2014年9月16日火曜日

生まれる前にした約束




すべての人に、生まれる(受胎)前、自分で自分にした約束があります。

どんな約束をしたのか、残念ながら、知ることはできません。

私も、この世に生まれて53年が経とうとしていますが、その約束を、きちんと果たせているのかどうかは分かりません。

だいぶ回り道をしてきましたが、この文章を書いているのも、約束を果たすための一環だと思っています。


周りから見て、とても大変な人生を歩んできた人を見かけますが、人や社会に貢献するために、どうしてもその経験が必要であり、強い動機付けになっていることが、多いと思われます。

そんな人たちは、「その経験があったからこそ、今の自分がある」と、異口同音に語っています。

人の苦しみは、経験してみなければ分かりません。

誰しも、苦しみは味わいたくありませんが、経験した人のみが、同じ苦しみを抱えている人を、救うことができる時があります。

同じ苦しみを抱えている人の重荷を、少しでも軽くすることができたのなら、その経験は少なからず価値を持ちます。

ある人は、他の人に同じつらい経験をして欲しくないために、社会に訴えて、世の中を変えて行こうとします。

ブログなどで、自分の経験を発信し、一人でも多くの人に知ってもらい、役に立てようとする人もいます。


先日、高校の先輩の話を聴きました。

幼くして父親を失い、新聞配達をして家計を助け、苦労の末に大学を卒業し、事業を立ち上げて成功し、現在は政治家として要職にあります。

経済的に恵まれていない子供たちにも、夢を叶えさせる機会を与えるという、強い信念のもと、精力的に活動をされていて、今まさに実を結びつつあります。

その信念は、自身の経験に裏打ちされたものであり、揺らぐことはありません。

経験が活かされて、同じ境遇にある子供たちに、夢や希望を与えようとしています。

もし、恵まれた家庭環境で育ったならば、そんな子供たちに思いを巡らせることはなかったかもしれません。

生まれる前に自分にした約束を、今、果たされていて、過去の経験や環境はそのために必要だったと、私は強く感じました。


道路の端に、横断禁止を知らせる交通標識を見かけます。

その下に小さなプレートがあり、「わたるな」とひらがなで書かれています。

私の記憶が確かなら、数十年前に、交通事故でお子さんを亡くされたご両親の働きかけにより、このプレートができたはずです。

ご両親のお子さんは、小学生の低学年であり、それまでの標識に書いてあった、「横断禁止」という漢字の意味が理解できずに、道路を渡ろうとしたために、不運にも交通事故に遭ってしまいました。

ご両親の悲嘆はどれほどのものだったでしょう、長い間、つらい日々が続いたと思われます。

その日々の末、同じ年頃の子供が同じ悲劇にあってはならない、亡くなった最愛のお子さんの死を無駄にしないたくない、という結論にたどり着いたのだと思います。

行政に強く訴え続けて、幼い子にもわかる標識の設置を、全国で実現させました。

標識に「わたるな」と書いてあるのに気付き、事故に遭わずに済んだお子さんも、きっとたくさんいると思います。

亡くなったお子さんも、さぞ喜んで、ご両親を誇りに思っていることでしょう。

とても大きな社会貢献だと思います。


身を引き裂くような、つらい経験であっても、世の中のために活かすことで、計り知れない意味を持つことがあります。

たとえ社会で活かすことができなくても、同じ立場の人と、想いを分かち合えて、力になることはできるでしょう。

自分の経験が、誰かの役に立つのは、とてもうれしいことです。

楽しい経験は、あまり人の役には立ちません。

苦難の経験であればあるほど、救いを求める人にとって大いに役に立ち、貢献できると考えられます。


生きていると、どうしても悲劇や不幸と思える出来事が身に降りかかってきます。

避けたくても、避けらるものでなく、その渦の中に巻き込まれていきます。

苦しくて、つらくて、逃げたくなります。

無我夢中で、何と切り抜けようと苦闘する中で、少しずつ魂は向上していきます。

そして、魂に目覚めて、本当に大切なことに気付くことになります。

魂は神の一部です。

そして、神は愛です。

魂に目覚めたら、障壁は取り払われて、しきりに(神の)愛を表現しようとします。

人や社会のために何か役に立たつことはできないかと考えるのは、そのためだと思います。

つらい出来事がなければ、魂に目覚め、本当に大切なことに気付くことはありません。

人や社会のために、何かの行動を起こし、役立てていけたのならば、つらい出来事は、大きな意味を持ったことになります。

人それぞれ、起こす行動は違いますが、それが生まれる前にした約束なのかもしれません。


困難を乗り越えて、人のために役に立てていくのは、神の意思そのものと考えられます。

魂を目覚めさせるために、つらい経験があり、魂は神の一部であるために、その意思に従い、役に立とうとするのだと思います。

生きている目的は、人として成長する、本質は魂を向上させるためにあります。

すべての経験は意味があると言われますが、自らの魂の向上にとって意味があるのだと思います。

人や社会のために役に立つ以上に、魂を向上させ、人間を成長させるものはありません。

神の摂理に一致し、愛を表現しているからです。


人は人、自分は自分と思っていても、つい周りが気になって、比べてしまいます。

その結果、人を羨ましがったり、あるいは優越感に浸ったりしてしまいますが、どちらも間違っています。

自分が生まれる前にした約束と、他の人がした約束は、それぞれ違うのであり、同じような人生になるはずがありません。

その人にとって必要な出来事が、神の摂理である因果律により展開されているだけであり、誰一人として同じになる訳がありません。

忘れてはいけないのは、性別、家庭、容姿、頭脳、およその人生を、すべて自らが承知し、納得した上で、生まれてきているということです。

もし、不幸としか思えない出来事や障害が、自らがこの世で蒔いた種ではなく起きているとしたら、魂を向上させる機会として、生まれる前に約束したことと考えた方がいいのかもしれません。

偶然や突発的なものは、存在しません。

幸、不幸を超えた、神の摂理により営まれています。

従って、外から見るだけで、人を羨ましがったり、身の上を嘆いたりするのは、正しくありません。

たとえ生きている時に、知ることはできなくても、(肉体が)死んでしばらくすれば、真意がわかります。

大切なことは、つらくても、苦しくても、逃げ出さないで、立ちはだかる想いを振り払い、乗り越えようとすることです。

生まれる前に、自分が自分にした約束であるならば、何としても守らなければいけないからです。

それが、この世に生まれてきた意味だからです。


すばらしい人生とは、不幸に遭わず、障害もなく、何不自由なく生活した人生では、決してないと思います。

不幸や障害と言われる出来事にあっても、立ち向かい、乗り越えて、その経験を人や社会に役に立てることができた人生だと思います。







参考ページ: 「人生のシナリオは自分を成長させるためにある」

         「この世の出来事の意味を知る時」















2014年9月2日火曜日

恐怖に打ち克つ力



何かに立ち向かったり、乗り越える時に、いつも前に立ちはだかるものがあります。

恐怖や不安です。

この感情を踏み越えて行かないと、前に進んでいくことができません。


イエス・キリストが、処刑される前、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と祈ったそうです。

父とは神であり、彼らとはユダヤ教の指導者であり、ローマ兵です。

今まさに、十字架の上で殺されされようとしている時に、自分を殺そうとしている者を、哀れんで祈りを捧げる、

「汝の敵を愛し、汝らを責むる者のために祈れ」という教えを、最も過酷と思われる状況で、実践していました。

その姿を目の当たりにして、多くの人は胸を打たれたと思います。

普通の人間であれば、恐怖に押しつぶされてしまうでしょう。

「完全な愛は恐れを取り除く」というイエスの言葉が真実であることを証明しています。

しかし、未熟な私にとって、恐怖や不安との闘いは続いています。


イエスにとって、死は霊界への帰還であるのは、揺るぎない真実だったのは間違いありません。

死んで無になってしまうかもしれないと思うと、大きな怖れを抱いてしまいます。

死の先に、新しい世界が待っているのは、疑う余地のないことです。

けれども、死ぬ時は苦しいのだろうか?病気の痛みに耐えられるだろうか?周りの人を悲しませたり、迷惑をかけたりしないだろうか?と、つい考えてしまうと、恐怖に襲われてしまいます。

現実は、想像と少し違うようです。

霊界に行った人からのメッセージでは、死ぬ時は側から見ているより、苦しくないそうです。

痛くて耐えられなかったと言う話も、聞いたことがありません。

周りで悲しむ人もいるでしょうが、生命は魂であり、少しばかり早く次の世界に行くだけなので、必ず再会できることを、しっかりと伝えておくべきだと思います。

霊的な真実を知れば、知るほど、死の恐怖が和らいでくるは、間違いありません。


未来は、どうなるか分かりません。

分からないだけに、この先、どんなにつらく、苦しいことが待ち受けているのだろうかと、大きな不安や、怖れを抱いてしまいます。

不安や怖れを抱くと、穏やかな心は失われ、苦しく感じられ、いたたまれなくなります。

苦しく感じるということは、不安や怖れが、神の摂理に反している想いであるからなのかもしれません。

克服していかなければいけません。

今まで生きてきて、緊張を強いられる場面は数知れずあり、恐怖や不安に襲われて、それを拭い切れずに、怯えてしまうこともありました。

失敗を恐れたり、悪い結果を想像したりして、不安にかられて、持てる力が発揮されずに終わり、後悔してしまうこともありました。

恐怖や不安を追い払うのには、どすればいいのか?

勇気を出すしかありません。


魂は神の一部です。

そして、苦難を乗り越えていくことで、魂が向上します。

魂を向上させるために、人は生きていますので、苦難に立ち向かっていく勇気は、神の摂理に適っている想いのはずです。

神に摂理に適った想いは、神とのつながりを深め、神の力を受け取れます。

神の力よりも、強く、頼りになるものはありません。

従って、神の力を受け取るためには、勇気を出さなければいけないと考えられます。

その力を持ってすれば、心を侵食している恐怖や不安は、跡形もなく吹き飛ばされると思います。

恐怖や不安が消えてしまえば、霊力(神の力)の流入を妨げるものはありません。

勇気を出せば、神の力をふんだんに受け取ることができ、望む方向に進んで行けると思います。

つらくても、苦しくても、勇気を出すしかありません。


しかし、現実を見つめると、どうしても悲観的になり、勇気など出せないと思ってしまう時があります。

どこを、どう探しても、良いところは見つからず、悪いところだけしか見当たらない、絶望的な状況もあります。

激しい苦痛があったり、心を支えていく力がどこにもない時に、勇気を出すのは難しいと思われます。

そんな時は、祈ってみてはどうでしょうか。

「乗り越えていく勇気を与えて下さい」と。

魂は神の一部であり、つながっているため、祈りが見過ごされることはありません。

祈りにより、恐怖や不安が少しでも和らいだのであれば、回答として、神から力が与えられのだと思います。

もし、叶うのであれば、「病気を治して下さい」とか「今の苦しみからから逃れさせて下さい」と、祈りたいところですが、残念ながら、それは叶えられないと思われます。

なぜなら、すべては因果律によってに生じているため、結果(病気や苦しみ)を変えることはできないからです。

病気や苦難には、魂を向上させ、大切なことに気付かせるという、深い意味があります。

そうであるならば、魂が向上し、大切なことに気付いたのなら、病気や苦難は、過ぎ去っていくことになります。

もし、祈りで病気が治り、苦難が取り除かれるとしたら、魂を向上させる機会が失われてしまい、大切なことに気付くこともありません。

神の意図ではないことを、神が叶えるとは思えないからです。

しかし、苦難を乗り越えるようとする、真摯な祈りは、摂理に適っているため、勇気(力)が与えられるはずです。

勇気が与えられ、恐怖や不安が追い払われると、痛みやつらさも、いくらか和らいでくるのではないでしょうか。

そんな私も、少し前は神などに関心はなく、祈ったことはありませんでした。

今は、(摂理に適った)祈りに対して、導きが得られたり、力が与えられるのを知っています。

魂は神の一部であり、つながっているために、すべての人に力が与えられます。

祈りは、宗教的儀式ではありません。

生きる力を呼び込むため、人に与えられた、ありがたい恩寵です。

その恩寵に浴した方が、賢明です。


恐怖や不安の相手(対象)が外にある時に、克服するために、どうしても必要なものがあります。

それは、愛です。

愛は、好きという感情が発展したものだけではありません。

奉仕する、やさしくする、親切にする、思いやる、励ます、労わるなど、すべて愛に基づいた行いです。

自分と異なるものを認める、許すのも、自己犠牲がなければ成り立たず、愛が必要です。

恐怖や不安を抱く、最たるものとして、戦争があります。

ほとんどの国は、自国を脅かす者に対しては、敵とみなして、守るために攻撃をします。

何の理由もなく、脅かしてくるのであれば、自国を守るために、反撃するのはやむを得ません。

時代が古くなるほど、そんな戦争が多かったと考えられます。

現代では、国家間の連携が強くなり、無用に侵略する国家は、国際社会において非難され、制裁を受けます。

それでも、世界中で戦争や粉争が絶えることはありません。

人種、宗教、文化、言語の違いから、誤解が生まれて、戦争へと発展することもあります。

どちらが善で、どちらが悪と決められない争いが、ほとんどなのかもしれません。

認めない、尊重しない、許さないために起きる戦争と言っていいのかもしれません。

戦争になれば、爆弾や銃弾により、命を落とすかもしれないので、恐怖と不安な日々となります。

何とか終わりにするために、相手を降伏させる必要があると考えます。

そのために、攻撃をすることになります。

相手が降伏するまで闘おうとするならば、因果律が働き、相手から相応の反撃を受けることになります。

相手が傷つき、苦痛が生じたのならば、相手は報復し、自らが傷つき、苦痛を経験します。

攻撃をして、相手に恐怖や不安を与えたなら、自らが攻撃を受け、恐怖や不安を味わう結果となります。

自分から出たものが、自分に返ってきているだけです。

争いを終わりにするためには、元となった、根本的な原因を見つけて、改めることが必要です。

思いもよらぬ出来事は、いつ起きるのか分かりません。

その出来事により、自らが傷を受けてしまうことがあります。

憎しみを持ち、目には目をで、報復すれば、争いになるかもしれません。

もし、許せたのならば、争いは避けられます。

どちらに進むのかは、自分次第です。

認め合う、尊重する、許すことは、自己犠牲であり、苦痛を伴うかもしれませんが、神の摂理である「愛」を表現しているため、争いから生まれる恐怖や不安から逃れることができます。


私の歯科医院に、とても気難しく、少しでもこちらに不手際や失敗があると、容赦なく怒鳴られる、年老いた男性の患者さんがいました。

治療は、誠心誠意、行いましたが、どうしても気になり、納得できないことがありました。

客観的に問題はなく、これ以上の改善は難しいことでした。

以前、時間を取って、話をして、その時は了解して帰られましたが、また、突然来られました。

受付から、その患者さんが来られたと聞いて、怒鳴られた時の記憶がよみがえり、緊張しました。

前回と同じことを、話さなければなりませんが、どの様な反応をされるか、全く分かりません。

また、怒鳴られはしないかと思うと、「いやだ」という気持ちになりかけますが、相手を思いやる気持ちでいるように心がけました。

早く帰って欲しい思うと、どうしても表情や、言葉に表れてしまい、相手に伝わってしまいます。

言葉で丸め込もうとか、誤魔化そうとすれば、さらに不満が募り、怒りがこみ上げて、容赦なく怒鳴られたかもしれませんでした。

相手を思いやる気持ちで対応したので、怒りを爆発させるきっかけを失い、徐々に鎮まる方向へ向かっていきました。

しばらくして、心が落ち着かれて、帰っていきました。

話の内容よりも、どんな気持ちでこちらが対応しているのかを、しっかり見ていると感じました。

どこにでもある話ですが、相手を思いやる気持ちは、怒りを鎮め、結果として恐れや不安にとらわれずに済むことを、私は実感しました。



恐怖や不安を克服するためには、相手(対象)を忌み嫌っているよりも、親愛の想いを向ける方が得策だと思います。

神の摂理である因果律により、親愛の想いを向けるものに、怒りや憎しみの想いを返すことはできないために、新たな恐怖や不安が生まれることはないからです。

そうは言っても、恐怖や不安の相手(対象)に対し、親愛の想いを向けるのは、とても難しく思えます。

しかし、過去を振り返ってみると、幼い時には、嫌いな人が来ると逃げたりしたのが、少し大きくなると、嫌いな人が来ても、逃げたりせずに、向き合えるようになっています。

さらに、年月が経つと、嫌いな人でも、どうにか普通に付き合えるようになっています。

いろいろなことを経験し、成長しているからです。

さらに成長することが出来たなら、決して無理ではないように思えます。


忌み嫌うのをやめれば、相手(対象)の想いに気付くようになるかもしれません。

実は、何かを、必死に訴えているのかもしれません。

もし、訴えている想いを、素直に認めて、共感できたならば、相手(対象)との関係は変わってくるでしょう。

そうすれば、相手(対象)から生じる、恐怖や不安は、きっと少なくなります。


恐怖心は、人から理性と、生きる力を奪う、最大の敵です。

一刻も早く、決別すべきものです。

前に進んでいくには、乗り越えなければいけません。

恐怖と不安に打ち克ち、困難に立ち向かわせるのは、愛と勇気であり、それは神の力だと思います。

愛と勇気の大切さを、恐怖や不安を克服していくことで、学んでいるのかもしれません。






2014年8月27日水曜日

自分を大切にする


自分のからだを傷つけ、苦しんでいる人は、どうぞ最後まで見てください。



本当の自分とは、魂です。

目に見える肉体(からだ)は、魂を表現している媒体に過ぎません。

本当の自分は目に見えず、媒体である肉体は目に見えます。

従って、からだの変化には気付きやすいのですが、魂のありさまの変化には、なかなか気付きません。

魂のありさまの変化は、肉体上の変化として表れる時があります。

その逆に、肉体に影響を与えるのものは、心そして魂に影響を及ぼしています。

誰かに暴力を振るわれて、からだに傷を負ってしまったならば、少なからず心にも傷を負ってしまいます。

傷つけた人が、たとえ自分自身であっても、心に傷を負っています。



自分のからだを、自分で傷つける、自傷行為をしている人は、直ちにやめましょう。

生きていたいのだけど、うまく生きれない、罪の意識に苛まれて、とても苦しい状態に置かれているかもしれませんが、傷つけても、苦しみから逃れることは、決してできません。

それどころか、その行為は危険なばかりではなく、霊的に大きな罪を犯していることになります。

自らを傷つけるのは、人を傷つけるのと、罪の大きさに変わりありません。

その罪の償いのために、さらに大きな苦しみを経験しなければいけません。

苦しみから逃れたいために、自らを傷つければ、さらに苦しむことになるだけです。



自分のからだは、自分のものであり、どうしようとも、かまわないと思うのは、無知であり、傲慢です。

もし、自分にしている行為を、他の人にしたらどうなるでしょうか?

