2015年2月23日月曜日

うつ病の人へ



若くしてガンを発病された男性のブログを拝見しました。

ネット上で、その男性がインタビューアーとなり、ガンの経験者の闘病記を聞かれていて、生の動画で配信されていました。

自分の経験、そして他のがん患者さんの経験を発信し、ガンで悩み苦しむ人に役立てようとしている姿に、とても感心しました。




その中で、興味深い発言がありました。

インタビューを受けていたのは、若い女性でした。

彼女は、きわめて悪性度の高いガンでしたが、幸い初期で発見されて、手術をして経過は良好のようです。

ガンが見つかる前には、PTSD(心的外傷後ストレス障害)による、重症のうつ病を患っていたそうです。

会社も休職し、「この世から消えてなくなりたい」と、自殺願望があったそうです。

重症のうつ病により、ただでさえも生きているのがつらい時に、ガンに侵されていると分かったら、どうなるのでしょう。

普通は、心の重荷がさらに重くなり、耐え切れなくなってしまい、自殺をしてしまう可能性があるのではないかと考えてしまいます。

もし、本気で死にたいと思っているのであれば、ガンは渡りに船であると、考えてもおかしくありません。

しかし、ガンと告知されて、逆に彼女は猛烈に生きたいと思ったそうです。

そして、何と、うつ病は治ってしまったそうです。

ガンを告知され、うつ病が完治するのは、どうしてなのでしょうか?




現実には、ガンを告知されて、うつ状態となり、自らの命を絶ってしまう人は、少なからずいると思います。

病気に悩み、苦しみ、疲れ果て、将来を悲観して、そこから逃れるために死を選んでしまうのかもしれません。

日本において、年間約2.5万人の人が自殺をしていますが、うつ病などの精神疾患を抱えていた人も少なくないと思われ、深刻な社会問題の1つとなっています。

もし、うつ病が医療行為(薬剤)で治る病気であるならば、もっと多くの命が救えてもいいはずです。

うつ病は、脳内の神経伝達物質がうまく働いていないために起こると言われていますが、薬により神経伝達物質をコントロールすれば、病気が治るわけではありません。




すべての病気には明確な原因があります。

しかし、現代医学では肉体を対象としているために、目に見えない精神の病気についての原因解明は、きわめて困難と思われます。

うつ病は、肉体(脳)の病気ではありません。

精神そして魂に、深く関わっている病気と考えられます。




うつ病の本態は、不自然な生き方や考え方により、心のエネルギーが浪費され枯渇しかかっているために精神が働かず、それに伴って、過去に生じていた、悲しみ、怒り、恐怖、不安、あるいは言葉にならない想い(感情)が、表在化されている状態だと思います。




うつ病に罹った人は、一様に生き苦しさを訴えています。

ひどい人は、何もしてないのに、極度の疲労感を感じて、人によっては息をするのも苦しく感じてしまうほどであり、経験した人でなければ、このつらさは理解できません。

家の中で、じっといしているのにもかかわらず、疲労感がなくならないのはどうしてなのでしょう。

それは、心が動いて、活動をしているからだと思います。

身体は安静にしていても、心は休むことなく常に動いているので、心の疲労を感じていると思われます。




人は食物を摂取して、エネルギーに変えて、身体活動をしています。

それは肉体に限定されたものであり、心を活動させるエネルギーは、食事により補給されません。

その証拠に、食事をしないでいても、心の活動が抑制されるわけではなく、むしろ空腹感がある方が、精神活動は活発になるようにも思えます。

つまり、肉体を動かしている力(エネルギー)と、心(精神)を動かしている力は、全く違う種類のものと考えられます。




地上的概念である、文字や数字を媒介とした、会話や仕事、計算や論理的思考などは、大脳の活動によるものであり、肉体(物理)的エネルギーは必要です。

しかし、美しい旋律を聴いたり、絶景を観て、感動しているのは、脳の働きではありません。

悲しみの想いは、脳が生み出しているのではありません。

愛する想いも、脳が生み出しているのもではありません。

その想い(思念)は、どこから生まれるのでしょうか?

目に見えない想いは、大脳ではなく、目に見えない魂から生まれています。




魂は、物理的な存在ではありませんので、科学者に否定され続けています。

確かに、万人に判るように証明するのは困難ですが、証明できないから否定するのは誤りです。

遠い昔の人に、電波が存在しているのを証明して見せるのは困難ですが、メディアが普及した現代において電波の存在を否定する人はいません。

それと全く同じことであり、魂の存在が常識となる時代は、間違いなく来るでしょう。

科学者にとって、精神(心)、意識は未だ謎に包まれたものとなっていますが、それは魂の存在を否定しているためです。

魂の存在を認めることで、心や意識について合理的な解釈が可能となります。




生きていると、さまざまな出来事に遭遇し、さまざまな想いが生まれています。

魂で生まれた想いは、精神を経由して、肉体で表現されています。

肉体は魂を表現する媒体であり、精神は想いを肉体で表現させるための、司令塔の役目を果たしています。

愛する人が亡くなると、涙を流して泣きますが、魂から悲しみの想いが生まれて、肉体で表現が行われています。

人から親切にされると、笑顔になり、「ありがとう」と言いますが、魂から喜びや感謝の想いが生まれて、精神により指令が出されて、肉体で声になって表現されています。

魂から生まれた想いを、どの様に表現するのかを決めて、肉体に指令を出すのが、精神(心)であり、肉体は精神に従い、精神は魂からの想いにより活動します。




精神(心)を活動させているのは、細胞内のミトコンドリアで作り出されるエネルギー(ATP)ではありません。

目に見えない精神は、目に見えない生命力により、維持され、活動をしています。

生命力とは、魂に流れ込む霊的な力であり、森羅万象を司る力と同じものです。

肉体を活動させる運動エネルギー(栄養)が不足すると、身体は思うように動かなくなるのと同じで、生命力が不足してしまうと、精神は思うように動きません。

生命力が不足して、精神がうまく働かなくなってしまうと、肉体に指令を出せなくなるために、身体が動かなくなってしまうと考えられます。




生命力は、魂が絶えず受け取っています。

受け取った生命力は魂で想いとなり、その想いにより精神(心)が動かされて、肉体に指令を出して、肉体を通して外部に表現され、力は内から外に向かって放散されています。




魂から生まれる想いが、喜びや、何かを成し遂げようとする前向きなものであれば、生命力はふんだん魂に流れ込み、精神(心)を動かす力となります。

悲しみや絶望、不安や怖れ、自分を責める強い想いであれば、精神を動かしているエネルギーを激しく消耗させているばかりか、魂が受け取る生命力の経路を絞ってしまっていることになります。




うつ病は、生命力が少なくなってしまったために、今まで通りの生活が出来なくなった状態と考えられます。

悲しみや絶望、不安や怖れ、自分を責める強い想いにより、精神(心)を動かしているエネルギーが浪費されて、本来の機能が失われてしまった状態です。

想いは生じているのに、精神を動かすエネルギーが不足して思うように働かなくなり、その結果、身体が動かなくなり、生活に著しく支障をきたします。

想いと行動に、大きな隔たりがある状態となり、そのことで大いに悩み、さらに自分を責めてしまうことになります。




酸素が足りずに息切れしているのに、身体を動かすと、さらに息苦しくなります。

身体を動かすのを止めて、深呼吸をしていれば、息苦しさは徐々に和らいできます。

しかし、部屋に閉じ込められてしまい、徐々に空気が薄くなってきて酸欠状態になれば、怖くなり、あわててしまいます。

どうにかしようと、身体を無駄に動かしてまい、その結果、ますます息苦しくなってしまいます。




同じく、生命力が足りていないのに、精神(心)を働かそうとすれば、心の苦しさを感じてしまいます。

心が苦しいのであれば、まずは精神(心)を動かすのを止めて安静にしていれば、苦しさはなくなってくると思います。

しかし、理由もわからず突然、思うように考えたり、動けなくなってしまうと、どうしてしまったんだと焦ったり、不安に感じたり、怖れを抱いたりしてしまいます。

その情動が強いほど、生命力を消耗してしまいます。

酸欠状態で、激しく運動しているようなものであり、とても苦しくなります。

その苦しさが、恐怖や不安を生んで、さらに生命力を消耗してしまい、悪循環に陥ります。




生命力を無駄に使わないように、なるべく精神(心)を動かさないように、安静を保つ必要があります。

苦しさを少しでも和らげるために、心を安静にさせる環境に、しばらくの間、身を置いて、穏やかに過ごすのが、最善の方策です。

そうすれば、生命力は少しずつ満ちてきて、それに伴い心の苦しさから解放され、心身を動かすことができるようになるはずです。




精神安定剤や抗うつ剤は、不安や恐怖心などを和らげ、一時的に苦しさは緩和されます。

しかし、苦しさから逃れるために、薬剤が欠かせなくなり、依存状態となってしまう危険性があります。

薬では、うつ病を根本的に治すことはできません。




一般的に、うつ病になりやすい人は、まじめで、几帳面で、責任感が強く、人当たりが良いと言われています。

それは長所とも言えますが、周囲に気を配り過ぎたり、物事を完璧にこなそうとしたり、こだわり過ぎたりすると、心のエネルギーを無用に消耗するとともに、物事がうまく運ばなかった時に、悲観的な想いや、自己否定的な想いが生じ易くなりります。

悲観的、自己否定的な想いは、心のエネルギーを消耗するばかりではなく、魂が受け取る生命力を少なくしてしまいます。




家庭で、電気器具を多く使用し、消費電力が供給量を超えてしまうと、ブレーカーが落ちます。

これは危険を回避するための、安全装置です。

不自然な生き方や考え方をしているために、心のエネルギーが激しく消費されている状況で、生命力の供給が少なくなってしまうと、心のブレーカー装置のようなものが働いて、強制的に安静状態にさせると思われます。

心身を守るための安全弁であり、神の配慮だと思います。

もし、ブレーカーが落ちてしまったのなら、あれこれと考えたりすること自体、困難となります。

まずは、焦らずに、エネルギーが供給されてくるのを、じっと待ちましょう。

生命力は、能動的に作り出すものではなく、魂が自然に受け取っています。

その生命力が、少しずつ満ちてくるまで、心を安静にして、待ちましょう。

ガス欠で動かなくなった車は、ガソリンさえ入れれば、今まで通りに動き出すように、うつ病の人も、生命力が供給されてくれば、以前と同じ生活ができるようになると思います。

ガス欠は故障でない様に、うつ病は病気と言うよりも、心のオーバーワークにより、生命力が一時的に不足した「状態」だと思います。




心のブレーカーが落ちたのならば、心で消費しているエネルギーを少なくしてやるか、供給される生命力を多くしなければいけません。

うつ病はストレスが原因と言われますが、ストレスの本体は、さまざまな出来事や人間関係により生まれた、表現できない想いだと思います。

ストレスが溜まっているとは、表現できない想いが次々と生まれて、滞ってしまっている状態です。

心のエネルギーを浪費しながら、その想いは大きくなっていきます。

難しいことですが、出来るだけストレスのかからない環境で、心のエネルギーを温存する必要があると思われます。




心に供給される生命力を多くするのは、一朝一夕にはいきません。

ガンを告知された彼女ですが、猛烈に生きたいと思ったために、魂に生命力が一気に供給されるようになり、うつ病が治ったのだと思います。

彼女のような出来事が起こることは、まれです。

たとえ、生きたいと思うような出来事が起こらなくても、生命力は常に魂が受け取っているので、心は自然に動かせるはずです。

ただ、生命力の流れが、想いにより妨げられているため、一時的に動かなくなっているだけであり、遮っている雲が流れていってしまえば、太陽の光がまた燦燦と降り注ぐように、想いがなくなれば、生命力は徐々にみなぎってきて、動かせるようになります。

心は肉体とは別次元の存在であり、霊的な力により生かされています。

その霊的な力が絶たれるようなことは、決してありません。

霊的な力を受け取る魂は、霊的な力の始源の一部としてつながっていて、そのつながりは絶たれることは一瞬たりともありません。

身体の隅々の細胞まで、酸素や栄養は運ばれているように、宇宙の片隅に住む私たち一人一人は、たとえ小さくても全体の一部として、生命力の始源とつながっているので、生きる力を常に受け取っています。

生命力が供給され、滞っている想いがなくなってくれば、生き苦しさはなくなってくると考えられます。




多くの病気は、自然法則(神の摂理)に反した生き方や考え方をしているために、因果律が働いて生じていると思われます。

痛みや苦しさは、自然法則に反した償いであるとともに、自然法則に適った生き方に気付き、変えていくためにあると思われます。

病気を根本的に癒すには、自然法則に適った生き方や考え方に変えていかなければいけません。

うつ病も、他の病気と同じく、自然法則に反している、別の言い方をすれば不自然な生き方や考え方をしているために生じています。

現在の苦しみは、過去に積み重ねてきた、悲しみや怒り、不安や怖れ、自分を責める等の、表現されずに魂に滞っている想いが、表在化されてきているためと思われます。

隠されていた想いの塊が、精神の働きが弱くなってきたことにより、むき出しになってきています。

うつ病になったため、心が苦しくなったと言うよりも、今まで押し殺してきた想いが、表に出てきて意識されるようになり、苦しみを感じていると思われます。

さまざまな出来事や人間関係により生じていた悲観する想い、自己否定の想いは、精神により黙殺され、表現できないまま蓄積されていき、(精神で)抑え切れないほど大きくなり、時を経て、今、前面に溢れ出しています。





言葉や行動だけではなく、自分の想いにも責任が伴います。

悲しみや怒り、不安や怖れ、自分を責める想いが積み重なってくると、因果律が働き、表に出てきて、その想いに苦しむことになります。

過去の想いが、今の苦しみや悲しみとなって表現され、解放されています。

苦しみや悲しみは、癒しへの避けられない過程であり、徐々に解放されていけば、和らいでくるはずです。

自分の想いに気付き、想いを生じさせた生き方や考え方を正す時期が、来ていると思われます。

今までの生き方や考え方は、自然法則に反していて、自分(魂)の成長にとって、妨げとなっていたと思われます。

苦しみや悲しみは、その償いであり、そして過ちに気付くためにあり、自然法則に適った生き方や考え方に、変えていかなければいけません。




自然法則に適った生き方とは、どのようなものでしょうか?

