2015年8月16日日曜日

病気は生まれてきた目的を果たすためにある



世界にはたくさんの国があり、その国独自の法律があります。

私たちが平然としている行為が、よその国では法律に触れてしまう場合があるようです。

例えば、日本では、日本料理の店に行くと、魚介の活造りが出されますが、ニュージーランドではタコやロブスターの活き造りは法律で禁止されているようです。

日本では夏の炎天下に日陰のないところで犬をつないでいる家を見かけますが、アメリカのある州ではその様な行為が見つかると動物虐待とみなされ、飼い主は警察に逮捕されるそうです。

破ってしまえば、ペナルティーが課せられるのを知っているので、人は法律を守りながら生きています。



人間を規制しているのは、国や地域で定められた法律だけではありません。

目に見えない自然法則が、万物に働いていています。

多くの人が知っているのは物理法則です。

物を空に向かって投げると、地面に落ちてくるという現象は、万有引力の法則の働きであることは、ほとんどの人が知っています。

しかし、遠い昔の人は、その現象が法則に則って起きているとは思っていませんでした。



当たり前の様に起きていることも、何らかの法則に則って起きています。

すべての現象、出来事は何らかの法則が働いた結果として、生じているということになります。

昔の人が万有引力の法則を知らなかったように、現代に生きる私たちも、未だ知らない法則が無数に存在しています。



人々を苦しめている病気については、どうでしょうか?

現代医学の発展は目覚しく、病気が発症するメカニズムについて、多くの知見が得られています。

必要以上に食物を摂取し続けると肥満傾向となり、糖尿病などの生活習慣病になりやすくなります。

喫煙を続けると、肺ガンになるリスクは高まります。

肉体的法則は、エビデンス(科学的根拠)に基づいているので、証明されたものとして、信頼して遵守しようとします。



一般的に、人間を構成しているのは、目に見える肉体と、目にみえない精神と思われています。

もし精神が存在しなければ、肉体は司令塔を失ったことになり、動きが失われます。



ところで、精神とは何でしょう?

心とは何でしょう?

感情とは何でしょう?

それは、大脳皮質において脳内神経伝達物質のやり取りで作り出される幻影なのでしょうか?



そもそも、感情は何のためにあるのでしょうか?

もし、大脳が精密な機械で、肉体に指令を出したり、効率的に生きるために思考を行う存在であれば、怒りや、悲しみのどの感情は、とても余分なものに思えてしまいます。

そんな余分な感情が、大脳から生じる理由は、どこにも見つかりません。



感情はなぜ生まれるのか、どのように生まれるのか、大脳生理学では依然不明のままです。

感情とか心を、大脳の働きで説明するのは、限界があるようです。



もし、目に見えない「魂」の存在を認めてもらえるのなら、感情や心について、簡単に説明がつきます。



魂から生じているのは、想い(思念)です。

想い(思念)が精神に投影され、感情となります。

その感情は、肉体で表現されて完結します。

魂から生じた想いが、精神を経由して感情となり、肉体で表現されています。



精神には、頭脳と心(感情)の両側面があります。

頭脳は、コンピューターと同じで、状況を判断して、計算して、合理的、効率的な答えを導き出し、より良く生きるためにあります。

感情は、それとは全く異なり、魂から生じた想いを表在化させるものであり、精神のもう1つの側面です。

感情とは、想いを肉体で表現するためにある、この世だけの媒体だと思います。



肉体のみならず、精神にも法則が存在し、その法則に反してしまうと病気が生じます。

心が働き過ぎたとしても、休息すれば回復しますが、肉体と違って疲弊していても気付かないことが多く、激しい情動が持続してエネルギーが枯渇すると、強制的に休ませるような事態が生じます。

うつ病(状態)と言われる状態であり、病状の回復には心の休息が必要と思われます。



しかし、人間を苦しめている病気は、肉体的、精神的法則に背いた結果として生じているだけではありません。

感情の素となる、想いが生まれている魂(霊)にも、病気を生じさせる法則が存在します。

霊的法則に背いた結果、生じている病気は多くあると思いますが、現代医学では霊(魂)の存在を否定しているために、原因不明とされてしまいます。

そのことについて、拙い文章で理解していただけるかどうか判りませんが、書いていきます。



生きていると、さまざまな出来事が、自分の身に起こってきます。

うれしいこと、楽しいこと、悲しいこと、悔しいことなど、その1つ1つが積み重なって人生となっていきます。



ささいな出来事であれば、頭で考えて対処していきます。

しかし、深刻な出来事が起きると、魂にまで届いて、何らかの想いが生じます。

「想い」と書きましたが、その言葉が一番近いと考えたからであり、それ以外の言葉が見つからないからです。

感情になる前の、言葉に表せない何かです。



想いは目に見えませんが、精神で感情となって、肉体を突き動かす力に変わっていきます。

人からひどい仕打ちを受ければ、怒りや憎しみとなり、相手に怒りをぶつけてしまうかもしれません。

愛する人を亡くしたのなら、深い悲しみとなり、涙が流れてしまいます。



喜び、悲しみ、怒り、憎しみ、恨み、嫉妬など、たくさんの想いがありますが、それ以外にも言葉に言い表せない想いがたくさんあると思います。

そんな想いが、魂から生じていますが、人に知られることはありません。

人に知られるどころか、自分でも想いに気付いていないことが多いと思われます。

慌しく動き回り、頭ばかりを使った生活をしているので、魂から生じている想いに、気付かなくなっています。

気付かれない想いは、肉体で表現して解放されないので、溜まっていきます。



この世は物質の世界です。

そのため、魂から生じる想いを外に向かって表現するのに、肉体という目に見える媒体を使用しなければいけません。

肉体は、魂を包んでいる鎧のようなものであり、あまりにも鈍く、そして重いため、意識はそちらばかり行ってしまいます。

かつての私もそうでしたが、肉体こそが自分だと錯覚してしまっている人が、限りなく多くいます。

何もなく生きていれば、目に見えるものが全てに思え、魂などには意識は向かず、存在を感じることは、ほぼありません。



人の本質は、魂です。

魂とは生命そのものです。

魂とは、生命エネルギーがほとばしる出口と、言えるのかもしれません。



人体の1つ1つの細胞は、人体を構成するの一部分であり、何らかの役割を持ち、密接な連携の下に、繋がりながら、人体からエネルギーが供給されて生きています。

同じく、1人1人の人間(魂)は、全体を構成する一部分であり、何らかの役割を持ち、密接な連携の下に、繋がりながら、全体からエネルギー(生命力)が供給されて生きています。




全体とは、想像をはるかに超えた極大なものです。

地球に暮らす人類は、全体から見ると極小の一部に過ぎませんが、全体を表現している一部に変わりなく、極めて類似している魂の集合と思われます。

全体の意志を、個々(の魂)が表現しています。

宗教的に聞こえるかもしれませんが、全体の意志を、神の心と言い換えて良いのかもしれません。



魂は、全体の一部であるために、神の心をしきりに表現したがります。

世界のどこかで大災害が発生すると、世界中から人が集まってきて、人道支援が行われています。

溺れている子供がいると、我が身の危険を顧みずに、飛び込んで助けようとする人がいます。

打算を抜きにした、滅私の人助けが行われるのは、人間は肉体を超えた魂であり、ごく自然に神の心を表現したがっていることを物語っています。



神の心とは愛です。

私は宗教にあまり詳しくありませんが、2000年前にイエス・キリストがすでに言っていたことであり、釈迦は慈悲という表現をしていると思います。

言葉は違っても、同じことを、伝えたいのだと思います。



その神の心は、自然法則を通して、顕現しています。



今日も、世界のどこかで争いが起きています。

その結果、傷つき、悲しむ人が後を絶ちません。

人は理由もなく、相手を殺したり、傷つけたりはしません。

そこに、強い怒りや憎しみの想いがあるからであり、暴力によりその想いを相手にぶつけて、伝えているだけです。

暴力を受けた者は、傷つき、悲しみ、それが怒りや憎しみに変わり、その想いを相手に返していきます。

想いを返されることにより、苦痛が生まれます。

俗に言う「憎しみの連鎖」ですが、自分から出た憎しみの想いが、自分に返ってきているだけであり、因果律という自然法則の働きによるものです。



実際にあった、とても身近な話ですが、私の知り合いの男性は、家族内(妻、娘2人)で孤立して、会話もなく、長い間、寂しい思いをしていたそうです。

そんな時に、飼い主がいなくなってしまった犬を引き取ることになりました。

ただ、その犬には大きな身体の障害があり、飼うのは決して簡単ではありませんでした。

家族が1つになって、犬のことを考えました。

犬の周りに家族が集まり、みんなで世話をしました。

すると、いつのまにか犬を中心にして、家族の間に会話が生まれ、とてもあたたかい雰囲気になっていったそうです。

喜ばしいことに、長い間の孤立から、男性は解放されたそうです。

犬を幸せにしようとする愛の想いが、自らに返ってきて家族が幸せになったのであり、自然法則(因果律)の働きによるものと思っています。



自然法則は、実にシンプルです。

自然法則に従えば悦びがもたらされ、背けば苦痛がもたらされます。



人は、苦痛を味わいたくありません。

悦びを感じながら、生きていたいです。

自らが苦痛を経験して、自然法則の働きを知り、それに従うようになって行きます。

苦しみや痛みを通して、怒りや憎しみなど愛に反する想いを、愛の想いに変えていくように、自然法則は導いています。

自然法則が存在する目的は、人間(生命)を、より次元の高い愛を表現できるように、導くためにあると思います。

別の言い方をすれば、神に近づけるためにあると思います。



人は、愛はすばらしいもの、大切なものだと理解しています。

そうは思っていても、現実の生活が大切であり、つい忘れがちになってしまいます。

愛は理想に過ぎず、もっと大切なことがあると思っている人もいるでしょう。

目に見えない愛よりも、目に見えるお金が大切に思えてしまう人もいるでしょう。

自尊心を満足させるものを追い求めたり、頭ばかりを使った生活をしていると、本当に大切なものは忘れられてしまいます。



この世で愛すること以上に、大切なものはありません。

なぜならば、愛を表現して、霊性を高めるために、この世に生まれてきたからです。

残念ながら、魂にまで響き、目覚めるような出来事が起こらない限り、そのことに気付きません。



病気は、肉体的、精神的、霊的な自然法則に背いた結果として生じます。

病気には苦痛が伴いますが、それは自然法則に背いた過ちを償うためです。

肉体がある1つの目的は、自然法則に背いた時の痛みを感じるためであり、その痛みを通して自然法則の働きを知るためと思います。



霊的な自然法則は、魂から生まれる想いにも働いています。

想いには、自然法則に適ったものと、自然法則に背いたものがあります。

法則の根底には愛があるため、自然法則に適った想いとは、もちろん愛の想いです。

怒りや憎しみ、恨みや嫉妬などの想いは、愛と対極にある、自然法則に背いた想いです。



愛の想いとは、人や動物を好きになる気持ちもそうですが、他者を慈しみ、やさしくしたり、親切にしたり、奉仕したりする動機になる想いも含まれます。

そして、忘れてしまいたいような出来事を受け入れたり、意見の違う人を認めたり、あるいは許したりするのも、自己犠牲を伴うため、自然法則に適った想いと思われます。

愛に反する想いとは、怒り、憎しみ、恨み、妬み、貪欲など、傷つけようとする衝動が生まれるような想いですが、それ以外にもあります。

人や出来事を拒絶したり、認めなかったり、許さなかったりするのは、自然法則に背いた想いです。



心の中でどう思おうと勝手であり、行動に移さなければ問題ないと思われるかもしれませんが、想いには自然法則が厳格に働いていることを忘れてはいけません。

想いは目に見えず、この世の人に知られることはなくても、霊的には実在であり、影響力を持っています。

想いは、一種のエネルギーと考えて良いと思います。

とても強い怒りの想いを持っている人のそばに行くと、自分自身もなぜか怒りの感情が生まれてしまうことがあります。

その放散されている想いを受け取っているためであり、想いは周囲に影響を与える力となっています。

想いは、精神を経由して、肉体で表現される力に変わり、外に向かって出されることで完結します。

しかし、何らかの理由で、肉体で表現できないと、内に留まって、自分自身に大きな影響を与えます。



愛に反した、怒り、憎しみ、恨み、妬みなどの想いが溜まっていくと、その後の行動を変えて行きます。

怒りや憎しみがうっ積した状態で、人にやさしくできるでしょうか?

やさしくするどころか、ふとしたことで、うっ積した想いが吐き出され、人を傷つけてしまうかもしれません。



俗に言う、ストレスが溜まった状態と呼ばれるのは、表現できない想いが溜まった状態と考えられます。

運動したり、趣味に没頭したり、おしゃべりしたりすることで、人はストレスを解消していますが、それは内に溜まった想いを吐き出している行為だと思います。

しかし、常日頃から怒りを感じていたり、憎しみを抱いていると、自分では解放できないほどの、想いが溜まっていきます。

その溜まった想いが、自分の性格(パーソナリティ)に影響を与えています。

怒りの想いが滞っている間は、相手を思いやり、やさしくする想いは生まれません。

自分の奥底では、人にやさしくしたり、親切にしたいと思っていても、その想いが行動に影響を与えて、どうしてもやさしく出来ません。

魂から生じた想いが、歪められた性格(パーソナリティ)により遮られて、表現できなくなってしまっています。

溜まっている想いは、人生に大きく影響を与えています。



人が生きている目的は、魂を成長させるためです。

魂は、苦難や障害を乗り越えたり、他者に愛を表現(奉仕)することで成長していきます。



人には、この世のおおまかなシナリオがあり、そのシナリオに沿って人生が展開していきます。

そのシナリオに沿って起きる出来事を、自分の想いに従い乗り越えていくことで、魂の成長が得られるようになっています。

自分の想いを表現しようとしても、想いにより歪められてしまったパーソナリティは、そうさせようとしません。

これでは、魂を成長させることは出来ず、それではこの世を生きている意味を大きく失ってしまいます。



成長を妨げるような想いは、一刻も早く手放さなければいけません。

しかし、その想いが根深い場合は、自分でいかに努力しても手放すことはできません。



魂から生じた想いを表現するために、媒体として肉体があります。

表現されなかった(愛に反した)想いは、因果律の働きによって、別の形で表現されます。

自然法則に反した想いは、五感に触れる心身の不調や病気という形となって表現されます。



想いの様相は、病態に表現されます。

怒りや憎しみなど想いは、身体上に攻撃的な組織となって表現されるかもしれません。

自分を責める想いは、身体を守る機能を、責めてしまうように変えていくかもしれません。

身体上に現れた(霊的な)病気を観察すれば、自分の内にどんな想いがあるのか、およそ見当がつくと思われます。



霊的な病気は、いくつかの目的があって生じると思われます。

その1つは、目に見えない想いが滞っていることを、目に見える病気として、認識させるためであり、もう1つは、その様な(愛に反した)想いを抱き続けたことに対する、償いです。



病気の苦痛は、償いであると共に、それまで眠っていた魂を目覚めさせます。

魂とは生命そのものであり、本当の自分です。

魂に目覚めるとは、本当の自分に気付くことです。

本当の自分に気付けば、そこから生まれている想いに気付くようになります。



そして、魂が目覚めると、全体の意志(神の心)に目覚め、本当に大切なものは、愛であることに気付きます。



愛に目覚めれば、滞っている(愛に反した)想いは、魂との間に親和性を失い、異物となり解放されます。

想いが解放されれば、本当の自分が表現できるようになり、肉体上の病気は存在理由を失い、消退していくと考えられます。



個々は独立しているように見えていても、魂が目覚めれば、実はそれぞれがつながっていて、役立て合いながら生きていると言う、調和や協調の意識が自然に生まれます。

調和や協調の意識が生まれれば、肉体もそれに従い、身体は調和や協調を取り戻して、正常に機能するようになっていくと思われます。



病気は、その人の魂の成長にとって必要な時に、自然法則に則って生じます。

過去生の償いをするために、病気や障害を持つ肉体に宿る魂がいます。

また、魂を成長させるために、病気という苦難を志願して誕生する、進化した魂もいます。

幼い子供の病気は、とても痛々しく、それを目の当たりにしているご家族の気持ちを察すると、言葉がありません。

それは、両者にとって、この世で魂を成長させるために必要な出来事であり、予め決められていたシナリオに沿っている可能性が高いと思われます。

とても思いやりがあり、親切で、やさしく、思いやりに溢れた子供(人)が、突然病気になり闘病して、向こうに逝ってしまう時があります。

何で、こんな良い子(人)が早く逝ってしまうのかと、周囲の人は嘆きますが、その時点で学ぶべきものを学んでいて、この世のシナリオは終わりなのかもしれません。

この世という学校を早く卒業できた、魂の優秀な生徒かもしれず、卒業を許された生徒が、学校(この世)に残る理由はどこにもありません。



早く逝った人が不幸で、病気が治った人が幸福であるというのは、物事を一面からしか見ていないと思います。

次の世界は、肉体から解放された自由で快適な世界であり、この世は肉体に魂が閉じ込められた世界です。

どちらが自由で快適な世界であるか、判り切ったことなのですが、次の世界のことを知らないために、この世で生きているのが1番だと錯覚してしまいます。

その証拠に、次の世界に行ってから、この世にもっといたかったと思う人は、あまりいません。



自然法則に背いた想いを抱いたり、自然法則に背いた行いをしてしまい、因果律の働きで病気になった人は、その過ちに気付き、苦痛による償いが終わったなら、健康な心身を取り戻すことが出来ると考えられます。

病気の苦痛により想いが解放されて、本来の自分に戻ると考えられます。

まだ、自分が果たさなければならない役割が、この世に残っていて、それを全うしてから次の世界に行くのだと思います。

元気になって、もう少しこの世で、学ばなければならないことがあると思われます。



本当の自分が姿を現したのなら、自分の想いに素直に従って生きなければいけません。

何事にも惑わされることなく、本当の自分の想いに、忠実に生きなければいけません。

湧き上がる想いを、素直に表現するだけです。

十分な痛みを経験し、つらい日々を過ごしたことにより、魂は浄化され、人の痛みが判るようになり、神の心が自然に表現できるようになっているので、自信を持って下さい。



本当の自分を、自分のやさしさを、つらい出来事で見失ってしまったのです。

想いが積み重なっていってしまったために、本当の自分がわからなくなってしまったのです。

見失ってしまった本当の自分を、取り戻すために、病気になったのです。

病気になり、苦痛を経験するのは、自分に上塗りされている余分なものを削ぎ落とし、本当の自分の顔を出させるためです。



繰り返しますが、この世に生まれてきたのは、魂を成長させるためです。

それ以外に、何もありません。

魂を成長させるために、本当の自分の想いを表現していかなければいけません。

自分でも気付いていなかった、過去に生じた(愛に反した)想いがあるために、本当の想いが表現できなくなっているだけです。

その想いがなくなれば、本当の自分の想いを表現できます。

本当の自分の想いを表現できれば、魂は成長していき、この世に生まれた意味が成就されます。



病気は、人を不幸にさせるためになるのではありません。

病気は、運が悪かったり、偶然なるのではありません。

この世に生まれてきた目的を果たすためには、本当の自分(魂)に目覚めなければならないのです。



病気になったのは、本当の自分に目覚めるためであり、この世に生まれてきた目的を果たすためです。









2015年8月2日日曜日

この世の出来事の意味を知る時 



今から10年くらい前に、長野県の軽井沢にあった美術館をぶらっと訪ねました。

美術館の外に、立て看板が掛かっていて、その女性の憂いをたたえ、情熱を秘めた瞳に引き付けられました。


この女性の名はカミーユ・クローデルと言い、フランスの彫刻家です。

私はその名前を知りませんでしたが、館内にある解説文と展示品の説明文を読みながら、彫刻を観ているうちに、芸術家として、そして一人の女性としての人生に、次第に引き込まれていきました。



