2014年3月31日月曜日

ガンという病気について思うこと



多くの人に共感してもらえるかどうかわかりませんが、今までのまとめとして書いていきます。病気で苦しむ人にとって失礼になるかもしれませんが、良くなってもらいたい気持ちからですので、どうかご容赦下さい。

すべての病気は、それぞれに原因があって生じます。偶然、病気になることはありません。ガンという病気も厳然とした原因があり、肉体上の病変はその結果を見ているだけです。ガンという病気は、かかりやすさを決める遺伝的要因や、発ガン物質や放射線、食事や生活習慣などの環境的要因が深くかかわっているとされています。しかし、膨大な医学的研究にもかかわらず、はっきりとした原因は、いまだ分かっていません。

人は肉体と精神により成り立っていると、多くの人は考えていますが、肉体と精神の上位にあり、生命そのものである魂(霊)の存在を認める人は、まだわずかです。見えるものではないですし、普段は意識することもありません。

しかし、よく考えてみて下さい。愛を感じるのはどこでしょうか?美を感じるのはどこでしょうか?困っている人を助けるようとする気持ちは、どこからくるのでしょうか?嘘をついてはいけない、悪いことをしてはいけないという良心はどこからくるのでしょうか?頭脳を超えた魂が存在して、愛や美や良心を内在していると考える方が自然ではないでしょうか。魂は、精神(心)のさらに奥にある、本当の自分であり、偽らざる自分です。肉体ではなく、魂こそが真の自分であり、肉体は魂(の想い)を表現するためにあります。したがって魂がなければ、肉体の存在理由はありません。

肉体上の変化は、人の目に見えるためすぐ気付きます。しかし、本当の自分である魂の変化は、自覚さえもされていないため、気付くことはまずありません。肉体は魂を表現するためにあるので、魂の変化が肉体の病気として表現されることがあります。従って、ガンは魂の変化が、誰にでも見える肉体の変化として表されたものと考えられます。魂が平和、調和、協調を欠いてしまったことが原因で、肉体上に平和、調和、協調を欠いたガンが結果として表れます。魂の変化が肉体にガンとして表れ、苦痛を通して、神の摂理に反した想いや行いを償い、正して、魂を向上させる方向に軌道修正させるためにあります。大切なことに気付き、生き方を変えるためです。運が悪くガンになったのではなく、何らかの原因があってガンになったのであり、取り除いて治るのではなく、摂理に適った考え方や生き方に変わることで、治ると考えられます。

もしそうであれば、もっと多くの人のガンは治ってもいいはずです。なぜ、そうならないのか?ガンになると誰しも恐怖に怯えてしまいます。世の中では、依然として、死にいたる病という認識が根強く残っていますので、当然のことであり、一刻も早く、ガンを身体から取り除きたいと考えます。ほとんどの人は、医者に治療を委ね、医療で治すものと考えています。第1選択として手術が選択され、ガン組織を取り除き、病巣が消失すれば治癒ということになります。再発すれば抗ガン剤や放射線で縮小させようとします。

多くの人に治癒が得られないのは、肉体上に表れたガンという結果を消滅させることにこだわりすぎて、原因の除去ができていないためと考えています。もし、ガンが肉体だけの病気であれば、医学の進歩に伴い、ガンで亡くなる人はもっと減少してもいいはずです。しかし、現実には日本において35万人以上の人がガンで亡くなっています。医学は物理(肉体)的次元を対象としているため、リスク要因しか究明できておらず、根本原因は未だ不明のままです。他にも原因不明の病気は数多くありますが、もしかしたら現代の医学では認められていない、精神的、霊的な次元に原因があると考えることは愚かでしょうか。目に見えないところ、認知されていない魂に原因があり、その結果として肉体に病変が表れていると考えることに、無理があるのでしょうか。

