2021年2月21日日曜日

死んでも意識はなくならない


私は今年で60才になります。

月日が経つのは早いものです。

昔の私でしたら、あと30年位しか生きられないと寂しく思ったかもしれません。

霊的な知識を得た今は、あと30年位で向こうに行けると思うようになりました。



向こうの世界に行くには、あることを経験しなければいけません。

それは「死」です。



私にとって、死は怖いものでした。

死ぬと意識がなくなってしまうと考えていたからです。

自分自身が消滅してしまうのが、無性に怖かったのです。



医学的に、脳の活動が完全に停止(脳死)した状態が、人の死と定義されています。

脳の活動が停止すると、意識はなくなると考えられています。



本当に、脳の活動が停止すると意識がなくなるのでしょうか?

1991年、アメリカで行われた手術で、興味深い出来事が起こりました。

手術を受けた人は、パム・レイノルズと言う女性ミュージシャンでした。

彼女には、大きな脳動脈瘤があり、それを除去する手術が予定されました。

極めて難易度の高い手術であり、動脈瘤を除去するために、低体温下で心肺を停止させて、一時的に脳の血流を完全に止めなければなりませんでした。

全身麻酔を施すために、彼女の眼はガーゼで密閉され、耳には脳幹部の脳波が停止しているのを確認するために、100デシベルの音量の音楽が流れるイヤホンが装着されていました。

これによって、目や耳から外部の情報は一切入らなくなりました。

手術が始まる前、脳の血流が完全に止められ、予定通り彼女の脳波はフラットになりました。

心肺が停止し、脳の活動も停止し、人の死に当たる状態となりました。



手術が始まった時、彼女には驚くべきことが起きていました。

麻酔剤を注入され意識を失った後、脳波がフラットになっているのに、頭がい骨を切るのこぎりの音で意識を取り戻したそうです。

そして、執刀医の肩のあたりから手術の様子を眺めていたそうです。

また、医師のこんな会話も聞いていたそうです。

「静脈と動脈が細すぎる」


手術中に自分に起きていた不思議な出来事を、後で周りの人に話しました。

あり得ないことだと、家族は笑ったそうです。

ところが、現場にいた医師たちは青ざめたそうです。

彼女が語った内容と、手術室で起きていた出来事が完全に一致していたからです。

この事実は、しばらくの間、固く口留めされました。

その理由は、麻酔の効きが不十分だった可能性があり、医療ミスとして訴えられるかもしれなかったからです。

しかし、術中の脳波はフラットになっていたのですから、覚醒していた可能性は0%です。



手術中の女性に起きた出来事から、2つの事柄が導き出されます。

1つは、脳の活動と意識は全く関係ない。

もう1つは、意識は肉体から離れて存在し得る。



意識は、物質的なものではないことは明白です。

私が知っている霊(魂)の概念と一致しています。

意識の本体は霊(魂)と考えても良いのではないでしょうか。



偉人として世界中に知られているヘレンケラーは、人生観を変える体験をしています。

15,6才の頃に書斎にいながら、意識は遠く離れたギリシャのアテネに行っていたそうです。

その体験について、著書「私の宗教」の中で、こう書いています。

「私の霊魂が実在すること、しかもそれは場所や肉体の制約を完全に超えていることを悟ったのでした。何千マイルも彼方の場所をこんなにありありと“見たり”感じたりしたのは、私が霊そのものであり、そのことにもはや疑う余地はありませんでした。」

ヘレンケラーの意識は肉体から離れ(幽体離脱をして)、アテネの風景を霊的な眼で視ていたと考えられます

五感を通さなくても、外の様子を認識することが出来たのです。

視覚と聴覚を失っているヘレンケラーにとって、その体験は驚きであると共に、大きな悦びであったのに違いありません。

ヘレンケラー


全ての現象を、脳の働きで解釈しようとする人がいます。

科学的に証明することが出来ない魂の存在を頑なに否定し、こじつけに過ぎない理論(仮説)を展開しています。

魂は物質を超えた存在です。

五感に触れるものではないので、普段意識することはありません。

そのために、自分の本質であるのにも関わらず、存在を信じられなくなっています。



そんな人たちに、1度聞いてみたいことがあります。

科学的に証明されていない「愛」は、存在していないのでしょうか?

脳が作り出した幻覚なのでしょうか?

実感したことがある人なら、確かに存在しているのが判るはずです。

愛の存在は肯定し、魂の存在を否定するのならば、それこそ科学的な態度ではないと思います。



それでも、目に視えない愛の存在を信じている人であれば、目に視えない魂の存在も信じられるようになるはずです。

何故なら、愛は魂から生まれて、魂で感じているものだからです。



さまざまな思念は脳ではなく、意識の本体である魂から生じています。

この世では、思念を肉体によって表現しています。

悲しければ涙を流し、怒れば怒鳴ったりします。

伝えたいことを言葉にしています。

コンピューターは、入力されたものを演算処理をして出力しています。

脳も同じで、精神から入って来た情報を処理して、肉体に指令を出しています。



この世に生きる私たちは、五感を頼りに生活をしています。

そのため、コミュニケーションには手間がかかります。

思念が生まれると、精神の働きによって、どう表現するべきかが決められ、脳から肉体に指令が出されて、肉体がそれに従って動き、外に向かって表現されます。

この一連の作業が無意識に行われています。

外に向かって表現されたものは、他者の五感によって受け取られ、脳で処理され、精神が認識し、それに応じた思念が生まれます。

コミュニケーションとは、その繰り返しです。



あの世に行くと、一気に簡略化されます。

思念は、インスピレーションとなって相手の魂に直接伝わります。

以心伝心なので、肉体や脳が存在しなくても良いのです。



あの世でもこの世でも、同次元の人同士とのコミュニケーションは、さほど難しくありません。

ただ、この世では思っているのと違うことを伝えたり、思っているのと違ったことが伝わったりします。

嘘が存在し、齟齬が生じるのがこの世です。

あの世ではあり得ません。



携帯電話が普及している現代において、直接会わなくても、コミュニケーションするのが当たり前になっています。

ところが、電話などの通信手段がなかった時代では、直接会って、コミュニケーションをしなければなりませんでした。

あの世の人にとってこの世の人は、携帯電話で会話をしている私たちが、電話がない時代の人たちを眺めているのと同じで、非効率で不確実な手段でコミュニケーションをしているように見えているはずです。



この世とあの世では、コミュニケーションの仕方が全く違います。

従って、次元を超えてコミュニケーションをするのには、どちらかが相手の仕方に合わせなければなりません。

あの世の人には、もう肉体はありませんので、この世の人に合わせるのは不可能です。



私たちは、五感(肉体)を通したコミュニケーションに慣れ切っています。

けれども、霊的な存在であることに変わりはありません。

思念を感じる能力が、元々備わっています。

その能力が賦活化されれば、コミュニケーションは可能なはずです。



この世にいる人とあの世にいる人の違いは、肉体を介して自己表現をしているか、介さずに表現しているかの差だけです。

この世にいる人も、睡眠中は意識は肉体から離れ、あの世に行き、肉体を介さずに自己表現をしています。

臨死体験をしている時もそうです。



手術中のパム・レイノルズさんですが、他界しているおばあさんに呼ばれて、意識が自然に上昇し始めたそうです。

トンネルのような場所を通り抜けると、そこは眩い光の世界で、光で出来たような人たちがいたそうです。

おばあさんの他に、他界した伯父さんもいましたが、なぜか先に進めないような気がしたそうです。

その後、伯父さんに付き添われて、トンネルの入り口まで戻りました。

そこにはシーツに包まれた自分の体が横たわっていて、それを見て怖くなったそうです。

伯父さんに背中を押し出されるように自分の体に入りましたが、冷たいプールに飛び込むような感じがしたそうです。



臨死体験をした人は、彼女のように他界した人たちと会っているはずです。

夢と一緒で、その時のことを頭で理解し切れないので、思い出せないのかもしれません。



死ぬと意識がなくなり無になると証明した人は、誰一人としていません。

死と言われる状態になっても、意識はなくならずに、肉体から離れて存在していたと証言している人はたくさんいます。

どちらが真実なのか、判り切ったことです。

不毛な論争はもう終わりにして、前に進んで行く時期が来ているのではないでしょうか。



心臓の鼓動は、いつの日か止まります。

それに伴い、脳の活動は完全に停止します。

瞳孔が散大して、医師が死を宣告するでしょう。

肉体は火葬されて骨になります。

けれども、意識は変わらずに存続しています。

死は怖くないのです。











2021年2月14日日曜日

真理の実践


世界にはたくさんの宗教があります。

以前の私は、宗教と聞くと、何やら胡散臭いものだと思っていました。

変わった教祖がいて、盲目的な信者がお布施を搾り取られている、そんなイメージしか持っていませんでした。



16年前になります。

ある朝、起きたらヒーリングの力が出現していました。

その後すぐに、シルバーバーチの霊訓(霊的真理)に出会いました。

そして、人生を大きく揺るがす出来事が起こりました。

わずか1か月の間に、立て続けにあったので、「人生は計られている」と、思わざるを得ませんでした。

起きた出来事に追い詰められて行く中で、「因果律の働き」を思い知らされ、神と神の法則を信じるようになりました。

絶妙のタイミングで霊的真理に出会えたのは、霊界の導きによるものと確信しています。



霊的真理を知ったことにより、若い時から感じていた「何で生きているのだろう?」と言う疑問が解決されました。

死んだ後も人生は続いていることが判ったので、欲張って生きようとしなくなりました。

上辺ではなく、内面を視るようになりました。

他にもたくさんあります。

霊的真理は、計り知れない恩恵を私に与えてくれたのは間違いありません。



知っている人は、まだ知らない人たちに伝える責任が生じます。

キリストの12使徒は、各地を歩いて回り、口述でイエスの教えを伝えました。

そして捉えられ、殺されました。

その時代は、伝えるのも命がけでした。



今は、インターネットや書籍によって、自分の持っている知識を、世界中の人に知らせることが出来ます。

昔のように、捉えられ、殺されることもありません。

知りたい人は、簡単に情報にアクセスできるようになりました。

ところが、様々な情報が氾濫していて、何が正しいのか判らなくなっています。

真理に辿り着いたつもりで、とんでもない宗教(組織)に捕まっている可能性もあります。



人工的な教義に塗り固められた宗教に関わることなく、最短で無垢な霊的真理に辿り着いてもらいたいと思いました。

12年前にこのブログを開設しましたが、シルバーバーチの霊訓を読んでみようと言う気持ちを起こさせるのが目的でした。

軽い気持ちで始めましたが、真剣に読んで下さる人がいることを知り、気を引き締めて書かなければいけないと思うようになりました。

時々、内容に対する意見や感想を書いたコメントが寄せられましたが、そのうちに、ご自身が抱えている悲しみや苦しみや怒りを吐露されたコメントをいただくようになりました。

その度に、私自身が真理と向かい合うことになります。

抱えられているご事情は様々ですが、現実に打ちのめされている人が少なくありませんでした。

この世は、やはり修行の場であることを再認識しました。

そして、現実に起きていることの意味(目的)が、霊的真理の中に見い出せることに気付きました。

私がそうだったように、人生を一変させる力を霊的真理は持っています。



シルバーバーチは宗教について、こう言っています。

「私が説く宗教は実践の宗教です。1日1日の宗教-1日24時間、1時間60分、1分60秒、そのすべてを実践の時とする宗教です。それが私の評価の基準です。」

知っているだけでは、だめなようです。

生きている時間すべてが実践、とても難しい課題だと感じました。



ところで、実践とは何をするのでしょうか?

私にとって1番大切な実践は、霊的真理を伝えることだと思います。

自分が受けた恩恵を、他の人にも享受してもらうことです。

当初は、伝えなければいけないと力んでいましたが、必要としている人、求めている人は、私が考えていたほど、多くはありませんでした。

実際に、伝える機会が訪れるのは数ヶ月に1度位だったかもしれません。

それでも、必要としていると思ったら、ためらわずに伝えることが大切です。

今は必要なかったとしても、種を蒔いておくのは無駄にはなりません。

現実に打ちのめされる経験をした時に、ふと思い出してくれるかもしれないからです。



真理を伝えることも大切ですが、それ以外に何が実践できるのか考えました。

何か人や社会の役に立つことをしてみようと思いました。

仕事を完全に離れる期間があったので、身体障害者施設で活動支援のボランティアを始めました。



施設に入ると、私の全く知らなかった世界が拡がっていました。

印象的だったのは、重度の障害がありながらも、精一杯生きようとしている人たちの姿でした。

それを支えているスタッフの姿にも、感銘を受けました。

しかし、中には自分の身の不幸を嘆いている人もいました。

そんな人と話す機会が与えられたような気がしました。



生まれてから今までベッドの上で暮らし、好きなところへも行けず、何をするのも一人ではできません。

想像を絶する苦です。

この人にこそ、霊的真理が必要と思いました。

この世で終わりではない、今の肉体から解放されて自由になれる時が来ると伝えました。

神妙に聞いていた横顔は、今でも記憶に残っています。

ある時、その人のお母さんが来ていました。

息子さんを見る眼差しに、不憫に思う気持ちや罪悪感らしきものを感じましたので、「シルバーバーチの霊訓」を読むように勧めました。

答えを見つけていたのであれば、きっと読んでいると思います。

思い切って行動すると、伝える機会が広がり、真理の理解にもつながると感じました。



話を戻しますが、実践することは他にあるのでしょうか?