カミーユは、1864年にパリから少し離れたフランスの地方都市で生まれます。

芸術とは関係ない家庭環境に育ちましたが、少女期より卓越した彫刻の才能を発揮していました。

その後、一家はパリに移り、カミーユはその才能を買われてオーギュスト・ロダンの元へ19歳で弟子入りをします。

その当時、ロダンは42歳であり、新進気鋭の彫刻家でした。

ロダンは、カミーユの若さと美貌、そして溢れんばかりの才能と情熱に、大いに触発されました。

カミーユも、師匠であるロダンを、心から尊敬していました。

そして、芸術に全てを捧げる同志として惹かれあい、いつしか深く愛し合うようになりました。

2人は、お互いを高め合いながら、数々の傑作を生み出してしいきます。

カミーユとロダンは、弟子あるいは愛人の関係を超えて、芸術的パートナーとなって行きます。

ロダンの代表作となる「地獄の門」は、カミーユの独創的なアイデアが取り入れられています。

上の作品がロダン、下がカミーユのものですが、とても似ていて、二人の輝く日々が良く表現されていると思います。




ロダンには若い時から苦楽をともにしてきた、内縁関係にあるローズという女性がいて、二人の間には子供もいました。

ローズは、ロダンの生活を陰から支える月のような存在であり、カミーユは創作意欲を掻き立てる熱源であり、太陽のような存在だったかも知れません。

約15年に渡り、三角関係は続きましたが、カミーユは業を煮やして、ロダンにどちらを取るのか決断を迫ります。

そして、苦悩の末に出した結論は、ローズの元に帰るというものでした。

カミーユの落胆、悲しみ、激しい怒り、そして嫉妬は、察してあまり余るものがあります。

その時の想いを、彫刻に表現したのが、下の写真の「分別盛り」(1899年)です。


私は、この彫刻を観て、釘づけとなり、大きな衝撃を受けました。

若い女性の表情からはカミーユの深い悲しみ、男性からはロダンの苦悩と懺悔、老女からはローズの悪意のような想いが表現されています。

悪意のような想いは、カミーユの怒りや憎しみ、そして嫉妬が投影されたものと思われます。

それまで愛について深く考えることはなく、思い浮かぶものと言えば、恋愛と家族愛くらいで、気恥ずかしさを感じていました。

思っている以上に奥深いものであり、私の中にある「愛」の概念が変わったのを、その時に感じました。



決別した後も、カミーユは彫刻を創り続けました。

しかし、ロダンの弟子(愛人)というラベルが張られてしまい、思うような評価は得られませんでした。

作品は思うように売れず、生活は次第に困窮していきます。

一方、ロダンは「考える人」など傑出した作品を世に出し、ルネサンス期のミケランジェロと並び称せられるほどの存在となります。



女性として、芸術家としてプライドを、ことごとく傷つけられ、カミーユの生活は次第にすさんでいきます。

自分のアイデアを、ロダンが盗みに来るという被害妄想に捉われ、創った作品を壊してしまうほどになりました。

そして、良き理解者であった父親も喪い、カミーユは日常生活に支障を来たすほど精神を病んでしまい、アトリエは閉められてパリ郊外で療養生活を送ることになります。

訪ねて来る人もほとんどなく、30年に及んだ長い療養生活の末に、ひっそりと人生の幕を閉じます。

母親との確執があったため、一族の墓にも入れてもらえなかったそうです。



多くの人から見れば、カミーユの人生は最愛の人に裏切られて、独りこの世を去っていく、女性芸術家の哀しい物語になります。

『カミーユ・クローデル』という映画に、この世の人生が美しい映像と音楽とともに描写されています。(フランス・1988年・2時間36分・主演イザベル・アジャーニ)



私は、カミーユの人生は、決して悲劇ではないと思います。

人生と言う物語は、この世で完結してしまうわけではありません。

死んだ後も、人生は続き、新たな章が始まります。

この世での悲しみ、苦しみの意味が、新たな章で全て明らかになります。



希望も多分に入っていますが、私なりの物語を書いてみます。



人にはそれぞれ、生まれてきた目的があります。

カミーユとロダンは、非常に親(ちか)しい魂同士であり、この世に生まれた目的は、優れた彫刻を地上に遺し、観る人の魂を揺り動かすためです。

二人は、見えざる力により導かれて、出会うべくして出会います。

出会いは、この世で探し求めていた魂との再会であり、予定されていたシナリオの始まりです。

一目見た時に、他の人には感じることのなかった、言いようのない親しみを感じます。

頭での記憶は全くありませんが、魂にかすかに残る生まれる前の残像により、懐かしさにも似た想いを感じます。

この世で、出会うことになっている魂にやっと巡りあえた、言い知れぬ悦びに二人は浸ります。



2つの親しい魂は、生まれる前の様に1つになろうとするので、求め合い、愛し合うのは、当然の成り行きです。

男女を超えた奥深いところで、2つの魂は強く結ばれています。

しかし、2つの魂は、この世ではそれぞれ「顔」を被っています。

カミーユにとって、ロダンのこの世の「顔」は大きな障壁となり、時に激しく衝突してしまいます。



カミーユは、ロダンの全てを独占する形を望みましたが、それは叶いませんでした。

若い時から支えてもらい、少し病んでいる内縁の妻を見捨てることを、ロダンの良心が許しませんでした。

より深いところで結ばれているカミーユと離れるという、苦渋の決断をロダンはしました。

魂に忠実に従い生きてきたカミーユにとって、ロダンの凡人のような保守的な決断は許しがたいものでした。

ロダンとの別れは、カミーユに大きな衝撃を与えて、言葉では言い尽くせぬほどの、悲しみや苦悩をもたらしました。



数々の作品は、カミーユのその時の想いを写し出しています。

愛と輝きに満ち溢れた日々に創られた作品とは対称的に、内にある悲しみや苦悩を「分別盛り」は表現しています。

もっと多くの作品を後世に遺すはずでしたが、精神を病んでしまいました。

もし、ロダンと死に別れたのなら、深く悲しむことは避けられませんが、ここまで精神を病むことはなかったでしょう。

生き別れになったため、ロダンを見る度に、怒りや憎しみ、嫉妬の想いが生まれ続けてしまいました。

その想いは神の摂理に反しているために、因果律が働いて病となり、償いのために苦しむことになります。

憎むことで苦しみ、今の苦しみはロダンによりもたらされたと思うために、新たな憎しみが生まれ、さらに苦しむと言う悪循環に陥いりました。



しかし、悲しみ、怒り、憎しみ、嫉妬の想いは、愛が形を変えたものです。

愛がなければ、悲しみも生まれず、怒りや憎しみ、嫉妬も生まれません。

いくら形を変えたとしても、その根底には愛があります。

憎しみに変えて外に吐き出さなければならないほど、愛する想いが大きかったのかもしれません。

あるいは、愛されない寂しさ、悔しさから逃れるために、憎んでしまったのかもしれません。

カミーユの魂は、生涯にわたりロダンの魂を求め続けていたのです。



ロダンは、内縁の妻ローズと共に、晩年まで過ごしました。

ローズに死が迫る中、結婚式を挙げます。

終生尽くしてくれた女性への、ロダンの感謝の思いからです。

そして、ローズの死の後すぐに、この世を去ります。



しかし、ロダンの最期の言葉は、周囲を驚かせました。

その言葉は、「パリにいる若い妻に逢いたい」でした。

ロダンの魂もまた、遠い昔に別れたカミーユの魂を求め続けていたのです。



ロダンの死後、数十年して、カミーユは独り静かに、療養所で息を引き取ります。

それは、長い間、肉体に閉じ込められていた魂が、解放された瞬間です。



暗闇の先で待っていたのは、カミーユの良き理解者であった父親です。

しばらくの間、父親の胸に抱かれて、再会の喜びに浸ります。



ふと後ろを見てみると、見慣れない人物がいます。

カミーユの全人生に渡って、見守って、導いてきた、守護霊(ガイド)です。

そのガイドに促されて、2人はパリに向かいます。

向かった先は、懐かしいロダンのアトリエです。

そのアトリエは、ロダンの遺言により、パリ市に寄贈され美術館になっていました。



戸惑いながらも中に入ると、そこにはロダンの彫刻に触れて、心打たれている多くの人の姿がありました。

彫刻の中に、自分がモデルになった作品を見つけました。

若き日の表情は、愛と悦びに満ち溢れています。

人生で最も輝いていた日々を回想しながら、その時の想いが鮮やかに甦ってきます。



そして、ガイドは建物の一角にある部屋に、カミーユを招き入れます。

そこには、全ての情熱を注いで創った、自分の作品ばかりが並べられています。

感情に任せて、多くの作品を壊してしまったことを後悔しているカミーユにとって、その光景は驚きであり、喜びでした。

でも、どうしてロダンの美術館に、自分の彫刻が置かれているのか、理解できません。



部屋の真ん中には、ロダンと生き別れ、どん底の時に創った、あの「分別盛り」が置かれています。

魂が引き裂かれるような、あの時の想いが甦ってきます。



周りに目をやると、多くの人がこの彫刻をじっと観ています。

ある人は、若い女性の哀しみに満ちた表情を観て、深いため息をついています。

また、ある人は男性に差し伸べられた手をみつめて、涙しています。



そんな光景を見ていて、なぜか無性に悦びが込み上げてきます。

その時、ようやく生まれる前に自分にした約束を思い出します。

彫刻を創作して、多くの人の魂を揺さぶるため、地上に生まれたことを。

この国、この家族の下に、彫刻家として天賦の才能を持った女性として生まれ、もう一人の同志に出会い、幾多の出来事を経験して、その目的を果たすことを。



この世で、2つの親しい魂が出会い、本来の形を取り戻し、その無上の悦びを、彫刻に表現していきます。

目に見えない愛を、彫刻という目に見える形にして表しています。



しかし、カミーユの魂は、さらに高い愛の表現を求めていました。

これ以上ない悲しみを彫刻に表現し、深い愛を喚起させ、観る人の魂を揺さぶること。

観る人の魂にまで届く作品を創り出すためには、これ以上ないと思われる悲しみを、カミーユ自身が経験しなければいけませんでした。



魂が引き裂かれる想いは、作品に表現されて、観る人に伝わっています。

観る人の魂は共鳴し、閉じ込められていた想いが表に出てきています。

その想いは、涙とともに解放され、いくばくかの魂の救いが得られている様です。

それこそが、芸術の持つ大きな意味であり、カミーユがこの世で果たすべき使命でした。



親しい魂との別れは、観る人の魂を揺さぶるほどの悲しみを表現するために必要だったことを知ります。

もし別れがなかったなら、魂に届くほどの想いを、彫刻の上に表現できなかったことを悟ります。

共に過ごす日々は続いたでしょうが、次の世界で自らの魂に課せられた使命を果たした悦びに満たされることはなかったでしょう。

過ぎ去った、地上で起きた出来事の1つ1つに、意味があったことに気付きます。

そして、最も大切な意味があったのは、あの別れでした。



私たちが生きている目的は、たった1つしかありません。

本当の自分である、魂を成長させるためです。

この世で降りかかる苦難や障害を乗り越えることで、魂は成長していきます。

この法則が、全ての人を支配しているために、一人ひとりに魂を成長させるような苦難や障害が、この世で起きるようになっています。

何の前触れもなく、不幸と呼ばれるような出来事が起きたり、乗り越えられそうもないような苦難が降りかかってきます。

当然のことながら、そこから耐え難い苦しみや痛み、気が狂わんばかりの悲しみが生まれることがあります。



人生にはおよそのシナリオがありますが、魂の奥深くに仕舞われていて、この世では全く自覚されません。

もし、その苦難や障害が待ち受けていることが事前に判っていたら、全精力を傾けて、それを回避しようとするでしょう。

この世の誰もが、平穏無事を望み、つらい経験をしたくはありません。

立ち向かって乗り越えるか、それとも回避するかの選択が許されるとしたら、魂を成長させることが判っていたとしても、回避する人がほとんどかもしれません。

それは、この世に生まれてきた目的を放棄することになってしまうために、シナリオは仕舞われて自覚できないようになっていると思われます。

そんなシナリオなどある訳がないと思うのであれば、人生の出来事は偶発的に生じ、そこには何の意味もなく、ただ不幸になっただけと言うことになります。

不公平、不平等が、この世にまかり通り、神も仏もあったものではないという結論に至ります。



人は、自然法則に従い、死ぬ時が来ます。

そして、自然法則に従い、次の世界で魂として生き続けます。

次の世界で魂は生き続けていることを自覚できないのは、この世のシナリオを自覚できないのと同じ理由からであり、もし自覚してしまえば苦難や障害から逃れようとしてしまうためと思われます。



この世の出来事の意味は今は判らなくても、次の世界に行けば明白となります。

そして、自然法則の働きにより、完璧な公正、完全な平等が行き渡っているのを目の当たりにします。






この世に生まれた目的を果たすために、ロダンと別れなければならなかったことを知ったカミーユは、無性にロダンに逢いたくなります。

その想いは直ちに届き、目の前にロダンの姿が現れます。

地上で出会った時よりも、深い悦びに包まれた再会です。

ロダンとカミーユは魂の同志であり、次元を越えて、常に結ばれていました。

地上で離れていた時も、この世とあの世で離れていた時も、愛する者同士の魂には距離はありません。



カミーユの彫刻は、ロダンと似通っていたため、地上での評価が低くなってしまいましたが、2人の魂は親しいために、想いを表現する彫刻は、どうしても似てしまうのかもしれません。

そして、ロダンが美術館の一室に、カミーユの作品を置いたのは、引け目や、懺悔の思いからでは決してなく、カミーユの魂を自分の魂の一部の様に感じていたからかもしれません。



人は、次の世界に移ってしばらくすると、この世のすべてを振り返る時が訪れます。

カミーユは、ロダンを憎んでしまったことを悔やんだかもしれません。

しかし、私がそうだった様に、多くの人達の魂を揺さぶり、何かを変えられる作品を地上に遺せたことに、深く満足していると思います。



やがて2つの魂は、地上に生まれる前にいた、本来の住み家に戻っていきます。

隔てるものは、もう何もありません。

そこにあるのは、この世を経験して、より成熟した愛のみです。



「ワルツ」1893年 カミーユ・クローデル




                                                              




参考ページ: 「この世の出来事には意味がある」


2015年7月20日月曜日

健康と病気 ~霊的視点からの私見~



健康とは何でしょうか?

一般的には、肉体と精神に異常が認められずに、正常に機能している状態を指すと思われます。



しかし、人間を構成しているのは肉体と精神だけではありません。

生命の本質である魂が存在しています。

魂の存在を否定する人がいますが、存在しているのは揺るぎのない事実であり、論争するのは時間の浪費と考えています。

WHOで1998年に出された、「健康の定義」の改定案ですが、 「Health is a dynamic state of complete physical, mental,spiritual and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity(健康とは、単に病気または虚弱がないだけではなく、肉体的、精神的、霊的、そして社会的に健全で、活動的な状態である)」としており、文言に「spiritual」を加えているのは、画期的なことだと思います。

現代医学が、この定義にある「spiritual」を受け入れたなら、迷宮入りしている数多くの病気で苦しむ患者に、きっと朗報がもたらされると思います。



シルバーバーチの霊訓では、病気の原因は、肉体と精神と霊(魂)の不調和にあると明言されています。

当初、私はその意味がよく分かりませんでした。

魂が最上位にあり、その下に精神があり、最下位に肉体があると言われます。

確かに、(反射を除いて)精神が命令を出さない限り、肉体は微動だにしませんので、精神の支配下に肉体があるのは良く分かります。

魂の配下に精神があるのですが、両者ともに肉体(物質)とは次元が異なり、存在を確認できるものではないので、その違いを明確に意識できません。

想い(思念)が生まれるところが魂であり、その想いを言葉にしたり、肉体で表現するために命令しているのが精神と考えています。



また、シルバーバーチの霊訓では、この世に顕現しているのは「パーソナリティ」であり、その背後に「インディビジュアリティー」が存在していると書かれています。

パーソナリティとはペルソナのことで、日本語にすると仮面という意味だそうです。

人は、この世を生きている時に、パーソナリティという顔(仮面)を被っていてることになります。



パーソナリティはインディビジュアリティーを表現するためにある、この世の「顔」と思われます。

個々のパーソナリティは、生まれた国、性別、職業、信じる宗教、文化、知識、家族、友人など、この世で自分を取り巻いている環境により、形作られていくと思われます。

そして、パーソナリティはこの世を生きているうちに、外部からさまざまな影響を受けたり、環境が変わったりして、大きく変化していく可能性があると思われます。

肩書が付くと性格まで変わってきたり、住む国や信じる宗教により考え方が大きく変わってしまうことが良くあります。

生まれ育った環境や、外部からの影響により、時と共に変化していくパーソナリティはこの世の顔であって、真の自分ではありません。

その奥に控える、インディビジュアリティーこそが真の自分と思われます。

パーソナリティは変えられる表層の自分であり、インディビジュアリティーは変えられない深層の自分と言えるのかもしれません。

よく言われる「エゴ」とは、肥大化してしまったパーソナリティのことを指すのかもしれません。



肉体と精神と魂の調和が保たれた状態とは、パーソナリティがインディビジュアリティーの延長線上にあり、インディビジュアリティー(の想い)が、パーソナリティに妨げられずに肉体で素直に表現されている状態と考えられます。

蛇口を回すと、遮るものは何もなく、勢い良く水が流れ出ている状態です。

不調和な状態とは、パーソナリティが外部から影響を受けて大きく変わってしまい、インディビジュアリティーと乖離してしまったため、(インディビジュアリティーから)生じた想いが、パーソナリティに妨げられて表現しにくくなっている状態と考えられます。

蛇口を回しても、水道管が詰まっているために、水が出にくくなっている状態と考えられます。

また、パーソナリティによって、想いが歪曲化されたり、変質して表現されている状態も不調和と考えられます。

蛇口を回すと、水道管が汚れているために、濁った水が出ている状態と考えられます。

この様な不調和な状態が続いてしまうと、心身に病気が生じると考えています。



最近、「ありのまま」の自分でいることの大切さが、しきりに叫ばれています。

ありのままの自分を「インディビジュアリティー」に、この世の顔を「パーソナリティ」に置き換えてみてはどうでしょうか。

ありのままの自分を表現しようとしても、この世の顔が邪魔をしてしまい、できない時があるのではないでしょうか?

