人は何のために生きているのか?死んだ後はどうなるのか?その明確な答えが「シルバーバーチの霊訓」の中にありました。本当の自分とは魂です。この世を生きるたった1つの目的は、魂を成長させるためです。人生で出会う障害や苦難を乗り越えること、人や動物そして社会のために奉仕することで、魂は成長していきます。死んだ後、魂は次の世界に移り、この世を振り返る時が必ず来ます。悔いのない様に、失敗を怖れず、今を大切にして生きましょう。
2014年3月23日日曜日
うつ病と心のエネルギー
私のそばにいる、まじめで、一生懸命生きている人が、うつ病になりました。早く良くなって欲しいと願うばかりです。
自分に厳しく、人にやさしかった人が、病気になり、なぜ苦しまなければならないのでしょうか。
周りを気遣いすぎたり、頑張りすぎると、うつ病になると言われますが、家族や会社のためを思い、頑張るだけ頑張った人が、ご褒美をもらうのではなく、病気になるのでは割に合いません。
どれ位、多くの人がこの病に苦しんでいるでしょうか。
悶え苦しむ心の中は、外からうかがい知ることができません。
私の知識や解釈が正しいのかわかりませんが、うつ病に苦しむ人の一助となれば幸いです。
うつ病は、つらい出来事を経験して、心に過度のストレスが加わったり、過労が続いたために、脳内伝達物質であるセロトニン、ドパミン、ノルアドレナリンの分泌が減少し、意欲低下や気分の落ち込みが亢進し、脳のエネルギーが枯渇して、日常生活に支障を来たした状態と言われています。
治療として、まず十分な休養を取り、症状改善のため薬物を服用し、必要に応じて精神療法やカウンセリングを受けます。
残念ながら、多くの精神疾患は医学的に十分な解明がされていません。
それは(研究)対象が物質次元に限定されているためであり、うつ病は、精神的、霊的次元の病であり、根本的原因の解明と治療方法の確立には、霊の存在を認めなければならないと思われます。
人が生きて、呼吸して、活動するすべての力は、神を源とした霊力です。
すべての生命は神とつながり、霊力により生かされています。
霊力は生命力と言い換えても良く、生命力には病気を癒す自然治癒力も備わっていると考えられます。
従って、霊力をふんだんに受け取ることが出来る人は活力に溢れ、病気になりにくく、反対に受け取りにくくなると元気がなくなり、病気になりやすくなると考えられます。
うつ病は、脳の機能異常ではなく、心(精神)に生命力(霊力)が十分に行き渡らなくなってしまったことが、根本原因として考えられます。
肉体を維持し、活動するためのエネルギー源は、食事から採りますが、心の活動を維持しているエネルギーの源は霊力であるため、どんなに栄養のあるものを食べても、心にエネルギーが供給されるわけではありません。
心(精神)のエネルギーは、魂が受け取った生命(霊)力が変換されたものです。
魂が受け取る生命(霊)力の量は、心(精神)の状態により大きく左右され、不安感、悲しみ、取り越し苦労、恐怖心などがあると、霊力を受け取りにくくなります。
人生には、楽しいこと、うれしいこともあれば、悲しいこと、つらいこともあります。
遭遇するさまざまな出来事は、さまざまな感情を生み出します。
情動が大きかったり、長引いたりすると、より多くの心のエネルギーが消耗されます。
うれしいことや楽しい感情は、心のエネルギーの消耗があっても、魂により多くの生命力が流れ込むため、心にエネルギーは供給され問題はありません。
しかし、悲しみや不安、怒りや嫉妬などの感情を持つと、魂に流れ込む生命力は少なくなり、心へのエネルギーの供給は少なくなってしまいます。
また、神経をすり減らすような労働が続いても、心のエネルギーが消耗されていきます。
つまり、深い悲しみや、強い不安や恐怖などの感情を持ち続けると、心のエネルギーは激しく消耗しているにもかかわらず、魂に流れ込む生命力は少なくなり、エネルギーは不足していきます。
心のエネルギーの補充に最も大切なのは、睡眠です。
睡眠は、心身を休ませるためにあると考えられますが、睡眠中は魂が肉体より離れて霊界に行き、霊界において生命力の補充をしていると考えられます。
したがって、睡眠が不足すると、十分な生命(霊)力の補充が出来ないため、心のエネルギーを枯渇させることにつながります。
ヒーリングを行うと、多くの患者さんは、リラックスして眠くなりますが、このことは心身を癒すために、心を穏やかにすること、睡眠を取ることが、いかに大切であるかを物語っていると思います。
しかし、多くの難題が重なったり、物事が思うように進まなかったりすると、焦りや不安が生まれて、頭から離れなくなります。
ひどい仕打ちを受けたり、つらいことがあったり、悲しいことがあると、怒りや恨み、悲しみや怖れの感情に、心が支配されてしまいます。
睡眠は大切だと分かっていても、そのような好ましくない感情が居座ってしまい、心は波立ち、眠りを誘う穏やかな心にはなれず、眠りに落ちることはできません。
たとえ眠れたとしても、眠りが浅くなった時に、好ましくない感情に再び支配され、眠れなくなってしまいます。
1日をリセットする睡眠が取れなければ、新しい1日は、疲れていた昨日の続きです。
心を維持しているエネルギーが、急速に枯渇しはじめてきます。
心は肉体と違い、体感的に疲労を感じることがありませんので、無理に無理を、我慢に我慢を重ねてしまい、心の疲労が限界を超えてしまいやすいと思われます。
また、心が傷ついた時にも、心を休ませ回復させる時間が必要です。
身体が傷ついた時には、痛みを感じたり、身体が動かせなかったりするため、癒えるまで身体を休ませます。
しかし、心の傷に知覚的な痛みはなく、自覚的な症状に乏しいために、心を休ませ、傷を癒やす必要があるのにもかかわらず、休ませずにいることが多く、自分ではどうすることもできなくなります。
そのため、神の摂理が働いて、強制的に心身を休養させることになります。
つまり、うつ病は、心の傷を癒すため、心の疲労を回復するために、神が与えたブレーカー装置だと考えられます。
心の(精神)活動や身体活動を、一時的に不活発な状態にさせて、心のエネルギーの消耗を抑えて、心の傷を癒し、心の疲労を回復させます。
うつ病は、つらく、苦しく、時に生きていることさえも否定しまう、耐え難い病と思われます。
しかし、すべての病気と同じく、魂を目覚めさせ、向上させるためにあります。
苦痛は、捕らわれている想いを手放し、不自然な生活から脱却させ、大切なことに気付かせるための触媒です。
大切なことは、拒絶ではなく認めることであり、恨みではなく許すことであり、争いではなく平和であり、競争ではなく協調であり、すべては愛から生まれます。
こだわらない、執着しないことも、うつ病には大切です。完璧や完全を求めるのも一種の欲であり、その欲が自分自身を苦しめることになります。
この世に生まれてきたこと自体、完全とは程遠い存在であることを、証明しています。
すべてを完璧に、完全にやり通すのは不可能であり、完全でない自分に、完全を求めてはいけません。
いい加減にするのは良くありませんが、完全を求めて頑張りすぎて病気になるということは、それが不自然な考え方であり、生き方だからです。
まわりの言動に振り回されると、一生懸命頑張りすぎてしまい、自分を追い詰めてしまいます。
それぞれに役割があり、自分なりに果たすだけで十分です。
将来、訪れるかもしれない、障害や困難、あるいは別れなどを、あれこれと考えてしまったり、過去の出来事を必要以上に意識してしまったりするのもやめましょう。
この世に生きているのは魂を向上させるためであり、従って悲しみや苦難はつきもので、避けて通れません。過去は閉じられていて、変えることはできません。
しかし、今をどう生きるかで、未来を変えることは可能です。
うつ病になり、何も出来なくなってしまい、自分を責めているのであれば、それは誤りです。
神の摂理が働き、目的があって出来なくさせているのですから。
無駄な時間ではなく、必要な時間です。焦ったり、不安に思ったりせず、ゆっくりと、動けるようになるのを待ちましょう。
つらい病状は、必ず改善してくるはずです。
なぜなら、生きる力は自分で作り出すものではなく、生命である魂が神とつながっていて、神から魂に流れ込んでくるものだからです。
神的エネルギー(生命力)により、生命は生かされています。
神とのつながりが深まれば、より多くの生命(治癒)力が流れ込み、病は癒されてきます。
今は、何をするのも、考えるのも無理であれば、何も考えず、ただただ、ゆっくりと休んでいましょう。
そうすれば、心が生命力で少しずつ満たされてくるはずです。
心が生命力で満たされてくれば、自然に、考えたり、動けるようになってきます。
神とのつながりは永遠であり、一瞬たりとも切れることはありません。神とのつながりを深めるためには、神の摂理に気付き、合わせるしかありません。
すべてのものは、意味を持って存在して、かけがえのないものです。
すべてのことは神の摂理に従って起きています。
神の摂理は愛ですから、安心していればいいのです。表面上は悪く見えても、真相は良い方向に進んでいるので、心配は全くいりません。
神からの生命力により、癒やされない病気はありません。
参考ページ; 「うつ病の人へ」
2014年3月14日金曜日
愛はすべてを乗り越えてつながる
人が死んだらどうなるのか?昔から多くの人を悩ませてきました。
作家である渡部昇一氏の「人は老いて死に、肉体は亡びても、魂は存在するのか?」という書籍にの中に、興味深い一節を見つけました。それは“パスカルの賭け”と言われるものです。パスカルは、「人は考える葦である」という名言を遺し、パスカルの定理も発見した、17世紀のフランスを代表する思想家であり、物理学者です。現代と同様に、パスカルが生きた時代においても、神を信じる人もいれば、無神論者もいたと思われます。パスカルは、神が存在するのか、それとも存在しないか、どちらか一方に賭けるとしたら、存在する方に賭けた方が賢明だと言っています。
神の存在を信じる人は、肉体の死後も生命は続き、来世があると信じます。神の存在を信じない人は、肉体の死をもって終局を迎え、無に帰すと考えます。仮に、神の存在を信じる方に賭けたとします。そして、肉体が死んだ後も生命は存続して、生き続けたとします。そうであれば、神が存在したことになり、賭けに勝ったことになります(〇)。もし、神の存在を信じる方に賭けて、死後の世界はなかったとしても、賭けには負けたことになりますが、無となってしまうため、勝敗自体が無効となります(△)。また、神の存在を信じない方に賭けて、死後の生命がなければ、賭けには勝ちましたが、無となってしまうため、同じく勝敗自体が無効となります(△)。問題なのは、神の存在を信じない方に賭けて、死後の生命があった時です。賭けは負けであり、生命はあるわけですから、負けをはっきりと意識することになります(●)。
神の存在の有無を白黒はっきりさせることはできませんが、パスカルは神の存在を信じる方に賭ければ、少なくても負けはなくなり、リスクがなく、理にかなった選択だと言っています。科学者らしい論理的な考え方に、感心しました。
パスカルに言われるまでもなく、私は魂は存在し、肉体が死んだ後も、生命は続くと思っています。何かを信じているためではなく、自分自身の経験に基づき、そう思っています。プライベートな出来事であるため、詳細は控えさせていただき、書くことにします。
その経験とは、あるご家族と私が出会い、亡くなった方からメッセージを私が受け取り、ご家族に伝えるというものでした。
そのご家族は、仕事の関係で訪ねて来られました。初対面でしたしが、少し前にご家族が亡くなられたと聞き、悲しみを癒すために、何かお役に立てるかもしれないと、その時、直感的に思いました。そして、初めてお会いした数日後の朝のことでした。6時前くらいでしょうか、意識が覚醒する直前に、「ベートーヴェンピアノソナタ」という言葉が、頭の中にはっきりと思い浮かびました。突然そんな言葉が頭に思い浮かぶはずもなく、何らかの意図を持って伝わってきたものと判断し、忘れないようにその言葉を復唱しながら、記憶しました。クラッシック音楽を聴くのは大好きですが、思い浮かんだベートーヴェンピアノソナタがどんな曲なのかは、その時はわかりませんでした。ベートーヴェンのピアノソナタは数曲あり、そのうちの1曲がご家族にとって何らかの意味を持つと、後に直感しました。あまりにも具体的で鮮明でしたので、必ず意味があるという、妙な確信があり、後日、お伝えしたところ、予想した通り、ご家族にとって忘れられない、大切な曲であることがわかりました。故人の棺の中にベートーヴェンピアノソナタのCDを一緒に入れたそうです。
ご家族にとって驚きでしたが、私にとっても驚きであり、偶然一致する確率は、限りなく低いと考えられました。たった1語でしたが、ご家族の話を聞いて、間違いなく亡くなった方からの言葉だと確信するとともに、死後にも生があることを、あらためて実感しました。それから数日後になりますが、仕事が一段落して、すべての雑事を忘れ、何も思わず、何も考えず、鎮まった心で、受身の気持ちでいる時間がありましたので、故人に向かって、「ご家族に対して何かお伝えすることはありますか?」という想いを、投げかけてみました。しばらくして、それに呼応するかのようにメッセージが伝わってきました。次から次へと言葉が頭の中に思い浮かび、それが文章となっていき、それを紙に書きとめていきました。
小説のように、きれいに整理された文章ではありませんでしたが、家族をあたたかく見守り、気遣い、励ます想いに溢れていました。自分が突然いなくなって、悲しんで沈んでいる家族の様子を見て、生きていて、そばにいて、見守っていることを、どうしても伝えたかったのだと思います。向こうの世界から、こちらの世界にメッセージを伝えることの難しさは、シルバーバーチの霊訓に書かれていますが、家族を愛する強い想いがあったからこそ、あらゆる困難を乗り越えてメッセージを伝えてきたのだと思います。
もしかしたら、このメッセージは、私の潜在意識や願望の現れではないかと、思うこともありましたが、ご家族に対して特別な感情や、願望を持っているわけではありません。そして、その前に伝わってきた言葉は、故人を象徴するものであり、確かな証拠となっていましたので、自信を持ってご家族にメッセージを、お伝えしました。人によっては、悲しみに付け込んだ、ひどい侮辱と受けとられてしまうかもしれませんが、私には伝える責任があり、どう思われてもかまわないという覚悟がありました。ご家族は、涙を流しながら聞かれていましたので、心に届いたものと思われ、ホッとしました。仲立ちをして、悲しみが癒され、永遠の別れではなく、先に再会が待っていることがわかり、安心してもらえたならば、これ以上うれしいことはありません。
死んだらどうなるのか?どう考えようとも、個人の自由であり、人が干渉することではありません。ただ、この経験に虚偽はなかったので、肉体の死の後も、魂として生きていて、目には見えなくても、愛する家族のそばにいると解釈する方が、合理的で自然だと、私は思っています。いかに疑り深い人であっても、同じ経験をしたのならば、自分の理性や感性を否定しない限り、魂の存在を認めざるを得なくなるのかもしれません。