人は悲しければ、涙を流します。おかしければ、声に出して笑います。また想いや考えを言葉にして表現します。生きていることは、想いや考えを、言葉や肉体で表現することと言ってもいいのかもしれません。ところが、つらいことがあっても、その想いを言葉や肉体で表現できずにいることがあります。また、つらい出来事自体を封印してしまうこともあり、知らないうちに表現されなかった想いが少しずつ蓄積していくことになります。その想いが、摂理に反した怒りや憎しみ、恨みや嫉妬、あるいは強い欲であれば、魂のありさまが変わってしまうことになります。想いが蓄積していくと、うっ積した想いのしこりとなり、それが肉体上にガンとして表れるかもしれません。肉体のガンを手術で取り除いても、想いのしこりが在リ続ければ、肉体に反映され、いずれ表れてきます。従って、ガンの根本的な治癒には、魂が癒されなければいけないと考えます。魂が癒されるためには、つらい出来事と正面から向かい合い、受け入れて、許し、表現できずにいた、うっ積した想いを手放さなければいけません。

また、摂理に反した想いを抱き、生活を続けていると、生きている目的である、魂の向上が図れなくなってしまいます。早く誤りに気付き、考えや生活を改めなければいけません。しかし、人はそう簡単に変われるわけではありません。そもそも、正しいと信じて、生きているのですから、変える必要があるなどと思っていません。どのようにしても変えられないところまで行き着くと、神の摂理である因果律が作動し、その結果、病気になります。ガンは否が応でも、休息を与え、自分を見つめさせる時をつくります。間違った生き方をしていたのか、追い求めていたものに価値はあったのか、そして本当に大切なものは何か、突きつけられた現実の前に、考えざるを得なくなります。そして、生命よりも大切なものはないことに気付きます。生命とは魂ですから、魂に気付き、本当の自分に気付くことになります。魂に目覚めれば、神の摂理である「愛」に気付くことになります。自分ひとりで生きてきたのではなく、多くの人に支えられて生きてきたこと、お互いがお互いのために存在すること、すべてが愛という力によるものです。ガンは肉体の死に至らせる病として存在するのではなく、生命の危機にさらされることにより、生命と正面から向き合い、本当に大切なことに気付かせるためにあると思います。

病気の治癒は、病変を消滅させることではありません。考え方や生き方が健全になることであり、魂が主導権を握り、摂理に適った考え方、生き方に変わることです。その結果として病変が消失すると思われます。

私は知りたいことがあります。それは、医学的治療に頼らず、ガンが治癒した人たちについてです。本当に必要な研究は、新たな抗ガン剤の開発ではなく、例外的に扱われている、ガンが治癒した人たちを対象にした研究です。なぜ自然治癒が起きたのか?その人たちに共通するものは何か?ガンになったことをきっかけに、考え方や生き方が変わったのか?です。きっと興味深い結果が得られるはずです。知る限りにおいては、偶然治癒したのではなく、今までの考え方や生き方とは決別して、治すという強い意志を持ち続け、その結果治癒している人が多いと思われます。医者に治してもらおうとする人でなく、自助努力で治そうとする人だと考えられます。医者は病気を治す人ではありません。プロとして治すのを手伝う人であり、物理的に修復を行なう人です。治すのはあくまで患者であり、治しているのは自然治癒力です。医学にはどうしても限界が有ります。その現実を忘れて、手術や薬で治そうとするのであれば、患者は大きな損失を被ることになります。あらゆる医学的データは病気の本質を表すものではありません。時として無用な恐怖心を生み、自然治癒力が働くのを妨げる方向に向かわせます。手術は病巣を除去することで、不安や恐怖心が少なくなり、自然治癒力が回復するのであれば有用だと考えます。しかし、神が与えた自然治癒力を損なわせるような治療、病気と正面から向かい合い、自己と向かい合う内省の時間を奪うような治療には賛同できません。なぜなら、ガンは大切なことに気付き、魂が目覚めるためにあり、その先に新しい「生」が待っていると思うからです。

ガンは肉体に現れた病巣との闘いではなく、不安や恐怖との闘いです。それは長く、厳しく、つらい、逃げ出したくなるような闘いかもしれません。待ち構えているかもしれない死や、ガンの進行にともなう痛みに対して、否が応でも不安や恐怖が生まれてしまいます。不安や恐怖に打ち克つためには、正しい知識も必要です。きわめて重要な知識は、死は肉体から魂が解き放たれる現象であり、死の後も生命(魂)は生き続け、意識は存続するということです。跡形もなく存在が消えてしまうのでは、決してありません。繰り返し言います。生命は魂であり、神の一部であるため、死のうにも死ねないのです。死とはどういうものなのか、経験すればはっきりと分かりますが、決して怖いものではありません。知らないから怖く思えるのであり、私の知る限りにおいては喜びです。