ありのままの想いが、この世の顔に妨げられて表現できないのは、日常的に起きていると考えられます。

それは精神衛生上良くないと言うよりも、病気の原因になっていると思います。



妥当なのかどうか分りませんが、1つの例を挙げてみます。

2011年3月11日、福島第1原子力発電所に大津波が襲いました。

その津波により、建物は破壊され、原子炉を冷却する水は完全に不足しました。

冷却する水がなければ、原子炉は異常高温となり、その結果メルトダウンを起こして、放射性物質が拡散してしまいます。

その発電所の最高責任者は、多くの人を放射線被曝から守るために、直ちに海水を注入し、原子炉を冷却しようと思いました。

しかし、海水を注入したならば、その原子炉は2度と稼動できず、廃炉となります。

彼は電力会社の1社員であり、自分の決断により、会社に多大な損失が生まれることも承知しています。

それでも、彼は良心の声に従い海水注入を断行しました。

その後、国家と会社上層部から海水注入の中止命令が出されましたが、命令に従わず注入を続けました。

結果的に、メルトダウンが起こり、放射能汚染は防げませんでしたが、その規模は彼の英断により、格段に小さくなったと言われています。

彼のインディビジュアリティー(魂)は、迷うことなく海水注入を指示しています。

しかし、彼のパーソナリティ(この世の顔)は1国民であり、1社員であり、国家や上司の命令に従わなければなりません。

インディビジュアリティーとパーソナリティの間に、途轍もない不調和(葛藤)が生じていたことになります。



彼は事故の翌年、58歳の若さで、食道がんで亡くなりましたが、この極限状態での、両者の不調和(葛藤)が原因に思えてなりません。

若くして亡くなったことは家族にとって大きな悲しみとなりますが、亡くなった本人は魂の声に忠実に従って本当に良かったと、胸をなでおろしていると思います。

もし、自己保身など、利己的な理由で魂の声に従わなかったのなら、死後の後悔は計り知れないものになったと思います。



以上は、極端な例ですが、現代社会においては、この様な局面はいくらでもあると考えられます。

こんなことを書いている私も、以前は世間に認められる仕事をして、より良い生活をすることが幸福と考えていました。

いつも頭ばかりを使った、慌ただしい生活をしていたと思います。

そんな時に、仕事上の不正が発覚し、徹底的に追い詰められていく日々が始まりました。

当初は、頭を使えば、どうにか乗り切れるだろうと思いました。

しかし、事態は悪化していくばかりで、いくら考えても、どうすることも出来ない窮地に陥りました。

そんな時に、心の奥底から、こんな想いが湧き上がってきました。

「正直に生きろ」

心の奥底からの想いは、頭で考えたことと正反対でしたが、躊躇なく従おうと思いました。

心の奥底の想いは、本当の自分、魂からの声だと思ったからです。

それまで、本当の自分である魂から想いが生じているなどと、思いもせずに生きてきました

直感みたいなものを感じる時はありましたが、それは思いつきであり、偶発的に頭から生まれていると思っていました。



パーソナリティの声は「今の自分を守れ」であり、インディビジュアリティー(魂)の声は「正直に生きろ」です。

大きく違っていましたが、インディビジュアリティーの声に従い、正直に生きました。

その結果、今の自分は守れずに、(社会的に)最悪の結末を迎えました。

しかし、そこから多くのことを学びました。

「魂」、「生命」、「因果律」、そして「愛」。

これで良かったと、心から思っています。

その学びこそが、この世に生まれた意味であると今は考えていますので、後悔は全くありません。

もし、パーソナリティの声に従っていたなら、今の自分は守れたかもしれません。

しかし、インディビジュアリティー(魂)の声ではなく、パーソナリティの声に従ってしまうと、得られるものが得られずに、(死後の総括の時に)大きな後悔をすることになると思われます。

あるいは、本当の自分の想いを無視し続けたのなら、不調和により病気になっていたかもしれません。



ほとんど人は、思考や行動の源は、すべて頭脳にあると思っています。

確かに、日常生活は、事務的、機械的な作業や、感情を伴わない会話に費やされているので、ほとんどは頭脳で考え、身体を動かしています。

しかし、心の奥底まで響く出来事が起きた時、いくら考えても解決できない深刻な問題が生じた時は話は別です。

その様な事態が起きると、それまでパーソナリティの影に隠れて、眠っていたインディビジュアリティー(魂)が目覚めて働き出します。

パーソナリティで対応できないほど衝撃的な出来事が身に起きた時、埋もれていたインディビジュアリティーが表に出てきて主導権を握ると考えられます。、

この状態のことを、「魂が目覚めた」と言うのかもしれません。



インディビジュアリティーから想いは生まれています。

しかし、その想いはパーソナリティが大きくなってしまうと、その声に掻き消されて、判らなくなってしまうことが多くなります。

社会では所属する組織の利益を優先するため、物事を円滑に運ぶため、家庭でも他者の意見を尊重し、軋轢をなくすために、多くの人はインディビジュアリティーに蓋をして生活しています。

蓋をして生活していると、インディビジュアリティーの存在は徐々に希薄になり、この世の顔であるパーソナリティが自分だと思ってしまいます。

パーソナリティにより隠されてしまった想いは、表現されずに滞ることになります。



自己と他者との価値観、考え方に相違がないはずはなく、ぶつかり合えば、そこに葛藤が生まれ、何らかの想いが生まれます。

また、経験したことのない衝撃的な出来事から、言葉にできない強い想いが生まれます。

パーソナリティが大きくなると、インディビジュアリティーから怒り、悲しみ、憎しみ、恨み、喜び、嫉妬など、言葉にならない想いが生まれていても、気付きにくくなってしまいます。

もし、気付いたとしても、人間関係が悪化したり、道徳的、法律的に反する行為となってしまうので、パーソナリティに妨げられて表現はなかなかできません。



誰かにひどい仕打ちを受けて、強い怒りの想いが生まれたとします。

その想いを、外に向かって表現してしまうと攻撃的なものとなり、捕まったり、そうでなくても関係が悪くなるので、留まることになります。

しかし、表現しなかったとしても、怒りの想いは肉体には少なからず影響を及ぼしています。

怒りがこみ上げれば、脈は速く打ち、血圧は上昇して、顔は紅潮していくのが判ります。

想いは、肉体を変化させるエネルギーになると考えて良いと思います。



もし、怒りよりも強い、恨みや憎しみの想いは、肉体上にどのような影響を与えるのでしょうか?

恨みや憎しみを、身体を使って外に向かって表現するならば、相手への暴力や攻撃になると考えられます。

今、世界中で起きている戦争の根本原因は、怒りや憎しみや恨みの想いであり、それが外に向かって表現されていると考えられます。

嫉妬の想いはどうでしょう?

憎しみや恨みに近い想いであり、相手を陥れたり、不幸にさせる行為につながるかもしれません。



そんな相手を傷つけたり、不幸にさせようとする想いを、抱き続けていて良いはずがありません。



自然法則(神の摂理)とは、物理(物質)的法則だけではありません。

精神的、そして霊的な法則が存在しています。

言動だけに、気を付けていればいいのではありません。

自分の想いにも、霊的な法則が厳格に働いています。

どんなことを想っても、人に知られることはありません。

人から非難されたり、法律で罰せられることもありません。

しかし、自然法則は1つ1つの想い(思念)を、見逃すことはありません。

その想いが、摂理(愛)に反したものであれば、相応の償いが、必ず生じます。

累積した愛に反する想いは、因果律の働きで心身に病気として表現され、苦痛によりその過ちを償うことになるかもしれません。

現代医学で原因不明とされる病気の多くは、霊的次元に根本原因が存在し、表現されなかった(愛に反した)想いが、別の形で表現されたものと考えています。



想いは、自分そのものであり、常に責任が問われていることになります。

外に表現されなかった相手を攻撃し傷つけようとする想いは、因果律の働きにより、内に表現され自分自身が攻撃され傷つけられる結果を生み出します。

自から出た想いは、肉体で具現化する力となって、自分に戻ってくると言うことです。




自分の想いにより、自分が傷ついて、苦痛を味わうのは、その様な摂理(愛)に反する想いを抱くことが過ちであることに気付くためです。

そうであるならば、霊的次元に原因がある病気の人は、自分の奥底から生まれる想いに耳を澄まして、愛に反する想いが生じないように、細心の注意を払うべきだと考えられます。

降りかかる出来事から、愛に反する想い、怒り、憎しみ、恨み、嫉妬が生まれそうになったら、とても難しいことですが、寛大になり、その対象を許すしかありません。

許すことは、自己犠牲を伴う、相手への愛であるために、愛に反する想いは生まれないからです。




想いは頭で意識されにくいものであり、自分にはそんな想いはないと思っていても、身体が反応してしまっている時があります。

自分では怒っていないと思っていても、興奮して声が上ずったり、眉間にしわが寄っていれば想いが必ずあるはずです。

悲しくないと思っていても、想いがなければ、知らないうちに涙が頬を伝って落ちることなどないはずです。



想いが溜まっていると、遭遇する出来事から同様の想いが生じやすくなります。

怒りの想いが溜まっていると、ささいなことで怒りやすくなります。

悲しみの想いが溜まっていると、ふとしたことで悲しくなり、涙ぐんでしまいます。



私は、まだ未熟なために、怒りまではいかないにしても、その一歩手前の想いが生じている様です。

平静は保たれているように思っていても、想いが溜まっていると、知らないうちに物事を良くない方に解釈しがちになります。

ささいなことが気になったり、素直に受け取れなくなったり、疑ったりしてしてしまう様な気がします。



また、自分は相手を怒らせるような言動はしていないのに、相手から怒りをぶつけられる時があるかもしれません。

そんな時は、まず自分の中に意識されない怒りの想いがないか、問い質すようにしています。

(自分の中に)怒りの想いがあって、それが相手の魂に伝わり、同じ想いが生じて、返されているかもしれないからです。

知らない内に自分が種を蒔いていて、それを刈らされていることが、意外に多いと感じています。



その逆に、相手は怒らせる言動は何もしていないのに、何故か相手に対して怒りの想いが生まれてしまうこともあります。

そんな時は、相手に怒りの想いがあって、その想いを魂が受け取ってしまい、同じ想いが自分に生じている可能性があります。



想いは、人にも自分にも影響を与える目に見えない力です。

そして、人生は想いが起点となって綴られていきます。

自分の想いに、気付かなければいけません。

そして、大切にしなければいけません。



深刻な病気であればあるほど、隠されている強い想いがあるのではないかと思います。

しかし、自分を守ろうとするパーソナリティから生じる不安や怖れが大きいと、(インジュビアリティから生じた)想いが、見つけにくくなるかもしれません。

不安や怖れを鎮めて、心を穏やかにして、内にある想いに気付くことが、病気を癒やすための第一歩だと思います。

そして、病気を生じさせた、愛に反した想いを、解放させてやらなければいけません。



神の摂理は愛です。

愛の表現とは、人を愛することだけではありません。

人そして出来事を許すことも、自己犠牲を伴うために愛が必要です。

自分を許せずに、苦しんでいるのであれば、自分に向けられた愛が足りないと思われます。

許すことで、憎しみから解放され、憎しみから解放されれば、苦しまずに済みます。

愛に反した想いは、自らの愛の想いでしか、解放できないと思われます。



病気は突発的に生じて、苦痛を与えるだけのものではありません。

魂の成長と深く関係しています。

生まれる前から病気になることが決まっている人がいますが、病気を通して周囲の人とともに、大切な事を学び、魂を成長させるためにあると思われます。

また、この世に生まれてから出会った出来事により生じた想いが、決められていた人生のシナリオを書き換えてしまうほど大きくなってしまったために、病気が生じている人もいます。

いづれにしても、大切なことを学び、魂を成長させるためにあります。



魂の成長とは、より次元が高く、強い愛を表現できるようになることと、考えています。



亡くなった後に、この世の人が赴く世界は、物質(肉体)が介在しない、想い(思念)の世界です。

地位、財産、名誉など、この世で手に入れたものはすべて置いて、魂ひとつで向こうに行きます。

この世の顔であるパーソナリティは剥ぎ取られてしまい、インディビジュアリティー(魂)がむき出しになります。

魂を隠す肉体はないため、ありのままの自分、裸の自分になります。



ありのままの自分である魂は、想いという光を放っています。

美しい光とは、相手を思いやり、やさしくしようとする、愛の想いです。

愛に反する想い、怒り、憎しみ、恨み、嫉妬、貪欲などの想いは、美しさに欠ける光となります。

想いのすべてが、知れてしまいます。

魂のすべてが、知れてしまいます。

向こうの世界は、自分を偽れない実存の世界であり、この世は、自分を偽った虚像が存在する世界です。

ありのままの自分を出しても、恥ずかしくないように修養する世界がこの世と考えられます。



魂は、より高く、強い愛を表現できるようになるのを望むために、最適な環境を選んでこの世に生まれて、さまざまな経験を通して魂を成長させていきます。

多くの人は望みませんが、楽しいことよりも、逃げ出したくなるようなつらい経験ほど、魂を成長させています。

しかし、時につらい経験から、愛に反する強い想いが生まれてしまいます。

その想いはが表現されずに滞ってしまうと、その後の人生で遭遇する出来事から、同様の想いが生じ続けてしまいます。

予定されていた魂の成長を妨げてしまうほど、想いが大きくなってしまっても、この世では五感に触れないために判りません。

そのために因果律が働き、病気という五感に触れる形となって、想いが表現されます。



病気には苦痛が伴います。

その苦痛にも意味があり、愛に反する想いを抱き続けたことに対する償いであり、想いを解放させて魂を浄化します。

(肉体の)生命にかかわる深刻な病気であれば、それまで自分だと思っていたパーソナリティでは対応しきれなくなり、奥に控えていた本当の自分であるインディビジュアリティーが表に出てきます。

本当の自分である、魂に目覚めます。




病気とは魂を目覚めさせ、本当に大切なものは、生命そして愛であることに気付くためにあります。

意識には上りませんが、生まれる前に自分にした約束があり、それを、もう1度思い出させるためにある、神の摂理(愛)です。

病気になったのは不幸ではありません。

この世にいるうちに生まれ変わり、憎しみではなく愛を表現して、生まれてきた目的を成就させるためにあります。





参考資料: 「日本を救った男―吉田昌郎元所長の原発との壮絶な闘いと死」


参考ページ: 「霊的な病気の意味」
















2015年7月3日金曜日

向こうにいる人の想い



数年前になりますが、高校時代の友人の家を訪れた時に、ある小学生の女の子とそのおばあさんと知り合う機会がありました。

友人は、奥さんを30代後半の若さで病気で亡くし、二人の子供の子育てに奮闘中です。

女の子のお母さんは、亡くなった友人の奥さんと学生時代からの親友で、家に良く遊びに来ていたようです。



女の子には、やや重度の知的及び身体的な障害がありました。

障害は生まれながらのものであり、改善は難しいと思われましたが、少しでも良くなればと思いヒーリングを行いました。

しばらくすると、女の子の表情が穏やかになるのが見て取れました。

後日、女の子のお母さんから連絡があり、続けてヒーリングをして欲しいと言われましたので、日曜の午前中にお会いする約束をしました。



お母さんにお会いすると、快活で明るい性格でしたが、女の子の対応に追われ、とても気を張っているように見えました。

女の子は、言葉をしゃべることが出来ず、小さくうなるような声で、何かの意思表示をお母さんにしています。

その想いを、お母さんが必死に汲み取ろうとしています。

言葉で伝えられない想いを、かろうじて判ってやれるのは、世界中でお母さんしかいないと思いました。

数週間おきに、ヒーリングを続けて行いましたが、その時にお子さんの障害と今お母さんがされている苦労の意味について話をして、シルバーバーチの霊訓の書籍を差し上げました。

気のせいでしょうか、お母さんのピンと張つめていた心が、少し緩んできた様に思えました。



ある日、何故だか亡くなって向こうにいる友人の奥さんに、こう想いを向けてみたくなりました。

「(親友のお母さんに)何か伝えたいことはありますか?」と。

すると、向こうからメッセージのようなものが伝わってきました。

まず、亡くなった奥さんと親友であるお母さんが、他校の文化祭に出かけて楽しそうにしている高校時代のイメージが見え、その時のお母さんの想いも同時に伝わってきました。

そして、こんなメッセージが伝わってきました。

「こちらは、思ってたよりも楽しいところで、こちらに来た時にいろいろ連れて行ってあげる。」

いくつかのメッセージの中で、特に印象的なものがありました。

それは、「子供と想いを通い合わせられないのが、どれほど大変なものなのか良く判った。」と言うものでした。

障害のある子供と言葉で意思疎通が出来ない親友の気持ちが、向こうに行って(死んで)初めて判ったということでした。

お母さんが来た時に、書き留めたメッセージを手渡しました。



夫である友人と2人の育ち盛りの子供を残して、若くして向こうに行った奥さんは、今どうしているのでしょうか?

当然のことながら、家族のことが何より心配で、生きていた時と同じ様に、家の中で過ごしていると思います。

子供たちの様子を見ていて、「こうした方がいいのに!」、「それじゃだめでしょ!」、「何でそうするの!」と、気を揉んだりしているでしょう。

時には、「良く頑張ったね」、「えらかったね」と、褒めたりしていると思われます。

もちろん、肉体がないために耳で聴こえる声は出せません。

亡くなったお母さんは、子供たちの魂に向かって、想いを必死に投げかけていると思います。



残念なことに、この世にいる友人と子供たちは、お母さんは死んでいなくなってしまったと思い込んでいます。

「お母さんはいつも傍にいてくれるよ」と、声をかけてくれる人はいるでしょうが、言った人が本当に信じていなければ、子供たちは慰めとしか思わないでしょう。

自分の目で姿を確認しない限り、傍にいるとは思わないのは、大人も子供も変わりありません。

見えないからいないのではなく、見えないけれどもいることに気付くのは、とても難しいことです。

数年前の私もそうでしたが、ほとんどの人は死んだ後の世界について何も知りません。

臨死体験者は、垣間見た向こうの世界について語りますが、多くの人はおとぎ話のような世界に思えてしまい、現実のものとは考えないかもしれません。



世界中の全ての科学者が否定しようと、肉体は死んでも魂は生きています。

生前と変わらぬ性格のままで意識は存在し、愛する人の傍にいるのは、紛れもない事実です。



お母さんの魂が投げかけた想いを、子供たちは心の奥でフッと湧く「思いつき」みたいなものとして感じていますが、無視してしまっていると思われます。

すぐ傍にいて、必死に想いを伝えようとしていることに、悲しいことに全く気付かないでいます。

愛する子供に、想いが上手く伝わらない母親の、もどかしさ、つらさはどれほどのものでしょうか。



そんな子供たちでも、悩んだり、迷ったり、助けてもらいたい時に、こんなことを思う瞬間がきっとあるはずです。

「お母さんだったら、何て言うだろう?」

「お母さんだったら、どう思うだろう?」

傍で見守っているお母さんは、この時とばかりに、子供たちの魂に自分の想いを吹き込みます。

子供たちは、心の奥でフッと湧く想いを、あの世からのものだとは思っていませんが、お母さんが言いそうなことなので、素直に受け入れていると思います。



例えば、仲の良い友達と学校でケンカをして帰って来ます。

一人家の中でポツンとしていて、急に少し寂しくなり、お母さんのことを思い浮かべます。

その時、心の中で「今すぐ会って、仲直りしなさい」と、誰かに言われたような気がします。

「やっぱり!そうしよう!」と思い、仲直りしに友達のところに会いに行きます。

お母さんの想いが、上手く伝わった瞬間です。

向こうで喜んでいるのは間違いありません。



この世とあの世は次元が違うために、言葉でのコミュニケーションは不可能です。

この世の人は肉体を携えた魂であり、あの世の人は肉体のない魂ですが、魂と魂は同じ次元に存在しているため、そこから生まれる想いは、本来は自由に伝えられるはずです。



しかし現実には、あの世にいるお母さんの想いは、この世にいる子供にきわめて伝わり難くなっています。

学校で勉強するのは仕方ありませんが、家に帰ってきたらテレビを見たり、ゲームやスマホなどをしている時間が多く、頭を使うことばかりしています。

頭脳が活発に働いている時は、魂は活動していません。

頭脳が起きている時は魂は眠っていて、頭脳が眠っている時に魂は起きていると言えます。

太陽が西の空に沈み、群青色に染まってくると、それまで見えなかった星は輝き始めます。

頭脳が休止し、穏やかな心境になると、魂が活動を始めます。

何も考えず、あらゆる感情から解放され、頭が空っぽの時に、向こうからの想いを受け取る魂のアンテナが張られ、受信感度は良くなっています。



そして、少し難しいけれど、お母さんからの想いを受け取りたいと欲してはいけないのです。

無欲無心で、受け身でいなければいけません。



お母さんの魂と子供たちの魂の間に、隔てるものは何ひとつありません。

そこにあるのは、愛のみです。

お母さんの姿を思い浮かべ、隣にいるように語りかければいいだけです。

お母さんは、それをしっかりと受けとめ、子供の魂に自分の想いを吹き込んでくるはずです。

目を閉じ、心の目をいっぱいに開き、大空に向かって両手を広げるように、心で両手を広げて、思い浮かぶ言葉やイメージを、ただ受け取ればいいだけです。

考えてもいないのに、ふっと何か思い浮かぶはずなどありません。

それは、お母さんからの想い(メッセージ)です。



お母さんから受け取った想いに、素直に従えば、きっと上手く行くはずです。

お母さんは1つ高い次元から見ているので、この世の人よりも視野が高く、広く見渡せるために、どのような結果になるのか良く判るからです。

正しい方向に進んで行こうとするならば、後押しするような想いを投げかけ、誤った方向に進みそうになれば、思い留まらせるような想いを投げかけます。

あの世は想いの世界であり、この世にいる子供に想いを伝えて導こうとしています。



親であれば、自分の想いを子供に伝えたいし、子供の想いを知りたいと思うのは当然です。

子供のことを誰よりも愛し、より良く生きて欲しいと願っているのは、生前と何も変わりありません。

変わったのは肉体がないところだけです。

この世にいる子供たちは、お母さんの姿が見えず、声も聞けず、からだにも触れられない寂しさや悲しみがあります。

あの世のお母さんは、肉体がないため声は出せません。

肉体を失ったお母さんが、この世にいる子供に想いを伝えるには、耳を介してではなく、魂に想いを伝えるしかありません。

思うように想いを伝えられないもどかしさを、覚えていると思われます。



心身に障害があり、言葉で伝えられない子供の想いを、お母さんが察知するのは、きわめて難しいことです。

言葉で意志疎通できない子供を持つお母さんの悩みは、向こうから子供に想いを伝えられないお母さんの悩みの裏返しです。

向こうに行って初めて、親友である女の子のお母さんと、同じ想いを共有出来たのだと思います。



メッセージを受け取ったお母さんは、どう思ったのでしょうか?