傷害罪で逮捕され、繰り返せば、刑務所行きになるでしょう。

自分のからだを、どんなに傷つけても、法律上、罪に問われることはありません。



しかし、世の中を支配しているのは、人間が作った法律だけではありません。

すべての人間は、逃れることができない、目に見えない法則に支配されています。

その法則では、自分のからだを傷つけるのは、他人のからだを傷つけるのと、同等の罪になると思われます。

もし、他人を傷つけてしまったら、後悔して、罪の意識に苛まれます。

自分を傷つける行為も、全く同じです。



からだは、この世で果たすべきことを果たすために与えられた、魂の大切な乗り物です。

与えられたと言うより、この世にいる時だけ、借りているものです。

その大切な肉体を傷つける行為は、見えない法則に反していて、自らの心の苦により、その罪を償わなければなりません。



少しでも楽になりたいと思ってする、その行為は、楽になるどころか、さらに心を苦しめる結果につながっています。

周囲の人に、迷惑や心配をかけていれば、さらに償いは大きくなります。



うまく生きれないこと自体は、罪ではありません。

うまく生きれないから苦しいのではなく、後悔し、自らを責めてしまっているから苦しいのだと思います。

世の中は、うまく生きている人と、生きれない人がいるように思えますが、そうではないのかもしれません。

後悔の念をあまり持たず、今を生きている人は、うまく生きているように見え、後悔の念が強いために過去に縛られ前に進めない人は、うまく生きれないと感じてしまうのだと思います。



そもそも、罪悪感を持つ必要はないと思います。

蒔いた種は、自らが刈り取らなければいけません。

すべてに因果律が働いて、罪悪感を持とうと、持つまいと、結果責任は、自分で引き受けることになるからです。

傷つける時の痛みや、傷から流れ出る血により、現状(結果)を寸毫(すんごう)足りとも、変えることは出来ません。




今までの生き方、言動に対して、悔やんでばかりいると罪悪感が生じて、因果律により苦しみを味わいます。

苦しみに耐え切れなくなって、罪悪感から逃れようとして、さらに自らを傷つけてしまっています。

傷つける行為により、罪悪感が増して、大きな苦しみが生まれ、さらに深く自らを傷つけようとします。



いっそのこと、手首をもっと深く切れば、苦しみから解放され、楽になるのではないかと思う人もいるかもしれませんが、それは大きな間違いです。

もし、そんなことをすれば、今、味わっているのとは比べ物にならないほどの、とてつもない後悔と罪悪感が待っています。

想像を絶する苦しみの世界に、長い間、閉じ込められます。

この世で、つらいことがあっても、乗り越えるという、魂の約束があったのを、自らが破ってしまったからです。

その約束をすっかり忘れてしまい、破ってしまった時の後悔は、今の比ではありません。

いくら後悔しても、今度は取り返しがつかないからです。

からだがなくなっても、生命は魂であるために、生き続けます。

後悔、苦しみの思いから逃れたくて、命を終わりにしたはずなのに、意識は前のままであり、後悔、苦しみの思いから逃れれらないことを知ります。

しまったと思っても、戻るからだは、もうありません。

からだは、魂の入れ物であり、自分のものではなかったことに気付いても、手遅れです。

自分のものは魂だけであり、表現する肉体を、自ら手放してしまったのです。



人生で何か起きた時、望まない出来事が起きた時にどうするか、道は2つです。

後悔して留まるか、それとも、そこから何かを学んで進むか。

何かを学んで進むのが、見えない法則に則った、正しい道です。

後悔して留まってしまうと、法則に反しているため、結局は苦しみが待っています。

つらくても、前に向かって進んでいかなければいけません。

ほんの少しでもいいから、前に進むことが大切です。

少しでも前に進めば、きっと心が楽になるでしょう。

薬では、心は楽にはなりません。

前に進んでいるわけではないからです。



この世は、楽しむためだけにあるのではありません。

自分に足りなかった何かを学ぶために、この世を生きているのであり、それは楽しい出来事よりもつらい出来事から多くを学ぶことができます。

多くのことを学び、向上していくのが人生ならば、つらい出来事はつきものということになります。

失敗や挫折に出会うのは、この世では避けられません。



悔やんでも、悔やみきれないことは、誰にでもあると思います。

私も仕事上で過ちを犯して、大きな後悔の念に苛まれました。

あの時こうすればよかった、何でしなかったのか、どうして全力を尽くさなかったのか、数えたら切りがありません。

勇気が足りなかったり、自分をごまかしてしまったりすると、後悔することに繋がると感じています。

けれども、そこから何かを学ぶことができたのなら、意味があったことになり、立ち直るきっかけになると、私は思っています。



生きる目的は、人や社会に奉仕して、自分(魂)を向上させるためにあり、悔いの想いに縛られていては、とてもできません。

悔やんでばかりいると、生きている意味がなくなってしまいます。

この世で与えられた時間は限られていて、大きな損失をしています。

今の苦しみは、そんな大切なことに気付いて、想いを手放すためにあります。



繰り返します。

からだを傷つける行為により、得られるのは、苦しみだけです。

今すぐ、やめて下さい。

責任を取ることが、さらに多くなってしまいます。



生命は魂です。

死んで終わりではありません。

この世に生まれてきたのは、前世で悔やむことがあり、借りを返すためかもしれません。

自分を傷つけるのは、自分の魂を裏切る行為です。

また、借りを作ってしまいます。



本当の自分である魂は、からだを傷つけるのを止めようとしています。

勇気を出して、正直に生きろと、叫んでいると思います。

その声に、逆らってはいけません。



過去は変えられません。

しかし、未来を変えていくことはできます。

そのためには、たとえ少しでも、前に進んで下さい。

一歩進めないのであれば半歩、半歩進めないのであれば、足を地面から離すだけでも、大きな前進です。

それが苦しみから解放される、唯一の道だと思います。







2014年8月24日日曜日

身近な人の死に接して



私のごく身近にいる人が、回復が難しい病になっていることが判りました。

高齢ではありますが、まだまだ元気と思っていただけに、身内の者にとっては大きなショックでした。

しばらくして、抵抗力が弱くなったためか、呼吸器系の疾患を併発したため容態は急激に悪化し、危篤状態になりましたが、毎日遠隔治療を行った効果なのか、危険な状態を脱し意識を回復することが出来ました。

近親者は覚悟をしていただけに、うれしかったのですが、本人にとっては肉体の苦痛を堪えなければいけないので、試練の時が続くことになります。

ただ、家族との別れの時間が十分に持てたことは喜ばしく、今まで言葉にすることがなかった自分の想いをはっきりと伝えることが出来ました。

言葉はありませんでしたが、こちらを見つめる眼差しから、相手の想いも感じ取ることが出来たと思います。

もし、ヒーリングにより、この大切な時間が与えられたなら、やはりこの力は愛なのだと感じました。

寿命という摂理には従わなければいけませんが、お互いの理解が深まり、愛を確かめさせてもらったからです。

お別れ際に最も愛する人が向こうで待っているのはわかっていましたので、「何も心配しなくてもいい」、自分がこの世を去った時に、迎えにきていただけるのではないかと思いましたので、「また会いましょう」と伝えました。

しばらくして肉体を離れる時がやってきました。

さみしくはありますが、悲しくはありません。

棺の中に花を添える時に顔を見ていたら、在りし日の優しさが想い出され、涙がやはり出てしまいました。

感激の再会の後に、お二人でこちらの様子を見に来られるかもしれません。

いつ来ても恥ずかしくない様に、生きていきたいと思います。




大切な人を亡くした若い人へのメッセージが書かれていましたので、よろしかったら読んで下さい。
こころのフォト ~忘れない~  

「心に響いた詩」






2014年8月22日金曜日

過去を忘れ、魂の命ずるままに生きる



ガンの根本原因は、残念ながら未だ不明とされています。

数十年を経ても、その状況はあまり変わっていません。

生命とは何か?

この大きな命題についても、長い年月をかけて究明しているにもかかわらず、答えを見出せていません。

ガンの原因が分からないのも、生命の本質について分からないのも、同じ理由だと考えています。

答えは肉体の中にはなく、魂にあるからです。


生命は魂です。

この事実を否定すれば、先には進めません。

地上の物質は、物理的法則により支配されています。

生命である魂も、霊的法則により支配されています。

これから、魂(霊)について多くの知識がもたらされる、時代になると思われます。

医学も例外ではなく、ガンについても、霊的次元での解明が進んでくるとともに、全く新しい治療法が確立されてくることでしょう。


魂を表現する媒体として肉体があります。

魂は肉体の上位にあり、肉体は魂に従っています。

怒ると顔が赤くなり、悲しいと涙が流れるのは、魂の変化が、肉体の変化として表されているからです。

魂の変化が、肉体上に病気として表れることがあります。

魂のありさまの変化は目に見えないので気付きませんが、肉体上に目に見えるガンとして反映されれば気付きます。

肉体に表れた病巣は、結果を見ているのであって、根本原因は魂にあると思われます。

従って、目に見えるガンをいくら研究しても、根本的な治療法は見つけられないことになります。


魂からは、絶えずさまざまな想いが生まれます。

魂から生まれた想いは、精神を経由し、言葉や表情、行動など、肉体で表現されています。

言葉や表情、行動で表さず、想っただけでも、神の法則(摂理)は働きます。

生きていると、うれしいことばかりではなく、納得できないこと、理不尽なことにも遭遇し、さまざまな想いが生まれてしまいます。

自分に非がなくても、怒り、憎しみ、恨み、妬みなどの想いが生まれれば、因果律が働き、相応の結果をもたらします。

時に、怒り、憎しみ、恨みの想いは、外に向かって表現されます。

はげしく相手を責め立てたり、暴力をふるったり、いやがらせをしたりして、表現されることがあります。

その行いは、摂理に反しているために、償いが生じます。

相手から、さらに責められて、つらい思いをしたり、周りから非難され、孤立するかもしれません。

もし、人を傷つけたり、不幸にさせたりすると、同等のつらい想いをして、負債(カルマ)を返さなければいけません。

この世で償うことがなかったとしても、時効はなく、その先で必ず償わなければいけません。

心の奥底にある魂は、そのことが分かっているために、多くの人は怒りを表現せずに、我慢をするのだと思います。

言いたくても言えない、泣きたくても泣けない、怒りをぶつけたくてもぶつけられないと、その想いはうっ積していきます。

人は、うっ積した想いを、別の形で解放しようとします。

おしゃべりをしたり、運動をしたり、趣味に没頭したり、あるいは大きな声で唄を歌ったり、食べたり、飲んだりして、内にある想いを、肉体で表現し、解放しています。

ストレス解消に当たります。

しかし、想いがとても強かったり、うまく解放できなかったりすると、想いはうっ積したままとなります。

怒りの想いがうっ積している状態で、人にやさしくしたり、許したりすることは、難しいと思われます。

怒らなくてもいいのに、怒ってしまったり、言わなくてもいいことを、つい言ってしまうことがあります。

些細なことが許せなくなり、人を責めてしまったりします。

その対象は周りだけでなく、自分にも向けられます。

自分に不満を覚えたり、許せなくなります。

自分でも、どうしてなのか分からずに、感情的になってしまうのは、怒り、憎しみ、恨みなどの想いが、うっ積しているためだと考えられます。

うっ積した想いのために、本来の自分とはかけ離れた、表現(言動)をしてしまいます。

人は、愛を肉体で表現するために、この世を生きています。

怒りなどの想いが溜まっていると、この世を生きている目的を十分に果たせなくなってしまいます。


通常は、怒りなどの想いが湧き上がったとしても、時とともに消えてしまうことが多いと思われます。

しかし、怒りがとても強ければ、消えずに想いが留まってしまうことがあります。

長い間、想いが留まり続けてしまうと、その状態が当たり前となってしまいます。

本来の自分と違うのに、気付かなくなります。

周りから、人が変わってしまったと、言われてしまうかもしれません。

無用な過ちを犯して、魂に負債(カルマ)を抱えてしまっては大変です。

この状態は、魂の向上にとって、想像する以上に、深刻な問題だと考えられます。

いくら人から言われたとしても、変わってしまった自分を本来の姿に戻すのは無理でしょう。

自分を変えていくのは、自分しかありません。

強制的に変えていく、1つの手段として病気があります。

想いの根が深ければ深いほど、大きければ大きいほど、手放すのは容易ではありません。

その想いを手放すために、深刻な病気が因果律により生じると思われます。

根が深い想いを生じさせた、忘れられない出来事であっても、ガンになればこだわっていられなくなります。

想いを生じさせるような生き方や考え方が、どんなに正しいと思っていても、ガンになれば、見つめ直します。

そんな過去の出来事よりも、生命の方が大切です。

生き方や考え方へのこだわりよりも、生命が先です。

今まさに海で溺れかかっている人が、過去のことを思いだすでしょうか。

溺れて苦しい時に、生き方や考え方にこだわるでしょうか。

そんなことはどうでも良く、現状から抜け出したいだけです。

パニックになり、苦しいと、何かにすがりたくなります。

しかし、すがったものが適切でないと、また沈んでしまいます。

恐怖や不安を鎮め、冷静になり、からだの緊張を解けば、からだは自然に浮いてくるのかもしれません。

人間のからだは、浮くようにできているからです。


過去の出来事から生じた、想いを手放せば、本来の自分に戻れると思います。

想いを手放し、本来の自分に戻るためには、最も大切なものに気付かなければいけません。

愛だけが、出来事を許し、想いを手放すことができます。

ガンは想いの出口であり、本来の姿に戻るためにあると思います。


摂理に反した想いにより、因果律が働き、病気が発病します。

病気の苦痛は耐え難いものですが、摂理に反した償いであると同時に、魂を向上させて、愛の大切さに気付き、許すためにあります。

出来事が許されれば、本来の姿に戻り、愛を素直に表現できるようになります。

生きる目的は、愛を表現して、魂を向上させるためにあります。

よって、肉体を死に至らせる病ではなく、魂を目覚めさせ、この世で生きる目的を果たすために生じた病だと言えます。

すべての想いをことごとく吹き飛ばし、洗い流し、より良い生き方、考え方に変えていく、台風なのかもしれません。

それなのに、怖れて、敵対し、からだから消すことだけを考えてしまいます。

無秩序に増殖を繰り返す、得体の知れないものと考えてしまうと、怖がってしまうのも無理のないことです。

恐怖を克服するためには、正しい知識が必要だと思われます。


神の摂理は完璧であり、すべてに意味があり、間違いなく答えが用意されていると思います。

病から解放された人は、その意味を知り、答えを見出した人だと考えられます。


過去を忘れ、魂の命ずるままに生きる。

とても難しいことですが、そんな生き方をするために、この病気はあるのかもしれません。





2014年8月15日金曜日

苦しみから解放されるために許す



人は、肉体で愛を表現するために、この世を生きています。

人にやさしくする、親切にする、社会奉仕をするのは、直接的な愛の表現であるのに対し、人を許すことは、自己犠牲を伴い、間接的な愛の表現と言っていいのかもしれません。

しかし、人を許すのは、口で言うほど生易しいものではありません。

生きていると、さまざまな出来事に遭遇します。

うれしいことばかりであればいいのですが、この世は苦しいこと、つらいこと、悲しいことにも出会います。

その中には、他の人の行いが原因となり、苦難を経験しなければいけないことがあります。

自分が蒔いた種で、苦しみを味わうのであれば、納得できますが、他人のせいで自分が苦しむのは、とても納得できるものではありません。

怒り、恨み、憎しみの想いが、湧き上がってしまうのを、どうしても、抑えきれないことがあります。


数年前に、想像を絶する苦難を味わっている人との出会いがありました。

その人は、相手の暴挙とも言える過ちにより、とても大切なものを失いました。

恨むなというのが無理なほどの、酷い仕打ちでした。

詳しくは書けませんが、人が経験する苦難としては、おそらく最も過酷ではないかと思います。

相手は反省するどころか、その人に非があったと開き直っています。

その人は、当然のことながら、相手を激しく憎み、そして恨んでいたと思います。

相手をいくら憎んでも、大切なものは帰ってこないと分かっていても、そこにしか、やりきれない思いの持って行き場はありません。

深い悲しみ、身悶えるような苦しみ、絶望の日々の末に、喜びの真実に辿り着くことができました。

そして、相手を許しました。

相手を憎むのと同時に、容赦なく自分を攻め続けていました。

喜びの真実により、自分を攻めることから解放されました。

私はその人から、自分が許されなければ、相手を許すことはできないことを学びました。


自分が苦しい思いをしているのに、相手を許す気持ちには、とてもなれません。

ただ、勘違いしてはいけないことがあります。

それは、自分を苦しめているのは、相手の過ちそのものではなく、それによって生じた怒り、憎しみ、恨みの想いだということです。

その想いが、神の摂理に反しているために、因果律により、苦しみが生じています。

それを知らずに、こんなに自分が苦しい思いをしているのは、相手の(過ちの)せいだと思ってしまうと、憎しみ、恨みの想いが増していきます。

憎しみや恨みが増していけば、因果律により、苦しみが増していきます。

その悪循環を断ち切らなければいけません。

相手を憎むことにより、気持ちが晴れて、苦しみから逃れられることは、決してありません。

苦しみから解放されたいのであれば、憎しみ、恨みの想いから、自分を解放してやらなければいけません。

憎しみ、恨みの想いを解放するには、とてもつらいことですが、相手を許さなければいけません。

相手を許すには、まず傷ついた自分を癒やさなければいけません。

肉体の傷が自然治癒力という神の力で癒やされてくるように、心の傷も神の力により癒されてきます。

時とともに、傷は少しずつ癒されてきますが、傷が深いければ深いほど、長い時間を要します。

失ったものが、元に戻らないのであれば、傷はなくならないかもしれません。

ただし、影響を与えているのは、傷そのものではなく、傷から生じる想いです。

傷は消せませんが、傷から生じる想いを消そうとすることはできます。

傷から生じる想いを消していくためには、自分への愛が必要となります。

ありのままの自分を認めて、大切にしなければいけません。

足りない自分、違っている自分、変わっている自分は、劣っているのではありません。

すべてが足りている人は、この世に存在しません。

人と違っているのは当たり前であり、それをお互いに認め合うことは、この世を生きる1つの意味であると思います。

正直に、素直に生きることは、ありにままの自分を認めることにつながります。

投げやりにならずに、今を真剣に生きることは、自分を大切にするとにつながります。

つらくても正直に、素直に、真剣に生きていれば、神の力で傷は癒されて、想いは生じにくくなっていくと考えられます。

正直に、素直に、真剣に生きようとする努力は、魂を向上させると思われるからです。

そして、いつの日か相手を許せる時が来ると思います。

相手を許せた瞬間に、憎しみ、恨みの想いから解放されて、長かった苦しみからも解放されると思います。


正直な自分とは、どんな自分だろうと考えてしまいます。

憎しみや、恨みに染まった自分ではないはずです。

正直な自分とは、魂です。

魂は神の一部であり、繋がりが切れることはありません。

生命は、魂に流れ込む神の力により生かされています。

神の力とは、愛を表現する力そのものです。

許すことも、愛の表現であれば、正直な自分は、許そうとしているはずです。


生きていると、許すか、許さないかの判断に迫られることの連続です。

許すか、許さないかは、自分の自由です。

「右の頬をぶたれたら、左の頬を差し出しなさい」とイエス・キリストは言いましたが、許すことの大切さ、愛の大切さを表現しています。


許せずに、怒りや、憎しみや、恨みの想いに、いつまでも捕らわれているのは、賢明ではありません。

神の摂理により、自らが苦しむだけだからです


この世は、肉体で愛を表現するためにあります。

怒り、憎しみ、恨みの想いを抱き続ければ、愛の表現は妨げられたままです。

この世を生きている意味を、大きく失ってしまいます。


許すには、相等の苦しみや痛みを伴いますが、その行為は摂理に適っているため、やがてなくなるでしょう。

魂の向上が図らた上に、苦しみからも解放されるのであれば、その意味はとても大きいと思います。















2014年8月10日日曜日

この世の先にある世界



死んだ後、どうなるのだろうか?

昔、漠然と考えたことがあります。

死ぬことは、遠い先にある出来事であり、そんなことを考えるより、今をいかに楽しく、充実させる方が、よっぽど大切に思えました。

死んだ後どうなるのかは、死ななければ分からないという結論に至り、深くは考えませんでした。

もし、無になってしまうと考えると、心も意識もなくなってしまって、何だか怖く感じます。

無になってしまうのであれば、生きている意味はあまりないように思え、とても虚しくなってしまいます。

幸いにして、死ぬ前に、確かな知識を手にすることができました。


無になることはありません。

生命は魂であり、生き続けます。


肉体の死とともに、この世から次の世界に移行します。

空想でも、夢物語でもありません。

神の摂理に従って、その現象が起こるだけです。

そんなことは信じられないと、言っている人も、その現象に直面します。

知らないよりも、知っていた方が、混乱することなく、次の世界にすんなりと順応して行けます。


死んだらお終いであれば、この世を生きる意味を、説明するのは困難です。

ただ、生まれて、生きて、死ぬということになります。

人生は、そんな浅はかなものではありません。

終わることのない物語を、自らが綴っています。

物語の主人公は、自らの魂です。

物語のテーマは、愛です。

死とは、1つの章の終わりであり、新たな章の始まりです。

物語の終わりではありません。

この世と次の世界は、それぞれが乖離(かいり)した世界ではなく、お互いがつながっていて、密接に関係をしています。

この世をどう生きたかで、次の世界での展開は変わっていきます。

死ねばお終いと思えば、好きななことをして、人生を長く楽しむことが、最も大切と考えてしまうかもしれません。

お金をたくさん得て、欲しい物を手に入れ、贅沢な暮らしをするのが、幸せな人生だと思ってしまいます。

私も恥ずかしながら、仕事で成功して、高い評価と、収入を得ることが、人生の目的と考えていた時期がありました。

真実を知ることができて、心から良かったと思っています。

次の世界は間違いなく存在しますが、地位や名誉や財産は持っていけません。

次の世界に持っていけるのは、自分の魂だけです。

愛に根ざした行いは、魂を美しく光り輝かせる、永遠の財産となります。

魂には、この世での想い、行いのすべてが、刻み込まれています。

次の世界での生活に慣れてくると、そのひとつひとつを、自らが検証する時がきます。

自分の行いが、人を幸せにしたり、社会を良くしたのを知り、喜びに満たされます。

喜びとともに、魂は一歩向上します。

自分の行いが、人を不幸にしたり、社会に迷惑をかけたのを知り、後悔します。

後悔とともに、魂に負債(カルマ)が生じます。

すべての想いや行いが、細大もらさず勘案されます。

大事なのは、生まれる前の魂に比べて、死んで向こうに行った時の魂が、少しでも向上していることです。

少しでも向上していれば、この世を生きた意味があったことになります。

家族や社会のために、自分を犠牲にしながら、一所懸命に生きてきた人は、何の苦労もなく、楽しく気ままに生きてきた人より、幸せです。

なぜなら、自己犠牲は愛の表現に他ならず、その努力により、魂の向上が得られているからです。

この世に生まれてきた目的を、より成就したことになるからです。


人はどうして、つらい試練を乗り越えようとするのでしょうか?