そして、痛みはからだの異常を知らせるシグナルであり、ガンの存在を痛みにより知らせています。ガンの活性状況を反映していて、ガンの活性が高まった時に、強く痛みを感じると考えられます。心が不安や恐怖に傾くと、ガンの活性は高まり、痛みが増強すると思われます。痛みから不安や恐怖が生まれ、それによりガンの活性が高まるため、痛みが強まり、さらに不安や恐怖が強くなり、ガンを活性化させるという、悪循環が生まれます。痛みはガンが存在しているというシグナルであるため避けられません。難しいことですが、痛みを感じても、出来るだけ心を平穏に保ち、不安や恐怖を抱かないようにした方が、賢明と思われます。ガンを活性化させると同時に、生命(治癒)力の流入を妨げてしまうからです。

不安や恐怖に立ち向かう最強の武器は、やはり愛です。支えてもらう、励まされる、涙を拭いてもらう、愚痴を聞いてもらう、つらい気持ちをぶつてもそばに居てくれる、すべてが愛あればこそです。霊的な力である愛により、不安や恐怖がどれだけ和らげられているかわかりません。周りから愛はもらえないという人がいるかもしれませんが、そうであれば、もう亡くなってしまった最愛の人に、愛念の想いを伝えて下さい。むこうから、不安や恐怖に打ち克たせる愛の想いが返ってくると思います。もし、そんな人もいないと言うのであれば、神に、「この不安や恐怖に打ち克つために、力を与えて下さい」と、祈って下さい。神の心は愛であり、つながりは永遠です。神の愛が、魂に伝わり、不安や恐怖が和らいでくるかもしれません。ガンを癒す力は愛だと思います。

こんなことを言うと叱られるかもしれませんが、怖れるのではなく、いろいろなことを気付かせて、教えてくれたガンに感謝して下さい。ガンを愛する想いを持てたならば、ガンの存在する意味はなくなると考えています。

神の愛により、魂が癒やされ、病が癒やされることを祈っています。

2014年3月23日日曜日

うつ病と心のエネルギー


私のそばにいる、まじめで、一生懸命生きている人が、うつ病になりました。早く良くなって欲しいと願うばかりです。



自分に厳しく、人にやさしかった人が、病気になり、なぜ苦しまなければならないのでしょうか。

周りを気遣いすぎたり、頑張りすぎると、うつ病になると言われますが、家族や会社のためを思い、頑張るだけ頑張った人が、ご褒美をもらうのではなく、病気になるのでは割に合いません。

どれ位、多くの人がこの病に苦しんでいるでしょうか。

悶え苦しむ心の中は、外からうかがい知ることができません。



私の知識や解釈が正しいのかわかりませんが、うつ病に苦しむ人の一助となれば幸いです。

うつ病は、つらい出来事を経験して、心に過度のストレスが加わったり、過労が続いたために、脳内伝達物質であるセロトニン、ドパミン、ノルアドレナリンの分泌が減少し、意欲低下や気分の落ち込みが亢進し、脳のエネルギーが枯渇して、日常生活に支障を来たした状態と言われています。

治療として、まず十分な休養を取り、症状改善のため薬物を服用し、必要に応じて精神療法やカウンセリングを受けます。

残念ながら、多くの精神疾患は医学的に十分な解明がされていません。

それは(研究)対象が物質次元に限定されているためであり、うつ病は、精神的、霊的次元の病であり、根本的原因の解明と治療方法の確立には、霊の存在を認めなければならないと思われます。



人が生きて、呼吸して、活動するすべての力は、神を源とした霊力です。

すべての生命は神とつながり、霊力により生かされています。

霊力は生命力と言い換えても良く、生命力には病気を癒す自然治癒力も備わっていると考えられます。

従って、霊力をふんだんに受け取ることが出来る人は活力に溢れ、病気になりにくく、反対に受け取りにくくなると元気がなくなり、病気になりやすくなると考えられます。



うつ病は、脳の機能異常ではなく、心(精神)に生命力(霊力)が十分に行き渡らなくなってしまったことが、根本原因として考えられます。

肉体を維持し、活動するためのエネルギー源は、食事から採りますが、心の活動を維持しているエネルギーの源は霊力であるため、どんなに栄養のあるものを食べても、心にエネルギーが供給されるわけではありません。

