2015年6月7日日曜日

亡くなった愛する人の想いを受け取る



仕事が休みの木曜日に、障害者施設にボランティアに行っています。

ボランティアと言っても、簡単な手伝いをしたり、入所者の話し相手や遊び相手になっているだけです。

さまざまな程度の、知的、身体障害がある人たちが、寝食を共にしています。

その中に、重度の身体障害がある20代の青年がいて、訪ねた時は必ず話をしたり、遊んだりしています。

小学校6年生の時に交通事故に遭い、一命は取り留めたものの、知能の発達は事故当時のまま止まっていると考えられ、人の話を聞くことはできますが、「あー」としか答えられません。

頷いたり、首を横に振ったりして、意思表示はできますが、細かな考えや想いを、他人に伝えるのは無理な状況です。



明るく、素直な性格であり、熱心に話を聞いてくれますが、聞いているだけで、自分の気持ちや考えを話せないもどかしさは、想像を超えていると思われます。

気分が悪くなっても「気持ち悪いと」言えず、喉が渇いても「何か飲みたい」と言えません。

そんな彼が、楽しみにしているのは、自宅に戻り家族と一緒に過ごす時間です。

週末になると迎えに来てくれる、お父さんのことが大好きです。

「お父さんに、ありがとうって言いたいでしょ?」と聞いたところ、涙を流しながら頷いていました。

「ずっと先になると思うけど、死んだらこの身体はなくなって心(魂)だけになるから、そうすればいくらでも伝えられるよ」と、言いました。

しかし、言葉がしゃべれない不自由な身体と付き合わなければならない時間が、あと50年以上あるとしたら、あまりに長過ぎます。



そこで、自分の思っていることが、こちらに伝えることができないか、試してみようと言いました。

遊び感覚でやってみようと思いました。



まず、1から10までの好きな数字の1つを選んで、こちらに届くように思ってみてと言いました。

最初に思い浮かんだのは「5」でした。

彼に「5?」と、聞いてみると、首を横に振りました。

次に浮かんだのは、「7」であり、また違っていました。

そして、次は「3」が浮かび尋ねたところ、手を挙げて大きな声で「あー」と言ったので、今度は正解でした。



今度は動物でやってみました。

最初に浮かんだのは「犬」であり、違っていました。

次は「象」で、違っていました。

その次は「猫」で、正解でした。



さらに食べ物でやってみました。

最初は「おにぎり」で、違っていました。

次は「カツ丼」で違っていました。

どうも、ごはんから離れられずにいるみたいなので、「ごはん類?」と聞いたところ、首を横に振ったので、「甘いもの?」と聞いたら、そうだと肯きました。

最初に思い浮かんだのは、直径10センチくらいの円形であり、「ドーナツ」だと思って言ったところ、正解でした。



最後に色でやってみました。

すぐに「赤」のイメージが湧き、正解でした。



しばらくすると、何故か東京ディズニーランドの中にある、イッツアスモールワールドというアトラアクションの中で流れている音楽が、頭の中に突然響きました。

言葉でそのことを尋ねたところ、事故に遭う1年前に家族で行って、とても楽しかったそうであり、「あー」という大きな声と表情で、その時の喜びを表現していました。

今考えると、彼が勝手に試していたような気がします。



確率的には、どうなのでしょうか?答えを言っているうちに、当たるのは当然です。

思い浮かんだものなのか、それとも考えて予想したものなのか、はっきりと区別するのは困難です。

思い浮かんだものは、潜在意識に多少は影響されていると思います。



今回の試みから判ったのは、想いを推測しようとする気持ちが少しでもあると、失敗するようです。

想いを知りたいと欲すると、頭が働いてだめなようです。

頭(思考)の活動が停止し、無欲、無心になっている時が、うまく行くようです。



不思議そうな彼の表情を見ると、予想よりも一致していたのかもしれません。

騒がしい部屋の中で行ったにしては、まずまずの結果であり、慣れてくれば、もっと良い結果が出るのではないかと感じました。

お父さんに感謝の想いを伝えられる日が来るかもしれません。



私の家には、5匹の犬がいます。

犬たちと生活していて、気付いたり、教えてもらうことがたくさんあります。

人間には、言葉という、自分の考えや想いを伝えるのに便利なツールがあります。

複雑な考えや、想いを言葉にして伝えることが可能です。

動物たちには言葉がないので、啼き声や表情、身体を動かして、想いを相手に伝えます。

注意深く見ていると、アイコンタクトをして想いを相手に伝えているのではないかと思う時があります。

人には判らないだけで、動物同士は肉体を介さずに想いを伝え合っていて、仲間意識を高めたり、無用な争いを避けているのではないかと考えています。



人は言葉にあまりにも頼りすぎてしまったため、言葉を介さずに、想いを伝えたり受け取ったりする能力が、極端に低下してしまったと思われます。

もともとあった能力を、言葉と引き換えに手放したと言ってもいいかもしれません。

しかし、(言葉を介さずに想いを分かり合う)能力が低下していても、なくなってしまった訳ではありません。

知ろうとする気持ちがあれば、想いを受け取ることができると思っています。

お母さんは、泣いている赤ちゃんの想いを知ろうとして、無意識に受け取っているのかもしれません。

私が行っている施設でも、日常的に行われているように見えます。

想いを分ってもらいたい入所者と、想いを汲み取ろうとする職員との間では、意識せずに目と目で伝え合っていると思います。

外からは、今までの経験や、蓄えてきた知識から、想いを推察しているように見えますが、以心伝心という言葉があるように、心と心がリンクして伝えていると思っています。



どうして言葉を介さずに、想いが伝えられるのでしょうか?