そのことに、どんな意味があるのでしょうか?

誰かに言われたから、そうしているのではありません。

苦しい経験、つらい経験、悲しい経験の中で、悪戦苦闘し、奮闘努力することで、魂が向上することを、真の自分が知っているからだと考えられます。

この世では、魂を表現するために肉体をまといます。

想いを、肉体を使って、言葉や行動で表現しなければいけない、とてもわずらわしい世界です。

自分の想いを、言葉や行動で、完璧に伝えることはできません。

肉体は、魂の想いを表現するのに、あまりにも不完全な道具です。

言葉を駆使しても、どんなにうれしいのか、どんなにつらいのか、どんなに悲しいのかを、人には伝え切れません。

しかし、相手が何も言わなくても、喜びや悲しみに共鳴して、笑ったり、泣いたりすることがあります。

それは、言葉を介さず、相手の想いが自らの魂へ、直接伝わったためと考えられます。

言葉よりも、はるかに鮮明で、強烈です。

次の世界は、魂の世界であるため、このような想いのやりとりが常に行われていると考えられます。

言わなくても分かり合える、想いを共有できる世界です。

この世では、権力のある者、地位のある者、あるいは富のある者が、強者とみなされることが多いと思われます。

次の世界では、より愛を表現できる人が、真の強者であり、上に立ちます。

恵まれない人に、手を差し伸べて、やさしくできる人が、真に偉い人であり、上に立ちます。

より愛を表現できる人、やさしい人が上に立つのですから、神の愛が上から下へと、満遍なく行き渡り、世界は平和そのものとなります。

争いなど、起こるはずはありません。

お互いがお互いのために奉仕をして、悦びを感じる世界です。

それを天国と言うのかもしれません。

この世と、次の世界は、どちらが素晴らしい世界なのでしょうか?

答えは、はっきりしていると思います。


肉体は魂を表現する道具(媒体)です。

魂は、肉体を超えた次元で存在しています。

自分を犠牲にしてまで、相手を思いやるのは、肉体を超えた愛が存在するからです。

肉体を超えた愛の想いは、肉体を超えた魂から生まれます。

愛の存在を確信できる人は、魂の存在も確信できるはずです。

生命は、肉体とともに消滅してしまう、はかないものではありません。

炎により肉体は焼かれて骨に変わっても、生命である魂は、何も変わりません。

死んだら、自分の意識はどうなってしまうのか?

意識は頭脳からではなく、魂から生まれます。

頭脳は意識を表現するためにある、司令塔です。

したがって、肉体(頭脳)がなくなっても、意識はそのままあり続けます。

無になってしまう心配は無用です。


この世では表現媒体である肉体が、あまりにも重すぎるために、どうしても意識が肉体に向いてしまいます。

魂は肉体の奥に埋もれてしまい、意識しなくなります。

魂から生じた想いは、頭脳から生まれた思考により、掻き消されてしまうことが多くなります。

魂は神の一部であるため、しきりに愛を表現しようとしますが、肉体や自己の要求が強くなると、それに負けてしまうことが多くなります。

この世を生きているのは、肉体で愛を表現して、魂を向上させるためです。

大切なことを忘れてしまったのでは、この世を生きる目的が果たせなくなってしまいます。

大切なことを忘れかけると、神の摂理である因果律の働き、不幸と言われる、苦難が生じます。

苦難には相応の苦痛が伴いますが、その苦痛が忘れかけていた、最も大切なことである生命(魂)や愛を呼び覚まします。

苦難が、魂を目覚めさせ、本来の姿に戻し、向上させるためにあるとしたら、それは不幸なことであるはずがありません。

苦難の最中では、そう思う余裕はとてもありませんが、次の世界に行けば、苦難の真の意味を知ることになります。

摂理の完璧さに驚嘆するとともに、神の愛に感謝するようです。


すべての人に、肉体の死は訪れますが、死ぬ間際は外からは見るより、本人は苦痛ではないようです。

死を迎えて、穏やかな顔になる人が多いそうですが、それは疲弊した肉体から解放され、自由になった喜びの顔ではないでしょうか。

死は別れであるとともに、再会です。

一足先に向こうに行き、今か今かと待ち構えていた、愛する人との再会があります。

愛で結ばれた者同士に、別れがなかったことが証明されます。

神を信じていなかったとしても、その歓びを、きっと神に感謝すると思います。

そして、この世に残してきた愛する人を、次の世界から見守ります。

言葉でなくても、魂から魂へと、想いがうまく伝えられれば、愛する人を導くことができます。

肉体に包まれて良く分からなかった生命の真の姿を、目の当たりにします。

そして、愛がすべてを動かしている、崇高な神の力であることを知ります。

この世の先に待ちうけているのは、ありのままが表現される世界です。

死は、大きな変化には違いありませんが、怖れるものではないのは確かです。





2014年7月21日月曜日

想いを手放してガンを手放す



7年前に、人生で最も屈辱的な経験をしました。先が全く見えなくなり、言い知れぬ不安な日々を過ごしました。

しかし、すべての原因は私にあり、蒔いた種は、自らが刈り取らなければいけなかったのです。

今までのブログで、幼少期のつらい出来事が、ガンの根本原因の1つとなっていて、その表現されなかった想いが、時を経て、肉体上に表れたものであると書きました。

幼少期の子供に、落ち度や責任があったとは、とても思えません。

もしかしたら、知ることのできない、さらに過去の自分に、原因があるのかもしれません。



ガンは、表現されなかった想いが原因であるという根拠は、自分の想いが、ガンに大きく影響を与えるという事実があるからです。

恐怖や不安を感じると、ガンはその想いに反応し、活性化して、痛みが増強してしまうようです。

その逆に、心穏やかに過ごすと、ガンも大人しくしてくれるように思います。



自分の想いに敏感に反応するのは、何を意味するのでしょうか?

医学的には、恐怖や不安を感じると、交感神経が優位になり、免疫機能が抑制されて、NK細胞の活性が低下して、均衡が崩れて、ガンが増殖を始めると考えられます。

霊的には、恐怖や不安に反応して、あの時の想いが呼び起こされてしまうために、肉体に反映されているガンが活性化してしまうと考えられます。

「怖い、助けて」、あの時の想いと全く同じです。

あの時のつらい思いをした自分は、安心と愛情を、ひたすら求めています。

穏やかな心でいれば、安心しています。

自分の想いに敏感に反応するのは、あの時の想いが魂のありさまを変えて、ガンとして肉体に表れているからであり、ガンを進行させないためには、恐怖や不安を寄せ付けずに、穏やかな心でいることが何よりも大切と思われます。



しかし、どんなに穏やかに生活をしていても、ガンは治るわけではありません。

治癒のためには、あの時の表現できなかったつらい想いを、どうしても手放さなければいけません。



そのためには、あの時の自分に会うことが必要です。

あの時の自分が、あの時の想いを生じさせたからです。

一般的に、過去の自分の記憶や想いを表在化させるためには、退行催眠が必要と思われます。そのためにセラピストの元を訪れなければいけません。

しかし、病気は誰にも頼らないで、自分の力で治せるものだと考えられます。



では、あの時の自分に会うにはどうすればいいのでしょうか?

落ち着く場所で、一人静かになり、目を閉じて、考えること、思うことをやめて、心を穏やかに、しばらく待ちます。

頭の働きが低下している、眠りに入る前や、起きてから間もない頃が、最も良いのかもしれません。



そして、あの時の自分を思い浮かべて下さい。

あの時の自分の外見を、記憶の中で思い出すのではなく、少し遠くから、知らない人になって、眺めるようにして下さい。

近い頃の、自分の写真があれば、もっと良いでしょう。

その写真に写っている、あの時の自分を、じっと見つめます。

良く見てください。

あの時の自分が、そこにいます。

何も知らない、幼くてかわいい自分です。

何か悪いことをしたのでしょうか?

そんなことは、何もしていません。

ただ、幼いだけです。

小さいだけです。

心の中で、声をかけてみましょう。

「あなたは、何にも悪くないよ」

それは、事実です。

「あなたのことを一番知っているのは、この私だよ」

「だから、安心して、大丈夫だから」

「何も怖くない。もう大丈夫」

「とてもつらい想いをしてたね」と言って、心の中で、思いっきり抱きしめましょう。

愛を込めて。

「あなたのつらい想いが、やっと今、分かった。」

「寂しかったね。苦しかったね。泣きたかったね。」

「もう大丈夫、私がいるから」

「私が代わりに、いつもいてあげる」

「もう一人にさせない」

「安心して」と。

心の中で、あの時の自分にかける言葉を、例として書きましたが、あの時の自分をやさしくする気持ち、いたわる気持ちがあれば、表現は何でも良いと思います。

あの時の自分を慰めてやり、安心させてやりましょう。



もし、あの時の自分が、今の自分に心を開いてくれたのなら、あの時の想いが伝わってくるはずです。

こみ上げてくる、表現されなかった想いを、しっかりと感じることができるはずです。

それは、苦しかった、悲しかった、寂しかった、悔しかった、魂に封印されていた、あの時の想いが解放された証拠です。

涙を流すことで、想いが表現されるかもしれません。

泣きたければ、思いっきり声を上げて泣きましょう。

あるいは、感情が昂ぶり、怒りや、悔しさとして、想いが表現されるかもしれません。

あの時の幼かった自分に代って、今の自分が泣いたり、怒ったりして封印されていた想いを表現しています。

今の自分を通して、あの時の想いが、解放されています。

毎日、少しずつでいいですから、あの時の自分を思い浮かべて、やさしく抱きしめて、愛してやりましょう。

そして、あの時の想いを、感情として表現して、解放させてやりましょう。



あの時の、つらい思いをした自分を救ってやれるのは、ガンでつらい思いをしている、今の自分しかありません。

ガンは、肉体を死に至らせる病ではなく、あの時のつらい想いを解放させ、本来の自分を取り戻すためにある、神の摂理です。



神は愛です。

つらい出来事を経験した幼い子供に、時を経て、追い打ちをかけるように病気にさせて、ただ苦しみを与えるようなことはしません。

つらい出来事によって生じてしまった想いを、ガンという深刻な病気を通して気付かせ、解放させ、魂を本来の姿にもどすためにあります。

あの時の自分のつらい思いは、病気になりつらい思いをしなければわかりません。

前のように生きていたのでは、あの時のつらい思いをした自分に気付くことは、まずありません。

もし、気付いたとしても、あの時の想いを、分かち合い、解放することはできません。

どんなにつらかったのか、理解できないのですから。



解放されない想いが、どれだけ魂に重大な影響を与えているのか、この世を生きている私達には良くわかりません。

魂は生命であり、真の自分です。

それを少しでも向上させるのが、私達に与えられた責務です。

この世に生まれてきたのは、魂を向上させるためであり、愛を表現することで成就されます。

愛を表現することが、最も大切であり、それ以上のものは存在しません。

解放されない想いは、ありのままの自分を表現する、大きな妨げになっています。

本当の自分は、もっと愛を表現できるはずなのに、その想いが足かせとなり、できなくなっています。



永遠に生き続ける魂にとって、この世の人生は、ほんの僅かな時間ですが、愛を表現できなければ、無意味なものとなってしまいます。

想いを手放すことは、この世を生きる目的を果たすために、絶対に必要だったのでしょう。

すべてのことに意味があり、「愛」を中心に考えれば、納得の行く意味が、必ず見つかると思います。

ガンという病気になったのは、愛の大切さに気付くためです。

そして、あの時の想いを、あの時の自分と分かち合うために、苦痛の経験が必要だったのです。

あの時の自分は、閉じ込められて、愛を求めています。

愛されなかったあの時の自分を、愛の大切に気付いた今の自分が愛すればいいのです。

そして、愛により封印された想いは手放されるはずです。

あの時の自分を見つめながら、愛を送って下さい。

慰めて下さい。

つらい出来事を耐えたことを、無条件に褒めて下さい。

想いが手放されれば、魂は本来の姿を取り戻していき、肉体はそれに追従し、病気は癒やされてくると考えられます。

ただし、忘れてはならないことがあります。

それは、今の自分の病を治すために、あの時の自分を愛するのではなく、あの時の自分に心から同情し、共感し、いとおしむ想いから、愛さなければいけません。

あの時の自分のためにです。

それが、今の自分はできるはずです。

なぜなら、痛みに耐えて、十分に苦しんできたからです。



これまでのことを、信じていただけるかわかりませんが、本当に病気が良くなってもらいたくて、書いてきました。

私の知識や思考からではなく、向こうの世界からのインスピレーションと考えて下さい。

あの時の自分を、思いっきり愛する。

「あなたのことが、私は大好き」

こんなシンプルなことで、ガンが良くなってくるのであれば、私も驚きです。

試した人は、まだいませんので、結果がどうなるのかはわかりません。

ただ、失うことは、何1つありません。騙されたと思って、どうぞやってみて下さい。



愛がすべてであり、すべてが愛です。

あなたの苦しみ、痛みが少しでも癒やされることを、心から祈っています。




参考ページ: 「ガンは愛により癒される」













2014年7月17日木曜日

あの時の想いを手放すために



ガンという病気の根本原因は、表現されなかったつらい出来事から生じた想いであり、つらい出来事とは、幼少期に同性の親から受けた拒絶ではないかと、前回のブログに書きました。

その時の、想いが魂のありさまを変えていき、長い時を経て、ガンという形で肉体上に表れたと思います。

魂は、すべてのことを承知の上で、母体に宿り、地上に誕生します。

魂は自分の親がどんな人か、生まれ育つのはどんな家庭かを、知っていた訳です。

当然、生まれてから親との関係についても、およそ分かっているはずです。

幼い時に、親から冷たくされたり、あるいは拒絶されたりするかもしれないのも、分かっていたと思います。

それでも、その親を選んで生まれてきたのは、何かしらの意味があるはずです。

この世に生まれてきたのは、魂を向上させるためであり、そのためには、今の親である必要があったのでしょう。

親子の関係が、どうしてもうまくいかないのは、子供や親の性格が悪かったり、合わないのではなく、お互いに理解しあい、許しあうことを、この世で学ぶためであったのかもしれません。

もしガンが、つらい出来事から生じた想いの結果であれば、この世で、この病気を乗り越えていくことは、あらかじめ決められたことなのかもしれません。

最近、いろいろな本を読んでいますが、親との関係はもっとも近く、しかも親密なために、子供の心や魂に与える影響は、計り知れないものがあると感じています。

ガンを治すのには、想いを手放さなければいけない、出来事を許さなければいけないと思っていますが、そんな生易しいものではないことは確かです。

ガンという深刻な病気になるほど、つらい想いだったのでしょうから。

医学的には、ガンは異型の細胞が際限なく増殖して、肉体に死をもたらす病とされています。

しかし、霊的には、肉体は魂に従うため、魂のありさまの変化が、肉体上にガンとして表れたと考えられます。

ガンは、魂のありさまを変えてしまった、表現されなかった自分の想いに気付かせるためにあると考えられます。

苦痛の経験は、想いを手放すために必要と考えられます。

もし、つらい想いが時を経てガンとして表れたのであれば、つらい出来事が起きた時の想いと、ガンにより生じた想いは、似かよっているかもしれません。

ガンを告知された時の絶望感は、つらい出来事が起きた時の絶望感と同じなのかもしれません。

ガンの肉体上の痛みは、つらい出来事が起きた時の、心の痛みの反映かもしれません。

ガンの恐怖は、その時に味わった恐怖かもしれません。

ガンの不安は、その時に味わったの不安なのかもしれません。

うまく表現できなかった絶望、苦痛、恐怖、不安な想いが、時を経て、ガンとなり表現されています。

その時の、張り裂けそうな想いは、ガンとなり張り裂けそうな想いとして表現されています。

奥底の自分の想いに気付いて欲しいために、形を変えて肉体にガンとして表れた、魂の叫び、魂の訴えだと思います。

封印された想いは、誰にも知られることはありませんが、魂はいつも手放したがっています。

なぜなら、想いはありのままの自分を表現することの妨げになっているからであり、魂に流れ込む神の愛を表現する制約となっているからです。

想いを手放すため、出来事を許すためにはどうすればいいのでしょうか?

あの時の自分に、心の中で会いに行きましょう。

あの時の記憶を思い出すのではなく、道端で泣いている、見知らぬ子供のそばに行って、「どうしたの?」と尋ねるように、あの時の幼かった、もう一人の自分に言ってみましょう。

「大変だったね。つらかったね」と。

そして、心の中で、思いっきり抱きしめてやりましょう。

つらい想いをしても、何もできなかった、涙さえも流せなかった、あの時の自分を抱きしめながら、「もう、大丈夫だから、安心して」と慰めてやりましょう。

今、ガンになり、つらい想いを経験しているのは、つらい想いをしているあの時の自分を理解するためです。

つらい経験をしている、今の自分であれば、あの時の自分とともに、悲しみ、怒り、痛みを分かち合えるはずです。

全く同じ想いなのですから。

一人ぼっちで悩み、苦しんでいたあの時の自分を、救えるのは、一人ぼっちで悩み、苦しんでいる、今の自分しかいません。

幼かったあの時の想いを、今の自分であれば、解放させてやることができます。

今の自分は、ガンで十分に苦しみや、痛みを味わってきたため、あの時の想いを、あの時の自分に代わって、張り裂けそうな想いを、言葉や感情で、素直に、ありのまま表現してやることができるはずです。

ガンにならなかったら、怒りなどの感情に阻まれて、あの時の自分に会うことはできません。

あの時の自分は、「お母(父)さんがいなくなっちゃった」と泣き叫びたいのかもしれません。

お母(父)さんは生きていても、心の中にいなくなってしまったのかもしれません。

あの時の自分に会って、お母さんのようにやさしくしてあげて下さい。

それだけ、あの時の自分は、つらい想いをしてきたのですから。

あの時の自分を、存分に愛してやって下さい。

強く抱きしめてやって下さい。

慰めてやって下さい。

あの時の自分の想いは、あの時のまま、魂に閉じ込められています。

閉じ込められた想いは、あの時の自分の想いであり、今の自分の想いではありません。

今の自分は、あの時の出来事を許すことはできません。

あの時の自分だけが、あの時の出来事を許すことができます。

あの時の自分だけが、あの時の想いを手放すことができます。

あの時の自分に寄り添い、慰めて、愛してあげられるのは、今の自分しかいません。

つらい想いをした、あの時の自分を、溢れる愛で、包み込んで下さい。

あの時の自分を、今の自分が愛することで、出来事は許され、想いは手放されます。

ガンという病気で苦しみ抜いた、今の自分だからこそ、できるはずです。




参考ページ: 「ガンは愛により癒される」






2014年7月9日水曜日

「ガン ‐希望の書」を読み終えて



リズ・ブルボーの「ガン-希望の書」(ハート出版)を読みました。

著者は霊的真理にも精通していると思われ、ガンは肉体の病気ではなく、ハートからのメッセージであることを、ガンは愛によって癒やされることを、多数の患者さんの治癒の経験を通して学ばれました。