生命は魂であり、肉体は魂の想いを表現するための媒体(道具)です。死とは表現する媒体が変わることであり、肉体を失ったとしても、想いがなくなってしまうわけではありません。こちらの想いは、向こうに行った愛する人に確実に伝わっています。しかし、向こうの世界から、こちらに想いは伝えるのは、きわめて困難になります。なぜなら、こちらの世界では、肉体(物質)の存在があまりにも大きいため、魂を意識することは、ほとんどありません。さらに、あわただしい生活を強いられ、雑念や雑音から解放されて、心が静まっている時がほとんどありません。向こうの世界から、想いを伝えようとしても、受け取る側の条件が整っていないと思われます。例えて言えば、感度が悪くなった受信機で、騒がしい部屋の中で、ラジオ放送を聴くようなものと考えられます。また、死んだ人の想いなど、伝わってくるはずがないと思ってしまえば、ラジオのスイッチを切ってしまったのと同じです。私個人の意見としては、こちらの条件さえ整えれば、(魂の)感度を良くして静寂が得られれば、どなたでも、向こうに行った愛する人の想いを受け取ることが出来ると考えています。それを妨げているのは、唯物的思考であり、偏見であり、悲しみの思いなのかもしれません。
(魂を)表現する媒体の次元は違いますが、お互いの魂は同次元ですから、魂から生じる想いは、次元を超えて認識し合えるはずです。悲しみの思いを、しばし脇に置いて、日々の喧騒から離れ、心を鎮めて、愛する想いを投げかけていれば、いつの日か向こうからの想いを受け取り、魂が共鳴して、深い悦びを感じるとともに、生きていることを実感できると考えています。
向こうに行った人の願いは、この世に残してきた愛する人が、(向こうで)元気に暮らしているという真実を知り、少しでも早く悲しみを乗り越えて、この世の人生を活き活きと、全うしてもらうことだと思います。
2014年3月6日木曜日
後悔しないために
先日、夢を見ました。
普段はあまり見ることはないのですが、飼い犬のリックが出てきて、はっきりと覚えていました。私は毎朝6時半頃、リックを連れて散歩に行きます。夢の中でもリックを連れて散歩をしていましたが、いつもとは違いリード(綱)を付けておらず、自由に散歩させていました。散歩コースである小さな河に沿って道を歩いていると、河の中で大きな犬が泳いでいました。そして前の方からは、犬を連れた人が歩いてきました。リックを跳びかからせてはいけない気持ちと、犬と一緒に河で泳いでみたらという気持ちとで、リックを持ち上げ河の中へ放り投げました。
ところが、道から水面まで2mもないはずだったのに、下を覗くと数十mの断崖でした。リックは真っ逆さまに下に落ちていき、河の縁にあるコンクリートに打ち付けられて、ピクピクと痙れんしているのが見えました。何と言うことをしてしまったんだ、私のせいでリックを死なせてしまったかもしれないと焦り、何とかしなければと思い、自分も飛び込み、まっ逆さまに落ちていきました。下に激突する寸前に目が覚めました。
私の家には犬が5匹いますが、リックは最年長の13才で、まだまだ元気ですがいつまでも一緒に居られるわけではありません。別れの時は、少しずつ近づいています。夢の中とはいえ、自分の過ちで、罪もない飼い犬が死んでしまい、横たわっている姿を見て、とんでもない後悔の念に襲われました。そして、いかにリックを愛していたのかが、よく分かりました。後悔のないように、十分愛しなさいと、言うことなのでしょう。
ところで、人は死ぬと脳の機能が停止しますが、魂(霊)は生き続けています。生命の本質である魂が、肉体から開放されたのであり、意識はそのまま存続しています。肉体の一部である脳は、想いを言葉や行動で表現するための司令塔であり、想いが生まれるのは魂です。(肉体の)死により、心がなくなってしまうことはありません。魂の想いを、肉体で表現できなくなることであり、表現はさらに自由に、円滑にできるようになります。
肉体の死の後に、誰もが必ずしなければならないことがあります。それは、この世での一部始終を振り返ることです。
生まれてから死ぬまでの間に、抱いた想いと、すべての行いを振り返り、総括します。膨大な量になると思われますが、細大漏らさず、正確に、魂(オーラ)に刻まれています。
子供の頃、死ぬと閻魔大王の前で裁きにかけられ、悪いことをしていると舌を抜かれるという話をよく聞きました。閻魔大王はいませんが、自らが振り返り、神の摂理に照らし合わせて、自らを裁くことになります。1つ1つの想いと行いが、どのような結果をもたらしたかを、知ることになります。そして、その行いを、どんな想いでしたのかも、合わせて振り返ります。行いの動機が問われるわけです。動機が人のためなのか、自分のためなのかが、明らかになります。同じ行いであっても、人を思いやる気持ち、喜んでもらいたい気持ちからであれば、摂理に適っていますので、喜びで満たされます。しかし、見栄や偽善から出たものであれば、摂理に反していますので、悔いて、恥じることになります。
そして、人や社会のために、奉仕をする機会が訪れた時に、どういう行動をとったのか、また、困難や障害が降りかかった時に、どう対応したのかも、振り返ります。どちらも魂を向上させる好機であり、正面から受け止めて、最善を尽すのが正道であり、そうすれば後で悔いることはありません。残念ながら逃してしまったのであれば、悔いることになります。
この世に生まれてきた目的は、魂を向上させるためです。楽しみや喜びの中で、魂が向上すれば良いのですが、神の摂理はそうではありません。苦難を乗り越えようと必死に生きる中で、向上が得られます。つまり、この世の目で見ると、何の苦労もなく、安泰な生活をしている人は幸せで、苦難の多い人は不幸な人生と思えますが、霊的に見ると全く逆であり、苦難を乗り越えてきた人ほど、魂は向上して、この世に生まれてきた目的を果たしていることになります。
苦難の最中にいる時は、心にゆとりはなく、早く抜け出したいと思うばかりです。しかし、向こうの世界に行き、この世の人生を振り返った時に、つらくて仕方がなかった苦難の経験こそが、魂を向上させていたことが、はっきりとわかるために、貴重な経験が与えられたことを感謝するようです。
苦難や悲しみは、人を挫折させ、失望させるためにあるのではなく、魂を向上させ、目覚めさせるという深甚な意味があります。親が子供を叱るのは、子供に生きていく上で大切なことを教えるためであり、愛しているからです。同様に、神が人に苦難を与えるのは、大切なことに気付かせるためであり、神に愛されているからです。
神の公正は完璧であり、苦難を乗り越えようと奮闘した人には、報償として魂が高みに導かれます。
苦難は、神の摂理として与えられているので、乗り越えられないはずはありません。
ところで、人の体を見ると、さまざまな組織があります。目や耳、鼻の存在する意味ははっきりしていますが、のどにある口蓋垂(のどちんこ)はどうでしょう。なくてもいいと思っていましたが、手術で切除された人は、気管に食物などが入る誤嚥が多くなってしまったそうです。無用に見えても誤嚥を防ぐという大切な役割があったのです。
神は必要のないもの、意味のないものは、決してつくりませんし、与えません。一つ一つのもの、一つ一つのことが、大切な意味を持っています。しかし、この世で人は、5感で認識し、頭で考えてしまうために、深い意味を理解することがなかなかできません。次の世界に行くと、自分の身に起こった出来事は、偶然でも、運、不運でもなく、因果律の結果か、もしくは与えられた試練であり、どちらにしても魂を向上させるためだったことが、つぶさにわかります。そして、神の愛を実感し、叡智の完璧さに驚嘆するようです。
事実を知らなかったとはいえ、私はどれくらい向上の機会を逃したことでしょう。全力を尽くして立ち向かわなければいけないのに、適当な理由を付けて逃げてしまったことは、たくさんあります。摂理に反した行いもあります。夢の中でさえも、後悔の思いは強烈でした。向こうの世界に行き、「この世の総括」をした時にする後悔の思いは、さらに強烈だと思われます。人が後悔しないように生きようとするのは、先に待ち受けている「この世の総括」を知っている、魂の要求なのかもしれません。
自分が取った行動が、魂の想いに忠実であり、そして神の摂理に適ったものであれば、恥じることや、後悔することは、何一つありません。魂の想いに忠実でなかったり、神の摂理に適っていない時に、後悔が生まれると思います。神の摂理(心)は愛ですから、どんな時でも、他者を思いやる気持ち、許す気持ち、感謝の気持ちを忘れてはいけません。また、どんな苦難が降りかかろうとも、それを正面から受け止めて、乗り越えるために、最善を尽くさなければいけません。つらくても、後悔しないためには必要と思われます。
2014年2月27日木曜日
摂理(自然法則)は想いにも働いている
私は、日本という国に生まれ良かったと思います。なぜなら、当たり前の自由があるからです。世界中には、その当たり前の自由がなく、窮屈な思いをしたり、肉体的、精神的に束縛を受けている人たちが、まだたくさんいます。
私は、いつ、どこで、何をしようと自由です。かと言って、何をしても良いわけではありません。法治国家であるため、法律を破ることをすれば、罰せられます。また、社会にはモラルというものがあり、それを逸脱した行為に対しては、咎められたり、非難を受けたりします。自分の取る行動は、他の人から見られていることもあり、多くの人は法律やモラルを守りながら、生活しています。
ところで、自分の思いや考えはどうでしょうか。どう思おうと勝手であり、何を考えても自由であり、咎められることはありません。また、自分から言わない限り、他人には知られることもありません。たとえ、悪い考えや、良くない想いを抱いたとしても、それを罰するものは何1つなく、心で思っているだけならば問題はないと、ほとんどの人は考えています。
仮に、他人から、ひどい仕打ちを受けたとします。抑えきれない怒りの感情が生まれ、ある人は相手に殴りかかるかもしれません。また、暴力ではなく、言葉で相手に怒りをぶつける人もいるでしょう。行動や言葉で表さなくても、心の中で相手を憎んだり、恨んだりする人もいると思います。感情にまかせて殴りかかれば、警察に捕まり、罪を問われ罰せられます。言葉で怒りをぶつけても、相手の心を傷つけてしまえば、罪となり罰を受けることがあります。心の中で、相手を憎んだり、恨んだりするのはどうでしょう。行動に移さなければ、法律的に罪に問われることはありません。
人間が作った法律では不問となりますが、霊的な摂理では、そういう訳にはいきません。摂理は、自由意志により自らが取った言動はもちろん、心の中で考えたことや、思ったことに対しても、働いています。心の中は、他人には覗けなくても、神には知られることになります。なぜなら、さまざまな想いは魂が作り出すものであり、魂は神の一部であり、つながっているため、すべての想いは神の知るところとなります。自分(の魂)を欺けないように、神に対して繕ったり、ごまかしたりすることは、絶対にできないのです。神を信じようと、信じまいと、神の摂理を知ろうと、知るまいとに関係なく、人が抱いた想いのすべてに働いて、正確に結果をもたらします。
神の摂理(心)は「愛」であり、怒り、憎しみ、恨み、妬みなどの想いは、「愛」とは対極にあるため、摂理に反しています。もし、摂理に反した、怒り、憎しみ。恨み、妬み、貪欲などの感情を抱き続けたなら、それは霊的な罪となり、苦痛を経験して償わなければいけません。
地上の物質に万有引力という法則が働き、支配しているように、魂には霊的法則(摂理)が働き、支配しています。石を真上に投げれば、真下に落ちてくるように、自らの想いも、自らに戻ってきます。もし相手に怒りをぶつけたなら、その怒りを相手からぶつけ返されます。それがなかったとしても、相手に苦痛を与えていたならば、相応の苦痛の経験として、戻ってきます。また、怒りや憎しみの感情を抱き続けると、魂のありさまが変わってしまい、やさしさや思いやりの心、平和な心が失われ、些細なことで怒りやすくなったり、人の過ちが許せなくなったりして、いさかいが多くなってしまいます。次第に周りから人が遠ざかり、孤独を味わったり、制裁を受けて、苦痛を経験することもあるでしょう。また、魂のありさまの変化が、肉体上の変化として現れ、病気として苦痛を経験することになるかもしれません。
しかし、その苦痛も人を不幸にさせるためにあるのではなく、摂理に気付かせ、摂理に反した想いを抱かないようにするためにあります。子供が悪いことをしたら、親に叱られます。悪いことだと教えるためには必要であり、子供にとっては叱られるのは苦痛であるために、その後、同じことを繰り返さなくなります。神の摂理(心)も、子を思う親の気持ちと同じであり、間違っている(摂理に反している)ことを、苦痛を通して教えているのです。誰しも、つらいことが重なったり、思うようにいかなかったりすると、穏やかな心を失い、怒りの感情が生まれやすくなります。私も以前は、どちらかと言うと感情的な人間であり、瞬間的に怒りの感情がわき上がりやすかった方だと思います。しかし、怒りをぶつけても、解決するどころか、返って事態が深刻になったり、後悔することがほとんどでした。今は、いくつかの神の摂理を知っているため、嫌なことや、つらいことがあっても、なるべく穏やかな心を保つように努めています。
憎しみを表せば、憎しみが返ってきますが、愛を表せば、愛が返ってきます。実に単純なことなのです。それが真実であることを、歴史が証明しています。インドのマハトマ・ガンジーは他国の支配に、非暴力で臨みました。もし、彼が暴力(武力)で対抗したのなら、暴力(武力)で返されて、独立はとても出来なかったでしょう。非暴力であったからこそ、相手も非暴力にならざるを得ませんでした。彼は「人類が自由になるために、非暴力は、もっとも強い武器である。それは人間の英知によって作られたあらゆる武器よりも、強いものである。」と言っています。また「敵と相対するときには、愛で征服しなさい」とも言っています。たとえ理不尽なこと、道理に適っていないことであっても、神の摂理に背いた怒りや憎しみの感情にまかせて、暴力で解決するのではなく、神の摂理に適った平和や共存の想いで解決しようとしたため、神の力が得られ、自由と独立を勝ち取ったと考えられます。ガンジーは政治的指導者と言うより、神の摂理を知る偉大な霊覚者でした。
この世の中を生きていると、さまざまな人との出会いがあり、さまざまなことが起こります。楽しく、うれしいこともあれば、つらいこと、嫌なこともたくさんあります。そんな時に、感情に流され、怒りや憎しみ、妬みの想いを持ってしまうのは、賢明ではありません。なぜなら、想いや考えも目には見えませんが自分の一部であり、神の摂理が働くからです。怒りや憎しみ、恨みや妬み、貪欲の想いは、自分の魂を汚す上に、苦痛として自らに返ってきますので、何一つ良いことはありません。けれども、怒りや憎しみの想いを抱かずにいるのは、口で言うほど簡単ではありません。ガンジーやイエス・キリストが言うように、憎しみを愛に変えていくのは、きわめて難しく感じられます。もし、それが簡単にできるようであれば、この世に生まれてくる必要はないのかもしれません。