心(精神)のエネルギーは、魂が受け取った生命(霊)力が変換されたものです。

魂が受け取る生命(霊)力の量は、心(精神)の状態により大きく左右され、不安感、悲しみ、取り越し苦労、恐怖心などがあると、霊力を受け取りにくくなります。



人生には、楽しいこと、うれしいこともあれば、悲しいこと、つらいこともあります。

遭遇するさまざまな出来事は、さまざまな感情を生み出します。

情動が大きかったり、長引いたりすると、より多くの心のエネルギーが消耗されます。

うれしいことや楽しい感情は、心のエネルギーの消耗があっても、魂により多くの生命力が流れ込むため、心にエネルギーは供給され問題はありません。

しかし、悲しみや不安、怒りや嫉妬などの感情を持つと、魂に流れ込む生命力は少なくなり、心へのエネルギーの供給は少なくなってしまいます。

また、神経をすり減らすような労働が続いても、心のエネルギーが消耗されていきます。



つまり、深い悲しみや、強い不安や恐怖などの感情を持ち続けると、心のエネルギーは激しく消耗しているにもかかわらず、魂に流れ込む生命力は少なくなり、エネルギーは不足していきます。



心のエネルギーの補充に最も大切なのは、睡眠です。

睡眠は、心身を休ませるためにあると考えられますが、睡眠中は魂が肉体より離れて霊界に行き、霊界において生命力の補充をしていると考えられます。

したがって、睡眠が不足すると、十分な生命(霊)力の補充が出来ないため、心のエネルギーを枯渇させることにつながります。

ヒーリングを行うと、多くの患者さんは、リラックスして眠くなりますが、このことは心身を癒すために、心を穏やかにすること、睡眠を取ることが、いかに大切であるかを物語っていると思います。



しかし、多くの難題が重なったり、物事が思うように進まなかったりすると、焦りや不安が生まれて、頭から離れなくなります。

ひどい仕打ちを受けたり、つらいことがあったり、悲しいことがあると、怒りや恨み、悲しみや怖れの感情に、心が支配されてしまいます。

睡眠は大切だと分かっていても、そのような好ましくない感情が居座ってしまい、心は波立ち、眠りを誘う穏やかな心にはなれず、眠りに落ちることはできません。

たとえ眠れたとしても、眠りが浅くなった時に、好ましくない感情に再び支配され、眠れなくなってしまいます。

1日をリセットする睡眠が取れなければ、新しい1日は、疲れていた昨日の続きです。

心を維持しているエネルギーが、急速に枯渇しはじめてきます。



心は肉体と違い、体感的に疲労を感じることがありませんので、無理に無理を、我慢に我慢を重ねてしまい、心の疲労が限界を超えてしまいやすいと思われます。

また、心が傷ついた時にも、心を休ませ回復させる時間が必要です。

身体が傷ついた時には、痛みを感じたり、身体が動かせなかったりするため、癒えるまで身体を休ませます。

しかし、心の傷に知覚的な痛みはなく、自覚的な症状に乏しいために、心を休ませ、傷を癒やす必要があるのにもかかわらず、休ませずにいることが多く、自分ではどうすることもできなくなります。