霊的法則の中で1番大切なものは、「互いに愛し合うこと」とシルバーバーチは答えています。

「愛し合う」と言うと大げさに聞こえますが、普段の生活の中で、何か役に立ったり、助けたり、優しくするのも、他者へ愛を表現していることになります。

それも立派な実践ではないかと思います。

小さなことですが、電車でお年寄りに席を譲るのも、困っている人がいたら声をかけるのも、運転中に道を譲るのもそうです。

悩みを聞いたり、慰めたり、勇気付けたりするのもそうです。

保健所にいる動物たちを家族として迎え入れるのも、肉を食べないのもそうです。

落ちているゴミを拾って捨てるのもそうです。

            


外に対しての、行いばかりではありません。

日常生活では、腹が立つことも起こります。

寛容の精神を発揮し、怒らずにやり過ごすのも実践です。

難しいことですが、人の過ちを許すのも実践です。

つらくても投げ出さずに、やり遂げるのも実践です。

簡単なものから難しいものまで、実にたくさんありそうです。

日々の仕事や家事をするのも、忘れてはならない実践だと思います。

そう考えると、実践することは、いつもあるような気がします。



特別なことではなく、誰かのためになっていたり、毎日を一生懸命生きることが、実践になっていると思います。

霊的真理を知っていなくても、人は実践しようと生きていると思います。

内なる声が、そうさせていると思います。



真理を知ることは、魂をより成長させる早道を見つけたことになります。

成長させる方向に進んで行かなければ、知った意味がなくなってしまいます。

魂が目覚め、真理を知ると、良心の声が聴こえるようになるはずです。

いけないと知りつつ過ちを犯すのは、知らない人よりも許されなくなります。



真理の実践とは、積極的に何かをすると言うよりも、良心に忠実になり、成長する生き方を心がけることかもしれないと思いました

口で言うほど簡単ではありませんが、心がけていれば、悔いのない人生になると思います。



最後に、自戒の意味も込めてシルバーバーチの言葉で締めたいと思います。

「要はその人が生きてきた人生の中身、つまりどれだけ人に尽くしたか、内部の神性をどれだけ発揮したかにかかっています。大切なのはそれだけです。知識は無いよりはあった方がましです。が、その人の真の価値は毎日をどう生きたかに尽きます。」

「現在の我が身を振り返ってみて、果たして自分は当初のあの純粋無垢の輝きを失いかけてないか、今一度その時の真摯なビジョンにすべてを捧げる決意を新たにする必要はないか、そう反省してみることです。」






2021年2月7日日曜日

健やかに生きるために


毎日、虫歯になった人の治療をしています。

痛みに耐えられなくなって来る人が多いのですが、もっと早く来ればこんなにひどくならず、治療も簡単に終わったのにと思うことがしばしばです。



ご存知でしょうが、虫歯の原因は歯に付く汚れ(歯垢)です。

歯垢の中にたくさんの細菌がいて、細菌が出す酸によって歯が溶かされて虫歯になります。

昔の人はそんなことなど知りません。

虫歯になったら、麻酔もなしに激痛に耐えながら、歯を抜かなければいけませんでした。

もし、原因を知っていたのなら、もっときれいに歯を掃除していたでしょう。

江戸時代の抜歯の風景 国芳画


虫歯の原因は歯垢だけでしょうか?

良く歯を磨いているのに、虫歯を作って来る人は少なくありません。

そんな人は、甘い食べ物や飲み物が好きなことが多いです。

ご存知でしょうが、砂糖には虫歯菌を増殖させ、歯垢をたくさん作る働きがあります。

歯を良く磨いたつもりでも歯垢が残ってしまい、そこから虫歯になります。



日常でストレスを感じると、甘いものを食べたくなる人もいるようです。

そんな人は、ストレスが甘いものを食べることによって和らぐ気がするようです。

また、歯や歯周組織に悪影響を及ぼす夜間の歯ぎしりも、日中のストレスを寝ている時に解消していると言われています。



以上のことから、口の中の病気の原因は歯垢(細菌)と言う物質的なものだけではなく、ストレスと言う精神的なものが深く関わっていると言えます。

実際に、退職したり、介護が終わるなどストレスがなくなると、お口の中の状態がみるみるうちに改善する人が見受けられます。

他の多くの病気も、ストレスなど精神的な原因が関わっていると思います。



霊的真理では、病気は肉体と精神と霊(魂)の不調和から生じると書かれています。

不調和とは、どんな状態なのでしょうか?

私は、3者が協調的に働いていない状態と考えています。



霊(魂)から生じた思念は、精神を介して、肉体で表現されています。

無意識に、それを繰り返しながら、私たちは生活しています。

その一連の流れが、何らかの理由で上手く行かなくなると、不調和が生じ、高じると病気になると考えています。



思念は、肉体的表現の元となるエネルギーです。

怒りの思念(想い)が生じると、怒鳴ったりする人がいます。

中には物を投げたり、壊したりする人もいるでしょう。

悲しくなると、人は泣きます。

怒鳴ったり、涙を流すことで、自分の想いを肉体によって表現しています。

後で、すっきりするのは、内にある想いが肉体的表現によって外に吐き出されたからと考えられます。



もし、吐き出されなかったらどうなるでしょう?

怒りの想いであれば、血圧は上昇し、脈は速くなり、身体の興奮状態が続きます。

悲しみの想いであれば、活力は低下し、酷くなるとうつ状態になってしまうかもしれません。



話は変わりますが、人は魂が剥き出しの状態で生まれて来ます。


物心がつく頃に、精神上に地上的な自我(以下自我)が形成され、自我を発達させながら、大人になって行きます。

              

自我は、地上で自分(魂)を表現するための媒体であると共に、外部環境から自分(魂)を護る役割があると考えています。



魂から生じている思念は、言葉にならない抽象的なものです。

抽象的なものが、自我により具体化され、肉体に指示が出されて具現化(表現)しています。

自我は、頭脳を駆使して思考を行い、表現するべきかどうかを決めています。

怒りを表現すると、相手を攻撃してしまい、好ましくない結果を生んでしまうと予測したのなら行動を止めます。

泣いているのを見られると、余計な心配を与えてしまうと考えたのなら、涙をこらえます。



生命とは魂です。

私たちは、魂に供給される生命エネルギーによって生かされています。

そのエネルギーは神を始源としているので、愛を帯びた神的エネルギーと言えます。

もし、私たちが完全な存在ならば、愛のみが表現されるはずですが、不完全な媒体を併せ持っているので、どうしても歪めらて表現されてしまいます。

怒りや憎しみも、不完全な媒体によって歪められてしまった神的エネルギーの1つの表現と言えます。

シルバーバーチは、人を憎むことの出来る人は、そのエネルギーを愛に転換できると言っています。



不完全な肉体及び自我を通して、自己表現をしているのが地上の人です。

愛とはかけ離れた、憎しみ合い傷つけ合う形で表現されてしまう一方、そのまま表現される時があります。

駅のホームから落ちた人を、電車が迫って来ているにも関わらず、飛び降りて助けようとした人がいました。

残念ながら亡くなってしまいましたが、神的エネルギーが自我の影響を受けずに、そのまま表現されたと考えられます。



霊(魂)が主であり、精神(自我)が従です。

魂から生じた想いが、自我(精神)により妨げられることなく、肉体で表現されているのが調和が取れた状態と考えています。

そうあるべきなのですが、自我が強くなり過ぎて、主従の関係が崩れてしまうと、不調和が生じると考えられます。

自我に妨げられて、本当の自分の想いが表現出来ずにいると想いが溜まり、溜まった想いが閾値を超えると、心身に変化をもたらすと考えています。



虫も殺せないような人が、戦争で命令を受けて、何人もの人を殺さなければならなくなったとしたらどうでしょう?

著しい不調和が生じて、心身を病んでしまうと思います。

動物が大好きな人が、仕事で犬や猫の殺処分を任されて、ガス室のボタンを押し続けたとしたらどうでしょう?

同じく、心身を病んでしまうと思います。



以前にも書きましたが、端的な事例があります。

2011年3月11日、東日本大震災が発生して、福島第一原発が津波に襲われて原子炉が損傷しました。

当時の所長は、過熱した原子炉を冷却するために海水を注入しようとしました。

そうしなければ原子炉が融解して、周囲に放射能をまき散らすことになるからです。

会社の上層部に進言すると、そうすれば原子炉は使い物にならなくなり、会社の損失があまりにも大きいと考えたのでしょう、許可を与えませんでした。

所長の魂(良心)は、放射能汚染が起きた時の甚大な被害を考えて、海水を注入しようと訴えていたと思います。

一方、自我は会社における自分の立場を考え、上層部の命令に従わなければならないと訴えていたと思います。

良心(魂)と地上な立場を考える自我(精神)の間で、極めて大きな葛藤が生じていたと想像されます。

最終的に、上層部の命令を無視して、良心に従って海水を注入しました。

翌年、所長は脳出血で倒れ、そして食道がんになり、事故後2年で58歳の若さで亡くなっています。

魂(霊)と精神の間に著しい不調和が生じたため、その結果として肉体上に深刻な病気が現れたと考えています。

因みに、被ばくにより食道がんを発症するには少なくとも5年かかり、事故の被ばくが影響した可能性は極めて低いとされています。



会社や家族のために、自分の想いに蓋をして、生きている人はたくさんいるでしょう。

良心の訴えに目を瞑り、生きて行くために、やりたくないことをやり続けている人もいるでしょう。

現代社会において病気になる人の多くは、真の自分の想いを表現することが出来ず、自我や他者の言うことに盲目的に従っている生き方が、大きな原因になっていると思います。



病気には苦痛が伴います。

苦痛により、肥大した自我が吹き飛ばされ、魂が目覚めて、内にある本当の自分の想いに気付くことになるかもしれません。

そして、自分本来の生き方に戻るかもしれません。

病気は、霊と精神と肉体の不調和から生じると同時に、霊が主の調和が取れた状態を取り戻すために存在していると思います。



あるゆる事象は、神の創った自然法則の働きによって起きています。

神は、自然法則の働きによって、生命を進化させることを目論んでいます。

いかなる病気も、自然法則の働きにより生じています。

従って、不運や不幸なことではなく、そこには明確な目的が存在するはずです。

その大きな目的の1つは、真の自分に目覚め、自分を成長させる生き方に変えるためと、私は考えています。



健やかに生きるための養生訓を、もう1度書いてみました。


1. 心穏やかに過ごすように努める
2. 寛容になるように努め、なるべく腹を立てない
3. 小さなことにも感謝する
4. 日々の中に、ささやかな喜びを見つける
5. やさしさ、思いやり、いたわりの気持ちを表現する
6. 笑顔でいる





2021年1月31日日曜日

人生は挑戦の連続


生まれた時、人はただ泣き叫ぶことしか出来ません。 

それから1年位経ってからでしょうか、つかまり立ちをするようになります。

しばらくすると、ふらつきながらも、最初の1歩を踏み出します。



小学生に上がる頃になると、自転車に乗ろうとします。

最初は、バランスを崩して転んでしまいます。

何回も転びながら、練習して行く内に、上手く乗れるようになります。



初めて何かをする時、その人にとっては挑戦です。

挑戦には失敗はつきものです。

時に痛い思いをしながら、少しずつ出来るようになって行きます。



いつからでしょうか。

失敗を恐れる様になったのは。

小さな頃は恐れることなく挑戦して、色々なことを覚えて行ったのに、大人になると失敗を怖れて挑戦をためらってしまいます。



誰でも失敗は嫌です。

失敗すると、気落ちします。

責任を取らなければならない時もあり、人から非難されることもあります。



挑戦とは、失敗のリスクを背負うことです。

それでも挑戦しなければならないのは、自らが進歩するためです。

挑戦なしに、進歩もありません。



挑戦する時に必要なものは何でしょう?

それは勇気です。

自分を信じることで、挑戦する勇気が生まれます。



ところで、自分を信じるとは、どんなことでしょう?

自分が秘めている力を信じることだと思います。

その力は、想像している以上に大きなものと考えられます。



本当の自分は魂です。

地上では、魂から生じた思念(想い)が、肉体によって表現されています。

その間に介在しているのが精神であり、肉体や地上の環境の影響を強く受けながら、絶えず変化しています。




本当の自分は、自らを成長させるために挑戦しようとします。

しかし、精神上に作られた地上的な自我(以下自我)の制約を受けることになります。

自我は、頭脳を駆使してリスクや損益を計算し、その挑戦が妥当であるかを吟味します。



リスクが高く、益が少ないようであれば、その挑戦を止めさせようとします。

挑戦しようとする自分(魂)と止めさせようとしている自分(自我)の間で、葛藤が生じます。

どちらが優勢になったかで、どうするのかが決まります。



挑戦を止めるのは簡単です。

自我によって理由はいくらでも拵えられるからです。

後付された理由によって、挑戦しようとしている自分の想いが封印された瞬間、挑戦を止めることになります。



挑戦の先に待ち受けているのは、未経験の困難や障害です。

楽な道ではありませんが、その困難や障害を乗り越えて行く中で、自分が成長して行きます。

大変な思いをしてまで挑戦しようとするのは、本当の自分(魂)が成長することを望んでいるからです。



魂には、神が内在しています。

自分を信じるとは、自分(魂)の中にいる神を信じることだと思います。

信じることで、内在している神の力が発揮されるようになります。



神の力は無限です。

信じるほど、より多くの神の力が発揮されます、

目的が成就されて行くことになります。



挑戦するものが、人や動物や社会のためになるものであれば、何も迷うことはありません。

自然法則の働きに合致しており、祝福されているからです。

最初は上手く行かなくても、最後には必ず目的は成就されます。



挑戦しても、予期した結果が得られない時があります。

挑戦する目的は、結果を得るためではなく、自分が成長するためです。

地上的な結果を残すよりも、霊的に成長した方が、はるかに価値があります。



もし、挑戦の意味が結果を出すことであれば、不公平が生じます。

同じ労力を注いでも、結果が出る人もいれば、出ない人もいるからです。

挑戦していることに意味があり、その過程で魂が成長することによって、完璧な公平が保たれています。



挑戦を後押ししている存在がいます。

私たちには、目に視えない霊界の存在が、生涯に渡り付いています。

地上の人の成長を願い、挑戦する方向に導いています。



挑戦するのか、止めるのかを決めるのは、あくまでも地上の人です。

霊界の存在は干渉出来ません。

固唾を飲んで、一歩を踏み出すのを見守っています。



挑戦することを決め、一歩を踏み出した時から、目的を成就させるように働きかけます。

力付ける、勇気が出る思念を送って、地上の人を前進させようとしています。

それが付いている、最大の目的です。



挫折するための挑戦、無理な挑戦はありません。

目の前にやって来るのは、自分を成長させる挑戦です。

挑戦することは、自然法則の働きによって生じていて、成長させることが目的だからです。



どちらか迷ったら、挑戦する方を選んで下さい。

そして、自分を信じて、背後にいる霊的な存在を信じて、進んで行けば良いのです。

目に視えない力が働いて、成就する方向に進んで行きます。



挑戦には、不安や怖れが付きものです。

自分を守ろうとしている、自我から生じています。

不安や怖れは成就させる力の流入を妨げてしまうので、心の中から排除するために、自分の中に神がいる、背後の存在から援助があると、強く信じて下さい。



信じることによって霊界とのつながりが強くなり、挑戦を成就させる力が流入して来ます。

その力によって、不安や怖れが押し流されるのを、実感できるかもしれません。

自我から生じる不安や怖れよりも、その力の方がはるかに強いのです。



死んでこの世の人生を振り返った時に、挑戦するか、止めるかの岐路に立っている自分を見ます。

挑戦する方を選んだ自分を見て喜び、止めた自分を見て悔しがるでしょう。

成長の機会をものにしたのか、生まれて来た意味を成就しているのかが、かかっているからです。





2021年1月24日日曜日

生まれる前に決めていたこと②


私がまだ小さい時、世間を大きく騒がせた事件がありました。

府中(東京都)刑務所近くの路上を走っていた現金輸送車が、白バイに乗った偽の警官に留められ、車に爆弾が仕掛けられていると言われたため、乗車していた人が慌てて避難したところ、車ごと乗って逃げられてしまいました。