未熟な私は、良くない感情が芽生える前に、こう思うようにしています。「この世に生まれてきた目的は、魂を向上させるためであり、つらいこと、悲しいこと、困難なことを乗り越えていくことで、魂は向上する。この世に生まれてきた限り、つらいこと、悲しいこと、困難なことに出会うのは避けられない。与えられた試練として、乗り越えなければいけない」そして「許すことで、怒りや、憎しみや恨みの想いを抱かず済む」と。許すことなど断じてできないと思うこともあるかもしれません。しかし、許さなければ、憎しみや恨みの想いから、いつまでも解放されません。それは、自分の魂にとって、決して良いことではありません。許すことは自己犠牲であり、愛の表現です。
自身に降りかかる出来事に対して、怒りや憎しみなどの想いを抱くか、それとも許すか、どちらを選択するのも自由です。ただ、自分の想いにも、神の摂理が働いていることは、紛れも無い事実なのです。
2014年2月21日金曜日
ガンと霊的摂理
私は、ガンという病気を経験したわけではありません。
そのつらさは想像を超えるものだと思います。だから安易な気持ちで書きたくはありません。
ガンは、単純ではなく、根が深い病気だと考えています。
私には、まだ多くの人に知られていない、多少の霊的知識がありますので、その知識がガンという病気を理解する上で、少しでも役立てばと願っています。
からだの不調が続き、おかしいと思いつつも、仕事が忙しく、暇がないと、不調の原因を突き止めるのは、つい後回しにしてしまいがちです。
いよいよ症状が深刻になり、家族にも促されて病院に行くことになりますが、普段、行き慣れていない病院で、検査をしていくうちに、不安は高まっていきます。
そして主治医から、「ガン」という病名を告げられた時の衝撃は、経験した人でなければ分からないと思います。
医者により治療法が提示され、手術可能であれば手術をして、ガン組織を肉体から取り除いていきます。
そして今までと同じ生活に戻り、あわただしく過ごす中で、からだの異変に気付きます。
一番怖れていたガンの再発が現実のものとなり、何とか生き延びたいという願いから、医者が提示する治療に、わらをもすがる思いで臨んでいきます。
これは、多くの再発ガンの患者さんが辿る道だと思われます。
ガンは肉体を死に至らしめる病であるという認識は、恐怖心や不安感を生み出し、病気の治癒を妨げてしまうため、決して良いことではありません。
霊的次元から見たガンを、私なりの解釈で書いてみます。
ガンの発生原因は、環境や遺伝という肉体次元の原因を否定するわけではありませんが、主因は摂理に反した想い、怒り、憎しみ、妬み、恨み、貪欲などが蓄積して、魂のありさまが変わってしまったために起きると考えています。
からだの平和、調和、協調を乱しているガンは、魂が平和、調和、協調を欠いてしまった結果であり、内にあるものが、外に顕れて知らせていると思われます。
摂理に反した想いや行いに対して、因果律が働いて病気となり、相応の苦痛を経験して償うことになります。
かつてない苦痛と、逆境の経験は、心の奥底にまで響き、眠っていた魂を目覚めさせます。
長い、長い沈黙を破って魂が目覚めると、霊的な「生命」と「愛」が、最も大切なものであり、大切だと思っていた物的なものは、価値がないことに気付きます。
目に見えるすべてが輝いて見えたり、愛おしく思えてくるのは、魂が目覚め、神とのつながりが深まり、神の心である「愛」がふんだんに流れ込んできたためです。
神の愛により、不安や恐怖は追い払われ、さらに大きな生命力(治癒力)が流れ込み、魂は癒され、後を追うようにして、肉体の病は癒されていきます。
つまり、医学的にはガンを、遺伝子のコピーミスによる細胞の際限のない増殖と考えられますが、霊的には、内なる魂の変化が、外なる肉体の変化(病変)として現れたものと考えられます。
そして、医学的には、放置すれば増殖を繰り返した末に、母体の生命を奪ってしまうものと考えられますが、霊的には、摂理に背いた過ちを償い、魂を目覚めさせ、摂理に適った人生を歩ませるためにあります。
魂は、誰かに教えてもらい何かをしたり、知識を得たりして、目覚めるものではありません。
本当につらいことなのですが、自らが苦痛や苦難の経験をして、何とか乗り越えようと悪戦苦闘する中で、初めて目覚めます。
耐え難い苦痛や苦難にも意味があり、魂を向上させて、神の摂理を受け入れる土壌をつくっています。
従って、苦痛や苦難を経験し、魂が目覚め、大切なことに気付いたのなら、からだにガンが存在する理由はなくなり、治癒していくはずです。
しかし、多くの人は、ガンを単なる肉体次元の病変としてとらえてしまい、霊的次元に原因があることに、全く気付いていません。
めざましい医学の進歩にもかかわらず、死亡率が一向に低下しないのはどうしてでしょうか。
根本的原因を捉え損ねているためと、思えてなりません。
一方、余命数ヶ月と宣告された人の中で、手術や投薬もなく、奇跡的に治癒したり、または進行が止まっていたりする人がいます。
医学的には例外的な人として扱われ、問題にされませんが、根本的な治癒への糸口が、そこにあるのではないでしょうか。
その人たちに共通しているのは、ガンという病気になった意味を考え、内省し、考え方や、生き方が変わったことだと思われます。
ガンになる前に、ひたすら追い求めていた幸せや価値観と決別し、精神的、霊的に充足感が得られる生活に、変わっていると思います。
その人たちは、魂に目覚めたとは考えていないかもしれません。
しかし、結果として魂の窓は大きく開かれ、すべての源である神から、十分な生命力を受け取っていると思います。
太いパイプができて、ふんだんに生命力が流れ込み、ガンを治癒させたと思われます。
生まれ変わったように、活き活きとされている人が多く、一様に奉仕の心に目覚め、他者を慈しむ心、感謝の気持ちに溢れているように見受けられます。
神は愛であり、魂(生命)は神の一部であるため、魂に目覚めると、想いや行いは自然と摂理に適ったものとなります。
その摂理に適った想いや行いにより、神とのつながりがさらに深まり、より多くの生命力が流れ込み、ガンを封じ込んでいると思われます。
また生命力により、恐怖や不安は一掃されて、代わって、やさしさや、思いやりの心で満たされ、その表情は明るく輝いて見えます。
病気になったのは、偶然や不運ではなく、因果律の働きであり、必ず原因が存在します。
多くのガンの根本原因は、摂理に反した想いを持ち続け、魂のありさまが変わってしまい、不自然な生き方をしたことにあると思われます。
そのため、摂理に反した想いを抱くことになった過去の出来事があれば、正面から向き合い、事実を受け入れて、許すことが必要となります。
肉体上の変異した組織は、手術で取り去ったり、抗ガン剤で小さくすることはできますが、魂のありさままで変えることはできません。
埋もれていた自分の想いを知り、あるがままを認めて、許すことにより、その想いは手放され、魂のありさまは良い方向に変わっていきます。
ガンの原因となっていた想いを、自らが内側からなくしていかなければいけません。
そして、ガンという病気は、他力的な医療を受けることや、自力的な気力で立ち向かうには限界があります。
私は7年前に治癒力が出現しましたが、その生命力とも言うべき治癒力は、私の気(力)で作っているのではなく、外部から受け取り、患者さんに伝わっていきます。そのことが感覚としてわかります。
そして患者さんに伝わっていった生命力は、心を穏やかにさせ、肉体の病気を癒していきます。
たとえ唯物的な科学では否定されても、動かしがたい事実であり、「病気は生命力(治癒力)により癒される」さらに「魂が癒されることで、肉体も癒される」と、確信しています。
お伝えしたいことは、生命は魂であり、魂は神の一部であるため、すべての生命は神とつながっています。
生命力の源は神にあり、神とのつながりを深くすることにより、無尽蔵にある生命力(治癒力)を、どなたでも受け取ることができるのです。
その恩恵に授かれれば、百万の援軍を得たようなものです。
もし、存分な生命力(治癒力)を受け取ることができたなら、ガンは勢いを失い、やがて撤退していくことでしょう。
ガンの自然治癒は偶然でも奇跡でもなく、十分な生命力を受け取った結果として起こったと思われます。
生命力の源である神とつながっていることを意識(イメージ)し、穏やかで、明るい気持ちでいるようにして下さい。
そうすれば、より多くの生命力を、受け取り易くなると思われます。
さらに、神とのつながりを深めていきましょう。神は5感に触れるものではなく、摂理(法則)として全宇宙を支配しています。
お願いするのではなく、摂理に合わせることにより、自然と深まっていきます。
神の根源的摂理(心)は「愛」です。人や社会のために奉仕をしたり、人や動物を思いやり、やさしくすることも、愛の表現の1つであり、摂理に適っています。
また、世の中の平和や、人の幸せを祈ることも、愛の表現の1つであり、摂理に適っています。
利己的な祈りは神に届きませんが、「もう1度、世の中や人のために、役立たせて下さい」という、真摯な祈りは、神の摂理と一致し、つながりが深まり、病気を癒やす生命力(治癒力)が流れ込み、願いは叶えられるかもしれません。
神は愛であり、無限の叡智です。その可能性は人智をはるかに超えています。
いかなる状況からでも、治癒の道は開かれています。
参考ページ: 「ガンは愛により癒される」
「ガン(癌)は怖くない!」
2014年2月14日金曜日
ガンが嫌いなもの
母校から大学を紹介する小冊子が届きました。巻頭の特集に、今から20年ほど前に、病院の外来で良くお見かけした、ある先生のことが書かれていました。
その先生とは話をしたこともないのですが、活き活きと仕事をされていた若き日の姿が、心に残っていました。
タイトルは、「命のケア」~何かをすることではなく、そばにいることが大切~でした。
その内容についてですが、先生は「人が生まれてくるときに産科医が迎えるのならば、看取りのときにも医者がいてもいいのでは」と考えられていたそうです。
外科医だった先生は、日本に緩和ケアが現在ほど認知されていなかった90年頃から、「痛みをコントロールして、残された時間を患者さんが生きたいように支えてあげられる医療を」を目標に、こころとからだを支える医療を実践されてきました。
大学を卒業し、外科医になった先生は、術後、ガンが再発した患者さんと接する機会も多く、ガンの痛みに耐え、薬の副作用に苦しみ、やがて逝く患者さんを看とることになります。
そんな日々の中で、イギリスのホスピス医が書いた「末期癌患者の診療マニュアル」という本に、導かれるように出合いました。
本に書いてあるとおりにモルヒネを使用すると患者さんの痛みが嘘のように軽くなり、懸念した副作用もなく、自分がもとめていた、こころとからだを支える医療は、がんの痛みを癒す緩和ケアなのだと、この時気付いたそうです。
アルバイトをして渡航費を捻出し、イギリスの地で本場の緩和ケアを見聞してこられましたが、中にバーがあって、患者さんも職員も一緒にお酒を飲む。ペットもOK。
その一方で末期の肺がん患者がたばこを吸っている、常識を超えた自由さに驚いたそうです。
“治す医療”の概念からかけ離れた世界が新鮮であり、「何かをすることではなく、そばにいること」、緩和ケアにとって1番大切なものがそこにあったそうです。
帰国後、大学内に緩和ケアチームを立ち上げましたが、「医者は治すのが仕事。治さないのは医者の敗北を認めるようなもの」と言う、反対の声も少なくなかったそうです。
それでも、ご自身の信念に従い、現在まで、多くのがん患者さんと向き合ってこられました。
担当した患者さんの中に、乳がんが再発し余命3ヶ月と診断された女性がいて、婚約者がいたそうです。
ある日、婚約者から「結婚式ができないか」と相談を受けました。
式から3ヶ月だけの結婚生活、それをやる意義があるのだろうかと思ったそうです。
ところが、式の準備を始めてから病状は見る見る好転し、病院の最上階で挙げた結婚式の当日も痛みを全く見せなかったそうです。
全身の骨に転移したがんは、彼女の希望に応えるように進行しないでいるかのようだったそうです。
「手術や薬だけが病状を好転させるわけでない。患者さんの気持ちに寄り添い、望みを叶え、精神的に支えることの大切さ。それは患者さんに教えられた、緩和ケアの原動力です」と、言われています。
今でこそ、緩和ケアは当たり前となりましたが、20数年前には認知されておらず、私も先生を初めて見た時には、恥ずかしながら、メスを持たない変わった外科医だと、思ってしまいました。
当初から、痛みのケアだけでなく、全人的なケアをされていて、現在も第一線で活躍されているのを知り、尊敬の念とともに、勇気をもらった気がしました。
ところで、23歳の乳ガンの女性は、ドラマのような話ですが、深い意味があるように感じられました。
男の私には良く分かりませんが、女性にとって、ウェディングドレスを着て、周りの人に祝福されながら、結婚式を挙げることは、人生で最高の喜びなのかもしれません。
私も、時々結婚式に参列しますが、新婦の輝く笑顔を見ると、何か特別なものを感じます。
先生が言われてるように、この女性も、愛する人との結婚という、大きな夢と希望があったため、式の日までガンの進行が止まっていたのかもしれません。
私は、ガンは心、そして魂と密接に関係した病であると考えています。
さらに言うと、ガンは魂のありさまが肉体上に顕れたものであり、平和、協調、調和を欠いた魂のありさまがが、(平和、協調、調和を欠く)ガンとして肉体上に顕れたものと考えています。
怒りや嫉妬、虚栄心、貪欲など摂理に反した想いや、深い悲しみや失望などが蓄積していくことにより、魂のありさまが変わってしまうことが、霊的次元でのガン発症の原因ではないかと考えています。
また、恐怖心や不安感を抱くことは、生命力(自然治癒力)の流入が妨げられ、本来持っている免疫力が発揮されず、ガンの増殖を許してしまいます。
そして、からだの平和を乱しているガンが最も嫌うものは、心の平和であり、喜びや希望、そして愛の想いだと考えています。
また、喜びや希望、愛の想いは、恐怖心や不安感を追い払い、十分な生命(治癒)力を、受け取ることにつながると思います。
私は、喜びや希望、愛の想いは、ガン細胞の性質(性格)と相容れぬものであるため、ガン細胞を増殖させる力が絶たれて活性を失わせ、反対に、怒りや嫉妬、悲しみ、虚栄心、貪欲などの陰湿な想いは、ガン細胞の性質(性格)と似かよっているため、増殖する力が与えられて、活性化するのではないかと思っています。
この女性も、結婚という大きな希望と喜びの想いが、からだの細胞の隅々まで行き渡り、全身に転移したガン細胞の勢いを止めていたと考えています。
また、愛する想いにより、恐怖心や不安感は追い払われ、十分な生命(治癒)力が流れ込んだために、ガンの増殖は抑えられ、痛みを感じずにいたのだと思います。
ガンは肉体の病であるとともに、心や魂の病であると思います。
肉体は魂の表現媒体であり、魂が肉体の上位にあります。
ガンも肉体の一部であるため、魂に従うはずです。
魂が癒されれば、肉体の病気も癒されます。
心を穏やかに保てば、肉体も追従して穏やかになり、ガンも鎮まっていくと考えられます。
まず、心穏やかに生活することが大切です。
結婚のような大きな喜びはめったにありませんから、日常の小さなことに喜びを見出し、家族、友人、周囲の人と楽しく過ごし、時に感謝の気持ちを言葉にして、ペットをかわいがり、自然と触れ合うとともに慈しみ、人を愛し、そして許し、ありのままを受け入れることで、魂は平穏となり、ガンの勢いは失われていくように思えてなりません。
2014年2月9日日曜日
愛するもの同士は離れることはない!