そのため、神の摂理が働いて、強制的に心身を休養させることになります。

つまり、うつ病は、心の傷を癒すため、心の疲労を回復するために、神が与えたブレーカー装置だと考えられます。

心の(精神)活動や身体活動を、一時的に不活発な状態にさせて、心のエネルギーの消耗を抑えて、心の傷を癒し、心の疲労を回復させます。



うつ病は、つらく、苦しく、時に生きていることさえも否定しまう、耐え難い病と思われます。

しかし、すべての病気と同じく、魂を目覚めさせ、向上させるためにあります。

苦痛は、捕らわれている想いを手放し、不自然な生活から脱却させ、大切なことに気付かせるための触媒です。



大切なことは、拒絶ではなく認めることであり、恨みではなく許すことであり、争いではなく平和であり、競争ではなく協調であり、すべては愛から生まれます。

こだわらない、執着しないことも、うつ病には大切です。完璧や完全を求めるのも一種の欲であり、その欲が自分自身を苦しめることになります。

この世に生まれてきたこと自体、完全とは程遠い存在であることを、証明しています。

すべてを完璧に、完全にやり通すのは不可能であり、完全でない自分に、完全を求めてはいけません。

いい加減にするのは良くありませんが、完全を求めて頑張りすぎて病気になるということは、それが不自然な考え方であり、生き方だからです。

まわりの言動に振り回されると、一生懸命頑張りすぎてしまい、自分を追い詰めてしまいます。

それぞれに役割があり、自分なりに果たすだけで十分です。



将来、訪れるかもしれない、障害や困難、あるいは別れなどを、あれこれと考えてしまったり、過去の出来事を必要以上に意識してしまったりするのもやめましょう。

この世に生きているのは魂を向上させるためであり、従って悲しみや苦難はつきもので、避けて通れません。過去は閉じられていて、変えることはできません。

しかし、今をどう生きるかで、未来を変えることは可能です。



うつ病になり、何も出来なくなってしまい、自分を責めているのであれば、それは誤りです。

神の摂理が働き、目的があって出来なくさせているのですから。

無駄な時間ではなく、必要な時間です。焦ったり、不安に思ったりせず、ゆっくりと、動けるようになるのを待ちましょう。

つらい病状は、必ず改善してくるはずです。

なぜなら、生きる力は自分で作り出すものではなく、生命である魂が神とつながっていて、神から魂に流れ込んでくるものだからです。

神的エネルギー(生命力)により、生命は生かされています。

神とのつながりが深まれば、より多くの生命(治癒)力が流れ込み、病は癒されてきます。



今は、何をするのも、考えるのも無理であれば、何も考えず、ただただ、ゆっくりと休んでいましょう。

そうすれば、心が生命力で少しずつ満たされてくるはずです。

心が生命力で満たされてくれば、自然に、考えたり、動けるようになってきます。

神とのつながりは永遠であり、一瞬たりとも切れることはありません。神とのつながりを深めるためには、神の摂理に気付き、合わせるしかありません。



すべてのものは、意味を持って存在して、かけがえのないものです。

すべてのことは神の摂理に従って起きています。

神の摂理は愛ですから、安心していればいいのです。表面上は悪く見えても、真相は良い方向に進んでいるので、心配は全くいりません。

神からの生命力により、癒やされない病気はありません。



参考ページ; 「うつ病の人へ」




2014年3月14日金曜日

愛はすべてを乗り越えてつながる



人が死んだらどうなるのか?昔から多くの人を悩ませてきました。

作家である渡部昇一氏の「人は老いて死に、肉体は亡びても、魂は存在するのか?」という書籍にの中に、興味深い一節を見つけました。それは“パスカルの賭け”と言われるものです。パスカルは、「人は考える葦である」という名言を遺し、パスカルの定理も発見した、17世紀のフランスを代表する思想家であり、物理学者です。現代と同様に、パスカルが生きた時代においても、神を信じる人もいれば、無神論者もいたと思われます。パスカルは、神が存在するのか、それとも存在しないか、どちらか一方に賭けるとしたら、存在する方に賭けた方が賢明だと言っています。

神の存在を信じる人は、肉体の死後も生命は続き、来世があると信じます。神の存在を信じない人は、肉体の死をもって終局を迎え、無に帰すと考えます。仮に、神の存在を信じる方に賭けたとします。そして、肉体が死んだ後も生命は存続して、生き続けたとします。そうであれば、神が存在したことになり、賭けに勝ったことになります(〇)。もし、神の存在を信じる方に賭けて、死後の世界はなかったとしても、賭けには負けたことになりますが、無となってしまうため、勝敗自体が無効となります(△)。また、神の存在を信じない方に賭けて、死後の生命がなければ、賭けには勝ちましたが、無となってしまうため、同じく勝敗自体が無効となります(△)。問題なのは、神の存在を信じない方に賭けて、死後の生命があった時です。賭けは負けであり、生命はあるわけですから、負けをはっきりと意識することになります(●)。

神の存在の有無を白黒はっきりさせることはできませんが、パスカルは神の存在を信じる方に賭ければ、少なくても負けはなくなり、リスクがなく、理にかなった選択だと言っています。科学者らしい論理的な考え方に、感心しました。

