2014年8月15日金曜日

苦しみから解放されるために許す



人は、肉体で愛を表現するために、この世を生きています。

人にやさしくする、親切にする、社会奉仕をするのは、直接的な愛の表現であるのに対し、人を許すことは、自己犠牲を伴い、間接的な愛の表現と言っていいのかもしれません。

しかし、人を許すのは、口で言うほど生易しいものではありません。

生きていると、さまざまな出来事に遭遇します。

うれしいことばかりであればいいのですが、この世は苦しいこと、つらいこと、悲しいことにも出会います。

その中には、他の人の行いが原因となり、苦難を経験しなければいけないことがあります。

自分が蒔いた種で、苦しみを味わうのであれば、納得できますが、他人のせいで自分が苦しむのは、とても納得できるものではありません。

怒り、恨み、憎しみの想いが、湧き上がってしまうのを、どうしても、抑えきれないことがあります。


数年前に、想像を絶する苦難を味わっている人との出会いがありました。

その人は、相手の暴挙とも言える過ちにより、とても大切なものを失いました。

恨むなというのが無理なほどの、酷い仕打ちでした。

詳しくは書けませんが、人が経験する苦難としては、おそらく最も過酷ではないかと思います。

相手は反省するどころか、その人に非があったと開き直っています。

その人は、当然のことながら、相手を激しく憎み、そして恨んでいたと思います。

相手をいくら憎んでも、大切なものは帰ってこないと分かっていても、そこにしか、やりきれない思いの持って行き場はありません。

深い悲しみ、身悶えるような苦しみ、絶望の日々の末に、喜びの真実に辿り着くことができました。

そして、相手を許しました。

相手を憎むのと同時に、容赦なく自分を攻め続けていました。

喜びの真実により、自分を攻めることから解放されました。

私はその人から、自分が許されなければ、相手を許すことはできないことを学びました。


自分が苦しい思いをしているのに、相手を許す気持ちには、とてもなれません。

ただ、勘違いしてはいけないことがあります。

それは、自分を苦しめているのは、相手の過ちそのものではなく、それによって生じた怒り、憎しみ、恨みの想いだということです。

その想いが、神の摂理に反しているために、因果律により、苦しみが生じています。

それを知らずに、こんなに自分が苦しい思いをしているのは、相手の(過ちの)せいだと思ってしまうと、憎しみ、恨みの想いが増していきます。

憎しみや恨みが増していけば、因果律により、苦しみが増していきます。

その悪循環を断ち切らなければいけません。

相手を憎むことにより、気持ちが晴れて、苦しみから逃れられることは、決してありません。

苦しみから解放されたいのであれば、憎しみ、恨みの想いから、自分を解放してやらなければいけません。

憎しみ、恨みの想いを解放するには、とてもつらいことですが、相手を許さなければいけません。

相手を許すには、まず傷ついた自分を癒やさなければいけません。

肉体の傷が自然治癒力という神の力で癒やされてくるように、心の傷も神の力により癒されてきます。

時とともに、傷は少しずつ癒されてきますが、傷が深いければ深いほど、長い時間を要します。

失ったものが、元に戻らないのであれば、傷はなくならないかもしれません。

ただし、影響を与えているのは、傷そのものではなく、傷から生じる想いです。

傷は消せませんが、傷から生じる想いを消そうとすることはできます。

傷から生じる想いを消していくためには、自分への愛が必要となります。

ありのままの自分を認めて、大切にしなければいけません。

足りない自分、違っている自分、変わっている自分は、劣っているのではありません。

すべてが足りている人は、この世に存在しません。

人と違っているのは当たり前であり、それをお互いに認め合うことは、この世を生きる1つの意味であると思います。

正直に、素直に生きることは、ありにままの自分を認めることにつながります。

投げやりにならずに、今を真剣に生きることは、自分を大切にするとにつながります。

つらくても正直に、素直に、真剣に生きていれば、神の力で傷は癒されて、想いは生じにくくなっていくと考えられます。

正直に、素直に、真剣に生きようとする努力は、魂を向上させると思われるからです。

そして、いつの日か相手を許せる時が来ると思います。

相手を許せた瞬間に、憎しみ、恨みの想いから解放されて、長かった苦しみからも解放されると思います。


正直な自分とは、どんな自分だろうと考えてしまいます。

憎しみや、恨みに染まった自分ではないはずです。

正直な自分とは、魂です。

魂は神の一部であり、繋がりが切れることはありません。

生命は、魂に流れ込む神の力により生かされています。

神の力とは、愛を表現する力そのものです。

許すことも、愛の表現であれば、正直な自分は、許そうとしているはずです。


生きていると、許すか、許さないかの判断に迫られることの連続です。

許すか、許さないかは、自分の自由です。

「右の頬をぶたれたら、左の頬を差し出しなさい」とイエス・キリストは言いましたが、許すことの大切さ、愛の大切さを表現しています。


許せずに、怒りや、憎しみや、恨みの想いに、いつまでも捕らわれているのは、賢明ではありません。

神の摂理により、自らが苦しむだけだからです


この世は、肉体で愛を表現するためにあります。

怒り、憎しみ、恨みの想いを抱き続ければ、愛の表現は妨げられたままです。

この世を生きている意味を、大きく失ってしまいます。


許すには、相等の苦しみや痛みを伴いますが、その行為は摂理に適っているため、やがてなくなるでしょう。

魂の向上が図らた上に、苦しみからも解放されるのであれば、その意味はとても大きいと思います。















1 件のコメント:

冬の太陽 さんのコメント...

求めていた答えがわかったように思います。自分を傷つけた人が許せなかったのは、傷ついた自分が許せなかったからなんだと納得しました。傷ついた自分を認める、愛する、大事にする。それから相手を許せるようになりたいと思います。ありがとうございました。