もし、メッセージを信じてもらえたなら、向こうにいる親友の気持ちは痛いほどわかるはずです。

そして、苦労は絶えないけれども、子供と一緒にいられる幸せを、十分に噛みしめなければならないと思ったかもしれません。

もっと子供に触れて、たくさん声をかけて、抱きしめてやらなければと思ったかもしれません。



死んだ人がいるあの世は、遠い所のように思えますが、そうではありません。

この世にいる人次第で、遠くにもなれば、近くにもなります。

頭を使った、慌しい生活をしていると、魂は眠ったままとなり、霊的な世界は感じられません。

雑念を払い、感情を鎮め、思考が停止すると、眠っていた魂は目を覚まして、愛する人がいる世界は身近に感じられると思います。

その世界を身近に感じられたなら、愛する人の魂がすぐ傍にいるのが判るかもしれません。

傍にいるのが判れば、愛する人から想いを受け取るのは、それほど難しくありません。



この世の人は、死んで見えなくなってしまうと、いなくなってしまったか、どこか遠い所に行ってしまったと思っています。

しかし、あの世にいる人は全く逆で、肉体と言う障壁がなくなり、この世の人をより身近に感じています。

両者の認識に、とても大きな隔たりがあります。



この世の人は肉眼で見るため、肉体(物質)は良く見えますが、網膜に映らない魂(霊体)は全く見えません。

あの世の人に肉眼はないため、この世の人の肉体は見えませんが、魂(霊体)とそこから生まれる想いは、はっきりと判かります。



この世の人は、肉体が見えなくなり、それぞれが隔絶された世界にいると錯覚しています。

あの世の人は、肉体がない分、愛する人の魂に寄り添うことが出来ます。



この世の人は、愛する人との間に、無限の距離を感じているかもしれません。

あの世の人は、愛する人との間に、距離を全く感じていません。



あの世の人が引き付けられるのは、この世の人が放つ自分へ向けた愛の想いです。

この世の誰が自分に愛の想いを向けているのか一目瞭然であり、愛する想いは引力のように、あの世の人を一瞬にして引き付けます。



愛する人が、一人涙を流しているのを見ていられません。

傍に寄り添って抱きしめているのに、自分の(霊体の)腕は、この世の身体と波長が違うために、素通りしてしまいます。

しっかりと抱きしめているのに、悲しいことにこの世の人は何も感じません。

悲しみにより、向こうからの愛を受け付けなくなっています。

こちらからの愛は、向こうの魂とつながり、喜びとなりますが、こちらの悲しみは、向こうの魂の障壁となり、むなしさとなります。



それでも、あの世の人は、この世にいる人よりも、はるかに楽観的です。

なぜなら、いずれ再会できることが、はっきりと分かっているからです。

今の、悲しみ、寂しさ、苦しさはやがて終焉を迎え、一瞬にして喜びに変わることを知っているからです。



残して来た人の、今の悲しみ、苦しみに意味があることも、判っています。

判っているからこそ、向こうから励ましています。



望んでいることは、頑張って生きることではなく、その人らしく生きることです。

つらい時は休んでいい、悲しければ泣けばいい、無理をして欲しくないと望んでいます。



意志の疎通は、魂と魂の間で出来るはずです。

悲しくならずに、思い出す時間を作って欲しいと願っています。

その時が、想いを向こうから伝えるチャンスになります。

心を鎮め、魂を研ぎ澄まし、こちらの想いに気付いて欲しいと願っています。



愛は、消えてなくなるものではありません。

死んで消えてしまうどころか、一層強くなっているはずです。

愛は死によって滅びずに、つながりを深めていく力となっています。

愛する想いが続いていることは、魂が生きている何よりの証です。

もし、存在が消えてしまったのであれば、愛はとっくに消滅しています。

魂と魂がつながっていて、お互いの愛を感じ合っています。

向こうから愛する想いを受け取り、それに呼応して自分の魂に愛が呼び覚まされています。

呼び覚まされた愛は、向けるべき対象を喪ってしまったと錯覚すると、一瞬にして悲しみに変わってしまいます。



「どうか、いなくなってしまったと思わないで。」

「こんなに近くにいるのだから。」



「生きている者は全て、こちらに来るの。」

「私が少し早くこちらに来ただけ。」

「どうしても、そのことは分って欲しい。」

「愛する人よ、あなたの傍にいて、見守っています。」



「あなたの気持ちは痛いほど判ります。」

「何も言えずに逝ってしまったのは、すまないと思っています。」

「愛する人よ、私はあなたの気持ちと全く同じ。」

「どれほど、耳に届けたいか。」

「残してきた愛する人よ。」

「二人はいつも一緒でした。」

「私も離れたくなかった。」

「しかし、どうしても先に来なければならなかった。」

「その訳を今聞いても、納得はしないし、余計悲しくなるだけだろう。」

「これだけは、約束できる。今の悲しみ、苦しみが二人のために必要であり、次に活かされることを。」

「私はあなたの想いが分かるから、1つも寂しくない、うれしいだけ。」

「何て伝えればいいのだろうか。」

「出会い、早く別れることは生まれる前から決まっていたこと。」

「運命を恨まないで、自分を責めないで、愛する人よ。」

「私が一番悲しいのは、いなくなってしまったと思われること。」

「いなくなったわけじゃない、こんなに近くにいるのに。」

「顔を上げて、両手を伸ばして、私の想いを抱きしめて。」

「その伸ばした手から、あなたの魂に想いは入り込んで行きます。」



「眠っているのだったら、起きてあなたの魂。」

「そうしなければ、想いは届かない。」

「悲しみは想いが外に溢れ出すだけで、こちらからの想いを受け取れなくなる。」

「私の好きだった歌を唄ってみて。」

「一緒に唄おう。涙を流さずに、笑って。」

「ほら、楽しく、大きな声で。」

「聞こえているよ。」

「こっちでも唄っているよ。」

「想いを一緒にしなければいけないんだ。」

「同じ想いにならなければ、伝えられないんだ。」

「伝えたいんだ。自分の想いを。正確に。直に。」



「愛する想いは、とても心地が良く、傍にいたくなるけれども、時々悲鳴のような助けを求める想いを感じる時は、為す術がなく、とても悲しくなってしまう。」

「いなくなったのだから仕方ないけど、あまり感じたくない。」



愛は向けるべき対象を見失ってしまうと、悲しみとなります。

しかし、向けるべき対象は、見えなくなっても、失われた訳ではありません。



こちらにいる人が前と同じ様に愛されたいように、向こうにいる人も前と同じ様に愛してもらいたいのです。

見えなくなってしまったけれども、愛する人はそばにいます。

前と同じ様に、ただ愛し合いたいだけです。

魂と魂で、愛し合いたいだけです。



どうか気付いて下さい。

本当の私は、魂であり、愛し合うことが出来ることを。





参考ページ: 「向こうにいる人を愛する」

                         「この世の出来事の意味を知る時」





















2015年6月21日日曜日

膠原病の根本原因は自責の念である



現代医学の発展に伴い、以前は手をつくしても救えなかった多くの命が救われるようになりました。

感染症、外傷、その他の急性疾患において、現代医学は計り知れない恩恵を人々にもたらしてきたのは間違いありません。

一方、弛まぬ研究が行われているにもかかわらず、原因が解明されていない病気が数多く存在し、たくさんの患者が今も苦しんでいます。



膠原病の原因究明は、ここ数十年間進んでいません。

ストレス、遺伝、紫外線などが関係して発症すると言われていますが、主因は不明であり、大きな壁に突き当たっているように見えます。

治療薬としてステロイドが登場したことにより、生命予後は以前に比べ格段に良くなりましたが、完治が期待できる病気でないために、患者に大きな精神的、肉体的負担がかかっていると思われます。



現代医学の対象となっているのは、あくまでも肉体(身体)です。

しかし、人の身体は心と密接に結びついているのは、昔から経験的に分かっています。

心身症という概念が定着したように、心に受けた影響が身体に何らかの症状として現れることが認められています。

大きなストレスを感じると、胃痛や頭痛が起こるなど、身体症状となり現れる人も多く、そんな人を最新の機器でいくら検査をしても原因は見つかりません。

精神と肉体は切り離された存在ではなく、明らかに相互に関係しており、それを否定する人は、今はいないと思います。



人を構成しているのは、肉体と精神(心)だけではありません。

科学的に証明することはできませんが、精神より高次に魂が存在しています。

魂とは、本当の自分であり、生命の本質です。

肉体と次元の異なる魂は目に見えないため、普段は意識されることはありません。

魂から生まれる想いにより、精神が動いて、肉体が働いています。

想いは川の流れのようなものであり、精神という水車を回して、肉体という機械が働いています。

魂は想いという力を精神に送り、精神は司令塔となり肉体を動かして具現化していると言えます。

肉体は魂を表現する媒体であるため、魂が存在しない肉体は役目を終えて土に還ります。

唯物的な科学が、生命の本質を解明できない事実は、生命が肉体(物質)を超えたものであることを物語っており、魂の存在を認めない限り、医学は先に進んでいけません。



病気の原因は、肉体、精神、魂(霊)それぞれの次元に存在していると考えられます。

肉体次元に原因がある病気として感染症があり、物質的な(目に見える)原因を除去すれば、完治が期待できます。

精神次元に原因がある病気の1例として胃潰瘍がありますが、心(精神)が受けた侵襲が、全身の器官や組織に症状あるいは病気として生じています。

心が受けた侵襲は、一般的にストレスと呼ばれています。

肉体にストレスが加わった時は、疲労や痛みなどで知覚できますが、心の疲労や痛みは知覚できないために、支配下にある肉体に症状となって現れることがあります。

ストレスが溜まると病気なると言われますが、溜まったストレスが原因となり、心身に症状として現れています。

ストレスが加わらない環境に身を置けば、肉体に現れた症状は改善してくることが多いと思います。



しかし、魂に原因があると思われる病気は、外部の環境を変えてストレスがなくなっても、治るわけではありません。

ストレスにより溜まった「自分の想い」が、外に出せずに溜まっている状態にあります。

霊的次元に原因がある病気とは、表現されなかった想いが内に滞って大きくなり、魂のありさまに変化を生じさせている状態と考えています。



悲しみの想いが生まれると、目から涙が流れるように、魂から生まれた想いは、精神を経由し、肉体で表現されます。

想いは肉体で表現され、それが繰り返され、この世の人生が紡がれて行きます。



ありのままの想いを、周囲に不快な感情を与えずに素直に表現できる人もいます。

しかし、怒りの想いを、ありのまま表現したら、攻撃的で、暴力的なものとなり、人を傷つけ、社会的に責任を問われるかもしれません。

泣くことは責任を問われませんが、日常生活に大きな支障を来たしてしまうかもしれません。

多くの人は相手が不快に感じたり、何かしらの問題が生じるかもしれないと考えて、想いを表現するのを抑えているように思います。

また、想いがとても強かったり、年齢的に幼かったりすると、表現するのが難しくなり、想いは魂にそのまま滞ることになります。

表現できなかった想いが徐々に溜まってくると、魂から生まれる想いにも影響を与えるようになります。

怒りの想いが溜まっている状態では、やさしい想いは生まれません。

悲しみの想いが溜まっている状態では、喜びの想いは生まれません。

溜まっている想いに影響を受けて、同様の想いが魂から生じやすくなっています。



人は他者に愛を表現することで成長していきます。

しかし、怒りや憎しみなど摂理に反した想いからは、自分を成長させる表現は生まれるはずもなく、償いが生じるような表現(言動)をしてしまいます。

この世を生きているのは魂(自分)を成長させるためであり、(摂理に反した)想いが滞っていると、生きている意味を大きく失っていることになります。



人生で起きるさまざまな出来事により、心の奥にある魂から、何かしらの想いが生まれます。

同じ出来事が起きたとしても、生じる想いは十人十色です。

人から仕打ちを受けたとしても、人生にはこんなこともあると、ほとんど想いが生じない人もいます。

怒りを覚え、高じて憎しみや恨みの想いが生まれる人もいます。

中には、相手に怒るのではなく、自分が悪いと思う人もいます。



自分が悪いと思う人は、少なからず自責の念(想い)を抱いていると考えられます。

自責の念を、人はどのように表現をするのでしょうか?

自らの肉体を傷つけるという行為として表現してしまう人もいます。

多くの人は、そのような行為は良くないと考え、表現せずに心に留めると思います。

失敗したり、期待に応えられなかったりすると、自分の力量不足を嘆いて私も落ち込みます。

人に迷惑や損失を与えてしまうような出来事を起こしてしまうと、後悔するとともに、少なからず自責の念が生まれます。

「こんなことをしてしまい、本当に自分はどうしようもない」と、内向きな、否定する想いが自分自身を責め立てます。

しかし、人生で失敗や、迷惑をかけてしまうことは誰にでもあり、後悔や自責の念を1度も持ったことのない人は存在しません。



では、同じ出来事が起きても、自責の念を持つ人と、持たない人の差はどこからくるのでしょうか?



人は誰かに愛されていれば、護られているという安心感を持ちます。

護られているという安心感がなければ、心は不安になります。

そんな人は、外から攻めてくるものに対して、自尊心というバリアを張って、自分を護ろうとします。

一方、十分に愛を受けた人は、護られているという安心感があるために、自分を護ろうとする意識はなく、自尊心を持つ必要がないと思われます。



自分を護ろうとする気持ちが強くなると、同時に自尊心が高くなります。

自尊心が高くなると、自らに課すハードルも高くなり、自分の不完全なところが許せなくなり、完全を求めてしまう傾向が強くなります。

不完全なところを、自分の弱点として捉え、自分を護るために弱点を極力無くそうとします。

同時に、義務感がより強くなると思われます。

完璧にしなければいけないという、義務感が強くなっていると思います。

遊びのない、とても窮屈な精神状態と言えます。



そんな人が、期待していた通りに実行できなかったり、不完全なところを指摘されると、自尊心がひどく傷つけられます。

反省するのではなく、傷つけられた自尊心から、自分を責める想いが生じてしまいます。

自尊心が高いほど、自責の念に苦しむことになります。

結果として、自分を護っているものが、自分を責めているという現象が生じています。



護られているという安心感が少ない人すべてが、自尊心が高くなるのではありません。

自尊心というバリアが高くない人は、人へ気遣いや、思いやりといった気持ちを向けて、攻撃されるのを避けるようにして、自分を護ろうとします。

人のために、何かをしてやりたいと思う気持ちは、神性の表れであり、自分(魂)を成長させる思いです。

しかし、人のために何かをするには、まず自分が充足されていなければ難しくなります。

道の脇で、人が疲れて座り込んでいるので、目的地まで背負ってやろうと思っても、自分が何も食べておらず、お腹をすかしていてはその力は出ません。

1個のおにぎりを食べれば、力が漲り、背負って行けるかもしれません。

その1個のおにぎりが、自分への愛なのですが、護ろうとする想いがあるために、人に食べさせようとしています。

まず自分が満たされなければいけないのに、傷つきたくないので、人を満たそうとしています。

しかし、愛の想いから人を満たそうとしている訳ではないため、常に不安であり、出来ていないと感じると自責の念が生じてしまいます。

自分を護ろうとする想いが強いと、自分を責めることにつながってしまいます。



肉体は魂を表現する媒体であり、魂のありさまの変化は、肉体上の変化として表現されます。

魂から生まれる想いは、消えてなくなる泡のような存在ではなく、肉体で具現化していく力があります。

肉体で表現できなかった想いは、自然法則の働きにより、別の形となって肉体で表現されます。



現代医学で原因不明の病気の多くは、霊的次元に原因があると思われます。

肉体上の病態は、滞った想いと魂の関係を表していると思われます。

怒り、憎しみ、恨みなどの攻撃的な想いは、時に変異したガン細胞として肉体上に表現されるかもしれません。



膠原病も、霊的次元に原因がある病気だと思います。

肉体次元では、異物から身体を護るはずの免疫システムが正常に働かず、自分の身体を抗原と認識してしまい攻撃しています。

それは、自分(魂)を護ろうとする想いが、自責の念を生み出し、自分(魂)を傷つけているという、霊的次元で起こっていることの反映と考えられます。

想いが自分を傷つけているのにもかかわらず自覚されないために、因果律の働きにより、肉体上に病気(病態)となって表現されています。



病気を根本的に癒すためには、自責の念(想い)に気付き、想いを生じさせないような生き方や考え方に変えていく必要があると考えられます。



自分を責める想いは、自分を護ろうとする想いが強いために生まれています。

自分を護ろうとする強い想いは、護られていない不安感から生じ、自分に向けられた愛情が十分でなかったためと思われます。

受けた愛情が不足したために、自分を護るバリアとして自尊心を高くする必要があり、そのために自責の念が生じやすくなっていると思われます。



話が少し大きくなりますが、地球は、多くの生命が生きている美しい星です。

すべての生命は、協調しながら生きています。

人類は地球の生命の頂点に君臨していると錯覚していますが、生物にはそれぞれの役割があり、その価値に上下はありません。

その証拠に、地球上からすべての植物がなくなったとしたら、人類は滅亡するのは明らかです。

人類がいなくなっても、植物は何の変わりもなく生き続けるでしょう。

全てが、お互いのために生きています。

多種多様な生きものが1つの星の中で共に生きているのは、「協調」という神の摂理を学ぶためだと思います。



人間は、誰一人として完全ではありません。

足りない部分、劣っている部分を、それぞれ持っています。

不完全な人たちが集まって、この世界が出来上がっています。

それを認め合い、助けあって生きています。



生きている目的は、魂を成長させるためです。

人を助けることは、自分(魂)を成長させます。

お互いに不完全であるからこそ、助け合う機会が生まれています。

助けられた人は、感謝するとともに、今度は他の人を助けようとします。

助け合うことで、人から人へと、愛が伝わっていきます。

その連鎖が拡がっていき、個々の成長が促され、世界に愛が行き渡ります。



もっと、人に頼っていいと思います。

もっと、支えてもらっていいと思います。

甘え過ぎていると思うくらいが、ちょうどいいのかもしれません。

完全ではないので、人に支えてもらわなければ生きていけないことを、忘れてはいけません。



人を信じること

自分を愛すること

もしかしたら、少し足りなかったのかもしれません。

病気になったのは、その大切さを身を持って学ぶためかもしれません。



そして、自責の念から解放されるために、自分を許すように心がけていましょう。

病気になり、自分を大切にしている人であれば、決して難しくないはずです。












2015年6月7日日曜日

亡くなった愛する人の想いを受け取る



仕事が休みの木曜日に、障害者施設にボランティアに行っています。

ボランティアと言っても、簡単な手伝いをしたり、入所者の話し相手や遊び相手になっているだけです。

さまざまな程度の、知的、身体障害がある人たちが、寝食を共にしています。

その中に、重度の身体障害がある20代の青年がいて、訪ねた時は必ず話をしたり、遊んだりしています。

小学校6年生の時に交通事故に遭い、一命は取り留めたものの、知能の発達は事故当時のまま止まっていると考えられ、人の話を聞くことはできますが、「あー」としか答えられません。