盗まれた金額が3億円なので、その後「3億円事件」と呼ばれることになります。

現在の金額で30億円に相当すると言われていますが、大金を手にした犯人は、その後豪遊したのか、それとも怪しまれないようにひっそりと暮らしていたのか、知る由もありません。

懸命な捜査にもかかわらず、7年後に刑事上の時効が成立し、捕まることはなくなりました。

20年後には、民事上の時効が成立し、賠償責任もなくなりました。

法律的に咎められることはなくなりましたが、犯人の罪が消滅したわけではありません。

犯人のモンタージュ写真


誰にも知られなかったことでも、自分自身は知っています。

ずっと前であれば、頭の記憶から忘れてしまうこともあるでしょう。

しかし、魂に刻まれた過去の記録が消されることはありません。



宇宙には、目に視えない自然法則が働いています。

自然法則に反した行いには、自動的に罪が生じます。



法律に触れることだけが、自然法則に反しているとは限りません。

人の心を傷つけたり、苦しめたり、虐めたり、貶めたり、騙したりたりするのも、罪なことです。

動物たちの生命を尊重しないのも、罪なことです。

自分がされたくないことを他者にすれば、それは自然法則に反した行いと言って良いと思います。



法律では、行動に移した時点で罪が成立します。

しかし、自然法則は心の中で思ったことにも働いています。

たとえ行動に移さなくても、心の中で法則に反したことを、思い描くのもいけないことです。

思念は、霊的に実体があるからです。

何を思うのも自由ですが、自由には責任を伴うことを忘れてはいけません。



事件から53年経ちます。

犯人は、もう死んでいるかもしれません。

肉体はなくなっても、生命の本質である魂は生き続けています。



人は死んだ後に、この世の人生を振り返る時が必ず来ます。

生まれてから死ぬまでの間に、思ったこと、言ったこと、行ったことの全てが魂(オーラ)に記録されていてます。

もちろん、事件のことも記録されています。



その事件と正面から向き合うことになります。

子供の頃にちょっとした嘘で人を欺き、咎められなかった経験が全ての始まりだったのかもしれません。

それから、巧妙に人を欺くことを覚えて行ったのかもしれません。

世間を見返してやりたい、そんな思いもあったのもしれません。

いろいろな要因が重なって、事件を起こすのに至ったことが判ります。



自然法則に反した行いをすると、因果律の働きにより苦痛を伴う事象が起きて、その罪が償われます。

もし、犯人が捕まって刑務所に入ったのならば、その経験は苦痛を伴うものなので、霊的な償いも同時に行われていると考えられます。

捕まらないで死んだとしたら、罪はそのまま残ることになります。



この世にいる時は、上手く逃げられたと思ったでしょう。

しかし、死んだ後に自然法則に照らし合わされて、裁かれることになります。

裁かれると言っても、判事のような人物がいて、判決が下されるわけではありません。

自然法則に反した行いを初めてしようとする時、心の中で「してはいけない」と声がしていたはずです。

その声が良心であり、自分の中にいる神です。

自分の中にいる神によって、自分自身が裁かれます。



あの世に行ったら、自分を隠すことも、偽ることも出来ません。

真実が露わになり、自然法則に反した行いが突き付けられます。

いかに世の中に悪い影響を与え、多大な迷惑をかけたかを知ることになります。



生まれて来たのは、他者のために役に立ち、成長するためです。

そのことをすっかり忘れてしまい、道を踏み外してしまったことを知ります。

強い後悔の念が生じるようになります。

その念は、苦しみとして感じられます。

自分のしたことに、自分が苦しむようになります。

全て自然法則の働きによるものであり、それが神の裁きです。



人間には、成長したい根源的な欲求があります。

しかし、苦痛による償いをして、過ちを正さない限り、成長は許されないようになっています。

成長が許されない、魂の苦しみを味わいます。

それは、自由が許されないよりも、はるかにつらいものなのかもしれません。



この苦しみから、何としても逃れたいと思います。

しかし、今いる世界は、肉体がないため病気もありません。

周囲に苦痛を生み出すような人間もいません。

地上にいる時に感じていた、苦しみや痛みが取り払われた世界なので、罪を償うのは難しいようです。



もう1度、地上に生まれる必要があるようです。

地上でした過ちを地上で償うのは、自然の成り行きなのかもしれません。

汚れた魂を浄化し、神の摂理を学ぶための人生が計画され、提示されます。

その人生を了承し、最適な環境に生まれることになります。



こんな人生になるかもしれません。

これから先に起きることなどすっかり忘れて、大きくなって行きます。

前生から引き継いだ、人を欺く性分が、人生のどこかで顕れます。

同じ様に、それがエスカレートして行きます。

欺くことを何とも思わなくなり、罪を犯しながら、大金を得て行きます。

地位や財産を手に入れて、人生の頂点と思っている時に、今までして来た悪行の数々が暴露されるような出来事が、降って湧いたように起こります。

今度はあっけなく捕まり、予想していた以上の刑が科されます。

地位や財産の全てを失った上に、償い切れないほどの賠償も課されます。

人からは怒号を浴び、信じてくれる人、助けてくれる人は誰もいなくなります。

耐え難い苦痛を味わいながら償いをすると共に、人を欺くことが、いかに自然法則に反しているかを身を持って学びます。



幸いにも、犯人は人を殺したり、傷つけたりはしていません。

もし、そんなことをしていたら、霊的な罪はさらに大きくなります。

同等の苦痛を味わって償うとしたら、どの様な人生になるのか想像も付きません。

生まれる前に決めていた人生を知っていたら、まともな精神状態で生きていられなくなるでしょう。



人には、知らなくても良いことと、知っておくべきことがあります。

知っておくべきことは、死んだらお終いではないことです。

間違った思い込みから、取り返しのつかない過ちを起こしてしまう可能性があるからです。

そして、因果律の働きも知っておくべきです。

もし知っていたならば、過ちを犯す気は一気に失せるでしょう。



平和で穏やかな世界にするため、そして人生で無用な遠回りをしないための特効薬が、霊的真理と考えられます。



2021年1月17日日曜日

生まれる前に決めていたこと①


今年、東京でオリンピックが開催されます。

世界中で新型コロナウィルスの流行が拡大している昨今の状況では、正直なところ開催は難しいのかもしれません。

けれども、出場する選手たちにとっては集大成の場です。

厳しい練習に逃げ出したくなる時もあったでしょうが、耐えて来たのはこの場で最高の結果を出すためです。

なくなってしまったら、練習の熱意は大きく失われてしまうでしょう。



生きていると、つらくて、苦しくて逃げ出したい時があります。

何でこんな思いをしなければならないのかと思う時もあります。



この世に生まれて来たのは、自分を成長させるためです。

降りかかる困難や障害を乗り越えて行く中で、人は成長するようになっています。



いくら成長したとしても、死んでしまったらお終いじゃないかと思う人もいるでしょう。

死んだ後も、生命は続いています。

肉体はなくなりますが、別の媒体で自己表現をするようになり、生命は変わりなく存続しています。



何を証拠にと思う人もいるでしょう。

生命の存続は、あくまでも主観的な証拠によって、個々が確信するものです。

もし、誰もが納得するような客観的な証拠が示されたのなら、この世と決別してしまう人が続出してしまうと考えられます。



私たちは、寿命が来るまで、生きなければいけません。

目に視えない自然法則が働いているからです。

自分の意思でこの世と決別するのは、自然法則に反しているので、許されることではありません。

ほとんどの人は、自然法則の働きを知らないので、先のことがはっきりと判らないようになっていると考えられます。



つらい練習にも選手が耐えられるのは、その先にオリンピックが待っているからです。

しかしながら、人生でつらい出来事が起きても、何の意味があるのか全く判らず、理不尽さに耐えるしかありません。

生き抜いた先に待っていることが判ったのならば、きっと気持ちが和らぐと思います。



寿命が来たら行く世界とはどんなところでしょうか?

肉体がないので、食べるために働く必要はありません。

言葉を介さず、思念でコミュニケーションをしています。

自分(魂)を隠すものがなくなり、ありのままの思念が放たれています。

嘘も偽りも存在し得ない、真実の世界と言えます。

そして、この世と大きく違うところは、因果の関係がはっきりと判ることです。



煩わしい肉体が無くなると、関心は外に向かうようです。

この世にいる時よりも、ずっと周りのことが気になります。

周りのために何かをすることによって、自分の存在意義を見い出すようになります。

お互いのために、生きている世界と言えます。



周りのために何かをしようとする時、自分に足りない資質を自覚するようになります。

足りない資質を手に入れたくなりますが、快適な今いる世界にいては難しいようです。

価値あるものには、それなりの対価を払わなければいけません。

闘争があり、困難や障害のある、この世に生まれて、魂にまで響く深甚な出来事を経験して、手に入れることになります。



選手が試合で良い結果を出すためには、どうすれば良いのでしょうか?

現状を把握し、それに応じた練習の計画を立てて、実行して行くのが効率的です。



足りない資質を効率的に手に入れるために、この世の人生の計画が立てられます。

生まれる前の自分は承知していますが、いざ生まれるとすっかり忘れてしまいます。

計画されていた通りに人生が展開し、何の前触れもなく、降ってわいたように、予定されていた出来事が起こります。

予め決まっていたことであれば、起きた理由など見つけられるはずはありません。



予定された出来事は、苦難や災難や凶事と言われる、不幸として感じられるものが少なくありません。

もし、覚えていたとしら、回避しようと躍起になったり、人によっては生きる気力を失ってしまうでしょう。

神の配慮により、表に出ないようになっていると考えられます。



生まれて来た目的を果たすために、この世の人には守護霊が付いています。

自分以上に自分を知り尽くしていて、考えていることも判っています。

道を外れそうになったら、警告を発しています。

挫けそうになった時には、心を奮い立たせてくれます。

無事に出来事を乗り越えた時には、大きな喜びを感じています。



予定されていた人生が済むと、死を迎えます。

死とは、本来の住処へ帰ることです。

親愛の想いで結ばれていた、先に逝った人が真っ先に出迎えてくれます。

その後で、守護霊と対面することになります。

ずっと傍にいたので、何とも言えない懐かしさや親しみを感じるかもしれません。



どれ位経ってからでしょうか、守護霊と一緒にこの世の人生を振り返る時が来ます。

楽しかったこと、うれしかったことが回想され、思わず微笑みます。

そして、最悪と思えた出来事が起きた時の自分の姿が映し出されます。

なぜ? 

どうして? 

そんな問いかけが、繰り返されています。

絶望の淵に叩き落され、目の前が真っ暗になり、生きる気力が失われています。



助けてくれる人は、どこにもいません。

精神的に追い詰められた時、真の自分(魂)が目覚めていたのが判ります。

目覚めた魂が、本当に大切なものを見つけています。



現実は変えられません。

耐え難い苦しみから抜け出すためには、自分自身が変わるしかありません。

もがき苦しみながら変わって行く中で、足りなかった資質が身に付けられているのが判ります。

苦しかったけど、逃げ出さなくて良かったと、ホッと胸を撫で下ろします。



何でこんな思いをしなければならないのか? 

自分が成長するために、どうしても必要な出来事だったことが判ります。

何で生きなければならないのか?

魂(生命)は永遠であり、絶え間なく成長して行くように定められていることが判ります。

どうしても逃げ出せなかったのは、自分自身が成長するために決めていたことだからです。



生まれる前にいた、本来の住処に戻ります。

そこで、地上の経験を通して身に付けた資質が活かされるようになります。

周りのために、より一層自分が役に立てるようになり、これまでにない悦びを感じます。

この世での苦しみは、この悦びのためにあったことを知ります。

大いなる存在の完全な愛、完全な叡智の働きに、感謝せずにはいられません。



本来の住処には、自分と同類の人たちしかいません。

争いもなく、穏やかで快適な世界です。

そんな世界で過ごしている内に、もっと自分を役に立てて、大きく成長したい欲求が生まれて来ます。

相応しい資質を身に付けるために、もう1度、この世に生まれる計画が立てられます。

過酷な人生になりそうですが、これまでの経験で魂は成長し、乗り越えられる出来事しか起きないことは判っています。

その人生を了承して、意を決して、地上の母体に宿ります。


「おしゃべりな胎児⑨」より







2021年1月10日日曜日

神の摂理を学んでいる


学生の時は、テストがあり嫌でした。

何でこんなことを覚えなければならないの?と疑問に思うことも度々でした。

必死になって九九も漢字も覚えましたが、日常生活に活かされているので、良かったと感じています。

学校で習ったこと全てが、生きて行く上で役に立つとは限りませんが、今になってみると身に付けておいて損はなかったと思います。



これまでに人間が蓄えて来た知識を吸収するのが、学びと言えます。

その多くは、本を読んだり、人から教えてもらったりします。



私たちが学んでいるのは、言葉にされた、客観的な知識だけではありません。

目に視えないこと、言葉に出来ないことを学んでいます。

それらの学びは、自らが経験して得るしかありません。



小さい時、自分勝手な行動をして、仲間外れにされたことはないでしょうか。

嘘を付いて、それがばれてしまえば、人に信じてもらえなくなります。

世界中どこに行っても、そのような行動をすると、同じような対応をされます。

ほとんどの人は嫌な思いをして、以後、気を付ける様になります。



自分勝手な行動をして仲間外れにされるのも、嘘を付くと信じてもらえなくなるのも、自然法則の働きによるもです。

苦痛を感じることで、その行為が過っていることを学んでいます。

私たちは経験を通して、目に視えない自然法則の働きを学びながら生きています。



自分勝手な行動をしたり、嘘を付くのは、何故いけないのでしょうか?