目に見えるものだけがすべてだと錯覚している人間は、目に見えない自然法則の働きを無視しがちです。

人間ほど自由意志がない動物たちは、自然法則に忠実に従って生きていると思われます。

人間の頭脳は確かに優れていますが、たくさんの大切なことを動物たちから学べると、私は考えています。




動物たちは、欲を張らずに、素直に、思い悩むことなく今を生きています。

そんな動物たちには、人間のような病気はあまり見られません。




動物たちよりも人間が、一歩進んでいるところもあります。

それは、奉仕の心です。

自然法則を貫いているのは「愛」です。

奉仕の心は自然法則と一致しています。




私は、動物でもある人間の自然法則に適った生き方とは、人や社会のために、自分らしく生きることだと考えています。

人や社会のために生きることは、神の心である愛を表現していることになり、神とのつながりが深まり、ふんだんに生命力が流れ込みます。

自分らしく生きれば、想いが素直に表現され、エネルギーを消耗させている想いは、滞らなくなると思われます。

もし、そのような生き方に変えて行けたなら、病気の存在する意味はなくなり、やがて苦痛から解放されると考えています。




言葉にするのは簡単ですが、それが出来にくいのが、この世の中です。

出来にくい世の中だからこそ、病気になる人がたくさんいます。

自分が生きていくのに精一杯で、周りに目を向ける余裕など、あまりありません。

ありのままに生きようと思っても、周りの人を差し置いて、それが出来ないのが現実です。




けれども、無理をして心の力を使い果たし、自分の気持ちを抑え過ぎたために生じた想いに、今、苦しんでいるのであれば、そこから抜け出さなければいけません。

頑張り過ぎるのは、欲を張っているのと同じで、自分を追い詰めて、苦しめることになります。

薬で心を楽にさせるよりも、自分の心が、穏やかに楽になる生き方や考え方を、少しずつ見つけていった方が、永続的な癒やしにつながると考えられます。

焦らず、無理をせずに、ゆっくりと見つけて下さい。

それが自分らしい生き方であり、自然法則にも適っていると思います。

自然法則に適った生き方や考え方、苦しみの意味については、「シルバーバーチの霊訓」に余すところなく書かれています。

まだ、お読みでなければ、ご一読をお勧めします。




今、どうしても動けない人は、神の摂理の働きによって、動けなくなっているのであり、自分を責めてはいけません。

無理に、動いてはいけないと、神に言われているようなものです。

生命力が絶たれてしまうことは、決してありませんので、どうぞ心配しないで下さい。

生命力が満たされてくれば、楽になり、元の自分に戻れるはずです。

今は、ただゆっくりと、心を休めましょう。




参考ページ: 「うつ病と心のエネルギー」







2015年2月5日木曜日

憎むのではなく哀れむ


中東の地で、日本人とヨルダン人の尊い命が奪われました。

残虐な手法で、罪のない人間の命を、躊躇もせずに奪う、とても同じ人間のすることとは思えませんでした。

殺された2人の恐怖と、残された人の悲しみを思うと、怒りのようなものが心に湧き上がってしまい、危うく敵意や憎しみに変わってしまいそうでした。




少し冷静になって、考えてみました。

あれだけの残虐で卑劣な行為ですから、多くの人に怒りを通り越して、憎しみが生じてもおかしくありません。

非道な人たちを壊滅させようとする機運が高まり、国家による武力行使が行われていますが、反対する者はほとんどいません。

一見すると、世界の平和を維持するために、適切な行動のように思えます。




しかし、それは避けるべき行動であるのかもしれません。

彼らは、暴力でしか自分を表現できなくなってしまった人たちだと思われます。

その原動力となっている想いは、怒りであり、憎しみであり、恨みであると思われます。

それぞれに、その想いを生じさせた出来事が、過去にあったと思われます。

親しい人を理不尽な暴力により奪われたかもしれません。

非人道的な行為を、受けたのかもしれません。

社会から抑圧され、無視され、迫害されたと、思い込んでいるかもしれません。

内で燃え盛る想いを、暴力により表現したがっています。




彼らは、同じ神を信じる、理想の国をつくりたい訳ではありません。

心の大部分を、強い憎しみや恨みの想いが占めていて、それを暴力によって表現しようとする人たちの集まりのように思えます。

世界中から、怒りや憎しみ恨みや、強い現状への不満を抱えた人たちが、吸い寄せられるように集まってきているように見えます。

法の行き届かない地域で、同じ想いに駆られた者が集団となり、憎しみや恨みを増幅させ、はけ口として、狂気とも思える行為が日常的に行われています。

そこには大義はなく、怒りや憎しみという負の感情で団結し、暴力により世の中を混乱させて、自己の存在を主張しているように見えます。

残虐な行為により人の命を奪い、その力を外に向かって誇示しています。




神の摂理に反した怒り、憎しみや恨みの想いからは、神の摂理に反した表現(行動)しか生まれません。

神の名の下に行っている行為は、神の心からあまりにもかけ離れていることが、全く分っていません。

神の名を利用した残虐な行為は、神を冒涜する最も罪深い行為の1つであることに、全く気付いていません。




神の心からかけ離れた、残虐な行いをする人であっても、その魂は神の一部であり、繋がりは絶たれたことはありません。

のどもとに刃を突き立て、切り裂こうとする前に、「本当にこんなことをして良いのか」と、内から魂の声を聞いていたはずです。

たとえ、わずかであっても慈悲の心は存在し、神の摂理に反する行為に対して、抵抗していたはずです。

残念ながら、神の声を無視して、行動に移してしまいました。




神を冒涜した行為であっても、神が怒って、天罰を加えるわけではありません。

自然法則である、因果律が厳格に作動するだけです。

後になり、自分の想いや行いを、償うための出来事が必ず生じることになります。

もし償われないうちに、死んでしまっても関係ありません。

肉体がなくなっても魂は存続し、この世の罪のすべてが刻み込まれています。

自然法則に従い、人は死んだ後に、魂に刻み込まれている、この世の想いや行いの全てが映し出されて、それを見ることになります。

自分が犯した残虐な行為が、いかに人に悲しみや苦しみを与えたかを、目の当たりにします。

罪を自覚して、深く後悔して、強い自責の念に苛まれます。

とても苦しく、いたたまれない状態になると考えられます。

まさしく、針のむしろです。

そこから抜け出すためには、犯した罪を償わなければいけません。

罪を償うために、自ら志願して、この世にまた生まれて来ることになります。

大きなカルマ(罪)を背負い、想像もできないほど過酷な人生になるのは間違いありません。




従って、いかに残虐で卑劣な行為であっても、怒ったり、憎んだり、恨んだりする必要はありません。

自然法則により、その報いを、自らが容赦なく受けるからです。

真実はそうですが、もし親しい人が同じ行為を受けたのなら、怒りの感情を抑えるのが難しいのも確かです。




憎しみの連鎖という言葉があります。

憎しみを表現してしまえば、相手から憎しみを表現される。

その表現を受けて、憎しみがさらに増して、強い表現となり、相手に返す。

さらに、強い表現となり、自らに返ってくる。

因果律の働きにより、不毛な憎しみの表現の応酬が、際限なく続いていきます。




襲ってくる相手に、反撃をするのは、自分の身を守るための正当防衛であり許されます。

殴られたら、反射的に殴り返してしまうこともあります。

ただ、憎しみやの想いを込めて殴り返したら、相手にその想いは伝わり、憎しみの想いをさらに増して、殴り返してくるでしょう。

行動(表現)の裏には必ず想いがあり、その想いが摂理に反しているのであれば、何らかの苦痛を伴う結果が返ってくると思われます。




怒りや憎しみに満ち溢れた戦場は、信じられないことですが、今の彼らにとって、自己表現が許され、心の安定が得られる場所と思われます。

平穏で、愛に満ちた世の中では、自分の想いを表現できないために不満であり、居心地が悪いのかもしれません。

戦場の中では、思う存分、自らの想いを吐き出すことができるため、身を投じる人が世界中から集まってきている様に見えます。

怒りや憎しみや恨みの想いが集団の中で増幅され、理性は失われて、残虐な行為に駆り立てられていくのかもしれません。




テロに屈しないと政治家は口を揃えて言います。

テロに屈するとは、相手の思うがままにさせたり、要求を受け入れてしまうことではなく、平穏な心を失い、怒りや恐怖の感情に捉われてしまうことかもしれません。

もし、怒りや憎しみの感情で心が支配されたならば、相手の想いに同調してしまったことになります。

相手の想いを読み取り、冷静に対応しなければいけません。

それは逃げでも、臆病な行為でもなく、最も勇気と忍耐が必要とされる行為だと思います。

相手は、こちらの想いに敏感に反応して、それに合わせて対応してきます。

世の中が、怒りや憎しみの想いで満たされていけば、不穏な空気が立ち込めていき、戦場は拡大していくでしょう。

結束して消滅させようとしても、共有する想いが神の摂理に反する怒りの想いであれば、その結果として新たな悲劇が生まれ、苦痛を経験しなければならないのかもしれません。

たとえ、武力により組織が消滅したかに見えても、怒りの想いが残っている限り、闘いは続いていくと思います。




あくまでも、神の心である愛を基調とした精神で臨まないと、最善の結果は得られません。

そんな甘い考えでは、相手が増長するだけであり、ますます被害が大きくなると言われるかしれませんが、それでも正しいと信じています。

こちらが拳を振り上げたならば、それは相手の望むところであり、迷うことなく拳を上げて戦ってくると思います。

とても難しいことですが、こちらが怒りや不安を表さずに、毅然とした態度で臨めば、因果律の働きにより、相手は殴りかかることはできません。

そのことは、20世紀半ばのインドの独立運動で証明されました。

非暴力は、受け身のように見えますが、神の摂理に適った最善の方策であり、最終的に目的は達成され、恒久的な平和につながっていくと思います。




神の法則を無視する者は、神の法則などないとこちらに思わせるような行動をしてきます。

神の名を叫びながら、実は「神などはいない。力あるものが、世の中を支配する」と、思っています。

真の姿は、暴力の中に、自らの表現を求めた、哀れな人たちです。

もし暴力で反撃したならば、彼らは活気付いて、暴力による自己表現をして返してくるでしょう。




彼らに、生命を脅かされている人たち、住む家を奪われた人たち、自由を奪われた人たち、また暴力に怯える人たちを、世界の国々は協力して救わなければいけません。

正義を守るための、力の行使は正当であり、必要です。

爆弾を投下して、ミサイルや銃を使用すれば、大きなダメージを与えることになるでしょう。

しかし、彼らにとって一番耐えられないのは、静観され、哀れみの目でみられることだと思います。

同情されたり、哀れみを受けるほど、屈辱的で、期待を裏切る行動はありません。

世界中の人たちが、彼らの行為に静かに異を唱えるとともに、哀れむ。

これほど相手の力を削ぐ行動は、存在しないと思います。

哀れむ相手には、怒りや憎しみの想いが無いため、手が出せません。

怒りや憎しみや恨みの想いの補給路は絶たれて、結束力は弱まり、力を失い、やがて自然消滅していくと信じています。




愛に根ざした想いでしか、真の平和を実現することはできないと、あらためて思います。

長い時間をかけて、苦痛を伴いながら、愛を学び、少しずつ恒久的な平和が実現していくのだと思います。




自分の想いは目に見えなくても、他者の魂に伝わっていて、影響を与えています。

携帯電話の電波ではありませんが、自らの想いは他者に向けて発信されていて、同調する魂に受信されています。

想いは、脳内に限定された実体の無いものではなく、この世において具現化する力となって働いています。

怒りや憎しみや恨みの想いは争いとなり、愛の想いは平和となって、具現化していきます。

世の中に怒りや憎しみの想いが満ち溢れないように、平和になるように、愛に根ざした想いを抱いていたいと思います。

憎むのではなく哀れむように、私は努力していきたいと思います。




「目を閉じて、じっと我慢。

怒ったら、怒鳴ったら、終わり。

それは祈りに近い。

憎むは人の業あらず、裁きは神の領域。

そう教えてくれたのは、アラブの兄弟たちだった。」



これは、亡くなった後藤健二さんの残したメッセージです。

世界の人たちに向けた、遺書のように感じます。




2015年1月26日月曜日

ガンの自然治癒


昔、大きなホテルに泊まると、ベッドサイドに良く聖書が置いてありました。

手にとって開いてみると、抽象的で、意味の分からないことが、小さな文字で書かれていました。

外国人にとっては、とても馴染み深い本で、読むと心が安らぎ、早く眠りに就けるのかなと思ったりもしましたが、日本人で、しかも宗教に全く関心のない私にとって無縁のものであり、1ページも読めないまま閉じてしまいました。



そんな私でも、イエス・キリストが数々の奇跡を起こしたことは、知っていました。

イエス・キリストの死後の復活は、良く知られています。

その他にも、水をぶどう酒に変えたり、空のかごがパンで満たされたり、弟子たちの前で水の上を歩くといった、奇跡を起こしたと伝えらています。

病の癒しも有名であり、盲目の人の目が見えて、重い皮膚病(ライ病)の人が癒されて、からだの麻痺した人が歩けるようになったと、言われています。

しかし、当時は、そんなことが実際に起こったとは、とても思えませんでした。



人は理性的な動物であり、この様な現象をいくら他人から言われたとしても、信じられるものではありません。

生活していく上で関係なければ、真偽のほどは、どうでも良いのかもしれません。

以前は全く興味のなかった人間が言うのもおかしいのですが、上記の奇跡と呼ばれる現象は、すべて実際に起きた出来事であると、今は信じています。



イエス・キリストは、人々を驚かせようとしたり、憐れみの気持ちだけから、このようなことをしたのではありません。

目に見えない力が存在していることを、公衆の前で奇跡とも思える現象として見せて、証明するためでした。

それを通して、「神の国」について教え伝えることが、最終的な目的でした。

弟子や、当時のイスラエルの人たちが、あれほどまでイエス・キリストを信奉したのは、奇跡と呼ばれるような現象を、実際に目の前で見せられ、経験したからであり、もしそうでなければ、これほどまで強烈に、教えを信じ、命をかけて伝えていくことはしなかったでしょう。

聖書に書かれている奇跡は、イエスの教えを広めていく上で、必要だったと思われます。

そして、イエス自らが、聖書に書かれている教えを体現し、愛に貫かれた人生を送っていたからこそ、世界中に広まっていったのではないかと思います。



イエスの癒しの力は、特別な力ではありません。

傷口を治したり、風邪を治したり、すべての病気を癒す、自然治癒力と同じ力です。

ただし、イエスは並外れた力を、病人に流入させることが出来たと思われます。



今まで、病気で苦しんでいた人が、瞬時に癒されたならば、とても驚くとともに、歓びを感じるでしょう。

少なくても病が癒された人にとって、その力は神からのものであると言われても、違和感はなかったと思われます。

ひどかった苦痛から解放されたならば、神は愛であると言われたとしても、素直に受け入れる人も、多かったのではないでしょうか。



しかし、イエスの力により、誰もが癒されたのではありません。

イエスといえども、因果律の働きに介入することは、出来ません。

病気になって間もない人で、(自然法則に反した)過ちが十分に償われていないなければ、イエスの力をもってしも病気は癒やされなかったはずです。

奇跡と呼ばれる出来事は、あくまでも自然法則に則って、生じています。

イエスの力により、過ちが赦されることはありません。

過ちは、苦痛の経験により、償われます。

長い年月、苦痛を味わい、償いが終わりにさしかかった人が、導かれて来て、イエスにより癒されました。

その癒しにより、多くの人は魂が目覚めて、神を見出したと思われます。



病気は、因果律の働きにより生じます。

何らかの原因があって、その結果として病気が生じています。

多くの病気は、自然法則(神の摂理)に反した、生き方や考え方をしてしまったことが原因となって、生じていると思われます。

自分(魂)のさらなる成長を望み、あえてこの世で病気になる人生を選択して、生まれてきた人もいます。

いずれにしても、病気の目的は、自然法則の存在を知り、自分(魂)を成長させるためにあると思われます。



イエスによる癒やしが行われてから、約2000年経ちたました。

近年、科学技術は著しく発展し、世界は大きな変貌を遂げました。

医学の進歩は目を見張るものがあり、多くの人がその恩恵を受けています。

一昔前では命を落としていた、急性疾患、感染症、外傷などの患者を、救うことができるようになりました。、

診断技術や診断機器は著しく向上し、病気の早期発見、早期治療が可能となりました。

また、遺伝子レベルでの診断や、リスク因子の解明などが急速に進んできており、病気の予防に貢献していると思われます。



それにもかかわらず、日本においてガン罹患者の数は増え続け、毎年30万人以上の人が、ガンで亡くなっています。

平均寿命が延びているという理由だけでは、とても説明がつきません。

根本原因が未だ不明なため、予防策は立たず、根本治療が確立されていないためと考えられます。

有効性に少なからず疑問を持ちながらも、他に頼るすべがないために、現代医学による治療を受けている人も、少なくないと思われます。

未踏の領域に根本原因があり、ルビコン川を渡って踏み込んで行かない限り、根本から治癒させるのは、難しいのかもしれません。



現代医学による治療を、積極的に受けたにもかかわらず、多くの人が亡くなっていく中で、予想に反して自然治癒が起きた人もいます。

医学的に説明がつかないために、多くの医者は、偶然とか、例外として片付けてしまい、見向きもしません。

とても残念なことだと思います。

なぜなら、そんな人たちの中に、ガンという病気の真相を、究明する糸口があると考えられるからです。



医学的な説明がつかない、ガンの自然治癒(退縮)が生じた人たちに共通しているのは、自己変革が起きたと言うことです。

ガンという深刻な病気を経験して、生き方や考え方が、大きく変化しています。

ガンの治癒(退縮)と自己変革には、関係があるのでしょうか?



私は、ガンの主因は、物質的な次元にないと思っています。

目に見えない、霊的次元にあると考えています。

人は、肉体と精神と魂(霊)により構成されています。

肉体は、魂の表現媒体です。

魂で生じた想い(思念)は、言葉、表情や行動となり、肉体により表現されています。

魂のありさまの変化は、肉体の変化として表れる時があります。

ガンは、魂のありさまの変化が、肉体上に表れたものと考えています。

魂のありさまを変化させているのは、自らの想いです。

過去にあった出来事から生じた、(肉体により)表現されなかった想いです。

つまり、ガンは表現されなかった想いが魂に滞り、肉体上に反映されたものと考えています。

その想いは、怒り、憎しみ、恨み、あるいは言葉にならない愛に反する想いであり、幼かったり、想いが強すぎたために、肉体で表現されませんでした。

その想いがあるために、その後に起きるさまざまな出来事で、同様の想いが生まれてしまい、不自然な生き方や考え方に変えてしまうほど、大きくなっていったと考えられます。



従って、表現されなかった想いを解放して、自然な生き方や考え方に変えていけば、ガンは癒やされるはずです。



しかし、それは容易なことではありません。

いくら想いを解放しようと思っても、根が深いものであり、容易に解放できるものではありません。

生き方や考え方を変えようと思ってみても、簡単に変えられるはずはありません。



やはり、ガンの自然治癒(退縮)は偶然なのでしょうか?

そうではなく、自然法則に則って治癒すると考えています。



自然治癒した人の多くは、医者から見放された人や、苦悩の末に現代医学に見切りを付けた人だと思われます。

他の多くのガン患者よりも、むしろ過酷な立場に置かれていた人のように見えます。

さまざまな事情によって、医者から遠ざかり、自らに全てが背負わされた人であり、その孤独感は計り知れないと思います。

眠れない日々を過ごし、恐怖をいやというほど味わい、涙を流しながら苦痛に耐えてきた人たちだと思います。

苦痛や症状がひどくなるたびに、得体の知れないガンに怯え、心身ともに追い詰められていったのではないかと思われます。



頼るものは何もなく、逃げる場所はどこにもありません。

いくら考えてみても、どう願ってみても、ガンから逃れることはできません。

現実味を帯びてきた死と、真正面から向かい合わなければいけません。

それは、今までの人生を省みて、生きる意味を、自分自身に問い質すことにつながります。

その答えは、いくら頭で考えても得られません。

さらに深い部分へ、無意識に問いかけていくことになります。

答えの希求により、それまで沈黙していた魂が揺り起こされます。

そして、長い眠りから目を覚まします。

魂は本当の自分であり、いつわりのない自分であり、その答えとともに、進むべき道を指し示します。

魂の目は見開かれて、本当に大切なことが、はっきりと見えるようになります。



余命宣告を受けた人の気持は、経験のない私にはわかりません。

大きな衝撃を受け、受け入れるまでに時間が必要ですが、その後に、私ならどうするか、想像力を働かせて考えてみました。

あと10年命があれば、やるべきことの優先順位を付けて、余裕をもって生きていくでしょう。

あと1年命があれば、悔いのない様に、出来る範囲でやりたいことをして、これまでお世話になった人に、あいさつをしていきます。

あと1ヶ月命があれば、じたばたせずに、心穏やかに過ごすでしょう。

あと1日命があれば、自分の一生を静かに振り、家族と手を握り合いながら、感謝の気持ちを伝え、その時を迎えるでしょう。

もし、残された時間が、たった10秒であれば、すべてに感謝し、身を委ねるでしょう。



有り余る時間の中で、大切なものを見失ってしまい、限られた時間の中で、真に大切なものを見出すのかもしれません。

残された時間が短くなるにつれ、余分なものは削ぎ落とされていき、生の意味が姿を現していくようです。

ありったけの愛を表現し、感謝する以外に、何も見当たりません。

最後の言葉は、きっと「ありがとう」でしょう。



生命にかかわる病気になれば、生命について思いを巡らします。

残された時間が少なければ、真剣に、ありのままに生きようとすると思います。

ガンは表面的には、肉体蝕み、死に至らせる怖い病気に見えますが、深層は、生きる意味を自らに真剣に問うことで、魂を目覚めさせ、大切なものに気付くために存在していると思います。

自分(魂)を成長させるためにある、自然法則の1つです。

そして、残された時間が少ないと宣告された人、苦痛が大きい人、苦境に立たされた人ほど、魂が目覚めやすくなると思われます。

その危機的な状況が、魂に響くからです。



多くの人は危機的状況に陥った時に、周りに頼るものがあれば頼り、逃げる場所があれば逃げ込みます。

それは、身の危険を回避するために、当然の行動と思われます。

ガンになれば、ほとんどの人は医者という病気治療の専門家に、全てを託します。

そして、死を回避する治療が始まります。

死から逃れるために、すがるものがあれば、すがります。

そして、人為的な苦しみの中で、少しずつ、心身が疲弊していくように思われます。

正面から生と死と向きあい、大切なものを見出す機会が、失われてしまうような気がします。



禍を転じて福となす。

自然治癒した人は、その逆境が、魂が目覚める好機となったのかもしれません。

苦痛の日々により償いを果たし、逆境を乗り越えていく中で魂が向上し、機が熟してきたと思われます。

そして、魂が目覚め、大切なものに気付き、自己変革が起きて、生き方や考え方が変わっていったと思います。

愛という生命力により、ガンを生じさせた表現されなかった根強い想いが解放され、魂が癒やされて、肉体が癒やされたと考えています。

表面上は奇跡的に見えても、自然法則に則って、治癒したと思われます。



ガンは、複雑怪奇に見えて、実は単純明快な病気かもしれません。

本来の自分を取り戻すためにガンになり、本来の自分を取り戻せたのなら、その役目を終える。

自然治癒は、本来の自分を取り戻した結果である。

実際に、自然治癒した人の中には、自然な生き方になり、自分らしさを取り戻したと感じ、ガンになったことをに感謝している人も、多く見受けられます。




2000年前にイエスにより病が癒やされた人も、現代においてガンが自然治癒した人も、同じ自然法則に則って癒やされたと考えています。

償いが終わる時期に来た人が、イエスの力によって病が癒やされて、魂が目覚めて、そして神を見出す。

苦痛の日々が償いとなり、逆境の日々により魂が目覚め、大切なことに気付き、そして病が癒される。

時代と、過程は違いますが、同様に魂が目覚め、同じ生命力により癒やされていると思われます。

神を見出すことも、大切なことに気付くことも、実は同じであり、愛に目覚めることだと思います。

魂は神の一部であり、自らの中にも神がいるからこそ、最も大切なことは愛であることに気付くのだと思います。



ところで、愛に目覚めるのが、それほどまでに、重要なことなのでしょうか?

この世を生きている意味は、自分(魂)を成長させるためです。

自分を成長させるのは、他者に愛を表現することであるため、きわめて重要で、意味のあることです。

愛に目覚めた時から、生まれてきた意味を成就する人生が始まると言って良いのかもしれません。



肉体上の病気の変化よりも、大切なものに気付き、想いが解放され、魂が浄化される方が、大きな意味を持つと考えています。

なぜなら、本当の自分は魂であり、肉体は魂の表現媒体に過ぎないからです。

物質的なことよりも、魂から生まれる想い、そして行いが摂理(愛)に適っているかどうかが大切です。



ガンになり、それまでの生き方や考え方を改めた人は多くいます。

それでも、亡くなっていった人は、残念ながら多くいます。

魂が癒やされれば、自然法則により、肉体も癒やされるのですが、肉体上の病変を消失させるためには、神から与えられた機能が正常に働かなければいけません。

その機能を妨げる人為的な治療により、自然法則が働くのが妨げられます。

償いが終わる時期が来て、魂が目覚め、癒やされたとしても、肉体は生命力により癒されなくなってしまいます。

ガンを知り、恐がらずに、自らの力を信じて、勇気を持ち続けることが、何より大切だと思います。



私にも言い聞かせなければならないことですが、残された時間はあと1日と思って、今日を大切に生きましょう。

大切なことに気付き、今を大切に生きていれば、ガンの存在する理由はどこにもありません。






参考ページ: 「ガン(癌)は怖くない!」

         「ガンは愛により癒される」



















2015年1月12日月曜日

亡くなった愛する人とつながる


亡くなった人の姿を、この世の人は2度と見ることは出来ません。

声を聞くことも、出来ません。

からだに触れることも、出来ません。

目の前から、跡形もなく消えてなくなりました。




亡くなった人は、記憶の中に生きていると、よく言われます。

思い出の中で、生き続けているとも言われます。

それは、慰めに過ぎないのかもしれません。




記憶や思い出の中に、生きているのではありません。

自己表現のために、肉体を必要としなくなった世界で、生きています。

証拠もないのに、良くそんなことを断言できるなと、お叱りを受けてしまうかもしれません。

ガリレオ・ガリレイではありませんが、「それでも、肉体のない魂として生きている」としか、言いようがありません。




死んで無になってしまうのか?

それとも、生き続けるのか?