頷いたり、首を横に振ったりして、意思表示はできますが、細かな考えや想いを、他人に伝えるのは無理な状況です。



明るく、素直な性格であり、熱心に話を聞いてくれますが、聞いているだけで、自分の気持ちや考えを話せないもどかしさは、想像を超えていると思われます。

気分が悪くなっても「気持ち悪いと」言えず、喉が渇いても「何か飲みたい」と言えません。

そんな彼が、楽しみにしているのは、自宅に戻り家族と一緒に過ごす時間です。

週末になると迎えに来てくれる、お父さんのことが大好きです。

「お父さんに、ありがとうって言いたいでしょ?」と聞いたところ、涙を流しながら頷いていました。

「ずっと先になると思うけど、死んだらこの身体はなくなって心(魂)だけになるから、そうすればいくらでも伝えられるよ」と、言いました。

しかし、言葉がしゃべれない不自由な身体と付き合わなければならない時間が、あと50年以上あるとしたら、あまりに長過ぎます。



そこで、自分の思っていることが、こちらに伝えることができないか、試してみようと言いました。

遊び感覚でやってみようと思いました。



まず、1から10までの好きな数字の1つを選んで、こちらに届くように思ってみてと言いました。

最初に思い浮かんだのは「5」でした。

彼に「5?」と、聞いてみると、首を横に振りました。

次に浮かんだのは、「7」であり、また違っていました。

そして、次は「3」が浮かび尋ねたところ、手を挙げて大きな声で「あー」と言ったので、今度は正解でした。



今度は動物でやってみました。

最初に浮かんだのは「犬」であり、違っていました。

次は「象」で、違っていました。

その次は「猫」で、正解でした。



さらに食べ物でやってみました。

最初は「おにぎり」で、違っていました。

次は「カツ丼」で違っていました。

どうも、ごはんから離れられずにいるみたいなので、「ごはん類?」と聞いたところ、首を横に振ったので、「甘いもの?」と聞いたら、そうだと肯きました。

最初に思い浮かんだのは、直径10センチくらいの円形であり、「ドーナツ」だと思って言ったところ、正解でした。



最後に色でやってみました。

すぐに「赤」のイメージが湧き、正解でした。



しばらくすると、何故か東京ディズニーランドの中にある、イッツアスモールワールドというアトラアクションの中で流れている音楽が、頭の中に突然響きました。

言葉でそのことを尋ねたところ、事故に遭う1年前に家族で行って、とても楽しかったそうであり、「あー」という大きな声と表情で、その時の喜びを表現していました。

今考えると、彼が勝手に試していたような気がします。



確率的には、どうなのでしょうか?答えを言っているうちに、当たるのは当然です。

思い浮かんだものなのか、それとも考えて予想したものなのか、はっきりと区別するのは困難です。

思い浮かんだものは、潜在意識に多少は影響されていると思います。



今回の試みから判ったのは、想いを推測しようとする気持ちが少しでもあると、失敗するようです。

想いを知りたいと欲すると、頭が働いてだめなようです。

頭(思考)の活動が停止し、無欲、無心になっている時が、うまく行くようです。



不思議そうな彼の表情を見ると、予想よりも一致していたのかもしれません。

騒がしい部屋の中で行ったにしては、まずまずの結果であり、慣れてくれば、もっと良い結果が出るのではないかと感じました。

お父さんに感謝の想いを伝えられる日が来るかもしれません。



私の家には、5匹の犬がいます。

犬たちと生活していて、気付いたり、教えてもらうことがたくさんあります。

人間には、言葉という、自分の考えや想いを伝えるのに便利なツールがあります。

複雑な考えや、想いを言葉にして伝えることが可能です。

動物たちには言葉がないので、啼き声や表情、身体を動かして、想いを相手に伝えます。

注意深く見ていると、アイコンタクトをして想いを相手に伝えているのではないかと思う時があります。

人には判らないだけで、動物同士は肉体を介さずに想いを伝え合っていて、仲間意識を高めたり、無用な争いを避けているのではないかと考えています。



人は言葉にあまりにも頼りすぎてしまったため、言葉を介さずに、想いを伝えたり受け取ったりする能力が、極端に低下してしまったと思われます。

もともとあった能力を、言葉と引き換えに手放したと言ってもいいかもしれません。

しかし、(言葉を介さずに想いを分かり合う)能力が低下していても、なくなってしまった訳ではありません。

知ろうとする気持ちがあれば、想いを受け取ることができると思っています。

お母さんは、泣いている赤ちゃんの想いを知ろうとして、無意識に受け取っているのかもしれません。

私が行っている施設でも、日常的に行われているように見えます。

想いを分ってもらいたい入所者と、想いを汲み取ろうとする職員との間では、意識せずに目と目で伝え合っていると思います。

外からは、今までの経験や、蓄えてきた知識から、想いを推察しているように見えますが、以心伝心という言葉があるように、心と心がリンクして伝えていると思っています。



どうして言葉を介さずに、想いが伝えられるのでしょうか?



人は、肉体と精神、そして生命の本質である魂から構成されています。

人は、物質である肉体に、次元を異にする魂が宿る存在です。

どちらが本当の自分かと言えば、もちろん魂です。



想いは、大脳から生まれるのではなく、魂から生まれています。

想いと混同してしまうものに思考(考え)がありますが、思考は大脳の働きによるものです。

物事を成功させたり、円滑に運ぶためには、状況を把握し、経験や知識を頼りに、頭(大脳)で考えなければいけません。

日常生活での、事務的な作業や、機械的な動作、感情を伴わない会話なども、大脳の働きによるものと思われます。

現代社会は、頭で考える時間が圧倒的に多くなり、自分の想いは押さえ込まれていると感じます。

そんな生活を続けているうちに、想いを生み出している魂の存在感は、希薄になっていくような気がします。

思考をすべて停止し、心を澄ませば、自分の想いに気付くと思いますが、雑音、雑念に囲まれた環境に慣れ、せわしない生活をしていると、想いは埋もれてしまいます。



魂と、そこから生まれる想いは、物質と次元が違うので、肉眼では見えません。

この世において、次元が違う想いを伝えるためには、肉体を使って言葉や表情、行動に置き換えて、表現しなければいけません。

肉体は、他者に想いを伝えるためにある、この世の道具と言えます。

頬をつたう涙は、悲しみの想いが表現されたものであり、それを見て涙する人の想いを知ります。

犬が尻尾を振るのも、想いの表現であり、喜んでいるのが判ります。

想いは、肉体(五感)で認識される形となって表現されて、他者に伝わっています。

しかし、肉体を介しているので、正確に伝わっているとは限りません。

また、想いが大きい、あるいは深いほど、表現するのが難しくなり、うまく伝えられません。

この世では、想いの半分、いや1割も、伝えられていないのかもしれません。



当たり前のように使っている言葉は、この世界の記号のようなものであり、肉体から出て、肉体に伝わります。

想いは、次の世界のものであり、魂から出て、魂に伝わります。

話す言葉も、2つの次元で伝えていると思います。

気持ちを込めて「ありがとう」と言えば、口から発せられた「単語」が耳に届き伝達されると共に、感謝の「想い」が魂から魂に伝わっています。

機械音声で「ありがとう」と言われても、想いは伝わりません。

文字だけでは想いは伝わらないので、「ありがとう(^▽^)」とか「ありがとう♥」と、想いを記号にして伝えようとしている人も、多く見かけられます。



死んだ後の世界は、肉体がなくなるため、魂から魂に直接想いを伝えています。

肉体から完全に離れた魂は、波長の1つ高い世界に移行し、そこで新たな生活を始めます。

想いの半分も伝えられないこの世界と、想いがありのまま伝わる次の世界では、どちらが真実に近い世界と言えるのでしょうか。



想いは、魂から魂に直接伝わるので、肉体のあるなしに関係はなく、この世とあの世の間でも伝えられると言うことになります。

関係するのは、伝えようとする想いがあるかないかです。



この世では、愛があれば一緒にいたいと思います。

向こうに行っても、愛があれば一緒にいたいと思うのは当然です。

目に見えなくなると、いなくなってしまったと錯覚しますが、愛する人の魂はすぐ傍にいます。

そして、こちらの想いは手に取るように判っています。

向こうの世界から、こちら想いは筒抜けであり、隠すことはできません。

この世では、物は目に見えるため実在し、想いは見えないために実在していないように思えます。

理解しにくいかもしれませんが、向こうの世界は真逆であり、物質は影のように実在感はなく、想いはしっかりとした実在です。

従って、向こうにいる人は、この世の誰よりも想いが判っていると思います。

想いがはっきりと判るので、この世にいた時よりも、傍にいてやりたいと思っているのではないでしょうか。

自分のことで悲しむ姿を向こうから見ていて、うれしくもありますが、悲しくもあると思います。

ちょっと悔しいかもしれませんが、向こうでの生活は、想像しているよりも快適で、喜びや楽しさに満ちています。

新しい世界での喜びと、遺してきた人の悲しみの間に大きなギャップがあり、少し戸惑っているのかもしれません。

そのギャップを埋めようとして、きっと何とかしようと思っています。



肩に見えない手をかけて、「傍にいつもいるから安心して」と、耳元で何度もささやいているかもしれません。

「何処かへ行ってしまう人間だと思っているの?」と、逆に尋ねているのかもしれません。

「そんな冷たい人間じゃないと、わかっているはずでしょ!」と、少し怒っているかもしれません。

「あなたの悲しみに負けないほど、今も変わらずに愛している!」と、誰かに伝えてもらいたいのかもしれません。



愛は、魂と魂を結びつける力です。

愛する想いは瞬時に伝わり、どこにいようとも駆けつけます。

力は感じなくても、愛する人の魂に抱きしめられています。



残念ながら、悲しみは魂と魂を結びつける力とはなりません。

その想いに同情はするでしょうが、置かれている状況が違うので、想いを共有できないと思われます。

そればかりか、悲しみのオーラが全身を取り囲み、寄り添おうとする魂にとって、バリアとなって遮っています。

離れたところで、悲しみのオーラが取り払われるまで、そっと見守ることしかできません。



傍にいてもらいたいと望むのであれば、とても難しいことですが、悲しみの想いを、愛する想いに変えていかなければならないと言うことになります。

それは、愛する人を傍で見守り、想いを伝えて導きたい、向こうの人の切なる願いかもしれません。

導くことが、向こうからの愛の表現です。

想いを伝えるしか、導く手段はありません。

「気のせいなんかじゃない!私の想いに気付いて!」と、必死に訴えているのかもしれません。

「想いに気付いて!それを信じて!」と、魂の声で叫んでいるかもしれません。



この世から、想いは向こうに伝わっています。

そして、向こうから想いは返ってきています。

その想いを、肉体という障壁があっても、受け取れるはずです。



こちらの想いと向こうの想いが1つになって同調すれば、両者の間にリンクができ、想いは伝わってくると思います。

思考が停止し、感情のさざなみが消え、鏡のような鎮まり返った水面になれば、たった1滴のしずくのような想いが落ちてきても、魂に波紋は拡がり認識できる考えられます。



悲しみが途切れた時に、心を鎮め、必ず愛する想いで同調し、しっかりと受けとめて下さい。

それは、ふっと湧くイメージだったり、あるいは言葉だったり、魂に伝わる想いのバイブレーションであるかもしれません。

その時に、自分が期待する答えを、思い描いてはいけません。

想いを知ろうとし過ぎて、いつまでも愛する人を束縛してもいけません。





想いにも、因果律という神の摂理が働いています。

自分から出た想いは、自分に返ってきます。

愛する想いには、愛する想いが返ってきます。

向こうから届く愛する想いは、この世を生きていく力になると思います。



     
HUG! friends (小学館)
シロクマの物語で、とても感動しました。5分で読めます。  




参考ホームページ: 「ともしび」・・・大韓航空機事故で奥様と長男を亡くされた武本昌三さんが、膨大な霊的な資料を簡潔に分かり易く、まとめられています。壮絶な悲しみと苦しみの末に、死後の生の確証を得て、光明を見出されていく過程が、詳細に書かれていますので、是非、ご覧になって下さい。私が、とても尊敬している方です。












2015年5月24日日曜日

争いは愛でしか終わりにできない その2




学生時代、歴史と言う科目が嫌いでした。

年号と出来事を、無機的に覚えていくのが苦手だったからです。

1947年に、世界で起こった出来事は何でしょうか?

答えは、100年近くにわたったイギリスの植民地支配からインドが独立した年です。

ガンジーと言う、丸いめがねをかけた小柄な指導者が、国民を率いて、非暴力という形で独立を果たしたことは知っていました。

しかし、圧倒的な力の差のある国に対して、非暴力により、なぜ独立出来たのかは謎でした。



マハトマ・ガンジーは、政治家というよりも、神の摂理を知る偉大な霊覚者だと思います。



ガンジーについて、簡単に説明をします。

1869年、インド北西部のポールバンダールに生まれました。

小学校時代は、怖がりで、内気な少年だったと言われています。

13歳の時に、ヒンズーの教えに従い結婚し、18歳で法廷弁護士となるため、イギリスに渡ります。

帰国後、しばらくしてイギリス領であった南アフリカに向かい、弁護士活動を始めます。

そこで、有色人種への差別を目の当たりにして、インド人コミュニティーの人権活動に携わります。

その後、帰国して、イギリスの植民地支配が多くのインド人に、貧困や不当な差別など、深刻な不利益をもたらしている状況を憂い、独立運動を始め、国民を率いる指導者となります。

イギリスから独立を果たした翌年、ヒンドゥー教徒の銃弾により亡くなりました。

その功績を讃え「インド独立の父」と呼ばれています。



ガンジーは敵対する者に対して、今までにない非暴力、不服従という、全く新しい戦略を取りました。

私の知る限りでは、他の国々は戦争あるいは革命によって独立をしています。

人民が立ち上がり、支配している国と武力で徹底抗戦し、撤退させています。

当然ながら、双方の血は流れ、多くの人命が失われてしまいます。

独立を果たし平和は戻りますが、その傷跡は後世にまで深く残ります。



独立前のインドは、数百年にも及ぶイギリスの支配に疲弊し、不信感に溢れていました。

そこへ登場したのがガンジーであり、イギリスへの不服従と非暴力を唱え、先導者となっていきました。



支配されている者が、命令や規則に不服従でいるならば、支配者は容赦なく力を行使して従わせようしてきます。

相手を脅してきたり、痛めつけて、恐怖を与えて、従わせようとするでしょう。

数え切れない人々が、暴力を受けて傷つき、あるいは投獄されて自由を失いました。

ガンジー自身も何回も投獄されていますが、怯むことなく、非暴力を貫き通しました。

そんな姿に勇気付けられ、人民もその教えに従いました。



いくら非暴力でいても、居座って支配している国は、出て行かないと誰もが思います。

やはり、力には力で対抗しなければいけないと、常識として考えます。

ある時、親交の深い歴史家が「あなたは聖書やバガヴァット・ギーター(ヒンドゥー教の聖典)に精通しておられるようですが、こと歴史に関しては何もご存知ないようですね。暴力に頼らないで自由を獲得した国は、過去においてひとつもないのですよ」と、ガンジーに問いかけました。

すると、ガンジーは「あなたは歴史について何もご存じないようですね。歴史についてまず知っておくべきことは、あることが過去に起こらなかったといって、それが、将来、絶対に起こらないとは限らないことです。」と、微笑んで穏やかに答えたそうです。



そして、こうも語っています。

「この驚きに満ちた時代においては、あるものごとの考えが「新しい」というだけで価値がないとは、だれも言わないでしょう。

また難しいから不可能だという考えも、時代の精神に合いません。

以前では夢想すらできなかったことが、今では普通に見られるようになり、『不可能』がどんどん『可能』になっています。

今日わたしたちは、暴力の領域においてなされている驚異的な発見に、たえず驚かされています。

けれどもそれ以上に、非暴力の領域においても、夢にも思わなかったことや不可能に思えることが、はるかに多く発見されるようになると、わたしは断言します。」



私の解釈が正しいのか分かりませんが、“暴力の領域おいてなされている驚異的な発見”とは、おそらく原子爆弾を指していると思われます。

“非暴力の領域においても、夢にも思わなかったことや不可能に思えることが、はるかに多く発見されるようになる”とは、世界で起きている争いは、武力行使をせずに、神の摂理に従い、お互いを認め合い、許し合うこと、同胞としてお互いを思いやることで解決され、恒久的な平和につながっていくことを発見していくだろうと、予言していると思われます。

ガンジーはもともとヒンドゥー教徒でしたが、イエス・キリストの言葉に深く感銘を受けていたと言われています。

特に、「右のほほを打たれたら左のほほを差し出せ」というマタイの福音書の一節に衝撃を受け、非暴力の根底には、その言葉があったと思われます。

共感、忍耐、信頼と、苦しみを喜んで受け入れる態度を取ることで、服従させようとする相手を変容させられるという、サティヤーグラハという教えを実践していました。

いかなる状況においても、笑みやユーモアを絶やさなかったガンジーの表情や言動の中に、支配者に対する怒りや憎しみの感情がないことが窺えると思います。

銃弾を打たれ、倒れた時の最後のメッセージは、「マーラ、マーラ、マーラ」であり、その意味は「わたしはあなたを許します、あなたを愛します、あなたを祝福します」と言われています。



