2021年3月14日日曜日

苦しみの中で変わって行く


何のために生きているのだろう?

若い時に、漠然とこんなことを考えることが良くありました。

しかし、答えは見つかりません。

その答えを宗教が示してくれるのかもしれませんが、良いイメージがなかったので、関わることはありませんでした。



そんな疑問などすっかり忘れて生きていましたが、40代半ばに差しかかった時に、突然、ヒーリングの力が出現しました。

直後に「シルバーバーチの霊訓」(霊的真理)に出会い、続けざまに人生を揺るがすような出来事が起きました。

無我夢中になって読んだその本の中に、若い時に抱いていた疑問に対する答えが書かれていました。



生きている理由は、至って単純でした。

自分を成長させるためです。

本当の自分とは、目に視える肉体ではなく、目に視えない魂です。

生命そのものである魂を成長させるために、私たちはこの世に生きています。



宇宙の中には、無数の知的生命体がいると考えられます。

その中でも、人類は高度に進化していると多くの人は思っています。

実際は、そこそこの知性と、未熟な霊性を併せ持つ、進化の程度の低い存在のようです。

その証拠に、同じ惑星の中で争いは絶えず、多くの生き物たちが虐げられています。



霊性の進化に伴って、知性が高まって行くようです。

霊性が未熟なのに、知性ばかりが発達してしまうと大きな問題が生じます。

その最たる例が、原子爆弾です。

アインシュタインに知的なインスピレーション(E=mc²)を与えるのが早過ぎたと、霊界はきっと悔やんでいると思います。



未熟な霊性を、少しずつ進化させて行くことが、生命に課せられた宿命です。

神と同じ霊性に到達したならば、進化の過程は終わりますが、それには永遠の時が必要なようです。

地上で生きる年月は90年位です。

死んで次の世界(霊界)に行きます。

次の世界においても、霊性を進化させる行程は続きます。



地上と霊界の大きな違いは、肉体があるかないかです。

肉体があると、意識が自然に自分に向いてしまいます。

霊界に行き、肉体から解放されると、意識は周囲に向かい始めます。



地上では肉体しか視えないので、個々の存在はそれぞれ独立しているように思えます。

霊界では、個々の存在の間に霊的なつながりを感じます。

自分は独立した存在ではなく、全体の中の一部であることが認識されます。




オーケストラは、それぞれの楽器がお互いに活かし合い、美しいハーモニーが生まれます。

人間も同じであり、お互いを活かし合う中で、全体に調和が生まれます。

死んで霊界に行くと、調和の大切さが身に沁みて感じられ、全体の中で自分をどう活かすかに意識の焦点が向きます。

より活かすためには、それ相応の資質を身に付けなければいけません。



霊界には周囲に自分と同じような人たち(類魂)しかいません。

お互いに考えていることが判り、同じような想いを共有しています。

人間関係の煩わしさは全くなく、生活は快適そのものです。



一方、地上は生き方や考え方が違う人たちの集合体です。

そのため、人と交わると自分との違いを感じます。

生まれる前にいた境涯がそれぞれ違うので、やむを得ないことです。



肉体を持つと、それに付随した精神(地上的な自我)が生まれます。

地上的な自我は、地上を安全に快適に生きることを志向しているので、多かれ少なかれ自己中心的な性質を帯びています。

そのために、自我を主張し合うと、相違から反発が生まれます。

反発を受けると、精神的な苦痛として感じます。

精神的苦痛を回避するために、自我を抑えて、周囲と協調することが求められます。



地上では、自分とは違う意見を認めて、尊重しなければいけません。

同類の人たちしかいない霊界では、自分と違う意見を認める行為はありません。

違いを認めるのは、ある種の苦痛を感じる行為であり、その中で魂の資質である寛容性が身に付くと考えられます。



地上では、肉体があるが故の苦痛が存在します。

電車の中で見知らぬ人に足を踏まれ、痛かったら、思わず怒鳴りたくなるかもしれません。