ガンを克服したいと願いう患者さんに、自らの経験や知識を惜しみなく授けようとしているのが、良く分かりました。



ガンは表現できなかった、つらい出来事が根本原因になっていると思っていましたが、リズ・ブルボーは「同性の親からの拒絶」から始まると、言い切っていました。

同性の親から拒絶は、子供の魂にそれほどまでに、影響を与えるのでしょうか。正直、私にはわかりません。

子供の頃、親からは毎日のように怒られていましたが、傷にはなっていません。

幼少の頃は、親は絶大な存在です。

親に頼らなければ、生きていけません。

すべてを信じ、すべてを委ねる存在です。

その親から拒絶されたのであれば、持って行き場のない、強烈な想いが生じるのは、何となく想像できます。

そして、魂が深刻な影響を受けて、時を経て、ガンになっていくのかもしれません。



数年前の出来事を、思い出しました。

私の同級生の友人と奥さんが、クリニックの患者さんとして通院していました。

人も羨むような、仲の良い夫婦です。

治療が終わり、挨拶をしようとしたら、奥さんは治療用のいすに座り、まっすぐ前を見ていました。

そして「病気になったので、しばらく通院できなくなりそうです。」と言われました。

「どうしたのですか?」と尋ねたところ、

「悪い病気みたいです。」と、淡々と話されました。

夫である友人は医者であり、後日連絡して聞いたら、ガンでステージⅣと言うことでした。

腰痛を訴えていて、ガンが背骨に転移していて、最初に見つけたのは、友人でした。

友人の勤務先の病院に入院し、手術は適応外のため、抗ガン剤治療が始まりました。


少しでも良くなってもらいたかったので、私は友人夫婦にヒーリングについて話をしました。

友人は信じられないという感じでしたが、奥さんには喜んで同意してもらえました。

週1回日曜日の午前中に、ヒーリングをすることになりました。


友人夫婦には、小学生の子供が二人いました。

新居も建築中であり、家族とともに新しい住まいでの生活を夢見ていました。

そんな時に、突然のガンの宣告、しかもステージⅣ。

奥さん、友人の心境は、とても想像できません。

奥さんの性格は、明るく、前向き、そして快活であり、病気とは無縁に思えました。

社交的で多くの友達が周りにいて、スポーツも大好きで、ガンになる原因はどこにも見当たりません。

どうして自分がガンになったのか、子供を育てているこの時期なのか、本人が1番納得いかなかったでしょう。



入院先の病院から抜け出して、私の仕事場にヒーリングを受けに来ましたが、しばらくはステージⅣには見えないほど元気でした。

ある日のこと、ヒーリングが始まってしばらくすると、奥さんがポツリと言いました。

母親からいつも「〇〇、〇〇」と言われ続けていましたと。

具体的に書くのは控えますが、女性が言われて最も傷つく言葉の1つだと思われます。

怒りや、悲しみを通り越して、あきらめに近い表情で話をしていたのが、印象に残っています。

何で私に、そんなことを話すのかと思いましたが、ヒーリングで霊的な力が流入し、魂が優位になっていると思われ、魂に刻まれた、子供の頃のつらい出来事が呼び戻されて、話したくなったのだと思います。

その時は、ずいぶんひどいことを言う母親だと思いはしましたが、そんな大したことではないと思い、聞き流してしまいました。



奥さんの病状は、家族の願いや医療スタッフの努力にもかかわらず、日に日に悪くなっていきました。

日曜のヒーリングにも、来られなくなりました。

しばらくして連絡したところ、脳に転移して大変つらいと話をしていました。

周りの人が驚くくらい、気丈に、前向きに頑張って、完成した新居に戻り、家族とかけがえのない時間を過ごすこともできたそうです。

すごく、うれしかったでしょう。

許されるのであれば、このまま家族といたかったでしょう。

しかし無情にも、愛する子供たち、友人を残して、次の世界に旅立って行きました。

38歳でした。

その日は、夫である友人の誕生日でした。

神が、その日まで生きていることを、許しました。

夫である友人に向けて、強いメッセージが込められていると感じました。

「私を忘れないで欲しい」というよりも、「私を愛してくれて、本当にありがとう」だと思いました。

目には見えなくなっても、子供や友人に寄り添い、あたたかく、時にきびしく、見守っているのは間違いありません。



他のガン患者さんがどうなのか知ることはできませんが、私の身近にいた人は少なくとも「同性の親からの侮辱的な拒絶」は受けていたと思われます。

なぜ、同性の親なのか疑問に思いました。

愛されたいと思う親から、拒絶された時の想いは、経験しなければわかりません。

同性の親は、数十年先を行く、未来の自分に近い存在であり、手本となる立場です。

同性の親の中に、自らが向かうべき方向や、将来の姿を見出していくのかもしれません。

人に分かってもらえないことでも、母親にわかってもらえれば、気持ちは落ち着きます。

そんな母親から、侮辱や拒絶のメッセージを受け取ってしまったのですから、逃げ場はありません。

本人にとっては、きっと耐えられない、気持ちが張り裂けそうな出来事だったのでしょう。

強い自己否定感が生まれてしまっても、おかしくありません。

もし私が同じ経験をしたら、自分の中に否定的な想いや、親に対する怒りや憎しみが、生じてしまうと思います。

幼少期であれば、大人のように怒りとか悲しみを、言葉や表情や行動で、うまく表現できるはずはありません。

できることといえば、泣きわめくくらいです。

母親からの「侮辱的な拒絶」は、泣くこともできない、あまりにつらい出来事だったのでしょう。

それが、幾度と無く繰り返されて、表現できなかった想いは、積み重なっていったと考えられます



他の人には分かってもらえない、苦しみや葛藤を、子供の頃から抱えていたことになります。

もし、その時のつらい想いを、言葉にして表現してもらって、少しずつ手放せていけたのなら、どう変わっていたでしょう。

自分を許し、母親を許すことができたとしたら、向こうに行かずに済んだのでしょうか。

今となっては、知ることはできません。



ガンは魂のありさまの変化が、肉体のありさまの変化として表れたと考えられます。

魂のありさまを変えたものは、過去のつらい出来事から生じた、表現されなかった想いと考えられます。

もう忘れてしまっているかもしれませんが、同性の親からの拒絶がなかったか、振り返える必要があります。

もし、そんな経験があったとしたら、幼かったために、想いは表現されずに滞ってしまっていると考えられます。

時を経て、子供ができて育てる立場になった時に、その出来事が再び呼び起こされて、同じ想いが積み重なっていったとしても、おかしくはありません。

そして、魂のありさまを変えるほど、想いがうっ積してしまい、肉体にガンとして表れたのかもしれません。

魂は自分のものであり、すべての責任を負わなければいけません。

ガンはその想いに気付き、手放し、魂を浄化させるためにあると思います。

ありのままの自分を許し、より大きな愛を表現するために、存在していると思います。

いたずらに苦しめたり、死に至らせる病では、決してありません。



過去(幼少期)に生じた想いを手放し、つらい出来事を許すことは、ガンを治すために避けて通れません。

しかし、想いは深く根を張っていて、そう簡単に手放したり、許すことはできないと考えられます。

ガンが治りにくいのは、想いを手放したり、許したりすることが、とても難しいからだと思います。



もし、想いを手放し、許すことができたのなら、奇跡のようなことが、現実に起こるような気がします。



現実に起きているので、そのことを伝えたくて、この本を書かれたのでしょう。

内容は難しく感じるかもしれませんが、真実を語っていると、直感的に思いました。

素直に信じて、実践する価値はあります。

この本を、私は支持します。



<追記>2014年12月16日
「がんが自然に治る生き方」 ケリー・ターナー(著)プレジデント社が出版されました。ガンを克服した人の、実体験に基づく病気に対する考え方や、根本的な治し方が、分かりやすく書かれていますので、とても参考になると思います。是非、読んで下さい。




参考ページ: 「ガンは愛により癒される」

        「ガン(癌)は怖くない!」

                        「想いを手放してガンを手放す」

                      「ガン(癌)の真相」










2014年7月3日木曜日

ガンの正体を知る

今まで、ガンという病気について、度々書いてきました。

ガン細胞には、遺伝子の変異が認められます。

しかし、変異を起こす主因は、未だ突き止められていません。

細胞分裂は、人の意志とは関係のない、自然の営み、神の営みにより行われます。

ガンが細胞分裂時のコピーミスということであれば、神の営みにミスがあったということになります。

もし、神の営みのミスということであれば、1つの受精卵から、細胞分裂を繰り返し、精緻な人体を造り上げていくことは、とても不可能です。

神の営みのミスではなく、神の営みの一環、神の摂理として、遺伝子に変異が生じたと考えた方が正しいと思います。

ガンの原因として、タール、ベンツピレン、ニトロソアミン等の発ガン物質、また放射線の被爆があります。遺伝的素因も確実に影響しているでしょう。

しかし、私の祖父はヘビースモーカーでしたが、ガンにはなりませんでした。

私の友人の奥さんは、タバコも吸わず、健康的な生活をしていましたが、ガンになりました。

それだけでは説明できない、何らかの要因があるのは明白です。


悲しければ泣き、うれしければ笑う、絶え間なく、内(魂)にあるものが、外(肉体)に表現されています。

魂のありさまの変化が、肉体の変化として表れているのが、ガンと考えられます。

魂のありさまを変えてしまったのは、過去のつらい出来事から生じた、表現されなかった想いと考えられます。


ここで、疑問がわきました。

魂のありさまを変えてしまうような出来事とは、どんなことだろうか?

1つの答えが、1冊の本の中にありました。

リズ・ブルボ‐というカナダ人が書いた、「ガン ‐希望の書」(ハート出版)という本です。出版されたばかりです。

その出来事とは、「同性の親からの拒絶」と言うことです。

30年にわたって、多くのガン患者さんを治癒に導いてきたので、書かれている内容は確信に満ちていて、きわめて納得のいくものでした。

「ガンを含めたあらゆる病気の背後には、肉体を超えた原因が存在する」、「ガンを人生における大切な〈学び〉の機会とみなす」と、述べられています。

表現は違っていても、同じことを伝えようとしているのがわかり、すごく安心しました。


そして、こんな疑問もわきます。

どうして、つらい想いを過去にして、(それを表現できずに)我慢した人がガンとなり、さらにつらい思いをしなければならないのか。

それは、本当はもっとたくさんの愛を表現できる人なのに、その出来事から生じた想いに縛られているために、できなくなってしまっているからなのかもしれません。

本当は愛を表現することに喜びを感じる人なのに、愛を表現するのを避けてしまっているからなのかもしれません。

ありのままの自分を認めていないために、ありのままの自分を表現できなくなってしまっているからなのかもしれません。

愛を表現することは、生きている意味そのものなので、自分を変えていかなければいけません。

変えていくためには、その出来事を許し、想いを手放さなければいけません。

その出来事を許し、想いを手放すためには、大きな愛の力が必要です。

愛の力は、自分で作るものではなく、神からの流れ込む(生命)力です。

他者に愛を表現することで、神からの(生命)力は、魂に流れ込みます。

愛することで、愛されます。

愛することで、癒されます。

人を、もっと愛するためには、自らの魂が向上していかなければいけません。

魂を向上させるためには、苦難を乗り越えていく経験と、愛の大切さに気付く経験が必要となります。

ガンによる肉体的、精神的苦痛は、経験した人でなければわからないほど、つらいものだと思われます。

つらい苦痛に耐え、不安や恐怖との闘いの中で、少しずつ魂は向上していきます。

そして、追い詰められて、逃げ場がなくなった時に、眠っていた魂がようやく目覚めます。

つらいでしょうが、それが神の摂理です。

魂は生命そのものであり、神の一部であるため、魂に目覚めると(神の心である)愛の大切さに気付き、しきりに表現したくなります。

感謝の思いも、形を変えた愛の表現です。

愛を表現していくことで、神から愛が流れ込み、その愛の力により、出来事が許されて、想いが手放されます。



魂に深く突き刺さっている矢に、本人も気付かずにいることがあります。

魂に矢が突き刺さっていることを知らせているのが、ガンという病気の正体であり、矢を引き抜くためには、相応の苦痛が伴います。

魂に矢を打ち放った人を許すことで、矢を引き抜くことができ、魂の傷は癒やされていきます。

許すことで、許されます。



人生がこの世で終わると考えると、つらい想いをして、つらい病気になるのは、きわめて不公平、不平等と思われますが、生命は魂であり、次元をまたいで生き続けます。

向こうの世界は、魂の世界であり、想いがすべてです。

魂が、愛の想いを放っていることが、最も大切です。

もっとも美しく、眩しい光を放っているのは、愛に満ちた魂です。

向こうの世界に行けば、誰もが愛の想いを放つことができるわけではありません。

憎しみを抱いたまま死ねば、向こうの世界でも憎しみをいだいたままです。

病気にならずに、怒り、憎しみ、恨みを抱いたままよりも、病気になり、たとえ苦しい思いをしても、愛の大切さに気付いて、愛の想いを抱き、表現しながら、この世を去っていった方が、生まれてた意味を成就しています。

周りに感謝し、生きている喜びを噛みしめ、愛の想いを表現するほど、幸福を感じることはありません。

神の摂理に適っているからです。

怒り、憎しみ、恨みの想いを、できるだけ愛の想いに変えるために、悩み、苦しみ、痛みを感じながらも、弛まぬ努力をしていくのが、この世に生まれてきた大きな目的だと思います。


もし、ガンにならずにいたのなら、生命や愛の意味を、これほどまでに知ろうとしたでしょうか。

生命や愛の意味を知ることは、この世の命をかけてまでも、大切だと言うことになります。

生命は神の愛を表現するために存在し、より高く、純粋な愛を表現するために、生き続けています。


この世のさまざまな経験は、愛の大切さに気付き、愛を深く知り、より高い愛を表現するためにあります。

ガンは、苦痛の末に死に至らせる病ではなく、さまざまな経験の中の1つです。

ガンの正体を知り、受け入れることは、治癒に導くために、不可欠だと考えています。




参考ページ: 「ガンは愛により癒される」



2014年6月26日木曜日

かわいい動物たち




シルバーバーチの霊訓を読んで、意外に思ったことがあります。

それは、動物についてです。

地球上で最も進化した動物は人間です。

2番目に進化した動物は何でしょう?

答えは、犬ということです。

猿ではないのかと思いましたが、人間のそばにいて愛情を受けた犬が、猿を抜き去ったそうです。

3番目に進化しているのは、猫だそうです。

私は、進化というのは知性の発達だと思っていましたが、そうではないみたいです。

進化とは、知性ではなく、霊性の向上ということになります。

犬や猫が進化したのは、人間のそばにいて愛情をもらい、霊性が向上したためだと思われます。



霊界に行くと、肉体である頭脳はなくなり魂(霊)のみの存在となります。

従って、頭脳による思考はなくなり、魂から生まれる想いがすべてとなります。

この世では、知性が高いか低いかが重要視される傾向にありますが、向こうの世界では霊性がすべてを決定します。

頭の良し悪しよりも、やさしさや思いやりがあるかないかが、はるかに重要と言うことになります。

学歴、肩書きなどは、すべて剥ぎ取られてしまい、全く意味を持ちません。

人や社会のために、何をしてきたかが問われます。

魂を隠す肉体はなくなっていますので、魂はあらわとなり、どんな想いでいるのか、誰が見ても分かるようになります。

本音と建前はこの世だけであり、本音だけとなります。

表と裏のある人は、裏だけになります。

魂がむき出しになり、隠し立ては一切出来なくなります。

この世を去った後のことを考えると、今のうちから、正直に、ありのままに、誰から見られても恥ずかしくないような生き方をしていきたいです。



ところで、私は動物と一緒にいっしょにいるのが、とても好きです。

家には、しろという雑種の4才のメス犬がいます。

2回も保健所に収容されました。1回目は生まれてすぐに飼い主に捨てられて、2回目は新しい飼い主となった家から出て、1ヶ月の放浪の末に捕獲されて、いずれもぎりぎりのところで見つけ出しました。身ごもっていました。

しろは、自分の立場が良く分かっています。

自分が出戻ってきたこと、新しい飼い主が見つかれば、この家を出て行かなければならないことを、承知していると思います。

夜、仕事から帰ってきて部屋のドアを開けると、しろはソファに座っていて、いつもあたたかい穏やかな眼差しで迎えてくれます。

「おかえりなさい。ご機嫌はどうですか?」と語りかけているように感じます。

やさしい犬なのですが、疲れて帰った時には、背中を向けて撫でてくれと、私に訴えます。

何で疲れている時に限って、なぜ撫でてもらいたがるのか、しばらくは分かりませんでした。

しょうがないなと思いつつ、やや大きな背中を撫でてやります。

しばらく撫でているうちに、仕事で波だっていた気持ち、疲れて沈滞していた気持ちがほぐされて、穏やかな気持ちに変わっていくのが分かります。

しろの背中を、無心に撫でているうちに、1日のいやなことが忘れられて、代って愛おしむ気持ちが自然に湧いてきます。

犬や猫は、想像する以上に賢く、愛情深い動物だと思っています。

人の想いを瞬時に読み取り、どうすればいいのかがわかるようです。

しろは、撫でてもらいたいのではなく、疲れているのを見てとって、撫でさせることで、私の気持が良い方向に変わってくるのを知っていると思いました。

しろにしかできない、愛情表現だと思い、いつも感謝しています。

自分が受け取った愛情を忘れずにいて、自分なりに返そうとしているのだと思います。飼い主のために、役に立ちたいのかもしれません。

しろの背中を撫でてやるのは、神の摂理に適った愛情を表現する行為であり、そのため、神からの生命力が流れ込み、私が癒やされているのだと思います。

癒やすことで、癒される。

施すものが、施される。

神の摂理を、ささいな日常の出来事の中に、見つけたような気がしました。



犬や猫などの動物は、言葉や論理的な思考はありませんが、魂から生まれる想いはあります。

人間みたいに、想いと表現の不一致はありません。

建前はなく、いつも本音です。

想いを、素直に正直に表現しているので、気が許せて、かわいいのでしょう。

私は動物たちのように、過去を振り返らず、将来を心配せず、今を精一杯生きたいと思っています。

しかし、できそうで、なかなかできません。過ぎたことを後悔し、先のことを考えて悩み、それに縛られると、今を精一杯生きられなくなってしまいます。

少しずつ、克服していきたいと思います。



動物も人と同じ様に、喜びや悲しみ、怒り、怖れ、嫉妬の感情があります。

そのことに、全く気付かずに、あるいは気付いていても無視して、人間は信じられない行為をしています。

毎年、数十万匹の罪のない犬猫たちが、悲しみ、恐怖、絶望の果てに、ガス室で息絶えています。

向こうの世界で、傷ついた動物たちの魂は介抱され、徐々に落ち着きを取り戻していくのは、せめてもの救いです。

しかし、神の摂理に反した弱者を虐げる行為は許されるはずもなく、かかわったすべての人たちは罪を償わなければいけません。

犬や猫を飼いたいと思った時は、保健所や動物愛護センターに行って、生命を救って下さい。

その行為は、神の摂理と完全に一致しているために、動物たちとの幸せな日々が、きっと待っていると思います。

人間と動物を結びつけているのは、種を超えた愛であり、動物を守り、愛することは、進化の上に立つ人間の義務であり、その結果として動物から愛されます。

そして、動物を愛することで、神からも愛されるのではないでしょうか。
新しい飼い主が現れないので、親子3匹私の家族になりました。




参考ページ: 「人は動物を食べる生き物ではない」


参考ブログ: 「ヴィーガンと動物愛護、そして時々、霊的真理」胸が痛くなりますがこれが現実です。是非見て下さい。



              
骨折した子犬を支援して下さい(2017年3月)
 ⇩       ⇩       ⇩               
ありがとうございます!目標金額に達しました。
           ⇩           ⇩        
家族として迎え入れてくれる人を募集しています!(2017年7月)


ホープ・雄・7ヶ月(写真は4ヶ月当時)

     ⇩           ⇩        
家族に迎え入れてもらえました!!(2017年9月)       



