2014年3月14日金曜日

愛はすべてを乗り越えてつながる



人が死んだらどうなるのか?昔から多くの人を悩ませてきました。

作家である渡部昇一氏の「人は老いて死に、肉体は亡びても、魂は存在するのか?」という書籍にの中に、興味深い一節を見つけました。それは“パスカルの賭け”と言われるものです。パスカルは、「人は考える葦である」という名言を遺し、パスカルの定理も発見した、17世紀のフランスを代表する思想家であり、物理学者です。現代と同様に、パスカルが生きた時代においても、神を信じる人もいれば、無神論者もいたと思われます。パスカルは、神が存在するのか、それとも存在しないか、どちらか一方に賭けるとしたら、存在する方に賭けた方が賢明だと言っています。

神の存在を信じる人は、肉体の死後も生命は続き、来世があると信じます。神の存在を信じない人は、肉体の死をもって終局を迎え、無に帰すと考えます。仮に、神の存在を信じる方に賭けたとします。そして、肉体が死んだ後も生命は存続して、生き続けたとします。そうであれば、神が存在したことになり、賭けに勝ったことになります(〇)。もし、神の存在を信じる方に賭けて、死後の世界はなかったとしても、賭けには負けたことになりますが、無となってしまうため、勝敗自体が無効となります(△)。また、神の存在を信じない方に賭けて、死後の生命がなければ、賭けには勝ちましたが、無となってしまうため、同じく勝敗自体が無効となります(△)。問題なのは、神の存在を信じない方に賭けて、死後の生命があった時です。賭けは負けであり、生命はあるわけですから、負けをはっきりと意識することになります(●)。

神の存在の有無を白黒はっきりさせることはできませんが、パスカルは神の存在を信じる方に賭ければ、少なくても負けはなくなり、リスクがなく、理にかなった選択だと言っています。科学者らしい論理的な考え方に、感心しました。

パスカルに言われるまでもなく、私は魂は存在し、肉体が死んだ後も、生命は続くと思っています。何かを信じているためではなく、自分自身の経験に基づき、そう思っています。プライベートな出来事であるため、詳細は控えさせていただき、書くことにします。

その経験とは、あるご家族と私が出会い、亡くなった方からメッセージを私が受け取り、ご家族に伝えるというものでした。

そのご家族は、仕事の関係で訪ねて来られました。初対面でしたしが、少し前にご家族が亡くなられたと聞き、悲しみを癒すために、何かお役に立てるかもしれないと、その時、直感的に思いました。そして、初めてお会いした数日後の朝のことでした。6時前くらいでしょうか、意識が覚醒する直前に、「ベートーヴェンピアノソナタ」という言葉が、頭の中にはっきりと思い浮かびました。突然そんな言葉が頭に思い浮かぶはずもなく、何らかの意図を持って伝わってきたものと判断し、忘れないようにその言葉を復唱しながら、記憶しました。クラッシック音楽を聴くのは大好きですが、思い浮かんだベートーヴェンピアノソナタがどんな曲なのかは、その時はわかりませんでした。ベートーヴェンのピアノソナタは数曲あり、そのうちの1曲がご家族にとって何らかの意味を持つと、後に直感しました。あまりにも具体的で鮮明でしたので、必ず意味があるという、妙な確信があり、後日、お伝えしたところ、予想した通り、ご家族にとって忘れられない、大切な曲であることがわかりました。故人の棺の中にベートーヴェンピアノソナタのCDを一緒に入れたそうです。

ご家族にとって驚きでしたが、私にとっても驚きであり、偶然一致する確率は、限りなく低いと考えられました。たった1語でしたが、ご家族の話を聞いて、間違いなく亡くなった方からの言葉だと確信するとともに、死後にも生があることを、あらためて実感しました。それから数日後になりますが、仕事が一段落して、すべての雑事を忘れ、何も思わず、何も考えず、鎮まった心で、受身の気持ちでいる時間がありましたので、故人に向かって、「ご家族に対して何かお伝えすることはありますか?」という想いを、投げかけてみました。しばらくして、それに呼応するかのようにメッセージが伝わってきました。次から次へと言葉が頭の中に思い浮かび、それが文章となっていき、それを紙に書きとめていきました。

小説のように、きれいに整理された文章ではありませんでしたが、家族をあたたかく見守り、気遣い、励ます想いに溢れていました。自分が突然いなくなって、悲しんで沈んでいる家族の様子を見て、生きていて、そばにいて、見守っていることを、どうしても伝えたかったのだと思います。向こうの世界から、こちらの世界にメッセージを伝えることの難しさは、シルバーバーチの霊訓に書かれていますが、家族を愛する強い想いがあったからこそ、あらゆる困難を乗り越えてメッセージを伝えてきたのだと思います。