怒鳴ったら、周囲の調和を乱してしまうために、多くの人は我慢します。



中には、わざと苦痛を感じさせるような人もいます。

そんな人には、どうしても怒りが抑えられなくなってしまうでしょう。

相手に報復をすれば一瞬、怒りが治まるかもしれません。

しかし、因果律の働きにより、さらに怒りが生じる様な出来事が起きてしまう可能性もあります。



怒りは厄介な代物です。

神の心(愛)に反しているために、非がなくても苦しみとして感じてしまいます。

苦しみから逃れるためには、報復するのではなく、怒りを鎮めなければなりません。

そのために、神の摂理の働きを学ぶ必要があります。



全ての行いには、神の摂理が厳格に働いています。

(報復しなくても)その行為に対する相応の苦痛を伴う償いが、因果律の働きによって生じます。

神と神の摂理の働きに、全幅の信頼を置けたのならば、摂理に反した想いを抱いて苦しむことはなくなります。

怒ったり憎んだりするのではなく、無知を哀れむことを、神は望んでいると思います。



自分と違う人たちに囲まれて生活することに、地上に生まれた意義があります。

苦しみから解放されるために、周りではなく、自分が変わることが求められます。

変わって行く過程において魂は成長し、霊界でより周囲と調和するための資質が身に付けられて行くと考えられます。



病気や障害の苦しみも、地上だけのものです。

多くの病気の原因は自分にあり、正すために生じていると考えられます。

病気の苦痛は、長い間自我に埋もれていた魂を目覚めさせ、本来の自分を取り戻すためにある触媒と言えます。

魂が目覚めると、今まで大切に思えたものがどうでも良くなり、霊的に大切なものが視えて来ます。

霊界の人たちと同じ様に、周囲のために役に立ち、調和を意識した生活を送るようになる人もいるでしょう。



障害は、一生付き合わなければならない場合も少なくありません。

その苦しみは、経験した人でなければ理解できません。

現実は、どうしても変えられません。

変えることが許されているのは、自分だけです。

自分自身が、苦しみを感じないような生き方や考え方に変わって行くしかありません。

生きているだけで負荷がかかっています。

霊界に行って解放された時、地上で培った忍耐力、寛容性が如何なく発揮されて、周囲との調和が計られるはずです。



もし、償いによって病気や障害が生じているのであれば、時期が来るまで変われないと考えられます。

しかし、償いが終わったならば、外面は変わらなくても、内面が変わることで、精神的苦痛から解放されるはずです。



スポーツの世界で向上しようと思ったら、練習しなければいけません。

厳しい練習を積むことで、スキルが向上して、精神的な面も鍛えられます。

楽しいばかりの練習では、向上は望めません。



人生も同じです。

試練を乗り越えようとする中で、成長するようになっています。

楽しいばかりの人生では、向上は望めません。



子供の時に読んだ、「アリとキリギリス」の話を思い出します。

アリが毎日苦労をして食糧を貯えているのは、冬に備えてです。

苦労を経験しているのは、来るべき次の世界での生活に備えてです。

そのために計画されていた出来事を、今、経験しています。

キリギリスを羨んではいけません。



神の摂理の働きは完璧です。

不公正は一切ありません。

苦しみの果てに待っているのは、成長した悦びです。

その悦びを、霊界で待っている人たちと分かち合います。

魂の成長として実を結び、次の世界で活かされます。

全てが報われます。



経験することでしか、学べないことがあります。

そして、共有出来ない想いがあります。

地上で学んだことが、周りのために活かされ、深く想いを共有することで、全体の調和が促されます。



向上進化には苦しみが付きものです。

今生の苦しみは、次に待ち受けている世界で、より神の心を表現し、調和する悦びを味わうためにあります。






12 件のコメント:

ナオヤ さんのコメント...