2014年6月20日金曜日

神の摂理に合わせて病気を治す



世の中には、病気で大変つらい思いをされている方がたくさんいます。

医療に携わる人は、患者さんの健康を回復するために、日々研鑽、努力しています。

その努力にもかかわらず、日本において、30万人以上がガンにより亡くなられています。

根本的な治療を確立するためには、ガンの原因について解明されなければいけません。

ガン発症のリスク要因(喫煙、飲酒、肥満等)についての研究データは豊富にありますが、残念ながら、主因については、未だ解っていません。

主因が解らないまま、目に見えるガンを消滅させようとする治療が、多くの人に不利益をもたらしているように思えます。

ガンの主因を見つけられないのは、医学が対象としているものの中には、ないからだと思います。

人は、肉体と精神から成り立っていると考えられています。

しかし、精神(心)はどこから生まれるのか、解っていません。

大脳皮質における化学伝達物質の反応により生じるという説明では、とても納得することはできません。

膨大な脳の研究によっても、人の性格や考え方の多様性を説明することは不可能です。

生命とは何か?という根源的な問いに対しても、科学は答えを見出せずにいます。

生命、心の正体を突き止められないのは、科学が対象としているものの中には、ないからだと思います。

未知の領域である、魂(霊)に踏み込んでいけば、説明は簡単となります。

生命とは肉体を超えた魂であり、心は大脳からではなく、魂から生じるものであり、そのために多様性を持ちます。

そう考える方が自然だと思いますが、残念ながら、医者や科学者は、霊(魂)の存在を、認めていません。

触れてはいけない、入ってはいけない領域だと思っています。

しかし、霊と肉体は不可分であり、健康と密接に関わっていることは、明白な事実です。

その(霊的な)知識なしに、病気の本質を理解することは、不可能だと断言します。


人は肉体を超えた存在であり、生命力で生かされています。

肉体は土に還っても、生命は存続します。

その厳粛な事実を、謙虚に認めることから、すべてが始まります。

私はシルバーバーチの霊訓から、崇高な霊的真理を学びました。

多くの病気の根本原因は魂にあり、神から生命力が流れ込むことにより、病気が癒やされることを知りました。

途切れることなく、神から生命力が流れ込んでいます。

しかし、その実感はありません。

そのため、生命力の存在を信じるのは容易ではありません。

約7年前に、思いもよらず、治癒力が出現しました。

病気の人に、私の左手を置くとエネルギーらしきものが上腕から前腕、そして指先に伝導していき、患者さんに流れていくのを、はっきりと感じます。

そのエネルギーらしきものは生命力であり、患者さんに治癒力として働いていることを、経験を通して確信するに至りました。



過去のブログにもある内容ですが、ガンで苦しんでいる患者さんが、少しでも良くなることを願って、あらためて書きます。

目には見えませんが、魂は間違いなく存在します。

生命の本体であり、意識の本体です。

魂は、神の一部であり、神とつながっています。

魂は、神からに流れ込む(生命)力により生かされています。

生命力は神の力であり、神の心である愛を表現しようとする力です。

魂は生命力により、愛を表現しようとしますが、表現するには媒体が必要となります。

肉体は、地上の人が魂を表現をするための媒体です。

間断なく、魂から想いは生じています。

想いは精神を経由して、肉体で表現されます。

人は、肉体を使い、言葉、表情、行動により、想いを表現します。

この世を生きている人の魂は、さまざまな進化の過程にあります。

進化した魂は、神の力である愛を忠実に表現しようとしますが、進化が足りなければ愛が歪められてしまう時もあります。

怒り、憎しみ、恨み、妬みなどの想いは、神の力である愛が歪められてしまった結果です。

人は生きていると、思いもよらぬ、つらい出来事に遭うことがあります。

その出来事により、魂から様々な想いが生まれます。

想いは精神を経由し、感情となり、肉体(言葉や行動)で表現されますが、強い抑制がかかると、想いを表現できないことがあります。

つらい出来事から生じた、怒り、恨み、憎しみ、妬みなどの摂理に反する想いが、表現されずに留まると、やがて魂のありさまを変えていきます。

愛が歪められ、怒り、恨み、憎しみ、妬みを帯びた想いが、魂から生じるようになっていきます。

そのため、怒りやすくなったり、許せなくなったり、認めようとしなくなったり、協調しなくなったり、欲深くなったり、摂理に反した行いとして、表現されてしまいます。

摂理に反した想いを抱き、それを表現するのが習慣になってしまうと、過ちに気付き、自らの力で改めるのは困難になっていきます。

そして、神の摂理である因果律が作動します。

その結果として、病気が生じることがあります。

病気になれば、苦痛を経験しなければいけません。

苦痛の経験は、摂理に反した想いを抱き、表現した、相応の償いです。

償いであるとともに、魂を向上させていきます。

魂が向上すると、他者の想いを理解できるようになります。

愛の大切さに気付き、愛を表現するようになります。

神の愛を表現することは、魂を向上させることであり、生きている意味そのものです。

従って、病気は、生きている意味を取り戻すためにある、神の摂理と言うことになります。

ガンは、不運でも偶然でもなく、神の摂理によって生じます。

死に至らせるため、苦痛を与えるだけの病では、決してありません。

原因は魂にあり、肉体の病変はその結果を見ているに過ぎません。

魂のありさまの変化が、肉体のありさまの変化として表現されています。

もしかしたら、魂にありさまを変えてしまうような、とてもつらい出来事があったのではないでしょうか。

その記憶は薄れても、魂にはしっかりと刻まれています。

つらい出来事によって生じている想いは、固く、深く根を張り、魂にしこりとなっています。

想いを表現するのに、大きな障害となっています。

愛を素直に表現することが、どうしてもできなくなっています。

その人にふさわしい愛の表現ができるようになるために、魂にまで響く、深刻な事態が、神の摂理である因果律により生じます。

とてもつらいことですが、絶望の淵に立ち、耐え難い苦痛を味わい、頼るものは何もなくなり、観念しかけた時に、それまで眠っていた魂が、ようやく目を覚まします。

魂が目覚めると、生命が輝きだし、しきりに愛を表現しようとします。

愛を表現することで、神とのつながりがさらに深まり、より多くの生命力(神の愛)が魂に流れ込み、その力により、想いのしこりは徐々に消えていきます。

想いのしこりが消えていくととも、魂のありさまが変わり、やがて肉体のしこりも消えていきます。

想いを表すのに、さえぎるものは消えてなくなり、魂は本来の姿を取り戻し、その人にふさわしい愛を、素直に表現できるようになります。



病巣が消退していき、健康になり、前の生活を取り戻したいと望むのは当然です。

痛みとの闘い、恐怖と不安との闘いを、早く終わりにしたいと願うのは当然です。

愛の想いを抱き、愛の表現を出来るだけしていきましょう。

やさしくすること、思いやること、いたわること、慰めること、励ますことは、立派な愛の表現です。

許すこと、認めることも、自己を忘れた愛の表現です。

感謝の気持ちを表すのは、相手に喜びや満足を与えるので、大切な表現だと思います。しかし、慣れてしまうと忘れがちになりますので、注意して下さい。

笑顔も、人だけに許された、ささやかな愛の表現です。

しかし、病気になると、したくてもできないことが多くなってしまいます。

マザー・テレサは、こう言っています。

「私たちは、この世で大きいことはできません。小さなことを、大きな愛をもって行うだけです」と

感謝の想いを込めて、笑顔で「ありがとう」と言いましょう。もし、言えなければ感謝の想いを送りましょう。

自分なりに、自然に、素直に、愛を表現をしていきましょう。

神の摂理である愛を表現することで、より多くの生命力が魂に流れ込み、ありがたい自然治癒力となり働きます。

病気を治すために、からだを養生することは大切です。

それ以上に、神の摂理に合わせることは大切だと思います。













2014年6月12日木曜日

想いを表現する



今日は仕事が休みなので、いつもの障害者施設にボランティアに行ってきました。

ボランティアと言っても、話をしたり、一緒に遊んだりするだけです。

それでも、行くと皆さん喜んでくれます。中でも20代の男性であるH君は障害のない片手を上げて、満面の笑顔で迎えてくれますので、こちらが恥ずかしくなります。

彼は、小学6年生の時に、交通事故に会い、生死の境目をさまよいました。

向こうの世界には行かず、こちらに戻ってきました。

ご両親とご家族は、さぞ喜んだことでしょう。

しかし、肉体は大きく傷つき、半身不随、片眼失明、言葉を失い、車いすの生活となりました。知能の発達は止まってしまっている可能性が高く、会話をすることはできません。

脳は損傷を受けて、たとえ言葉を失っても、魂から湧き上がる想いは、健常者と変わりありません。

子供のような瞳を見ていると、その奥に彼の魂をしっかりと感じることができます。

目に見える肉体に障害があっても、目に見えない魂はいたって健全であることが、心やさしい彼と一緒にいると分かります。

そして、想いをうまく表現できないことが、いかにつらいことなのか、伺い知る時があります。

「嫌だ」、「やめて欲しい」、こんな簡単な表現ができないために、どれほどつらい思いをしてきたのか、想像もできません。

そんな彼には、大好きなお父さんがいて、時々週末には家に連れて帰ってくれます。それを何よりの楽しみにしています。

ある日、部屋で二人っきりになる時があり、日頃、感じていることを、思い切って彼に尋ねてみました。

「どうしても伝えたいことがあるでしょう?」

「分かるかもしれないから、良かったら伝えてごらん」と言いました。

想いは言葉を介さずに、魂から魂に伝わるものだと知っていましたので、大きな瞳を見つめながら、彼の想いが伝わってくるのを、静かに待ちました。

すると、「ありがとう」という感謝の想いを感じ取ることができました。そして、お父さんの面影が頭に浮かび上がり、結びつきました。

ためらうことなく「お父さんに、ありがとうと伝えたいの?」と聞いてみたところ、目から大きな涙が溢れてきて、大きくうなずきました。

受け取ったやさしいさや思いやりを、「ありがとう」という言葉で返すのは、礼儀を超えた、魂の素直な表現です。

日々、多くの恩恵を受けているのもかかわらず、感謝の気持ちを言葉にするのを、ついためらってしまう私は、この「ありがとう」の一言がどれほどの重みを持つのかが、あらためて分かりました。

周りから、いろいろな想いや行いを受けるばかりで、表現して返すことができない、彼のくやしさ、もどかしさは、計り知れません。

残念なことに、彼の身体は元には戻りません。言葉で表現するのは、これから先も無理でしょう。

しかし、肉体のない次の世界に行けば、想いのすべてを思う存分、お父さんに伝えることができます。

言葉という、もどかしい、あいまいな媒体は必要とせず、魂から魂に、想いを直接伝えることができます。

肉体が障害となり、伝えられなかった想いは、肉体がなくなることで、間違いなく伝えられるようになります。そんな事も、H君に話をしました。

表現の自由が限られたH君は、これから先も試練が続いていきます。

彼にとってどんな意味を持つのだろうと考えてみましたが、自由に表現できるありがたさを知るためとしか、思いつきません。

失うことでしかわからない大切なことが、あるのだと思います。

大切なものであればあるほど、試練は長く、こんなに厳しくなるのでしょうか。

何十年かして、一足先に向こうに行き、待っているであろう、お父さんと再会して何を伝えるのでしょうか。

言葉にすれば「お父さんがいたから、つらいけど乗り越えられたよ。本当にありがとう」でしょうか。

しかし、ずっと伝えられなかった想いは、「ありがとう」という言葉では表現し尽くせるものではない、強烈な愛の想いであり、魂と魂でしか伝わらないものだと思います。

今日のH君ですが、活動時間にしたボウリングで優勝しました。喜びは、しっかりと満面の笑顔で表現していました。

この世では肉体という、鈍重な媒体が使われているため、想いのすべてを表現することは、到底できません。

しかし、この世を生きているうちは、神から与えられた肉体と言葉で、想いを表現していかなければいけません。

さまざまな経験をするのは、魂を向上させるために避けらませんが、出来事がとてもつらく感じられてしまうと、人は早く忘れようとします。

しかし、頭では忘れたとしても、魂にはしっかりと刻まれていて、想いは生じています。

そして想いが滞ってくると、魂に流れてくる神の愛が堰き止められてしまい、肉体で素直に表現できなくなります。

魂は神の一部であり、神の心である愛を表現するために存在していますので、滞った想いは早く開放してやらなければなりません。

H君のように障害があり、つらい経験をしても想いをうまく表現できない人は、想いが滞り、病気になってしまうのではないかと思いました。

しかし、現実には感染症以外の病気にかかる人は、あまりいないようです。

想いを表現することができない人は病気にはならないで、想いを表現しようとしなかった人が病気になるのかもしれません。

人に伝えにくい想いは、いくらでもありますが、自分なりに精一杯、言葉や表情、あるいは行いで表現していくしかありません。

素直に、ありのままを、正直に。

とても難しいことですが、愛の想いに変えて。

H君を見ていて、そう思いました。


























2014年5月29日木曜日



ガンという病気は、怖くありません。

なぜなら、死に至る病でないからです。

100mの高所から落ちたら、肉体は大きなダメージを受け、間違いなく死に至るでしょう。

酸素ボンベを付けないで、水中に30分もいれば、溺死してしまいます。

肉体が、元に戻せない致命的な損傷を受けてしまうからです。

ガンは元に戻せない病気なのでしょうか。それは違います。

余命数ヶ月と医者から宣告された人でも、何年間も生きている人がいるのは事実です。

ガンが自然退縮していき、消滅した人がいるのも事実です。

これらの人は、医学的に説明困難なため、例外として扱われ、多くの人に知られることはありません。

ガンという病気を深く知る上で、きわめて重要な真実が、医学に頼らずに治癒した人達に隠されていると思いますが、多くの医者、研究者の興味はそこにはないようです。

少なくても、際限なく増殖を繰り返し大きくなっていくだけではなく、縮小あるいは消退もする、流動的な病であると言えます。

縮小や消退をするのは、偶然や幸運ではなく、何らかの法則に従って起こると考えられます。

何らかの法則を、突き止めることは、とても大切なことではないでしょうか。


以前のブログに書きましたように、私は仕事上で過ちを犯しました。

不正な行いで、行政処分を受け、信頼は失墜しました。

しかし、そんな中でも、励ましてくれる人、見捨てない人、支えてくれる人がいました。

思いやりや優しさの意味に、生まれて初めて気付いたと言ってもいいでしょう。

振り返って良かったと思うのは、「シルバーバーチの霊訓」に出会い、不運を嘆いたり、他人を恨んだり、絶望感に浸らなかったことです。

すべて、自分の想いや行いのせいであり、その報いを受けているのだと、心から思えました。

そして、乗り越えられない苦難はないと、固く信じました。

つらい想いを通じて、因果律というものが、身に沁みて分かりました。

十分に足りていたのにもかかわらず、まだ足りないと思い込み、たくさんのものを追い求めていました。

全く足りていなかったものは、人や動物を思いやる気持ちであり、協調することであり、流されない心、穏やかな心でした。

40歳半ばで、やっと本来の、自然な姿を取り戻したのかもしれません。

惰眠を貪っていた魂が、ようやく目を覚ましたようです。

もし、あの時、人生最大の不幸と嘆いてしまったならば、その想いに捕らわれて、抜け出すことはできなかったでしょう。

不幸な想いを周囲に撒き散らし、周りも不幸にさせて、孤独になっていったかもしれません。

自分を変えるため、大切なことに気付くために、鈍感な私には、衝撃的な出来事が必要だったのだと思います。


病気も、同じだと思っています。

自分の行いや想いが原因となり、結果として病気になります。

社会が法律によって治められているように、人の行い、言動、想いのすべては、神の摂理である因果律により支配されています。

人は欺けても、魂でつながる神を欺くことはできません。

法律による罰則を逃れることができても、因果律から逃れることはできません。

神の摂理に反する行いや想いが積み重なっていくと、魂のありさまは変わっていきます。

進むべき方向を見失い、生きる目的である、魂の向上は果たせなくなっていきます。

残念ながら、自分ではどうすることもできません。

そこで、心の奥深くで眠っている魂にまで響く、相当な衝撃が必要となってきます。

生命を脅かすほどの病気でなければ、生命である魂にまで届きません。


ガンと言う病気は、神の摂理である因果律によって生じた、言わば暗闇です。

今まで見えていた周りのものが、何もかも見えなくなります。

頼れるものは何もなく、独りになり、先の見えない不安、死の恐怖に、押しつぶされそうになると思います。

暗闇にいる時に、お金を欲しがる人はいません。

ただ、暗闇の恐怖を解消するものが欲しいだけです。

そんな時に、明りを持って来てくれたとしたらどうでしょう。

周囲は照らされて、暗闇はなくなり、不安や恐怖は追い払われます。

明りを渡してくれた人に、感謝せずにはいられません。


暗闇に実体はありません。

ただし、意味はあります。

光のありがたさ、大切さに、気付かせるという意味です。

明るい昼間では、明かりの光など、目に入りません。

楽しいこと、目立つものばかりが目に映り、見向きもされません。

本当につらいことですが、光は暗闇の中でしか見出せず、ありがたさはわかりません。

神が、光のありがたさを知るために、暗闇を用意したのは、間違いありません。

目に見えるものは、それほど大切ではありません。

目に見えず、触れることもできない光こそ、最も大切です。


暗闇により、大切でないものは、すべて見えなくなります。

そして、光は眩しく輝き出します。

暗闇を消滅させるものは、光しかありません。


光のありがたさに気付いたのなら、きっと夜明けは近いはずです。

なぜなら、暗闇の役割は終わったからです。

後は、朝が来るのを待つだけです。

よく言われますが、夜明け前が一番暗く、寒いです。

どんなに暗い夜でも、長い夜でも、漆黒の空が光で変わり始める瞬間が必ず来ます。

夜明けなんて来ないと思っていても、必ず夜明けは来ます。

光とは愛、神の心です。

生命とは魂であり、神の一部です。

苦しむだけ苦しんで、終わりになることは、決してありません。

暗闇は、光である愛に気付くために存在します。

従って、怖くはありません。

今までの苦しみにより、機は熟してきています。

もうすぐです。


















2014年5月22日木曜日

この世を生きる意味



この世の生は、長い道のりのほんの一部です。

過ぎ去ったこの世の人生しか、私達には分かりませんが、生まれる前にも生があり、肉体が亡くなった後も、生は続いていきます。

生まれる前の記憶は、魂の奥に仕舞い込まれて、この世で引き出すことはできませんが、明確な目的を持ち、自らが志願して、この世に生まれてきたのは間違いありません。

この国、この場所、この親、性別、およその人生の設計図、それらすべてを承知した上で、魂は母体に宿ります。



この世で、自分の足りないところを補うためであり、大切なことを学ぶためです。

前世で、どうしても果たせなかったことを、果たすためです。

前世で、神の摂理に反した悔やまれる行いを、償うためです。

特別な使命があって、生まれてきた人もいます。



様々な出来事に出会あったり、いろいろな経験をしますが、生まれる前に自分で自分に約束をしたことを果たすために、1つとして欠けてはならないのかもしれません。

必要だということになります。



昔、絵を描いた時のことを、思い出しました。

明るい色、好きな色ばかりで描いた絵は、なぜか深みがなく、単調で、表現は乏しくなってしまいます。

暗い色があってこそ、明るい色が映えるのであり、色彩の調和には嫌いな色も使わなければいけません。

近くで見ると1つ1つ色の存在意義はわかりませんが、少し離れて眺めると、全体のためになくてはならない色であったことが、よく分かります。



人生も、バラ色で、楽しいことばかりだったらいいのにと、思ってしまいます。

しかし、つらいこと、悲しいこと、避けて通りたいことも、たくさんあります。

苦難の真っ只中にいる時には、ただつらい、悲しいばかりで、一刻も早くそこから逃れたいと思うばかりです。

そこに隠された意味を知ろうとする余裕はありません。

しかし、後になって、すべてのことが連綿と繋がっていて、1つ1つの出来事や経験が、生まれる前に自分で自分にした約束を果たすために、不可欠であったことが、きっと分かると思います。

意味のない苦しみ、意味のない悲しみは存在しません。



楽しいことは、楽しいだけで終わってしまいます。それほど大事なことではなく、1ヶ月もすれば忘れてしまうかもしれません。

つらいことであればあるほど、悲しいことであればあるほど、心の奥深くまで響き、忘れることはありません。

真の意味は、自分そのものである魂を、呼び起こすことにあります。



それまで眠っていた、魂を目覚めさせるためです。

魂に目覚めた時から、全く新しい人生が始まります。

自分で自分に約束した、本当の人生が始まります。



魂は神の一部としてつながっています。

魂に目覚めて、生まれて初めて、神の心に触れ、もっとも大切なものに気付きます。

大切なものは、ただ1つしかありません。

愛です。



愛よりも生命の方が大切と思われるかもしれません。

生命も愛です。

生命は魂であり、神の心を表現する一部です。肉体はこの世だけの道具(媒体)です。

神は無限の愛です。

よって、生命は神のものであり、愛そのものです。



生命は愛そのものであるため、しきりに愛を表現しようとします。

愛を表現しているのが、魂の自然の姿です。

しかし、肉体を持つと魂は埋没し、存在は意識されなくなります。

愛を表現したいという魂の要求は、残念ながら肉体からの要求に掻き消されてしまいます。

自分という意識が強くなればなるほど、神から遠ざかり、愛を表現出来なくなってしまいます。

素直に愛を表現できなくなると、神の摂理である因果律が働き、苦痛を経験をして、魂が目覚めて、自然の姿を取り戻し、素直に愛を表現出来るようになります。

愛を表現することは、摂理そのものであり、神の懐に抱かれ、真の悦びを手に入れることができます。



小さな道端の草も、地球の一部を構成する存在です。

小さいながらも、動物にとって必要な酸素を作って、空気中に放出しています。

動物たちは植物から、なくてはならない恩恵を受け取って生きています。

すべてが調和しながら、お互いがお互いのために生きています。

どんな小さくても、小さいなりに、ささやかな愛を表現しています。

あまりに当たり前で、何も思わなかったことすべてが愛です。

愛がすべてであり、すべてが愛です。



神の摂理が愛であることはわかっていても、嫌な人、敵対する人、自分を苦しめるものを愛するのは、きわめて難しいことです。

しかし、因果律は厳格に働きますので、嫌悪を向ければ嫌悪が、憎しみには憎しみが、敵対には敵対が、返ってきますので、賢明な方策ではありません。

こちらが何も想わず、何もしなければ、少なくても相手から返されることはありません。

さらに、相手を受け入れ、許せたのなら、自らを苦しめる想いから解放されます。

もし、愛することが出来れば、その障害、その苦難を完全に乗り越えたことになり、嫌な人ではなくなり、敵対する人ではなくなり、自分を苦しめるものではなくなります。

より高い愛が表現できるようになったのであり、魂が向上した確かな証です。

そして、この世に生まれてきた意味の1つを、成就したことになります。





参考ページ: 「人生のシナリオは自分を成長させるためにある」


         「この世を生きる意味 その2



























2014年5月11日日曜日

争いは愛でしか終わりにすることはできない



平和な日本では考えられない争いが、世界の各地で起きています。

民族、宗教、文化、言語、外見などの違いは、偏見や誤解を生み、時にお互いを異質なものとして認識し、排他しようとします。

敵対する集団を、武力でねじ伏せようとしても、思い通りにいかないことは、世界各地で起きているテロや戦争を見れば、一目瞭然です。

テロや戦争に関わっているのは人間ですが、駆り立てるものは、怒りであり、恨みであり、憎しみの想いです。

従って、武力により、攻撃を繰り返しても、新たな怒りや恨みや憎しみを生み出すだけであり、そのようなやり方で、平和を手に入れることは、決して出来ません。

武力で一旦は平穏を取り戻したかに見えても、根底にある怒りや憎しみや恨みの想いは、消えるどころか、むしろ大きくなってしまい、積もり積もった想いが限界に達すると、表に現れて、さらなる戦争が引き起こされるだけです。

そして、戦争で相手の優位に立つため、次々と兵器が生み出されます。ミサイル、原子爆弾、化学兵器が使用され、人が殺され、傷つき、そして国土が破壊されます。

人類が発明した戦争兵器は、世の中に平和をもたらしたでしょうか?