周囲との調和を乱してしまうからです。

自然法則は、全体に調和を生み出すために働いていて、乱すような行動をすると、苦痛を伴う結果となって返って来ます。

自然法則は、私たちが生きている地球だけに働いているのではありません。

はるか彼方の銀河にある惑星に住んでいる生命にも、同じ法則は働いています。




138億年前、宇宙は生まれました。

その後、いたるところに生命は誕生しました。

神は生命に、弛まない進化の過程を与えました。

ばらばらになった生命が進化しながら、再び1つになって行く、それが神の構想と考えています。

不完全な個が、進化して霊的に1つになった時、完全になります。



生命を引き付け合う力が愛です。

個々の生命が、愛を表現することにより、1つになって行きます。

進化とは、霊性の向上です。

進化した惑星では、全ての生命が助け合い、調和をしながら、平和に暮らしていると想像されます。



私たちの地球はどうなのでしょう?

どこかで戦争が起きています。

他の生命が虐待されたり、搾取されています。

環境は破壊され、汚染されています。

「アッツ島玉砕」藤田嗣治1943年

毛皮にされるミンク

失われる森林(アマゾン)
      

調和を乱しているのは人間です。

進化した生命ほど神性が発揮されるはずですが、代わりに利己性が発揮されています。

多くの人が唯物的になり、神性が萎んでしまっています。



人間同士で争っていて、地球全体に調和が生まれるはずなどありません。

傷つけ合うことで生じる苦痛を通して、神の摂理を学ぶしかないのでしょうか。

互いを認め合い、許し合うこと、大きな意味で他者に愛を表現することで、争いはなくなります。

極めて単純なことですが、自我が肥大し、感情や利害に捉われてしまい、そのことに気付くことが難しくなっています。



あらゆる生命が同等に持っている健やかに生きる権利を著しく侵害し、虐げていることに何も感じなくなってしまっています。

他の生命を尊重し、愛を表現することで、地球に調和が生まれます。

率先してするのが人間の役割です。



唯物的な考えを見直す時期に来ています。

しかしながら、唯物的な考えに馴染んだ人間は、聞く耳を持ちません。

人間の意思で変わることが出来なければ、神の摂理の働きにより、抗うことの出来ない自然現象が起きることで変わって行くしかないのかもしれません。



シルバーバーチの霊訓には、こんなことが書かれています。

「魂が目覚めるのは苦しみの中です。

人生をうわべだけで生きている人は、魂が自己開発する機会がありません。

地上的な方策が尽き、八方塞がりに思えた時、魂が目覚めるのです。」



今、人類全体が同じ苦難を経験しています。

私の知る限り、人類がこれほど追い詰められるのは初めてです。

人類のみが被る苦しみなので、人類の負債を清算しているのかもしれません。

この苦難により、今までになく、多くの魂が目覚めているような気がします。

それに伴って、全体の意識に何かしらの変化が生じるかもしれません。



魂が目覚めると、唯物的な考え方から解放されます。

お金や物よりも、生命や自然に関心が向かいます。

本当に大切なものは、視えるものにはないことが判ります。



神性が発揮されると、傷つけ合うのではなく、慈しみ合います。

他の生命たちが愛されます。

他者に喜びを与えるようになります。




宇宙から見れば、地球は1つのユニットです。

美しい惑星ですが、良く見ると病んでいる部分があります。

病んでいる部分を浄化するために、惜しみなく神の摂理は働いています。


神の摂理は、愛を深く学び、それを表現して、生命が1つになるために働いています。




2021年1月3日日曜日

不安や恐怖を感じたら

 

年が明けても、新型コロナウィルスの感染拡大の勢いは増すばかりです。

約100年前にスペイン風邪が世界中で流行し、多くの人が亡くなりました。

第3波まであったそうですが、第2波が最も強毒であり、今回の流行と大きく違うところは、若年者ほど致死率が高かった点です。

いつ変異するとも限らないので、若い人も注意が必要です。

当時(大正9年)のポスター

未知の経験に対して、不安や恐怖を抱くのは、今も昔も変わりありません。



不安や恐怖は、地上に生きる人にとって、元々必要なものです。

崖の上に立つと恐怖を感じるからこそ、誤って落ちないように気を付けます。

もし、恐怖を感じなければ、肉体を護ろうとする動機が失われ、死んでしまう人が続出してしまうでしょう。

当然のことながら、ウィルスに対して恐怖を感じない人は、感染のリスクが高くなります。



肉体を護り、安全に生きて行くために、不安や恐怖と言う情動が地上の人に与えられたと考えられます。

しかし、それが強すぎると理性を萎ませ、問題を解決しようとする力を奪ってしまいます。

不安で一杯になり、恐怖で縮み上がってしまうと、何も出来ません。

不安や恐怖を克服して行くのは、地上に生まれた人の宿命なのかもしれません。



しかしながら、不安や恐怖は自己保存欲求と深く関わっているので、克服するのは容易ではありません。

人間は、先のことを考える生き物です。

「〇〇したらどうしよう」、「〇〇してしまうかもしれない」と、先のことをつい考えてしまい、その度に不安や恐怖が生じてしまいます。



それを取り越し苦労と呼びますが、シルバーバーチは「無知の産物」と言って、強く戒めています。

どうして、無知から取り越し苦労が生まれるのか考えてみました。



この宇宙は、神の法則の働きによって経綸されています。

あらゆる出来事は、何らかの法則の働きによって生じているので、偶然は存在しません。

ウィルスの発生や感染も自然現象の一環であり、神の法則の働きによって起きます。



神によって創られた法則が、神によって運用されています。

従って、全ての現象の最終的な責任を負っているのは神と考えられます。

神の法則に反したことをしておいて、神の責任にすることは許されませんが、何の落ち度もないのにも関わらず起きた現象には、埋め合わせの原理が働くと思います。



神の創った法則には、神の心が包摂されています。

神の心は愛です。

どんな悲惨なことが起ころうとも、根底には愛があるので、必ず良い方向に向かうはずです。



それでは、ウィルスに感染して死んでしまったらどうでしょう?

ほとんどの人は不幸な出来事だと思います。

死は終焉ではありません。

別の世界へ移行する現象です。

地上の人生は終わりますが、本来の住処に戻って、新たな人生が始まります。

そこでは、肉体があるが故の情動は存在しません。

煩わしい肉体や人間関係はなく、不安や恐怖から解放されて、平穏無事な世界に行くことが、不幸なのでしょうか?

知らないと、不安や恐怖を感じてしまうのは確かなようです。



ウィルスに感染すると、苦しんでしまう可能性はあります。

そのことを考えると、死が怖くないとしても、不安や恐怖を感じます。

耐えられない、痛みや苦しみはありません。

痛みや苦しみも、自然法則の働きによって生じているからです。

神の管轄下で起きているので、痛みや苦しみも枠内から外れることは決してありません。

未知の経験に不安や恐怖を感じたら、全ての出来事は神の摂理の働きによって起きているので、最終的に良きに計られている、乗り越えられないほどつらいことは絶対に起きないと、強く信じるようにして下さい。



不安や恐怖は、霊力が流れるのを妨げると言われています。

霊力とは生命力です。

生きる力、乗り越える力を奪ってしまいますので、不断の努力で振り払うようにしなければいけません。



地上に生きている私たちには、親愛の想いで結ばれた霊的な存在が付いています。

無用な災難や危害が降りかからぬように、地上の人にインスピレーションを送り、守り導いています。

ところが、不安や恐怖を抱いてしまうと、送られて来る援助の力を受け取る際の、障害物となってしまいます。

1人ではない、霊界にいる人たちと一緒に生きていると、強く信じるようにして下さい。

そうすれば、両者のつながりが強くなり、援助の力が届いて、不安や恐怖は和らいで来ると思います。



人間の本質は魂です。

地上に生まれた魂は、肉体と言う媒体を得ます。

魂は霊的な世界の存在であり、精神を介して、物質的な世界の存在である肉体によって自己表現をしています。

不安や恐怖を感じたら、目に視える物質的な世界ではなく、目に視えない霊的な世界に意識の焦点を向けるようにして下さい。

頭から地上的な考えや感情を消し去るのに従い、心の中に霊的な世界が広がって行き、平穏さを取り戻すことが出来ます。

その世界には、危害を加えるものは何も存在しないからです。



この世界には、ウィルスなど危害を加えるものが存在します。

けれども、危害が加わる可能性があるのは肉体です。

本質である魂にまで、危害が加わることはありません。

本当の自分は、何者にも侵されないと、強く意識しましょう。

私たちは地上に生きていますが、霊(神)的な存在であることを忘れないで下さい。



一人ぼっちで生きている、死ねば終わりだと思うと、どうしても不安や恐怖に襲われてしまいます。

真実はそうでありません。

片時も離れることなく、守り導いている存在が付いています。

万が一死んだとしても、それは肉体の話です。

本当の自分である魂は、別の世界に移行し、健やかに生き続けます。







2020年12月27日日曜日

今年1年を振り返って


今年は、新型コロナウィルスの流行に始まり、収束しないまま終わろうとしている1年だと思います。

世界中が同時に危機に見舞われるのを、私は初めて経験します。

既に全世界で175万人もの人が亡くなっています。

早く収束することを、ただ願うばかりです。



世の中で起きる出来事は、全て因果律の働きによるものです。

今回のウィルスの流行も、偶発的なものではなく原因が存在します。

同じことを繰り返さないためにも、原因を突き止めなければいけません。



前にも書きましたが、流行が広がったのは、元を質せば人間の利己心が原因だと思います。

人間が最初にウィルスに感染したのも、本来、接触するはずのない動物たちと接触したためです。

未開の土地に入って行くのも、そこに住む動物たちを侵害するのも、利己的な動機からです。

資源開発と言えば聞こえが良いのですが、地球全体から見れば侵略行為であり略奪行為です。

人間中心に物事を考えているので、そのことが判らなくなっています。



人から人に感染するリスクが大きいのは、生きて行く上でどうしても必要な行為以外の時が多いようです。

(海外)旅行や飲食等はリスクが高い行動です。

特にアルコールが入ると理性が失われて、感染のリスクはさらに高まります。

地上的な欲求を満たす行動に乗じて、ウィルスは伝搬されて行くように感じられます。



それらの行動を否定してしまうと、仕事にしている人の生活が成り立たなくなり、面白味のない人生になるような気がします。

しかしながら、この世界には飢えた人たちがたくさんいます。

ほとんどの人はそのことを承知しています。

飢えた人が多い、貧しい国々ほど、紛争が起きています。

誰かがこんなことを言っていました。

「野蛮だからではなく、お腹が空いていると、イライラして争いが起きるんだ」

全くその通りだと思います。

世界平和を願うのであれば、まず飢えている人たちを何とかしなければいけません。



霊界の人たちは、そんな地上の光景を見て憂いています。

「同じ世界に住んでいて、見て見ぬふりをして、自分たちだけそんな楽しい思いをして良いの」と。

ウィルスが動物から人間に感染するのも、人から人に感染するのも、利己心と欲を満たすための行動が原因になっているように思います。

感染が急速に拡がっている国は、貧富の差が大きく、差別など多くの問題を抱えているようです。

ウィルスの流行と言う自然現象を通して、犯している過ちに気付かせ、正そうとしている気がしてなりません。



欧米では、ワクチン接種が始まったようです。

性急に作ったために、有効性や副反応に対する評価が不十分なところがあるのは否めませんが、流行を収束させるために最も確実な手段がワクチン接種であることは、過去の事例から見ても明らかです。

たとえ感染したとしても重症化しないために、亡くなる人は劇的に減るでしょう。

そんなこともあり、経済的に豊かな国々が、先を競ってワクチンを確保しているようです。

その行為は、国民を守ると言う観点から見れば当然です。



しかし、世界には自国でワクチンを作ることも、他国から買うことも出来ない国がたくさんあります。

一定の割合以上の国民がワクチン接種を受けたのなら、ウィルスの流行は収束に向かうはずです。

日本や欧米などの経済的に豊かな国々では、近い将来普通の生活に戻れる可能性は高いと考えられます。

しかし、貧しい国々では、一部の特権階級のみがワクチンを接種して、多くの国民はそのままにされてしまうと思います。

「民衆のワクチン連盟(People's Vaccine Alliance)」という組織が、「現状では経済力に劣る70近い国では、国民の1割ほどしかワクチン接種を受けられない」と警鐘を鳴らしています。

経済的に貧しい国の人たちほど、感染して症状が悪化しても、適切な医療を受けることが困難です。

本来は、そんな人たちほど早く受けて、ウィルスから守らなければなりません。



普通の生活を取り戻した国々は、ウィルスの流行は過去のものとなります。

経済的に貧しい国々でウィルスの流行が続いていたとしても、遠いところで起きている対岸の火事になります。

今までもそうであったように。



そんな状態が続く中で、ウィルスの突然変異が起きない保障はどこにもありません。

より強い感染力、毒性を持ったウィルスに変異して、既存のワクチンが効力を失い、獲得した免疫が働かなくなる可能性は十分にあります。

そうなれば、世界は振り出しに戻ります。



ウィルスの変異は、偶発的なものではありません。

自然法則の働きによるものであり、変異の中にも神の意図が隠されています。

同胞意識が欠如し、利己的になっている、人間が犯している過ちに気付き改めない限り、流行が止むことはないのかもしれません。



自分や自国のことだけでなく、人類全体でどうすれば良いのかを考えれば、自ずと方向が決まり、問題は解決されて行きます。

地球を1つの運命共同体と捉えて、対応しなければいけません。

それが、この自然現象を通して、人間が学ぶことだと考えています。



地球を身体に例えてみます。

地球に住んでいる多種多様な生命は、身体を構成している細胞1つ1つに当たります。

それぞれの細胞には役割があります。

脳細胞には脳細胞の、肺の細胞には肺の細胞の、皮膚の細胞には皮膚の細胞の役割があって、それが協調的に働くことによって調和が生まれ、身体の健全さが維持され、活動することが出来ます。

いかなる細胞も、身体にとって必要な存在であり、優劣などありません。

同じ様に、地球上の生命にはそれぞれ果たすべき役割があります。

名もない道端の雑草であっても、日を浴びて酸素を作りだし、動物たちが生きて行くために必要な営みをしています。

絶妙の調和の中で、地球上の生命は生きています。



足先にばい菌が入り、腫れ上がったとしたらどうでしょう?