武器を持ち、容赦なく暴力を振るってくる相手と、非暴力で対峙するのは、口で言うほど簡単ではないと思われます。

殴られたり、蹴られたり、脅されたり、そして苦痛の中で、恐怖や不安に感じずにいるのは、きわめて困難と考えられます。

銃口を突き付けられ、死の恐怖から免れるのは、不可能に近いと思われます。



非暴力とは、相手との闘いではなく、自分の恐怖や不安との闘いであると思われます。

ガンジーは「真の非暴力は、混じり気のない勇敢さがなければ実践できません。」とも、言っています。



銃を突き付けて脅す人は、脅される人の中に恐怖を見つけたなら、目的が達成され安心するでしょう。

しかし、不安や恐怖を見つけ出せないのならば、今度は自分が不安になります。

脅した相手に、自分へ向けた憐れみや愛を感じたのなら、畏れを抱き、それ以上の手出し出来なくなると思います。

憎んで暴力を返してくるものには、容赦なく攻撃できますが、憐れみや愛を向けてくる相手には、その中に神の存在を感じるため何もすることはできません。

ガンジーはそのことを十分に承知していたと思われます。

どんな仕打ちを受けても、怒りや憎しみを持たなければ、それ以上の行為を相手はできず、自分は護られることを、確信していたと思われます。

そのために、不安や恐怖から、完全に解放されていたと思われます。

真理に従っていれば、全てが良い結果になることを、それまでの経験から確信し、自信を深め、他の人に伝えて行ったのだと思います。



ガンジーは強い信念と、高い行動力と、抜きん出た指導力を兼ね備えた偉人であるのは間違いありません。

しかし、インド独立を成し得たのは、彼の教えに賛同する、圧倒的な数の国民がいたからです。

普通の人たちが、武器を持つ支配者に、悠然と素手で立ち向かい、死の恐怖に打ち克ち、非暴力により支配者はインドから撤退していきました。



もし、怒りを愛の想いに変えられたなら、攻撃してくればくるほど、大きな愛の想いを相手に向けられることになり、相手は撤退せざるを得なくなります。

自分を愛する者を攻撃することは、神の摂理である因果律の働きにより、出来ないと思われます。



ガンジーが偉大なのは、インドを独立国家としたとともに、神の摂理が間違いなく働いていること証明したからです。

普通の人たちであっても、信念によって、怒りや憎しみを抑え、愛に変え得ることを証明したからです。

争いは、自己変革により根本的に解決できることを証明したからです。



人は神からの(生命)力により生かされています。

神から流れ込む力は愛ですが、人間の魂が未熟なために、時として怒りや憎しみの想いに変わってしまいます。

上流から流れてくる水が清くても、流れる土地が清くなければ、水は汚れてしまいます。

怒りや憎しみは、愛が人を通して変化したものです。



生きていると、さまざまな出来事に遭遇します。

そこから、何らかの想いが生まれ、その想いを肉体で表現しようとします。

倒れている人を見たら、助けようとする想いが生まれて、手を差し伸べて起こすこともあります。

愛する人を喪ったら、悲しみの想いが生まれて、涙を流します。

人に裏切られたら、憎しみの想いが生まれて、報復してしまうかもしれません。

どんな想いを抱いたとしても、人に知られることはなく、行動に移しさえしなければ問題ないと考えてしまいます。

しかし、神の摂理は、目に見えない想いにも働いていて、摂理に反した怒り、憎しみ、恨み、妬み、貪欲などの想いには、因果律により相応の結果が生じると思われます。



病気は、心身の調和が乱れ、不都合が生じた状態です。

調和を乱す原因がどこかに存在し、その結果としてさまざまな身体症状が表れます。

人は、身体、精神、霊(魂)から構成され、病気の原因はどこかの次元に存在しています。

医学は唯物的であり、身体(物質)を対象としていますので、霊的次元に原因があると思われる病気は不明とされてしまいます。



ガンは、変異した細胞が秩序なく増殖していく病気です。

あらゆる角度からガンを調べてみても、未だに原因は掴めず、よって治療は対処療法しかありません。

科学では認められていない霊(魂)に、根本原因があると思われます。



ガンを患っている人の多くは、過去の出来事から生じた想いが、表現できずに内に滞っていると思われます。

内にある想いは、怒りや憎しみ、恨みや嫉妬、貪欲など、摂理(愛)に反する想いです。

怒りや憎しみの想いを、言葉にしてみて下さい。

攻撃的で破壊的なものになると思われます。

その想いを、外に向かって表現したのなら、他者を傷つけたり、争いが起きてしまいます。

外への表現は、自分自身に不利益をもたらすことになるので抑えてしまいます。

外に表現できなければ、その想いは内に留まることになります。



過去のどこかに、強い想いを生じさせたイニシエーションとなる出来事があり、その後も同様な想いが生じていたと思われます。

人生に影響を与えてしまうほど、想いが大きくなってしまったため、因果律の働きで、肉体上に攻撃的で破壊的なガンが表現されたと思われます。

内なる想いは五感に触れず、自我により覆い隠され、全く気付かれなかったために、見える形となって肉体に表現されたと思われます。



想いが「原因」であり、目に見えるガンは「結果」ということになります。



この世を生きている目的は、自分(魂)を成長させるためです。

苦難や障害を乗り越え、人や動物や社会に奉仕していくことで成長していきます。

内にあった想いは、苦難を乗り越えたり、奉仕をして、成長しようとする魂の欲求を妨げていたと思われます。

とても根深く、大きくなってしまい、自分では解放できなかったと思われます。

予定していた通りに自分(魂)を成長させるためには、その想いを解放し、本来の自分を表現しなければいけません。



ガンが生じた目的は、無秩序に増殖し肉体を死に至らせるためではなく、内にある想いを解放させるためです。

偶発的な遺伝子のコピーミスではなく、自然法則が働いた結果として、ガンは生じていると考えられます。



ガンは(肉体的)生命を脅かすものであり、それまで気にも留めなかった、死と向かい合うことになります。

死に向かい合うことで、生きる意味を問うことになります。

今までのように、頭でいくら考えても答えはでません。

その問いかけは、奥底に潜んでいた魂にまで響いて、揺り起こしていきます。

眠っていた魂が目を覚まし、本当の自分が姿を現します。

本当の自分は、とらわれていた内なる想いに気付きます。



ガンの苦痛には、摂理に反した想いを抱き続けた償いとしての意味があります。

同時に、魂を目覚めさせ、本当に大切なものに気付かさせます。

本当に大切なものに気付くと、想いは変わっていきます。

同情、気遣い、労り、感謝などの想いに変わっていくと、魂のありさまも愛を帯びたものになっていくと思います。

根強い(愛に反する)想いは、魂と間に親和性を失い、流れ込む生命力により解放されていきます。



ガンは、魂を目覚めさせ、想いに気付き、解放するためにある同胞ですが、現代医学でガンは、いかなる手段をもってしても消滅させなければいけない敵と考えます。

そのため患者にとっては、闘わなければならない脅威となり、恐怖や不安に襲われます。

知らないから恐怖が生まれ、恐怖から逃れるために消滅させようとし、消滅させようとする暴力的な想いが、ガンを暴力的にさせていくと考えられます。



怒りや憎しみなどの想いが、変異した肉体として表現されていますが、自分には変わりありません。

その想いを生じさせたのは、自分です。

そのことに気付かずに、消滅させようとする行為は、責任からの逃避であり、明らかに間違っていると思います。

想いの責任を、病気の苦痛により取らされていることになります。

摂理に反した想いを抱くことが、過ちであることを、苦痛により学んでいるということになります。



恐怖に打ち克ち、死と正面から向き合った者が、魂に目覚め、解放させる生命力を手にします。

苦痛を味わい、ぎりぎりまで追い込まれた末に、最も大切なものは愛だと気付いた瞬間、神とのつながりが深まり、生命力が流れ込みます。

その生命力が、根強く滞っていた想いを解放させます。



ガンを根本から癒やすためには、まず魂を癒さなければいけません。

魂を癒すためには、想いを解放しなければいけません。

想いを解放するためには、その想いに気付かなければいけません。



すべては魂から生じる想いから始まります。

イニシエーションとなった出来事を、見つめ直して下さい。

深い傷を与えた出来事であり、その出来事を思い出すと、今でも強い想いが生じるはずです。

生き方や考え方を変えてしまうほどの、出来事であったかもしれません。

本当の自分の想いが表現できなくなっているのは、その出来事から生じた想いに縛られているためです。

しかし、想いを無理やり引き剥がして、外に出すような訳には行きません。

許せなかっために生じた想いであれば、ガンになり苦痛を経験して償い、魂が成長した今の自分であれば、許せるはずです。

記憶はなくなりませんが、想いは解放することができるはずです。



武力ではなく、怒りや憎しみを愛の想いに変えるという自己変革により、国家や社会が変えられることが、70年近く前に証明されました。

しかし、世界中で起きている争いは、未だに武力により解決しようとしているために、治まる気配は一向にありません。

武力では、怒りや憎しみの想いを消すことはできません。

その想いがある限り、必ず争いとして表現されます。



ガンを消滅すべき敵とみなし、外力(治療)により制圧しようとしてきましたが、満足の行く結果は得られていません。

数百年前に行われていた医療行為には、おぞましいものが存在しますが、今、常識として行われている治療も、野蛮で、愚かしいものだっだと言われる時が来るのかもしれません。



人は肉体を携えた魂です。

肉体は魂の表現媒体に過ぎません。

魂の様相が肉体上に表現されています。

想いが変われば魂が変わり、魂が変われば肉体も変わっていきます。

ガンは、病変を力により消滅させるのではなく、痛みを伴いながら、愛に反した想いを、愛の想いに変えていくことで、治ると考えられます。



自分の想いに注意を払い、大切にしましょう。

可能な限り、心を穏やかに過ごしましょう。

怒り、憎しみ、恨み、妬み、貪欲などの想いを抱くと、肉体上のガンに反映されてしまうと思われます。

すべての人、出来事を、善意に捉えるようにしましょう。

降りかかる困難や苦痛は、魂を成長させ、目覚めさせ、癒やすためにある必要なプロセスとして受けとめましょう。



相手を認め、許すという愛の想いは、争いを鎮め、平和をもたらします。

国と国の争いも、人と人の争いも、身体の中で起きている争いも、すべて想いから生じています。

力ではなく、自分(魂)の変容により、根本的に解決されます。

外を変えるのではなく、内が変わることによって解決されます。

それは万物を貫く、不変の法則だと思います。



病気は治療で治るのではなく、神の摂理に合わせることで治ります。

なぜなら、神の摂理を学ぶために病気があるからです。



神の摂理は愛です。

因果律という法則を通して、過ちを犯しては償いながら、愛を学ぶために人は生きていると思います。






参考ページ: 「ガンは愛により癒される」

2015年5月8日金曜日

先に逝った理由



私の隣のお宅の庭には、今、さつきの花が咲いています。

5年前位でしょうか、ご主人が休みの日には、欠かさず庭の手入れをされていました。

ご主人は会社務めをされていて、定年間近であり、お子さんは結婚されて独立し、ご夫婦二人で静かに暮らしていました。

物静かな方で、あまり話す機会がなかったのですが、私の飼い犬にも塀越しに良く声をかけて下さり、動物好きなので安心していました。



気が向いた時しかやらない私とは違って、朝から夕方まで、黙々と雑草をむしったり、色々な種類の花や木を植えられていました。

暑い夏の日には、麦わら帽子をかぶり、日焼けしながら庭の手入れをされていた姿が印象に残っています。

その真剣な眼差しを見ながら、趣味と言うより、何か必死に思いを込めているように感じましたが、その思いが何なのかは分かりませんでした。

長い月日をかけて、ご主人が色とりどりの花や木を植えていき、きれいな庭になっていきました。



しばらくして庭の手入れをするご主人の姿を見かけなくなりました。

そして、近所の方から病気で入院されたと聞きました。

奥さんは看病のために、家を留守にされている時間が多くなっていきました。



数か月後、ご主人が脳腫瘍で亡くなられたと聞きました。

60代前半であり、定年後の時間をご夫婦でゆったりと過ごされるはずだったと思われます。



亡くなられた後、道で会ったり、回覧板を届けたりすると、奥さんは笑みを浮かべて、挨拶されていますが、心中はどうだったのでしょうか。

以前、庭から回って、おみやげを届けにいった時に、居間で横になり休まれていました。

一人で外に出かける姿は、めったに見かけません。

まだ明るいうちに、カーテンを閉めてしまいます。

お子さんがお孫さんを連れて、時々訪ねて来て、一緒に庭で遊んだりしてますが、気のせいか、笑顔の中に、寂しさや悲しみを感じてしまいます。

大切な人を喪った悲しみ、寂しさは、いかなる喜びであっても、埋められないのかもしれません。



今、ご主人の姿が思い出されます。

土にまみれながら、手入れされている、横顔と真剣なまなざしを。

そして、こんなことをつい思ってしまいます。

健康そのものだったご主人は、この先、自分に起こる出来事など想像もしていなかったが、長く生きられないこと、奥さんと近く別れの日がくるのを、魂は承知していた。

そして、奥さんのために、何か形に残るものを遺しておきたかった。

いなくなった後、寂しさを少しでも紛らわすため、自分を感じ取って欲しいために、いつでも見える、もっとも分かりやすい形で。



ご主人は、魂の奥にしまわれたこの世のシナリオ(青写真)を無意識に垣間見て、庭に想いを託したのかもしれません。

庭は雑草も生えることなく、奥さんがきれいに手入れされていて、以前のままです。

庭の木々や花々は大切な形見となっていて、奥さんはご主人の意図をしっかりと汲み取っているように思えました。



同じことが身に起きても、生まれる想いはさまざまです。

ご主人を亡くされて、前よりも活き活きとされている奥さんの話を聞きます。

新しい伴侶を見つけて、人生を再出発された人もいます。

一方、悲しみや苦しみに襲われて、そこから立ち直れない人もいます。

同じ配偶者との死別で、どうしてここまで違うのでしょうか?

すぐ立ち直れる人は楽観的で、立ち直れない人は悲観的な性格のためだからでしょうか?

ご主人に、頼りきっていたからでしょうか?

ご主人が、心の大きな部分を占めていたからでしょうか?

そうではなく、ご夫婦の結びつきに、違いがあるのかもしれません。



すべての人は老いてゆき、やがて死が訪れます。

肉体から解放され、次の世界へ移行していきます。

暗闇の後に、待ち受けているのは愛する人です。

悲しみはすべて喜びに変わり、夢にまで見た再会が、現実のものとなります。

先に行った人は、向こうの世界のあちらこちらを、案内してくれるだろうと思います。

そして、愛する人が、この世を去って、意外にも自分ほど悲しんでいなかった理由が分かります。

明るく、自由な世界であり、この世に残された人に目を向けない限り、悲しみはないことに気付きます。

出会いのような光輝く時を、しばらく過ごすことになります。



どれ位、共に過ごした後でしょうか、魂は次の段階に進んでいきます。

自らの魂の成長に応じた世界に赴くことになります。

この世は、さまざまな成長過程にある魂が、同じ地上(次元)に住んでいる世界です。

権力(地位)がある人、財産のある人、知性のある人たちが、強者であり、上に立ちやすい世界です。

向こうの世界は、この世とは大きく異なり、魂(霊性)がすべてを決定します。

思いやり、やさしさ、親切心に溢れた魂ほど霊性が高く、上の界層に行きます。

力とは権力や腕力ではなく愛であり、思いやりがあり、やさしいほど強者と言うことになります。

上の界層にいる人は下の界層に行けますが、下の界層から上の界層には行けません。

上の界層にいる人は下の界層にいる人の想いを理解できますが、下の界層にいる人は上の界層にいる人の想いを理解できません。

お互いの想いが分かり合える、魂(霊性)が同じレベルで、親和性のあるもの同士が、集団となり生活をしています。

たとえ婚姻関係があったとしても、霊性が違うのであれば、それそれが赴く世界は違ってきます。

しかし、向こうの世界での別れは、この世のような悲しみはないと思われます。

この世でも、類は友を呼ぶと言われるように、性格や趣味が似たもの同士が集まる傾向がありますが、向こうでは厳格に自然法則が働き、この世とは比較にならないほど、魂の似たもの同士が引き合い、結びつくことになります。

愛する者同士は、必ず再会を果たせます。

しかし、末永く一緒にいられるとは限らないということになります。



これらの自然法則から、私なりに考えてみました。




なぜ、これほど悲しまなければいけないのか?



魂と魂に親和性があり、つながりが強いためではないでしょうか。

親和性のある魂との出会いは、運命的で素晴らしいものであり、過ごした日々は幸せに満ちたものであり、共に生きる喜びを強く感じると思います。

しかし、離れ離れになってしまうと、耐えられないほどの悲しみ、苦しみを感じてしまうと思われます。




なぜ、私を残して逝ってしまったのか?



先に行った人は、残された人より、霊的に成長している魂だったからではないでしょうか。

夫婦として対等でも、年齢が下であっても、今までの人生で霊的に一歩、二歩、先に進んでいたのかもしれません。

この世で、魂の成長度を計ることはできませんが、もし、先に行った人が残された人よりも、思いやりや、やさしさに溢れ、寛容な人であれば、霊的に差があると思われます。

人生の最後近くまで、一緒に生きられたとしたら、悲しみや孤独とは無縁の日々が続いたでしょうが、霊的な差はなかなか埋められないのかもしれません。



この世に残された人から見れば、死別は悲劇です。

しかし、霊的には悲劇ではなく試練であり、悲しみを乗り越えていくことで、魂を大きく成長させるという、きわめて重要な意味があります。

先に行った人は、向こうで歩みを止めて、この試練を乗り越えていく姿を、見守っていると思います。

悲しく、つらい日々は無駄なものではなく、その差は少しずつ小さくなっていると考えられます。

そして、差が無くなった時に、神の摂理により、死が訪れることになるのかもしれません。



死の大きな意味は、残された人の魂の成長にもあると思います。

安穏の日々からは学ぶものはなく、つらいことですが、試練の最中に大切なことを、身を持って学びます。

深い悲しみは、魂を目覚めさせ、何よりも大切なことに気付きます。

愛する、愛されること以上に、大切なものはありません。

愛する、愛されること以上の、喜びはありません。

もしかしたら、先に行った人は、この世ですでに学んでいたのかもしれません。



先に行った人の本当の想いは、死によって分かるのであり、その想いこそ残された人が学ぶべきものなのかもしれません。

残された人は先に行った人の想いを学び、この世で表現して、成長していくのかもしれません。

先に行った人の想いを表現していくことで、同じ想いを共有できるようになっていくのかもしれません。

向こうでも、残してきた人の想いに気付き、共有しようとしていると思います。

もし、残された人が向こうに行き、先に行った人との間に、霊的な差があり、想いを共有できなければ、両者を結びつける力は弱いため、末永く一緒にいられないかもしれません。




先に逝った理由は、お互いが離れて本当の想いを知り、そして共有するようになり、魂が、より深く、より強く結びつき、再会の後も永続的に一緒にいられるため、と私は思います。





参考ページ: 「亡くなった愛する人とつながる」
         
                        「向こうにいる人の想い」

                        「この世の出来事の意味を知る時」

                        「その一瞬の時のために強く生き抜く」







2015年4月21日火曜日

ガンは魂のかさぶた



ハッブル宇宙望遠鏡が地球の周りを回りながら、美しい宇宙の写真を送ってきています。

その中に、ハッブル・ウルトラ・ディープフィールドと呼ばれる夜空のエリアを撮影した写真があります。

地球から130億光年離れた銀河が一万個も写っていて、とても神秘的な光景です。

はるか宇宙の彼方に存在する世界は、私たちには関係ありません。

目には見えませんが、霊的次元の世界は存在しています。

霊的次元の世界は、彼方にある関係のない世界ではありません。

目に見えるこの世界と、目に見えない霊的次元の世界との間に距離はなく、重なり合っています。

私たちは、この世に生きていると同時に、霊的次元とつながりながら生きています。



人は肉体、精神、魂(霊)により、成り立っています。

目に見える肉体と、目に見えない魂が重なり合い、影響し合っています。

肉体と魂の重なりが、完全になくなった状態が死です。

死とともに肉体は崩壊しますが、魂は変わりなく存続します。



意識されませんが、人の行動(表現)全てに、思念(想い)が先行しています。

うれしいから笑顔になるのであり、悲しいから泣きます。

想いがないところに、行動(表現)はありません。



想い(思念)は大脳で生まれるのではありません。

大脳は、外界からの情報を受け取り、論理的な思考をして、肉体に指示を出す司令塔の役目を果たしています。

情報を処理し、肉体を動かしている、言わばコンピューターです。

そのコンピューターを動かしているのが魂であり、そこから想いが生まれます。



ピアノの演奏で喩えてみます。

ピアニストを魂とすると、ピアノはその媒体(肉体)であり、演奏は表現(行動)です。

ピアニストがいなければ、ピアノはただの物体です。

ピアノがなければ演奏はできず、ピアニストは表現手段を失ってしまいます。

肉体が自分だと思っている人は、演奏をしているのはピアノだという誤りを犯しているのと同じです。

演奏しているのはピアニストであるように、肉体を動かしている原動力は、意識的存在である魂です。



仕方のないことですが、この世では目に見える肉体ばかりに注意が行ってしまい、魂はほとんど意識されません。

日々の生活や、趣味や娯楽など外に関心が向いて、魂から絶えず生まれている想いに気を留める人はまれです。

鏡に映る身体は、この世だけの表現媒体に過ぎず、身体を見ている意識が本当の自分です。



人々を苦しめている病気の原因は、肉体、精神、魂(霊)のどこかの次元に存在しています。

感染症は、細菌やウィルスなど物質的原因で起こるので、除去されれば治ります。

胃潰瘍は、精神的次元の緊張が、肉体上に反映されたものなので、緊張のない生活を送れば治ります。

ガンの根本原因は、未だ解明されていません。

根本治療は確立されておらず、目に見える病変をなくすという対処療法しかありません。

これだけ科学が発展しているのに、いつまで経っても原因が見つからないのは何故なのでしょう?