より状況が悲惨になり、苦痛が生まれ、人々を不安と恐怖に陥れただけだと思います。

科学技術は、時として誤った方向に利用され、人を不幸にしてしまいます。

争いがなくなり、平和な世の中になるためには、お互いを思いやる、愛の想いを発揮するしかありません。

戦争をしている当事者が聞いたのならば、「何をたわごと言っているんだ」と、一蹴されてしまうことでしょう。

やらなければ、やられてしまうという考えに支配されているからです。

闘わなければ、負けて、殺されてしまうと思っているからです。

もちろん、相手が力により屈服させ、征服しようとしているのであれば、正義を守るために闘わなければいけません。

しかし、多くの戦争は、少しの行き違いがあったり、相手を認めなかったり、許せなかったりすることから始まります。

どちらも血の通った人間であり、お互いに傷つきたくはありません。

相手を疑い、怖れ、拒絶すれば、敵となり、戦争が起きます。

相手を信じ、認め、許せば、仲間となり、共存が出来ます。

お互いに認め合い、許し合い、怖れを克服するのは、愛の想いしかありません。

ものすごく単純なことですが、とても難しいことなのかもしれません。

話は変わりますが、人体は、60兆個もの細胞から構成されています。細胞は、それぞれの役割があり、協調関係にあります。

病気は身体に不調和が起こった状態です。

ガンは協調を失った細胞であり、生命を脅かし、何ひとつ益がないと思われています。

人体を見渡すと、1つとして理由もなく存在する組織はありません。

たとえガンであっても、自分の身体の一部であり、何らかの意味があって存在していると、思われます。

最近になり、ガン細胞は、抗がん剤などのストレスに対する耐性を持つことが判りました。ストレス環境下では、エネルギーを得るための代謝経路(解糖系)だけでなく、抗がん剤の効果を下げる作用(解毒作用)や増殖などに必要な物質を増加させる、う回経路も利用することが判明し、代謝経路を切り替えるスイッチ分子も発見されました。

内容は難しいのでともかくとして、私には、人間の戦略を上回るしたたかな知性を、ガンが持っているかのように思えます。

人の想いにも敏感に反応し、感情を持っているようさえ思えます。

ガン細胞が遺伝子のコピーミスで生じたのなら、生き残るための戦略など、持っているはずはありません。

生き残るための戦略は、自らが生み出しているはずもなく、あらかじめプログラムされていて、作動していると思われます。

あらかじめプログラムされていた戦略だとすると、背後に計り知れない知性の存在と、その意図を感じざるを得ません。

人間が作り出した、いかなる薬も、ガンを消滅させることはできていません。

その理由は、ガンは神の摂理により生じている、霊的な病気だからと考えられます。

人は、肉体と精神、その上位にある魂により構成されています。

肉体は魂を表現する媒体であり、想いは精神を経由して肉体で表現されます。

絶え間なく、想いは肉体で表現されて、人生は紡がれていきます。

しかし、精神で抑制が働いて、想いをうまく表現できなかったり、想いが強すぎてすべてを表現しきれないと、想いはうっ積していきます。

神の摂理である愛に反した、怒り、憎しみ、恨み、嫉妬などの想いを抱き続けてしまうと、うっ積し、魂のありさまは、変わってしまいます。

変わってしまった魂のありさまは、病気として肉体に表現されます。

肉体上のガンは反映であり、本体は魂にあります。

月は夜空に明るく輝きますが、光の源は太陽にあります。

涙は目から出る液体ですが、本体は悲しみです。

内にあるものが外に表れています。

涙を拭ったからといって、悲しみがなくならないように、手術で病巣を切除したからと言って、原因がなくなるわけではありません。

抗ガン剤により、ガンを消滅させようとしても無理なのは、原因が魂にあるからであり、無用に心身に苦痛を与えてるだけだと考えられます。

神の意図とは、ガン細胞を無秩序に増殖させ、意味もなく苦痛を与え、肉体を失わせるのではなく、神の心である愛の大切さに気付き、摂理に適った考え方、生き方に変えるさせるためにあります。

それは、この世に生まれてきた目的を成就するためです。

大切なことであればあるほど、気付くため、知るための試練は、過酷になるのかもしれません。

大切なことなど、どうでもいいと思っても、生まれてきた目的は、大切なことに気付き、魂を向上させるためなので、避けて通ることはできません。

摂理に反した想いに捕らわれている限り、愛を表現することはできず、生まれてきた目的を成就することはできません。

しかし、捕らわれている想いの根が深く、しつこく居座っているようであれば、並大抵のことでは手放せません。

ガンは生命にかかわる病気であり、それまで眠っていた魂にまで響き、呼び起こします。

苦痛や恐怖や不安との闘いは、魂を向上させて、大切なことを受け入れるための準備を整えていきます。

魂に目覚め、生命と愛より大切なものはないことに気付き、捕らわれていた想いが、ようやく手放されます。

そして、素直に愛を表現できるようになります。

神の摂理として生じたガンが、愛の大切さに気付き、想いを変えさせることにあるならば、病気の転帰がいつかは訪れるはずです。

じっと苦痛に耐え、底知れぬ不安や恐怖と闘い、周囲の支えに感謝する中で、その時は訪れます。

それが、神の意図です。

神の心である愛を知るために、人間に用意されたシナリオです。

想いを手放したら、そこへ神からの愛(治癒力)が流れ込み、まず魂が癒され、肉体が後を追うように癒されて、病気は快方に向かうはずです。

しかし、現代の医学では、魂の存在を認めていません。肉体上の病気だけを対象としています。肉体のガンを消滅させることが、治療のすべてです。

肉体に作用する抗ガン剤は、魂には全く効果がないため、無意味ということになります。

自己の肉体を傷つけてしまい、無用な苦しみを与えているだけだと思われます。

そして、最も危惧すべきことは、神が人に与えた免疫システムに少なからぬダメージを与えてしまうことです。

免疫システムは、からだを守る生命線であり、大切な味方です。その味方を、抗ガン剤は愚かにも破壊していることになります。

これでは、苦痛を経験し、魂が目覚めて癒され、続いて肉体が快方に向かおうとしても、ガンを排除する免疫システムがうまく働かず、神が意図した通りにいかなくなってしまいます。

生命(治癒)力が肉体に流れても、ガンを消退させる免疫システムが破損して機能しなければ、病気は消退していきません。

ガンにより、考え方や生き方が変わり、病気を克服して、新しい人生が始まるはずです。

苦痛により十分な償いを果たし、最も大切な生命や愛に気付いて、ドアを開けて新しい人生が待っているはずなのに、鍵が壊されてしまっているために、あと一歩のところで、外に出られないのです。

せっかくの生命力が活かせずに、亡くなられている人がどれほどいるか、想像もできません。

きっと悔しいことでしょう。

こんなことは、悲しいことは、決してあってはいけません。

戦争は地球という惑星の中で起こり、ガンはからだの中で起こります。

双方とも、神の摂理に反した想いにより生じ、相応の苦痛を経験することになります。

多くの人が採る、解決するための手段は、悲しいことに闘いであり、相手の降伏です。

その行為自体が、摂理に反しているために、更なる苦痛が生まれてしまいます。

戦争を解決する唯一の手段は、相手を認め、許し、そして愛するしかありません。

ガンは敵ではありません。

大切なことに気付き、愛を素直に表現させるためにある、ありがたい使者です。

摂理に反いた想いからガンが生じたのなら、摂理に適った想いによりガンは癒やされるはずです。

ガンを怖れず、自分の一部として愛するしかありません。



2014年5月4日日曜日

苦痛の先にあるもの



病気は偶然ではなく、神の摂理によって生じます。

病気は死に追いやるもの、意味もなく苦しめ、不幸にするために存在するのではありません。

すべての病気に原因があり、結果として病気になります。

原因は肉体的、精神的、霊的次元にそれぞれありますが、それぞれの次元に何らかの原因があったと思われます。

霊的次元においては、何かしら摂理に反した想いや行いがあり、それが主な原因と考えられます。

神の摂理は完璧であり、すべての想いや行いは見逃されることはありません。

昔、学校で悪さをして、立ち番をさせられたことがあります。先生は私が反省しているかどうかを、よく見ていました。反省しているのが見てとれたら、必ず許してくれました。良い方向に進んでいって欲しいという気持ちから立ち番をさせたと信じています。そして厳しかった先生ほど、私のことを親身になり、思っていてくれたと感謝しています。

病気も同じです。

しかし、病気を生じさせた神は、人である先生より、はるかに厳格です。

本人が反省しているか、大切なことに気付いたか、考え方や生き方が(摂理に叶ったように)変わったかは、神にすべてを知られてしまいます。

なぜなら、魂は神の一部であり、つながっているからです。一切の言い訳やごまかしはききません。

摂理に反していたことがあったならば、それに見合った償いをしなければいけません。

病気の苦痛は、償いとしてあります。不安や恐怖との闘いも、大きな苦痛であり、償いです。

しかし、魂が目覚めて、誤った考え方や生き方をしていたことに気付き、悔い改めて、苦痛により相応の償いをしたならば、病気を生じさせた神の力は、一転して治癒させる力に変わり、病気は快方に向かっていくはずです。

病気になった目的は、魂を目覚めさせ、摂理に適った考え方や生き方に変えさせるためにあるからです。

神は愛です。

愛が最も大切であり、すべてであることを、病気を通して教えているだけです。

今、つらいのであれば、「この苦しみ、痛みは私を変えるためにある」という信念を持って下さい。

それは、紛れもない魂の真実です。

そして、「人や社会のために、元気になり、役に立たせて下さい」と、祈って下さい。

祈りは、きっと神に届くはずです。

早く良くなって、生まれ変わった自分で、人や社会のために思う存分、愛を表現していきましょう。

それが、この世に生まれてきた意味であり、生きている意味です。

つらい日々、償いが終わる日は、近くなってきているはずです。









2014年4月21日月曜日

自らを癒やす



ほぼすべての人は、からだの不調を自覚したら、医者にかかります。医者は検査をして、病気を診断し、それに見合った治療を行います。薬、手術は治療の大きな柱です。目に見える病巣であれば、消失させることを目標とします。

先進国において、ほとんどの医者が拠り所としているのは西洋医学です。その発展は人類に大きな貢献をもたらしました。中でも、ペストやコレラなどの流行病の原因が細菌であることをつきとめたのは、大きな発見であり、後に抗生物質の発見につながります。ワクチンの発見による予防効果も絶大であり、多くの命が救われることになります。それ以降、薬で病気が治る、医者が治すものという概念が定着していったように思えます。

ガンという深刻な病気を告げられた時のショックは、経験した人でなければわかりません。命にかかわる病気という認識があるから当然です。不安や恐怖が心を支配してしまい、この窮地から抜け出したい一心で、医者の提示する治療法を選択する人がほとんどです。

感染症はウィルスや細菌などの増殖により起こりますから、原因は顕微鏡で確認できて、薬で劇的に治るものも多いです。しかし、病気には自己の変性や、機能異常によるものが多く、未だに原因を見出せないものも、たくさんあります。

ガンは、目で見ることができ、増殖するものであり、その点では感染症と類似しています。しかし、大きな違いがあります。それは、正常細胞と性質が異なりますが、ガンは自己だということです。

細菌などの非自己であれば、薬で選択的に死滅させたり(ウィルスは除く)、外科的に取り除くことで完治が期待できます。しかし、遺伝子レベルで差異があるものの、ガンは紛れもなく自己であるため、薬で選択的に死滅させることは不可能です。もし死滅したのであれば、正常細胞も死滅してしまうか、相当のダメージを受けます。

ガンは正常細胞が細胞分裂時に変異したものと言われています。遺伝子の複製ミスにより、細胞の際限のない増殖が起こると考えられています。1日に数千個のガン細胞が発生し、免疫システムで死滅させられていると考えられています。

すべての動物は1つの受精卵から始まります。細胞分裂を繰り返し、増殖し、分化して組織を作り、個体を完成していきます。成長過程において、最高度に活発な細胞分裂が繰り返されています。もし、単なる複製ミスと言うことであれば、免疫システムが構築される以前に、多数のガン細胞が発生し、増殖してしまうと推察されます。成長過程にガンが多発するということになりますが、実際はそうではありません。

以上のことから、遺伝子の複製ミスが、一定の確率で起きているとは、考えにくいと思われます。

人間が作業をする時、どうしてもミスが起きてしまいます。それは、人間が不完全であるためと思われます。機械で作業すれば、ミスは大きく減りますが完全になくすことはできません。しかし、自然(神)の営みは完璧であり、一分の狂いもありません。

水は0℃になったら凍り、100℃になったら蒸気になります。130歳を超えて生きる人はいません。摂理(法則)に従っているからです。細胞分裂も、人知の及ばない、自然の摂理により営まれていますので、ミスはあり得ません。

では、なぜ複製ミスが起こりガン細胞が出来てしまうのか?

ガン細胞の発生はミスではなく、神の摂理によって生じていると思われます。

一般的に、環境因子であるエックス線、発ガン物質に影響を受けると言われています。また遺伝的素因があるとガン発生は明らかに高くなります。肉体的(物理的、化学的、生物学的)次元での法則が存在し、ガン発生に影響を与えていると思われます。

近年になり、ストレスは防御機能である免疫力を低下させて、ガンの増殖を許してしまうことが分ってきました。これは精神的次元での法則が働いていると思われます。

人は肉体と精神により成り立っているのではなく、その上位に生命であり、真の自分である魂(霊)が存在しています。目の前で証明することは不可能ですが、紛れも無い事実です。

霊的次元でも摂理(法則)は働いています。

神の摂理(愛)に背いた、憎しみ、恨み、嫉妬、怒りの想いは、生きていると湧き上がってしまうことがあります。一瞬であれば良いのですが、その想いが常に付きまとい、支配していると、魂のありさまを変えてしまいます。

怒りの想いは怒ることで表現されますが、憎しみ、恨み、嫉妬などの想いは、表現が難しく、うっ積してしまうことが多いと思われます。長い時間であればあるほど、強い想いであればあるほど、想いは多くうっ積し、魂のありさまが変化してしまいます。魂の変化は肉体の変化として表現され、病変となります。

ガンは、肉体的、精神的、霊的次元に存在する原因が複合的に働き、発生すると思われます。しかし、主因は霊的次元にあると考えています。

ここからは私なりの解釈になります。ガンが霊的次元での原因があると言うことが、前提となります。その根拠は、残念ながら提示することはできませんので、ご承知下さい。

ガンは、少々出来の悪い、粗暴な細胞ですが、あくまでも自分です。

そのガンという自分を作ったのは、自分です。
1つ1つの想いが、1つ1つのガン細胞に形を変えているように思えてなりません。

薬でガン細胞を完全に死滅させることができないのは、性質は異なっていても自分だからです。

たとえガンであっても神から与えられた肉体の一部であり、大切にしなければいけないのかもしれません。現代の治療法は、神から与えられた肉体を傷つける摂理に反した不自然な行為であるのかもしれません。薬で苦しむのは、自分で自分を傷つける罪の償いかもしれません。

ガン患者の数が増え続けているのは、神の摂理に反した考え方、生き方をする人が多くなったためであり、死亡者数の減少が認められないのは、不自然な治療、神の摂理に反した治療をしているためなのかもしれません。

ガンは肉体に表れた結果であり、主な原因は霊的次元にあると考えます。

従って、霊的次元での原因が取り除かれなければいけません。

霊的次元の原因とは、想いにあります。

想いには、摂理に適ったものと、反しているものがあります。

摂理に適った想いとは、「愛」の想いです。

摂理に反した想いとは、「愛」の対極にある、憎しみ、恨み、嫉妬、怒りなどの想いです。

想いは、精神を経由して、肉体で表現されます。

しかし、精神を経由する時に、強い抑制がかかると、想いを表現できなくなります。

また、想いが強すぎると、すべてを表現できなくなります。

表現して、外に表さないと、想いの摂理に反した、想いが滞ってしまい、うっ積していきます。

うっ積した想いは、魂に影響を与えます。

そして、魂のありさまが変わっていきます。

肉体は、魂を表現するものですから、肉体のありさまが変わります。

摂理に反した想いを抱き続けることにより、魂は次第に平和や調和や協調を失っていきます。

その結果、平和や協調や調和を失ったガン細胞が、摂理により発生し、増殖していきます。

ガンは霊的次元に原因がある病気であり、霊的次元での対応が必要と考えられます。

病気になったら、その事実を受け入れることは、何より重要です。
事実を知り、衝撃を受け、怖くなったり、不安になったりするのは、自然な反応です。しかし、その事実と向き合わず、逃げてしまっては、大切な魂の変化が始まりません。

すべての原因は自分にあることを認めて下さい。
他の誰のせいでもありまぜん。運が悪かったのでもありません。自らが種を蒔いています。その結果は医者ではなく、自らが刈り取らなければいけません。

何かが、間違っていたと思われます。

何かが、不自然だったと思われます。

神の摂理に反した考え方や生き方をしてきたことが原因となり、結果としてガンという病気になったと考えられます。

考え方に神の摂理(愛)に反したところがありませんでしたか?
長い間、何かを恨むことはありませんでしたか?
長い間、何かを憎むことはありませんでしたか?
長い間、何かを妬むことはありませんでしたか?

生き方に不自然なところはありませんでしたか?
良く眠れていましたか?
偏りなく、必要十分な食事を取っていましたか?
からだに無理を強いていませんでしたか?
からだを、粗末にしていませんでしたか?

欲が強すぎませんでしたか?
生きているだけでも幸せなことなのに、たくさんのことを求めていませんでしたか?無意味なものに振り回されていませんでしたか?人と比べて苦しみませんでしたか?