パスカルに言われるまでもなく、私は魂は存在し、肉体が死んだ後も、生命は続くと思っています。何かを信じているためではなく、自分自身の経験に基づき、そう思っています。プライベートな出来事であるため、詳細は控えさせていただき、書くことにします。

その経験とは、あるご家族と私が出会い、亡くなった方からメッセージを私が受け取り、ご家族に伝えるというものでした。

そのご家族は、仕事の関係で訪ねて来られました。初対面でしたしが、少し前にご家族が亡くなられたと聞き、悲しみを癒すために、何かお役に立てるかもしれないと、その時、直感的に思いました。そして、初めてお会いした数日後の朝のことでした。6時前くらいでしょうか、意識が覚醒する直前に、「ベートーヴェンピアノソナタ」という言葉が、頭の中にはっきりと思い浮かびました。突然そんな言葉が頭に思い浮かぶはずもなく、何らかの意図を持って伝わってきたものと判断し、忘れないようにその言葉を復唱しながら、記憶しました。クラッシック音楽を聴くのは大好きですが、思い浮かんだベートーヴェンピアノソナタがどんな曲なのかは、その時はわかりませんでした。ベートーヴェンのピアノソナタは数曲あり、そのうちの1曲がご家族にとって何らかの意味を持つと、後に直感しました。あまりにも具体的で鮮明でしたので、必ず意味があるという、妙な確信があり、後日、お伝えしたところ、予想した通り、ご家族にとって忘れられない、大切な曲であることがわかりました。故人の棺の中にベートーヴェンピアノソナタのCDを一緒に入れたそうです。

ご家族にとって驚きでしたが、私にとっても驚きであり、偶然一致する確率は、限りなく低いと考えられました。たった1語でしたが、ご家族の話を聞いて、間違いなく亡くなった方からの言葉だと確信するとともに、死後にも生があることを、あらためて実感しました。それから数日後になりますが、仕事が一段落して、すべての雑事を忘れ、何も思わず、何も考えず、鎮まった心で、受身の気持ちでいる時間がありましたので、故人に向かって、「ご家族に対して何かお伝えすることはありますか?」という想いを、投げかけてみました。しばらくして、それに呼応するかのようにメッセージが伝わってきました。次から次へと言葉が頭の中に思い浮かび、それが文章となっていき、それを紙に書きとめていきました。

小説のように、きれいに整理された文章ではありませんでしたが、家族をあたたかく見守り、気遣い、励ます想いに溢れていました。自分が突然いなくなって、悲しんで沈んでいる家族の様子を見て、生きていて、そばにいて、見守っていることを、どうしても伝えたかったのだと思います。向こうの世界から、こちらの世界にメッセージを伝えることの難しさは、シルバーバーチの霊訓に書かれていますが、家族を愛する強い想いがあったからこそ、あらゆる困難を乗り越えてメッセージを伝えてきたのだと思います。

もしかしたら、このメッセージは、私の潜在意識や願望の現れではないかと、思うこともありましたが、ご家族に対して特別な感情や、願望を持っているわけではありません。そして、その前に伝わってきた言葉は、故人を象徴するものであり、確かな証拠となっていましたので、自信を持ってご家族にメッセージを、お伝えしました。人によっては、悲しみに付け込んだ、ひどい侮辱と受けとられてしまうかもしれませんが、私には伝える責任があり、どう思われてもかまわないという覚悟がありました。ご家族は、涙を流しながら聞かれていましたので、心に届いたものと思われ、ホッとしました。仲立ちをして、悲しみが癒され、永遠の別れではなく、先に再会が待っていることがわかり、安心してもらえたならば、これ以上うれしいことはありません。

死んだらどうなるのか?どう考えようとも、個人の自由であり、人が干渉することではありません。ただ、この経験に虚偽はなかったので、肉体の死の後も、魂として生きていて、目には見えなくても、愛する家族のそばにいると解釈する方が、合理的で自然だと、私は思っています。いかに疑り深い人であっても、同じ経験をしたのならば、自分の理性や感性を否定しない限り、魂の存在を認めざるを得なくなるのかもしれません。