科学的な検証実験によって白黒の決着を付けるとすれば、魂の存在を証明する術がないために、死んで無になってしまうと結論付けられそうです。

生命の本質を、科学的に突き止めた人は、未だにいません。

それにもかかわらず、生命の存在を否定する人はいません。

科学的に立証されていない生命は否定せずに、魂の存在を否定するのは、いつもどうしてだろうと思ってしまいます。

あらゆる生命体は、変化したり、活動しているのを、目で確認できるため、存在を実感できます。

しかし、実感があるのは、あくまで生命体であり、生命ではありません。

生命は、生命体から体(肉体)を差し引いた、未知なるものです。

その未知なるものこそ、魂です。

生命は肉体に宿った魂であり、肉体は死んで消滅したとしても、魂は変わることなく生きています。

偏見を持たずに、素直に、できるだけ多くの人に、肉体は消滅しても魂として生き続けているという、厳粛な事実を受け入れて欲しいと願っています。

そして、この世をいかに生きてきたかによって、あの世の自分が変わってくる「因果律」という自然法則が、常に働いていることをも、併せて知ってもらいたいと願っています。

知識はないよりも、あった方が良く、遅いよりも、早く知っておいて損はありません。





死とは、肉体と魂の分離であり、故人は次の世界で生き続けているのは、少なくても私にとって、動かしがたい事実です。

私にとって事実であるのに、多くの人にとっては客観的にはっきりと示されないために、事実とならないのは、どうしてなのか考えてしまいます。

愛する人を亡くして、打ちのめされた経験のない私が事実を受け入れて、最愛の人を亡くされて、悲嘆にくれる毎日を送っている、事実を最も必要としている人が受け入れられないのには、きっと理由があると思います。

魂として生き続けているという事実を、一目瞭然の現象として示されないのは、なぜなのか考えてみました。




もし、死んだ人の魂(霊体)が、薄明かりのように肉眼で見えたとしたら、確かに生きて存在していることを、誰もが納得します。

愛する人が亡くなっても、そばにいてくれるのが分かるので、大きな安心をもたらすでしょう。

しかし、肉体はもうありませんので、会話は出来ません。

笑い声も、聞くことは出来ません。

肌のぬくもりも、感じることは出来ません。

近くにいるのは分っているのに、意思の疎通は全く出来ずに、肌と肌で触れ合うこともできないとしたら、どう思うのでしょうか。

私でしたら、愛する人が何を考え、何が言いたいのか、どうしても知りたくなります。

現状に苛立ちを感じ、一刻も早く自分も同じ所に行って、生前と同じように意思の疎通を図りたいという、衝動に駆られてしまうかもしれません。



愛する人を亡くしていない人でも、考えが変わってしまうかもしれません。

「こんな大変で、つらい思いをするのならば、次の世界に行って、新しく生き直した方がいい」と、思ってしまう人がいるかもしれません。

「(肉体は)死んでも、生きているなら、面倒なことは死んだ後にすればいい」と、考える人がいるかもしれません。

「この世よりも、あの世の方が、すばらしい人生かもしれない」と、希望を持つ人がいるかもしれません。

この世の全ての人に、確定的な事実となってしまえば、自然法則の働きを知らずに、この世から逃避をしてしまう人がいるのではないかと考えられます。




生きている意味は、自分(魂)を成長させるためです。

自分を成長させるために、人生で降りかかる出来事を乗り越えていかなければいけません。

苦難や障害は不幸にさせるものではなく、自分に与えられた試練です。

人生最大の試練で、とても耐えられそうにない出来事ほど、必死に、懸命に生きることを迫られ、そんな時ほど自分(魂)は成長しています。

険しい山道が続く人生よりも、できれば平坦な道が続く人生を、多くの人は望みます。

険しい山道が続くほど、到達する頂は高いように、苦難や障害が大きいほど、自分(魂)をより高みに導いているのですが、最中にあっては、ただ苦しく、つらく、悲しく、そこから一刻も早く抜け出したいと思うばかりです。

そんな時に、次の世界があることが、はっきりと分っていたら、この世の苦しみから逃れようとする人は、きっと多くなると思います。

どんなに苦しく、つらく、悲しくても、途中で放棄して、自らの意志により次の世界に逃避するのは、大きな過ちであることを知らないままに。




自然法則は、厳格に働きます。

相等の償いをしなければいけなくなります。

愛する人に逢いたくても、絶対に逢えません。

次の世界で待っているのは、解放された歓びではなく、限りなく深い後悔の想いです。

後悔の想いから解放されるために、今よりもさらに過酷な苦難や障害が待ち受ける人生を選んで、この世に再び生まれて、やり直すことになると思われます。




以上より、全ての人にとって明白な事実とならないのは、この世を真剣に生きるため、逃避する過ちを犯さないためと、私は考えます。




それでも、亡くなった人の魂は存在しているという確証を持ちたい人はいます。

いくら文字の上で、魂として生きていると書かれていても、信じられない人がほとんどです。

しかるべき霊能者から、亡くなった人のメッセージを受け取り、それが自分にしか知り得ないことであれば、生きているという確かな証となるでしょう。

そんな信頼に値する霊能者に巡り合える人は、少ないのかもしれません。

大きなアンテナが付いている受信機は、微弱な電波をキャッチすることができるのと同じで、霊能者は、霊界からのメッセージを受け取る感度が、特に優れている人です。

しかし、それは特別な能力ではなく、すべて人の魂に、想い(思念)の受信機能が備わっていて、亡くなった人の想いは受け取れるはずです。

少しずつ感度を良くして、条件を整えていけば、想いを受け取ることが出来る日がきっと来ると、私は思っています。

しかし、魂の存在など信じられず、そんなことはありえないと思っているのであれば、受信機の電源は切られています。

とりあえず、先入観や疑いの念は脇に置き、亡くなった人は生きていると、心から信じるようにしましょう。




多くの優れた芸術は、次の世界からのインスピレーションにより生まれています。

その瞬間を、小説家は言葉が降りてくる、美術家は映像的イメージが浮かんできた、音楽家はメロディーが降ってきたと表現しています。

モーツァルトもダビンチも、インスピレーションを正確に受けとる感度と、それを忠実に表現できる才能に恵まれていた人です。

インスピレーションの送り主は、同じ想いを持つ霊界の人たちです。

偉大な芸術ほど、霊界の実相を忠実に表現しているため、生命と愛の本質を的確に捉えています。

生命と愛の本質を捉えているので、観る人、聴く人の魂に深く響きます。



芸術家に限らず、頭をよぎった、突然ひらめいた、ふと思いついたインスピレーションは、大脳による思考の産物ではなく、魂が受け取った次の世界からの思念(想い)であることが、多いのではないかと思われます。

インスピレーションをただ受け取れるかといえばそうではなく、ラジオと同じように、次の世界にいる魂と同調が成立していなければいけません。

同調とは、想いを合わせる、想いを共有すると言うのが、近い表現だと思います。

気心が知れた人と一緒に何かを夢中にしていると、一体感や、相手が何を感じたり、思ったりしているのかが分かる瞬間があると思います。

一卵性双生児の中には、お互いの考えていることや、想いが分かる人たちがいるようです。

一緒に暮らしている動物の想いを飼い主が、逆に、飼い主の想いを動物は分かっていると感じます。

五感を超えて分かり合えるのは、魂と魂が同調していて、想いが伝わってきているからと考えられます。

想い(思念)は目に見えませんが、魂から生まれて、内から外に向かって放散されています。

魂から生じた想いは、同調している魂に届き、共鳴して、同じ想いを生じさせます。

もらい涙は、涙する人と同調し、悲しみの想いを受け取った結果だと思われます。

となりの人が大笑いをしていると、おかしくもないのにつられて笑ってしまう時がありますが、想いが伝わってきたからだと思います。

一言も言葉をかわさなくても、分かり合えるのは、想いにより同調しているからだと思います。



たとえ、肉体はなくなってしまっても、魂と魂は同次元にあり、同調することができれば、想いは伝わってくるはずです。

もし、残された人が次の世界に行った人を愛していて、次の世界に行った人が残してきた人を愛しているのであれば、「愛」という想いで、同調できるはずです。

しかし、悲しいことに、この世は雑音に満ちています。

物理的な音の雑音だけではなく、心を惑わす情報に溢れ、必要のない想い(思念)まで受け取ってしまい、それに振り回されています。

最も妨げているは、実は(愛以外の)自分の想いかもしれません。

悲しみや後悔の想いは雑音となり、想いを受け取りにくくさせます。

愛する想いにより同調が成立しても、悲しみの想いに変わってしまえば、瞬時に崩れてしまいます。




一番落ち着く、静かな場所に行きましょう。

そして、心静かにして、日常の雑念が沈殿するのを待ちましょう。

何にもとらわれない、何も考えていない、心を上澄みの状態にしましょう。

しばらくその状態が維持できたら、そっと愛する亡くなった人を心に思い浮かべて下さい。

楽しそうな姿、大好きな姿を思い浮かべて下さい。

そこで、悲しみにとらわれてはいけません。




大好きな姿に、あなたの今の想いを投げかけてみて下さい。

言葉にすると、想いがさらにはっきりします。

「逢いたい」と思うのは当然ですが、叶わぬ願いであり、お互いが悲しみの想いに包まれてしまい、同調できなくしてしまうのでやめておきましょう。

「あの時は楽しかったね」

「出会えて、本当に良かったね」

など、お互いが笑顔になる想いを、愛する人に伝えましょう。

今まで1番楽しかった時、うれしかった時のことを思い出し、その時に伝えたかったことを言葉にしても結構です。

難しいのですが、思い出して、悲しくなってはいけません。

今、置かれている自分を切り離し、その時の自分になりきって下さい。

亡くなった人も、その時のことをはっきりと覚えていて、あなたの言葉をとてもうれしく、心地よく感じているはずです。

そして、受け取ったあなたの想いに応えて、想いを返してくれるはずです。




かすかかもしれませんが、浮かんできた言葉や、ひらめいたイメージはなかったでしょうか?

もし、あったのであれば、気のせいではなく、愛する人からのメッセージかもしれません。




想いが言葉では言い表せず、イメージにもできないのであれば、あなたの魂に直接、想いを投げかけて来るかもしれません。

心臓でも、頭でもなく、自分の中心が響いているような、振動するような、今までになかった感覚を感じないでしょうか?

内からこみ上げて来る、あたたかさ、やさしさ、言葉に出来ない懐かしい想いを、感じないでしょうか?




感情はないはずなのに、涙が出てきてしまい、抑えることができなくなるかもしれません。

それは、愛する人の想いが、あなたの魂に伝わって、同じ想いで共鳴しているからだと思われます。

その涙は、悲しみの涙ではないはずです。

歓びの涙です。

その歓びを生み出しているのは、あなたへの想いです。

前と同じように、歓びを共有し合えた、証の涙です。

愛し合えた、歓びの涙です。

愛する人の想いが、あなたの肉体によって表現されています。

悲しい顔ではないはずです。

涙を流していても、笑っているはずです。

うれしくて、うれしくて仕方がないはずです。

いつまでも、この喜悦の感覚、呼応する一体感に浸っていたくなるかもしれません。

信じる心と、愛する心があれば、自然法則の働きにより、きっとつながることが許されると思います。




愛する人は見えなくなりましたが、魂は存在し、お互いの想いを伝え合うことが出来ます。

お互いの魂が、愛する想いで、つながっています。

一人ではありません。

そばにいて、見守っていてくれています。




もし、幸運にも、愛する人と想いで共鳴することが出来たのなら、今までのように悲しむのはやめましょう。

いつでも一緒にいるのが分かったのですから。

生きている時よりも、近くにいることが分かったのですから。

深いところでつながっていることが分かったのですから。

いつでも想いを伝え合うことができるのですから。

そばにいてくれている幸せを、噛みしめて生きていけます。

悲しみの想いを振り払い、さらに魂と魂のつがりを深めていきましょう。

新たなページをめくる時が、来たのだと思います。




あなたの悲しみは、愛する人の悲しみです。

愛する人の悲しみは、あなたの悲しみです。


あなたの歓びは、愛する人の歓びです。

愛する人の歓びは、あなたの歓びです。




この世にいた時と、何も変わってはいません。

目には見えないけれども、今も、想いを共有して生きています。

目に見えることよりも、想いを共有し合える方が、心は安らぐはずです。

なぜなら、愛する人の実在は、目に見える肉体ではなく魂であり、そこから生まれる想いだからです。




この世にいた時と同じ様に、歓びを共有して、生きていきましょう。

それは、愛する人のあなたへの、伝えにくかった願いかもしれません。






こちらの想いは、愛する人に、自然に伝わります。

しかし、愛する人の想いを受け取るためには、双方の努力が必要と思われます。

そして、受け取る側の感度には、大きな個人差があると思われます。

すぐに受け取れなくても、焦らずに、愛する人に、想いを投げかけ続けていて下さい。

つらい日々は、決して無駄なものではなく、少しずつ霊的感性は研ぎ澄まされていき、愛する人の想いが、魂に伝わってくるのを実感できる日が、きっと来ると信じています。






参考ページ: 「先に逝った理由」
       
       「信じることで愛することができる」
      
       「向こうにいる人の想い」
  
                        「向こうにいる人を愛する」




参考HP:「最愛の我が子やご家族や、また愛する人を亡くされた方へ~死の真実を求めて~」一人息子さんを亡くされたお母さんのHPです       

参考動画:「天国と地球で初めて繋がった時」向こうにいる妹さんとつながっているお姉さんの話です



2014年12月28日日曜日

ガンは愛により癒される


これから書くことは、「魂」の存在を認めることが前提になっています。

従って、否定する人にとって、荒唐無稽な文章に思えるでしょう。

「魂」の存在を否定する人であっても、「愛」は実感があるため、存在を否定する人は少ないと思います。

どちらも目に見えない、五感に触れないものですが、「愛」の存在を信じられたのなら、「魂」の存在も信じられるはずです。

なぜなら、両者は同じ次元にある霊的なものであり、「愛」は「魂」から生まれるものだからです。



ガンという、人々を苦しめる病気の、根本的な治療方法は確立されていません。

最先端の科学の目で、ガン細胞や身体の隅々まで調べてみても、未だ根本原因は見つけられていません。

従って、現時点での治療方法は、手術、化学療法、放射線療法といった、大きな侵襲を伴う対処療法となっています。



もしかしたら、科学の対象となっていない領域に、ガンの原因があるのかもしれません。

私は、ガンの根本原因は肉体(物質次元)にはなく、魂(霊的次元)にあると考えています。

そして、ガンは「愛」と深く関係した病気だと考えています。

少し長くなりますが、そのことについて書いていきます。



一般的に、ガン細胞は遺伝子のコピーミスにより、発生すると言われています。

遺伝的要因や発がん物質や放射線などの環境因子により、コピーミスが誘発されるというのが、通説となっています。

確かに、乳ガンや大腸ガンは家族性に発生したり、ヘビースモーカーは肺ガンになりやすかったり、被爆により白血病は高率に発生します。

しかし、それらの要因から免れている人でもガンは発生し、要因に晒されていてもガンにならない人は多くいますので、それだけでは説明できない、何らかの要因が存在しているはずです。

その何らかの要因が、ガンを解き明かす重要な鍵になっているのかもしれません。



私は、コピーミスについて、どうしても疑問に思うことがあります。

なぜ、赤ちゃんはガンにならずに生まれてくるのか?

赤ちゃんは、1つの細胞(受精卵)から数十兆の細胞に分裂し、1つの個体を形作って、生まれてきます。

もし、単純なコピーミスであれば、環境因子の影響はないにしても、最も細胞分裂が盛んな胎児期に、高頻度にガンが発生してもいいはずです。

しかも、免疫系の発達は、成人と比較して未熟です。

それにもかかわらず、胎児期にガン細胞が発生し、乳幼児期に発症することはほとんどありません。



ガンが偶発的なコピーミスで発生した、イレギュラーな細胞ではないと思わせることがあります。

抗ガン剤は、頻繁に分裂するガン細胞のプロセスを逆手に取った薬です。

そのメカニズムは理に適っていて、理論上ではガン細胞の増殖は封じ込められて良さそうに思えます。

しかし、当初、高い感受性示していた薬剤にも、ガン細胞は抵抗性を徐々に獲得していきます。

抗ガン剤が効かなくなるという現象が、起きてきます。

新たに開発された抗ガン剤に対して、ことごとく薬剤抵抗性を獲得していくガンの様子を見ていると、あらゆる事態に対応するプログラムが、あらかじめ内在されていて、このような現象が起きているのではないかと思えてしまいます。

そのプログラムを創造した叡智には、人間の叡智など足元にも及ばないため、いかなる抗ガン剤を開発しても、結果は見えているのではないかと思えてしまいます。



すべてが、目には見えない自然法則という「きまり」によって支配され、秩序は保たれています。

地上から空に向かって石をなげれば、万有引力の法則に従って落ちてきます。

親の特徴は子供に、法則に従って遺伝します。

ミクロの細胞から、マクロの宇宙まで、自然法則が行き届かないところはありません。

人の寿命も、自然法則により定められ、130歳を過ぎて生きることはできません。

病気は自然法則の働きにより発生し、人々を苦しめているガンも、例外ではありません。

ミスにより生まれて、単純に増殖を繰り返し、肉体を死に至らしめ自らも消滅するというのでは、あまりにも不合理です。

ガンの発生、増殖、防御、そして死滅など、あらゆることを想定したプログラムが、あらかじめ細胞に内在していて、何らかの自然法則に従って、発現しているのではないかと思われます。



国の法律は、社会を治めるために、人間の手によって創られました。

自然法則も、何者かにより創造されたはすです。

そして、何者かの意志や目的が、自然法則の中に顕現していると思われます。



自然法則の一部として、ガンが生じているのであれば、そこには何らかの意志や目的があるはずです。

では、何の意志や目的があって、ガンを生じさせたのか?