愛に欠けたところがありませんでしたか?
自分のことばかりを考えていませんでしたか?他の人との協調を大切にしていましたか?

いままで起こった出来事で、想いを封印してしまったことはありませんでしたか?
つらい出来事や、忌まわしい出来事を、早く忘れてしまおうと思い、正面から受け止めずに、受け流してしまいませんでしたか?

つらい出来事、困難なことを、(与えられた試練として受け止めずに)責任転嫁したり、逃げてしまいませんでしたか?
受け入れて、乗り越えなければいけなかったのかもしれません。病気になって、今、乗り越えているのかもしれません。

その出来事を、今、思い出してみて、どう思いますか?
怒り、憎しみ、恨み、哀しみ、嫉妬の想いがわきあがりますか?
はっきりと言葉にしてみてはどうでしょうか。思いっきり泣いても良いかもしれません。積もり積もった思いのたけを、誰かに聞いてもらうのも、とても良いことです。何かに向かって「バカやろー」と叫んでも良いと思います。

想いを溜め込まないこと、それが1番大切です。

いろいろと経験して、その時よりもずっと成長していますから、その出来事を事実として、今では受け入れることができるはずです。

それでも、受け入れようとすると、怒りや恨み哀しみなどの感情が、どうしてもわきあがってしまうでしょうか?

自分自身に良いことは一つもない。わかっていても、それでも湧き上がってしまいますか?

すべてを許す、許せる時がきたから病気になりました。病気になったのは許すためです。

人は誰も完璧ではありませんので、過ちを許してもらう時があるはずです。許してもらうのであれば、許さなければいけません。

どうしても、許せないことはありません。愛が少し足りないだけです。時が満ちていないだけです。

愛でしか、想いは手放ません。

もし、手放せたのであれば、それは生きてきた証です。成長の証です。魂が向上した証です。

魂の向上は、生きている目的そのものです。許すことは、愛すること。成長の証です。

想いが手放せたら、そこに愛(治癒力)が流れ込みます。

神の愛で、魂が癒されます。

そして肉体が癒され、病気が治癒します。

病気を進行させる力と、癒やす力は、方向が違うだけで、同じ神の力です。

想いが変われば、魂が変わり、肉体も変わります。

愛の想いで、魂は輝き、肉体も輝きを取り戻します。

この世は愛を学ぶために生きています。しかし、物質の存在があまりに大きいために、目に見えない愛に気付きにくく、表現もしにくくなります。

それがこの世ですが、愛がすべてであり、すべてが愛であることは間違いありません。

病気と愛は結びつきにくいのですが、苦痛こそが魂を呼び起こします。

魂は神の一部であり、神の心は愛です。そのため魂は愛を表現しようとします。

病気は魂を目覚めさせ、より大きな愛、真の愛を表現するためにあります。

痛み、苦しみが大きければ大きいほど、手に入れるものの価値は大きいはずです。

愛の大切さに気付いたのであれば、最も価値のあるものを手に入れたことになります。

すべての経験は、愛を知るためにあります。

2014年4月17日木曜日

神の摂理



私は神を信じていませんでした。生きていく上で、自分には関係ないと思っていたからです。神を信じる人は、どこかの宗教に属する、少し変わった人だと思っていました。

今、私は神を信じています。神の概念を語るには、あまりにも未熟ですが、すべてを考案し、創造し、統率している何者かがいるはずであり、それが神だと、おぼろげに分かります。自然が美しいのは、神の心が表れているためであり、秩序が保たれているは神の摂理(法則)が存在するためだと、思っています。

神は必要のないものを、創り出すはずもなく、すべてのものは明確な意味を持って存在していると考えられます。

地球上に生きる、人、動物、植物の1つ1つが、かかわり合い、調和しながら、意味を持って存在していると思います。



この世に存在しなくても良さそうな、戦争や病気はどうなのでしょうか?

戦争や病気を、不幸なことと片付けてしまえば、そこでお終いです。何らかの意味を持つものとして捉え、(神の)目的を理解するように努めた方が、前に進んでいけると考えています。

戦争は、決してあってはならないものです。人が傷つき、国土が破壊され、多くの悲劇が生みだされれます。そんな無益な戦争が起こってしまうのは、当たり前のことなのですが、集団や国家が協調や調和の精神を忘れ、自己の主張や利益を優先したためと考えられます。国家が神の摂理である「愛」を忘れたために起こり、その結果、国民に苦痛がもたらされます。

もし、神の摂理に適った「愛」が発揮されたのなら、飢えや貧困に苦しんでいる弱者に手を差し伸べる側となり、世界はもっと、やさしく、あたたかく、平和となり、戦争など起きるはずはありません。

戦争で、大きな苦痛を味わった人たちほど、心の底から平和を希求し、他国との友好を尊重するようになると考えられます。代償は大きいのですが、戦争により、友愛、調和や協調と言った、神の摂理(心)に気付くことになるとも言えます。

病気にも、明確な目的があると考えられます。すべての病気は結果であり、原因があります。その原因として環境や遺伝が挙げられますが、現代医学では説明ができない、原因不明の病気も数多くあります。

人を構成しているのは肉体だけはありません。肉体に命令を下している精神があります。その上位には、生命そのものであり、真の自己である、魂があります。五感には触れませんが、実在しています。

肉体は物理法則に支配されていますが、精神そして魂も、それぞれの法則(摂理)により支配されています。現在、西洋医学の対象は肉体だけであり、魂(霊)の存在は認めていませんので、精神的、霊的次元での原因は、残念ながら解明されていません。

見えないもの、検出できないものは存在しないと決め付けてしまうのは簡単ですが、病気の原因は精神的、霊的次元にあることが多いと思われ、多次元的に病気を理解することが、病気の治癒のため重要と思われます。

良くストレスが溜まると病気になると言われます。それは事実だと思いますが、正確には、ストレスにより生じた、表現されなかった想いが溜まると、魂(霊)が変化をきたし、その変化が病気として精神や肉体上に表れると言うことになります。

肉体は魂を表現している媒体です。想いが生まれ、精神を経由して、肉体で表現されています。おかしければ笑い、悲しければ泣きます。内の想いが外に表現されています。もし、魂(霊)のありさまに変化があれば、肉体のありさまに変化として表れます。

人生にはさまざまな出来事が起こり、さまざまな想いが生まれます。喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、その他にも、たくさんの想いが生まれ、表情や言葉、そして行動となり、常に表現されています。

しかし、何らかの原因で抑制が働き、その想いを肉体で表現できなくなると、想いだけがうっ積していきます。心にいつもひっかかるもの、心に重くのしかかるものを感じるのは、うっ積した想いがあるからなのかもしれません。

想いを解放するために、話(想い)を聞いてもらったり、文章にしたり、からだを動かすのも有効です。

人によっては、うっ積して耐え切れなくなると、想い(感情)を爆発させることもあります。うっ積した想いを、一気に表現して手放すことになりますので、周りの人は大変ですが、本人はさっぱりします。

しかし、生きていると、そんなわけにはいきません。生活していくのに悲しんでいられない、理不尽なことをされても立場上文句は言えない、つらい胸の内を聞いてもらえる人が側にいないなど、想いを表現できない時は、いくらでもあります。

また、想いが強ければ強いほど、うまく表現ができなくなります。

表現されなかった想いが滞り、蓄積してしまうと、魂に影響を与えて変化が生じてしまい、その変化が、肉体上に病気として表れるとことになるかもしれません。

この世では、想いには実体はなく、影響力はないと考えてしまいますが、霊的次元は思念の世界であり、想いが実体であり、影響を及ぼしています。うっ積した想いが、怒り、憎しみ、妬み、恨み、貪欲といった、神の摂理に反したものであれば、魂に相応の変化が生じてしまいます。

病気は、変化した魂の反映であり、苦痛はその償いです。同時に、苦痛には、「生命」や「愛」といった神の摂理に気付かせるという大きな意味があります。摂理に気付けば、神とのつながりは深まり、魂は浄化され、肉体の病気は癒されていくと考えられます。

人生にはいろいろなことが起きます。想いを表現できない時もあると思います。では、どうすれば良いのか?

摂理に反した、怒り、憎しみ、妬み、恨み、貪欲といった想いを抱かないようにするしかありません。仕打ちを受けても許す、すべての事実を受け入れる、自分と違っていても認める、とても、とても難しいことですが、そうなれるように努力することが、生きている意味の一つだと思います。

時として、許すこと、受け入れること、認めることは、苦痛そのものとなりますが、もし、出来たのであれば、「愛」を表現していることになり、魂の向上が図られます。もし出来ずに、摂理に反した想いを抱いてしまえば、病気になるかもしれません。



繰り返しになりますが、病気は、神の摂理である「愛」に気付かせるため、生命の危機にさらされて、魂を目覚めさせるためにあります。

決して死に追いやるものではありません。

少し遠回りしたことになりますが、魂が向上した結果、今度同じことが起きたとしても、許せなかったことが許せるようになり、認められなかったことが認められるようになり、拒絶したことが受け入れられるようになると思われます。

どちらに進んだとしても、神とのつながりは絶たれていません。

神の摂理は完璧であり、自らに近づけるように導いていると思います。









2014年4月7日月曜日

ガンを癒す



色とりどりの花が咲く、季節がやってきました。田んぼのあぜ道には、レンゲがやさしく、美しい色合いで、可憐な花を咲かせます。あたたかな陽差しとともに、春という季節が来たことを実感します。

大自然の営みは、すべて神の摂理(法則)に従っています。摂理を知る、知らない、信じる、信じないにかかわらず、正確無比に働いています。人が生まれ、死ぬのも、季節が巡るのも、森羅万象のすべては神の摂理により支配されています。人々を苦しめている病気も例外ではありません。

植物が美しい花を咲かせるのは、見る人を喜ばせるためではなく、蜂などの虫たちを惹きつけて受粉させ、子孫を残すという明確な目的があります。人が病気になるのも、医学では解明されない、深層に原因があり、明確な目的があったとしてもおかしくありません。

全世界で優秀な科学者が、ガンの原因解明を目指して日々研究をしているにもかかわらず、残念ながら原因は不明のままです。現代医学では認められていない、肉体より高次にある魂に、根本的な原因があると仮定した方が、合理的な説明ができると考えています。

魂は肉体の上位にあり、精神と肉体を支配しています。また、肉体は魂を表現する道具であり、媒体です。魂の変化は、肉体の変化として表現されます。従って、ガンという病変は、魂の変化を表していることになります。花が色鮮やかに咲いて、虫たちに存在を知らせているように、ガンは魂のありさまの変化を肉体上で分かるかたちとなって表れ、知らせています。

ガンを癒すためには、まず魂を癒さなければいけません。過去の出来事を振り返り、その時にどういう想いを抱き、どう行動したのかを省みる必要があります。

繰り返しますが、肉体は魂を表現するためにあります。魂の想いは、肉体を道具として、言葉や行動により表現されます。うれしいことがあると笑顔になり、うれし過ぎて涙を流して泣くこともあります。怒りがあれば、表情や言葉や行動で、想いを表すこともあります。また、困っている人がいたら助けたり、悲しいんでいる人を慰めるのも、魂の表現であり、心(精神)を経由して、肉体で表現しています。

しかし、悲しくても泣けなかったり、怒りを言葉や行動で表せなかったり、悔しい胸の内を聞いてもらえなかったりすると、想いが外に出ずに内に滞っていきます。想いが素直に表現できていれば問題はありませんが、うまく表せない状態が続けば、表現できなかった想いがうっ積していき、魂のありさまを変えてしまいます。悲しいことやつらいことがあると、多くの人は涙を流して泣きます。特に女性は涙を流して泣く人も多いようです。感情表現というよりも、泣くという行為により肉体で表現して、つらい想いを内に溜め込まないで、外に吐き出していると考えられます。心や魂の健全さを保つために、無意識にしているのかもしれません。喜びの想いであれば、たとえうまく表現できなくても心配はないのですが、とてもつらいことを経験し、その想いをうまく表現できずにいると、後に問題となるかもしれません。なぜなら、つらい経験からは、怒り、恨み、憎しみ、悲しみ、嘆きなど、神の摂理に反した想いが生じやすくなり、魂のありさまを変えてしまうかもしれないからです。魂のありさまが変われば、病気として肉体に表れることになります。ただ、怒りや恨みや憎しみなどの想いを、言葉や行いで表わすことも、摂理に反していますので、因果律が働いて、何らかのかたちで苦痛を経験して、償わなければいけなくなります。

ガンという病巣は、うっ積した想いが形を変えて、肉体上に表れたものだと考えられます。

もしそうだとすれば、うっ積した想いを手放してしまえば、肉体の病巣もなくなることになります。うっ積した想いを手放すためには、怒り、憎しみ、恨み、嫉妬の想いから、解放されなければいけません。解放されるためには、魂の向上が必要となってきます。病気の苦痛には、魂を向上させ、目覚めさるという、大切な意味がありますので、手放したい苦痛こそが、うっ積した想いを手放すために必要であり、魂を浄化させていると考えられます。また、ガンの苦痛により、生命である魂に目覚めれば、魂は神の一部であるため、神の心である愛に目覚めて、表現しようとします。そして、愛に目覚めた時に、怒り、憎しみ、恨み、嫉妬から解放され、つらい出来事を受け入れて、許し、その結果、うっ積した想いが手放されて、肉体の病変はなくなると考えられます。

ガンは肉体を死に至らせる病ではありません。肉体や精神の苦痛は、耐えがたいものに感じられるかもしれませんが、魂に目覚めさせ、愛に目覚めさせるためにあります。乗り越えられない苦難は与えられませんので、ガンになった人は、魂に目覚めて、愛の大切さに気付ける人だと言うことになります。愛の大切さに気付けば、考え方や生き方は摂理に適ったものとなっていきます。そして、神とのつながりが深くなり、霊力(生命力)がふんだんに魂に流れ込みます。魂が癒され、その結果、肉体が癒されると考えられます。

ガンに対する認識の大転換が必要かもしれません。肉体上のガンは、魂のありさまの変化を表わし、しこりは見えざる想いの塊が表現されたものと思われます。自分の一部であることに変わりなく、敵対してはいけません。大切なことを教えてくれて、魂を良い方向に導くものと考えられます。したがって、怖がる必要など、全くありません。

忌み嫌ったり、憎んだりではいけません。その想いが、ガンそのものであり、勢いを増してしまいます。そして、摂理に適った「愛」の想いにより、勢いは失われます。

信じられないかもしれませんが、苦痛は病を癒やすためにあり、怖れ、憎むのではなく、愛することでガンが癒されるということになります。



2014年3月31日月曜日

ガンという病気について思うこと



多くの人に共感してもらえるかどうかわかりませんが、今までのまとめとして書いていきます。病気で苦しむ人にとって失礼になるかもしれませんが、良くなってもらいたい気持ちからですので、どうかご容赦下さい。

すべての病気は、それぞれに原因があって生じます。偶然、病気になることはありません。ガンという病気も厳然とした原因があり、肉体上の病変はその結果を見ているだけです。ガンという病気は、かかりやすさを決める遺伝的要因や、発ガン物質や放射線、食事や生活習慣などの環境的要因が深くかかわっているとされています。しかし、膨大な医学的研究にもかかわらず、はっきりとした原因は、いまだ分かっていません。

人は肉体と精神により成り立っていると、多くの人は考えていますが、肉体と精神の上位にあり、生命そのものである魂(霊)の存在を認める人は、まだわずかです。見えるものではないですし、普段は意識することもありません。

しかし、よく考えてみて下さい。愛を感じるのはどこでしょうか?美を感じるのはどこでしょうか?困っている人を助けるようとする気持ちは、どこからくるのでしょうか?嘘をついてはいけない、悪いことをしてはいけないという良心はどこからくるのでしょうか?頭脳を超えた魂が存在して、愛や美や良心を内在していると考える方が自然ではないでしょうか。魂は、精神(心)のさらに奥にある、本当の自分であり、偽らざる自分です。肉体ではなく、魂こそが真の自分であり、肉体は魂(の想い)を表現するためにあります。したがって魂がなければ、肉体の存在理由はありません。

肉体上の変化は、人の目に見えるためすぐ気付きます。しかし、本当の自分である魂の変化は、自覚さえもされていないため、気付くことはまずありません。肉体は魂を表現するためにあるので、魂の変化が肉体の病気として表現されることがあります。従って、ガンは魂の変化が、誰にでも見える肉体の変化として表されたものと考えられます。魂が平和、調和、協調を欠いてしまったことが原因で、肉体上に平和、調和、協調を欠いたガンが結果として表れます。魂の変化が肉体にガンとして表れ、苦痛を通して、神の摂理に反した想いや行いを償い、正して、魂を向上させる方向に軌道修正させるためにあります。大切なことに気付き、生き方を変えるためです。運が悪くガンになったのではなく、何らかの原因があってガンになったのであり、取り除いて治るのではなく、摂理に適った考え方や生き方に変わることで、治ると考えられます。

もしそうであれば、もっと多くの人のガンは治ってもいいはずです。なぜ、そうならないのか?ガンになると誰しも恐怖に怯えてしまいます。世の中では、依然として、死にいたる病という認識が根強く残っていますので、当然のことであり、一刻も早く、ガンを身体から取り除きたいと考えます。ほとんどの人は、医者に治療を委ね、医療で治すものと考えています。第1選択として手術が選択され、ガン組織を取り除き、病巣が消失すれば治癒ということになります。再発すれば抗ガン剤や放射線で縮小させようとします。

多くの人に治癒が得られないのは、肉体上に表れたガンという結果を消滅させることにこだわりすぎて、原因の除去ができていないためと考えています。もし、ガンが肉体だけの病気であれば、医学の進歩に伴い、ガンで亡くなる人はもっと減少してもいいはずです。しかし、現実には日本において35万人以上の人がガンで亡くなっています。医学は物理(肉体)的次元を対象としているため、リスク要因しか究明できておらず、根本原因は未だ不明のままです。他にも原因不明の病気は数多くありますが、もしかしたら現代の医学では認められていない、精神的、霊的な次元に原因があると考えることは愚かでしょうか。目に見えないところ、認知されていない魂に原因があり、その結果として肉体に病変が表れていると考えることに、無理があるのでしょうか。

人は悲しければ、涙を流します。おかしければ、声に出して笑います。また想いや考えを言葉にして表現します。生きていることは、想いや考えを、言葉や肉体で表現することと言ってもいいのかもしれません。ところが、つらいことがあっても、その想いを言葉や肉体で表現できずにいることがあります。また、つらい出来事自体を封印してしまうこともあり、知らないうちに表現されなかった想いが少しずつ蓄積していくことになります。その想いが、摂理に反した怒りや憎しみ、恨みや嫉妬、あるいは強い欲であれば、魂のありさまが変わってしまうことになります。想いが蓄積していくと、うっ積した想いのしこりとなり、それが肉体上にガンとして表れるかもしれません。肉体のガンを手術で取り除いても、想いのしこりが在リ続ければ、肉体に反映され、いずれ表れてきます。従って、ガンの根本的な治癒には、魂が癒されなければいけないと考えます。魂が癒されるためには、つらい出来事と正面から向かい合い、受け入れて、許し、表現できずにいた、うっ積した想いを手放さなければいけません。

また、摂理に反した想いを抱き、生活を続けていると、生きている目的である、魂の向上が図れなくなってしまいます。早く誤りに気付き、考えや生活を改めなければいけません。しかし、人はそう簡単に変われるわけではありません。そもそも、正しいと信じて、生きているのですから、変える必要があるなどと思っていません。どのようにしても変えられないところまで行き着くと、神の摂理である因果律が作動し、その結果、病気になります。ガンは否が応でも、休息を与え、自分を見つめさせる時をつくります。間違った生き方をしていたのか、追い求めていたものに価値はあったのか、そして本当に大切なものは何か、突きつけられた現実の前に、考えざるを得なくなります。そして、生命よりも大切なものはないことに気付きます。生命とは魂ですから、魂に気付き、本当の自分に気付くことになります。魂に目覚めれば、神の摂理である「愛」に気付くことになります。自分ひとりで生きてきたのではなく、多くの人に支えられて生きてきたこと、お互いがお互いのために存在すること、すべてが愛という力によるものです。ガンは肉体の死に至らせる病として存在するのではなく、生命の危機にさらされることにより、生命と正面から向き合い、本当に大切なことに気付かせるためにあると思います。

病気の治癒は、病変を消滅させることではありません。考え方や生き方が健全になることであり、魂が主導権を握り、摂理に適った考え方、生き方に変わることです。その結果として病変が消失すると思われます。