生命は魂であり、肉体は魂の想いを表現するための媒体(道具)です。死とは表現する媒体が変わることであり、肉体を失ったとしても、想いがなくなってしまうわけではありません。こちらの想いは、向こうに行った愛する人に確実に伝わっています。しかし、向こうの世界から、こちらに想いは伝えるのは、きわめて困難になります。なぜなら、こちらの世界では、肉体(物質)の存在があまりにも大きいため、魂を意識することは、ほとんどありません。さらに、あわただしい生活を強いられ、雑念や雑音から解放されて、心が静まっている時がほとんどありません。向こうの世界から、想いを伝えようとしても、受け取る側の条件が整っていないと思われます。例えて言えば、感度が悪くなった受信機で、騒がしい部屋の中で、ラジオ放送を聴くようなものと考えられます。また、死んだ人の想いなど、伝わってくるはずがないと思ってしまえば、ラジオのスイッチを切ってしまったのと同じです。私個人の意見としては、こちらの条件さえ整えれば、(魂の)感度を良くして静寂が得られれば、どなたでも、向こうに行った愛する人の想いを受け取ることが出来ると考えています。それを妨げているのは、唯物的思考であり、偏見であり、悲しみの思いなのかもしれません。

(魂を)表現する媒体の次元は違いますが、お互いの魂は同次元ですから、魂から生じる想いは、次元を超えて認識し合えるはずです。悲しみの思いを、しばし脇に置いて、日々の喧騒から離れ、心を鎮めて、愛する想いを投げかけていれば、いつの日か向こうからの想いを受け取り、魂が共鳴して、深い悦びを感じるとともに、生きていることを実感できると考えています。

向こうに行った人の願いは、この世に残してきた愛する人が、(向こうで)元気に暮らしているという真実を知り、少しでも早く悲しみを乗り越えて、この世の人生を活き活きと、全うしてもらうことだと思います。

2014年3月6日木曜日

後悔しないために



先日、夢を見ました。

普段はあまり見ることはないのですが、飼い犬のリックが出てきて、はっきりと覚えていました。私は毎朝6時半頃、リックを連れて散歩に行きます。夢の中でもリックを連れて散歩をしていましたが、いつもとは違いリード(綱)を付けておらず、自由に散歩させていました。散歩コースである小さな河に沿って道を歩いていると、河の中で大きな犬が泳いでいました。そして前の方からは、犬を連れた人が歩いてきました。リックを跳びかからせてはいけない気持ちと、犬と一緒に河で泳いでみたらという気持ちとで、リックを持ち上げ河の中へ放り投げました。

ところが、道から水面まで2mもないはずだったのに、下を覗くと数十mの断崖でした。リックは真っ逆さまに下に落ちていき、河の縁にあるコンクリートに打ち付けられて、ピクピクと痙れんしているのが見えました。何と言うことをしてしまったんだ、私のせいでリックを死なせてしまったかもしれないと焦り、何とかしなければと思い、自分も飛び込み、まっ逆さまに落ちていきました。下に激突する寸前に目が覚めました。

私の家には犬が5匹いますが、リックは最年長の13才で、まだまだ元気ですがいつまでも一緒に居られるわけではありません。別れの時は、少しずつ近づいています。夢の中とはいえ、自分の過ちで、罪もない飼い犬が死んでしまい、横たわっている姿を見て、とんでもない後悔の念に襲われました。そして、いかにリックを愛していたのかが、よく分かりました。後悔のないように、十分愛しなさいと、言うことなのでしょう。

ところで、人は死ぬと脳の機能が停止しますが、魂(霊)は生き続けています。生命の本質である魂が、肉体から開放されたのであり、意識はそのまま存続しています。肉体の一部である脳は、想いを言葉や行動で表現するための司令塔であり、想いが生まれるのは魂です。(肉体の)死により、心がなくなってしまうことはありません。魂の想いを、肉体で表現できなくなることであり、表現はさらに自由に、円滑にできるようになります。

肉体の死の後に、誰もが必ずしなければならないことがあります。それは、この世での一部始終を振り返ることです。

生まれてから死ぬまでの間に、抱いた想いと、すべての行いを振り返り、総括します。膨大な量になると思われますが、細大漏らさず、正確に、魂(オーラ)に刻まれています。

子供の頃、死ぬと閻魔大王の前で裁きにかけられ、悪いことをしていると舌を抜かれるという話をよく聞きました。閻魔大王はいませんが、自らが振り返り、神の摂理に照らし合わせて、自らを裁くことになります。1つ1つの想いと行いが、どのような結果をもたらしたかを、知ることになります。そして、その行いを、どんな想いでしたのかも、合わせて振り返ります。行いの動機が問われるわけです。動機が人のためなのか、自分のためなのかが、明らかになります。同じ行いであっても、人を思いやる気持ち、喜んでもらいたい気持ちからであれば、摂理に適っていますので、喜びで満たされます。しかし、見栄や偽善から出たものであれば、摂理に反していますので、悔いて、恥じることになります。