人は、肉体と精神、そして生命の本質である魂から構成されています。

人は、物質である肉体に、次元を異にする魂が宿る存在です。

どちらが本当の自分かと言えば、もちろん魂です。



想いは、大脳から生まれるのではなく、魂から生まれています。

想いと混同してしまうものに思考(考え)がありますが、思考は大脳の働きによるものです。

物事を成功させたり、円滑に運ぶためには、状況を把握し、経験や知識を頼りに、頭(大脳)で考えなければいけません。

日常生活での、事務的な作業や、機械的な動作、感情を伴わない会話なども、大脳の働きによるものと思われます。

現代社会は、頭で考える時間が圧倒的に多くなり、自分の想いは押さえ込まれていると感じます。

そんな生活を続けているうちに、想いを生み出している魂の存在感は、希薄になっていくような気がします。

思考をすべて停止し、心を澄ませば、自分の想いに気付くと思いますが、雑音、雑念に囲まれた環境に慣れ、せわしない生活をしていると、想いは埋もれてしまいます。



魂と、そこから生まれる想いは、物質と次元が違うので、肉眼では見えません。

この世において、次元が違う想いを伝えるためには、肉体を使って言葉や表情、行動に置き換えて、表現しなければいけません。

肉体は、他者に想いを伝えるためにある、この世の道具と言えます。

頬をつたう涙は、悲しみの想いが表現されたものであり、それを見て涙する人の想いを知ります。

犬が尻尾を振るのも、想いの表現であり、喜んでいるのが判ります。

想いは、肉体(五感)で認識される形となって表現されて、他者に伝わっています。

しかし、肉体を介しているので、正確に伝わっているとは限りません。

また、想いが大きい、あるいは深いほど、表現するのが難しくなり、うまく伝えられません。

この世では、想いの半分、いや1割も、伝えられていないのかもしれません。



当たり前のように使っている言葉は、この世界の記号のようなものであり、肉体から出て、肉体に伝わります。

想いは、次の世界のものであり、魂から出て、魂に伝わります。

話す言葉も、2つの次元で伝えていると思います。

気持ちを込めて「ありがとう」と言えば、口から発せられた「単語」が耳に届き伝達されると共に、感謝の「想い」が魂から魂に伝わっています。

機械音声で「ありがとう」と言われても、想いは伝わりません。

文字だけでは想いは伝わらないので、「ありがとう(^▽^)」とか「ありがとう♥」と、想いを記号にして伝えようとしている人も、多く見かけられます。



死んだ後の世界は、肉体がなくなるため、魂から魂に直接想いを伝えています。

肉体から完全に離れた魂は、波長の1つ高い世界に移行し、そこで新たな生活を始めます。

想いの半分も伝えられないこの世界と、想いがありのまま伝わる次の世界では、どちらが真実に近い世界と言えるのでしょうか。



想いは、魂から魂に直接伝わるので、肉体のあるなしに関係はなく、この世とあの世の間でも伝えられると言うことになります。

関係するのは、伝えようとする想いがあるかないかです。



この世では、愛があれば一緒にいたいと思います。

向こうに行っても、愛があれば一緒にいたいと思うのは当然です。

目に見えなくなると、いなくなってしまったと錯覚しますが、愛する人の魂はすぐ傍にいます。

そして、こちらの想いは手に取るように判っています。

向こうの世界から、こちら想いは筒抜けであり、隠すことはできません。

この世では、物は目に見えるため実在し、想いは見えないために実在していないように思えます。

理解しにくいかもしれませんが、向こうの世界は真逆であり、物質は影のように実在感はなく、想いはしっかりとした実在です。

従って、向こうにいる人は、この世の誰よりも想いが判っていると思います。

想いがはっきりと判るので、この世にいた時よりも、傍にいてやりたいと思っているのではないでしょうか。