確かに、怒りって本当に厄介ですね。自分の周りの人にいつも優しくいたいと思いますが、やっぱり怒ってしまうことはありますね。。

私がやっぱりシルバーバーチが好きだなぁと思う理由に、青年牧師との対話で出てきたシルバーバーチの以下の言葉があります。

牧師「地上の人間にとって完璧な生活を送ることは可能でしょうか。すべての人間を愛することは可能なのでしょうか」

 これが二回目の論争の最初の質問だった。

 「それは不可能なことです。が、努力することはできます。努力することそのことが性格の形成に役立つのです。怒ることもなく、辛く当たることもなく、腹を立てることもないようでは、もはや人間ではないことになります。人間は霊的に成長することを目的としてこの世に生まれてくるのです。成長また成長と、いつまでたっても成長の連続です。それはこちらへ来てからも同じです」

怒ったり、辛く当たってしまうことってありますね。人間だから、誰でも勘違いしてしまったり、余裕が無い時もあるよなぁと。(もっともそう思えるようになったのは割と最近のことなんですけどね)

日々の生活で生じる小さなストレスはうまくコントロールしながら、相手に伝えるべきことは、伝わりやすい言葉・表情・タイミングで伝えることが大切なのかなと思いました。

時には、世の中の理不尽に対してどうしようもない怒りが湧くこともあると思います。

以前紹介した”家ついて行ってイイですか”に出演していた娘さんを交通事故で亡くしたお父さんは事故後すぐにお遍路巡りをしていたそうです。
真冬の凍てつくような寒さの中、辛くなかったのですか?という取材者の質問に対して、“怒りと辛さで、辛いことをやっていないともっともっと辛くて気が狂いそうだった”と答えていたのが印象的でした。

肉体の辛さで誤魔化さないとやっていけないほどのやり場のない辛さや怒りは、扱い方を間違えると自分自身を破滅させるものになりますが、

“怒れ。許せないという強く純粋な怒りは、手足を動かすための、揺るぎない原動力になる。”と思います。(←これも鬼滅の刃の受け売りですが)

イクミ様もおっしゃっていたかと思うのですが、うつ病になる人の中には、”怒り”が原因の人もいるのではないかと私も思っています。

“怒りは相手を滅ぼそうとする感情であるが、同時に自分をも滅ぼしてしまう。 それは極めて危険な感情である。
そしてそれが直接的に表現されるのではなく、間接的に表現される。
こうして怒りが変装して表れる時には極めて分かりにくい。
いつも悩んでいる人は意識していないが、悩むことでいつも怒りを間接的に表現しているのである。
しつこい悩みは変装した敵意である。
うつ病者の自己憎悪の激しさは実は周囲の人への憎悪の激しさなのである。”

自分の中にある怒りに気づき、怒っていることを許し、認める。そしてその怒りを自分を動かす原動力にしていく。。怒りを鎮め、周りの人を許すことが理想だと思うのですが、鎮めることが出来ないほど怒りが大きい時、もしくは怒りを鎮めるつもりが溜め込んでしまう時には、bestではないけれどbetterな選択として考えていただけると良いのかなと思います。

P.S. 国家試験に合格していました。これから長くて苦しい道のりが始まりますが、楽しんで頑張っていきたいです。

イクミ さんのコメント...

ナオヤ様

こんばんは。
医師国家試験、合格おめでとうございます!
これでドクターの仲間入りですね。
コロナの流行によって、医師への期待がさらに大きくなったような気がします。
まずは、実践的なスキルを身に付けて行って下さい。

人生は、怒りを感じることの繰り返しです。
抑えようとしても、時に爆発してしまうことがありますが、イエスもそんな時があったとシルバーバーチも言っています。
地上の人間である限り、どうしてもついて回る感情ですが、神の心に相応しくないこの感情を、神はどうして創ったのかと思います。
苦しみを感じながらも克服し、生じさせないように努めることで、魂の成長を意図しているのではないかと思います。
その時にどうしても必要なものが愛の要素であり、表現することでのみ克服されると思います。

そうですね。
怒りを自分を動かす原動力にすることも、時に必要だと思います。
世の中を変えた偉大な人たちは、その術の知っていたような気がします。
怒りにどう対処するかで、人生は大きく変わって来ると思います。

あまりにも短いですが、臨床研修が始まるまでの間が、人生で最も平穏で希望に満ちた時間かもしれませんので、存分に味わって下さい。

匿名 さんのコメント...