死は永久の別れ、それはとんでもない誤解です。
目の前からいなくなってしまった、愛する人と、また再会できることを断言します。
その根拠を見せて欲しいと言われても、それは無理です。
愛する人の魂と、愛する人のあなたへの想いは、五感を超えたものだからです。
五感を超えて認識できないものを否定するならば、魂は存在しないことになってしまいます。
しかし、魂があるからこそ、深い悲しみを感じます。
目に見えない、聞こえないものは存在しないのではなく、認識できないだけです。
これまでも、人間は理解を超えたものを、否定してきました。
500年以上前の人は、夜空の星の動き見て、星が地上のまわりを回っていると、信じて疑いませんでした。そして地上を球体だとは思っていませんでした。
真実を知る時代が、来ていなかっただけです。
いつの時代にも、見えないもの、理解できないものは、自分の考えを守ろうとするために、拒否される運命にあります。
生命は魂であるということは、地球が丸いことを認知していく過程と似ています。
どんなに、地球は丸くないと思っていた人でも、ロケットに乗り、大気圏外に出て、数千キロ離れたところから地球を眺めれば、地球が丸いことを認めざるを得ません。
同じく、魂の存在を否定しても、自らが肉体の死を迎えても、意識や心がなくならないことに気付けば、魂が存在し、生命そのものであることを、認めざるを得ません。
常識とはされておらず、自らの目でも確かめられなくても、真実であることは、たくさんあります。
魂などは存在しないと、頑なに主張する人がいますが、気にしてはいけません。
知らないだけなのですから。
その人も数十年すれば、死を境に現実を知ることになります。
世の中は未知のことだらけです。
そして、少しでも多くの知識を得ていく過程が、人生の目的の1つであると、私は考えています。
目の前からいなくなってしまった愛する人は、あなたが愛する想いを持ち続けている限り、そばから離れることはありません。
両者を引きつける力は「愛」であり、たとえ目には何も見えず、耳に何も聞こえなくても、「愛」がある限り、魂はそばに寄り添っています。
大好きな人のそばが、一番心地がよく、安心します。
あなたが愛する人の喜ぶ姿を見るが好きだったように、愛する人もあなたが喜ぶ姿を見ているのが、一番好きです。
悲しむのは、愛していたからこそであり、仕方のないことですが、悲しみすぎるのは良くありません。
死んで無になってしまったのではありませんから、そこまで悲しむことはなく、愛する人も悲しくなってしまうからです。
見えなくなったけれども、生きていて、片時も離れずそばにいてくれるのを、あなたが承知することが、向こうにいる愛する人の大きな安心につながります。
さらに、あなたの愛は、愛する人の生きる力となり、喜びとなり、向こうの世界での生活を充実させます。
肉体は、はかないものですが、魂は不滅です。
外には、雪がたくさん積もっています。陽差しを浴びて、少しずつ溶けていっています。しばらくすれば跡形もなく消えてしまうでしょう。
雪は溶けて見えなくなっても、決してなくなったわけではありません。水に形を変えて、河に流れ込み、海に注いでいきます。
愛する人も、見えなくなってしまいましたが、形を変えて生き続けています。
すべては神の摂理に従い、変化しながら進化していきます。
その過程に、死があります。
そして、愛する人は、いつでもあなたとの繋がりを求めていますが、肉体はありませんので、手と手ではなく、言葉と言葉ではなく、魂と魂で繋がるしかありません。
愛する人と繋がりたいのであれば、まず愛する人の魂がそばにいることを、確信しなければいけません。
そして、そばにいてくれることに感謝して、今も変わらず愛していることを伝えて下さい。
その想いは、愛する人の魂に必ず伝わります。
そして、同じ想いであること、今も愛していることを、あなたに伝えようとします。
「愛を伝えたい」という同じ想いにより、お互いの魂が共鳴し合えたならば、あなたの魂に、愛する想いが、響きわたってくるかもしれません。
心の奥底から込み上げてくる、あたたかい何かを感じたのなら、それは愛する人の想いかもしれません。
あなたの想いを伝えることは、いつもそばにいて、見守ってくれている愛する人の、大きな喜びとなりますので、大切なことです。
想いを言葉にして伝えてもいいです。
次元の違う向こうの世界から、想いを受け取るのは、難しいのは確かですが、いつの日か、あなたの魂に、愛する人の想いが届き、喜びで満たされることになるかもしれません。
愛する人のことを思い出すのは、あなたを愛する想いが、魂に伝わってきているからなのかもしれません。
神の摂理として、魂は不滅であり、愛するもの同士は離れることはありません。
参考ページ: 「亡くなった愛する人とつながる」
2014年2月6日木曜日
私の治癒力について その2
前回(その1)の続きです。
1848年、米国の田舎町で不思議な現象が起こりました。
引っ越してきたばかりの家で、物音がしているのを、家族全員が毎日のように耳にするのです。あまり気になるので、一家は意を決して、その音の正体を突き止めようと考えました。音は何らかの意志を持ってしているのを感じていたため、こちらの質問に音の回数で答えて欲しいと言ったのです。家族の年齢などを質問したところ、音による合図が返ってきましたが、その答えはどれも正確なものでした。そして、町中の人たちの知るところになり、音の主が誰なのかを、尋ねることになりました。音の数でアルファベットの文字を知らせるという方法により、この音の主が判明しましたが、そこには惨劇がありました。この音の主は、この家に以前住んでいた家主に、500ドルを奪われて殺された行商人の霊であり、地下に埋められていると告げてきました。後日、地下を掘り返したところ、遺体の一部が見つかりました。以前から、音を鳴らすという、ラップ音現象は、世界各地で起こっていたと思われますが、今回は、霊がこの世の人に向けて音によりメッセージを送り、立ち会った人すべてが、目に見えない知性の存在、魂の存在を認めざるを得なくなった、初めての出来事と言われています。
その後は、英国の地において、唯物的な近代科学に挑戦するかのように、次々と心霊現象が起きることになります。特筆すべきことは、それらの現象を、気味悪がったり、怖れたり、あるいはインチキと決め付けたりするのではなく、ノーベル賞級の科学者の手により、真摯に検証した点にあります。心霊現象研究協会という非営利団体を設立して検証していくことになりますが、歴代会長には、首相も務めたバルフォア、蛍光灯の原理を発見したクルックス、アレルギーの父として有名なノーベル医学・生理学賞を受賞したリシェなどがいることからも、少なくても、いかがわしい団体ではないことがわかります。
心霊現象は多岐にわたり、数十年間、英国各地で起こりました。最も印象に残るものとして、「エクトプラズム」という心霊現象があります。40年近く前ですが、私が中学生の頃、同級生がオカルト本を学校に持ってきました。みんなで騒ぎながら見た覚えがあります。その中に、いすに座る女性(霊媒)の前に、別の女性が立っていて、雲みたいなものでつながっている写真があり、「エクトプラズム」と説明文に書いてありました。それを見た時に、信じられないけど、だましているようにも見えない、と感じた覚えがあります。この現象は、クルックス管(蛍光灯)を発明した化学者である、クルックスにより検証されることになります。
もしかしたら当初クルックスは、この現象をトリックだと思っていたのかもしれません。いすに座っている女性と、エクトプラズムとして出現した女性は、同一人物と考えていたようです。しかし、明らかに別人であることが分かったばかりか、驚くことに、出現した女性の皮膚を触った感触は、生体とほとんど変わらず、脈も触れたのです。英国医師会のガリーという外科医が、出現した女性の脈をとっている写真が残っていますが、生きた人間にしか見えません。数年間にわたり、検証を重ねた結果、クルックスが出した結論は、「信じがたいことだが、紛れもない真実」というものでした。霊魂の存在の肯定論者になったクルックスは、その後、科学者仲間からは、異端児扱いされますが、生涯自身の考えを撤回することはありませんでした。
科学者に否定されていた霊魂の存在を、目に見える形(物理的)の現象を顕現させて認めさせるという計画が遂行されて、それを目の当たりにした科学者は、唯物的な考えを、改めざるを得なくなったのです。
あまり知られていませんが、日本でも同時期に、常識では考えられない現象が起きていました。
中でも、長南年惠という山形の女性は、目をみはるような数々の霊的現象を起こしたとされています。それは、彼女が10分程度祈願すると、空ビン数十本が様々な色の水で満たされるというものでした。この水は、霊水として万病に効いたと言うことですが、試しにやらせてみようといった考えの人のビンには、なぜか水が入らなかったようです。故郷を出て、大阪にしばらく滞在しましたが、うわさが広まり、その驚異的な現象を、多くの人が知るところとなります。そして、新聞記事として取り上げられましたが、そのすぐ後に、当局の捜査を受けて、(民衆をかどわかした等の罪だと思われますが)裁判を受けることになります。1900年に神戸地方裁判所で公判が行われ、裁判長から空ビンに水を入れるという現象を、この場で再現できるかと尋ねられ、お易いことと、彼女は快諾します。裁判所が用意した封印された空きビンが手渡され、厳重な監視の下、検証が行われました。そして、公の場で、うわさ通りの現象が起きて、空ビンは茶褐色の水で満たされることになります。立ち会った、裁判官、検察官、弁護士等すべての人が、その現象がトリックではなく、真実であることを認めざるを得なくなりました。当然のことながら、彼女の疑義は晴れることになります。
説明が長くなってしまいましたが、このように19世紀後半から20世紀前半にかけて、世界各地で、常識や科学では説明ができない現象が起きました。時期が重なったのは偶然ではなく、目に見えない偉大な力が存在することを認めさせるために、綿密な計画が霊界で立てられて実行されたのです。この先、あらゆる科学(技術)が格段に進歩して、大きな戦争(世界大戦)が起きてしまうことを予見した霊界が、人類に向けて鳴らした警鐘だったのかもしれません。そして、時代の変化とともに、目に見える物理現象は起こらなくなり、代わって霊媒を通して霊界からのメッセージが届けられるようになりました。「シルバーバーチの霊訓」に代表される、全人類を啓発するための、高級霊からの霊言もあれば、亡くなった愛する人から、遺された人へのメッセージもあります。そして、病気を癒すヒーリングも、世界のいたるところで、行われていると思われます。これらのことすべてに共通する目的は、見えない力(霊力)がこの世に顕現することにより、魂が目覚め、人間は霊的な存在で、生命は魂であり死後も生きつづけること、愛が最も大切であることを、気付かせるためにあります。
人間には理性があるため、自らが経験しなければ信じない人がほとんどです。しかし、病気で長い間、苦痛を経験してきた人や、愛する人を喪い深い悲しみを経験してきた人は、魂に受け入れる用意ができつつあります。(霊的な)治癒力は、病気が癒されることにより、この世のものではない力が働いたことを認めさせます。亡くなった愛する人からのメッセージは、死後にも生があることを認めさせます。どちらも、魂を目覚めさせるためにあります。魂が目覚め、霊的真理がもたらされ、この世に生まれてきた意味を自覚し、本来の目的を成就していくことになります。
私も、霊界でこの計画が立てられたなどとは、空想のように感じられ、信じられませんでした。しかし、これまでのヒーリングを通じて、病気が癒されていくのを目の当たりにしていくうちに、目に見えない力が存在することは、動かしがたい事実となりました。その力を届けているのは、この世を慈しむ霊界の人であり、その始原が神であることを、徐々に得心していくことになります。「生命は魂」であり、「魂は神の一部」であり、「神は愛」であるという事実を、より多くの人に伝えるための手段として治癒力が存在し、私はその通路です。
この潮流は急速に世界中に広まりつつあり、真実であるがために、その流れを留めることは、誰にも出来ません。
2014年2月2日日曜日
私の治癒力について その1
少し前までは、宗教とは無縁の人生でした。
宗教から連想するものは、変わった風貌の教祖であり、荒唐無稽とも思える教義であり、すごく立派な教団施設でした。関心があったのは、日々の仕事であり、生活だけでしたので、その様な世界とは、一生接点を持つことはないだろうと、考えていました。