もしかしたら、このメッセージは、私の潜在意識や願望の現れではないかと、思うこともありましたが、ご家族に対して特別な感情や、願望を持っているわけではありません。そして、その前に伝わってきた言葉は、故人を象徴するものであり、確かな証拠となっていましたので、自信を持ってご家族にメッセージを、お伝えしました。人によっては、悲しみに付け込んだ、ひどい侮辱と受けとられてしまうかもしれませんが、私には伝える責任があり、どう思われてもかまわないという覚悟がありました。ご家族は、涙を流しながら聞かれていましたので、心に届いたものと思われ、ホッとしました。仲立ちをして、悲しみが癒され、永遠の別れではなく、先に再会が待っていることがわかり、安心してもらえたならば、これ以上うれしいことはありません。

死んだらどうなるのか?どう考えようとも、個人の自由であり、人が干渉することではありません。ただ、この経験に虚偽はなかったので、肉体の死の後も、魂として生きていて、目には見えなくても、愛する家族のそばにいると解釈する方が、合理的で自然だと、私は思っています。いかに疑り深い人であっても、同じ経験をしたのならば、自分の理性や感性を否定しない限り、魂の存在を認めざるを得なくなるのかもしれません。

生命は魂であり、肉体は魂の想いを表現するための媒体(道具)です。死とは表現する媒体が変わることであり、肉体を失ったとしても、想いがなくなってしまうわけではありません。こちらの想いは、向こうに行った愛する人に確実に伝わっています。しかし、向こうの世界から、こちらに想いは伝えるのは、きわめて困難になります。なぜなら、こちらの世界では、肉体(物質)の存在があまりにも大きいため、魂を意識することは、ほとんどありません。さらに、あわただしい生活を強いられ、雑念や雑音から解放されて、心が静まっている時がほとんどありません。向こうの世界から、想いを伝えようとしても、受け取る側の条件が整っていないと思われます。例えて言えば、感度が悪くなった受信機で、騒がしい部屋の中で、ラジオ放送を聴くようなものと考えられます。また、死んだ人の想いなど、伝わってくるはずがないと思ってしまえば、ラジオのスイッチを切ってしまったのと同じです。私個人の意見としては、こちらの条件さえ整えれば、(魂の)感度を良くして静寂が得られれば、どなたでも、向こうに行った愛する人の想いを受け取ることが出来ると考えています。それを妨げているのは、唯物的思考であり、偏見であり、悲しみの思いなのかもしれません。

(魂を)表現する媒体の次元は違いますが、お互いの魂は同次元ですから、魂から生じる想いは、次元を超えて認識し合えるはずです。悲しみの思いを、しばし脇に置いて、日々の喧騒から離れ、心を鎮めて、愛する想いを投げかけていれば、いつの日か向こうからの想いを受け取り、魂が共鳴して、深い悦びを感じるとともに、生きていることを実感できると考えています。

向こうに行った人の願いは、この世に残してきた愛する人が、(向こうで)元気に暮らしているという真実を知り、少しでも早く悲しみを乗り越えて、この世の人生を活き活きと、全うしてもらうことだと思います。

2 件のコメント:

いわし雲 さんのコメント...

イクミ様、こんにちは。

2年ほど前から、時々貴ブログに来て、記事を読ませていただいております。
ありがとうございます。

少し前から私もブログを始め、方向性のない記事をポツリポツリと書いております。
昨年、渡部昇一さんの本を読んで「パスカルの賭け」の話を知り、先日そのことに関連して記事を書いたところです。


自分の記事の見え方を確認したくて検索したところ、思いがけずイクミ様の記事を見つけ驚きました。
失礼ながら、イクミ様と渡部昇一さんとは私の中でイメージが合いませんでしたから。
しかし、なぜか嬉しかったです。


私はまだ、なかなか「許す」というところまでいかず、神の摂理に沿わない生き方をしてしまっていると思っていますが、少しずつでも改めたいと思っています。

今後とも、シルバーバーチの霊訓を基にした記事をよろしくお願いいたします。

イクミ さんのコメント...

いわし雲様

初めましてイクミです。ブログを読んでいただき、ありがとうございます。
少し前からブログを書いているのですね。
その中で、パスカルの賭けについて書いて、検索で私の記事を再度見つけたのですね。
パスカルの賭けは、神もあの世も信じないけれども、物事を論理的に考える人に話すと、説得力があるのではないかと思います。

いわし雲様は「許す」ところまで行かないと言うことですが、私も許せずに、怒りまではいきませんが、腹立たしい心境に陥ることがあります。
また逆に、社会や人の不正に対して、許してしまうことがあります。

シルバーバーチの霊訓には、寛容は霊性の真髄と書いてあったと思いますが、かつて許せなかったことを、許せるようになるのが、この世を生きる私たちの、大きな目的であるのは間違いないと思います。
それは魂の成長がなければ、なし得ないと考えるからです。

至らない人間が、至らないブログを書いていると思いますが、霊的真理をこの世に広めて行くのが、今生の使命と受け止めていますので、また、ご意見や感想などを聞かせていただければ幸いです。

励みになります。ありがとうございました。