きれいに消毒をして、抗生物質を飲むと思います。

「これは足先で起きていることだから、放っておいても構わない」と思う人はほとんどいません。

もしそんなことをすれば、全身にばい菌が回って、死んでしまうかもしれないからです。

当然ですが、足先も自分の一部です。



話は少しそれますが、この宇宙にはどれ位の星があるのでしょうか?

地球が属している銀河系には、約2000億個の星があるそうです。

そんな銀河が、宇宙にはどれ位あるのでしょうか?

最新の研究では、何と2兆個存在すると言われています。

130億光年の彼方にある無数の銀河

目眩がするほど宇宙は広大です。

無限大とも言える宇宙では、地球は極小の星の1つに過ぎません。

極小の星の中の、極小の存在が、私たち人間です。



宇宙を創ったのは神です。

神は広大な宇宙の中で、1つのユニットとして、地球を創ったと考えられます。

その中に多種多様な生命を散りばめたのは、お互いが協調し、調和しながら生きて行く過程で、霊的な成長を促す意図があったと考えられます。



1つのユニットとして創られた星の中で、同胞であるべき人間同士が争いをして、傷つけ合っています。

想定されていたことでしょうが、神の意図に反したことをして苦痛を感じながら、改めて行かざるを得ないのは虚しい限りです。

無用な苦痛を地上からなくすために、霊界から真理が降ろされました。



あらゆる生命は霊的につながっています。

しかし、そんな重要なことが、唯物的になり過ぎたために、全く判らなくなっています。

進化の頂点に立つ人間が、自分たちのことしか考えなくなったために、地球全体に悪い影響を与えています。

利己的な行動に対して、因果律が働き、苦痛を伴う現象が起きていると考えられます。



もしそうであるのならば、他者のこと、地球全体で考えることによって、健全さが取り戻されるはずです。

全ての人に、ワクチンを行き渡らせなければならないのは、そのためです。



良くなったこともあります。

地球全体のCO₂の排出量が約7%減ったそうです。

ウィルスの流行により、強制的に温暖化に歯止めがかかった形です。

命の危機にさらされている、罪もない動物たちにとって、ウィルスの流行は歓迎すべきことなのかもしれません。




ウィルスの流行は災いではなく、地球全体を良い方向に向かわせるために起きていると考えられます。

大きな苦痛を伴いながらも、私たちは神の意図している方向に変わって行きます。

今年は、大きく変わり始めた1年なのかもしれません。




2020年12月20日日曜日

霊的な能力は何のためにあるのか?


今から30年前位でしょうか、目の細い中年の主婦らしき女性がテレビに出ていました。

出演していた芸能人の背後をじっと見つめながら、その人が抱えている悩みや将来の起きるかもしれない問題などを話していました。

自分しか知らないことを言い当てられたようで、本人はとても驚いていました。




世の中には、霊的な能力を持った人がいます。

何故、そんな人たちが存在しているのでしょうか?

悲しんでいる人が、故人からのメッセージを受け取ったら、大きな慰めとなります。

病気に苦しんでいた人が癒されたとしたら、大きな喜びになります。



霊的な能力は、人に慰めや喜びや癒やしを与える他に、秘められた目的があります。

それは、霊的に覚醒させるためです。



人間は肉体を超えた存在です。

しかし、私たちは五感に頼り切った生活をしているので、そのことに気付くことが出来ません。

気付くためには、肉体(物質)以外のものに、意識が向かなければいけません。



夢物語のように感じるかもしれませんが、霊的な覚醒を促す計画が霊界で立てられました。

私はもちろん事実と認識しています。

何故、そのような計画が立てられたかと言えば、地上に唯物的な考えが蔓延したことによって弊害が生じ、それが看過できないほど大きくなってしまったからと考えられます。



唯物的な人は、死ねば終わりだと信じています。

生きている時に、せいぜい楽しい思いをしようとします。

(この世の)自分の人生に執着してしまうと、他人のことに関心がなくなります。

それが高じると利己的になってしまいます。

利己的な人同士がぶつかると、争いになります。

利己的な国家が台頭すると、戦争になります。

悪いことをしても、死ぬまでばれなければ良いと思う人も出て来るでしょう。

唯物的になるほど、物質的に豊かになろうとする欲が強くなります。

その結果、富が片寄り貧困が生まれ、環境が破壊されます。

動物たちは虐げられ、地球全体の平和や調和が乱されます。

そんな悲惨な状況を、霊界は大いに憂いています。



霊的な覚醒を促す計画が、初めて実行に移されたのは、19世紀半ばのアメリカです。

ラップ音による死者との交信であり、後に「フォックス家事件」と呼ばれています。

その後、イギリスにおいて様々な霊的な現象が起きました。

中でも、エクトプラズムは驚異的な現象でした。

霊媒の口や鼻から煙の様なものが現れて、かつて地上にいた人物に形を変える時があります。

現れた人物は、半物質化したものであり、触れると人間と同じような感触があったそうです。



それらの現象の検証に、著明な科学者らが立ち会いました。

その中に、蛍光灯の原理やタリウム原子を発見したクルックスがいました。

当初、彼はトリックだと思っていたのでしょうが、エクトプラズムなど自分の理解をはるかに超えた現象を何度も目の当たりにして、すっかり参ってしまいました。

周囲の人は、トリックをあばいてくれると思っていたのに、逆に霊の存在を完全に肯定したので、大変驚くと共に失望したと思います。

その後、科学者仲間からは異端児扱いされましたが、終生、自分の主張を変えることはありませんでした。

クルックスは生命の真実を知り、唯物的な考えを改めたのです。

他にも多くの人が、科学者は万能と言う考えに見切りをつけました。



日本においても、目を見張るような霊的な現象が明治から昭和初期にかけて起きていました。

世界各地でこのような霊的な現象が起きていたのは偶然ではありません。

霊界で立てられた計画が実行に移されていたのです。

この時期に集中したのは、唯物的な考えから引き起こされる、後の2つの世界大戦を霊界が予見してのことなのかもしれません。



現代において、その時の様な世間を賑わす派手な霊的な現象は起きていません。

それでも計画は着々と進んでいます。



魂は、知性を刺激することによって目覚めるものではありません。

さまざまな出来事を経験する中で、自然に目覚めると考えられます。

絶望的な状況に陥った時ほど、その好機と言われています。

私もそうでした。

精神的に追い込まれ、思考が停止状態になった時、それまで奥で眠っていた魂が目覚めます。



霊的な能力は、魂を目覚めさせる引き金になると考えられます。

大切な人を亡くし、生きる希望を失い、悲嘆に暮れる日々を送っている人がいたとします。

導かれるようにして霊媒に会い、メッセージを伝えられ、それが故人からのものと確信します。

肉体はなくなっても生命は存続していると言う事実に気付くと同時に、唯物的な考えは吹き飛び、魂が目覚める人がいます。

病気になり医者から見放されて、途方に暮れている人がいたとします。

縁あってヒーリングを受けて病気が癒されたとします。

この世のものではない力が存在しているのを認めると同時に、魂が目覚める人がいます。

自我に覆い隠されていた本当の自分(魂)が表に出て来て、人生の主導権を握ります。



人の本質は、肉体ではなく魂です。

唯物的な考えの人は、肉体しか目に入りません。

そのため、肌の色、容姿、肩書きなどの外面が気になります。

魂が目覚めると、意識の焦点が大きく変わり、人の外面よりも、内面を視るようになります。



しかし、魂が目覚めて終わりではありません。

霊界が望んでいるのは、地上の人に霊的真理を受け入れてもらうことです。



地上に大いなる恩恵をもたらすものが霊的真理です。

大切なことを要約すると「生命は永遠であり、互いにつながっているので、慈しみ合うべし」と私は思います。

慈しみ合うことよりも大切なことは存在しません。

戦争や貧困や差別などの問題が立ちどころに解決されます。

恥ずべき動物の虐待もなくなります。



もう1つ大切な真理があります。

それは「因果律」です。

起きていることには必ず原因があります。

原因を作れば、必ず結果が生じます。

神の摂理に反した行いには苦痛が、適った行いには悦びがもたらされます。

真理を知れば、経験しなくても良い、地上の苦しみや痛みが避けられます。



個々の人間はれぞれ違う形態をして、ばらばらに存在しています。

それは肉体の話です。

肉体を動かしているのが魂です。

魂は生命そのものです。



神によって創られた魂には、神性が宿っています。

全ての生命は、同じ神性でつながっています。

ばらばらに存在している個々が、魂に目覚め、神性を発揮して慈しみ合うことで、1つになって行きます。

慈しみ合う力は、魂と魂を引き付け合う力だからです。



全ての生命は霊的に1つです。

それが神です。



霊的な能力は、唯物主義を打ち砕きます。

打ち砕かれた後に、魂が目覚めます。

目覚めた魂が、真理を見つけます。

真理を受け入れて、実践することにより、神や霊界の望む世界になって行きます。

生命の進化を促し、1つになるためにあると思います。


2020年12月13日日曜日

ある双子の兄弟を通して感じたこと


世界中で新型コロナウイルスが猛威を振るっています。

感染した人は7150万人を超え、160万人が亡くなっています。(2020年12月13日現在)

一刻も早い収束を願うばかりです。



この感染症は、原因がはっきりしています。

ウィルスの侵入さえ防げれば、病気になることはありません。

しかしながら、世の中にはこれと言った原因も見当たらずに、病気になる人がいます。

「何で私が?」と、戸惑いや憤りを感じている人もいます。



人は、肉体と精神と魂(霊)の3者から成り立っています。

3者はそれぞれ次元が異なり、そのどこかに病気の原因が存在しています。

感染症は、物的なウィルスや細菌の増殖が原因なので、肉体(物質)的次元の病気と言えます。

胃潰瘍は、主にストレスが原因なので、精神的次元の病気と考えられます。

精神と肉体は密接に関係していますが、物質を超えた精神的次元は医学の対象外であり、踏み込んだ研究はされていません。



原因不明の病気は数多くあります。

多くの人を苦しめているガンや膠原病も、残念ながら根本的な原因は解明されていません。

悪いところがあれば切り取ったり、薬で症状や痛みを抑えたりするしか方法はありません。



肉体、精神の上位にあるのが魂(霊)です。

魂から指令が出され、精神を介して、肉体で表現されています。

しかし、魂(霊)の存在は医学的に認められていません。

そのために、霊的次元に原因が存在する病気は、医学的に原因不明とされます。



解明されてない病気の1つに、遺伝性疾患があります。

遺伝性疾患は、生まれつきの病気です。

親の遺伝子に異常がなければ、突然変異とされてしまいます。



発病は、精子と卵子が結合した瞬間です。

病気は結果であり、必ず原因が存在します。

発病が結果ならば、原因は受精時以前にあることになります。

身体(受精卵)が誕生するより前に、私たちは存在していなければなりません。



記憶には昇って来ませんが、ほとんどの人は過去に地上を生きた経験があります。

そこで、何らかの原因が生じていたと考えれば、突然変異として片付けられることはありません。



数年前になりますが、ある障がい者施設にボランティアに行っていました。

そこに重度の身体障がいを持つ20代の一卵性の双子の兄弟がいました。

この兄弟と接して、病気や障がいの意味について、思いを巡らすことになりました。



2人には脊椎に遺伝性疾患(奇形)があり、手足の自由が利きません。

背骨が曲がったままであり、食事も排せつも入浴も着替えも介助が必要です。

知性は正常であり、普通に会話が出来ます。

幸いにも、わずかに指を動かせるので、電動車いすに乗っての移動が可能でした。



2人の性格は対称的でした。

お兄さんと話をする機会が多かったのですが、今の自分の境遇に大きな不満を抱いているようでした。

集まりにも参加しないで、部屋でテレビを観ていました。

いつも不機嫌そうで、愚痴や不満ばかり言っているので、周りにいる人が少なくなり、ベッドの上で一人ぼっちで過ごしていることが多かったです。



一方、弟さんは明るく快活です。

車椅子スポーツにも参加していて、不平不満を言っているのを聞いたことがありません。

時々、お兄さんの所に顔を見せては、励ましていました。

お兄さん思いの、心優しい青年です。



同じ遺伝子を持ち、同じ障がいを持ち、同じ環境で育ち、顔もそっくりなのに、これほどまで性格が違うのには驚きました。

性格は大脳を超えたものによって形作られている、そんな思いを強くしました。



人間の本質は魂です。

一卵性で肉体は同じ作りであっても、別々の魂が宿っています。

性格の違いは、宿っている魂が違うことに起因していると思いました。



因果律の働きによって、全宇宙は経綸されています。

従って、世の中に偶然起きる出来事はありません。

病気を抱えて生まれて来たのも、何かしらの原因が存在していたはずです。



私たちの人生には、計画があります。

オリジナルな計画であり、目的は自分(魂)を成長させるためですが、地上にいる私たちは窺い知ることは出来ません。



前々回のブログで、計画された出来事には「償い」と「挑戦」があると書きました。

お兄さんは、ため息をつき、嘆いて、いつも精神的に苦しそうです。

憶測になりますが、自分の運命を呪い、周囲を手こずらせ、辛そうに生きている姿を見ていて、ついこんなことを思ってしまいました。

過去生で何かしらの過ちを犯して、その償いのために、この身体を選ばざるを得なかったのではないかと。



弟さんは、ため息をつくことも、嘆くこともありません。

自分に起きていることを受け入れていて、精神的に苦しくなさそうです。

その前向きな姿から、償いのためではなく、より大きな成長を促すために、この身体で生きることに挑戦しているように感じました。

同じ病気(障がい)を持っているにも関わらず、生き方が違うのは、そのためだと思いました。

双子として生まれて来たのは、お互いの成長のために必要だったと考えられます。



ところで、お兄さんの苦しみは、死ぬまで続くのでしょうか?