しかし、7年前に、突然、治癒力が左手から出始めました。別に願っていたことでもありませんでしたし、そんな力が存在することすら知りませんでした。手を当てると病気が癒されるという現象は、不思議であり、未知のものであり、とても興味をひかれた覚えがあります。人が喜んでくれて、笑顔になりますので、歓迎される力であり、うれしい力であることは確かです。
治癒力について、知識を求めていたところ、幸運にも「シルバーバーチの霊訓」(潮文社)という本との出会いがありました。繰り返し読んでいるうちに、私の身に起こっていることについて、合理的な解釈をすることができました。そして、治癒力には、想像もしなかった、大きな目的と計画、そして責任が託されていることを知ることになります。私の解釈が正しいのか分かりませんが、その目的と計画について書いていきます。
治癒力は、霊力であり、心身の病気を癒すためにあります。しかし、真の目的は人間の奥深い部分に働きかけ、霊的な覚醒を促すためにあります。眠っている魂を目覚めさせるためです。
近年の科学の進歩はめざましいものがあります。ライト兄弟が飛行機を作り、空を飛んでから、夜空に浮かぶ月に、人類はわずか60数年で到達しました。あらゆる分野の科学が、これほどまでに急激に進歩した時代は、かつてありません。科学の進歩は、人類に多くの恩恵をもたらしたことは、紛れもない事実であり、その上に私も生活しています。車と電話がないだけでも、日常生活はきわめて不便なものとなります。しかし、急激な進歩は、ひずみを生じさせることにもなります。
科学(技術)は、人類の幸福のためにあるはずですが、時として使い方を誤ってしまい、人類を不幸にしてしまいます。アインシュタインの偉大な発見(E=MC²)は、40年足らずで原子爆弾という破壊兵器を作り出し、広島と長崎に投下されてしまいました。その凄惨な結果は知っての通りです。また、科学的にすべてのことは説明がつくという、科学万能主義という弊害をもたらしました。それは、科学的に説明できない、証明されないものは、否定されることを意味します。「心」や「魂」の存在は、あらゆる機器をもってしても、証明できる次元のものではありません。「心」については、誰にでもあることがわかりますので、たとえ証明されなくても、否定するわけにはいきません。しかし、「魂」については、実感もなく、証明もできないため、存在を否定されることになります。
科学者が、魂の存在を否定したならば、世の中の多くの人は、その意見に従います。「魂なんかは、やっぱり存在しない」という考えになります。魂が存在しなければ、死後の世界も否定され、「死ねば終わり」ということになります。そして、「死ねば終わり」ならば、生きているうちに、精一杯、楽しい思いをしよう、という考え方になるのは、当然かもしれません。その考えのすべが悪いわけではありませんが、自分の楽しみに関心が向けられると、周囲のことはあまり気にしなくなってしまうかもしれません。さらに「自分さえ良ければ、人はどうでも良い」という風潮が生まれないとも限りません。その風潮が蔓延すれば、世の中は殺伐としたものになり、犯罪が多くなり、あちらこちらで争いが生まれます。人を押しのけて、われ先に、という我欲むきだしの世界になってしまったら、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」に描写されている地獄の世界そのものだと思います。そんな世の中を、望んでいるわけではありませんが、進んでしまう危険性をはらんでいます。
魂の存在の否定は、向こうの世界にも、良からぬ影響を与えることになります。死ねば終わりだと思っていた人が死んだとします。向こうの世界に行っても、肉体がないだけであり、意識はあり、考え方はそのままですから、この世でまだ生きていると、錯覚してしまいます。すでに亡くなっている家族が、喜んで迎えにきていても、そのことを認めようとしません。何かの幻覚を見ていると思ってしまうのかもしれません。死んだら終わりだと頑なに信じていたので、終わりでなかったことを理解し、受け入れることが、なかなかできないのです。この世で、「死ねば終わり」だと思っている人が増えれば増えるほど、向こうの世界では、適応できない、孤立した魂が増えていくことになります。
今、生きている世界は、大切なことを学ぶための、学校であり、向こうの世界(霊界)は、学んだことを活かす、言わば実社会です。この世で、さまざまな悲しみや苦しみを経験して、「愛」より大切なものはないこと、他者への奉仕が最も価値を持つことを、長い年月をかけて、少しずつ学んでいきます。向こうの世界は、肉体はありませんので、生活するために働くことはありません。働くということは、他者への奉仕になります。お互いがお互いのために、自分を役に立てる世界です。奉仕をする原動力は他者への「愛」であり、その力を神から受け取りますので、「神は愛」ということを、この世とは比較にならないほど、実感することになります。夢物語に思えてしまうかもしれませんが、これは多くの人に訪れる現実です。
しかし、「死ねば終わり」と思い、「自分だけが今を楽しく生きれればいい」という考えからは、苦難に立ち向かっていくことも、他者への奉仕の気持ちも、生まれなくなります。この世に生まれてきたのは、魂を向上させるためであり、魂の向上は苦難を乗り越えていくことで得られますので、生まれてきた意味を、大きく失ってしまいます。また「愛」の大切さを、学び損ねたことにもなります。この世での「魂の向上」は予定していた通りにはならず、向こうの世界で、活かすまでには至りません。また、ある国が他国との協調を忘れて、「自国だけが良ければいい」、さらに「もっと富や領土を得たい」という考えに陥れば、戦争という悲劇が起こってしまうかもしれません。
昔から「魂」が存在し、この世をどう生きれば良いのかを説いてきたのは、宗教でした。愛する者を失った人に、永遠の生命を説いて悲しみを癒したり、霊的能力がある聖職者は、向こうの世界からのメッセージ(啓示)を伝えたりして、生き方を説いていたと思われます。しかし、現在、世界にある宗教のほとんどが、昔とは違い、儀式や教義にこだわってしまっている様に見えます。日本でも、お坊さんを見かけるのは、葬式やお盆に、お経を上げてもらう時だけであり、説法を聞いても、仏様(魂)は生きているという実感を持ったことは、残念ながらありません。お坊さん自身が、魂の存在を心から信じているかどうかも、定かではありません。魂は存在しないという科学に、対抗するだけの信頼や、説得力を、今日の宗教が持ち合わせているとは思えません。
科学は、証拠をもとに理論を構築していきます。まず魂が存在する証拠の提示を、要求してきます。当然のことながら、魂は物理的次元のものではないので、あらゆる機器で検出することはできず、証拠はないということになります。これでは完全に、科学に軍配が上がってしまいます。魂は存在するにもかかわらず、事実がねじ曲げられ、存在しないと結論付けられてしまいそうです。そこで、向こうの高次の世界において、そのようなことにならないための計画が立案されました。それは、全世界の人々に、検証に耐えられるだけの、魂が存在する「証拠」を提示していくというものでした。
その計画は、約160年前の米国で始まり、その後、英国を中心に展開されていきました。〈つづく〉
2014年1月30日木曜日
魂と愛について
私は若い時、自分に問いかけていたことがあります。それは、「何で生きているのだろう?」ということでした。
最も若さに溢れて、自由を満喫している20代前半にも、一人静かにしていると、時折、頭に浮かんできました。
しかし、深刻な悩みというわけでもないので、そのままにしておきました。
同時に、何かしなければいけないという衝動を、いつも感じていました。
突き動かされる何かがあるのに、それが何なのか、何がしたいのかも分からず、何もしていない自分に苛立ちを覚えていた様に思います。
そして2つとも、答えは見つからないまま、時は過ぎていきました。
何かをしなければいけないという衝動は、仕事をすることで、解消された様に思えました。
仕事さえうまくいっていれば、人生すべてがうまくいくと、いつしか思うようになっていきました。
そして7年前、仕事上で絶体絶命と思われる不祥事が起こりました。
ほぼ同時に「シルバーバーチの霊訓」に出会いました。
不祥事をきびしく追求され、追い詰められて行く日々の中で、心の奥で眠っていた魂が、目を覚まし、表に出てきました。
それまで思いもしなかった、大切なこと(摂理)に気付き、私の中で輝き始めました。
若い時に抱いた「何で生きているのだろう?」という問いに対し、「生命は肉体ではなく魂であり、魂を向上させるため」という、永遠不滅の真理を見出すことができました。
苦難に出会う人は不幸な人であるという、世間一般の考えは、「シルバーバーチの霊訓」により根底から覆されました。
苦難の真っ只中にいる時は、早く逃れたい、楽になりたいと思ってしまうこともありますが、「苦難を乗り越えることで魂が向上する」という、神の摂理が厳然と存在し、与えられた試練として立ち向かっていくことを学びました。
子供の頃から、「世のため、人のため(に尽くす)」という言葉を良く聞きました。
立派な心がけを奨励するための、道徳的な言葉と思っていました。
ところがそうではなく、神の心である「愛」を表現することであり、摂理そのものであることが分かりました。
シルバーバーチは「人のために自分を役に立てる」と言っていますが、滅私の奉仕こそが、最も価値あるものであり、魂を向上させることになり、生きている意味を成就していることになります。
広い世界には、貧しい人や、困っている人、病んでいる人のために、人知れず尽力し、生涯を捧げている人たちがいます。
その人たちの姿を見るたびに、本当に幸せな人だと思います。
人を幸せにしようとする想いは、神の心と同調し、深くつながり、神の愛を十分に受け取ることができます。
受け取った神の愛は行動する力となり、想いを成就させていきます。
そして、奉仕の行いにより、人々が幸せになり、その姿を見て自らが喜びを得ます。
摂理に適った想いや行いは、因果律により、自らに喜びと幸せをもたらします。
他者のために、何かをしてやりたいという想いが湧き上がるのは、頭で考えたものではなく、魂の自然な欲求です。
踏切でうずくまっている老人を見て、わが身の危険を顧みずに助けようとして亡くなった女性がいましたが、助けようとする衝動の源は、魂だったと考えられます。
もし、頭で考えたとしたら、助け出そうとする一歩は、とても踏み出せないと思うからです。
魂は神の一部であり、神の心が「愛」であるがゆえに、我を忘れて助け出そうとしたのだと思います。
亡くなった女性は、霊的な摂理など知らなくても、内なる魂の声に、忠実に従って行動したのであり、肉体を失ってしまいましたが、向こうの世界で、魂はより美しく光輝いていることと思います。
そこまで滅私の行いはできなくても、人にやさしくすることはできます。
近所に住む足が不自由な一人暮らしの女性が、道端に座り込んでいました。近所のスーパーで買い物をした荷物が重たいらしく、たまたま自転車で通りかかったので、家まで運びました。
本当に簡単なことでしたが、うれしいことだったみたいで、わざわざお礼にと、お菓子を持ってこられました。
小さなことでも、ためらわずにすることで、とても喜ぶ人がいることを、あらためて実感しました。
やさしい気持ちで笑顔で人と接することも、世の中をほんの少しだけ明るくしていますで、小さな小さな奉仕です。
いやなことをされても、その人を許してやることも、形を変えた奉仕なのかもしれません。
イエス・キリストの有名な言葉に、「愛は摂理の成就なり」というのがあります。
頭で考えてしまうと、意味はさっぱりわかりませんが、もっと深いところでは「愛することは、神の御心」と、理解することができます。
魂は肉体という入れ物に押し込められ、普段は頭による思考により支配されているため、存在を意識することはありません。
しかし、危機的状況になり、頭で解決できなくなると、初めて表に出てきます。
若い時に感じた、何かをしなければならないという衝動は、もしかしたら内なる魂が、しきりに表に出たがっていたのかもしれません。
愛というものを、言葉ですべてを表現することは不可能です。
同じく魂も、言葉で表現することは不可能です。
なぜならば、この世の次元のものではないからです。
言葉で説明できない、証明できないものを、否定するのは、あまりにも愚かです。
愛は、見えるものではなく、感じるものです。
やさしくされると、うれしいのは、「魂」が「愛」を感じ取っているからです。
愛を信じられる人は、同次元の魂も信じられるはずです。
2014年1月26日日曜日
生きている!そばにいる!