そして、人や社会のために、奉仕をする機会が訪れた時に、どういう行動をとったのか、また、困難や障害が降りかかった時に、どう対応したのかも、振り返ります。どちらも魂を向上させる好機であり、正面から受け止めて、最善を尽すのが正道であり、そうすれば後で悔いることはありません。残念ながら逃してしまったのであれば、悔いることになります。

この世に生まれてきた目的は、魂を向上させるためです。楽しみや喜びの中で、魂が向上すれば良いのですが、神の摂理はそうではありません。苦難を乗り越えようと必死に生きる中で、向上が得られます。つまり、この世の目で見ると、何の苦労もなく、安泰な生活をしている人は幸せで、苦難の多い人は不幸な人生と思えますが、霊的に見ると全く逆であり、苦難を乗り越えてきた人ほど、魂は向上して、この世に生まれてきた目的を果たしていることになります。

苦難の最中にいる時は、心にゆとりはなく、早く抜け出したいと思うばかりです。しかし、向こうの世界に行き、この世の人生を振り返った時に、つらくて仕方がなかった苦難の経験こそが、魂を向上させていたことが、はっきりとわかるために、貴重な経験が与えられたことを感謝するようです。

苦難や悲しみは、人を挫折させ、失望させるためにあるのではなく、魂を向上させ、目覚めさせるという深甚な意味があります。親が子供を叱るのは、子供に生きていく上で大切なことを教えるためであり、愛しているからです。同様に、神が人に苦難を与えるのは、大切なことに気付かせるためであり、神に愛されているからです。

神の公正は完璧であり、苦難を乗り越えようと奮闘した人には、報償として魂が高みに導かれます。

苦難は、神の摂理として与えられているので、乗り越えられないはずはありません。

ところで、人の体を見ると、さまざまな組織があります。目や耳、鼻の存在する意味ははっきりしていますが、のどにある口蓋垂(のどちんこ)はどうでしょう。なくてもいいと思っていましたが、手術で切除された人は、気管に食物などが入る誤嚥が多くなってしまったそうです。無用に見えても誤嚥を防ぐという大切な役割があったのです。

神は必要のないもの、意味のないものは、決してつくりませんし、与えません。一つ一つのもの、一つ一つのことが、大切な意味を持っています。しかし、この世で人は、5感で認識し、頭で考えてしまうために、深い意味を理解することがなかなかできません。次の世界に行くと、自分の身に起こった出来事は、偶然でも、運、不運でもなく、因果律の結果か、もしくは与えられた試練であり、どちらにしても魂を向上させるためだったことが、つぶさにわかります。そして、神の愛を実感し、叡智の完璧さに驚嘆するようです。

事実を知らなかったとはいえ、私はどれくらい向上の機会を逃したことでしょう。全力を尽くして立ち向かわなければいけないのに、適当な理由を付けて逃げてしまったことは、たくさんあります。摂理に反した行いもあります。夢の中でさえも、後悔の思いは強烈でした。向こうの世界に行き、「この世の総括」をした時にする後悔の思いは、さらに強烈だと思われます。人が後悔しないように生きようとするのは、先に待ち受けている「この世の総括」を知っている、魂の要求なのかもしれません。

自分が取った行動が、魂の想いに忠実であり、そして神の摂理に適ったものであれば、恥じることや、後悔することは、何一つありません。魂の想いに忠実でなかったり、神の摂理に適っていない時に、後悔が生まれると思います。神の摂理(心)は愛ですから、どんな時でも、他者を思いやる気持ち、許す気持ち、感謝の気持ちを忘れてはいけません。また、どんな苦難が降りかかろうとも、それを正面から受け止めて、乗り越えるために、最善を尽くさなければいけません。つらくても、後悔しないためには必要と思われます。