イクミ様

いつもブログを読ませていただいております。

怒りについて、、、
例えば、家族を殺された人は、やはり犯人を許すことが出来ませんし、亡くした相手への愛が深ければ深いほど、相手に正当な刑を与えたくなるのが自然と思います。
神の摂理に反するかどうか分かりませんが、同じ立場に立った人間でないと分からないものだと思いますね。
辛いとき、カルマとか聞いても綺麗事に聞こえてしまい、納得いかないときもあります。
怒りや相手を許せないことが、悪いこととは思えません。いじめた側はすぐにそれを忘れますが、いじめられた側はなかなか忘れられないことは、最たる例です。

許すことや怒りを鎮めることは、自他のために大事なことですが、悪いことは悪いと認識すること(させること)は、神の摂理から外れていますか?
教えていただけると嬉しいです。


イクミ さんのコメント...

匿名様

いつもブログを読んでいただき、ありがとうございます。
とても考えさせられる問題です。
あなたが言われるように、同じ立場に立ってみないと分からないのは確かであり、もし私が家族を殺されて許すことが出来るのか、全く自信はありません。

ただ、こちらに非がなく、理不尽で理由で打撃を被ったとしても、怒りや憎しみに捉われてしまえば、自分が苦しんでしまうのも確かです。
被害者が、何で苦しまなければならないのか、その理由を見つけるのは容易ではありません。
もし、苦しみが無意味であり、魂の成長という報いがなければ、神の公正は崩れます。
もし、他者に与えた苦痛を自らが受けると言う、因果律の働きが完全でなければ、神の公正は崩れます。
苦しみから解放されるためには、自らの成長(変化)と神の摂理の働きを信じるしかないと、私は考えています。

つらいこと全てが、カルマのせいで起きているのではありません。
相手の過った自由意思の行使によることもあり、いじめの大半はそうではないかと思っています。
子供と言えども、良心に逆らった行いには、償いが生じると考えられます。

許せないことが悪いとは言えません。
しかし、捉われていると自らの成長を妨げてしまうので、許すことが求められていると思います。
許せない人は、人を心から信じることも、心から愛することも難しくなってしまうと思うからです。

罪を犯した時に、相応の刑を与えるのは妥当です。
が、その前に罪の意識を持たせ、反省を促さなければなりません。
特に、殺人を犯した者などを、それなしに死刑に処してしまえば、新たな罪を犯してしまう可能性があります。
シルバーバーチの霊訓にも「いかなる方法をとるにせよ、更正を促進するものであるべきで、決して復讐心を生み出すようなものであってはなりません。」と書かれています。

悪いことを認識させ、反省を促すことは、その人にとっても、社会にとっても必要なことであり、神の摂理に何ら反していないと思います。

匿名 さんのコメント...

イクミ様

いつも貴重なブログの更新をありがとうございます。

また、お世話になっております。
いろいろと相談に乗っていただきありがとうございます。
おかげさまで、16日に小学6年生の息子も無事に卒業を迎える運びとなりました。
あれから、やはりいじめ的なことが続き、学校の先生に電話させていただきました。
これから、中学生になるのでまだまだ目は離せませんが様子を見ていきたいと思います。
ほんとうに、ありがとうございます。

霊的真理は奥が深いです。
まだまだ肉体に入っている自分には理解しがたいことばかりです。
知識を入れても、やはり体験しなければわからないことだらけで。
苦しみを体験することで、霊的真理を伝えていけるような気がします。
人の役に立つ、人に寄り添うということは苦しみを知ってこそできることのようにも思えます。
真理を知って4年目になりますが、初めて知った時よりも考えさせられることが多いです。
簡単に思えるように書かれていますが、実際体験してみると安易には…。
自分自身も真理に沿って課題をこなしている日々です。


匿名様がかかれていたコメントも難しい課題ですね。
そのように悩み考えていること自体…自分の魂を成長させているというか。
とはいえ、そのような出来事に出会った人の気持ちはものすごい動揺というか、計り知れない気持ちだと思います。解決するには、時間がかかるでしょうが、魂は成長するために地上に来ていると思うので必ず良い方向に向かうと今は信じています。とても、つらいことではありますが。

自分の息子がまさにいじめのようなものにあっていますが、
やっている子を憎むというよりは、この子たちの精神は大丈夫なのか?と思っているし、悪いことをしても悪いと思っていないのだから話にならないなと。因果の法則が完璧なのも知っているので罰を与えたいという感覚よりは、ただただ息子にはかかわらないでほしいと。家族を殺されたということとはまた話が違うので何とも言えませんが。

でも、このようなことを学びながら、輪廻を繰り返し、みんながみんな成長していくんだと思います。


ナオヤ様

国家試験合格おめでとうございます!!!