昔からの知人であり、仕事でも係わっている人の長男が、昨年の12月に亡くなりました。家族と遠く離れて大学生活を送り、地元での就職も決まり、今春には戻ってくる予定でした。交通事故でした。
父親である知人をはじめ、お母さん、兄弟、おじいちゃん、おばあちゃんの衝撃、悲嘆は、想像を絶するものがあると思われます。起きてしまったことが、いまだ信じられないのかも知れず、悲しみやつらさと向き合っていくのは、これからなのかもしれません。大学生活を終えて、社会のために活躍していこうとしている若者が亡くなる理由は、どこにも見当たりません。
仕事にも誠実で真剣に取り組み、家族思いで、曲がったことが大嫌いな知人が、なぜ、このようなつらい経験をしなければならないのか、わかりません。
これから結婚をして、家族を持ち、たくさんの楽しい思い出をつくっていくことを、疑わなかった知人にとって、突きつけられた現実は、あまりにも非情で過酷と思われます。親として、育ててきた子供を亡くすことは、この世で最もつらい苦難の1つに違いありません。
私は、シルバーバーチの霊訓から霊的真理を学びました。死に対する考え方も一変し、怖いものではなく、魂が肉体から解放されることであり、むしろ喜ばしいことであることも知りました。しかし、まだ未熟なために、いざ自分の子供が突然の事故で亡くなってしまったら、平常心でいることは難しく、大きな悲しみや、喪失感を抱いてしまうような気がします。
ただ、忘れてはならないことがあります。それは、(肉体が)死んでしまった子供の魂は生きていて、目には見えなくても、家族と一緒にいるということです。
人は死んだら火葬され骨になりますが、生命である魂は、肉体とは関係なく存在し続けています。肉体がなくなった以外は、意識も、記憶もあり、性格も、すべてそのままなのです。
肉体のない魂は、地上(物理)的制約は何1つ受けませんので、地上のどこへでも瞬時に移動することができます。子供の帰るところは、ただ1つ、わが家です。家の中のいつもの居場所にいて、家族の様子を見ているだろうと思われます。
もし、家族が悲しみにくれ、会話もなくなり、雰囲気がすっかり変わってしまったら、きっと戸惑うことになるでしょう。大好きな人、愛する家族が、嘆き、悲しんでいる姿を見ることは、堪らなくつらいことです。
何とかして、そばで元気に生きていることを知らせたいと思うことでしょう。しかし、目の前にいることに、全く気付いてもらえないのです。「ここにいるよ!ここに!」と、肩に手をかけて教えようとしても、かけた手はむなしく、体を素通りしていくだけです。向こうの世界に行った人が、この世の人に存在を知らせる手段は限られていますので、自分にはどうすることもできないことを知り、深く失望していると思われます。また、交通事故という予期せぬ死であったため、自分の身に起きたこと、肉体をすでに失っていることに、気付いていなかったり、起きている現象が理解できず、混乱していることも十分考えられます。
一方、家族の心は、亡くなって1、2ヶ月では深い悲しみにより閉ざされていて、周囲とのかかわりを持ちたがらないのかもしれません。私は、死の悲しみを癒すものは、霊的真理の他にないと確信していますが、今、家族に伝えたとしても、素直に聞き入れてくれることは、難しいのかもしれません。
以前、同じく子供を交通事故で亡くされた知人に、「今も生きている」ことを伝える機会がありましたが、残念なことに拒否と思われる言葉を受けてしまいました。亡くなってから日の浅い家族は、ただ帰ってきて欲しい、元気な子供の姿をもう1度この目で見たい、この手で抱きしめたいと、願っているだけです。そして家族以外には、到底この気持ちは分からないと、思っています。私の行動は時期早尚であったのかもしれません。
しかし、亡くなった子供は、家族にどうしても「生きている!そばにいる!」ことを伝えたいのであり、霊的な知識を有するもの以外に、代弁してやることが不可能なことも確かです。
もし、「生きている」という事実が、家族により否定されれば、想いは一方通行になり、両者の魂は、つながることはありません。それは亡くなった人が最も怖れ、悲しむことであり、第2の悲劇と言えるのかもしれません。いくら「生きている」と言われたとしても、にわかには信じられないことは、理解できます。しかし、死ぬと何もかもなくなってしまうことを、証明するものは何もないのに対し、「生きている」ことを証明することは、しかるべき通路(霊能者)がいれば可能です。
すべては摂理に従っているために、証明される機会が与えられていないだけです。死別という深い悲しみは、魂を目覚めさせ、向上させるという、きわめて大きな意味がありますので、つらいことですが苦難にじっと耐える時も必要です。そして時期が来て、愛する人が生きている証が、もたらされることになるかもしれません。
いつの日か知人が、「(魂として)生きているかもしれない」と思うことができたのなら、両者のつながりは確実に深まり、「そばにいる」気配を、感じ取れるかもしれません。さらに「生きている」と信じ、親愛の想いを向け続けていれば、両者の魂が同調して、インスピレーション(直感)という形で、子供の想いが、知人の魂に、届けられることになるかもしれません。何も考えていないのにもかかわらず、心の奥底に思い浮かぶものを感じたのならば、それは向こうの世界から投げかけられた「想い」である可能性があり、見過ごしてはいけないと思われます。
向こうにいる人は、家族に愛する想いを伝えたいのであり、その一念で、向こうから家族の魂に働きかけています。向こうは物質世界ではありませんので、目に映る映像や、耳で聞く言葉で、この世の家族に、想いを伝えることは出来ません。
魂の世界ですから、五感ではなく、同次元の魂に、想いを投げかるしかありません。もし、その働きかけが功を奏し、この世に残してきた愛する人の魂に、想いが“ひらめき”として伝わったのなら、それは願いが叶った瞬間であり、向こうに行ってしまった人にとってこれ以上の喜びはないと思われます。
愛する者同士はいつも一緒であり、離れ離れになることは、決してないのです。
参考ページ: 「愛する人を亡くした人へ」
参考HP:「最愛の我が子やご家族 また愛する人を亡くされた方へ~死の真実を求めて~」一人息子さんを亡くされたお母さんのHPです。
2014年1月22日水曜日
魂に老いはない
私は、今52才です。時が経つのは早いものだと感じています。
同年代の人達は、10年もすると定年を迎えるため、その先の人生設計を真剣に考え始める頃だと思います。経済的な豊かさが、幸福な老後につながると考えている人も多く、それまでに少しでもお金を貯めたり、増やしたりして、老後の生活に備えようとしています。
ところで老後とは何なのでしょう?退職し、年金を受給し始める60代頃から、死ぬまでの間の時間と定義する人もいるでしょう。確かに肉体の老化は誰にでも訪れ、避けることはできません。私も、鏡に映る自分の顔を良く見ると、しわも増えて、年を取ったと感じます。あと30年もすれば、トイレに1人で行くこともできないかもしれませんし、もしかしたら肉体はすでにないかもしれません。
しかし、本当の自分は、鏡に映る姿そのものではなく、その姿を見て何かを感じている魂です。朽ちたり、老いたりするということは、物質特有の摂理であり、形態や性状、そして機能が劣化するということです。魂は物資次元のものではありませんので、その摂理は当てはまりません。
これまでに、楽しいこと、うれしいことを経験してきました。そして、つらいこと、悲しいことにも出会い、何とか乗り越えてきました。風に揺さぶられ、雪の重みに耐えてきた木のように、さまざまな出来事を経験して、魂は少しずつですが、強く、たくましくなっていると考えられます。
肉体は成長し、ある時点を境に老化に転じ、最後には朽ち果てます。しかし、魂は成長(向上)し続けるのみで、朽ち果てるのではなく、完成されていくものと思われます。肉体と魂では、たどる道が全く違うのです。老化するのは肉体だけであり、自分そのものである魂に老化はありません。年を取ったと嘆いたり、若さをうらやましく思う必要はないのです。
春になると桜の木は、一斉に花を咲かせます。幹から遠く離れた枝の先端にあるつぼみでも、他のつぼみと同じ時に花が咲きます。それは1つ1つのつぼみは木の一部であり、同じ生命が宿っていて、同調しているからです。1つの魂は、神という無限に大きい木に咲く1輪の花みたいなものです。全体から見れば1輪の花は、あまりにも小さい存在ですが、木を構成している一部には変わりありません。
そして、すべての花は木とつながっているため、同じ生命が宿っています。春に咲く桜の花は、1週間もすればはかなく散ってしまいますが、魂という花は、神の一部としてつながっているため、永遠に咲き続けます。それは、うれしいことでもあり、つらいことでもあるような気がします。
画家にとって色彩が、音楽家には音が、自己表現をするため必要なように、魂を表現するために媒体が必要となります。この世では、媒体として肉体が与えられています。しかし、魂にとって表現媒体となる肉体は、あまりに鈍重であり、思いのままを表現できるわけではありません。手袋をして縫い物をするようなもどかしさや、服を着て水の中を泳ぐようなぎこちなさが、あると思われます。
なぜ、神が地上を生きる魂に、鈍重な肉体を与えたのかわりませんが、きわめて進化の低い未熟な魂が、ありのままを表現してしまったら、秩序や平和を保つことが難しいため、鈍重な肉体を纏わせ、表現が制約を受けることにより、地上の秩序や平和が、どうにか保たれているのかもしれないと、考えてしまうことがあります。
肉体を動かす力は、同じ物質次元の食物から補給するのに対し、霊的次元にある魂は、霊的次元の力、つまり霊力が原動力となります。神とのつながりが深まれば、深まるほど、神の力である霊力が魂に流れ込むと思われます。霊力は、森羅万象を起こす力であり、人にとっては生命力であり、病を癒す力であり、ことを成し遂げさせる力でもあります。
しかし、シルバーバーチが繰り返し注意を喚起していますが、取り越し苦労や、不安感、恐怖心を抱くと、せっかくの霊力を受け取る妨げとなってしまいます。経験的にも、不安でいっぱいな状態で、持てる力のすべてを発揮できたことはありません。一方、ここぞという時に、驚異的な力を発揮して成功や栄冠をつかむ人がいます。そんな人は、障害となる不安や怖れがすべて取り除かれて、揺るぎない自信が生まれ、魂がいつも以上の霊力を受け取り、実力以上の力を発揮したのかもしれません。
神とのつながりを深くして、生きる力である霊力を十分に受け取るためには、自らの心が生みだす迷いや不安を一掃し、心を穏やかにして、神とのつながりを求めなければいけません。神とのつながりを求めなくても、困っている人や傷ついている動物を見て何とかしてやりたいと思った瞬間、つらく悲しい思いをしている人を見て励ましたい勇気付けたい慰めたいと思った瞬間、世の中を明るく平和にしたいと、心から思った瞬間に、神の心と「愛」で同調します。同調をすれば、神とのつながりが深まりますので、霊力が自らの魂に流れ込んできます。そして流れ込んだ霊力は、行動するための原動力となり、肉体により表現(実行)されることになります。
そのことを、心身を病んでいる人にヒーリングをしている時に、実感します。ヒーリングする前は、良き霊力の通路となり、患者の病が癒されることを祈念しつつ、無心になることが必要なのですが、私はまだ未熟なため、心配ごとが心をよぎることもあります。そんな時には、霊界との同調はうまくいかず、治癒力の大きな流れを感じることはできません。しかし、心が穏やかで、愛を誰かに分けてあげたいと思うような時は、すんなりと同調ができて、治癒力がふんだんに流れていくのを感じます。つまり、十分な霊(生命)力を受け取るためには、心を穏やかにすること、他者を思いやる気持ち、愛の想いが、最も大切だと思います。私は霊力が流れていくのを、感覚的に感じることができますが、たとえ感じられなくても、すべての人に同じことが起きていると確信しています。
肉体はどのようなことをしても、時とともに老いていくことは摂理であるため、避けられません。目に見えるものがすべてだと思ってしまうと、魂は存在せず、死ねば終わりという、深刻な事実誤認をしてしまいます。老後は人生の黄昏ではなく、次の世界へ移行する準備期間であり、地上人生の集大成とも言える、大切な時間です。出来るだけ長生きをして、死ぬまでにたくさん楽しいことして過ごすよりも、それまでの経験を活かし、たとえ小さなことでも、こつこつと世の中のため、人のために役立つことをする方が、はるかに賢明です。なぜなら、この世での楽しい思い出は、単なる1つの記憶に過ぎませんが、他者への奉仕は魂を向上させ、永遠の価値を持つからです。誰しも肉体の死の後に、いやでもそのことを知ることになりますが、なるべく早く知っておくのに、越したことはありません。
これから年を取って体が思うように動かなくなったとしても、1人でも多くの人が正しい知識(霊的真理)に出会い、受け入れる手助けをしていかなければならないと思っています。
2014年1月12日日曜日
ヘレン・ケラー
小学生の頃は、校庭で遊ぶのが大好きでした。
じっとしているのが苦手で、読書はあまり好きな方ではありませんでした。
学校の図書館に足を運ぶことはあまりなかった私でも、図書館に偉人伝の本が置いてあるのは知っていました。
シリーズになっていて、エジソン、キュリー夫人、ナイチンゲール、シュバイツァーなどの本が、十数冊置いてあった記憶があります。
その中の1冊に、ヘレン・ケラーの本がありました。
幼少期の病により、視覚、聴力を失ったため、意志の疎通が全くできず、粗暴でわがままで、親も手がつけられない子供になっていったヘレン・ケラーが、サリバン先生と出会い、献身的かつ厳しい教育を受けて、変わっていきます。
もともと優れた知性の持ち主であったヘレン・ケラーは、さまざまな本を読み、勉学を積み、優秀な成績で大学を卒業します。
その後は、盲人の就労支援活動をはじめとして、婦人参政権、公民権活動などを積極的に行いました。あらゆる社会的弱者のために一生を捧げたと言って良いと思います。
サリバン先生との出会いにより、閉ざされていた心が開かれていったことは周知の事実です。
ヘレン・ケラーがサリバン先生により言葉を初めて教えられた時の話は、あまりにも有名です。
その時の様子を著書で、こう語っています。「彼女は私をツタのからまるポンプ小屋へ連れてゆき、彼女がポンプを漕いでいるあいだ、その水をコップで受けるように指示しました。そして空いたほうの手でふたたび力をこめてw-a-t-e-rと書きました。冷たい水の筋が私の手を流れているあいだ、私は全身の注意力を先生の指の動きに集中しながら、じっと立っていました。突然、私の中に不思議な感動が湧きあがりました。おぼろげな意識。遠い記憶のような感覚。それは、まるで死から甦ったような感動でした!先生が指を使ってしていることは、私の手の上を走りぬける冷たい何かを意味しているのであり、こうした記号を使えば私も人に意志を伝えることができるのだということを、私は理解したのです。それは、けっして忘れることのできないすばらしい1日でした!」。
そして、その日のうちに「give」、「go」、「baby」などの単語を30も覚えてしまったそうです。
後にそれが精神的目覚めであったと語っています。