人体は37兆個(60兆個ではないようです)の細胞により、構成されています。

現代科学では、精神(心)は脳細胞から生まれる、“特殊なもの”として考えられています。

よって、脳がなくなれば、精神(心)も消滅して、無の世界になると考えられています。



しかし、精神(心)は脳から生まれるという、根拠は何一つ見つかっていません。

心とは何か?意識はどこに存在するのか?その答えを見つけるために、長い間、研究は続けられていますが、残念ながら成果は見られないようです。

すべて脳内で起こる現象として説明しようとするのは、無理があります。

なぜなら、心や意識は、科学の対象となる大脳から生まれるのではなく、科学の対象となっていない「魂」から生まれるからです。



人を構成しているのは、肉体と精神、そして魂です。



魂が存在するのか?それともしないか? 少し興味はあっても、多くの人は生きていく上で関係はないと考えています。

しかし、誰もが関わっている、人生、死、病気について、魂の存在を抜きにして本質を知ることはできません。

魂の存在を受け入れて、霊的な知識を知っていれば、合理的な解釈が可能となります。

魂(霊)の存在を信じている人は、宗教に係わっているか、オカルト的なことに興味がある人と思われているためなのでしょうか、堂々と論じられることは、あまりありません。

信じない人は、確たる根拠もなく盲目的に否定しているだけであり、いかがわしい概念としか思っていません。

根強い偏見や、固定観念により、魂の存在は否定され、そのために生命の本質は、包み隠されたままになっています。



ほとんどの人は、精神(心)が存在していることを認めています。

そして、肉体(身体)と精神の間に、密接な関係があることを、経験的に知っています。

大きなストレスにより、胃潰瘍になるのは、周知の事実です。

同様に、魂と肉体も密接不可分の関係にあり、多くの病気の原因が、魂(霊)にあると考えられます。

人々を苦しませているガンは、魂(霊)に深くかかわっている病気だと思われます。



人生は、途切れることのない自己表現の連続により、紡がれていきます。

人は、表現するために、生まれてきたと言ってもいいのかもしれません。

何もないところから、表現は生まれるはずもなく、表現には常に想い(思念)が先行しています。



想いは、大脳から生まれるのではありません。

魂から生まれています。



魂があるからこそ、すばらしい音楽を聴いたり、神秘的な光景を見て、感嘆の想いが生まれます。

大脳の電気的なやりとりで、美を感じる心が生み出されるはずはありません。

美しいものを認知するのが大脳であり、美しいと感じるのは魂です。

魂に響いて、想いが生まれます。

生まれた想いは、脳により認知され、電気的な信号に変換されて、肉体で言葉や行動として表現されます。

想いは力(エネルギー)であり、精神(心)に投影され意志や感情という力になり、さらに肉体で具現化する力に変わっていきます。



愛する人が亡くなると、悲しみが生まれ、涙が流れます。

裏切られると、怒りが生まれ、相手を激しく叱責します。

親切にしてもらうと、喜びが生まれ、笑顔になります。

人生で起きるさまざまな出来事から、さまざまな想いが生まれ、肉体により表現されています。

それが絶え間なく、繰り返されています。



想いは、大きく2つに分けられます。

愛の想いと、愛に反する想いです。

人や動物を愛しく思う心、やさしさ、親切心、同情心、寛容な心、お互いの違いを認め合う心、許し合う心は、愛の想いから生まれます。

自分よりも、他者を優先し、喜びを与える心を、愛の想いと言ってもいいのかもしれません。

怒りや憎しみ、恨みや嫉妬、そして貪欲等は、愛に反する想いであり、他者を傷つけたり、悲しませたり、貶めたりしようとする衝動を起こさせる想いです。

他者よりも、自分を優先することから生じる想いと言っていいのかもしれません。



愛の想いを表現すれば、喜びに満たされます。

愛に反する想いを表現すれば、苦痛が生まれます。

他者を認め、他者を許せば、平和が生まれます。

他者を認めず、他者を許さなければ、争いが生まれます。

何となく、そうなってしまうのではなく、厳然とした自然法則が働いた結果です。



自然法則を創造した者を、表す言葉として1番近いのは、「神」かもしれません。

すべての自然法則には、神の心(意志、目的)が働いています。

神の心が、自然法則の中に、顕現しています。

神の心は、「愛」です。



何かをすれば、何かが起こるのは、当たり前の様に思えますが、自然法則の根底にある「因果律」の働きです。

原因があって、結果が生じているのであり、すべての結果は、原因に従っています。

仏教では、因果応報であり、

イエス・キリストは「蒔いた種は、自らが刈り取る」と、表現しました。



愛の想いを表現すれば、神の心を表現していることになります。

法則(摂理)に適っているので、因果律の働きにより、喜びや平和がもたらされて、魂の成長が得られます。

愛に反する想いを表現すれば、法則に反しているので、因果律の働きにより、争いがもたらされ、苦痛による償いが生じます。



生命にかかわる自然法則は、愛を学び、愛を表現させるためにあると考えられます。

生命は、神の愛を表現するために存在し、愛を表現することで、生きている意味が成就されると考えられます。

しかし、人間には肉体があります。

肉体を養っていくためには、食べていかなければいけません。

食べていくためには、働かなければいかず、そのために多くの時間と労力が割かれます。

そして、肉体からの欲求は強いために、意識はどうしてもそちらに向かってしまいます。

人のことより、自分が生きていく方が、大切になってしまいます。

生きていくのに精一杯で、余裕はなくなります。

誰しも、自分が1番かわいいものです。

そんな制約の中で、いかに愛を表現していくのかが、この世で試されているのだと思います。



病気は、人を悩ます、誰しも避けて通りたい出来事です。

あらゆる病気は、自然法則に従って生じています。

ガンという、深刻な病気も、当然のことながら、自然法則に従って生じています。



細胞の1つ1つは、神の力により活動が営まれているとともに、自然法則(神の摂理)を顕現させる能力を持っていると思われます。

人間の営みのはミスがつきものですが、自然の営みには、万に1つの誤りもありません。

細胞分裂は自然の営みであり、何億回繰り返そうとも、ミスなどあり得ません。

従って、ガン細胞はミスなどではなく、自然法則が働いた結果として、発生したと思われます。



細胞分裂を繰り返す、あらゆる動物や植物に、一定の割合でガンが発生しそうですが、不思議なことに、野生動物や植物には、ガンはほとんど認められないと言われています。

実感としては、ガンは人間や、人間の回りにいる動物に発生していると思います。

それらは、多様な想いが生まれる動物だと思います。

さらに言えば、愛の想いを知る動物に発生すると、考えられます。

愛の想いが生まれると、同時に憎しみや嫉妬という、愛に反する想いも生まれることになります。



生命は神から流れ込む(生命)力により、生かされています。

流れ込む力により、魂からは、さまざまな想いが生まれます。

力の源は神であるため、その力は愛そのものですが、発展途上にある、人間の魂から生じるのは、愛の想いとは限りません。

時として、怒りや憎しみ、恨みや嫉妬といった、愛に反する想いも生じます。



自然法則は、目に見える物質だけでなく、目に見えない、自分の「想い」にまで働いています。

愛の想いを抱けば、神の摂理と一致しているため、自然法則の働きにより、喜びがもたらされます。

怒りや憎しみ、恨みや嫉妬、貪欲といった想いを抱けば、神の摂理に反しているため、自然法則の働きにより、苦しみや痛みがもたらされます。



怒りや憎しみなどの想いが生じて、それを言葉や行動で表現してしまうと、因果律の働きにより、他者との間の、平和や調和や協調は崩れて行きます。

怒りや憎しみなどの想いが生じて、それを言葉や行動で表現されなければ、因果律の働きにより、自らの中の、平和や調和や協調が崩れて行きます。



想いは、生まれては消えていく泡の様のように、実体が無いものに思われがちです。

しかし、霊的次元においては、実在そのものです。

目に見えるものではありませんが、肉体次元にも働きかけて、具現化させる力を有しています。

そして、同次元にある、魂のありさまを変化させる力を、秘めていると考えられます。

その想いが、大きければ大きいほど、魂や精神そして肉体に、強い影響を及ぼすと思われます。

想いは、精神を経由し肉体により表現されない限り、滞っていて、なくならないと思われます。



愛に反した想いが生じて、表現されずに滞っていると、魂のありさまは、次第に平和、協調、調和を欠いたものに変わっていきます。

魂のありさまが変わってくると、人生で出会う出来事により、平和、協調、調和を欠いた想いが、次々と生じるようになっていきます。

怒りの想いがうっ積していると、ささいな出来事で、怒りやすくなります。

悲しみの想いがうっ積していると、ささいな出来事で、悲しくなり、涙が出ます。

表現されなかった想いが滞っていると、その後の人生に大きな影響を与えていることになります。



人は、愛を表現することで、人間(魂)が成長します。

しかし、想いがうっ積していると、愛は表現されにくくなり、成長が妨げられます。

やさしくしなければいけない時に、どうしてもやさしくすることができません。

許してやらなければいけない時に、どうしても許すことができません。

それどころか、無意識のうちに、人を傷つけてしまうこともあります。

成長していく人間にとって、看過できない問題だと思われます。



人間は、神から流れ込む生命力により、生かされています。

その力は、魂で想い(思念)となり、肉体で表現されています。

川に投げ込まれた岩が、上流から下流に向かう流れを堰き止めてしまうように、滞った想いという障害物は、魂で生まれた想いを肉体で表現するという、絶え間のない生命力の流れを、堰き止めてしまっています。



想いという障害物があったとしても、五感に触れないため、気付くことはほとんどありません。

慌ただしい生活の中で、心の奥底にある想いに気付くことは、きわめて困難です。

自らの成長を妨げている想いに気付き、解放させてやるのは、ほぼ不可能です。



行き着くところまで行くと、神の摂理である、因果律が働きます。



肉体は魂を表現する媒体であるため、想いは肉体で表現されることになります。

平和、協調、調和を欠いた魂にある想いは、因果律の働きで、肉体上に平和、協調、調和を欠いたガンという病変として表現されます。

表現されなかった、怒りや憎しみや恨みなどの想いは、形を変えて、ガンとして肉体上に表現されます。



ガンの正体は、表現されなかった(摂理に反した)想いと言うことになります。



自らの想いにも自然法則は働いていて、1つ1つの想いが見過ごされることはありません。

自由には責任が伴います。

どんな想いを抱いても自由ですが、抱いた想いには責任が伴います。



愛(神の摂理)に反する想いを、抱き続けた過ちに対しては、償いが必要となります。

ガンに伴う苦痛は、経験した人でなければ分からない、大変つらいものと思われますが、自らの想いに対する償いとしてあります。

因果律は絶対公正であり、過ちを帳消にすることは、何を持ってしても無理です。

等価の苦痛を経験しない限り、過ちは償われません。

それは同時に、過ちを償ってしまえば、苦痛は必ずなくなることを意味します。



真剣に生徒のことを思いやる先生は、生徒が悪いことをした時に、心を鬼にして、叱ったり、償いとして罰を与えます。

その行為が過ちであることを思い知らせて、2度と同じ過ちを繰り返さないで、人生を、正しく、誠実に、幸せに生きて欲しいとの、願いが込められているからです。

ガンによる苦痛は、無意味なものでも、理不尽なものでもありません。

自然法則によって生じた病気の、1つの現象としてあり、そこには意志や目的があります。

愛に反する想いを抱き続けることが、過ちであることを思い知らせています。

そして、肉体の奥で眠っている魂にまで響き、目覚めさせるという、大切な目的があります。



魂は、神が創った、神の一部であり、つながっています。

魂が目覚めたということは、神の心に目覚めたということになります。

神の心は愛です。

魂が目覚めれば、愛に目覚めます。

愛より大切なものは、この世にも、あの世にもありません。



ガンの苦痛は、魂を目覚めさせるためにあります。

最も大切なものは、愛であることに気付きます。

愛が最も大切だと気付けば、生まれる想いは、愛を帯びたものに変わっていきます。

魂のありさまは、次第に平和、協調、調和を取り戻していきます。

愛の想いにより、神とのつながりは深まり、生命力が魂にふんだんに流れ込んできます。

滞っていた想いは、生命力により生まれた愛の想いにより、手放されていきます。

魂が癒されて、肉体も後に続きます。



現在、肉体上にガンがあるのであれば、滞っている想いもあるはずです。

もし、償いが終わる時期が近づいているのであれば、その想いを手放せるかもしれません。



魂に滞っている想いは、過去の人生で起きた出来事から生じています。

記憶としては忘れてしまっている、遠い過去の出来事であっても、表現されなかった想いは、消えることなく留まっています。

表現されない想いは、脳の記憶として残っているのではなく、霊的次元の魂に留まっています。



ガンになる想いを生じさせた出来事は、今までの人生のどこで起きたのか、すぐには思いつかないかもしれません。

今の生き方や考え方を変えるために、ガンになると考えられます。

そうであれば、生き方や考え方を変えてしまった過去の出来事により、想いが生じたと考えられます。



その想いは、出来事をどうしても許すことが出来なかったため、認めることが出来なかったため、納得出来なかったために、生じたと思われます。

生じた想いは、怒りや憎しみや恨み、そして悲しみなどが複雑に組み合わさっていたり、とても強烈な想いであったために、表現できなかったかもしれません。

表現できなかった想いは、その後の人生で遭遇する出来事や、ふとした言葉や仕草、何気ない行いにより、瞬時に蘇ります。

そして、同じような想いを生じさています。

その想いがあるために、あらたに想いが生まれ続けています。



その想いに気付かなければいけません。

言葉にならないほどの想いを生じさせた出来事、生き方や考え方を変えてしまった出来事と、もう1度向き合わなければいけません。



それは、忘れてしまいたい出来事であり、固く封印されている想いかもしれません。

心の傷に触れることになるかもしれませんが、ガンを癒やすためには避けて通ることは出来ません。

その出来事に触れると、大きな感情のうねりのようなものが、突如湧き上がってしまうかもしれません。

それは、怒りの感情を超えた、激怒、憤怒の想いかもしれません。

もし、猛り狂う想いが湧き上がってきたのなら、恥ずかしがらずに、遠慮することなく、思いっきり大声で吐き出してみましょう。

内に留まっている想いを、外に向かって、肉体で表現して出すようにして下さい。

毎日、少しずつでも大丈夫です。

あの時の、表現できなかった想いを、今、言葉にできるのであれば、言葉にして解放して下さい。

うまく言葉にできなければ、しかるべき場所で湧き上がる想いのままに、叫んでみてもいいでしょう。

内に留まっている想いは、肉体で表現されてはじめて解放されます。

悔しさは、怒りとして表現されたり、涙となり表現されたりしますが、それですべてが表現できるとは限りません。

怒りや悲しみといった感情的な想いではなく、満たされない想いや、虚無感、喪失感に近い想いであるかもしれません。

言葉では言い表せない、表現する言葉が全く見つからない、想いであるかもしれません。

声にもならない、想いかもしれません。

そんな想いを、肉体で表現し解放するのは、とても困難です。



そんな時は、無条件に愛して下さい。



あの時の、つらかった自分を、思い出して下さい。

あの時の、つらかった自分の想いに、気付いて下さい。

あの時の自分の想いに気付き、今の自分が代わりに涙を流して下さい。

涙とともに、表現されなかった想いが、少しずつ流れて行きます。

心の中で、本当につらかったあの時の自分に出会い、寄り添い、手を取って、一緒に涙を流しましょう。

あの時の自分は、精一杯生きていて、出来る限りのことをしていました。

心から慈しみ、「つらかったのに、本当に良く頑張った」と、慰めましょう。



あの時の自分と、今の自分は違います。

あの時、自分は許せなかったとしても、今の自分は許せます。

同じ魂であっても、1つ上に進んでいます。

1つ上に進んだ自分が、あの時の自分に代わり、その出来事を許してあげましょう。

決して許せなかった、認められなかった、納得できなかった出来事も、ガンになり苦痛を経験した今の自分ならできるはずです。

これまで苦痛に耐えてきたことを思えば、許せない出来事などないはずです。

愛の大切さに気付いた自分が、そのことに気付いていない自分に代わって、出来事を許して、想いを解放してやりましょう。



あの時の、つらくて、悔しくて、悲しかった自分を、心から愛してやりましょう。

ガンにならなければ、あの時の自分には出会えないのです。

あの時の想いにも、気付けないのです。



あの時の自分を、慰めて下さい。

あの時の自分を、励まして下さい。

あの時の自分を、愛して下さい。



今の自分が、あの時の自分の固く閉ざした心を開いて、想いを解放して下さい。

その時が、今、やっと来たのです。







ガンという病気にも、起承転結があると思います。


表現されなかった想いが生まれ、大切なことを忘れてしまい、

その想いがあるために、その後の人生で同様の想いが生まれ続け、

想いの塊が、肉体にガンとして表現されて、苦痛を経験し、

大切なことに気付いて、本来の自分に戻る。



この世は、さまざまな経験を通して、大切なことを学ぶことができる、貴重な世界です。

大切なことを学ぶために、真逆のものが存在する、比較対照の世界です。

健康のありがたさは、病気になって、初めて分かります。

生命にかかわる病気なり、生命の尊さに気付きます。



ガンは、いらないものを、ことごとく剥ぎ取っていきます。

そして、最後に真実が姿を現します。



生命は自分のためではなく、他者のためにあります。

生きる目的は、愛することです。

苦痛という代償を払ってまでも、手に入れる価値のある真実だと思います。



ガンという病気を、怖がる必要はありません。

不治の病でも、死に至る病でもありません。

魂が癒されれば、その結果として肉体は癒されます。



ガンは愛により癒されます。





参考ページ: 「ガン(癌)は怖くない!」










2014年12月11日木曜日

その一瞬の時のために強く生き抜く



29年前、私は大学生でした。

友達の親が所有する山荘に泊まりながら、仲間と騒いで夏休みを過ごしていたところに、1機のジャンボ旅客機が音信不通となったと知らせるニュースが飛び込んできました。

この近くに、どうやら旅客機が落ちたみたいだと、少し騒ぎになった記憶があります。

次の日の朝、山の中腹の木々がなぎ倒され、機体が粉々に砕け散った墜落現場の様子が、ニュースで映し出されていました。

1985年8月12日夕刻、日航ジャンボ機が群馬県上野村にある御巣鷹山に墜落し、520名の方が亡くなられました。



その後、ご遺体は、近隣の市の学校の体育館などに移送され、ご家族による身元確認が行われました。

身元確認には、歯のレントゲン写真や治療内容を記録したカルテが有力な根拠となっていました。

近隣の市で歯科医院を営んでいた父が、警察から身元確認作業の依頼を受け、歯科学生であった私も、何ができるという訳ではありませんでしたが、同伴しました。

お焼香の煙りが立ち込める体育館に入ると、まだ身元の判明しない何十もの棺がならんでいました。

棺の中には、原型を全くとどめていない、ご遺体の一部が納められていました。

冷静に、淡々と、ご遺体を1つ1つ確認をされていたご家族の姿が、今も印象に残っています。

身体のほんの一部分の特徴を見ただけで、亡くなられたご家族だと、すぐに判るようです。



この事故で亡くなられた乗客の一人に、河口博次さん(享年52才)という方がいました。

墜落前にダッチロールを繰り返す、想像を絶するパニックとなった機内で、ご家族向けてメモ書きしたメッセージを残したことで、多くの人に知られることになりました。

この文章を読まれて、飛行機事故の悲惨さを、改めて感じた人も多いのではないかと思います。



亡くなる直前の、一人の男性の魂の叫びです。


「マリコ 津慶 知代子 

どうか仲良くがんばって ママをたすけて下さい


パパは本当に 残念だ きっと助かるまい

原因は 分らない 今5分たった


もう飛行機には 乗りたくない

どうか神様 たすけて下さい


きのう みんなと 食事したのは 最后とは 

何か機内で 爆発したような形で

煙が出て 降下しだした 

どこえ どうなるのか

津慶 しっかり た(の)んだぞ


ママ こんな事になるとは 残念だ 

さようなら 

子供達の事を よろしくたのむ


今6時半だ 

飛行機は まわりながら 急速に降下中だ 


本当に今迄は 幸せな人生だったと感謝している」



時を経て、読んでみても、胸に迫るものがあり、涙が出ます。

どんなに怖かったでしょうか。

どんなに無念だったでしょうか。

言葉もありません。

こんな壮絶な状況下においても、家族に想いを伝えようとしたことに、驚きを感じます。

最後まで残るものは愛であり、恐怖にも打ち克つことを、証明されていました。



メッセージを受け取った、ご家族はどう思ったでしょう。

「たのんだぞ」と言われた津慶さんという息子さんの魂に、お父さんの遺志は刻み込まれたと思います。

十字架を背負され、その重さに耐えられなくなりそうな時があったのかもしれませんが、きっと今も約束を果たされていると思います。

もし、私がこの様な形でメッセージを受け取ったのならば、迫り来る死の恐怖の中で、想いを伝えようとした父親に、畏敬の念を持つかもしれません。

「強く生きろ」という、強烈なメッセージを感じてしまいます。



「ママ」と書かれていた、妻である河口慶子さんは、突然の事故でご主人を喪いました。

昨日まで幸せだった家族が、一瞬にして、不幸のどん底に落とされる。

同様の経験をした人でなければ、とても理解できるものではありません。



河口慶子さんは事故後、しばらくしてシルバーバーチの書籍と出会いました。

何ものにもまして、支えてくれたそうです。

ご遺族や出会う人たちに、数千冊を配られたそうです。



その後、それまでの人生とは無縁と思われる世界に、進んでいかれました。

「光の彼方に-死後の世界を垣間みた人々」レイモンド・ムーディ(著)という書籍を、翻訳されました。

平凡な主婦から翻訳家になり、生命の真実を伝える。

ご主人の死と、霊的真理との出会いにより、生き方や考え方が大きく変わっていったと思われます。

今も傍にいてくれて、見守っているという確信がなければ、この様な仕事は決して出来ません。



苦しみ、痛み、悲しみを伴う、苦難や悲劇と言われる出来事を経験して、魂が目覚め、大切なことに気付きますが、河口さんのように、衝撃的で、惨劇とも言える出来事により、たどり着かれる人もいます。

こんな過酷な人生を歩んでまで、魂が目覚めなくても良いと、思われる人も多いでしょう。

魂が目覚め、本当の人生が始まるとしても、このような悲惨な出来事が事前に分かっていたのなら、誰もが回避しようと思うでしょう。

避けて通りたい出来事が生じて、ぎりぎりまで追い詰められて、魂が目覚めますが、誰しも望んでいたわけではありません。

目覚めようとして目覚めるものではなく、身に起きた出来事により目覚めさせられるのだと思います。

河口さんは、ご主人が残されたメッセージを目の当たりにして、魂が呼び覚まされたと思っています。



もし、ご主人がこの事故に出会うことなく、平凡に老後を過ごされている自分と、今の自分のどちらを選ぶでしょうかと、質問をしたならば、どうお答えになるのか、勝手に想像してみました。

きっと、今の自分を選ぶのではと思います。

この事故により、打ちのめされて、どれくらいの涙を流されたのか知りません。

心を癒やす間もなく、3人の子育や生活に追われて、人一倍のご苦労をされているのは間違いありません。

人にはわかってもらえない想いが、山のようにあったと思います。

しかし、ご主人の残してくれた、奇跡とも言えるこのメッセージは、その後の人生で出会う苦難や困難を乗り越えていくための原動力になったと思います。

「今までは幸せな人生だったと感謝している」という、最後の一言に、どれほど救われ、ご主人の深い想いを感じられたのか、分かりません。

ご主人が残されたメッセージで、魂が目覚め、手に入れたものが「生命は霊(魂)であり、永遠に生き続ける」、「他者のために人は生きている」という崇高な真理だったのかもしれません。