そうとは限らないと思います。



肉体の病気(障がい)は不変であり、生涯付き合わなければ行けません。

けれども、苦しみを感じているのは、肉体ではなく精神です。

自分の病気(障がい)をどう捉えるのかで、苦しみの感じ方は大きく違って来ます。

そのことが、2人を見ていてはっきりと判りました。



不幸、不運として捉えれば、苦しみは付いて回ります。

自分の運命を呪っている限り、苦しみから逃れられません。

人を妬んだり、怒りを覚えれば、余計苦しくなってしまいます。

それらの想いは、自然法則(神の摂理)に反しているからです。

成長を妨げてしまう、それらの想いに対して因果律が働いて、苦しみが生じてしまいます。



もし、過去生で何らかの過ちを犯していたのならば、怒りや憎しみや恨みや嫉妬など自然法則に反する想いが生じやすい性分が原因になっている可能性が高いと考えられます。

苦痛は、過ちに対する償いの一環であると同時に、自然法則に反した性分を改めるために存在すると思います。

生まれる前、今生の計画が立案される時、身体的な病気(障がい)を抱えて生きることが、性分を改めるために最善と判断されたと思いました。



苦痛を感じなくなるには、結局は自分が変わるしかありません。

自分の意思で変えるのが難しいのであれば、自然法則の働きによって、強制的に変えられて行くと考えられます。

変わったのならば、苦痛が存在する理由がなくなり、解放されるはずです。

解放された時点で、償いは終わっていると思います。

たとえ肉体上に病気や障がいは残ったとしても、霊的な負債が返済されたならば、精神的な苦しみはなくなると考えられます。

妨げているものがなくなり、それからは伸びやかに成長して行くでしょう。



自分を苦しめているのは、自分なのかもしれません。

原因を作っていたのは、自分だったのかもしれません。

自分に必要なことが、起きているだけなのかもしれません。

地上に生きていると、そんなことが全く判らなくなってしまいます。



お兄さんの償いが終わったらどうなるでしょうか?

周りで自由に動いている人を見て、妬ましく思うことはなくなるはずです。

支えてくれている人と思えるようになり、感謝の気持ちが湧いて来るはずです。

出来ないことを嘆くのではなく、今の自分に出来ることを見つけて、挑戦するようになると思います。

その時のために、弟さんがいるような気がしました。



苦しみを少しでも和らげるために必要なのは、やはり霊的真理です。

「この世で終わりなんかじゃないよ。」

「今の体から解放されて自由になる時が来るんだよ」等々、ベッドサイドで伝えました。

神妙に聞いていた横顔が、今も印象に残っています。



ウェザーニュース(weathernews.jp)より

2020年12月6日日曜日

誰かのために生きている



早朝、犬の散歩に行った時、まだうす暗い空に満月が光っていました。

月は地球の引力によって、地上から37万km離れたところを回っています

私自身は極小の存在です。

しかし、宇宙から見れば地球の一部には違いありません。

ほんのわずかであっても、月との間に引き付け合う力が働いています。

月は、自分とは全く関係のない存在ではないようです。



私たちは、多くの人に囲まれながら暮らしています。

時に、人間関係が煩わしく感じ、1人になりたいと思う時もあるでしょう。

地球でたった一人になったらどうでしょうか?

生きて行くためには、食料は欠かせません。

しかし、毎日食べている米も、自分で作ることは出来ません。

電気やガスも使えなくなれば、真冬の寒さには耐えられないでしょう。

とても生きて行けるようには思えません。



私たちが普通に生活が出来ているのは、自分のために働いてくれる人たちがいるからです。

私自身も、周りの人のために働いている1人です。

ひとり1人は独立して生きているように見えますが、密接に関係しています。



人間だけではありません。

植物がなくなれば、ガス交換が出来なくなり、動物は窒息して死んでしまいます。

地球上の生物は、お互いがお互いのために生きていていると言えます。



SFみたいな話ですが、インフラはそのままで、食料も調達されて、今と変わらぬ環境で、自分一人だけだとしたらどうでしょう?

全てが自分のものなので、好きなことをし放題になります。

遊園地に行って大好きなアトラクションを待たずに乗ったり、デパートに行けば好きな物がいくらでも手に入ります。

誰に煩わされることも、干渉されることもありません。

自由気ままに、好きなことが出来るので、楽しくて仕方がありません。

しかしながら、それは一時だけかもしれません。



無人島や周囲から隔絶された環境で、誰とも接触しないで一人で暮らしている人がいます。

そんな人たちは、それほど孤独を感じているように見えません。

人から離れた生活を敢えて選んだのであり、その場所を離れれば、また人に会えることが保証されているからだと思います。



もし、地球に自分だけしかいなかったらどうでしょう?

絶望的な孤独感に襲われると思います。

自分と言う存在が、良く判らなくなってしまうと思います。

何故なら、人は人との関係の中で、自分を認識していると思うからです。



朝日が昇るころ、小鳥たちの鳴く声で目覚めることが多いです。

お互いが呼応して、存在を確認し合い、生きている歓びを伝え合っているように聴こえます。

人間も同じであり、他者と関りを持ち、自分を分かってもらえることで、歓びを感じていると思います。



人間とは上手く言ったものです。

生物としての「人」は食料さえあれば1人で生きて行けますが、「人間」は他の人がいることで生きて行けると思います。

人がいることで、人間として成立していると考えられます。

人間は、物的にも精神的にも、1人では生きて行けないと考えられます。



人がこの世に生まれて来た目的は、人間として成長するためです。

困難や障害に直面した時に、それを乗り越えて行く中で成長します。

また、他者のために奉仕をすることで成長します。



地球上で、たった1人で生きているとしたら、誰に対しても、何もしてやることが出来ません。

他者に奉仕することが出来なければ、人間として成長することもままならなくなります。

人間には成長したいと言う欲求がありますが、それが満たされなくなります。

そのために、生きているのが苦しくなってしまうかもしれません。



そんな世界に置かれ、何をすることもなく生きていたとしたら、自分が生きている意味、存在する価値を見い出せなくなってしまいます。

そんな時に、地面にヒマワリの芽が出ているのを見つけたとします。

気になって、水を与えると思います。


自力では生きて行けない子猫がいたとします。

何もしなければ死んでしまうので、食べ物を与えると思います。


そのうちに、成長して行く様子を見るのが楽しみになります。

そして、生きがいとなるような気がします。

他者のために何かをすることが、この世界に自分が存在する、確かな意味になるからです。

ささやかな喜びを感じながら、生きていられると思います。

どんな物を手に入れたとしても、同じような喜びを感じることはありません。

物的な喜びは束の間であり、際限がありませんが、他者のために何かをすることで得られる喜びは霊的なものであり、永続性があります。



私たちは、労働することによって、お金を得て生活しています。

家事もお金を介さない労働です。

人や社会や家族のために、何かしら奉仕をしないと生きて行けないようになっていると言えます。

生きるために必要なことをする中で、知らずに成長が得られているのが地上と考えられます。



死んだ後の世界では、肉体はなくなります。

生きて行くために、労働する必要はなくなります。

自分の好きなことが、いくらでも出来るようになります。



死んだ後の世界においても、生きる目的は全く変わりません。

自分を成長させるためです。

自分の好きなことをいくらしていても、他者のために何かをしなければ、神の摂理により成長は叶いません。

従って、他者のために何かをしようとする気持ちが起きない限り、同じ場所に留まったままです。



地上に生まれるのは、他者のために何かをする習慣を身に付けるためと考えられます。

その中に悦びを見い出すことも、大きな目的の1つと考えられます。

地上にいる時に悦びを見い出せれば、霊界に行って自発的に成長して行くことが可能になります。



多くの人は、他者のために何かをすることは良いことだと、漠然と思っています。

それは道徳的に良いと言う以上のものであり、全宇宙を貫いている大原則(神の摂理)に適った行為です。

適った行いをしている時に人は成長し、生きていることを実感し、満たされた気持ちになります。

自分のためだけに生きていると、どうしても虚しさを感じてしまうのはそのためです。



生きる目的を見い出せずに苦しい思いをしている人は、自分以外に目を向けて、何か出来ることを見つけるのも大切かもしれません。

大きなことをする必要はなく、身の回りで、自分に出来る範囲ですれば良いはずです。

実行に移すことで、苦しみは和らぐと考えられます。

人間は成長していない状態を苦しみとして感じ、成長することに悦びを感じるようになっていると思うからです。






2020年11月29日日曜日

生まれて来た目的


魂が存在するのか?、それともしないのか?

遠い昔からある命題です。

客観的に証明されないものは、いかがわしいと感じていた私は、魂の存在を信じていませんでした。



望んでいたわけでもないのにヒーリングの力が出現し、唯物的な考えは吹き飛ばされました。

証明されていないものでも、実際に存在していることが、はっきりと判りました。

その後すぐに、霊的真理(シルバーバーチの霊訓)に辿り着き、その力について合理的な解釈が出来ました。



科学は万能ではありません。

生命について何の説明もなされていません。

それは、唯物的な科学の対象外のものだからです。

生命とは魂です。

至って単純なことですが、未だに認められていないのは残念です。



物理学に詳しいわけではありませんが、物質を極限まで突き詰めて行くと波動になるようです。

物質には硬さや重さがありますが、実はそれも波動が作り出した錯覚のようなものです。

魂が目に視えないのは、物質(肉体)よりもはるかに波長が短いためと考えられます。

物質と非物質の差は、もしかしたら波長の違いだけなのかもしれません。

荼毘に付されて肉体はなくなります。

しかし、生命の本質である魂は物質ではないので、燃えて消えてしまうことはありません。



魂が存在し、死んだ後にも生が続いているのならば、この世に生まれる前にも生があるはずです。

しかし、その内容は全く判りません。

判っているのは、前生と今生は、密接に関係していると言うことです。

前生、現生、来生は「因果律」と言う法則によって、つながっています。

前生で原因を作れば、現生で結果が生じることになります。

現生で原因を作れば、来生で生じることになります。

遠い過去から、因果の連鎖を繰り返しながら、現在の自分がいます。



人生は楽しいことばかりではありません。

時には、とんでもない苦難に遭遇します。

何の脈絡もなく、突発的に出来事が起きたのなら、それは生まれる前から決まっていたことなのかもしれません。



何のために、出来事が起きるのでしょうか?

目的は1つであり、自分(魂)が成長するためです。

成長するために、必要なことが起きています。



決まっていた出来事は、大まかに「償い」と「挑戦」に分かれると考えています。

宇宙の隅々まで、自然法則が働いています。

自然法則に反する行いをすれば、因果律の働きにより「償い」が生じます。

例えば、人を裏切って大きな苦痛を与えるようなことをすれば、それは自然法則に反した行いなので、寸分の狂いもなく、同等の苦痛が生じる出来事が起こります。

生きている内に起きなければ、来生に持ち越されます。

裏切られたらどうなるのか、思い知らされる出来事が起きて、苦痛を味わうことでその罪を償いながら、自然法則を学んで行きます。



私たちには、成長しようとする根源的な欲求があります。

苦痛が生じる出来事など、誰でも嫌に決まっています。

しかし、償いをしないと成長することが許されないので、受け入れるしかないのです。

出来事が起きたのは、そんな理由の時もあります。



私たちが次に行くのは、肉体が取り払われた、本質(魂)の世界です。

地上では判らなかった神の存在を、ひしひしと感じられるようになります。

完全(神)とはどんなものなのかを理解するようです。

魂と向き合うことになり、否が応でも不完全(未熟)さを強烈に自覚するようになります。



自転車に乗れるようになるには、本を見たり、口で教えてもらってもだめです。

実際に、自分で乗って覚えるしかありません。

何回も転んで痛い思いをしながら、乗り方を覚えて行きます。



未熟さをなくして行くのも同じです。

相応の経験が必要であり、苦しい思い、痛い思いをしながら、成熟させて行くしかありません。

完全に少しでも近づきたいと願えば、その願いは叶えられ、地上に生まれて来ます。

そして、因果律の働きによって、最適な出来事が、最善のタイミングで起きます。



生まれる前の自分は、そのことを承知しています。

しかし、その時の記憶は、魂の奥深くにしまい込まれていて、表には出て来ません。

もし、出来事が起きることが判っていたら、全精力をかけて回避しようとするでしょう。

あるいは、生きる気力をなくしてしまうかもしれません。

私たちは未熟なために、知ることが許されていないと考えられます。



そのために、突然起きたとしか思えません。

何で私がと、思ってしまいます。

とても耐えられないと、思うこともあるでしょう。



偶然でも、不運でも、不幸でもありません。

挑戦するのを決めたのは自分です。

決めていたことが、予定通りに起きているだけです。



人間には自由意思があります。

挑戦するべきところ、乗り越えるべきところで逃げてしまったりすると、予定していた学びや成長が得られなくなります。

勇気を振り絞って挑戦するのも、つらくても逃げ出さないのも、成長する機会を逃したくないからです。

成し遂げられずに悔しい思いをして、再度、挑戦するために生まれて来た人もいるはずです。



乗り越えられられない出来事は絶対に起きません。

神によって創案され、挫折させるためではなく、成長させるために起きているからです。

乗り越えられることが分かっていたので、承知したはずです。

苦しませるだけ苦しませて、終わりになることは絶対にありません。



死んだ後に赴くのは、自分と同種の人しかいない、安らかで平和な世界です。

居心地の良い世界ですが、自分を大きく変えるのは難しいようです。

魂まで響く深甚な出来事を経験して、初めて未熟な自分を根本から変えることが出来ます。

そのために、この世に生まれて来たのです。

自分が変わった(成長した)時に、出来事の目的が成就されます。

どう変わったのかは、死んだ後にはっきりと認識されます。



人生は1度限りではありません。

望んでいる限り、何度でも生まれ変わります。



何の目的もなく、この世に生まれて来た人はいません。

全ての人に共通している目的は、自らの変革であり、進化です。







2020年11月22日日曜日

同胞意識


新型コロナウィルスの流行が止まりません。

世界では5560万人以上の人が感染し、134万人以上の人が亡くなっています。

慣れとは恐ろしいものです。

少し前は、感染者が増えると脅威に感じていたのに、今ではそれほど驚かなくなっています。



世界で1番感染者が多いのはアメリカです。

今までに1100万人を超える人が感染し、24万人以上の人が亡くなっています。

経済的に豊かで、医療水準が世界のトップレベルにもかかわらず、感染者や死亡者が抜きん出て多いのは何故でしょうか?



