2014年11月3日月曜日

生命力が病気を治す


大きな病気になると、ほぼすべての人は医者にかかります。

医者は、患者を診て、病気を診断し、治療をしていきます。

そして軽快すると、医療行為により病気が治ったと考えます。




果たして、医療行為により病気は治ったのでしょうか?

それは、大きな誤りであり、自然治癒力という、本来生命に備わっている力が、病気を治したのです。

ぱっくりと開いた傷口を縫い合わせるのは医療行為ですが、細胞レベルで傷口を閉鎖させているのは自然治癒力です。




では、医療行為は無駄なものかと言うと、そうではありません。

体内での細菌やウィルスの増殖を抑える、抗生物質や抗ウィルス剤は、外敵から人体を守るために、きわめて有効な手段となっています。

また、骨折や裂傷などの外傷は、早期に整復や縫合をすることで、良好な治癒が得られます。

血管からの出血、あるいは詰まってしまう梗塞は、適切な医療が施されないと、生命の危機につながります。

私は歯科医師をしていますが、虫歯の苦痛は生活の質を著しく低下させます。

もし、放置したならば歯は失われ、咀嚼という機能が低下します。

痛みを取り除くため、歯を失わないため、失われた機能を回復するため、回復された機能を生涯にわたって維持していくために、医療行為は必要です。

医療がなければ、多くの人が命を落としたり、生活に支障をきたしたりするのは、目に見えています。

しかし、感染症や外傷などに対して大きな威力を発揮する医療も、ガンや膠原病、糖尿病などの慢性疾患を根本的に治癒させるのは、残念ながら困難です。

現代医学は、目に見える物質次元の原因を除去することを目的としています。

ガンや膠原病など、難治性の疾患の多くは、目に見えない次元、霊的次元に根本原因があると考えられ、現代医学では原因を除去できないために、治療は手術を含め、対症療法となります。