ブログを通して、いろいろな意見交換できるこのような場所に感謝します。
苦しいこともあるけれど、霊的真理を知っている方々たちとお話しできて最高です。


えり

イクミ さんのコメント...

えり様

こんばんは。
息子さんの小学校ご卒業おめでとうございます。
いろいろとあり大変だったでしょうが、リセットされて、良い方向に向かうことを願っています。

そうですね、霊的真理は深遠です。
繰り返し読んでいると、サラッと読み過ごしていたところに、深い意味があるのに気付いたりします。
実践して、経験して、理解が深まって行くと感じています。

この世で様々な経験をしているのは、他者と想いを共有するためと思っています。
想いを共有している人が、霊的真理を伝えれば、魂に届く可能性が高くなると思います。

いじめをしている方は、悪いことをしている認識がないのがやっかいですね。
相手が嫌な思いをしている、止めて欲しいことに、思いが及んでいません。
「それはいじめだ」と初期の段階で伝えれば、止める可能性が高いそうです。
しかし、大人でも嫌なことを嫌だと伝えるのは難しいので、今の関係を維持したい子供にとっては、かなり難しく感じるのでしょう。

想っていることを、肉体で表現しなければ伝わらない地上は、本当に煩わしい世界です。
言わなくても判っているだろうと思っていると、それが間違いであったことに気付かされることもしばしばです。
考えていること、思っていることを、言葉にして伝えることの重要性を、遅ればせながら私も感じています。

匿名 さんのコメント...

イクミ様


コメントに書かれている「考えていること、思っていることを、言葉にして伝えることの重要性」
…本当ですね(涙)後悔、後悔…。


実は、職場に来ているメンテナンスの方が亡くなられたんです。
機械のメンテナンスなので年に数回しか来られない方なんですが。
私、去年の10月ころその機械のメンテナンスの日にお会いしたのですが、その時、抗がん剤の治療でと多分髪の毛が抜けたんだと思いますが帽子をかぶられていました。上司の人たちにも治療をしていましてとお話をされていました。私、その姿を見て、「死んでも生き続ける」という自分で作った冊子をロッカーに入れていたので勇気をもってお渡しすればよかったのですが、お渡しできませんでした。頭に渡したらいいんじゃない?っていうささやく自分と次でもよいのでは?という自分がいて。
そして、今月の15日機械のメンテナンスに業者の方が来られたのですが、実はすい臓がんで亡くなられたとのことでした。
人はなかなか死なないものだと思っていたし、次があると思っていた自分。
あの時頭によぎった冊子を渡したらいいんじゃないっていう声に行動できなかったこと。
思っていても、行動に移さない限りは何もしていないことと一緒だな~って。
15日に来られていた業者の方の話にによると、あの日が最後の出勤だったんだそうです。
体調も悪かったんだそうです。でも、「(私が勤務している職場)に行きます。行きたいんです」と言われてきたんだそうです。最後の出勤に一緒に来られてた方の話では、せっかくここまで来たのだからおいしいものでも食べて帰りましょうと飲食店に入りましたが、一人で靴を脱ぐこともできず…という話でした。よほど体調がよくないのに無理していらっしゃったんだなと。

無理してでも来たかったと…こういう思いを考えると自分は何もできなかったなと。

悩んでもしょうがないのですが(霊界にお戻りになられたので、守護霊さん含めお仲間の方々が祝福を挙げてお出迎えされたでしょうから)、時が来ている人に真理を伝授することとありますが、私はこの時、真理伝授の機会を逃したんだなと。渡せていたら、ちょっぴり気持ちを楽にしてあげれたのかなとかいろいろ考えてしまいます。もっと自分に勇気があればと思う今日この頃です。人の役に立つことをと言われますが、私にとっては人とかかわりあうこと、人に何かをすることってなんだか恥ずかしいというか勇気がいるんです。と言いながら、観光業をしているので矛盾するのですが。


思っていることは、いずれ現実化するとは言いますが、
地上では表現しなければいけないことをもっと心に響かせたいと思います。


えり

匿名 さんのコメント...