私は知りたいことがあります。それは、医学的治療に頼らず、ガンが治癒した人たちについてです。本当に必要な研究は、新たな抗ガン剤の開発ではなく、例外的に扱われている、ガンが治癒した人たちを対象にした研究です。なぜ自然治癒が起きたのか?その人たちに共通するものは何か?ガンになったことをきっかけに、考え方や生き方が変わったのか?です。きっと興味深い結果が得られるはずです。知る限りにおいては、偶然治癒したのではなく、今までの考え方や生き方とは決別して、治すという強い意志を持ち続け、その結果治癒している人が多いと思われます。医者に治してもらおうとする人でなく、自助努力で治そうとする人だと考えられます。医者は病気を治す人ではありません。プロとして治すのを手伝う人であり、物理的に修復を行なう人です。治すのはあくまで患者であり、治しているのは自然治癒力です。医学にはどうしても限界が有ります。その現実を忘れて、手術や薬で治そうとするのであれば、患者は大きな損失を被ることになります。あらゆる医学的データは病気の本質を表すものではありません。時として無用な恐怖心を生み、自然治癒力が働くのを妨げる方向に向かわせます。手術は病巣を除去することで、不安や恐怖心が少なくなり、自然治癒力が回復するのであれば有用だと考えます。しかし、神が与えた自然治癒力を損なわせるような治療、病気と正面から向かい合い、自己と向かい合う内省の時間を奪うような治療には賛同できません。なぜなら、ガンは大切なことに気付き、魂が目覚めるためにあり、その先に新しい「生」が待っていると思うからです。

ガンは肉体に現れた病巣との闘いではなく、不安や恐怖との闘いです。それは長く、厳しく、つらい、逃げ出したくなるような闘いかもしれません。待ち構えているかもしれない死や、ガンの進行にともなう痛みに対して、否が応でも不安や恐怖が生まれてしまいます。不安や恐怖に打ち克つためには、正しい知識も必要です。きわめて重要な知識は、死は肉体から魂が解き放たれる現象であり、死の後も生命(魂)は生き続け、意識は存続するということです。跡形もなく存在が消えてしまうのでは、決してありません。繰り返し言います。生命は魂であり、神の一部であるため、死のうにも死ねないのです。死とはどういうものなのか、経験すればはっきりと分かりますが、決して怖いものではありません。知らないから怖く思えるのであり、私の知る限りにおいては喜びです。

そして、痛みはからだの異常を知らせるシグナルであり、ガンの存在を痛みにより知らせています。ガンの活性状況を反映していて、ガンの活性が高まった時に、強く痛みを感じると考えられます。心が不安や恐怖に傾くと、ガンの活性は高まり、痛みが増強すると思われます。痛みから不安や恐怖が生まれ、それによりガンの活性が高まるため、痛みが強まり、さらに不安や恐怖が強くなり、ガンを活性化させるという、悪循環が生まれます。痛みはガンが存在しているというシグナルであるため避けられません。難しいことですが、痛みを感じても、出来るだけ心を平穏に保ち、不安や恐怖を抱かないようにした方が、賢明と思われます。ガンを活性化させると同時に、生命(治癒)力の流入を妨げてしまうからです。

不安や恐怖に立ち向かう最強の武器は、やはり愛です。支えてもらう、励まされる、涙を拭いてもらう、愚痴を聞いてもらう、つらい気持ちをぶつてもそばに居てくれる、すべてが愛あればこそです。霊的な力である愛により、不安や恐怖がどれだけ和らげられているかわかりません。周りから愛はもらえないという人がいるかもしれませんが、そうであれば、もう亡くなってしまった最愛の人に、愛念の想いを伝えて下さい。むこうから、不安や恐怖に打ち克たせる愛の想いが返ってくると思います。もし、そんな人もいないと言うのであれば、神に、「この不安や恐怖に打ち克つために、力を与えて下さい」と、祈って下さい。神の心は愛であり、つながりは永遠です。神の愛が、魂に伝わり、不安や恐怖が和らいでくるかもしれません。ガンを癒す力は愛だと思います。

こんなことを言うと叱られるかもしれませんが、怖れるのではなく、いろいろなことを気付かせて、教えてくれたガンに感謝して下さい。ガンを愛する想いを持てたならば、ガンの存在する意味はなくなると考えています。

神の愛により、魂が癒やされ、病が癒やされることを祈っています。

2014年3月23日日曜日

うつ病と心のエネルギー


私のそばにいる、まじめで、一生懸命生きている人が、うつ病になりました。早く良くなって欲しいと願うばかりです。



自分に厳しく、人にやさしかった人が、病気になり、なぜ苦しまなければならないのでしょうか。

周りを気遣いすぎたり、頑張りすぎると、うつ病になると言われますが、家族や会社のためを思い、頑張るだけ頑張った人が、ご褒美をもらうのではなく、病気になるのでは割に合いません。

どれ位、多くの人がこの病に苦しんでいるでしょうか。

悶え苦しむ心の中は、外からうかがい知ることができません。



私の知識や解釈が正しいのかわかりませんが、うつ病に苦しむ人の一助となれば幸いです。

うつ病は、つらい出来事を経験して、心に過度のストレスが加わったり、過労が続いたために、脳内伝達物質であるセロトニン、ドパミン、ノルアドレナリンの分泌が減少し、意欲低下や気分の落ち込みが亢進し、脳のエネルギーが枯渇して、日常生活に支障を来たした状態と言われています。

治療として、まず十分な休養を取り、症状改善のため薬物を服用し、必要に応じて精神療法やカウンセリングを受けます。

残念ながら、多くの精神疾患は医学的に十分な解明がされていません。

それは(研究)対象が物質次元に限定されているためであり、うつ病は、精神的、霊的次元の病であり、根本的原因の解明と治療方法の確立には、霊の存在を認めなければならないと思われます。



人が生きて、呼吸して、活動するすべての力は、神を源とした霊力です。

すべての生命は神とつながり、霊力により生かされています。

霊力は生命力と言い換えても良く、生命力には病気を癒す自然治癒力も備わっていると考えられます。

従って、霊力をふんだんに受け取ることが出来る人は活力に溢れ、病気になりにくく、反対に受け取りにくくなると元気がなくなり、病気になりやすくなると考えられます。



うつ病は、脳の機能異常ではなく、心(精神)に生命力(霊力)が十分に行き渡らなくなってしまったことが、根本原因として考えられます。

肉体を維持し、活動するためのエネルギー源は、食事から採りますが、心の活動を維持しているエネルギーの源は霊力であるため、どんなに栄養のあるものを食べても、心にエネルギーが供給されるわけではありません。

心(精神)のエネルギーは、魂が受け取った生命(霊)力が変換されたものです。

魂が受け取る生命(霊)力の量は、心(精神)の状態により大きく左右され、不安感、悲しみ、取り越し苦労、恐怖心などがあると、霊力を受け取りにくくなります。



人生には、楽しいこと、うれしいこともあれば、悲しいこと、つらいこともあります。

遭遇するさまざまな出来事は、さまざまな感情を生み出します。

情動が大きかったり、長引いたりすると、より多くの心のエネルギーが消耗されます。

うれしいことや楽しい感情は、心のエネルギーの消耗があっても、魂により多くの生命力が流れ込むため、心にエネルギーは供給され問題はありません。

しかし、悲しみや不安、怒りや嫉妬などの感情を持つと、魂に流れ込む生命力は少なくなり、心へのエネルギーの供給は少なくなってしまいます。

また、神経をすり減らすような労働が続いても、心のエネルギーが消耗されていきます。



つまり、深い悲しみや、強い不安や恐怖などの感情を持ち続けると、心のエネルギーは激しく消耗しているにもかかわらず、魂に流れ込む生命力は少なくなり、エネルギーは不足していきます。



心のエネルギーの補充に最も大切なのは、睡眠です。

睡眠は、心身を休ませるためにあると考えられますが、睡眠中は魂が肉体より離れて霊界に行き、霊界において生命力の補充をしていると考えられます。

したがって、睡眠が不足すると、十分な生命(霊)力の補充が出来ないため、心のエネルギーを枯渇させることにつながります。

ヒーリングを行うと、多くの患者さんは、リラックスして眠くなりますが、このことは心身を癒すために、心を穏やかにすること、睡眠を取ることが、いかに大切であるかを物語っていると思います。



しかし、多くの難題が重なったり、物事が思うように進まなかったりすると、焦りや不安が生まれて、頭から離れなくなります。

ひどい仕打ちを受けたり、つらいことがあったり、悲しいことがあると、怒りや恨み、悲しみや怖れの感情に、心が支配されてしまいます。

睡眠は大切だと分かっていても、そのような好ましくない感情が居座ってしまい、心は波立ち、眠りを誘う穏やかな心にはなれず、眠りに落ちることはできません。

たとえ眠れたとしても、眠りが浅くなった時に、好ましくない感情に再び支配され、眠れなくなってしまいます。

1日をリセットする睡眠が取れなければ、新しい1日は、疲れていた昨日の続きです。

心を維持しているエネルギーが、急速に枯渇しはじめてきます。



心は肉体と違い、体感的に疲労を感じることがありませんので、無理に無理を、我慢に我慢を重ねてしまい、心の疲労が限界を超えてしまいやすいと思われます。

また、心が傷ついた時にも、心を休ませ回復させる時間が必要です。

身体が傷ついた時には、痛みを感じたり、身体が動かせなかったりするため、癒えるまで身体を休ませます。

しかし、心の傷に知覚的な痛みはなく、自覚的な症状に乏しいために、心を休ませ、傷を癒やす必要があるのにもかかわらず、休ませずにいることが多く、自分ではどうすることもできなくなります。



そのため、神の摂理が働いて、強制的に心身を休養させることになります。

つまり、うつ病は、心の傷を癒すため、心の疲労を回復するために、神が与えたブレーカー装置だと考えられます。

心の(精神)活動や身体活動を、一時的に不活発な状態にさせて、心のエネルギーの消耗を抑えて、心の傷を癒し、心の疲労を回復させます。



うつ病は、つらく、苦しく、時に生きていることさえも否定しまう、耐え難い病と思われます。

しかし、すべての病気と同じく、魂を目覚めさせ、向上させるためにあります。

苦痛は、捕らわれている想いを手放し、不自然な生活から脱却させ、大切なことに気付かせるための触媒です。



大切なことは、拒絶ではなく認めることであり、恨みではなく許すことであり、争いではなく平和であり、競争ではなく協調であり、すべては愛から生まれます。

こだわらない、執着しないことも、うつ病には大切です。完璧や完全を求めるのも一種の欲であり、その欲が自分自身を苦しめることになります。

この世に生まれてきたこと自体、完全とは程遠い存在であることを、証明しています。

すべてを完璧に、完全にやり通すのは不可能であり、完全でない自分に、完全を求めてはいけません。

いい加減にするのは良くありませんが、完全を求めて頑張りすぎて病気になるということは、それが不自然な考え方であり、生き方だからです。

まわりの言動に振り回されると、一生懸命頑張りすぎてしまい、自分を追い詰めてしまいます。

それぞれに役割があり、自分なりに果たすだけで十分です。



将来、訪れるかもしれない、障害や困難、あるいは別れなどを、あれこれと考えてしまったり、過去の出来事を必要以上に意識してしまったりするのもやめましょう。

この世に生きているのは魂を向上させるためであり、従って悲しみや苦難はつきもので、避けて通れません。過去は閉じられていて、変えることはできません。

しかし、今をどう生きるかで、未来を変えることは可能です。



うつ病になり、何も出来なくなってしまい、自分を責めているのであれば、それは誤りです。

神の摂理が働き、目的があって出来なくさせているのですから。

無駄な時間ではなく、必要な時間です。焦ったり、不安に思ったりせず、ゆっくりと、動けるようになるのを待ちましょう。

つらい病状は、必ず改善してくるはずです。

なぜなら、生きる力は自分で作り出すものではなく、生命である魂が神とつながっていて、神から魂に流れ込んでくるものだからです。

神的エネルギー(生命力)により、生命は生かされています。

神とのつながりが深まれば、より多くの生命(治癒)力が流れ込み、病は癒されてきます。



今は、何をするのも、考えるのも無理であれば、何も考えず、ただただ、ゆっくりと休んでいましょう。

そうすれば、心が生命力で少しずつ満たされてくるはずです。

心が生命力で満たされてくれば、自然に、考えたり、動けるようになってきます。

神とのつながりは永遠であり、一瞬たりとも切れることはありません。神とのつながりを深めるためには、神の摂理に気付き、合わせるしかありません。



すべてのものは、意味を持って存在して、かけがえのないものです。

すべてのことは神の摂理に従って起きています。

神の摂理は愛ですから、安心していればいいのです。表面上は悪く見えても、真相は良い方向に進んでいるので、心配は全くいりません。

神からの生命力により、癒やされない病気はありません。



参考ページ; 「うつ病の人へ」




2014年3月14日金曜日

愛はすべてを乗り越えてつながる



人が死んだらどうなるのか?昔から多くの人を悩ませてきました。

作家である渡部昇一氏の「人は老いて死に、肉体は亡びても、魂は存在するのか?」という書籍にの中に、興味深い一節を見つけました。それは“パスカルの賭け”と言われるものです。パスカルは、「人は考える葦である」という名言を遺し、パスカルの定理も発見した、17世紀のフランスを代表する思想家であり、物理学者です。現代と同様に、パスカルが生きた時代においても、神を信じる人もいれば、無神論者もいたと思われます。パスカルは、神が存在するのか、それとも存在しないか、どちらか一方に賭けるとしたら、存在する方に賭けた方が賢明だと言っています。

神の存在を信じる人は、肉体の死後も生命は続き、来世があると信じます。神の存在を信じない人は、肉体の死をもって終局を迎え、無に帰すと考えます。仮に、神の存在を信じる方に賭けたとします。そして、肉体が死んだ後も生命は存続して、生き続けたとします。そうであれば、神が存在したことになり、賭けに勝ったことになります(〇)。もし、神の存在を信じる方に賭けて、死後の世界はなかったとしても、賭けには負けたことになりますが、無となってしまうため、勝敗自体が無効となります(△)。また、神の存在を信じない方に賭けて、死後の生命がなければ、賭けには勝ちましたが、無となってしまうため、同じく勝敗自体が無効となります(△)。問題なのは、神の存在を信じない方に賭けて、死後の生命があった時です。賭けは負けであり、生命はあるわけですから、負けをはっきりと意識することになります(●)。

神の存在の有無を白黒はっきりさせることはできませんが、パスカルは神の存在を信じる方に賭ければ、少なくても負けはなくなり、リスクがなく、理にかなった選択だと言っています。科学者らしい論理的な考え方に、感心しました。

パスカルに言われるまでもなく、私は魂は存在し、肉体が死んだ後も、生命は続くと思っています。何かを信じているためではなく、自分自身の経験に基づき、そう思っています。プライベートな出来事であるため、詳細は控えさせていただき、書くことにします。

その経験とは、あるご家族と私が出会い、亡くなった方からメッセージを私が受け取り、ご家族に伝えるというものでした。

そのご家族は、仕事の関係で訪ねて来られました。初対面でしたしが、少し前にご家族が亡くなられたと聞き、悲しみを癒すために、何かお役に立てるかもしれないと、その時、直感的に思いました。そして、初めてお会いした数日後の朝のことでした。6時前くらいでしょうか、意識が覚醒する直前に、「ベートーヴェンピアノソナタ」という言葉が、頭の中にはっきりと思い浮かびました。突然そんな言葉が頭に思い浮かぶはずもなく、何らかの意図を持って伝わってきたものと判断し、忘れないようにその言葉を復唱しながら、記憶しました。クラッシック音楽を聴くのは大好きですが、思い浮かんだベートーヴェンピアノソナタがどんな曲なのかは、その時はわかりませんでした。ベートーヴェンのピアノソナタは数曲あり、そのうちの1曲がご家族にとって何らかの意味を持つと、後に直感しました。あまりにも具体的で鮮明でしたので、必ず意味があるという、妙な確信があり、後日、お伝えしたところ、予想した通り、ご家族にとって忘れられない、大切な曲であることがわかりました。故人の棺の中にベートーヴェンピアノソナタのCDを一緒に入れたそうです。

ご家族にとって驚きでしたが、私にとっても驚きであり、偶然一致する確率は、限りなく低いと考えられました。たった1語でしたが、ご家族の話を聞いて、間違いなく亡くなった方からの言葉だと確信するとともに、死後にも生があることを、あらためて実感しました。それから数日後になりますが、仕事が一段落して、すべての雑事を忘れ、何も思わず、何も考えず、鎮まった心で、受身の気持ちでいる時間がありましたので、故人に向かって、「ご家族に対して何かお伝えすることはありますか?」という想いを、投げかけてみました。しばらくして、それに呼応するかのようにメッセージが伝わってきました。次から次へと言葉が頭の中に思い浮かび、それが文章となっていき、それを紙に書きとめていきました。

小説のように、きれいに整理された文章ではありませんでしたが、家族をあたたかく見守り、気遣い、励ます想いに溢れていました。自分が突然いなくなって、悲しんで沈んでいる家族の様子を見て、生きていて、そばにいて、見守っていることを、どうしても伝えたかったのだと思います。向こうの世界から、こちらの世界にメッセージを伝えることの難しさは、シルバーバーチの霊訓に書かれていますが、家族を愛する強い想いがあったからこそ、あらゆる困難を乗り越えてメッセージを伝えてきたのだと思います。

もしかしたら、このメッセージは、私の潜在意識や願望の現れではないかと、思うこともありましたが、ご家族に対して特別な感情や、願望を持っているわけではありません。そして、その前に伝わってきた言葉は、故人を象徴するものであり、確かな証拠となっていましたので、自信を持ってご家族にメッセージを、お伝えしました。人によっては、悲しみに付け込んだ、ひどい侮辱と受けとられてしまうかもしれませんが、私には伝える責任があり、どう思われてもかまわないという覚悟がありました。ご家族は、涙を流しながら聞かれていましたので、心に届いたものと思われ、ホッとしました。仲立ちをして、悲しみが癒され、永遠の別れではなく、先に再会が待っていることがわかり、安心してもらえたならば、これ以上うれしいことはありません。

死んだらどうなるのか?どう考えようとも、個人の自由であり、人が干渉することではありません。ただ、この経験に虚偽はなかったので、肉体の死の後も、魂として生きていて、目には見えなくても、愛する家族のそばにいると解釈する方が、合理的で自然だと、私は思っています。いかに疑り深い人であっても、同じ経験をしたのならば、自分の理性や感性を否定しない限り、魂の存在を認めざるを得なくなるのかもしれません。

生命は魂であり、肉体は魂の想いを表現するための媒体(道具)です。死とは表現する媒体が変わることであり、肉体を失ったとしても、想いがなくなってしまうわけではありません。こちらの想いは、向こうに行った愛する人に確実に伝わっています。しかし、向こうの世界から、こちらに想いは伝えるのは、きわめて困難になります。なぜなら、こちらの世界では、肉体(物質)の存在があまりにも大きいため、魂を意識することは、ほとんどありません。さらに、あわただしい生活を強いられ、雑念や雑音から解放されて、心が静まっている時がほとんどありません。向こうの世界から、想いを伝えようとしても、受け取る側の条件が整っていないと思われます。例えて言えば、感度が悪くなった受信機で、騒がしい部屋の中で、ラジオ放送を聴くようなものと考えられます。また、死んだ人の想いなど、伝わってくるはずがないと思ってしまえば、ラジオのスイッチを切ってしまったのと同じです。私個人の意見としては、こちらの条件さえ整えれば、(魂の)感度を良くして静寂が得られれば、どなたでも、向こうに行った愛する人の想いを受け取ることが出来ると考えています。それを妨げているのは、唯物的思考であり、偏見であり、悲しみの思いなのかもしれません。

(魂を)表現する媒体の次元は違いますが、お互いの魂は同次元ですから、魂から生じる想いは、次元を超えて認識し合えるはずです。悲しみの思いを、しばし脇に置いて、日々の喧騒から離れ、心を鎮めて、愛する想いを投げかけていれば、いつの日か向こうからの想いを受け取り、魂が共鳴して、深い悦びを感じるとともに、生きていることを実感できると考えています。

向こうに行った人の願いは、この世に残してきた愛する人が、(向こうで)元気に暮らしているという真実を知り、少しでも早く悲しみを乗り越えて、この世の人生を活き活きと、全うしてもらうことだと思います。