ちなみに「奇跡の人」という映画がありましたが、奇跡の人はヘレン・ケラーのことではなく、教育者としてのサリバン先生のことを指します。
献身的な周囲の支えもあって、たくさんの知識を得ながら自立した女性となり、尊敬をあつめていきます。
しかし、小学生の私には不思議に感じたことがありました。なぜ3重苦の彼女が、誰よりも明るく、前向きに生きてられたのか。
自分が生きていくだけでも、想像を絶するほど大変なのに、世の中のために、人のために、並外れた行動力で社会福祉活動ができたのか。
偉い人だからと言ってしまえばそれまでですが、最近になって、ようやく疑問に対する答えが見えてきました。
偉人伝には書かれておらず、あまり知られていないことですが、ヘレン・ケラーにはサリバン先生とともに、衝撃的な出会いがありました。
それは18世紀に生きたスウェーデンボルグの書籍でした。
その出会いにより、彼女の心に、明るい真理の光が差し込むことになります。
スウェーデンボルグは18世紀に活躍した科学、数学、哲学など、あらゆることに精通した偉大な知性の持ち主であり、ゲーテやユングなど、多くの芸術家や思想家にも影響を与えています。
頭脳明晰で、極めて論理的な思考をするスウェーデンボルグでしたが、50代になり、今までの考えを根底から変える驚異的な体験をします。
それは、生きながらにして死後の世界である、霊界を探訪する体験でした。
魂が肉体から離脱し、霊界を巡り、そこでの人々の暮らしを垣間見てくるのです。
臨死体験をして、すでに亡くなっている人に会ったり、光の体験をする人はいますが、その世界よりも、さらに先にある、霊界を見て巡ることを許されたのです。
その希有な体験と、そこから学び得たものを、世の中に知らせることが、自分に与えられた使命と信じ、多くの著述を遺すことになります。
当然のことながら、優秀な科学者であった、スウェーデンボルグが、ある日を境に霊界などという荒唐無稽なことを言い始めたと、周囲の人は彼の頭はおかしくなってしまったと思いました。
そして理解されないまま、英国の地でこの世を去ります。
そして百数十年の時を経て、彼の著述である「天国と地獄」にヘレン・ケラーは出会うことになります。
視覚、聴覚を失ったことは、周囲の状況を知るということにおいて絶望的なハンディキャップになりますが、周囲からの影響を受けることも最小限となり、内面と向き合うことになります。
幼い頃から、隔絶された心の世界の中で、うごめく何か、叫ぼうとしている何かを、常に感じていたのではないかと思われます。
そして、15,6才の頃に書斎にいながら、意識は遠く離れたギリシャのアテネに行っていたという、いわゆる幽体離脱という決定的な体験をすることになります。
その体験について、「私の霊魂が実在すること、しかもそれは場所や肉体の制約を完全に超えていることを悟ったのでした。
何千マイルも彼方の場所をこんなにありありと“見たり”感じたりしたのは、私が霊そのものであり、そのことにもはや疑う余地はありませんでした」と、後述しています。
内なる魂に目覚めた後に、導かれるようにスウェーデンボルグの著書に出会い、多くの知識や摂理を獲得していきます。
ヘレン・ケラーが書いた「私の宗教」という本の中に、スウェーデンボルグことが多く書かれています。
印象的であった文章のいくつかを紹介すると、「天界での生活とは、すべての物質的制約から自由になった状態と考えるのがいちばんよいだろう、とスウェーデンボルグは明快で信頼すべき啓示をもたらしました。もしそれが本当だとすれば、天界での教育について、私達は明確な観念を持つことができるでしょう。つまり、天界というのは霊の体をまとった魂たちの広大な領域であり、そこではすべての魂がひとつの壮大な“役立ち”のシステムの中に相互に関係しながら結び合わされています。その集団の中ではすべての個人が、自分をより高く向上させ、それによって全体の美を拡大させることのできる可能性や関心や特殊な知識をもっています。そこで、それぞれの個人は、お互いに他人に依存しながらも自分なりの仕方でより完全な成長を遂げ、ますます増大してゆく幸福感に応じてより多くの責任感を持つようになるのです。」と書かれていて、その見出しは「役立ちの生活」となっています。
また「スウェーデンボルグは霊界での引力の法則に相当するものが愛であることを悟り、愛という放射の源泉が、太陽にのように実際にすべての霊魂に生命を与え、すべての被造物に美を与えるのを見た、と証言しています。」と書かれています。
すばらしい表現だと感じるとともに、その内容は、霊界からの通信と多くの点で符合しているものと思いました。
ヘレン・ケラーは3重苦という、想像を絶する苦難を経験し、若くして魂に目覚め、霊界の存在や神の摂理を受け入れていたことが良くわかります。
障害は神から与えられた試練と受け止め、愛や奉仕が最も大切であり、神の御心に適った行為であることを、深く理解していました。
だからこそ、誰にでも明るく笑顔で接し、優しく弱者を励まし、世の中のために、人のために一生を捧げることができたと考えています。
怯むこと無く、苦難に立ち向かい、他者を愛することで、神に愛された、美しくも偉大な魂の人です。
最後に、心に残った、ヘレン・ケラーの言葉を引用します。
「私は、自分の障害を神に感謝しています。私が自分を見出し、生涯の仕事、そして神を見つけることができたのも、この障害を通してだったからです。」
2014年1月10日金曜日
病気は魂を浄化させる
今日は仕事が休みなので、障害者施設に行ってきました。あたたかい職員の方に囲まれ、皆さん元気にしていましたが、気になるM君は相変わらず部屋で一人でテレビを見ていました。
重度の身体障害があり、いつもベッドで横になっています。知的障害は全くありませんので、普通に会話はできます。昨日は病院に行って診察で疲れてしまい、腰痛がひどくなり顔をしかめて耐えています。今までに何回も手術をしていますが、痛みから開放されたことはなさそうです。腰に手を当ててヒーリングをしながら、話をします。
彼は、こんな思うようにならない体で、痛い思いをしながら生きていて、何の意味があるのだろうかと常に考えています。そして時々「死にたい」ともらします。そこに彼の弟がお見舞いに来ました。彼もまた兄と同じ先天性の疾患があり車いすでの生活ですが、勉学やスポーツにも励み、快活そのものでした。兄をいたわり、気遣う言葉をかけていました。まだ20歳くらいですが、常に前向きに生きようとしているのが、その顔つきや、言葉から感じられました。M君と同じ病気を抱えているのに、何でここまで違うのだろうと思うとともに、同じ病気の弟が心の支えになっていることに安心しました。
M君はこれから数十年、障害と痛みを抱えて生きていくことになりますが、それに負けて投げ出すことは許されません。M君の病いも摂理により生じて、想いや行いのすべてに因果律という摂理が働くからです。つらさから逃げだしても、もっと過酷なつらさが待ち受けているだけです。その日が来るまで、精一杯生きるしかないことを、あらためて伝えました。
摂理は時に冷酷にも見えますが、公正と秩序をもたらします。私も車の運転をしますが、もし交通ルールがなかったらどうでしょう。ある人は猛スピードで車を運転し、交差点で信号機がなければ混乱し、路上駐車した車で道が塞がれるかもしれません。交通を円滑にして安全を保つためにはルールが必要です。宇宙が開闢し、地球という惑星が誕生して太陽の周りを回っているのも、海中に生物が発生して進化して人間が生まれたのも、種が芽を出すのも、そして花を咲かせ散っていくのも、目に見えない摂理に則って行われています。
すべてを支配している摂理の枠から出ることは出来ませんが、摂理があるからこそ、世界の秩序と公正は保たれています。人が生まれ、死んでいくのも、病気が生じるのも摂理に従ってのことです。想いや行いのすべてに摂理は寸分の狂いもなく働いています。
ただ、この世では因果律の働きがわかりにくくなっていて、結果として生じた出来事と、原因となる過去の想いや行いの関係を、明確に結びつけることは、容易ではありません。そのため生じた出来事を偶然とか運として片付けてしまいがちです。今、起きている出来事は、過去のどこかで蒔いた種の結果に過ぎません。因果律という摂理が確かに存在することを、気付かせるためには、何かしら体感的なものが必要となります。
病気の苦痛は最も体感的なものであり、そのつらい経験により、過去の過ち(摂理に背いた想いや行い)に気付き、それを正し、摂理に則って生きていくようになります。そして健康な時に追い求めていたことより、はるかに大切なことに気付くことになります。
それは「生命」であり、「愛」です。それ以外のことは取るに足らないことばかりです。生命は肉体を超えた魂であり、魂は神の一部であるために、愛が最も大切であることを強烈に意識していきます。生命と愛の大切さに目覚めたことは、魂が目覚めたことを意味します。生きている目的は、魂を向上させるためです。そのためには、まず魂が目覚める必要があります。
病気になると、何も悪いことをしていないのに何で私がと思ってしまうのは、この世という限られた視野から眺めているためであり、霊的次元から見れば、魂を深い眠りから目覚めさせるための、けたたましい目覚まし時計の役割を果たしています。
すべての出来事は、決して偶然や運、不運ではなく、何らかの原因により起きていることが判ってくることは、因果律という最も根源的な霊的真理を受け入れつつあることになります。もし因果律がなく、病気というものも存在しなければ、摂理に背いていても気付かせるものはなく、魂は際限なく神から遠ざかり、暗く、陰鬱な世界を、あてどもなくさまようことになると思われます。そのままでは、愛というものからかけ離れた荒涼とした世界に、魂が迷い込んで抜けられなくなってしまうかもしれません。
因果律の働きにより、摂理に背けば神から一歩遠ざかり、遠ざかっていることを苦痛により知らされ、摂理に沿うように軌道修正されていきます。この世に生まれた時の魂は無垢でも、さまざまな想いや行いにより、魂のありさまは変わっていきます。摂理に適った想いや行いを積み重ねていくと、魂は美しくなり、輝きを増していきます。反対に摂理に背いた想いや行いにより、魂は汚れていき、輝きを失っていきます。病気は、大切なことに気付かせ、神に向かっての正道を歩ませるためにあります。そして、耐えがたいと思われる苦痛により、魂の汚れは浄化され、本来の輝きを取り戻していきます。
苦痛は人を不幸にさせるものではなく、魂を浄化させ、神への道へと導くものです。
2014年1月1日水曜日
不安と恐怖に打ち克つ
悲しくつらい出来事があると、心は痛みます。肉体の痛みは、鎮痛剤である程度少なくすることはできますが、心の痛みはそんな訳にはいけません。
肉体の傷は目に見えますが、心の傷を見ることは出来ず、傷の深さは本人すら計ることはできません。
さまざまな出来事や言葉により、心を傷つけられ、痛みを生み出しますが、肉体の傷もふさがっていくように、心の傷もいつかはふさがり、痛みはなくなってくるはずです。
目の前にある現実を受け入れると、時として耐えられないと思うほどの痛みに襲われることもありますが、神はこの世に時を与えていますので、時間とともに心が癒されていきます。
人は肉体を携えた魂です。神へと続く階段を魂が1段1段登っていく永遠の道です。
心の痛みを感じなくなっていくのは、魂が1段、向上した結果だと思われます。
平地を歩くのとは違い、上に登って行くためには力が必要になります。より高く登っていくにつれ、階段は急になり、出会う苦難は厳しいものとなってきます。
そうでなければ苦難と感じないはずであり、苦難と感じないようであれば魂の向上は得られません。
今度ばかりは乗り越えられそうにないと思われる苦難であっても、乗り越えられるはずです。
なぜならば、今までも乗り越えてきたからこそ、神の法則に従って与えられたはずだからです。
しかし、事実があまりにも深刻で、衝撃的であったりすると、まともに受け入れてしまうと、重圧に耐え切れなくなり、感情のコントロールを失い、耐え難い悲しみや不安や絶望感に襲われるのではないかと思ってしまうことがあります。
心がバラバラにされ、修復不可能な状態に陥ってしまうのではないかと、無意識のうちに心を守る防衛反応が働き、その事実を心の奥に封印してしまう場合があるのかもしれません。
正面から向き合うことなく、事実を受け入れなければ、なかったかのように過ごすことができるのかもしれません。
繰り返しになりますが、人は魂を向上させるために生きています。
経験したこともなく、全く予期しなかった、つらい出来事でも、無我夢中で危機を切り抜けていく過程で、魂は鍛えられ向上していきます。
これは無理だと思われたことでも、乗り越えられるはずです。もしそうでなければ、この世は挫折だらけになり、絶望感と無力感に包まれたものとなってしまいます。
とても耐えられないと思われた出来事も、実は乗り越えていくことが出来たのです。
しかし、封印してしまうと、つらさからは逃れられ、一見賢明な方策に思えますが、苦難を乗り越えて魂を向上させる機会を1つ失ったことを意味します。
事実が心に封印され、忘れてしまったかに見えても、その事実を消すことは出来ません。その時に表すことのできなかった、はりさけそうな想いが、たくさんあるはずです。
事実に対して、悲しみ、恨み、怒り、憎しみなどの様々な想いが、たとえ表現されなくても無意識のうちに、心に湧き上がっています。
そして幾重にも積み重なっていき、心のしこりとなっていきます。
そして魂に影響を与えていき、魂のありさまが変わっていきます。
肉体は魂に従いますので、病気として表在化していくことになると思います。
よって肉体に顕れた病変は、封印された出来事から生み出された、悲しみ、怒り、憎しみなど様々な負の感情の集まりが形を変え、目に見えるものとして顕れたものと考えられます。
もしその出来事を、誰かのせいにしたり、不運を嘆いたり、人を妬んだすることで、正面から向きあうことをしなかったとしても、摂理に背いていることになり、同様の結果を生じることになると思われます。
つらくても正面から受け止め、悲しむ時は悲しんで、痛みを感じながら、乗り越えていくことが、摂理に叶った取るべき道だったはずです。
心の痛みやつらさを経験することより、魂は向上しますが、その事実を封印してしまい、痛みやつらさを感じることがなければ魂の向上は得られません。
この世で与えられた苦難として、痛み苦しむはずだったのであれば、何らかの別の機会で相応の苦難が与えられることになるはずです。
そして事実を受け入れた時に味わったであろう心の苦痛と、同等の苦痛を後に経験し、魂を向上させることになると思われます。
神の摂理は完全であり、形を変えて苦痛が与えられて、魂を向上させることになります。
病気として与えられた苦難を、今度は乗り越えていかなければいけません。
乗り越えられないと思わせるのは、病気に対する誤解であり、恐怖であり不安だと思います。
病気に限らず、不安や恐怖は、ことを成し遂げる時の妨げとなり、力を十分に発揮できなくなります。
病気を魂の次元で理解し、不安や恐怖を払拭できたのなら、必ず乗り越えられるはずです。
前にも書きましたが、不安や恐怖に心が支配されると、十分な治癒力を受け取れなくなります。
不安や恐怖を感じたり、摂理に背く想いを抱いてしまったりして、事実と向き合わなかった過去と同じ過ちを、病気として形を変えた苦難において、繰り返してはいけません。