自分のことで悲しむ姿を向こうから見ていて、うれしくもありますが、悲しくもあると思います。

ちょっと悔しいかもしれませんが、向こうでの生活は、想像しているよりも快適で、喜びや楽しさに満ちています。

新しい世界での喜びと、遺してきた人の悲しみの間に大きなギャップがあり、少し戸惑っているのかもしれません。

そのギャップを埋めようとして、きっと何とかしようと思っています。



肩に見えない手をかけて、「傍にいつもいるから安心して」と、耳元で何度もささやいているかもしれません。

「何処かへ行ってしまう人間だと思っているの?」と、逆に尋ねているのかもしれません。

「そんな冷たい人間じゃないと、わかっているはずでしょ!」と、少し怒っているかもしれません。

「あなたの悲しみに負けないほど、今も変わらずに愛している!」と、誰かに伝えてもらいたいのかもしれません。



愛は、魂と魂を結びつける力です。

愛する想いは瞬時に伝わり、どこにいようとも駆けつけます。

力は感じなくても、愛する人の魂に抱きしめられています。



残念ながら、悲しみは魂と魂を結びつける力とはなりません。

その想いに同情はするでしょうが、置かれている状況が違うので、想いを共有できないと思われます。

そればかりか、悲しみのオーラが全身を取り囲み、寄り添おうとする魂にとって、バリアとなって遮っています。

離れたところで、悲しみのオーラが取り払われるまで、そっと見守ることしかできません。



傍にいてもらいたいと望むのであれば、とても難しいことですが、悲しみの想いを、愛する想いに変えていかなければならないと言うことになります。

それは、愛する人を傍で見守り、想いを伝えて導きたい、向こうの人の切なる願いかもしれません。

導くことが、向こうからの愛の表現です。

想いを伝えるしか、導く手段はありません。

「気のせいなんかじゃない!私の想いに気付いて!」と、必死に訴えているのかもしれません。

「想いに気付いて!それを信じて!」と、魂の声で叫んでいるかもしれません。



この世から、想いは向こうに伝わっています。

そして、向こうから想いは返ってきています。

その想いを、肉体という障壁があっても、受け取れるはずです。



こちらの想いと向こうの想いが1つになって同調すれば、両者の間にリンクができ、想いは伝わってくると思います。

思考が停止し、感情のさざなみが消え、鏡のような鎮まり返った水面になれば、たった1滴のしずくのような想いが落ちてきても、魂に波紋は拡がり認識できる考えられます。



悲しみが途切れた時に、心を鎮め、必ず愛する想いで同調し、しっかりと受けとめて下さい。

それは、ふっと湧くイメージだったり、あるいは言葉だったり、魂に伝わる想いのバイブレーションであるかもしれません。

その時に、自分が期待する答えを、思い描いてはいけません。

想いを知ろうとし過ぎて、いつまでも愛する人を束縛してもいけません。





想いにも、因果律という神の摂理が働いています。

自分から出た想いは、自分に返ってきます。

愛する想いには、愛する想いが返ってきます。

向こうから届く愛する想いは、この世を生きていく力になると思います。



     
HUG! friends (小学館)
シロクマの物語で、とても感動しました。5分で読めます。  




参考ホームページ: 「ともしび」・・・大韓航空機事故で奥様と長男を亡くされた武本昌三さんが、膨大な霊的な資料を簡潔に分かり易く、まとめられています。壮絶な悲しみと苦しみの末に、死後の生の確証を得て、光明を見出されていく過程が、詳細に書かれていますので、是非、ご覧になって下さい。私が、とても尊敬している方です。












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