魂が目覚め、真理を受け入れて、予想もしなかった新たな人生が始まり、真に生きる意味を成就されて行かれたのだと思います。

悲痛の経験を通して手に入れた、生命の真実を、救いのない悲しみの中で、さまよっている人たちのために伝えています。

人からは、ご主人を早く亡くされて、変わった方向に行ってしまった可哀想な奥さんと、見られているかもしれません。

しかし、ご本人は、事故で亡くなった519名の遺族に、そして愛する人を喪った人たちに向けて、「生き続けている」という真実を伝えることが、メッセージを受け取った自分の果たすべき使命と、感じているのではないでしょうか。



恐怖に打ち克ち、家族への愛を表現したご主人の、魂の高さ、そして強さを、まざまざと見せつけられたのだと思います。

心から、ご主人を尊敬されているのだと思います。

人のために尽くすことで愛を表現し、試練を乗り越えることにより、魂が成長し、魂を成長させることこそが、この世に生まれてきた意味であることを十分に承知され、究極とも言える試練の中で、立派に愛を表現された、尊敬するご主人に、少しでも近づきたいと思い、幾多の試練を乗り越えることが、今生に残された自分には必要と、はっきりと認識されているのではないかと思います。

次の世界で、ご主人と魂と魂で結ばれるために。



先に行った者は、次の世界で上に向かって進むのを止めて、残してきた者が、この世で苦難や悲しみを乗り越えて成長していく姿を、見守っていると思われます。

向こうに行くと、苦しい時、つらい時、悲しい時こそが、残してきた愛する人の魂を成長させる好機となっていることが、はっきりと分かります。

時に涙を流し、時に笑い、時に嘆き、時に喜びながら、無事に乗り越えていくことを、ひたすら願い、見守っていると思います。

人生で起こる、さまざまな出来事を、その人らしく乗り越えて、一歩一歩と近づいてくる姿に、深い喜びを感じているのかもしれません。



しばらくすれば、この世に別れを告げる日が訪れます。

死は断絶の終焉を意味します。

神の公正は絶対であり、悲しい思い、寂しい思い、つらい思いをした人ほど、再会の喜びも大きく、光り輝く日々が待っていることを、ご本人は承知していると思います。


ご主人との約束を果たし、「ママ、よく頑張ったね!」と、やさしく抱きしめてもらう一瞬の時のために、気丈に生きてこられたのかもしれません。

ご主人の様に、最期の一瞬まで強く生き抜き、堂々と、胸を張って、笑顔で再会を果たしたいのだと思います。






参考ページ: 「天国に一番近い場所 ~御巣鷹の尾根に立って~」






























2014年11月30日日曜日

ガンの正体は表現されなかった想いである


無知と言う暗闇は、人に恐怖を与えます。

先になにがあるのか何も見えず、自分の置かれている状況が分からないからです。

手探りでは、足がすくんでしまい、どこに行っていいのかもわからなければ、一歩前に進むことはできません。



知識は、周囲を明るく照らす光です。

自分が進むべき方向を、指し示してくれます。

周りが照らされ、進むべき方向が分かれば、迷いや怖れはなくなります。



すべての病気に原因があります。

難治性の病気の多くは、未だ原因が解明されていません。

ガンという人々に恐怖を与える病も、何らかの原因があってが生じているはずですが、全容は残念ながら解明されていません。



原因があって、結果が生じるのは、病気に限ったことではありません。

交通事故は、不注意が原因となって、起きることがあります。

私が、7年前に行政処分を受け、今まで味わったことのない思いをしたのは、良心の声に耳を傾けずに、不正請求という過ちをしてしまったためです。



人に親切にして、動物にやさしくして、社会のために奉仕すれば、人生に実りがもたらされます。

人や動物を傷つけたり、社会に迷惑をかけてしまうと、償いをしなければいけません。

実に単純明快なルール(神の摂理)が、人が生きている地球のみならず、宇宙の隅々まで支配しています。



人に親切して、喜んでもらうと、ちょっと恥ずかしくもなりますが、うれしくなり、気持ちが良いものです。

気持ちが良く、あたたかくなるような気がするのは、神の心である「愛」を表現することで、神からの愛を自分が受け取っているからだと思います。

人に冷たくしたり、傷つけてしまうと、後悔をしたり、とても嫌な気持ちになってしまいます。

神の心に反した想いを抱いて、それを表してしてしまったために、因果律が働き、心苦しさを感じてしまうのだと思います。



原因があって結果が生じる「因果律」は、神の摂理の根本原理であり、万物を支配していています。

社会の法律は、人の行為または言葉に対し適用され、犯せば罰せられるために、ほとんどの人は守って生活をしています。

しかし、神の摂理は言動のみならず、自らの「想い」にまで働いていて、表に出さず、人に知られなくても、厳格に結果をもたらします。



痛みや苦しさを感じさせる出来事は、偶然や不運ではなく、摂理に反した想いを抱いたり、行い(表現)をしてしまったために、生じています。

何かしら、愛に反する行いをしていたり、愛に反する想いを抱き続けていたために、それが過ちであることを知らせるために、痛みや苦しさを感じさせる出来事は生じます。

時に、耐えがたいほどの苦痛により、心身がぎりぎりのところまで追い詰められることもありますが、崖から突き落とされて、再起不能となってしまうようなことはありません。

苦痛の経験は、愛に反する行いや想いの償いであるとともに、大切なことに気付いて、生き方や考え方を変えるためにあるからです。



人それぞれに、この世で学ぶべき、大切なことがあります。

最適な時期に、最適な形で、苦難や悲劇と言われる出来事が生じています。

降って湧いたような、悲惨な出来事であっても、目的があって生じています。

その目的とは、償いであったり、何かを学び取ることだと思います。

苦難や悲劇が身に起きれば、何とかして乗り越えようと必死になり、余計なことは考えなくなります。

必要のないものは、ことごとく削ぎ落とされていきます。

そして、最後に残ったものが、本当に大切なものであり、この世で学び取るものだと思われます。



苦しみ、痛み、悲しみを十分すぎるほど味わい、崖っぷちまで追い詰められて、初めて大切なことに気付きます。

眠っていた魂がようやく目覚めて、大切なことに気付きます。

苦しみ、痛み、悲しみは償いであるとともに、魂に目覚めさせる触媒であるため、大切なことに気付いたのならば、終わる時は近づいていると思われます。

償いが終わったならば、今までの苦しみや痛みがうそのように引いていき、つらい出来事から解放されると思われます。

生き方や考え方が変わり、新しい人生、本当の人生が始まり、前の自分に戻ることはありません。



世の中には、病気により、つらい生活をされている人がたくさんいます。

苦痛が償いとしてあるのならば、苦痛から解放される時が、必ず来るはずです。

しかし、現実には病気が進行して、亡くなってしまう人も多くいます。



大切なことに気付くとともに、病気が癒やされ、生まれ変わったように、この世で新たな人生を歩んで行く人もいれば、さあこれからが始まりだと思っていたのに、亡くなってしまうが人がいます。

死は敗北を意味するのではありません。

生が幸運で、死は不運と考えるのは、間違いです。

亡くなった人にとって、死は新たな始まりであり、前世で身を持って学んだことを活かすような人生を歩むために、この世にまた生まれてくるでしょう。



しかし、この世で新たな人生を歩むべき人が、間違った方向に進んでいき、亡くなってしまうことが、少なからずあるように思えます。

病気の本質を良く知らないために、ガンは死に至る病という、大きな誤解が生まれています。

死に対する怖れが生まれて、それを解消するために、ほとんどの人は医者にすべてを託します。

医者は、病気の一側面を深く知ってますが、全体像を把握しているわけではありません。

ガンの根本原因は、未だ解明されていないにもかかわらず、大きな侵襲を伴う対症療法が一般的になっています。

外科手術はガンの根治療法だと言われますが、原因不明の病気に、果たして根治療法は存在するのでしょか。

根本治療は、根本原因が分かって、初めて確立されます。

悪いところがあれば取り除くという治療は、根治療法とは程遠いと感じるとともに、時として、悲劇をもたらしていると思います。



自然科学に基づく西洋医学は、検証可能な物質次元を対象としているため、魂(霊)の存在を認めていません。

人類の叡智を結集しても、未だにガンの根本原因を突き止められないのは、科学の対象となる物質次元ではなく、霊的次元に原因が存在すると、考えてはいけないのでしょうか。

もし、証明できないものを、否定するのであれば、「生命」も存在しないことになってしまいます。

どんなに否定されようとも、真実は1つであり、魂は間違いなく存在します。

魂の存在と、霊的法則を認めれば、ガンと言う病気について、合理的解釈が可能です。



人は肉体だけでなく、目に見えない精神(心)があり、そして精神(心)を生み出している源に、魂があります。

一人の人間は、肉体と精神、そして魂から成り立っています。



病気は、肉体次元、精神的次元、霊的次元のどこかに原因が存在して、心身に発症します。

ガンは、肉体次元(放射線、遺伝子、発ガン物質等)に要因も存在しますが、主因は霊的次元にあると考えられます。

霊的次元の原因とは、「表現されなかった想い」であり、それは摂理に反した、怒り、憎しみ、恨み、妬み、貪欲などの想いです。



魂から生じた想いは、肉体で表現されています。

人生で出会う、人や出来事により、さまざまな想いが生じています。

喜びの想いであれば笑顔となり、悲しみの想いであれば涙となり、肉体で表現されています。

しかし、まだ幼かったり、あまりに衝撃的な出来事であったりすると、生じた想いを、肉体で表現し切れなくなります。

表現できなかった想いは、魂に滞ることになります。

滞った想いがあると、魂の様相は変わり、摂理に反した、怒り、憎しみ、恨み、妬みなどの想いが生じ易くなります。

魂の向上を目的として、この世に生まれてきたはずなのに、滞った想いがあるために、向上を妨げる想いが、次々と生じています。

そして、想いが徐々に大きくなり、魂の様相がさらに変わってしまうと、因果律の働きにより、病変(ガン)が出現します。

魂に滞っている、表現されなかった想いがガンの正体であり、肉体上に見える形になって表現されています。

そうでもしなければ、目に見えない、自分の想いに気付くことはありません。

想いが、神の摂理に反したものであるので、相応の償いが生じます。

病気の痛みや苦しさ、つらい日々は、その償いとしてありますが、同時に、魂が目覚め、大切なことに気付くための触媒となっています。



大切なことを、一言に集約すると「愛」です。

最も大切なのは愛であることに気付いたのならば、神の心と同調し、つながりは深まり、生命力はふんだんに魂に流れ込みます。

病気になる前の自分とは違い、魂から生じる想いは大きく変わり、哀れみや同情など「愛」を帯びたものになります。

愛の想いにより、魂の様相は変わっていき、滞っていた怒りや、憎しみや、恨みなどなどの(摂理に反した)想いは“異物”となり、解放され、本来の姿を取り戻します。

肉体は魂の表現媒体であるため、追従し、本来の健康な姿を取り戻していきます。

肉体にふんだんに流れ込む生命力により、免疫機能は高まり、肉体上にあるガンは、異物として認識され、排除されていきます。



十分すぎるほどの苦痛と、生きているつらさを味わい、周囲の支えや思いやりに深く感謝し、病気が治ったら必ず恩返しをしようと強く思っている人は、たくさんいます。

しかし、ガンの増殖が止められずに、無念にも亡くなってしまう人がいるのが現実です。

もし、病気が大切なことに気付き、生き方や考え方が変えるためにあるのならば、癒される時が来てもいいはずです。



ガンは、「想い」あるいは「感情」の病と言っていいのかもしれません。

そのため、肉体上のガンは、今の自分の想いや感情に、敏感に反応してしまうと考えられます。

心穏やかにしていれば、ガンも穏やかにしていると思われます。

ガンの正体は、怒り、憎しみ、恨み、妬み、貪欲などの摂理に反した想いの塊だと思われますので、日々の出来事から、このような想いが生じてしまうと、肉体上のガンに反映してしまうと思われます。

ガンに対し、敵意を抱き、攻撃的な想いを抱くと、結果としてガンは攻撃的になり、増殖し、肉体を蝕んでいくと思われます。

ガンを消滅させようとすれば、自分を傷つけることになり、因果律の働きで、苦しみを味わうことになります。

抗ガン剤は、自然治癒力を肉体上で発現させるためにある免疫機能に大きなダメージを与えてしまうために、魂に目覚めて、より多くの生命力が流れ込んできても、十分な機能を発揮できなくなり、身体からガン細胞の排除は困難になってしまいます。



もし、ガンの治療法を説明され、迷ってしまったら、「自分や家族が同じ病気になった時に、私に勧めている治療を施しますか?」と、医者に問いかけみるのが賢明だと思います。

患者に勧め、自分達は受けないのであれば、それは偽善の治療ではないかと思います。

そんな治療は、決して受けるべきではないと思います。



ほとんどの医者は、次の世界に行き、生命の姿、病気の本質に、初めて気付くことになると思われます。

ガンの原因が、思いもよらぬところに存在し、自らが施した行為が、人を助けるどころか、苦痛を与え、自然の摂理が働くのを妨げていたのを知り、大きな後悔をしているのかもしれません。

この世で、ガンの治療に苦しむ人たちに、次の世界からこう語りかけているのかもしれません。

「抗ガン剤は、自らを傷つける薬であり、その行為自体が摂理に反するため、苦痛を味わうことになる。」

「薬では、ガンは治せないことを、十分に理解しなければいけない。」

「多くの医者が、この世を去り、患者に行ってきた治療を後悔をしている。」

「何も益を成さない。苦しめるだけの治療だった。」

「神の摂理に背く治療であり、神の摂理が働くのを妨げてしまう。」

「ガンを含め病気の意味を知らないために、間違った治療が行われている。」

「肉体を治すことにこだわりすぎて、大切なことを忘れてしまっている。」

「病気は人間を治すものであり、人間が病気を治すのではない。」

「医者のおごりが、患者を不幸にさせている。」

「即刻、このような人道に反する治療は、なくすべきである。」

「学ぶべきものを学べば、病気は自然に治る。」

どうしても伝えたいことが、たくさんあるのだと、私は感じます。



医学の父と呼ばれた、かの有名なヒポクラテスは、興味深い言葉を残しています。

「まず何よりも、害をなすなかれ」

「病気は人間が自らの力をもって自然に治すものであり、医者はこれを手助けするものである。」

現代医学に対する、警鐘に思えてなりません。



肉体上に表れたガンは、自分の想いの反映であり、その想いを生じさせたのは自分です。

ガンを生じさせたのは自分であるにもかかわらず、ガンと敵対し消滅させようとする行為は、明らかに間違っています。

自分の過ちは、自分で償わなければいけません。

誰かに頼って、過ちを帳消しにすることは、許されません。

逃げ場がなくなるほど追い詰められて、眠っていた魂が目を覚まして、そこから本当の人生が始まります。

それが神の摂理であり、痛みと苦しみの日々は、そのためにあります。



ガンは肉体を死に至らせる病ではなく、本当の自分の想いに気付くためにある病です。

近道は許されませんが、痛みや苦しみを味わい、見合った償いをしたのならば、癒される時は必ず来るはずです。

大切なことに気付き、本当の自分の想いを、素直に表現できるようになったのならば、ガンの存在する理由はどこにもありません。

病気になり、学んだことを忘れない限り、ぶり返す心配は全くありません。













2014年11月21日金曜日

ガンは本当の自分に出会うためにある


ガンと言う病気を、医者から告知された時の気持ちは、経験した人でなければ分からないと思います。

目の前が真っ暗になり、心は真っ白になってしまい、その後の記憶が抜け落ちてしまっている人もいると聞きます。

それくらいの衝撃が患者さんを襲い、言い知れぬ恐怖に包み込まれてしまうのでしょう。

ガンから連想されるものが、限りない苦痛の末に待ち受けている死だとすれば、当然、そうなってしまいます。



ガンを人体に入ってきた侵入者と考えれば、異物であるため、取り除かれるべきです。

しかし、ガンは異物ではなく、変化して協調性を失った、生きている自分自身です。

自分の一部には変わりないので、排除のみを目的とした医学的処置には、疑問を感じざるを得ません。

少数ですが、(西洋)医学的治療に頼らずに治癒している人がいるのは、興味深い事実です。

変化した自分を排除するよりも、何が原因で自分(細胞)が変化してガンが生まれたのかを探る方が、根本的な治癒につながる可能性があり、より大切だと考えています。



人はガンを知っているようで、実は何も知らないのかもしれません。

血液検査、レントゲン検査、病理検査等からは、ガンの本質を知るための情報は、何も得られません。

知らないために、怖れや不安が生まれて、対応の仕方を誤ってしまう可能性があると考えています。

そのために、日本で年間30万人以上の人が、この病気で亡くなっていると思われます。



西洋医学は、病気を診断して治療を行いますが、診る対象は肉体に限られています。

近年になり、精神は病気に関係していると認めつつありますが、定量化できず、客観的評価も難しいために、治療の対象とはなっていません。

多くの病気は、客観的評価ができる物質(肉体)次元ではなく、内的で主観的な次元に根本的な原因があると思われます。



解剖学書を開くと、人体の隅々まで調べられ、細部まで名称が付けられているのが分かります。

しかし、人を成り立たせているのは、骨や筋肉、脳や臓器などで構成される、人体だけではありません。

医学書には書かれることのない、人体とは次元を異にする、魂が存在しています。

生命の本質であり、精神と人体を支配し活動させている、本当の自分です。

実に単純明快なのですが、唯物的な科学手法では、魂の存在を証明できないため、否定され続けています。

けれども、証明されなければ存在しないと結論付けるのは、大きな誤りです。

もしそうであれば、「生命」そして「心」の本質は、未だ証明されてないため、存在しないことになってしまいます。



科学はミクロの世界を探求し続け、物質は原子と電子から構成されるという概念からさらに進み、素粒子の振動という域にまで踏み込んでいます。

質量はヒッグス粒子が作り出す、動きの抵抗のようなものであることも分かってきました。

固体(物質)は中身がぎっしりと詰まっていようですが、実際はスカスカであり、素粒子の振動が作り出す錯覚により、そう見えているだけです。

質量が、素粒子により作り出されていると、誰が想像したでしょうか。

魂が存在する事実よりも、物質である人体は素粒子の振動により形態を作っているという事実の方が不可解であり、私の理解を超えています。



目に見える光粒子の振動を可視光線と呼びますが、目に見えない振動域に、赤外線や紫外線が存在しています。

肉体は低い振動をしているので目に見え、魂は高い振動をしているので目に見えないだけであり、現代科学ではその振動を検出できないと考えるのは、無理があるのでしょうか。

新たな事実は、その時代の理解の一歩先に在るために、容易に受け入れられないのは、歴史を振り返れば明白です。

人々を苦しめているガンについても、現時点で分っているのは一側面です。

全体像を知るためには、視点を変えて、視野を広くする必要があるのかもしれません。

きわめて重要な事実が、徐々に明かされていったとしても、残念ながら、受け入れられるのは、もう少し先になると考えられます。

今日、常識と思われていたことが、近い将来、非常識となる可能性があることを、十分に承知していなければいけません。



医学的に見たガンは、遺伝子のコピーミスにより無秩序に分裂を繰り返す細胞の集合体と言えます。

放置すれば、肉体は死の転帰を辿る病と考えられています。

ガンを肉体的次元から見ればそうなります。



私は、多くのガンの原因は、霊的次元の魂に存在していると思っています。

魂に存在する原因の結果として、ガンが生じていると思っています。

魂が癒されると、肉体上のガンも癒されると思っています。

ガンを作ったのは自分であるので、治していくのも自分だと考えています。

死に至らせる病ではなく、自分を変えるためにある病だと考えています。



人は何のために、生きているのでしょうか?