科学の対象外となっている、霊的次元に原因があるからと思われます。

魂の存在を認め、原因がそこにもあることを、認識する時が来ていると思います。



以前のブログで、「ガンの正体は表現されなかった(摂理に反した)想いである」と書きました。

ガンは物質的(肉体)であり、想いは非物質的であり、全く関係ないように思えてしまうために、何のことか理解できない人がほとんどかもしれません。



また音楽で例えてみます。

調和のとれた演奏をしている時が健康であり、調和を失い乱れた演奏になっている時が病気です。

乱れた演奏は、楽器の問題ではなく、演奏者に原因があるのは明白です。

しかし、現代医学は乱れた演奏の原因は、演奏者ではなく、楽器に原因があると頑なに信じ、楽器を調べ続けている誤りを犯していると考えられます。

演奏者の想いが、楽器を媒体として表現されています。

愛の想いがあれば、演奏にその想いが表現され、聴く人を幸せにします。

怒りや憎しみの想いがあれば、聴く人を不穏にさせます。

目に見えない想いが、媒体により表現されて、周囲に伝わっています。

隅々まで楽器を調べてみても、原因は見つかりません。

楽器を何回修理したとしても、問題の解決にはなりません。

演奏者の中に、原因を探さなければいけません。

原因を見つけて対処し、演奏者が調和を取り戻したならば、演奏は元に戻ります。



肉体は魂を表現する媒体です。

外面に、内面の様子が表れています。

怒りの想いに支配されていれば、顔は紅潮し、脈拍は速くなり、表情は険しくなります。

霊的次元に原因がある病気は、魂の様相の変化が、肉体上の変化として反映されます。

魂に深刻な影響を与えるほど大きくなった(摂理に反した)想いは、時に身体を脅かしているガン組織として反映されると思われます。



肉体上のガンの様子を観察すれば、その想いがどんなものなのか推察できます。

周囲の組織を押しのけながら、秩序なく増殖していく様子は、調和を失い、利己的で攻撃的な意志を持っているように見えます。

そんな利己的で攻撃的な想いは、怒りや憎しみや妬みや貪欲、言葉にならない想いが混ざり合い、積み重なったものなのかもしれません。

表現できなかった想いは、ガンとなって自己主張しているように見えます。

もし、患者さんに「あなたの内にある想いが病気を作り出したのかもしれません。」と言ったならば、何を根拠にそんなことを言うのかと、きっと憤慨されるでしょう。

そして、「自分にはそんな想いなどない」と、言い返されるかもしれません。

少し前になりますが、『がん性格 タイプC症候群』L・テモショック、H・ドレイア(アメリカの心理学者)著、岩坂彰、本郷豊子訳(創元社)という書籍がありました。

入手できないため、他の記事からの転用になりますが、150人以上のメラノーマ(悪性黒色腫)患者を面接しその約4分の3に、以下のような共通の性格的特徴があることを認めたそうです。

1.怒りを表出しない。過去においても現在においても、怒りの感情に気付かないことが多い。

2.ほかのネガティブな感情、すなわち不安、恐れ、悲しみも経験したり表出したりしない。

3.仕事や人づきあい、家族関係において、忍耐強く、控えめで、協力的で譲歩を厭わない。権威に対し従順である。

4.他人の要求を満たそうと気をつかいすぎ、自分の要求は十分に満たそうとしない。極端に自己犠牲的になることが多い。

メラノーマ(ガン)になった人は、怒りの感情に気付かないことが多く、怒りなどのネガティブな想いがあったとしても表現しない傾向がありそうです。

外から見れば、感情的にならない分別のついた大人であり、周囲に協力的な良い人そうです。

しかし、忍耐や従順、自己犠牲の影に、自分でも気付いていない許せない、認めない、拒絶する想いが存在していたのかもしれません。

そんな想いがあったために、つぎつぎと大小の怒りやネガティブな感情(想い)が生み出されていたのかもしれません。

表現されない想いが、少しずつ蓄積していったと思われます。



良くストレスが溜まるとガンになると言われます。

一般的には、ストレスにより免疫機能が低下したため、コピーミスによって生じたガン細胞が死滅されすに大きくなってしまうと考えられています。

ストレスとは、抑圧された感情とも言えますが、本体は表現されないネガティブな(摂理に反した)想いだと考えています。

ストレスが溜まった状態とは、ネガティブ(摂理に反した)な想いが溜まった状態と考えています。

ガンになった人の多くは、怒りなどのネガティブな想いに気付かなかったり、気付いてもうまく表現できないために、想いが蓄積しているのではないかと推察されます。



この世に生きる私たちにとって、想いに実感はありません。

時間とともに消えてしまう泡のようなものに思えてしまいますが、霊的次元においては実在であり、即座に具現化します。

想いは、精神を経由し、肉体を媒体として表情、言葉、行動となって表現されています。

想いは、表現する「力」と言えるのかもしれません。



日常生活を円滑にするために、自分の意見や感情を出すのを、抑えながら人は生きています。

思ったままのことを言い、やりたいことを好きなようにできる人は、独裁者でも無い限り無理であり、少なくとも私の周囲には見かけません。

つらい出来事があっても、想いを表に出さずに過ごさなければならない時もあります。

大なり小なり、滞った想いは誰にでもあると思います。

1つ1つは小さな想いでも、長い年月をかかて蓄積されて、大きくなっていくのかもしれません。



問題なのは、表現されない想いが溜まり過ぎてしまうと、人生で出会う出来事から生まれる想いに影響を与えてしまうことです。

怒りや憎しみの想いが溜まっている状態で、人にやさしくしたり、労わったりすることはできません。

本当はやさしくしたいのに、溜まっている想いに縛られて、思いがけず冷たい態度を取ってしまうかもしれません。

感謝しなければいけないのに、不満を見つけ出して、相手を非難してしまうかもしれません。



生きている目的は、魂を成長させるためです。

困難を乗り越えていくことで、魂は成長していきます。

そして、人や動物、社会のために奉仕する、愛を表現することで、魂は成長していきます。

その機会が訪れても、溜まっている想いのため利己的になり、逃してしまうかもしれません。

表現されなかった想いがあるために、魂が成長が妨げられて、この世を生まれてきた意味を失っていることになります。

これは霊的に成長していくことを定められた人間にとって、看過できない事態であると思われます。

しかし、想いが大きくなってしまうと、自分の力ではどうしても解放できなくなります。

そして、神の摂理である因果律が働き、肉体上にガン組織として表現されると考えられます。

ガンは、突発的なミスにより生じ、死に至らせるものではなく、表現されなかった想いに気付くため、そして解放させるためにある、自然法則の1つだと思います。

魂の成長を妨げている想いは、因果律の働きによりガンとなり、苦痛の経験をすることにより、本当の自分(魂)が目覚め、想いが解放されていくと思います。

解放させる力は、生命力という神の力であり、愛の力です。



想いは考えている以上に大切です。

どんな想いを抱こうとも自由であり、人から干渉されることはありません。

しかしながら、自由には責任が伴います。

神の摂理は、目に見えない想いにまで働いています。

摂理に適った想いは愛の想いであり、怒り、憎しみ、恨み、妬み貪欲などは摂理に反しています。

従って、自分の言動に注意を払うのと同じ様に、自分の想い(思念)にも注意を払わなければいけません。



イエス・キリストでさえ、怒りの想いを抑えられなかった出来事(神殿の境内で商売をする者を追い払った)があったそうです。

シルバーバーチの霊訓の中にも、怒りの感情がなかったら、もはや人間ではないとも書かれています。

この一文に、救われる思いがしました。

この世に生きている限り、怒りは避けられない感情であるということです。

同時に、イエス・キリストは「右のほほを打たれたら、左のほほを差し出しなさい」とも言っています。

昔は、この意味が分かりませんでしたが、怒りに任せて暴力的な行為で返すと、その行為に対して因果律が働き、さらに痛い思いをしなければならないため、相手に愛の想いを返すのが最も賢明であると、現在は解釈しています。

「汝の敵を愛せよ」も、同じ意味だと思います。

生きている限り怒りが生まれるのはやむを得ませんが、想いに振り回されてはいけないと思われます。

さまざまな出来事に出会い、痛い、苦しい、悔しい、悲しい思いをしながら、怒りや憎しみを少しずつ愛に変えていくために、この世に生きているのかもしれません。



ガンになった不運を嘆いたり、怒りや憎しみや妬みの想いを抱くのは、やめましょう。

その想いが、ガンの正体であるために、活性化させて、痛みはさらに強くなると考えられます。

消滅させようとする攻撃的な想いは、ガンをより攻撃的にさせると思われます。

想いに気付かせるため、痛みとともに解放させるために、ガンが神の摂理としてあるのならば、むしろ感謝しないといけないのかもしれません。

偶然ではなく、何かの意味があるのならば、それは魂の成長しかありません。

簡単に言えば、強く、やさしくなるためです。

この世の試練を乗り越え、愛を表現して、魂を成長させていくためです。





ガンは魂のかざぶたです。

魂が傷つけられ、そこから想いが溢れ、表で塊となりました。

その塊は、魂のかさぶたであるので、無理やりはがしてはだめです。

外から見ると醜いのですが、魂の傷を癒やすために必要なものです。

魂の傷が癒えて元に戻れば、用がなくなり、自然にはがれていきます。



                                                  ハッブル・ウルトラ・ディープフィールド



参考ページ: 「ガンは愛により癒される」









2015年4月12日日曜日

ガンは想いを解放する



ガンの原因は、残念ながら解明されていません。

細胞分裂時のコピーミスによって生じると言われていますが、大自然の営みである細胞分裂に、ミスはないと考えています。

遺伝子の異常は、さまざまな因子により影響を受けて生じますが、それだけでは説明し切れない要因が存在しているはずです。

現代医学で解明されていない未知の領域に、大きな要因があると考えています。

もし、ガンがウィルスや細菌と同じように、体外からの侵入者であれば、消滅させれば問題は解決します。

ガン細胞は無秩序に細胞分裂を繰り返していきますが、変異してはいるものの自分の一部であるため、治療を困難にさせています。

変異した組織を切除したり、薬で消滅させるのは、あくまでも対処療法です。

根本治療には、変異させた原因を究明し、取り除いていかなければなりません。



人体は肉体と精神により成り立っていると、科学では考えられています。

精神とは何か?科学でははっきりと分かっていないのも事実です。

大脳生理学では、個性や感情について説明することはできません。

個性や感情を生み出しているのは大脳ではなく、科学では検出できない「魂」と考えれば説明は容易になります。

魂に個性があり、感情は魂から生み出されると考えれば、とても自然です。

近年、物質の定義もきわめて曖昧になってきたと感じています。

物質は素粒子の振動であることは証明されていますが、素粒子とは何なのでしょうか?

魂は検出できないほど速い振動、高いエネルギーを持った存在と考えても、それほど違和感はないはずです。

20世紀前半の英国において、オリバーロッジやクルックスなど第1級の科学者が、真摯に魂(霊)の存在を検証しています。

検証の結果、彼らは魂の存在を全面的に認めています。



人は魂(霊)、精神、肉体から構成され、それぞれが互いに影響を及ぼし合っています。

魂から生まれた想い(思念)が、精神で司令として出され、肉体で表現されています。

魂との関係が断絶し、脳や肉体が全く動かなくなった状態が死です。

ガンは肉体、精神、魂(霊)それぞれの次元に要因があり、関連し合って生じると考えています。

肉体的な因子として、遺伝的因子、環境的因子があります。

遺伝的因子が影響しているものに大腸ガンや乳ガンなどがあり、環境的因子として発ガン性物質、放射線などが知られています。

精神的因子は、ガンの増殖と進行に関与していると思われ、不安や恐怖、心配などは、防御機能である免疫細胞の活性を低下させます。

ここまでは、エビデンス(科学的根拠)に基づいた周知の事実となっています。



霊的な原因についてはどうでしょうか?

魂は科学の対象外であるため、ガンと霊的な原因を研究したエビデンスは残念ながらありません。

主観的な意見となりますが、ガンは「想い」や「感情」に深く関係した病気だと考えています。

物質を支配する物理的法則があるように、魂(霊)を支配する霊的法則が存在しています。

霊的法則に基づいて、ガンという病を解釈していくと、原因が少しずつ見えてくると思います。

ガンに苦しむ人が、霊的法則を知り、少しでも病気が癒されることを願って書いています。



肉体は魂(霊)を表現する媒体です。

うれしければ笑顔になり、悲しければ涙を流して泣き、怒ると顔を赤くして怒鳴ってしまうように、内から生じた想いが、外にある肉体で表現されています。

思ったことは、肉体で表現されて、他の人に伝わります。

さまざまな想いが魂から生まれ、精神で指令となり、肉体で表情、言葉、行動となり表現されています。

想いは精神を動かし、肉体で具現化させる力と言えます。



生きていると、さまざまな出来事に遭遇します。

その出来事から、さまざまな想いが生まれます。

うれしい出来事であれば、喜びの想いが生まれ、思わず笑顔になります。

許せないようなことが起きたら、怒りの想いが生じて、高じると憎しみや恨みの想いに変わってしまうかもしれません。

人それぞれに出会う出来事があり、そこから想いが生まれ、行動(表現)しながら、人生が紡がれていきます。

この世の中は、楽しいこと、うれしいことばかりではありません。

不本意なことや、納得できないこと、認められない出来事も、たくさん起こります。

もし、そんな出来事が起きて、怒りの想いが湧き上がってしまったら、怒鳴ったりして行動で表現してしまえば、気分はスッキリするかもしれません。

しかし人間関係を悪くしたくなかったり、良心が咎めたりすると、言動による表現は控えるようになります。

そうすると想いは外に表現されずに、内に留まります。

ストレスが溜まっている状態とは、表現できない想いが溜まっている状態とも言えます。

想いが溜まってしまうと、心身に良くないと本能的に思うために、何かをして吐き出そうとします。

おしゃべりをしたり、酒を飲んで愚痴を言ったり、スポーツをして発散したり、趣味に没頭したり、これらは内に溜まっている想いを外に出しているのであり、健康を保つための自然な行為です。



日々の生活で、意見の衝突や、相手の過ち、心障を害する言動を、たびたび経験します。

怒りが生まれることもありますが、その多くは時と共に治まっていくと思われます。

しかし侮辱や軽蔑、あるいは差別など受けたり、裏切られたり貶められたりすると、強い怒りが生まれます。

それが憎しみや恨みとなってしまうと、気持ちが鎮まるのは難しくなります。

想いが強いほど、表現は難しくなり解放されずに、内に滞ってしまうことが多いと思われます。

滞った想いは、魂の様相を変えていく力となり、自分(魂)から生まれる想いは変化していくと思われます。

人に裏切られて憎む想いが滞っていれば、人を信じられず、許せないため、ささいなことでも似た想いが生まれやすくなってしまいます。

愛する人を喪い、悲しみの想いが滞っていれば、ふとしたことで悲しくなり、涙が出てしまいます。

解放されない想いは、その後の人生で出会う出来事から生まれる想いに、大きな影響を与えていきます。

想いにとらわれてしまうと、本来の自分の想いを表現できにくくなります。

本当はこうしたいのだけれども、どうしてもできないと思うことがあれば、解放されていない想いがあり、それに縛られていると思います。

犬に咬まれて怖い思いをすると、可愛くて撫でてやりたくても、躊躇してしまいます。

子供を好きになれずに悩んでいるお母さんがいますが、もしかしたら、滞っている過去の想いがあるのかもしれません。



この世の人生には、およそのシナリオがあります。

そのシナリオを承知した上で、生まれてきています。

そのシナリオに沿って生きていれば、予期した魂の成長が得られて、この世に生まれた意味が成就されます。

想いは行動となって人生を織り成して行きますので、想いが変わってしまえば、その後の人生はシナリオとは違ったものになってしまうかもしれません。

シナリオ通りに成長していくためには、滞っている想いを解放して、本当の自分の想いを表現できるようにしなければいけません。

しかし、その想いは5感に触れるものではないので、解放するどころか、気付いていない人がほとんどと思われます。

気付いていなければ、どうすることもできません。



自然法則の根本原理に「因果律」があります。

原因があって結果が生じる、言い方を変えると、あらゆる出来事に原因があります。

当然のことながら、いかなる病気にも必ず原因があります。

現代医学で難病とされている病気の多くは、霊的次元に原因があり、「想い(思念)」が関与していると考えています。



肉体は、魂で生まれる想いを表現する媒体であるため、魂(霊)の変化は、肉体の変化として表現されます。

怒りや憎しみや恨みの想いが表現できずにうっ積していくと、平和や協調や調和を乱す攻撃的な想いとなります。

その想いを、外に表現すれば、当然のことながら争いが起きます。

内に秘めれば、平和や協調や調和が乱され、内部に争いが起きます。

魂と(愛に反した)滞った想いのせめぎ合いが、肉体上で身体とガン組織のせめぎ合いとして表現されています。

肉体上のガン組織の増大は、滞った想いが、さらなる(愛に反した)想いを生んでいき、大きくなっていく様子を表しています。

表現されなかった怒り、憎しみ、恨み、嫉妬などが攻撃的な想いとなり、肉体上で生体を攻撃するガンとして反映されています。

想いは目に見えないために、因果律の働きにより、肉体上に見えるかたちとなり表現されます。



ガンは生命にかかわる病気です。

生命にかかわる病気になれば、否が応でも生命と正面から向き合うことになります。

生命とは魂です。

生命と向き合うことは、魂と向き合うことです。

魂とは、本当の自分です。

ガンになれば、本当の自分と向き合うことになります。



ガンは強い苦痛を伴う病気です。

それは経験した人でなければ分からないほど、つらいものと思われます。

苦痛は、(愛に反した)想いを抱き続けたことへの償いです。

それとともに、魂にまで響き、目覚めさせるという大きな意味があります。

魂に目覚めるとは、本当の自分に目覚めることです。



眠っている魂にまで響き、本当の自分に目覚めるために、ガンは存在すると思います。



本当の自分(魂)に目覚めれば、愛の大切さに気付いて、魂は愛を帯びたものになり、滞っている想いとの親和性は失われていきます。

神とのつながりが深まり、生命力がふんだんに流れ込み、滞った想いは解放されていきます。

想いが解放され、魂が浄化された結果として、肉体上のガンもなくなっていくと考えられます。



目には見えませんが、神の摂理が隅々にまで働いています。

ガンの真の姿は、(愛に反した)想いであるため、自分の想いに注意を払いましょう。

摂理に適った想いを抱くようにしましょう。

摂理とは愛です。

許すことも、愛です。



許すことはできず、その想いを表現できない人が、ガンになり易いと思います。

ただ、(摂理に反した)想いを表現してしまうと、魂と同化してしまいます。

その行為(表現)は魂に刻まれ、ガン(病気)にはならなくても、それ以上の償いが生じるのは間違いありません。

表現せずに、想いが魂に同化されなかった人が、病気を通して想いを解放することができます。

ガンになった人は、苦しく痛い思いをしますが、魂は守られていて、元に戻ることが出来る人です。

ガンは、想いに気付き、解放させるためにある、自然法則の一環です。

本当の自分に目覚め、この世で魂を向上させるためです。



全ての魂は、成長していくことが義務付けられています。

ガンは肉体を蝕み、死に至らせるものではありません。

魂の成長を妨げている想いを、取り除いていくのものです。

妨げている想いを、内から外に出して行くプロセスとして、肉体上のガンは存在しています。

従って、怖がる必要はありません。



十分な苦痛を経験し、つらい日々を送った人であれば、償いが終わり、魂の向上と共に想いは解放され、病は癒やされるはずです。

心配はいりません。



養生訓を書いてみました。

1. 心、穏やかに過ごす。
2. 寛容になるように努め、なるべく腹を立てない。
3. 小さなことにも感謝する。
4. 日々の中に、ささやかな喜びを見つける。
5. やさしさ、思いやり、いたわりの気持ちを表現する。
6. 笑顔でいる。



参考ページ: 「ガンを治す」

         「ガンは愛により癒される」












2015年4月5日日曜日

早世した子どもたち



一昨年の12月に、長男を交通事故で亡くした友人の姿を、今も見ていません。

中学時代の同級生でもあり、仕事上でも付き合いが数十年続いて、少なくても1ヶ月に1度は顔を合わせていました。

はっきりと物を言う性格であり、依頼した仕事はきっちりとこなし、とても信頼できる人間です。

仕事の関係は前と変わらず続いていますが、事故の後と前で、質が変わったということを全く感じません。

かなり強気の性格で、自分の弱いところを他人には見せたくないところがありました。

そして、同情の言葉をかけられるのが、何より大嫌いなのだと、私は思っています。



先日、病気でお子さんを亡くされた人たちが書き込むブログを見ました。

周りの人が想像している悲しみ、苦しみとは、次元が違うことだけは、はっきりと分かりました。

亡くなった事実は確定され、寸分も変えることはできません。

いくら泣いたとしても、悲しみに終止符が打たれることはありません。

経験してない人には、その悲しみや苦しみは、とても分かりません。

心から慰めることのできるのは、同じ経験をした人だけです。



多くの子供たちは何事もないように、学校に入り、社会に出て、結婚をして家庭ができて、苦楽を味わいながら成長していく中で、どうして我が子だけがいなくなってしまったのか。