人は、肉体と、精神(心)と、魂(霊)により構成されています。

生きる力である生命力は、魂に流れ込み、想いという力に変わり、精神に投影され、肉体で表現されています。

魂から精神そして肉体へと、力が常に流れています。

魂で生まれた想いという力が、肉体で表現され、外に向かい放散されています。

さまざまな想いが、魂から生まれます。

生命力は神の力であり、愛の力です。

魂に流れてきた生命力は、愛の想いとなり、肉体で表現されるはずなのですが、私たち人間は魂の進化の発展途上にあり、それがなかなかできないと考えられます。

人生で起きるさまざまな出来事により、魂に流れてきた力は、愛の想いではなく、それとは反対の憎しみや恨み、嫉妬などの想いが生じてしまうことがあります。

それらの想いは、神の心である愛と対極にあり、摂理に反する想いです。

摂理に反する憎しみなどの想いを、言動(肉体)で表現してしまう人もいますが、そうすればさらに罪は大きくなってしまいます。

魂は、そのことを知っているので、多くの人は(肉体で)あえて表現しようとしません。

自分を抑えて、我慢します。

ストレスが溜まっていくのは、この状態だと思われます。

表現されない想いが、解放されず、滞り続けてしまうと、次第に魂のありさまを変えていきます。

怒りを感じているのにもかかわらず、それを外に出さないでいれば、イライラとした精神状態になってしまいます。

ささいなことで口論となり、人によっては相手を暴力的に攻撃したりするかもしれません。




生きる目的は、自らの魂を向上させることにあり、愛を表現することで成就します。

しかし、想いが滞っているために、思いもよらず人を傷つけてしまい、罪を作ってしまうならば、とても大きな問題と言えます。

魂は、目に見えるものではありませんので、想いが滞り、好ましくない様相に変わってきても、わかりません。




魂は肉体の上位にあるため、肉体は魂に従います。

従って、魂に何らかの変化があると、それが肉体に反映されることになります。

魂の様相の変化が、肉体上の変化として表われたものが、(霊的次元に原因がある)病気と考えられます。

ガンや膠原病の多くは、これに当たると思われます。

想いは実体がなく、瞬間的に消えてなくなりそうですが、霊的には、実在そのものであり、想いが表現されなければ、消えることなく魂に残っていると考えられます。

想いは、表情や言葉そして行動する力となって、具現化されていきます。

生きることは、表現することと言ってもいいほど、想いを表現することは、生命にとってきわめて重要だと考えられます。

想いは、肉体をも変えてしまう、力を秘めています。

イエス・キリストを崇拝する信者の手のひらから出血する、スティグマ(聖痕)は、その良い例です。

失敗のイメージにとらわれていると、実際に失敗してしまうことがあります。

それと同様に、成功を強くイメージしていると、その通りになるような気がします。

想いが、具現化されているのだと思います。

すべての肉体的表現に対し、想いが常に先行しています。

病気も、肉体的表現の一種です。

想いにより、魂の様相は変化していき、それが肉体的な変化として表現されたのが、病気だと思われます。




摂理に反した想いを抱き続け、表現されず滞ってしまえば、その想いの滞りが、肉体上にガンとして表現されると考えられます。

病気の苦痛は、憎しみ、恨み、嫉妬、貪欲など、摂理に反する想いを抱き続けた、償いとしてあります。

そして、苦痛の経験は、魂を目覚めさせて、愛の想いに変えていきます。




想いが適切に表現されなければ、行き場を失った力は内に向かい、肉体や精神を変化させる力となったり、機能を変化させる力となります。

魂から生じる想いを、納得のいかない、不本意な表現をし続けていると、悔いや自責の念が生じてしまい、肉体上では免疫機能の変化として表れ、膠原病を発症するかもしれません。

そのことに気付き、変えていくために、膠原病になったのかもしれません。

苦痛の経験は、魂を目覚めさせ、ありのままで自分にふさわしい表現をしていくようになります。




魂から生じる想いを、愛の想いに変えていき、自分にふさわしい表現をさせていくのが、病気の本質です。

偶然や、不運ではなく、魂を成長させ、生きる意味を成就させるためにある、神の摂理である「因果律」の結果です。




生命力は細胞内のミトコンドリアが作り出しているわけではありません。

始源である神から、生命である魂に流れ込んでいますが、全く意識されることはありません。

その力は魂で想いとなり、肉体に伝わり表現する力となります。

魂は神の一部であり、神の愛を表現するためにあります。

生命力は、神の心である愛を表現するためにある力ということになります。

その力が、摂理に反した想いになったり、表現になってしまうと、因果律の働きにより、病気や苦難が生じます。

苦痛の経験は、償いであるとともに、神の摂理に気付かせる触媒となっています。




病気になると、肉体上の病変を切除したり、薬で症状を緩和させようとしますが、霊的次元に原因があれば、解消したことにはなりません。

霊的次元に原因があれば、まず想いを変えていかなければいけません。




少しずつ、少しずつ、愛の想いに変えていきましょう。

やさしくする、思いやりを持つ、親切にする、同情する、励ます、慰める、いたわるなどは、愛の想いの表現です。

許すことや、違いを認める寛容の精神も、愛の想いです。

人や動物そして社会が、喜ぶこと、助かることは、愛の表現だと思います。

愛の想いを表現をすると、喜びを感じるのは、摂理に適っているからであり、神からのささやかな褒賞だと思います。

自分にふさわしい形で、その想いを表現していきましょう。

想いを素直に表現できるようになれば、神から生命力はよどみなく流れ、魂から肉体に行き渡ります。

ふんだんに流れ込む生命力により、魂が癒され、そして肉体が癒されていくと思います。




愛を表現すればするほど、神との繋がりは深まり、より多くの生命力が魂に流れ込むと思われます。

そればかりか、愛の表現は他者の魂にも影響を与え、今度は受け取った人や動物そして植物が、愛を表現しようとします。

人は受けた愛を誰かに返して、動物は穏やかに従順になり、花は美しく咲き、実をつけます。

すべての魂はつながっていて、愛の想いは伝搬していくと思われます。

それが連鎖して、拡がっていき、世界が愛で満たされていくことが、神の心だと信じています。




繰り返しますが、神から流れ込む生命力の本質は愛です。

生命は、愛を表現するために存在しています。

人間には自由意志が与えられているため、どんな想いを抱いてもかまわず、それを自由に肉体で表現できます。

それは同時に、自分の想いや表現に責任が問われるということを意味します。




病気を治すのは医者ではありません。

自分の考え方(想い)や生き方(表現)を変えていくことで、病が癒やされると考えています。

なぜならば、魂を向上させる考え方や生き方に変えさせるために、病があると思われるからです。




自らの魂に流れ込む、生命力により病気は治ります。

神の力であり、愛の力だからです。

愛の力により生かされているのだから、素直に、自分にふさわしい愛の表現をしていかなければいけません。



















0 件のコメント: