2014年3月6日木曜日

後悔しないために



先日、夢を見ました。

普段はあまり見ることはないのですが、飼い犬のリックが出てきて、はっきりと覚えていました。私は毎朝6時半頃、リックを連れて散歩に行きます。夢の中でもリックを連れて散歩をしていましたが、いつもとは違いリード(綱)を付けておらず、自由に散歩させていました。散歩コースである小さな河に沿って道を歩いていると、河の中で大きな犬が泳いでいました。そして前の方からは、犬を連れた人が歩いてきました。リックを跳びかからせてはいけない気持ちと、犬と一緒に河で泳いでみたらという気持ちとで、リックを持ち上げ河の中へ放り投げました。

ところが、道から水面まで2mもないはずだったのに、下を覗くと数十mの断崖でした。リックは真っ逆さまに下に落ちていき、河の縁にあるコンクリートに打ち付けられて、ピクピクと痙れんしているのが見えました。何と言うことをしてしまったんだ、私のせいでリックを死なせてしまったかもしれないと焦り、何とかしなければと思い、自分も飛び込み、まっ逆さまに落ちていきました。下に激突する寸前に目が覚めました。

私の家には犬が5匹いますが、リックは最年長の13才で、まだまだ元気ですがいつまでも一緒に居られるわけではありません。別れの時は、少しずつ近づいています。夢の中とはいえ、自分の過ちで、罪もない飼い犬が死んでしまい、横たわっている姿を見て、とんでもない後悔の念に襲われました。そして、いかにリックを愛していたのかが、よく分かりました。後悔のないように、十分愛しなさいと、言うことなのでしょう。

ところで、人は死ぬと脳の機能が停止しますが、魂(霊)は生き続けています。生命の本質である魂が、肉体から開放されたのであり、意識はそのまま存続しています。肉体の一部である脳は、想いを言葉や行動で表現するための司令塔であり、想いが生まれるのは魂です。(肉体の)死により、心がなくなってしまうことはありません。魂の想いを、肉体で表現できなくなることであり、表現はさらに自由に、円滑にできるようになります。

肉体の死の後に、誰もが必ずしなければならないことがあります。それは、この世での一部始終を振り返ることです。

生まれてから死ぬまでの間に、抱いた想いと、すべての行いを振り返り、総括します。膨大な量になると思われますが、細大漏らさず、正確に、魂(オーラ)に刻まれています。

子供の頃、死ぬと閻魔大王の前で裁きにかけられ、悪いことをしていると舌を抜かれるという話をよく聞きました。閻魔大王はいませんが、自らが振り返り、神の摂理に照らし合わせて、自らを裁くことになります。1つ1つの想いと行いが、どのような結果をもたらしたかを、知ることになります。そして、その行いを、どんな想いでしたのかも、合わせて振り返ります。行いの動機が問われるわけです。動機が人のためなのか、自分のためなのかが、明らかになります。同じ行いであっても、人を思いやる気持ち、喜んでもらいたい気持ちからであれば、摂理に適っていますので、喜びで満たされます。しかし、見栄や偽善から出たものであれば、摂理に反していますので、悔いて、恥じることになります。

そして、人や社会のために、奉仕をする機会が訪れた時に、どういう行動をとったのか、また、困難や障害が降りかかった時に、どう対応したのかも、振り返ります。どちらも魂を向上させる好機であり、正面から受け止めて、最善を尽すのが正道であり、そうすれば後で悔いることはありません。残念ながら逃してしまったのであれば、悔いることになります。

この世に生まれてきた目的は、魂を向上させるためです。楽しみや喜びの中で、魂が向上すれば良いのですが、神の摂理はそうではありません。苦難を乗り越えようと必死に生きる中で、向上が得られます。つまり、この世の目で見ると、何の苦労もなく、安泰な生活をしている人は幸せで、苦難の多い人は不幸な人生と思えますが、霊的に見ると全く逆であり、苦難を乗り越えてきた人ほど、魂は向上して、この世に生まれてきた目的を果たしていることになります。

苦難の最中にいる時は、心にゆとりはなく、早く抜け出したいと思うばかりです。しかし、向こうの世界に行き、この世の人生を振り返った時に、つらくて仕方がなかった苦難の経験こそが、魂を向上させていたことが、はっきりとわかるために、貴重な経験が与えられたことを感謝するようです。

苦難や悲しみは、人を挫折させ、失望させるためにあるのではなく、魂を向上させ、目覚めさせるという深甚な意味があります。親が子供を叱るのは、子供に生きていく上で大切なことを教えるためであり、愛しているからです。同様に、神が人に苦難を与えるのは、大切なことに気付かせるためであり、神に愛されているからです。

神の公正は完璧であり、苦難を乗り越えようと奮闘した人には、報償として魂が高みに導かれます。

苦難は、神の摂理として与えられているので、乗り越えられないはずはありません。

ところで、人の体を見ると、さまざまな組織があります。目や耳、鼻の存在する意味ははっきりしていますが、のどにある口蓋垂(のどちんこ)はどうでしょう。なくてもいいと思っていましたが、手術で切除された人は、気管に食物などが入る誤嚥が多くなってしまったそうです。無用に見えても誤嚥を防ぐという大切な役割があったのです。

神は必要のないもの、意味のないものは、決してつくりませんし、与えません。一つ一つのもの、一つ一つのことが、大切な意味を持っています。しかし、この世で人は、5感で認識し、頭で考えてしまうために、深い意味を理解することがなかなかできません。次の世界に行くと、自分の身に起こった出来事は、偶然でも、運、不運でもなく、因果律の結果か、もしくは与えられた試練であり、どちらにしても魂を向上させるためだったことが、つぶさにわかります。そして、神の愛を実感し、叡智の完璧さに驚嘆するようです。

事実を知らなかったとはいえ、私はどれくらい向上の機会を逃したことでしょう。全力を尽くして立ち向かわなければいけないのに、適当な理由を付けて逃げてしまったことは、たくさんあります。摂理に反した行いもあります。夢の中でさえも、後悔の思いは強烈でした。向こうの世界に行き、「この世の総括」をした時にする後悔の思いは、さらに強烈だと思われます。人が後悔しないように生きようとするのは、先に待ち受けている「この世の総括」を知っている、魂の要求なのかもしれません。

自分が取った行動が、魂の想いに忠実であり、そして神の摂理に適ったものであれば、恥じることや、後悔することは、何一つありません。魂の想いに忠実でなかったり、神の摂理に適っていない時に、後悔が生まれると思います。神の摂理(心)は愛ですから、どんな時でも、他者を思いやる気持ち、許す気持ち、感謝の気持ちを忘れてはいけません。また、どんな苦難が降りかかろうとも、それを正面から受け止めて、乗り越えるために、最善を尽くさなければいけません。つらくても、後悔しないためには必要と思われます。

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