そんな問いかけを、お子さんを亡くされたお母さんたちは繰り返されている様でした。



その中に、病気によりわずか生後2週間で、お子さんを亡くされたお母さんがいました。

この世に生まれた意味があったのかと、自問されていました。

もし、時間で計るのであれば、2週間という期間は長く生きた人の何百分の一、いや何千分の一しか、生きていた意味がないことになります。

功績で計るとしたら、まだ何もしていませんので、意味はなかったということになります。



不摂生をして病気になるのは自分に原因がありますが、生まれたばかりのお子さんに、落ち度があって病気になるとはとても考えられません。

落ち度がないにもかかわらず亡くなったので、責任は自分にあるのでははないかと、お母さんたちはとても苦しまれていました。



お子さんの死が、お母さんに深い悲しみを与えたことは、紛れもない事実です。

不幸のどん底に突き落とすのであれば、むしろ生まれてこなかった方が良かったと、考える人がいるかもしれません。

どんなに短くても、この世に生まれて来たのは、きっと意味はあるはずであり、その意味をお母さんは必死に探しているように思えました。



ご家族にとってお子さんの死は、悲劇以外の何者でもありません。

悲しみや苦しみを一生背負って生きていくとしたら、とても不幸な人生に思えてしまいます。

死んですべてが終わりなら、人生の敗北が決定されたように感じ、耐え難い不公平感に襲われるでしょう。



しかし、生命は肉体の死をもって完結せずに、死後も生は続いているとしたら、話は大きく変わってきます。

死後の生は、科学では証明されていない魂が存在していることが前提となります。

魂の存在については、賛否両論があるのは仕方ないと思っています。

必要とする時期が来た人に真実はもたらされますが、魂は存在し死後の生があることは間違いのない事実です。



あの世は、この世のおまけのような世界ではありません。

想い(思念)の世界であり、ありのままが表現されてしまう世界です。

ありのままが表現されても、恥ずかしくないように準備するのが、この世です。

想いを表現する媒体が肉体であり、死とは肉体という媒体からの解放です。

想いが実在であり、肉体のないあの世こそ、偽りのない実在の世界です。

実在の世界で、愛するお子さんは、さみしい思いをすることなく、元気に楽しく生きています。

あの世で楽しく生きているお子さんと、この世で悲しみにくれて生きているご家族のギャップがあまりにも大き過ぎます。

そのギャップを、少しでも埋めていくためには、正しい知識を持つしかありません。

お子さんへの愛がなくならない限り、再会は必ず果たせます。

これは夢や希望ではなく、間違いなく訪れる現実です。




もし、死んだ後にも生があるのであれば、生まれる前にも生(過去生)があると考えるのが妥当です。

しかし、過去生の記憶は魂の奥に仕舞い込まれて、魂の向上に必要と判断された時以外は、現生で引き出すことはきわめて困難と思われます。

仮に今、過去生を知らされたとしても、正しいと保障するものは何もありません。

たとえ、正しかったとしても、自分に納得のいかないものであれば、安易に受け入れられるものではありません。

従って、過去生があることだけを、承知していれば良いと思われます。




人生の出来事は、すべて因果律の働きで起こります。

お子さんが亡くなった原因は、誰一人として同じではないと考えられます。

2週間という短い人生を終えたお子さんの病気が、先天性(生まれつき)のものだとしたら、次の2つのうちのどちらかです。

1つは、病気は偶発的に生じたのであり、それ以上のものは何もない。

もう1つは、病気は偶発的なものではなく、何らかの原因があって生じた。

もし、偶発的に生じたのであれば、運が悪かったとしか言いようがありません。

原因があって生じたのであれば、受精した瞬間に病気は決定していたので、その原因は現生にはなく、受胎前の過去生にあると言うことになります。

過去生については、具体的に知るすべはありませんが、病気を生じさせた原因(目的)について、私なりに考えてみました。



病気は、自然法則に反した想いや行い、言い方を変えると不自然な生き方や考え方をしていたことが原因で、その結果として生じます。

病気には苦痛が伴いますが、(自然法則に背いた)償いであるとともに、魂を目覚めさ、成長させるという意味があります。

償いとしてではなく、さらなる向上を目指して、あえて苦難の人生を選択して病気の肉体に宿る、進化した魂の場合も考えられます。

どちらにせよ、病気は魂の向上のために存在していることになります。



苦痛を経験して償いをしたり、さまざまな経験を通して大切なことを学びながら成長してくためには、わずか2週間のこの世の生では、あまりに短すぎます。

では、2週間という短いこの世の生に、目的はあったのでしょうか?



自分のためではなく、ご家族のために生まれてきたのではないでしょうか。

もしかしたら、亡くなった赤ちゃんは、周りの人よりも向上した魂で、この世で学ぶべきものはすでになかったのかもしれません。

目的は、ご家族がこの世で大切なものを学び、成長するためであり、喜びの中で生まれ、確かな足跡を残し、役目を果たして直ちにあの世に旅立ったのかもしれません。

不幸にさせるためではなく、残されたご家族の魂を目覚めさせ、そして成長を促すために、もっとも深い悲しみを与えるタイミングで亡くなったと、思えてなりません。



残されたご家族にとっては、信じらない出来事であり、現実を否定してしまうかもしれません。

しかし、お子さんの死は確定された事実であり、現実を認めざるを得ません。

現実から、とめどもなく悲しみや苦しみが生まれて、その苦痛から、無意識に逃れようとしているかもしれません。

いくらかでも悲しみや苦しみが和らぐような、望みを持つのは、当然の成り行きです。

「きっとまた逢える」という望みは、暗闇の中の光となり、この世を生きて行く、いくばくかの力になるのかもしれません。

その望みを叶えるためには、魂として生きているという前提が必要です。

ほとんどの人は、魂の存在など意識せずに生きていますが、お子さんを亡くしたご家族にとって、魂の存在が否定されれば、「また逢える」という望みが叶うことはありません。

お子さんの(魂の)存在を直感的に気付いているお母さんもいますが、多くのお母さんは魂となって、天国で生きていると信じたいと思っています。

魂とは何なのか?

生命とは何なのか?

いくら頭で考えてみても、答えは見つかりません。

それでも問い続けていると、それまで眠っていた自らの魂が呼び覚まされ、魂からの声(インスピレーション)の中に、その答えを見つけるかもしれません。

根拠など何もなく、少しでも心の平穏を得るためにそう信じるしかなかったとしても、長い間、強く信じるようにしていると、自分の中で徐々に真実になっていくのかもしれません。

絶え間ない悲しみ、苦しみや痛みには意味があり、神の摂理により、真実にたどり着けるようになっていると思います。

生命とは魂(霊)という真実に。




これ以上ないと思われる悲しみは、自分へ向ける限りない愛であることを、お子さんは十分に分っていると思います。

いくら泣いてもかまいませんが、お子さんの姿は目に見えなくても、魂は傍にいることだけは忘れないで下さい。

やさしく声をかけて下さい。

想いをそっと返してくれるでしょう。

しっかりと魂で受け取って下さい。




ところで、向こうで待っているお子さんは、どんなお母さんに逢いたいでしょうか?

きっと、成長したお母さんに逢いたいはずです。

無理をしなくても、生きているだけで、成長しています。

悲しみや苦しみに耐えて、この世に生きていること自体、成長しています。

今すぐ逢いたいと思う気持ちを抑えて生きることも、成長につながっています。

悲しみ、苦しみは行き場を失った愛であり、いつの日か、人をいたわり思いやる想いに変わっていくかもしれません。

その想いを表現すれば、さらに成長していきます。

亡くなったお子さんの分まで生きようとする気持ちは、お子さんが託した願いそのものであり、大きな成長につながっています。



泣いてばかりでも、少しずつ前を向いて進んでいけると、お子さんは信じています。

信じていなければ、愛するご家族を残して向こうに行ってしまうことはなかったでしょう。

お子さんがこの世に生まれたのは、お母さんがこの世に生まれた目的を果たすのを助けるためでもあります。

悲しみや苦しみに耐えて生きてさえいれば、自然に強く、優しくなっていき、お子さんが逢いたいお母さんになれるはずです。

数十年してお子さんと再会した後に、思い悩ませている問に対する答えをはっきりと知り、きっと大きな喜びに包まれるでしょう。



その日は、遠い先のように思えますが、少しずつ近づいています。

その手で、もう1度、思い切り、抱きしめられます。



悲しい別れは、無上の喜びのためにあります。

喪って悲しい思いをした分、より大切なものを手にします。

すべては魂の成長のために配慮されていて、計画通りに進んでいます。

最も大切なものは愛であることを教えてくれたのは、お子さんの生命です。

お子さんの生命は、愛そのものです。




参考ページ:       お母さんへ

                                   「生きている!そばにいる!」

         「亡くなった愛する人とつながる」

         「ママへ」
 
                                    「最愛の子を亡くした人へ」



参考HP:「最愛の我が子やご家族を また愛する人を亡くされた方へ~死の真実を求めて」一人息子さんを亡くされたお母さんのHPです。







2015年3月23日月曜日

想いを大切にする


人は、行いが習慣的になってしまうと、当初それが過ちだと分っていても、そのことを忘れてしまうことがあります。

私は、7年前に厳しい行政処分を受けました。

きわめて深刻な状況に陥りましたが、当たり前に行っていたことが過ちであることを忘れてしまったためです。




人を肉体的に傷つけると、逮捕され、裁判を受けて、有罪となれば法的に罪を償わなければいけません。

誰もが、それは罪な行いであることを知っているので、たとえ暴力的な衝動に駆られたとしても、自制します。




一昔前は、ひどいことを言って、相手を傷つけたとしても、罪に問われることはありませんでした。

今は、上司が部下に、男性が女性に、精神的に追い詰めるような発言をすると、ハラスメントとなり責任を追求されるので、言葉に気を付ける人は多くなったと思われます。




社会には法律やモラルが存在し、自分の言葉や行いには責任が伴い、もし反したなら何らかの償いをしなければいけません。

自分から生まれる想いにも、自然法則が働いていて、摂理(愛)に反した想いに対しては何らかの償いが生じることになります。




「言霊(ことだま)」と良く言われますが、言葉の持つ意味はもちろん重要ですが、その言葉がどんな想いを込めて放たれたかにより、伝える相手に与える影響は違ってくると思われます。

メールなど文字になってしまうと言葉に込めた想いは伝わりにくいのですが、直接かけられた言葉は、表情や態度、口調から、言葉の中に込められた相手の想いが伝わってきます。

混雑した電車の中で、揺れて足を踏まれた時に、踏んだ相手から「ごめんなさい」と言われてたとして、それが詫びる想いが込められた「ごめんなさい」なのか、思いが込められていない事務的な「ごめんなさい」なのか、何でこんな所に足を置いているのという、怒りの想いが込められた「ごめんなさい」なのかは、すぐに判ります。

言葉に込められた想いが、相手に伝わっているからです。

ひどい口ゲンカをしても、そこに憎しみや恨みや侮辱や軽蔑の想いがなければ、傷つかずに意外とすぐに忘れてしまうのかもしれません。

想いは残ったとしても、会話をしたり、歌を唄ったり、好きな運動や趣味に興じていると、自然に想いは解放されてしまうような気がします。

たった一言の言葉でも、強い想いが込められていると傷ついてしまい、容易には解放されなくなってしまうかもしれません。

文字で見ると傷つくような言葉であっても、親しみや愛情を込めて言えば傷つきません。

傷つくような言葉に思えなくても、侮辱や軽蔑などの想いが込められれば、傷つきます。

相手の言葉に傷つくのは、言葉そのものよりも、込められた相手の想いを受け取って、傷つくのだと思います。

法律では言葉の意味でしか判断しないので、罪は問われないかもしれません。

しかし、自然法則はその言葉の中に込められた想いを、見逃すことはありません。

たとえ社会で罪は問われなくても、、自分の想いにも自然法則は働いていて責任を問われるので、気を付けなければいけません。




人は、魂で生じた想いを、肉体で表現しながら生きています。

人生で遭遇する出来事から想いは生まれていますが、そのすべてを、言葉や行動で表現できるはずもなく、たくさんの表現されなかった想いを抱えながら生きています。

けれども、大抵は他の想いの表現とともに、解放されてしまいます。

しかし、衝撃が大きかったり、幼かったりすると、想いは滞ったままとなります。

出来事により、その後の人生が変わってしまうのは、生じた想いがとても強いため、解放できずに、心の傷として魂に影響を及ぼしていてるからなのかもしれません。

心の傷となっている想いは、怖れ、怒りなどですが、どんな想いなのかも、自分でわからないことも多いと思われます。

肉体の傷を早く治すまじないはないのと同じで、心の傷となっている想いを一瞬にして解放させる術はありません。

魂の成長とともに、徐々に解放されていくと思います。

戦争で闘って帰還した兵士が、トラウマに苛まれることが多いと聞きます。

過酷な状況は、体験した人でなければとても分かりませんが、苛まれるトラウマとは、自分が殺されるかもしれないという恐怖の想いよりも、自分の手で人を殺したり傷つけてしまったという、後悔や懺悔の想いかもしれません。

もし、怒りや憎しみや恨みや嫉妬、利己的な想いから、相手を傷つけてしまえば、その傷つけてしまった分、相応の苦痛が神の摂理の働きにより、後にもたらされますが、国や家族や平和を守るため、殺さなければ殺される極限状態においてであれば、罪の意識を過剰にまで感じる必要はないと考えられます。

全ての行為に対して、責任が生じるのは、動機という想いです。

どんな想いで言ったのか、行ったのかが最終的に問われることになります。

従って、偽善行為は、霊的に見れば全く価値の無いものになります。

その逆に、溺れてしる人を助けようと、我が身を省みず飛び込む行為は、動機が崇高であるため、高い価値があります。

何か行動を起こそうと思った時には、その動機を問い質してみる必要があります。

人や社会のためであれば、迷わず推し進めて行った方が良いと思われます。




想いは、生まれては消える、泡のような実体の無いものではありません。

肉体で表現され、具現化していく力を秘めています。

どんな想いを抱こうと自由ですが、自由には責任が伴うことを忘れてはいけません。

怒りや憎しみや恨みや嫉妬や貪欲などの、愛(摂理)に反した想いを抱いが生まれても、表現せずに押し留めてしまうことがほとんどかもしれません。

小さな想いであれば、他の想いの表現とともに、解放されてしまうと考えられます。

しかし、1つの1つの想いはたとえ小さくても、日常的に生まれて、解放される機会がなければ、積み重なり大きくなってしまいます。

相手からひどい仕打ちを受けていて、心の中では怒りや憎しみや恨みの想いを抱いているのに、表情に出さず、言葉や行動で表さなかったとしたら、その想いは表現されずに魂に滞っていることになります。

想いは、時とともに開放されていくのですが、とても強いと解放されないことがあります。




滞った想いが魂に影響を及ぼしてしまうと、自分本来の想いを表現するのが妨げられてしまいます。

その想いがあるために、自分を成長させる愛の想いは、生まれにくくなってしまいます。

生まれてきた意味を成就するためには、その想いを早く解放しなければいけませんが、自力では困難になると、因果律が働いて、苦痛を伴う出来事が生じたり、病気となるかもしれません。

出来事や病気に伴う苦痛が神の摂理により生じて、魂が目覚め、過ちに気付き、滞っていた想いが解放されて、自分本来の生き方や考え方を表現できるようになります。




苦痛の経験は、誰でも避けたいものです。

そんな(摂理に反した)想いが生まれないような、自然法則に適った生き方や考え方をした方が賢明です。

(摂理に反する)想いが生まれるのがどうしても避けられないのであれば、その環境は今の自分にふさわしくないのであり、思い切って変えてみる必要があるかもしれません。

想いが次々と生じてしまうのであれば、限られたこの世の時間を、無駄に使っているのかもしれません。

人や社会のためにという、自分(魂)を向上させるような想いが、自然に生まれる環境が自分にとってふさわしいと思われます。




生きていくためには、衣食住を賄うために、働かなけらばいけません。

同時に、働くことで人や社会のために奉仕しています。

働くことは、表面的には生活するためにお金を得たり、家庭を守っていくためにありますが、人や社会に奉仕をして自分(魂)を向上させるためにある、自然法則により生まれた地上の独特のシステムだと思います。

ふさわしくない環境で想いが生じ続けていると、心身に不調をきたしてしまい、休養しなければいけなくなるかもしれません。

地位や名誉や富に固執すると、この世に生まれてきた意味を成就できないばかりではなく、それを改めるような出来事が生じるかもしれません。

自分にふさわしい場所は、必ず用意されているはずであり、それを見つけようとする努力は怠ってはならないと思います。




もし、それでも環境を変えることが許されないのであれば、この世で与えられた試練であると、しっかりと受けとめなければいけません。

この世で与えられた試練であれば、どうしても乗り越えていかなければいけません。

何で自分だけが、こんなにも苦しい思いをしなければならないと感じるかもしれませんが、自分(魂)を成長させる以外に理由はありません。

今まさに、生まれてきた意味の1つを成就している時です。

例えが適切かどうか分かりませんが、スポーツ選手がいて、とても苦しい練習をしている人と、休んでいる人がいるとしまます。

苦しい練習をしている人は、休んでいる人を傍目で見て、とても羨ましく思えます。

毎日、毎日苦しい練習をして、つらい思いをしながら、どんな意味があるのだろうと思ってしまうかもしれません。

逃げ出したくなる日々を、どうにか乗り越えて、試合の日がやってきました。

厳しい練習は、決して裏切ることはありません。

とても満足のいく結果が出ます。

苦しみは報われて、一転して喜びとなります。

休んでいた人と、苦みながらも練習を続けた人は、どちらが真に幸せなのでしょうか?

この世の人生だけで判断すると見誤ります。

次の世界は間違いなくあり、そこで今の苦しみの真の意味を知ることになります。

苦しみは自分(魂)の向上のために必要不可欠であり、後になり大きな喜びに変わるでしょう。

苦しみや悲しみが、一瞬にして喜びに変わる瞬間、神に感謝するとともに、神の摂理は、愛そのものであることが、はっきりとわかるはずです。

偶然、不運、不幸などというものは全く存在せず、神の摂理が働いた結果を見ているのに過ぎず、公正、公平が完璧に行き渡っていると確信するでしょう。




怒りや恨みや憎しみや嫉妬、悲しみや失望と言った想いが起きるのは、神の摂理が働いてるのが見えないためかもしれません。

想いを支配する霊的な法則が、すべての自然法則の根底をなしていて、それが分からなければ因果律の働きで、目に見える形となって表れてくると思います。




霊的な法則は、最も大切なものに気付き、表現させるためにあると思います。

最も大切なものは愛であり、愛を肉体で表現するために、この世に生まれてきたことを、生まれる前の自分は十分に承知していましたが、いざ生まれてしまうと目の前にあるものしか見えず、人や出来事に振り回されて、すっかり忘れてしまい、他にあると錯覚して探し求めてしまいます。

もし、忘れずにいたのなら、認めること、許すことができるために、摂理に反した想いは生まれないはずです。

大切なことを忘れて、許すこと、認めることが出来なくなってしまったために、誤った想いが生まれてしまい、因果律が働いて、苦痛の出来事が生じて、最も大切なことをまた思い出します。

世の中で起こる多くの出来事は、この法則の働きを見ているだけかもしれません。




魂から生じる想いを、自然法則(神の摂理)に適ったものにすれば、すべてがうまくいきます。




しかし、認めること、許すことは決して容易ではなく、反する想いが、つい生まれてしまいます。

私もどちらかと言うと感情的な人間であり、怒りの想いは生じやすかったように思います。

そこで、こう思うようにしました。


自分も人も欠点があり、それを補うためにこの世に生まれてきている。

自分に欠点があるのに、人の欠点を責めることはできない。

その欠点を補い合うことこそ、この世に生まれてきた意味である。

怒りや憎しみや恨みや嫉妬の想いを抱くのは、相手に問題があるためではなく、自分が至らないためである。

同じ状況に置かれていても、認めて、許せる人は、世の中にはいくらでもいる。

認めて、許すには、自己犠牲を伴うのでつらく、愛の想いなしでは無理である。

許せないのは、自分の愛が足りないためである。


その様に信じて、心穏やかに、(愛に反した)想いが生まれないように努めています。

それでも未熟なために、どうしても生まれてしまいますが、表現してしまった時は、これまでにないほど苦しい思いをするような気がします。




感謝の想いは、とても大切だと思っています。

感謝の想いを絶やさずに生活していれば、摂理に反した想いを抱かずに済むからです。

しかし、それも簡単なことではなく、忙しさにかまけていたり、日常的になってしまうと、つい忘れてしまいます。

「ありがとう」、この五文字の言葉には、人を良い方向に導く力があるように思えます。

感謝の想いを込めて「ありがとう」と言わなければいけませんが、つい想いを込めないで言ってしまうこともあります。

それでも、言わないよりは、言った方が良いと考えています。




生きて、人に何かをさせてもらえるのは、とても幸せなことです。

ほんのちょっとでも、この世で上に進めることができたのですから。

上に進んでいくためには、愛が必要であり、努力が必要です。

それでも人は、上に向かって進まなければいけません。

上に進む苦しみは、いずれ喜びとなります。




摂理に適った愛の想いは喜びをもたらし、愛に反した想いは苦痛による償いをもたらすことは分っていますが、生きているとあらゆる局面でそれが問われていて、愛の想いを抱き続けるのはとても難しいと感じています。

そうであっても、それがこの世で試されているので、可能な限りその想いを抱き続けていきたいと願っています。




自分から生まれる想いは、自分そのものであり、常に注意を払い、大切にしなければいけません。