせ なのかに気づくことが難しいのです。
本当のしあわせは、何気ない日常にこそあり ます。家族がいる。友達がいる。学べる。働ける。
食べられる。飲める。話せる。息が吸える。
なにより、生きていられる。
しあわせとは何か。
それは、選択肢です。
すぐそばにあるしあわせを感じるか、感じないか。
すべての人が平等に与えられている、
選択肢の一つです。 」



深刻な出来事に出会うと、人は変わります。

今までの自分では、生きて行けなくなるからです。

苦しくて仕方がなくなると、人は今までの自分を脱ぎ捨てて、裸の自分、本当の自分(魂)になります。

本当の自分になると、大切なものが見えてきます。

目に見えない魂が、目に見えない大切なものを見つけます。

大切なものを見つけながら、成長していくのが、生まれてきた目的です。

そのために、この世では深刻な出来事に、どうしても出会うようになっています。

もし、大切なものを見つけているのなら、その出来事をすでに乗り越えています。

見つけたものにより、自分が救われます。