多くの人が感じている様に、マスクを着けない人がたくさんいるのも一因となっているのは間違いありません。

ソーシャルディスタンスを守っていない人も少なくないようです。

個人の自由を尊重する余り、感染のリスクを高めてしまっているように見受けられます。



他にも要因があると思います。

アメリカの医療費は信じられないほど高額です。

例えば、奥歯が虫歯になり日本の歯科医院で神経の治療をすると9400円弱ですが、アメリカで同じ治療をすると20万円位かかります。(日本は皆保険で患者さんの多くは3割負担なので、実質2820円の支払いです)

盲腸の手術で入院すると、日本では約53万円(自己負担は約16万円)、アメリカでは600万円もかかるそうです。

日本では、救急車で病院に運ばれても無料です。

アメリカで救急車を利用すると、後で数十万円の請求書が送られて来るそうです。

これでは、アメリカに行って病気にはなれません。



アメリカ人の多くは民間保険に入っていて、そこから医療費が払われます。

しかし、2750万人の人は保険に入っていないそうです。

保険に入っていない人が、もし新型コロナウィルスに感染して入院し治療を受けると、どれ位の治療費を請求されるのか?

470~820万円と言う試算があり、中には1億2000万円もかかった人もいたようです。(高齢者で公的医療保険制度の対象であったため支払いを免れました)

保険に入っていない人のほとんどは所得が低いために、そんなお金など持っているはずはありません。

コロナに感染している可能性があっても、薬局で風邪薬を買って飲んで、家でじっとしている人が多いのではないでしょうか。

もし、一緒に住んでいる人がいるのならば、家庭内で感染するのは目に見えています。

体の調子が悪いからと言って休むと解雇されてしまう可能性があるので、無理を押して仕事にも出るでしょう。

今度は、職場において感染が起こります。



人種間でも、死亡率に大きな差があるようです。

シカゴ市では黒人の人口比率が約30%に対して、死亡者は約60%だそうです。

全米においても、人口10万に当たりの黒人の死亡率は、白人の2倍以上です。

この理由は、人種間の生物学的な差ではなく、適切な医療を受けられるかどうかの社会的な立場の差を反映していると思われます。

また、経済的な理由から適切な医療を受けられず、基礎疾患が放置されているために重症化し、死亡率を高めている可能性もあります。

こんな社会的な背景もあって、1日に2000人に迫る人が亡くなっていると推察されます。



次に、感染者や死亡者が多いのがインドとブラジルです。

やはり、経済的に豊かな人と貧しい人の格差が著しい国です。

格差に慣れ切ってしまい、同じ国にいる人がコロナの感染による生命の危機に晒されていても、どこか対岸の火事の様に感じている人が多いのではないかと思ってしまいます。



自由競争社会では格差が生まれるのは当然であり、それを否定する気はありません。

努力した者が、報われる社会であって欲しいと思います。

しかし、自分さえ良ければそれで良い、そんな利己的な考えが蔓延してしまうと、社会的な格差は予想以上に広がり、弱者は見捨てられることになります。

そんな弱者を狙って、コロナは拡がっているような気がしてなりません。

現状のままでは、流行は止まらないような気がします。



地上には、勝ち負けがあります。

霊界では、調和や協調を基調とした世界なので競い合うことはなく、そのために勝ち負けは存在しません。

あるのは、霊的な進化の程度の差だけであり、より多くのものを分け与える者が、自然法則の働きによって上に行きます。

持っている者が、持っていない者に分け与えることによって、神の愛が満遍なく行き渡る様になっています。

それに比べて地上では、勝ち負けにこだわり、持っている者が、さらに持とうとするために、格差が進んで行きます。

地上では仕方がないと思っている人も多いでしょうが、明らかに神の摂理に反した状態です。



霊界では、霊的な罪を犯せば、神の摂理の働きにより、直ぐに結果が現れます。

しかし、地上では物質が介在しているために、結果が現れるとは限りません。

そのため、罪を犯していても気付くのが難しくなります。



神の摂理は愛です。

利己的な行いや、貪欲さは、道徳的に良くないのではなく、霊的に罪なことです。

そのことに気付かないまま、生きている人があまりにも多いです。



地上的な欲望が強くなると、霊的な意識は希薄になります。

それに伴い、同胞意識が欠如して来ます。

自分のことだけを考えていると、街の片隅で助けを求めている人がいても、そのことに気付きません。

気付いたとしても、他人事であり、見て見ぬふりをしてしまいます。

それが当たり前になっている社会は、霊的に病んでいます。

コロナの流行が、人間が利己的になり、同胞意識が欠如したために、歯止めがかからないのであれば、その原因は霊的次元にあると言えます。



もし、人間が利己的になることで、コロナが蔓延するのであれば、利他的な行動を心がければ、終息に向かうはずです。

それでは、具体的にどの様な行動を取れば良いのでしょうか?

人に移さないために、マスクをするのは大前提です。

感染させる可能性があるので、多くの人との直接的な接触はなるべく避けます。

たくさんの人を感染させる可能性があるので、密集は避けるようにします。

旅行の動機が、観光施設を支援するためではなく、金銭的に得をするためであれば、良い結果をもたらすとは思えません。

ストレス解消のために飲酒をすると抑制が外れて、他者への配慮に欠けた行動を取ってしまいがちになるので極力控えなければいけません。

自分の楽しみのために、感染リスクのある行動は、今は控えた方が良いのかもしれません。

自分に移らないようにするのではなく、人に移さないと言う意識を持って行動すれば、神の摂理に適っているので、感染は拡がらないと考えています。



データは不足していますが、ワクチンは流行を止めるために、最も効果的な手段であるのは間違いありません。

世界中の人にワクチンを接種すれば、感染者も死亡者も激減すると思います。

しかし、ワクチンを開発している国は限られているので、開発することが出来ない国は、他の国に頼らざるを得ません。

国民全員に行き渡るための費用は莫大なものとなるため、経済力のない国は買えないかもしれません。



自分の国だけが良ければと思えば、アメリカと同じ状況になり、経済的に弱い国の間で蔓延して、終息することはないと考えられます。

世界規模で同胞意識を持って、経済的に豊かな国が、貧しい国のために支援しなければいけないと思います。



国はたくさんあり、人種もさまざまですが、人類は霊的に1つです。

人間だけでなく、動物たちも含め、あらゆる生命は運命共同体です

個人や自国のことばかりを考えていると、因果律の働きによって、それが過ちであることを知らしめる結果が生じます。

霊的に1つであると言う意識が生まれないと、富める国で流行が治まったとしても、貧しい国の間でくすぶり続け、因果律が働き、再び世界中に拡がる可能性があると考えています。



新型コロナウィルスの流行は、霊的に病んでしまった人類が、霊的な意識に目覚めて、健全さを取り戻すために、神の摂理の働きによって生じていると思います。

もしそうであれば、世界中の人々が同胞意識を持ち、助け合うことによって、克服できるはずです。




 

2020年11月15日日曜日

神の心を表現するために生きている


子供の頃、自転車に乗って町内を走っている若い白人男性の姿を良く見かけました。

口癖のように「あなたは~神を~信じますか~?」と尋ねていました。

ちょっと変わっている人だなと、子供心に思いました。



神がいるとは思いませんでした。

正確には、生きて行く上で関係なかったので、いてもいなくてもどちらでも良かったのです。

神は宗教が作り出した概念なので、信じないまま一生を終えるだろうと考えていました。



その考えを根本から変えるきっかけになったのは、ヒーリングの力の出現でした。

病気が癒される様子を間近に見て、大変驚きました。

未知の力の正体をどうしても知りたくて、辿り着いたのが「シルバーバーチの霊訓」です。

そこには神について書かれていましたが、私がイメージしていた神とは大きく違っていました。



シルバーバーチの霊訓には、神を「愛の極致」、「叡智の極致」と書かれています。

また、神は「法則」であると書いてあります。

そして、私たちは「神の分霊」であるとも書いてあります。

いくつもの神の側面があり、当初は戸惑いました。

しかし、今になってようやく結びついて来たように思います。



神の姿は目に見えるものではありません。

見えないからいないと言われればそれまでです。

しかし、神の力が働いている様子を見ることは可能です。



ナイフで指を切ると、肉が裂けて、血が出ます。

しばらくすると出血は止まり、傷口は徐々に塞がって行きます。

これは人間が持っている自然治癒力の働きによるものです。



自然治癒力は、生命力の一種です。

生命力とは何か?と科学者に問いただしても、明確な答えは返って来ないでしょう。

いかなる機器によっても、実体を捉えることはできない、科学の対象外のものだからです。



生命力は、物理(地上)的な力ではありません。

霊的な力であり、神の力です。

古代医学者のヒポクラテスが、「病気は神が治し、恩恵は人が受ける」と言っていましたがその通りです。

病気は医者が治しているのではなく、生物学的法則に則って、生命力と言う神の力が働いた結果として治ります。



人間は、霊(魂)、精神、肉体より成り立っています。

肉体は、口から食べたものをエネルギーに変えて活動しています。

魂は、それとは別経路の生命力によって活動をしています。

魂が電気製品で、神が発電所だとすると、発電所(神)から送られて来る電気によって電気製品(魂)が動くような構図を想像していましたが、それとは少し違うように感じています。

魂は神の一部であるため、自らも力の源泉となっていると、今は考えています。



宇宙を創造したのは神です。

何らかの意思(心)が存在し、宇宙は誕生したはずです。

私たち人間は、神の意思(心)によって創られた、宇宙を構成している極小の一部と言えます。



極小であっても、私たちには神の意思(心)が埋め込まれているはずです。

神の意思(心)など、どこにあるの?と、思うかもしれません。



こんなことを思い出します。

幼少の頃、道端で子猫が啼いていると「可哀想」だと思い、家に連れて帰りました。(また元の場所に戻すことになりましたが・・)

学校でいたずらをして騒ぎとなり、「いたたまれない」気持ちになりました。

人を傷つけて、後になってひどく「後悔」をしました。



そのような気持ちが生じるのは、どうしてでしょう?

「良心」が存在しているからです。

良心こそが、私たちに埋め込まれている神です。

良心に逆らって行動すると、心が苦しくなったり、後悔したりするのは、神の意思(心)に従って生きるように定められているからです。



神は空の上から監視をしていて、悪いことをしたら懲らしめるような存在ではありません。

自然法則として顕現していて、宇宙を経綸しています。

自然法則に反するような行いをすると、因果律の働きにより、それを改めるために苦痛を伴う事象が起きるようになっています。



例えば、自分勝手なことばかりしていたらどうでしょう?

周りから非難され、孤立してしまいます。

利己な行動は、神の意思(心)に反しているからです。

いけないことだと知らしめ、改めるために、非難や孤独と言う苦痛を伴う事象が、自然法則の働きにより起きます。



自らの中に神がいます。

そして、自然法則の働きの中にも神がいます。

内にも外にも神がいて、神の意思(心)が宇宙の隅々まで反映されています。

神の意思(心)が顕現したものがこの宇宙であり、宇宙全体が神であると言えます。



ここで、ある疑問が生じます。

神が無限の愛であるならば、神の一部である私たちの心に、相応しくない怒りなどが生じるはずはありません。

しかし、現実として生じています。

どうしてでしょうか?



今、このブログをご覧になっているのは、ご自身の意思によるものです。

私たちには、何でも決めることが出来る、自由意思が与えられています。

自由意思を行使して、自然法則に適った行いをすることも、良心に逆らって法則に反した行いをすることも許されています。

従って、人に傷つけられたり、騙されたり、陥れられてしまうこともあります。



怒りや怖れは、自分の身を守るために備わっている、原始的な感情と考えられます。

もし、存在しなければ、身に危険が生じても反撃や逃避もせずに、成すがままになってしまいます。

最悪の場合、命を落としてしまうこともあり、それではこの世に生まれて来た目的が果たせなくなります。



魂と肉体の中間に精神が存在しています。

魂から生じた想いを、肉体で表現するために、精神的次元に(地上的な)自我が形成されて行きます。

自我は肉体と密接に結びついているために、自己保存的な欲求が生じています。

高いところに立つと、身がすくむのも、自我の働きにより「怖れ」が生じているためです。

全ての人に自由意思が与えられているので、(過った自由意思の行使から)自らを護るように、怒りや怖れの感情も同時に与えられたと考えられます。



怒りが高じると憎しみとなりますが、神の心とは相容れません。

憎しみを抱いてしまうと、自然法則の働きにより、苦しみが生じます。

苦しみの中で、自分が変わることによって、怒りや憎しみから解放されて行きます。

怒りや憎しみは、進化の過程にある感情であり、媒体である自我が未発達なために生じると考えられます。

進化するのに従い、その様な感情は生じなくなり、進化の果てには、愛のみが表現されるようになると考えられます。



シルバーバーチは「魂は神性の火花」であると言っています。

人間の本質は、神性を表現しようとしているはずです。

しかし、地上では自我を通して表現しなければなりません。

火事になり取り残されている人がいて、助けてやりたくても、それが出来ないのは、自我から「怖れ」が生じて、神性の発現を妨げているからです。



こんなことも書かれています。

「人生の目的は、進化、発展、成長、学習です。進化するたびに、それまで役目を果たしてきた体が自動的に脱げ、その進化にふさわしい体をまとうのです。」

地上では肉体、死んで幽界に行くと幽体、さらに元の住処に行くと霊体をまとうことになりますが、その媒体に相応しい自我を通して自己表現をしていると考えられます。



神の心は完全なる愛です。

しかし、媒体を通過する時に、大きく変化してしまいます。

プリズムを通過すると光は屈折して、様々な波長の光に分かれますが、それと似ている様な気がしています。



自我と言う媒体の影響が小さくなればなるほど、神の心はそのままの形で表現されるようになります。

影響を全く受けなくなった時、神の心そのものが表現されるようになりますが、それには永遠の時を必要とするようです。


完全な神の心を表現するために、生命は永遠に続き、絶え間なく進化して行きます。

生命の進化こそが、神の意思(心)だと思います。




2020年11月8日日曜日

恥じることのない魂


一生を通じて、どれ位の人と会うのでしょうか?