肉体が自分と考えると、その答えは見つけられません。

生まれて、生きて、死んでいくだけです。



魂が自分と考えると、答えは見つかります。

肉体は死んでも、生命は魂であるため、生き続けます。

死とは、肉体と魂の分離であり、魂の去った肉体は土に帰りますが、肉体から解き放たれた魂に、何も変化はありません。

宗教的概念ではなく、誰もが経験する自然現象であり、神の法則の働きによるものです。



この世を生きているのは、本当の自分を成長させるためです。

本当の自分は、鏡に写るその身体ではなく、その身体を見ている精神(心)のさらに奥にある、魂です。

この世で苦難に出会うのは、乗り越えていく中で、本当の自分を成長させるためです。

そして、「愛」という最も大切なことに気付くためです。

愛を表現していくことで、本当の自分は成長していきます。



この世では、魂から生じた想いを、肉体で表現しています。

想いは脳で作られるのではありません。

想いは魂から生まれ、精神に投影され、脳内で物質(電気)的に変換されて指令となり、肉体を動かして表現されます。

肉体を動かしているのは魂であり、肉体がひとりでに表現することはできません。

肉体は魂に従い、すべての肉体的表現は魂から生じる想いによるものです。



原因不明の多くの病気は、霊的次元(魂)に原因があり、魂のありさまが、肉体上に表現されたものと考えています。

平和、協調、調和を欠いてしまった魂のありさまが、平和、協調、調和を欠いたガン組織として肉体上に表現されています。

魂のありさまの変化は五感により知ることができませんが、肉体の変化として表現されれば、五感により知ることができます。



魂が平和、協調、調和を欠いてしまうのは、肉体により表現されることのなかった、たくさんの想いが滞っているためです。

その想いは、喜びではなく、怒り、憎しみ、恨み、妬み、貪欲といった、「愛」に反する想いです。

滞っている、想いのしこりがあるために、魂のありさまが変わってしまい、さらに摂理に反する想いが生じ続けています。



この世は、さまざまな出来事を経験するようになっており、それを正面から受け止め、乗り越えていかなければいけません。

それが自分を成長させることにつながり、この世を生きる意味そのものであるからです。

魂のありさまがかわってしまうと、人生で起きた出来事から生じる想いは、乗り越えようとするものではなく、怒ったり、憎んだり、恨んだり、妬んだりと言った、自分の成長を妨げる想いに転化されてしまいます。

その想いを、外に向かい表現してしまえば、人を傷つけてしまったり、憎しみの種を植えつけてしまうかもしれません。

これでは、魂が成長するどころか、新たに罪を背負ってしまいます。

しかし、表現されなければ、魂に滞り、さらに大きな想いのしこりとなっていきます。

そして、魂のありさまは、本来の姿は失われ、より異質なものとなっていきます。

肉体は魂を表現する媒体であるため、肉体上のガンは、魂に滞っている想いの反映ということになります。

ガン細胞が増殖しているは、表現されない想いがさらに大きくなっているからと考えられます。



不運を嘆いたり、将来を悲観するのはやめましょう。

つきまとう恐怖や不安を、追い払いましょう。

ガンは死に追いやる病ではありません。

想いを表現できずに、押し殺して生きてきた自分に気付くためにある、神の摂理です。

神の摂理が働き、ガンという病気にならない限り、本当の自分を取り戻すことは困難だったと思われます。

本当の自分に出会うために、必要だったのです。



人生のシナリオは、「本当の自分」を主役として書かれてます。

本当の自分が主役でなければ、シナリオ通りの成長は得られません。

周りを注意深く見ながら、合わせて、表面をなぞるように生きようとする、「この世を演じている自分」もいます。

この世を演じている自分と、本当の自分がいて、同じ肉体を通して、2つの表現をしています。

この世を演じている自分と、本当の自分の間に、埋められないほどの隔たりが、知らず知らずのうちに出来てしまっています。

人生の主役は、この世を演じている自分ではなく、本当の自分であるべきです。

残念なことに、この世を演じている自分が主役になってしまっていることが多いと思われます。

そうすると、本当の自分から生まれた想いを、この世を演じている自分は封印していまい、表現されなくなります。

本当の自分からは、絶え間なく想いが生まれていますが、この世を演じている自分は、その想いを無視して、主役を演じ続けます。

この世を演じている自分は、人生のシナリオ通りに出来事が生じた時に、怒りや憎しみや恨みや嫉妬の想いや、不平不満をまき散らすだけで、逃げようとします。

まき散らしたその想いは、別の出来事に形を変えて、この世を演じている自分に降りかかります。

その降りかかった出来事により、この世を演じている自分は耐え難い苦痛を感じます。

そして、頼るものは何もないところまで追い詰められ、この世を演じている自分は、ついに逃げ出します。

ひっそりと隠れていた、本当の自分が表舞台に出てきます。

本当の自分が、やっと人生の主役につきます。



本当の自分(魂)は、人生のシナリオのすべてを知っています。

人生のシナリオには、魂を成長させる、さまざまな出来事が散りばめられています。

その1つ1つの出来事を乗り越えながら、大切なことを学んで行きます。

自分(魂)を成長させるのは、楽しい出来事よりも、つらく、悲しい、悲劇や苦難とも言える出来事だと、本当の自分は知っています。



つらく、悲しい出来事にも、本当の自分は悠然と立ち向かい、無事に乗り越えて行けるようになっています。

なぜなら、人生のシナリオを考案したのは神であり、乗り越えられないほどの苦難は、決して生じないからです。

どんなに無理に思えても、必ず乗り越えて行けることを、本当の自分は知っています。









2014年11月13日木曜日

人生にはシナリオがある


先日、「アイーダ」というオペラを初めて観ました。

音楽もさることながら、シナリオや舞台も美しく、とても感動しました。

どのような劇でも、拍手とともに幕が降りてしまえば、お終いになります。



しかし人生は、死という幕が降りても、お終いにはなりません。

生命は魂であるため、次の幕がすぐ始まります。

肉体は死んで骨になっても、本当の自分である魂は、何も変わりはありません。



死んだらお終いと、頑なに信じている人が、まだたくさんいます。

そんな人は、死んだ後にも意識は存在し、生き続けているという現実と、固定観念との間に、大きな矛盾が生じるため、混乱状態となってしまうかもしれません。

生きているうちに、真実を知っておかなければいけないと思います。



この世に生まれてきたのは、大切なことを学び、人間を成長させるためです。

人間の本質は魂であるため、魂を成長させるためと言うことになります。

大切なことを学びながら、魂を成長させるために、さまざまな出来事が、人生で展開されていきます。



仕事が休みの日に、障害者施設に行っています。

多くの障害者は、自分の不具を受け入れて、前向きに、精一杯生きていて、私がいつも元気をもらっています。

その中に、様子がどうしても気になるM君がいます。

M君は先天的な病気(奇形)により、重度の身体障害があります。

食事、排泄、着替え、入浴など日常生活のすべてに、介助が必要です。

寝返りも打てず、蚊にさされてかゆくなっても自分で掻くことはできません。

知的障害は全くなく、会話が普通にできます。

しかし、口にするのは、嘆きや、他の人への不満や批判と、無用な心配ばかりであり、いつも険しい顔をしています。

時折、私に「死にたい」ともらしますが、その裏には「こんな身体で、生きていてもしょうがない」という、思いがあると推察されます。

M君の立場になれないので、M君の気持ちは正直、私には分かりません。

想像力を働かせ、M君の置かれている状況に私が置き換わってみると、変わることのない将来への絶望と、強い現状への不満と、不平等に対する恨みを抱いてしまう様な気がします。

自由にどこへでも行き、好きなことができる私には、半畳ほどのベットの上で、身体を曲げたまま身じろぎもせず、1日、いや一生を過ごすことになるであろうM君の気持ちは、分かるはずもありません。

周りにいる人も、本人にしか気持ちは分からないと思うと、かける言葉を失ってしまい、離れていくためなのか、彼はいつも部屋に一人でいます。

そんな、孤独なM君を見ていると、つい色んなことを考えてしまいます。



この世に生きているすべての人に、あらかじめ決められたシナリオ(青写真)があると言われています。

今生で、大切なことを学び、魂を成長させるために、完全なる叡智により創作されたシナリオです。

生まれる(受胎)前の自分は、シナリオの内容を、十分に承知していたはずです。

いざ生まれてしまうと、肉体が前面に出てきてしまうために、魂の奥にしまわれたシナリオのことなど、すっかり忘れてしまいます。

そのシナリオに逆らわずに生きていれば、予定通りに魂は成長していくと考えられます。

しかし、人には自由意志が与えられているために、予定通りに行くとは限りません。



世の中は、さまざまな次元の摂理(法則)が働いています。

ほとんどの人は、科学的に証明されている、万有引力などの物質的な法則の働きは認めています。

しかし、霊的な法則(摂理)が存在するなど、思ってもいません。

そのために、摂理に反した想いを抱き、行いをしてしまうために、因果律が働いて、その償いのために苦痛を伴う出来事が生じてしまいます。

憎しみの想いからは争いが生じ、愛の想いからは平和が生まれます。

何となくそうなっているのではなく、厳然とした霊的な法則(摂理)が存在して、それが働いた結果です。

人生で起きる出来事も、必ず原因は存在しています。

蒔いた種を、後になって自分が刈り取っているだけです。



しかし、出来事を生じさせた原因を、これまで生きている間に、どうしても見つけることができなければ、その原因は過去世にあるのかもしれません。

M君は、生まれた時から障害があるので、原因は過去世にあります。

生まれながらに抱えている心身の障害や病気、そして何の前触れもなく生じた人生を変えるような出来事の中にも、過去世に原因が存在している場合があると考えられます。

出来事を生じさせた過去世の原因は、魂の奥にしまわれていて、現世では分かりません。

変えられない過去は、知らなくても良いのだと思います。



過酷なシナリオの人生に宿るのは、そのシナリオに耐えうるほど向上した魂か、過去世の償いを一刻も早く済ませたいと望む魂の、どちらかだと思います。

もしかしたら、M君は後者かもしれません。

すべての魂は、向上(成長)するように定められ、向上していくことを希求しています。

しかし、過ちを犯したのならば、相応の償いをしない限り、向上は許されません。

そのシナリオは償いであるとともに、大切なことを学び、同じ過ちを2度と犯さないためにあると考えられます。

M君にとって大切なこととは、「一人では生きていけない」と言うことなのかもしれません。

あるいは、「周りに支えられて生きている」と言うことかもしれません。

そんなことなどどうでもいいと、M君に怒られてしまうかもしれませんが、肉体が不自由であればあるほど、長い時間であればあるほど、深く学ぶことができると思われます。



さまざまな形となって、人生で出来事は生じますが、学ぶべき大切なことは「愛」に集約されると、信じています。



知的障害や言語障害により、想いを表現するのが不自由、あるいは全くできない人がいる中で、M君には自分の想いを、言葉で表現する手段が残されています。

しかし、M君から出る言葉は、いつも変わらず、不平不満ばかりです。

何かをしてもらったら、素直に「ありがとう」と言えば、お互いに気持ちが良いし、何か変わってくると思うよと、話したこともあります。

しかし、M君の想いが変わらない限り、表現する言葉が変わるはずもありません。



先日、M君に会いに部屋に行きましたが、姿が見えません。

職員に、どうしたのかと尋ねたところ、肺炎になり大きな病院に入院していると言われました。

呼吸がしにくくなったために、気管切開をして管を入れたそうです。

身体が不自由な上に、気管切開をされたと聞き、M君はどんな想いでいるのだろうかと思いました。

このまま逝ってしまった方が、楽に決まっていますが、償いが残っているのであれば、引き続き生かされることになると思います。

この経験も、M君にとって何か意味があるはずです。

気管切開により失われたものは、M君の言葉です。

不自由な身体であるために、今までいろいろな人に支えられ、たくさんの愛情を受けてきたにもかかわらず、感謝の思いではなく、不平不満の思いを言葉で表現し続けてしまったため、因果律が働いたのではないかと、考えてしまいました。

つらく、過酷な状況に置かれているとしても、1つ1つの想い、1つ1つの言葉、1つ1つの行いのすべてに、神の摂理が働いていて、冷厳に結果をもたらしているのではないかと、考えたりもしました。



自分の想いを表現できる、唯一の手段である言葉を失ったのは、M君とってとてもつらいことだと思います。

そのつらい経験により、何か気付くことがあり、M君の想いや言葉が変わるのかもしれません。

前のままかもしれません。

病気が治り、管が外された後に、どんな言葉を口にするのか。

想いが変わり、「助けてくれて、ありがとう」と、言って欲しいです。






参考ページ: 「人生のシナリオは自分を成長させるためにある」


































2014年11月3日月曜日

生命力が病気を治す


大きな病気になると、ほぼすべての人は医者にかかります。

医者は、患者を診て、病気を診断し、治療をしていきます。

そして軽快すると、医療行為により病気が治ったと考えます。




果たして、医療行為により病気は治ったのでしょうか?

それは、大きな誤りであり、自然治癒力という、本来生命に備わっている力が、病気を治したのです。

ぱっくりと開いた傷口を縫い合わせるのは医療行為ですが、細胞レベルで傷口を閉鎖させているのは自然治癒力です。




では、医療行為は無駄なものかと言うと、そうではありません。

体内での細菌やウィルスの増殖を抑える、抗生物質や抗ウィルス剤は、外敵から人体を守るために、きわめて有効な手段となっています。

また、骨折や裂傷などの外傷は、早期に整復や縫合をすることで、良好な治癒が得られます。

血管からの出血、あるいは詰まってしまう梗塞は、適切な医療が施されないと、生命の危機につながります。

私は歯科医師をしていますが、虫歯の苦痛は生活の質を著しく低下させます。

もし、放置したならば歯は失われ、咀嚼という機能が低下します。

痛みを取り除くため、歯を失わないため、失われた機能を回復するため、回復された機能を生涯にわたって維持していくために、医療行為は必要です。

医療がなければ、多くの人が命を落としたり、生活に支障をきたしたりするのは、目に見えています。

しかし、感染症や外傷などに対して大きな威力を発揮する医療も、ガンや膠原病、糖尿病などの慢性疾患を根本的に治癒させるのは、残念ながら困難です。

現代医学は、目に見える物質次元の原因を除去することを目的としています。

ガンや膠原病など、難治性の疾患の多くは、目に見えない次元、霊的次元に根本原因があると考えられ、現代医学では原因を除去できないために、治療は手術を含め、対症療法となります。




人は、肉体と、精神(心)と、魂(霊)により構成されています。

生きる力である生命力は、魂に流れ込み、想いという力に変わり、精神に投影され、肉体で表現されています。

魂から精神そして肉体へと、力が常に流れています。

魂で生まれた想いという力が、肉体で表現され、外に向かい放散されています。

さまざまな想いが、魂から生まれます。

生命力は神の力であり、愛の力です。

魂に流れてきた生命力は、愛の想いとなり、肉体で表現されるはずなのですが、私たち人間は魂の進化の発展途上にあり、それがなかなかできないと考えられます。

人生で起きるさまざまな出来事により、魂に流れてきた力は、愛の想いではなく、それとは反対の憎しみや恨み、嫉妬などの想いが生じてしまうことがあります。

それらの想いは、神の心である愛と対極にあり、摂理に反する想いです。

摂理に反する憎しみなどの想いを、言動(肉体)で表現してしまう人もいますが、そうすればさらに罪は大きくなってしまいます。

魂は、そのことを知っているので、多くの人は(肉体で)あえて表現しようとしません。

自分を抑えて、我慢します。

ストレスが溜まっていくのは、この状態だと思われます。

表現されない想いが、解放されず、滞り続けてしまうと、次第に魂のありさまを変えていきます。

怒りを感じているのにもかかわらず、それを外に出さないでいれば、イライラとした精神状態になってしまいます。

ささいなことで口論となり、人によっては相手を暴力的に攻撃したりするかもしれません。




生きる目的は、自らの魂を向上させることにあり、愛を表現することで成就します。

しかし、想いが滞っているために、思いもよらず人を傷つけてしまい、罪を作ってしまうならば、とても大きな問題と言えます。

魂は、目に見えるものではありませんので、想いが滞り、好ましくない様相に変わってきても、わかりません。




魂は肉体の上位にあるため、肉体は魂に従います。

従って、魂に何らかの変化があると、それが肉体に反映されることになります。

魂の様相の変化が、肉体上の変化として表われたものが、(霊的次元に原因がある)病気と考えられます。

ガンや膠原病の多くは、これに当たると思われます。

想いは実体がなく、瞬間的に消えてなくなりそうですが、霊的には、実在そのものであり、想いが表現されなければ、消えることなく魂に残っていると考えられます。

想いは、表情や言葉そして行動する力となって、具現化されていきます。

生きることは、表現することと言ってもいいほど、想いを表現することは、生命にとってきわめて重要だと考えられます。

想いは、肉体をも変えてしまう、力を秘めています。

イエス・キリストを崇拝する信者の手のひらから出血する、スティグマ(聖痕)は、その良い例です。

失敗のイメージにとらわれていると、実際に失敗してしまうことがあります。

それと同様に、成功を強くイメージしていると、その通りになるような気がします。

想いが、具現化されているのだと思います。

すべての肉体的表現に対し、想いが常に先行しています。

病気も、肉体的表現の一種です。

想いにより、魂の様相は変化していき、それが肉体的な変化として表現されたのが、病気だと思われます。




摂理に反した想いを抱き続け、表現されず滞ってしまえば、その想いの滞りが、肉体上にガンとして表現されると考えられます。

病気の苦痛は、憎しみ、恨み、嫉妬、貪欲など、摂理に反する想いを抱き続けた、償いとしてあります。

そして、苦痛の経験は、魂を目覚めさせて、愛の想いに変えていきます。




想いが適切に表現されなければ、行き場を失った力は内に向かい、肉体や精神を変化させる力となったり、機能を変化させる力となります。

魂から生じる想いを、納得のいかない、不本意な表現をし続けていると、悔いや自責の念が生じてしまい、肉体上では免疫機能の変化として表れ、膠原病を発症するかもしれません。

そのことに気付き、変えていくために、膠原病になったのかもしれません。

苦痛の経験は、魂を目覚めさせ、ありのままで自分にふさわしい表現をしていくようになります。




魂から生じる想いを、愛の想いに変えていき、自分にふさわしい表現をさせていくのが、病気の本質です。

偶然や、不運ではなく、魂を成長させ、生きる意味を成就させるためにある、神の摂理である「因果律」の結果です。




生命力は細胞内のミトコンドリアが作り出しているわけではありません。

始源である神から、生命である魂に流れ込んでいますが、全く意識されることはありません。

その力は魂で想いとなり、肉体に伝わり表現する力となります。

魂は神の一部であり、神の愛を表現するためにあります。

生命力は、神の心である愛を表現するためにある力ということになります。

その力が、摂理に反した想いになったり、表現になってしまうと、因果律の働きにより、病気や苦難が生じます。

苦痛の経験は、償いであるとともに、神の摂理に気付かせる触媒となっています。




病気になると、肉体上の病変を切除したり、薬で症状を緩和させようとしますが、霊的次元に原因があれば、解消したことにはなりません。

霊的次元に原因があれば、まず想いを変えていかなければいけません。




少しずつ、少しずつ、愛の想いに変えていきましょう。

やさしくする、思いやりを持つ、親切にする、同情する、励ます、慰める、いたわるなどは、愛の想いの表現です。

許すことや、違いを認める寛容の精神も、愛の想いです。

人や動物そして社会が、喜ぶこと、助かることは、愛の表現だと思います。

愛の想いを表現をすると、喜びを感じるのは、摂理に適っているからであり、神からのささやかな褒賞だと思います。

自分にふさわしい形で、その想いを表現していきましょう。

想いを素直に表現できるようになれば、神から生命力はよどみなく流れ、魂から肉体に行き渡ります。

ふんだんに流れ込む生命力により、魂が癒され、そして肉体が癒されていくと思います。




愛を表現すればするほど、神との繋がりは深まり、より多くの生命力が魂に流れ込むと思われます。

そればかりか、愛の表現は他者の魂にも影響を与え、今度は受け取った人や動物そして植物が、愛を表現しようとします。

人は受けた愛を誰かに返して、動物は穏やかに従順になり、花は美しく咲き、実をつけます。

すべての魂はつながっていて、愛の想いは伝搬していくと思われます。

それが連鎖して、拡がっていき、世界が愛で満たされていくことが、神の心だと信じています。




繰り返しますが、神から流れ込む生命力の本質は愛です。

生命は、愛を表現するために存在しています。

人間には自由意志が与えられているため、どんな想いを抱いてもかまわず、それを自由に肉体で表現できます。

それは同時に、自分の想いや表現に責任が問われるということを意味します。




病気を治すのは医者ではありません。

自分の考え方(想い)や生き方(表現)を変えていくことで、病が癒やされると考えています。

なぜならば、魂を向上させる考え方や生き方に変えさせるために、病があると思われるからです。




自らの魂に流れ込む、生命力により病気は治ります。

神の力であり、愛の力だからです。

愛の力により生かされているのだから、素直に、自分にふさわしい愛の表現をしていかなければいけません。



















2014年10月19日日曜日

病気の意味 



夏の暑い季節が過ぎると、さわやかな秋になり、そして寒い冬になりますが、地球温暖化が進んだため、1番好きな創造的な季節である秋が、とても短くなったと実感しています。

西アフリカで猛威を振るう、エボラ出血熱は致死率の高い、恐るべき病です。感染者は増加の一途をたどり、今となっては、拡大を止める手段はないようにも思えます。

もし、最貧国である西アフリカの国々に、欧米や日本などの富める国々が、医療施設、そして知識や技術を提供していたなら、水際で感染拡大は防げたかもしれません。

自己の利益や利便性を追求するあまりに、地球環境への配慮や、人類の同胞意識を忘れてしまった結果を見ているような気がしてなりません。

人、国家、地球、スケールは違いますが、神の摂理である「因果律」はすべてに働き、正確無比に結果をもたらしていると感じます。



忌まわしい病気も、因果律の働きにより生じています。

すべての病気に、何らかの原因があるはずです。

残念なことに、医学の進歩にもかかわらず、原因不明の病気は数多く存在します。



膠原病(自己免疫疾患)は、免疫機能に何らかの異常が生じて、正常組織を攻撃してしまう病気です。

ガンは、遺伝子に変異が生じ、細胞が無秩序な増殖を繰り返していく病気です。

どちらも、多くの人を苦しめている難病であり、未だ原因不明は明らかにされておらず、治療は対症療法となります。

従来の科学的手法では見つけ出せない、未知の領域に原因が存在していると考えています。



人は心身の調和が損なわれると、病気になります。

心身の調和を損なわせる、大きな要因としてストレスがあります。

ストレスは、仕事や、日々の出来事、人間関係などから生じる、心の重圧であり、負担であり、軋轢です。

ストレスを感じると、人は発散しようとします。

うまく発散できないと、ストレスが溜まり病気になることもあります。

ストレスが溜まると発散しようとしますが、発散させているのはストレスによって生じた「想い」であると考えられます。

想いが発散されることなく溜まっていくと、病気になると思われます。

その想いとは、怒りであり、悲しみであり、言葉では言い表せないものもあります。

怒りが高じて、憎しみや恨みの想いに変化してしまうと、発散するのは難しくなるのかもしれません。



肉体は魂の表現媒体です。

魂から生まれる想い(思念)が、肉体により具現化されます。

怒りの想いが生まれれば、顔は紅潮し、心臓の鼓動は高ぶり、大声を出したりして、怒りの想いをぶつけることもあります。

悲しみの想いが生まれれば、目から涙が流れ、嗚咽の声を出すこともあるでしょう。

唄うのも、楽器を演奏するのも、絵を描くのも、自らの想いの表現に他ならないと思います。

もし、肉体が魂を表現する媒体であるならば、魂のありさまの変化が、肉体が変化する病気として表現されていると、考えてもおかしくはありません。

肉体上の病気のありさま(病態)から、魂のありさまをうかがい知ることができると思われます。



膠原病は、自分を守る機能が、自分を攻撃している病気と考えられます。

言い換えると、肉体を守る機能が、肉体を攻撃しています。

肉体が魂の表現媒体であると考えると、魂(心)を守るものが、魂(心)を攻撃していることになります。

「魂(心)を攻撃している」とは、何を指すのでしょうか?

それは、自分で自分を責めたり、傷つけてしまったりすることと思われます。

強い後悔の念もそうでしょうし、好ましくない感情を抱いたことに対して強い自責の念を持つこともそうだと思われます。

何かにつけ、自分を責めてしまうのを、やめなければいけません。

高い目標を掲げて、それが達成できないと、過度に自分を責めてしまうような人が、この病にかかりやすいのではないかと思います。

こうしなければいけない、そうすべきだ、そうした方がもっと良いなど、自分により高いもの、完璧さを求めている人ではないかと思います。

慢性関節リウマチの知人は、とても活力に溢れているにもかかわらず、それを活かせていない生活を強いられて、大きな不満を抱いていたように、私には見えました。

他の膠原病の人は、どうなのでしょうか?知りたいところです。

肉体を通して表現できなかった想いが、自分の肉体を攻撃してしまうという、誤った表現がされてしまった結果なのかもしれません。

想いを適切な方法で表現できないと、肉体上に誤った形で表現されてしまうのだと思います。



ガンは、変異した自分(細胞)が、増殖していく病気だと考えられます。

表現されない変異した想いが、際限なく増殖していく様が、肉体上に表現されているのだと思います。

変異した想いとは、摂理(愛)に反する想いであり、怒り、憎しみ、恨み、妬み、貪欲などです。

摂理に反した想いが蓄積して、魂のありさまを変えてしまい、さらに摂理に反した想いを抱いてしまうという悪循環が生まれていると思われます。

摂理に反した想いが際限なく増殖して、自分では歯止めが効かなくなってしまっている状態と考えられます。



つまり、医学的に難病と言われる原因不明の病の多くは、魂から生まれる想いを適切に表現できていなかったり、摂理(愛)に反した想いが魂に滞ってしまっていることが、根本原因と考えられます。

自分の想い(思念)にも、そして表現(行動)にも、因果律が働いていて、摂理に反しているならば、その償いをしなければいけません。



膠原病に対しては、自分を責めずに、想いを適切に表現する、自分にふさわしい表現をすることが、大切だと思われます。

自分を活かせていると、心から思える環境に、身を置く必要があると考えられます。

ガンに対しては、本体は(摂理に反した)想いであるため、感情に敏感に反応して、肉体上のガンに反映されてしまうため、平穏な心を保つことが何より大切だと思われます。

しかし、ガンで多くの人が亡くなっている現実を前にすると、死の恐怖や不安に襲われて、平穏な心を保つのは、決して容易ではありません。

また、日々の出来事で、ちょっとした感情の起伏がすぐ生まれ、心は波立ってしまいます。

ガンを勢いづかせる想いを封じ込めるのは、愛の想いしかありません。



ガンと闘うことは、自らを傷つけることであり、愛の想いに反していると思います。

ガンと闘おうとすると、因果律が働き、ガンも闘おうとするのかもしれません。

自らのからだを傷つけてしまう方法の中には、正解はないような気がします。

病気と闘うのではなく、病気になった意味を知り、考え方や生き方を変えていくのが、正解だと信じています。

ガンのような生命を脅かすような病気が存在するのは、最も大切なのは「生命」そして「愛」であることに気付くためと信じています。



「愛」とは、人を愛することだけではありません。

感謝も、ささやかな愛の表現だと思います。

相手の欠点を認め、言動を許すことも、愛の表現だと思います。

もちろん、人や動物にやさしくしたり、思いやりを持ったり、親切にしたり、社会に奉仕をするのも、愛の表現に他なりません。

素直に、愛の表現ができるように、魂のありさまを変えていくものとして、神は病気を用意したのだと思います。

病気を克服した人たちの中には、生き方や考え方が大きく変わった人が少なくありません。

魂のありさまが、病気を克服していく中で、本来の姿を取り戻したのだと思います。

魂が癒されて、肉体が癒されたのだと思います。



「生命」とは、活動するものであり、変化するものであり、常に何かを表現しているものです。

生命の正体は魂であり、肉体は魂を表現する媒体に過ぎません。

人(魂)は神により創造された、神の一部です。

神の心は愛です。

よって、神の一部である人は、神の心を表現しようとします。

本来、この世の人は、肉体で愛を表現するために、生きていると言うことになります。

人は魂を向上(成長)させるために生きていて、愛を表現することで成就されます。

魂を、さらに向上させるために、より高い、より強い愛を表現しようとすると思われます。



肉体的に病気をとらえると、苦痛や障害を伴い、時に命(肉体)を奪うものであり、恐怖や不安をもたらす、不幸以外の何者でもありません。

霊的に病気をとらえると、苦痛により肉体に埋もれて眠っていた魂を覚醒させ、滞っていた(摂理に反した)想いを、解放させるものです。

愛の大切さに目覚めさせて、想いを変えていくものです。

その人にとって、ふさわしい愛の表現ができるように、導くものです。

魂が本来の姿を取り戻して、愛を素直に表現できるようになり、この世を生きている意味が成就されていきます。



病気が生じるのは、偶然ではありません。

神の意図があり、その人にふさわしい愛の表現を、素直にさせるためにあると思います。

従って、ふさわしい愛の表現を、素直にしていけるようになれば、病気の役割は終わると考えられます。



自分にふさわしい愛の表現とは何かを、考えてみてはどうでしょうか。

それは、生きる目的を考えることでもあり、病気を癒やすことにも、きっとつながると思います。





参考ページ: 「霊的な病気の意味」



2014年10月13日月曜日

愛する人を亡くした人へ




もう、どれ位の涙を流したのでしょうか。

いくら涙を流しても、悲しみから解放されるはずもなく、現実は少しも変わることはありません。

ありふれた笑顔、何気ない会話、いつもの仕草、どれ1つとして忘れられるものではないと思います。

愛する人の存在の大きさに、圧倒されるばかりで、代わるものは、この世のどこにもないのかもしれません。



この世に生きている限り、別れは付き物です。

はっきりしていることは、愛する人が自分より早く死んだということです。

「何で自分より早く死んだんだ」と、思うかもしれませんが、あなたが代わりに早く死んだのであれば、愛する人がこの世で、今のあなたと同じように、悲しんでいたでしょう。

何かの理由があって、あなたがその役を引き受けたのです。



底がないと思われるほどの深い悲しみであれば、それだけ愛する想いも深かったということです。

この世で、それほどまでに、愛するものに出会えたのは、とても幸せなことなのですが、そんなのは慰めにもならないでしょう。

本当に大切なもの、かけがえのないものは、ありふれた存在となってしまうために、悲しいことに失って初めて気付くことが多いと思われます。



愛する人は、すでにこの世にいませんが、次の世界で間違いなく、生きています。

それは、また逢うことが出来るということを、意味します。



肉体を失っても、魂として生き続けています。

これは宗教でも何でも無く、自然現象です。

発想の転換が必要です。

生命の本質、本当の自分は、肉体ではなく魂です。

今の深い悲しみも、魂から生み出されます。

悲しみの想いも、目に見えないように、魂も目に見えるものではありません。

悲しみが確かに存在するように、魂も確かに存在しています。

たとえ、魂が存在したとしても、愛する人の肉体はすでに骨になり、この目で愛する人の姿を見たり、声を耳で聞いたり、手で触れられるわけではありません。

それは、悲しい現実です。

しかし、愛する者同士の魂と魂はつながっているため、双方の想いは伝えられるはずです。

厄介なのは、この世の人には肉体があるために、愛する人の想いが伝わりにくくなってしまっていることです。

この世に残してきた愛する人へ、想いを伝えようと、必死で頑張っているのに、どうしてもうまく伝えることができない、そのもどかしさは、想像を絶するものと思います。

海の中にいる人に、海上の人がいくら大声で叫んでみても、水に阻まれて伝わらないのと、似ているのかもしれません。

ただ、海の中にいる、この世の私達が、海上に出られる時があります。

眠っている時です。

眠っている時に、本当の自分である魂は、からだから離れて、愛する人と同じ世界に行っています。

いわゆる、体外離脱と言われる現象です。

眠っている時に、愛する人と、実際に逢っています。

夢に出てきたという話は、良く耳にしますが、そのほとんどが、愛する人がいる世界で、実際に逢っていると思われます。

お互いの想いを伝え合っているはずです。

そのことを、もっとはっきりと覚えていれば、違う世界で生きていると確証が持てるのにと、考えてしまいます。

愛する人がいる世界は、想いの世界であり、言葉は必要としない世界です。

あなたに伝えたのは、言葉ではなく、あなたへの想いです。

従って、朝起きた時に、言葉を思い出そうとしても無理かもしれません。

この世を生きている人は、頭で考えてしまっていることが多いので、魂に伝わった愛する人の想いを、言葉で思い出そうとするために、無理が生じているのだと思います。

けれども、交わし合った想いは、微かかもしれませんが、残っているはずです。



眠っている間に逢って、想いを確認し合っているはずですが、朝になって目が醒めると、愛する人の姿は目に映らなくなります。

姿が見えないという現実が襲い、すぐに悲しみに包まれてしまいます。

愛する人は、その様子を見ていて、「今まで逢っていたのに、なぜすぐ忘れてしまうの」と、あきれているかもしれません。



愛する人と夢で逢ったのは、紛れも無い事実であり、逢いたいと思う願望が作り出す、幻影ではありません。

愛する人は生きていて、次の世界に移り、元気にしているのです。

そのことを、あなたにどうしても、どうしても伝えたいのです。

なぜなら、悲しんで、涙を流している姿を見るのが、あなたを愛しているので、とてもつらいのです。

生きているという真実を、しっかりと伝えたいのです。



もし仮に、あなたがちゃんと生きているのにもかかわらず、いなくなってしまったと勘違いをして、愛する人達がとても悲しんでいるとしたら、どう思うでしょう。

きっと 「元気でいるから、心配しないで」と、伝えたくなるのではないでしょうか。

向こうに行った愛する人も、それと全く同じ想いです。

元気に暮らしています。

そして、見守っています。

迷った時、悩んだ時、困った時には、向こうから想いを伝えて、導いてくれるはずです。

心を穏やかにして、つながっているという確信を持っていれば、愛する人の想いは、魂に伝わってくると思います。



愛する人が生きていることは、時が来ればはっきりするのですが、なるべく早いうちに、その事実を知っておいた方が、お互いに安心し、悲しみも少なくて済みます。

この世からいなくなってしまったこと、次の世界で生きていることは、ともに現実です。

愛する人のために、どうぞ現実を受け入れて下さい。



もう1つ、はっきりしていることは、あなたもいつか死ぬということです。

その時には、今か今かと待っていた愛する人が、両手を広げて、満面の笑顔で迎えてくれるでしょう。

今の悲しみからは、信じられないほどの喜びに満たされるでしょう。

その歓喜の時が来るまで、衝動を抑えて、生き抜いて下さい。



神は愛です。

神が愛ならば、なぜ、最愛の人と、死によって離れ離れにさせて、ここまで悲しみを与えるのかと思ってしまいます。

もし、愛する人が今も生きているとしたら、ここまで愛していたこと、愛されていたことに、気付いたでしょうか?

愛すること、愛されること以上に、大切なことは、この世にあるのでしょうか?

深い悲しみには、魂を目覚めさせ、愛より大切なものはないことに気付かせるという、深甚な意味があります。

それが、神の摂理であり、神の心だと考えられます。



最も大切なのは愛だと気付き、この先の人生で表現していけたなら、愛する人の死はとても大きな意味を持ちます。

それは、愛する人が最も喜ぶことでもあると思います。





参考ページ: 「亡くなった愛する人とつながる」

       「心に響いた詩」

                          「信じることで愛することができる」



参考HP:「最愛の我が子やご家族をまた愛する人を亡くした人へ~死の真実を求めて~」一人息子さんを亡くされたお母さんのHPです







2014年10月11日土曜日

日々の仕事を精一杯する

人は、なぜ生きているのか?

何となく生きているのではなく、明確な目的があります。

それは、「魂を成長させるため」です。

魂を成長させるために、どうすればいいのか?



この世の欲に流されずに生きる。

人や社会のために奉仕する。

訪れる大小の困難や障害を乗り越える。


シルバーバーチの霊訓にも繰り返し書かれていますが、この3つを、忘れずに生きていけば、魂は成長していき、生きがいのある人生が送れます。


口で言うのは簡単ですが、その1つ1つに、痛みや、苦しみ、葛藤などが伴い、不断の努力を強いられます。

人それぞれ、この世で果たすべきこと、学ぶことは違います。

この世で果たすべきことを果たすため、そして大切なことを学ぶために、その人にとって、最適な時に、最適な形で、人生の出来事が、因果律によりもたらされると、信じています。

その出来事は、時に、困難、挫折、障害、病気と言った、不幸と言われるような形を取り、魂にまで響いて呼び醒まします。

しかし、その苦難の経験があって、真の喜び、真の自由、真の愛、そして生きる目的を知ることができたとしたら、決して不幸な出来事ではないはずです。


世の中には、自らの障害を克服しながら、懸命に生きている人がいます。

休みの日に行っている、障害者施設に、私より少し年上の男性の職員さんがいます。

その方は、極度の弱視で、目の数センチ前まで近づけなければ、文字を読むことはできません。

書類に目を通すのも、顔に触れるほど近づけて1文字1文字を追いかけるようにして、見ています。

目が不自由なため、声や音などの聴覚と、長年の経験を頼りに、状況を把握して、とても器用に仕事をされています。

その方が障害者であるのは、誰の目にもはっきりしています。

何をするにも、障害が立ちはだかりますが、健常者の職員さんに比べて、仕事の質や量に遜色があるかと言えば、違います。

むしろ、他の職員さんよりも、活き活きと、てきぱきと介護の仕事をされているように見えます。

何よりも、うれしくなるのは、施設にいる障害者の人たちに、とてもやさしく接しているからです。

障害者の大変さを、誰よりも理解されているように感じます。

時々、叱るときもありますが、言葉の端々に、愛情がこもっています。

オカリナを独学でマスターし、皆さんの前で吹いて、楽しませています。

十八番(おはこ)は、テレビの水戸黄門のテーマ曲で、その音色に、何とも言えないあたたかさや、やさしさを感じます。

やさしい言葉、あたたかな表情、そしてオカリナの音色にも、魂の様子が表れていると思います。

その職員さんは、自分の障害を乗り越えながら、障害者の介護という大変な仕事を、数十年に渡って、愛情を込めてしてきているため、魂が格段に成長されていると思います。

笑顔を絶やさず、障害のある人を介護されている姿を見ていると、「与えられた仕事を一生懸命することが、魂の大きな成長につながる」と、思えてなりません。


私もそうですが、大部分の人は、仕事をしなければ、食べていけません。

報酬(お金)を得るために、仕事をしています。

生きていくために、働くのは大原則です。

この世では、魂の道具である肉体を、養っていくためには、お金を手に入れなければならず、人や社会のために働く仕事をしなければ手に入りません。

仕事は多種多様ですが、どれも人や社会のための労働であり、奉仕です。

よって、この世では、肉体があるがゆえに、何らかの奉仕をしないと、生きていけません。

進化(霊性)の最も低い段階にあると言われる地上では、神の摂理として仕事が生まれて、生涯に渡って奉仕をせざるを得ないのかもしれません。

しかし、人は働くことに、生きがいや喜びを感じるのも事実です。

仕事を通して、誰かのために役に立つのは、神の摂理に一致し、魂の成長につながっているために、喜びや生きがいをを感じるのだと思います。

死んだ後に行く霊界は、肉体がすでにないため、食べるために仕事をする必要はなく、お互いがお互いのために働く、純粋な奉仕の世界です。

この世の仕事は、霊界に順応するための予行練習であり、奉仕の精神に目覚めるためにあるのかもしれません。

食べていくため、生活していくために働いているのは間違いありませんが、実像は、人や社会のために、何らかの形で奉仕し、自分(魂)を成長させているのであり、同時に、全体のために寄与して、進化につながっているのだと思います。


生活をするためだけに、日々の仕事があると考えると、とても虚しくなります。

肉体が死んだ後の世界でも、次の世界で、人(魂)と人(魂)の係わり合いは続きます。

人のために自分を役に立てる機会が与えられ、それにより魂が成長していくさまが、はっきりと分かるのが霊界だと思います。

奉仕は、愛の表現に他ならず、神の摂理に一致しているために、魂は大きな喜びを感じます。

この世は、肉体を持つがゆえに、奉仕だけの生活はままなりません。

生きていくため仕事をして、金銭的報酬を受け取りますが、同時に、人や社会への奉仕活動として、目に見えない霊的報酬も受け取っていると思われます。

毎日、会社のため、家族のため、自分の欲求を抑え、汗をかきながら一生懸命働いている人は、正道を歩んでいると思います。

家庭での、家事あるいは介護は、金銭的な報酬がないばかりか、休みの日もありません。

人知れず、繰り返される、その行為の1つ1つは奉仕活動であり、霊的報酬を受け取り、魂を着実に成長させていると思います。


自分に与えられた仕事を、精一杯やり遂げるのは、この世で魂を成長させるための、大切な手段になっていると思います。

仕事をやり遂げた時には、満足感があり、途中で投げ出すと、とても嫌な気持ちになるのは、魂の成長にかかわっているからではないでしょうか。

肉体を超えた存在である魂が、働く喜びを感じているのだと思います。


霊的真理を伝えるのは、最も大切なことであり、すべてに優先されなければいけないと思っています。

知識には責任が伴い、義務が生まれます。

恐いほどの、重責を感じます。

必要としている人、受け入れる時期が来た人に、霊的真理を確実に手渡したいと、常に願っています。

しかし、日々の修養を怠ると、霊的真理の崇高さや、使命の重大さを忘れてしまいがちになります。

1番の大敵は、謙虚さを失い、傲慢になってしまうことです。

常に、気を付けなければいけません。


私にとって仕事は、代えがたい日々の修養になっていると思います。

仕事を円滑にするためには、感情を抑えて、寛容にならなければ務まらないからです。

謙虚さを失えば、仕事の上達が止まるからです。

困難や障害は付きものであり、それ乗り越えなければ、完成されないからです。


日々の仕事を、精一杯して、喜ばれるのが、人生の貴重な喜びとなっています。

そして、少しずつですが、魂の成長につながっていると考えています。



















2014年10月5日日曜日

苦しみの原因はどこにあるのか



いろいろなメディアで、「前世」という言葉を目にします。

前世を透視するという人も、多く目にします。

その可能性を全面的に否定するわけではありませんが、得られた情報の信憑性を疑わざるを得ません。

知りたがる人の中には、前(過去)世が歴史上有名な人物であることを、ひそかに望んでいるのかもしれません。

もし、私が前(過去)世がシーザーや、織田信長と言われたとしても、少しもうれしくはありません。

富と権力には恵まれましたが、多くの人を殺し、傷つけてしまった罪は限りなく大きく、繰り返し来世でその償いをしなければならないと考えられるからです。

インドのガンジーだと言われたら、うれしくなりますが、使命を持ってインドの地に生まれた人であり、すでに地上で学ぶことはないため、この世に生まれてこないと思います。

前世を知ることが許されるのは、魂を向上させる上で、有益と判断された場合に限られていて、興味本位で知ろうとするのは良くないと思われます。


ところで、ガンジーが生まれたインドでは、多くの人はヒンドゥー教を信じていて、厳格な身分制度であるカーストが存在します。

最上層はバラモン(ブラフミン)であり、司祭階級に就きます。最下層はシュードラと呼ばれ、バラモンの影さえ触れることはできないと言われています。

前世と業(カルマ)により階級が決まり、その環境(家庭)に生まれるとされています。

そして、カーストにも入れてもらえない、最々下層にアチュートと呼ばれる人たちがいて、常識では考えられない差別を受けています。

少し前に、いわれない理由で集団暴行を受けて女子学生が死んでしまったという、悲惨なニュースがありましたが、被害者はこのアチュートだと思われます。

暴行をした人たちは、自分たちよりも低い身分にある女子学生には、前世に業があり、暴行受けるのもやむをえないと、思い込んでいたと思われます。

アチュートの中にも、虐げられ、仕打ちを受けるのは、自らの業のせいであり、現世はつらくても、来世では良い人生が待っていると信じている人も多いと思われます。

いかに理由を付けようとも、自分の欲望を満足させるために、人に恐怖や苦痛を与えて、殺してしまったという行為は、神の摂理に反していて、大きな罪(業)であるのは間違いありません。

苦しみの中には、前世での過ちが原因となっている可能性はありますが、この事件のように、新たな罪を作ってしまうような形で、因果律が働く(事件が起きた)とは思えません。

もし仮に、霊的に高い人が上の階級に生まれ、低い人が低い階級に生まれるのであれば、インドが世界で最も貧富の差がある国であるはずはなく、この様な卑劣な犯罪が多発する社会であるはずもありません。

弱者をいたわり、富が分配され、差別が起こりにくい社会が構築されるはずだからです。

現実との間に、大きな矛盾があるように見えます。

前世は、都合の良い「物語」となり、弊害をもたらしているのかもしれません。


今の苦しみがとても大きければ、「何でこんな思いをしなければいけないのか」と思ってしまいます。

「私は今まで生きてきて、そんな悪いことはしていない」と思えば、前世の業が原因ではないかと考えてしまったり、不公平さを感じてしまい、神を恨んだりするかもしれません。


私も、過ちを犯したため、かつてない苦難が訪れ、その償いとして苦しみを味わいました。

始まりでは、「何で自分が、悪いことは何もしていないのに」と、思いました。

苦しみが増してくる中では、早く抜け出したい、楽になりたいと思うばかりでした。

そして頂点に達すると、霊的真理を受け入れて、すべての原因は私にあり、その結果として今の現状があり、この苦しみは自分が犯した過ちの償いと思うようになりました。

神の摂理である「因果律」を、身を持って知りました。

この経験が、苦しむ人に、少しでも役に立てばと思います。



その当時、私はその過ちを、それほど悪いことではないと、思い込んでいました。

1つ1つの過ちは、たとえ小さくても、それが積み重なっていくと、大きな過ちとなっていきます。



最初は良心が咎めましたが、習慣になると罪の意識が薄れていきました。

過ちを犯す前に、魂に内在する良心は、正しい方向を指し示します。

それを無視して摂理に反した行いを積み重ねていくと、良心の声は、次第に心に届かなくなっていきます。

自分(魂)が、変わってしまったためだと思われます。



他の人も同じようにやっていると、言い訳をしていました。

他の人が同じようにやっているか、いないかに関係なく、行いが過ちであれば、その罪を自分が償わなければいけません。

同じようにやっていると思うこと自体が、傲慢で身勝手な考えであり、過ちだと思います。



今、考えてみると、見守ってくれている守護霊からも、「こんなことをしていいのか」という、勧告があったと思います。

人生の局面で、ふと頭をよぎったり、咎めたりする、「内からの声」を無視してはいけないと思います。



人が経験する苦しみは、さまざまです。

苦しむということは、何か学ぶことがあるということです。

もし、学ぶことがないほど魂が向上していれば、苦しむこともないはずです。

自分の過ちに気付き、大切なことを学ぶために、因果律の働きにより、苦難が生じると思います。

苦難には、痛みや苦しみはつきものであり、そのつらい経験により、それまで眠っていた魂は呼び醒まされ、過ちに気付き、大切なことを学んでいきます。


苦難の原因はどこにも見当たらず、「何も悪いことをしていないのに」と思うと、苦しみはさらに大きくなります。

自分では悪いと思っていないことでも、神の摂理に反していることがあります。

犯罪と呼ばれるような大きな過ちではなくても、もしかしたら、私と同じように、「小さな過ち」が積み重なっているかもしれません。

当たり前になっている、考え方、生き方のどこかに、過ちがあるのかもしれません。

身勝手な理由を付けて「小さな過ち」が始まり、今も続けてしまっているのかもしれません。


小さな過ちとは、どんなことでしょう?

例えば、悪口を言ったり、嘘をついたり、意地悪をするのはどうなのでしょうか?

法律で罰せられることはありません。

人に迷惑をかけたり、傷つけるほどのものでもありません。

日々の生活の中にあり、大したことではないと思ってしまいます。

しかし、その行動を起こさせるのは、怒りや恨みや憎しみ、虚栄心や妬みや貪欲な想いであったりします。

そして、その想いの1つ1つに、神の摂理が働きます。

ささいな行為であり、誰にも気付かれず、迷惑をかけていなくても、魂は神の一部であり、つながっているため、その動機(想い)は知られています。

その行為が、怒りや恨みや憎しみ、虚栄心や妬みや貪欲な想いからのものであれば、摂理に反しているので、結果として、相応の苦しみがもたらされます。


悪口が言いたくなった時に、悪口を言っている人たちの輪に入れば、つい言ってしまいます。

良心に従い、決して言わない人もいるでしょう。

全員が言っていれば、罪の意識を持たずに済みます。

想い(魂)は表情に表現されます。

悪口を言っている時の表情は、怒り、軽蔑、妬み、優越などの想いが表現されているので、決して美しいものではありません。

1つ1つは過ちは小さくても、習慣となり、長い年月、続けていれば、徐々に大きな罪となっていきます。

1つ1つの想いは小さくても、習慣となり、長い年月、抱き続けていれば、徐々に魂のありさまを変えていきます。

悪口を言ったり、嘘をついたり、意地悪をするのが習慣になっている人は、魂のありさまが変わってしまい、普段でもその想い(魂)が言動や表情に出ていると、感じます。

想いは目に見えず、人にも知れません。

どんな想いを抱いても自由ですが、霊的には実在であり、肉体に具現化していくので、常に注意を払わなければいけません。


苦難(苦しみ)の原因は、人により違います。

人に指摘されることもなく、当たり前となっている習慣(行い)や考え方(想い)の中に、過ちがあるのかもしれません。

ちりも積もれば、山となります。

良心の呵責も感じなくなるほど、習慣になってしまえば、それに気付いて改めていくのは、きわめて難しくなります。

行き着くところまで行くと、因果律の働きにより、苦難が生じることになります。

苦しみは、神の摂理に反した想いや行いの償いであるとともに、過ちに気付かせる触媒となります。

そして、摂理に反した習慣や考え方を、改めていくことになります。


苦しみの中で、過ちに気付き、さらに真実を見いだせたのなら、その苦しみは、魂にとって、大きな意味があったことになります。

過ちを正すため、真実を見出すために、神の摂理として、苦しみがあるのであれば、過ちを正し、真実を見出したのであれば、苦しみからも解放されるはずです。

苦しみが、神の摂理として、罪の償いであるならば、もがき苦しむほどの苦しみであっても、償えば、解放されるはずです。

いわれのない苦しみはありません。

終わりのない苦しみもありません。

今は暗闇の中にいて、さまよっているように思えても、魂は正しい方向に導かれ、解放される時がくるのは、間違いありません。


後ろを向けば、後悔の想いにとらわれてしまい、苦しみます。

後ろを向くと苦しむのは、閉じられていてるので向くなということなのかもしれません。

前を向いている時は、後ろを向かずにすみます。

つらくても、少しずつ、少しずつ、前を向くようにしましょう。







2014年9月28日日曜日

病気になった理由

健康でいる人と、病気になりつらい思いをしている人に、何か違いがあったのでしょうか?

外から見る限り、大きな違いはなかったように思われます。

「どうして私がこんな病気になったの」と思ってしまうのも当然です。

苦痛が強ければ、「何で私がこんなに苦しまなければいけないの」と、誰かに怒りをぶつけたくなるのも仕方ありません。


すべての病気に原因があることは、確かです。

現代(西洋)医学では、物質(肉体)を対象としているため、遺伝子を含め、からだの隅々まで検査をしていくことになります。

感染症は、細菌やウィルスの感染により起こります。

原因は物質次元にあり、検出できます。

免疫機能の働きと、薬の効果により、体内から原因である細菌やウィルスがいなくなれば、病気は治ります。

胃潰瘍になると、一昔前は手術をしていたようですが、今ではストレスが大きな原因となっているのは、周知の事実です。

最近の研究では、腰痛も怒りの感情が関与していると言われています。

日々の出来事がストレスとなり、目に見えない「心」に影響を与えているのは明白です。

心とからだは、切っても切り離せない関係にあります。

目に見えない「心」が原因となり、生じている病気は多いのではないでしょうか。


誤解を恐れずに言えば、日々の出来事により生まれた感情(想い)が、肉体で表現されずに滞っていくと、病気になると思います。

心は、さまざまな感情を生み出します。

忌 (いむ) ・忍 (しのぶ) ・怒 (いかる) ・恐 (おそれる) ・恥 (はじらう) ・恋 (こい) ・悲 (かなしい) ・愁 (うれえる) ・慕 (したう) ・憂 (うれえる) ・怪 (あやしむ) ・怖 (こわい) ・悔 (くやむ) ・恨 (うらむ) ・惜 (おしむ) ・悼 (いたむ) ・愉 (たのしむ) ・憎 (にくむ) ・憤 (いきどおる) ・懐 (なつかしむ)等、
調べてみると、日本には実に多くの感情の表現があります。

これらの感情は、便宜的に名前を付けているだけであり、国や文化によっても表現は変わってきます。


愉(楽)しむ感情がいくらあっても、病気になることはありません。

喜びすぎて病気になってしまったと言う人を、聞いたことはありません。

しかし、怒りの感情が生まれると、からだに大きな影響を及ぼします。

交感神経が興奮し、アドレナリンが分泌され、血圧が上昇します。

一過性の怒りであれば、すぐ回復しますが、怒りが大きく、感情が蓄積していくと、交感神経の興奮が持続したままとなり、からだ全体に悪影響を及ぼし、長引けば病気になってしまうかもしれません。


では、心はどこに存在するのでしょう?

科学(大脳生理学)では、脳から生じると結論付けたいところですが、それは無理なようです。

いくら研究を積み重ねても、心についての解明は進んでいません。

心は、大脳辺縁系での神経伝達物質により、生じるものではありません。


心は魂から生まれます。


人間は、目に映る肉体だけの存在ではなく、肉体を超えた魂が存在し、肉体と精神を支配しています。

(大)脳は、魂から生まれる心を認識し、肉体で表現する司令塔の役目を果たしています。

目に見えない心は、目に見える脳から生まれると考えるよりも、目に見えない魂から生まれると考えた方が、より自然です。

それでも、科学者が「魂」の存在を否定するのであれば、未だ証明されていない「心」の存在も否定しなければいけません。


魂(霊)の存在を認めれば、現代の自然科学が根底から覆えってしまう怖れがあります。

医学においても、病気の概念は変わり、既存の治療法の多くが、過去のものとして姿を消すことになるかもしれません。

証明できないという理由で、魂(霊)の存在を否定してしまうのではなく、偏見を捨てて、未知のものとして解明していく姿勢が科(医)学にあれば、人類のためになる、すばらしい発見が待っていると思います。


なぜ、病気になるのか。

その前に、人はなぜ、この世を生きているのかを知っておく必要があります。


死んでしまえばお終いと考えれば、生きる意味は極めて乏しくなります。

病気は不幸以外の何者でもありません。

生命は、そんな底の浅いものではありません。

深遠であり、神聖なものだと思います。


生命とは魂です。

従って、肉体がなくなっても生き続けます。

これは、動かし難い事実であり、厳粛に受け止めて生きていかなければいけません。


人は、なぜ生きるのか?

この世を生きているのは、生命そのものであり、真の自分である魂を成長(向上)させるためです。

なぜ、魂を成長させなければいけないのか?

生命とは活動し、変化するものです。

意識されませんが、生命である魂は、神からの力(生命力)を受け取っています。

魂は神の一部として、神の心である「愛」を表現するために、力を受け取っています。

神の心に近い「愛」を表現するためには、魂を向上させなければいけません。

それが、自我に目覚めた生命の宿命と考えられます。


向上させるためには、できる範囲で、周囲に愛を表現していかなければいけません。

人や社会のために汗をかき、喜んでもらうことであり、

倒れて助けを求めている人に、手を差し伸べて、立ち上がらせることであり、

傷ついた人を、いたわり、慰め、励ますことであり、

人や動物にやさしくすることであり、

人を許したり、出来事に耐えることです。

生きていると、いくらでもその機会が訪れます。

その1つ1つが、魂を向上させる、またとない機会となります。


そして、人生で訪れる困難を乗り越えていく中でも、魂は向上(成長)していきます。

できれば避けたい障害、病気といった経験を通して、もがき苦しむ中で、知らず知らずに、向上していきます。

自分に欠けているものを補うためであり、大切なことに気付くためであり、神の摂理を身を持って学ぶためです。

魂を向上させさる困難は、痛みや苦しみを伴ったものとなります。

山登りと同じで、登っている時は、とても苦しく感じられます。


なぜ、病気になるのか?


病気は、肉体次元から見れば、正常組織の変性であり、異常組織の増殖であり、そして機能の異常です。

霊的次元から見れば、病気は魂のありさまの変化が、肉体上の変化として反映されたものです。

病気の苦痛は肉体次元から見れば、肉体の異常を知らせるシグナルです。

霊的次元では、摂理に反した想いや行いの償であり、魂を目覚めさせるためにあります。


霊的次元は、思念(想い)の世界です。

人は生きていると、さまざまな想い(感情)を抱きます。

この世(物質次元)では、想いは目に見えず、人にも知れませんが、霊的次元では実在そのものであり、周りに認識されます。

さまざまな想いは、大きく2つに分けられると思います。

自分を成長させる想い(神の摂理に適った想い)と、成長を妨げる想い(神の摂理に反した想い)です。

もっと分かりやすく言えば、愛に基づいた想いと、愛に反する想いです。

怒り、憎しみ、恨み、妬み、貪欲などは、神の摂理(愛)に反した想いです。


生きていると、いろいろな出来事が起こり、さまざまな想い(感情)が生まれます。


例えば、人に侮辱されたり、裏切られたりすると、怒りの想いが生まれてしまいます。

高じると、憎しみや恨みの想いとなっていきます。

人によっては、相手に復讐するという行動に出ます。

復讐は正当と考える人もいますが、自分と同じように相手を傷つけてしまおうとするものであり、明らかに摂理に反した行動です。

それを、真の自分(魂)は分かっていて、好ましくないと感じ、多くの人はその衝動を抑えて、じっと耐えていくと思われます。

この世では、魂から生まれる想いを、肉体で表現しようとします。

しかし、耐えて、我慢してしまうと、想いは表現されずに、滞ってしまいます。

表現されない想いが蓄積していくと、魂のありさまに変化が生じます。

怒りの想いが蓄積して、魂のありさまが変化してしまうと、ささいな事で怒りを感じ、怒りやすくなってしまいます。

悲しみの想いが蓄積し、魂に変化が生じてしまうと、悲しみを感じやすくなり、なみだがすぐに流れてしまいます。

この世では、自分なりに愛を表現して、成長していかなければいけません。

怒りの想いにとらわれている人に、それは難しいかもしれません。

何度となく訪れるであろう、困難や障害を乗り越えて、成長していかなければいけません。

悲しみにくれている人に、それは無理かもしれません。

想いが蓄積して、予定されていた人生を変えてしまうほどになると、因果律の働きによって、病気が生じると思われます。

神の摂理が働いていているのは、言動だけではありません。

自らの想いにも、しっかりと働いて、責任を負うことになります。

病気の苦痛は、摂理に反した想いを抱き続けた、償いとなっています。

それとともに、魂を目覚めさせ、大切なことに気付く触媒となります。

大切なことは、「愛」です。

病気は、愛の大切さに気付き、とらわれていた(摂理に反する)想いから、摂理に適った想いに変えるためにあります。


なぜ、病気になったのか?

「魂が正しい方向へ進んで行くため」であり、

「愛を表現するため」という答えになると思います。


次の世界に行けば、肉体はもうありません。

病気の苦痛からは解放されます。

ただし、魂のありさまが変わってしまっても、それを知らせてくれるものがなくなります。

変わってしまった自分(魂)に気付くために、この世に病気が存在し、肉体や精神の苦痛は、魂の浄化を促し、神の摂理(愛)を学ぶためにあると考えられます。

もし、変わってしまった自分(魂)に気付かずに、大切なこと(神の摂理)を学ばないまま、この世を去ったのであれば、変わってしまった自分が犯した過ちを償い、大切なことを学ぶために、もう1度この世に生まれて、さらに大きな苦難を経験して、目的を果たさなければならないと思われます。

病気は、言葉ではとても言い表せないほど、つらいものですが、自分(魂)が正しい方向に進んで行くため、この世のうちに軌道修正するために、どうしても必要だったと思われます。

そして、正しい方向に進み出したのなら、目的が達成されて、治癒していくと考えられます。

病気は、無意味で不幸なものではなく、神の摂理の働きによるものであり、自らを成長させる方向に導くものです。

ガン、膠原病、ALS等、人々を苦しめている病気の根本原因は、残念ながら解明されていません。

従って、有効な治療法も確立されておらず、手術を含め対処療法となります。

医学的に原因不明で、治療が困難な病気の中には、霊的次元に根本原因があり、それ突き止めて解消していけば、治癒に向かうものも多いと考えられます。

霊的に見れば、不治の病は存在しません。


生きる力は、神から流れてくるものであり、愛する力そのものです。

精一杯生きたとしても、愛を忘れた生き方をしてしまえば、この世を生きる目的は成就されません。

生命は魂であり、魂は真の自分です。

真の自分は、肉体で愛を表現するために、この世に生まれ、そして生きています。


病気は不幸ではありません。

魂を成長させて、愛を表現する生き方へ変えていく、この世だけにある神から与えられた機会(チャンス)です。

この世で生まれ変わるためにあると、言ってもいいのかもしれません。


生まれ変わるためには、想いを捨てなければいけません。

愛を表現するために、とても障害となっている、怒り、憎しみ、恨み、妬み、貪欲などの想いです。

想いにとらわれている限り、変わることはできません。

その想いを手放すためには、出来事を正面から受け止めて、許さなければいけません。

とても難しいことだと思います。

しかし、長い間、病気でつらい思いをして、大切なことに気付いた人であれば、できるはずです。

苦痛に耐えてきたので、そこまで魂が向上していると思われるからです。

想いを手放せば、魂は本来の姿を取り戻します。

魂が本来の姿を取り戻せば、肉体や精神も本来の姿を取り戻します。

生き方が変わり、病気は癒されて、この世に生まれてきた目的を果たしていくと思います。


生きることは、愛することです。


病気になり、本当に大切なことに気付いたのであれば、解放される日は近いと思います。

どんなに苦しく、つらい状況であっても、その時は、すぐに訪れるかもしれません。

どうか希望は持ち続けて下さい。