イクミ様

お返事ありがとうございます。

許すことや怒りを鎮めることはもちろん大切ですが、許すだけでは何も解決にならない場合もあるので、それが摂理に反することでなくて良かったです。
何でも許していたら、世の中から犯罪が減らないでしょうし。

世の中から少しでもイジメや人を傷つける人が少なくなることを祈っています。
そのためには、一人ひとりの個性を大事にし受け入れ、相手を思いやる心を養うことが必要なのかなとも思ったりしております。

イクミ さんのコメント...

えり様

おはようございます。
職場でお知り合いの方が亡くなられ、最後に会った時に真理を伝えれば良かったと、後悔しているのですね。
あなたの良心や背後霊が渡すように働きかけていたと思いますが、(地上的な)自我があれこれと理由をつけるので、どうしてもためらってしまいます。
死んでも生き続けると言う冊子を作ったそうですが、真理を普及するのに役に立つツールだと思います。
せっかく作ったのですから、必要と思われる人には、今度はためらわずに渡すようにして下さい。
渡された人が、その内容を理解するのかは判りませんが、少なくてもあなたの厚意をありがたく感じるはずです。
1つの霊的奉仕をしたことになります。

私は真理を知って十数年になります。
自分の中で当たり前になっているために、他の人も知っているだろうと、つい伝えることを忘れてしまっている時が多くなったような気がしています。
初めて知って救われた時の感動を、他の人にも味わってもらいたいと願う気持ちを失わないようにしたいものです。

あなたに真理を伝えようとする想いがあれば、霊界の導きによって、その機会がまた訪れると思います。
今度は逃さないで下さい。

イクミ さんのコメント...

匿名様

おはようございます。
昔に比べて、悪いことは悪いと面と向かって伝える人が少なくなって来たように思います。
個人の自由を尊重するのと、はき違えてしまっている傾向があるのかもしれません。
また、伝えると暴力を受けるなど、不利益を被ってしまうことへの怖れもあると思います。

シルバーバーチは、悪を放任したり黙認したりすることは我慢ではなく、目の前の現実に目をつむることと言っています。
真理を知ったからには、勇気を出して伝えて行きたいものです。

匿名 さんのコメント...

イクミ様

私も真理を知ってから周りに伝えたくなりました。やはり受け入れられる人はそこまで多くはないと感じます。私は、シルバーバーチのいうところの何%を実践できているのか分かりませんが、聖人君子になろうとすると苦になるので、地道にやってます。

鬱病の話が出ていましたが、私の周りには鬱になり休職する方が沢山います。
私の調べたところ、鬱の原因は、ストレス、首コリ、特定の栄養不足、スピリチュアル的には先祖供養が関係しているとも言われているみたいですが、最新の医学では、ウイルスが原因なのではないかとも言われているようです。一日も早く解明していただきたいと願っています。
私にできることはなかなかないですが、イクミ様のおっしゃるように、自分が知っている真理を周りに伝えることは大事ではないかと思うので、微力ながら周囲の人から始めていきます。

イクミ さんのコメント...

匿名様

そうですね。
受け入れられる人は、思っていた以上に少ないと私も感じました。
受け入れる準備の出来た人は、霊界によって真理を知っている人の元に導かれて来るのは事実ですが、その時のために、出来るだけ多くの人に真理の種を蒔いておくことは大切です。

うつ病になる人は、本当に多いですね。
原因は、(物質的次元にはないので)栄養不足やウィルスではないと思います。
個人的には、魂に流入する生命力が不足し、それに伴い精神的エネルギーが枯渇してしまうために起きると考えています。
病気ではなくエネルギー不足なので、良くなるためには抗うつ薬ではなく、(精神的エネルギーを消耗しない)休養が必要だと思います。

周囲の人から、少しずつ真理を伝えて行って下さい。
コメントを送っていただき、ありがとうございました。