数え切れないほどの、たくさんの人と会います。

今まで会った人は、誰一人として同じではありません。



全てに渡って自分と似ていると思う人に会ったことは、まだありません。

似ている部分もあるけれど、違っている部分もある人がほとんどです。

シルバーバーチの霊訓を読み「アフィニティの関係」と言うのがあることを知りました。

ツインソウルとも言われていますが、ロマンティックな空想上の話ではなく、実際にあるようです。

これ以上似通った人は存在せず、もう一人の自分を見ている様な感覚になるのかもしれませんが、地上で出会うことはめったにないようです。



私たちは、自分と違う人たちに囲まれ、交わりながら生きています。

違うからと言って、目くじらを立てても仕方がないのです。

当然のことですが、差別をしてもいけません。



77億人の人たちがこの地球に生きていますが、考え方や価値観はそれぞれ違います。

世の中には、たくさんの意見が存在し、その中からどれかを選らばなければならない時があります。



迷ってしまいますが、絶対的な基準が存在しています。

それは「自然法則(神の摂理)」に適っているかどうかです。

より適っている方を迷わず選ぶべきです。



自然法則の大原則は愛です。

より多くの利益(恩恵)を与える、あるいは役に立っている方が、自然法則に適っています。

自分よりも相手の方が、より人や動物や社会のためになっていたり、喜びを与えるものであれば、悔しいかもしれませんが、その意見を尊重するべきです。

自然法則に適ってないのにもかかわらず、自分の考えを押し通すのならば、周囲の反発を招くだけではなく、良からぬ結果を生じさせることになります。



利益を追求するあまり、他者がどうなっても構わないと思う人がいます。

道徳的にいけない以上に、それは自然法則に反しています。

自由(競争)の名の元に、強い者だけが生き残り、弱い者が息絶えてしまうのも反しています。

一時的に、地上的な利益は得られるかもしれませんが、長くは続かず、霊的な借金を負ってしまいます。



力があったり、声が大きければ、わがままな意見であっても通ってしまうことがあります。

次の世界に行くとそうは行きません。

利己的な思念は、周囲との調和を乱すだけであり、その人を孤立させます。



地上的な強者とは、権力や富などの力を持っている者です。

その力で、物質的なものを、自由に動かすことが出来ます。

しかし、人の心まで動かすことは出来ません。



霊的な強者とは、自分より他者のことを、より強く想う人のことです。

想う心により、魂(心)を動かすことが可能です。



霊界には無限の界層があります。

自然法則の働きにより、他者のことを想う人が、より上の界層に位置します。

上の界層ほど、神に近いため、より多くの愛を享受します。

そして、享受した愛を、下の界層にいる人たちに分け与えようとします。

分け与えられた人は、そのまた下の界層にいる人たちに、分け与えようとします。

その様にして、神の愛が上から下へと行き渡るようになっています。



地上には界層はありません。

同一平面に生きています。

そのため、他者よりも自分を優先する人たちが、往々にして上の立場になります。

それによって、さまざまな不条理が生まれ、苦しみが生まれます。

上の立場の人に、富は集まりやすい仕組みになっていると考えられます。

集まった富を、必要としている人たちに分け与えれば、霊的な価値が生まれます。

しかし、自分を優先するあまり、分け与えようとはせずに、さらに集めようとします。

こうして不均衡が進んで行き、富める者はさらに富み、貧しい人はさらに貧しくなって行きます。


肉体を維持するだけの食べ物があれば十分です。

欲に駆られて食べ過ぎると肥満になり、やがて病気になります。

必要な分だけを食べて、余っている分はお腹を空かしている人に分けてやれば、肥満になる人も、あばら骨が出るほど飢えて痩せた人もいなくなるはずです。

分け与えることで、全てが上手く行くようになっています。

自分さえ良ければと思う人が多くなると、全員が享受できるはずのものが用意されているにもかかわらず、行き渡らなくなってしまっています。


自分さえ良ければと思う人ほど、霊的なことを知りません。

この世界が全てであり、死後の世界などあるはずはないと思っています。

そんな人が死んだらどうなるのでしょう?

まだ意識があるので自分が死んだとは思えずに、権力やお金の集まる場所に引き付けられるでしょう。

ようやく死んだことに気付くと、霊的に相応しい界層に向かうことになります。

そこには、自分と似通った人、自分さえ良ければと思う人たちが集まっています。


子供の時に読んだ「蜘蛛の糸」と言う物語を思い出します。

暗く、争いが絶えることがない世界でしょう。

平和で穏やかな境涯とはかけ離れ、あるのは我欲から生み出される不調和であり、苦しみです。



苦しめている原因が、自分の想念であることに気付くことが、抜け出すための最初の一歩です。

想念が、自然法則に反しているのです。



そのことに気付くと同時に、地上時代の行いを振り返ることになるかもしれません。

自分さえ良ければと言う想念が、いかに他者を苦しめていたのかを知り、愕然とするでしょう。

後悔の念に苦しむことになります。



この苦しみから何とか逃れたいと懇願していると、指導的立場の霊が現れて、償いの地上人生が提示されます。

地上で与えた苦しみを、地上で味わうことになります。

自分さえ良ければと言う思いが、いかに間違っているのかを学ぶための出来事が、どこかで起ります。

その出来事から生じる苦痛を通して、前生の過ちが償われることになります。



償いが終盤に差し掛かると、誰かから救いの手を差し伸べられて、苦しみから解放されるかもしれません。

否が応でも、他者のことを思う気持ちの尊さに気付くでしょう。



高い地位に付き、たくさんの人に大きな苦しみを与えてしまった人は、1回の地上人生では償い切れないかもしれません

償いが終わるまで何度でも生まれ変わり、魂に受け容れる準備が整ったら、ようやく学びが与えられると思います。

学びを得て、苦しみから解放されて、長い償いが終わります。

自分さえ良ければと思う人は、苦しみの経験を通して自然法則を学び、他者のことを思う人に少しずつ変わって行きます。



一方、他者のことを思っていた人が死ぬと、生前良くした、先に逝った人たちに助けられ、次の世界に直ぐに順応するようです。

次に赴く界層には、他者のことを思う人たちばかりが集まっています。

お互いがお互いのために生きるているので、悦びに満ち溢れています。

神の愛がふんだんに降り注ぎ、明るくて、穏やかで、調和の取れた平和な世界です。



人間の本質は魂です。

向こうに持って行けるのは、魂に蓄えた霊的な財産だけです。

巨万の富を得ても、高い地位を得ても、霊的な貧者になってしまっては、何にもなりません。



虚飾は剥ぎ取られ、嘘や誤魔化しが出来ない世界です。

裸になった魂を隠すものは何もなく、全てが知られてしまいます。

他者が喜ぶような生き方を心がけることで、誰に見られても恥じることのない魂になって行きます。











2020年11月1日日曜日

魂を成長させる約束


 今は、人生90年でしょうか。

そうであれば、私は3分の2を過ぎようとしているところです。

因みに、世界で一番長生きしているのは日本人の女性で117歳(2020年9月現在)だそうです。



世の中には、生後数か月、中には数時間で亡くなってしまう赤ちゃんもいます。

そんな赤ちゃんがいると、多くの人はせっかく生まれたのに可哀想にと思うでしょう。



それは大きな間違いです。

短い一生にも、大切な意味があります。



人には寿命があります。

生まれる前から決っていますが、知ることは出来ません。

それぞれの人生に予定されたシナリオがあり、寿命は自ずと決まります。



生きた時間によって、人生の価値が決まるものではありません。

予定されていた人生を、歩めたかどうかが問われます。

いくら長生きをしても、逸脱した生き方をしてしまえば何にもなりません。

どんなに短かったとしても、予定された通りの人生を歩み、その時が来て向こうの世界に行ったのであれば、哀れんだり、悲しんだりする必要は全くありません。



子供は、両親を選んで生まれて来ます。

その選定は、人智を超えたプロセスで行われ詳しくは判りませんが、自然法則の働きによって、最適な母体に宿ると考えられます。

偶然、親子になることは決してありません。



子供を亡くす以上に、過酷な経験があるとは思えません。

その衝撃、悲しみ、苦しみは、実際に経験した人しか判りません。

もし、生まれてわずかな時間で亡くなったとしたら、こんな疑問に苛まれるでしょう。

「何のために生まれて来たのか」と。



この世に生まれて来た理由は単純明確です。

自分を成長させるためです。

この世で起きる様々な出来事を乗り越えて行くことで成長して行きます。

そして、他者に愛を表現することで成長します。



もし、短い時間でこの世を去るとしたら、何も経験出来なかったことになります。

経験がなければ、成長も出来ないので、生まれて来た意味がないように思えてしまいます。



ある人は、こんなことを言うかもしれません。

「この子は大きなカルマを背負って生まれて来たので長く生きられなかった」と。

その人は、大きな誤解をしています。

もし、カルマを背負って生まれて来たとしたら、もっと長く生きて、痛みや苦しみを通して償いをしなければならなかったでしょう。

カルマがないからこそ、早く逝ったと考えられます。



早く亡くなる子は、優しく、思いやりがあり、純粋で、誰からも好かれていると感じるのは私だけでしょうか。

自分にはもったいない子だったと言う、ご両親の言葉を良く聞きます。

「憎まれっ子世にはばかる」と言う諺がありますが、その真逆の様な気がしてなりません。



陸上のトラック競技が思い浮かびます。

ある選手が自分の後ろを走っています。

しかし、後を走っていたその選手の方が、先にゴールをしてしまいました。

何故だろうと思い、レース全体を振り返ると、後に走っていた選手は実はスタートから自分の前に出ていたのです。

その後も、速いペースで走り続け、レース終盤では自分の後ろまで迫っていました。

実力に大きな差があると、こんなことが起こり得ます。

魂が成長しているお子さんであれば、親よりも先にこの世をゴールしてしまうことがあります。



この世のゴールは、次の世界のスタートです。

次の世界は、この世をどう生きるかによって変わって行きます。

生まれる前にも人生があるのですが、私たちは未熟なために窺い知ることは出来ません。

連綿として人生はつながっているのです。

しかし、全体が視えないので、この世だけで判断してしまうことになります。

先にゴールしたお子さんが不幸に思えて、嘆き悲しんでしまいます。



地上で学ぶことがあれば、何回でも生まれて来ます。

地上に生まれるのが初めての人もいれば、何十回も経験している人もいます。

何十回も経験している人の方が、初めての人よりも、多くを学んでいて、魂が成長しているのは当然です。

初めて地上を経験したご老人もいるでしょう。

何十回も経験している赤ちゃんもいるはずです。

従って、生まれた時から学ぶことの少ない赤ちゃんもいれば、学ぶことが多く残されていてるご老人もいることになります。



学ぶことのほとんどない赤ちゃんであれば、地上に長くいる必要はありません。

目的を果たして、直ぐに元いた世界に戻ることになります。



唯一の目的が、地上のあるご夫婦の子供として生まれる場合もあります。

ご夫婦にとって、可愛い赤ちゃんの誕生です。



赤ちゃんは皆、特別な存在のように感じます。

学ぶことのほとんどない霊的に成長した赤ちゃんは、それとは別の何か特別なものを感じるかもしれません。

瞳の奥に、強い意志や決意のようなものを感じられるかもしれません。



生まれる前に、通常の人生の何百分の1、あるいは何万分の1の時間で、地上を去ることを承知しています。

自分に起きていること、これから起きることも、もちろん承知しています。

短い時間であっても、強烈な印象を残しています。

言葉を超えた、たくさんの想いを伝えています。

そして、予定されていた通りに、次の世界に行きます。



ご両親は、あまりにも短い人生を嘆き悲しみます。

自分の子供にならなければ、こんなに早く死んでしまうことはなかったと、責めてしまう人もいるでしょう。



霊性の高い魂ほど、自分を犠牲にして、他者を思いやります。

この世に長く生きる必要のない霊性の高い魂が、人を悲しませ、苦しませるために生まれて来たはずはありません。

自分のためではなく、他者の学びや成長を促すため、そして生命の尊さを伝えるために生まれて来たはずです。



悲しみはとても深いものになるのは避けられません。

しかし、その先に待っているのは真理です。

新たな人生が始まり、学びながら、大きく成長して行きます。

それこそが、その子がこの世に生まれて来た目的です。



早く亡くなったお子さんのことを「天使」と呼んでいる人がいます。

それは、間違いではないのかもしれません。

天使的存在は、地上に生まれる必要がないほど高度に進化をした魂です。

そんな魂が、特定の人のために、地上に生まれて来ることがあると思います。

もしそうだとすれば、親として選ばれたのは、誇らしいことなのかもしれません。



何度も地上に生まれて来る中で、どこかで最愛の人との別れを経験しなければならないと思います。

神の心である愛を深く学ぶために、地上でこれ以上の経験はないと考えられるからです。

愛すれば愛するほど、学びは深くなります。



身も心も引きちぎられるような試練を乗り越えられない人であれば、子供として生まれては来ません。

これ以上ない悲しみにの果てに、魂が目覚めて、大きく成長してもらえると信じていたから選んだはずです。




地上を去る時が来ます。

暗闇の先で待っているのは、1日も忘れることのなかった、あの魂です。

魂から放たれている、眩しく、美しい光に圧倒されるかもしれません。



極限の悲しみ、苦しみの日々によって、魂が浄化されています。

慈しみの心が姿を現し、それを表現することによって、美しい思念(光)を放つようになっています。

出来事には霊的な意味があり、魂の成長と言う報いを受けていたことで、完全な公平、公正が保たれていることを知ります。

出会わせてくれた、偉大な存在に感謝をするでしょう。



悲しませる、苦しませるために、生まれて来たのではありません。

高い愛を携えて、悦びを与えるために生まれて来たはずです。



魂を成長させる約束をして宿ったのです。

最愛の人がいない現実に耐えながら、この世界を生きているだけで、魂は成長しています。