摂理に背いた想いを抱かないか、不安や恐怖を退け正面から向き合うことが出来るのかを、試されているのです。
もしそれが出来たならば、病気は乗り越えられて、治癒につながっていくはずです。
病気は不安や恐怖に打ち克つことが試されている苦難なのだと思います。
不安や恐怖に打ち克ち、魂が肉体を支配すれば、神からの治癒力を存分に受け取ることができ、病気の進行は抑えられ、痛みを感じることはないと思っています。
反対に不安や恐怖に支配されたら、ガンを抑えこむ力は減弱し、病気は進行し、痛みを感じることになると考えています。
ガンは死という誤った認識があまりにも広まり、多くの人が不安や恐怖を感じています。
ガンは肉体を蝕む得体の知れない病気ではなく、魂を向上させるために与えられた試練です。
神は愛であり、死に至らせるための病としてではなく、過ちを正し、大切なこと(摂理)に気付かせるために与えた病です。
ガンは肉体に対する治療も必要ですが、それ以上に魂のありさまを変えていくために、心を意識し続けなければいけません。
心を穏やかにして、すべてに感謝し、他者を慈しみながら日々を過ごせば、魂の平和、協調、調和が取り戻せるはずです。
そうすれば支配下にある肉体も従い、ガンも癒やされていくはずです。
病巣をなくすのが治療ではなく、不安や恐怖に打ち克ち、心を穏やかに平和に保つことこそ、根本的な癒やしになります。
2013年12月28日土曜日
すべては魂の向上のため
赤ちゃんのつぶらな瞳を見ていると、魂そのものであり、神の一部であるということを、感じることがあります。
役目を果たすために、どこか遠いところから、この世に降りてきて、生まれた直後に泣き叫んでいるのは、もちろん呼吸をするためなのですが、この先の大変さを魂が分かっているからと思えてしまうことがあります。
子供にとって親は必要な存在であり、強者です。
しかし、親が上で子供は下であり、親の意見に子供は従わなければいけない、などということは大間違いで、1つの魂として見れば、対等の関係です。
肉体は遺伝しますので、容姿は似通ったところがありますが、魂は別次元のものであり遺伝はなく、反映している心、性格は親子でも肉体みたいに似ていません。
数十年、早くこの世に生まれてきただけであり、魂に年齢は関係はなく、親よりも魂が向上している子供もたくさんいると思います。
幼い子供が生まれながらの難病で苦しみ、治療のかいもなく亡くなってしまうことがあります。
小さいながらも親や周囲の人を気遣い、決して弱音をはかない子がいて、周囲の人を驚かさせます。
そんな子は、この世を長く生きて大切なこと(摂理)を学ぶ必要はなく、自分に足りなかった部分だけを、病気という苦難を通して学びとり、それが終わると早々と、次の世界に行ってしまうのかもしれません。
幼いのは肉体だけであり、魂は向上していて、成熟した大人なのかなと思うことがあります。
子供に先立たれた親は、深い悲しみを味わうことになりますが、その耐え難い苦痛が、魂を向上させることにつながります。
つまり、短い生涯であっても、その親の子供として、病気を抱えて生まれてきたのは、それぞれの魂の向上を成就させるために、必要だったということになります。
魂は、自らに足りないものを自覚して、その部分を補うために、適切な試練が得られる、環境を選んで生まれてきます。
災難や不幸と思われることは、摂理に背いた想いや行いをして因果律が働き、その結果として表れたものもありますが、魂の向上させるために、あらかじめその人に計画されている場合も多いのではないでしょうか。
休みの日で時間があれば障害者施設にボランティアに行っています。
ボランティアと言っても、遊び相手や話し相手になっているだけなのですが、良く来たと、笑顔で歓迎してもらえると、うれしくなります。
そこでは足が不自由で車いすの人、身体は健康だけど知的障害がある人、身体が不自由で知的障害がある人など、様々な種類や程度の異なる障害を抱えた人達が共に生活しています。
一人ひとりの意見は尊重されますが、集団生活なのでわがままや規律を乱す行動は許されません。
そんな中で、自分の置かれている立場を十分に理解して、残された能力を活かしながら、精一杯生きてるのを見ていると、こちらが元気をもらいます。
抱えている障害は、生活していく上で大きな支障となり、健常者にはわからない大きな苦痛となっていると思います。
中には、障害が重度で、食事をするのも、ベットで寝返りをするのも、着替えるのも介助が必要で、常に人の手を借りなければ、生きていけない人もいます。
ベッドに横たわったまま、身体を動かすことも、話すこともできず、一生を終えるであろう人を見て、以前の私でしたら、かわいそうにと同情したり、生まれてきた意味があったのだろうかと思ったことでしょう。
しかし、霊的真理を知った今は、肉体で魂の表現がほとんどできないという、最も過酷とも思われる試練は、大切なこと(摂理)を学び魂の向上をさせるために、その人に必要だったのかもしれない、あるいは前世での罪の償いを今、果たしているのかもしれないと、考えるようになりました。
どちらにしても、その人の魂の向上にとって不可欠なものであり、目的があって不自由な身体を選んでこの世に生まれてきたことになります。
一人では生きていけないこと、人に助けてもらうことを通して、愛がもっとも最も大切であることを、心身の障害を通して学んでいるのかもしれません。
もしかしたら、全人生をかけての苦難に耐えられるほど、すでに魂が向上している人であり、さらなる向上を得るためなのかもしれませんので、安易な同情は慎まなければいけないと感じています。
すべてのことに無駄はなく、意味を持っている、と言われても、この世では目に映るもの、耳に聞こえるものが、すべてに思えてしまうため、目に見えない霊的法則が働いていることは、どうしても分かりにくくなってしまいます。
高い次元から見ると、すべてのことは神の法則である因果律に従っていて、その叡智により計算しつくされた上で、絶妙の時期に、かかわる人すべての魂の向上のために、最適な形で出来事が生じていることが、手に取るように分かるため、シルバーバーチは神の完璧な叡智には驚嘆させられる、と言っているのかもしれません。
私を含めて、魂を表現をする自由を与えられた人は、存分に愛を表現していくべきであり、この世ではそのための手段として肉体が与えられたのだと思います。
参考ページ: 「早世した子供たち」
2013年12月25日水曜日
生きることは愛すること
私には伝えたいことがあります。
それは「シルバーバーチの霊訓」という本の存在であり、その中に書かれている数多くの真理です。
私にとって当たり前になってしまいましたが、苦難を経験して、魂に受け入れる準備ができた人にとって、その出会いは人生に一大革命をもたらします。
こうしてブログを書いているのも、霊的真理を受け入れる時期が来た人が、最短で「シルバーバーチの霊訓」にたどり着いて欲しいためであり、時期はまだでも、苦しみの最中にある人にとって、霊的真理が大きな安息となると考えているからです。
数ある中でも、「生命は霊(魂)」ということ、「霊(魂)は神の一部」であるということ、そして「神は愛」、という真理は、きわめて重要と考えています。
「死」については、実際に死んでみないと分からないと考えていましたが、幸いにして明白なものとなり、心の安らぎが得られました。
死は生の一部であり、存在がなくなってしまうことではありません。
存在の本質である生命は魂であり、表現するものが肉体です。
死とは、表現する媒体が変わるということです。
次の世界では、肉体はなくなるため、自由に魂の表現ができるようになります。
客観的なことを言葉で表現することは比較的簡単ですが、心で想ったことは主観的であり、表現するのはとても難しいです。
つい先日、まだ薄暗い空に、朝日を浴びて光り輝いたピンク色(ルノワールの肌色?)のひつじ雲を見ました。
見て感じたことを言葉に表すと、「美しい」とか「きれい」ということになりますが、それでは表し足りません。
美しいという言葉は、あまりにも大まかで広すぎるのです。
また、ある人が美しいと感じるものでも、別の人にはそう感じていないこともあります。
赤色という言葉から思い浮かべるのを、ある人はトマトの赤だったり、ある人は赤鉛筆の赤かもしれません。
と言うように、言葉で自分の思いのすべてを、正確に他の人に伝えるのは無理です。
次の世界は肉体のない世界です。
自分の想いのすべては、言葉ではなく思念として正確に伝えることができます。
もどかしく、わずらわしい言語という記号は必要ありません。
今までの経験から私は、次の世界では魂で感じたことはバイブレーションとして伝わり、バイブレーションを受け取った相手の魂は同じ感覚となるため、想いを共有できる、と思っています。
音叉と同じく、同じ波長となり魂が共鳴し合うと言うことです。
次の世界では、食事の心配をすることもありません。
養う肉体がないのですから、食べる必要がないわけです。
お金の心配をすることもありません。
服を買ったり、家を買ったりすることはなく、もし欲しければ直ちに具現化しますので、買い求める必要がないからです。
信じられないかもしれませんが、夢みたいな世界が、次に待っています。
もし、次の世界が、そんなにすばらしい世界であるならば、なぜ、この世が存在し、今、生きているのかと思うかもしれません。
生きるためには、お金が必要です。そのためには働かなければいけません。
嫌いな人と会って、話をしなければいけないこともあります。
さらに戦争が世界各地で今も起こっていて、人が人を傷つけています。
苦労をしたり、苦痛を味わったり、見たくないものを見たり、聞きたくもないことを聞いたり、望むことばかりではありません。
この世界が次の世界と大きく違うのは、両極性の世界であると言うことです。
「シルバーバーチの霊訓」に詳しく書いてありますが、愛と喜びに対して憎しみと悲しみ、平和と調和に対して戦争と混沌、すべて対になっているのが、この世です。
もし「神は愛」というならば、神の創った世界に戦争など起こるはずがない、と考えてもいいはずです。
戦争は摂理に背いた考えや行為により引き起こされ、国土は破壊され、人は傷つくことになります。
そして悲惨な光景を目の当たりにし、苦痛を感じながら、愚かさに気付き、平和の大切さを知ることになります。
戦争は他者(国)を愛する気持ちがあれば起こりません。
平和のために「愛」が必要不可欠なことを知ります。
大切なこと(摂理)をより際立たせ、気付かせるために、両極性であるこの世を、神が用意したのです。
生きるということは、魂を向上させる道を進んで行くことです。
霊性を高め、神に向かって1歩1歩近づいていく道です。
この世では魂の表現を肉体で行います。
肉体は生存するために、いろいろな要求をしてきます。
食べたい、寝たい、休みたいなど、動物的、本能的な要求です。
もし、肉体がすべてであれば、自己の生存のみを追い求める、殺伐とした世界となるはずです。
しかし、この世はそのような世界にはなっていません。そして誰も望んではいません。
それは、「生命は魂」であり「魂は神の一部」であるため、人は神の愛を表現しようとするからです。
人のために何かをしたい、社会のために奉仕をしたいという欲求は、生まれた後に身に付けるのではなく、もともと魂に内在する欲求であり、神の愛を表現しようとするものです。
しかし、愛を表現するためには、常に自己(肉体)の要求に打ち勝たなければならず、自己犠牲が必要となるため、魂の強さが求められます。
肉体など初めからなければ、愛を存分に表現できるのではないかと思われますが、魂が肉体という重いよろいをまとっているのは、負荷がかかり苦しむ中で、魂は鍛えられ、強くなっていくからです。
アウシュビッツの強制収容所では、1日の食べ物はパン1切れだったそうです。
そのため収容されたすべての人が、ひどく飢えていたと思われます。
そんな中で、その貴重な1切れのパンを子供に渡した人がいたそうです。
自己(肉体)の要求に打ち克ち、この世で最高の愛を表現していると思いました。
そこまでできなくても、会社帰りで疲れていても、目の前にお年寄りがいたら席を譲る人はいます。
休みの日に被災地に赴き、困っている人のためにボランティアをする人もいます。
それぞれが自己への要求を犠牲にして、人のため、社会のために行動しています。
この世を生きているうちに、そんなことがいく度となく繰り返され、たとえ1つ1つの想いや行いは小さくても、積み重なれば大きなものとなり、より高い愛、より強い愛を表現できるようになっていくのではないでしょうか。
もし人生が喜びばかりであったならば、大切なことを学ぶことは出来ません。
災難とも思える、悲しみや苦しみの経験を通して、最も大切なのは愛であることに気付くとともに、魂が向上していきます。
そして苦痛を味わっている人に対して、愛を表現することができるようになります。
「生命が魂」であり、「魂は神の一部」ということから、「生命は神のもの」ということになります。
そして「神は愛」ということをつなげていくと、「生きることは、愛すること」ということになります。
2013年12月20日金曜日
心のしこり
世の中で起こることすべてに、原因があります。
私が、保険医の取り消しという処分を受けたのも、不正な行為をしたという明確な原因がありました。
交通事故でも、スピードの出しすぎ、注意力の散漫、あるいは寝不足など、何らかの原因が存在して起こります。
最近、春や秋が短くなってきたのを感じていますが、これも地球温暖化の現れと考えられ、人間が出すCO2が原因と推察されます。
一見、偶発的、突発的と思われる事象にも、必ず原因が存在します。
病気も、何らかの原因があって生じたのは間違いのないことです。
一見、関係のないこと事象が原因となって、結果として表に現れてくることがあります。
ある女性に虫歯ができて、私の歯科医院を訪れたとします。
虫歯を削って取り、そこに樹脂を詰めて治療が終わります。
しばらくして別の歯に虫歯ができて、痛くなりまた来ます。
再び治療をします。
また別の歯に虫歯ができて来ます。
これは普通ではないと考えて、患者さんに「最近、甘いものをたくさん食べていませんか?」と尋ねます。
すると「食事はあまり食べないで、お菓子ばっかり食べています。」と答が返ってきます。
「一体、どうしたのですか?」と聞くと、「実は、付き合っていた彼と別れてしまい、紛らすために甘いものばかりを食べていました。」と答えたとします。
虫歯の原因が失恋のせいだとは、本人も意識していません。
今後、虫歯にならないために、歯ブラシを良くすることも大切ですが、失恋による「さみしさ」が原因となっていることに気付き、甘いものを食べて「さみしさ」を紛らすことをやめなければいけません。
原因がはっきりしていると思われる虫歯でさえ、このように見えない隠された原因があります。
ガンという病気はどうでしょう。
医学的に遺伝的素因、環境的素因が原因と言われていますが、解明が進まず、依然として不明なことが多いことは事実です。
不明なことの中には、現代医学で認めてられていない、心や魂に関わる原因が関係していると考えられます。
人は生きていると、さまざまな出来事ことを経験します。
うれしいことばかりであればいいのですが、悲しいこと、つらいことも、たくさんあります。
悲しいことが起こると、人は涙を流します。
涙は悲しいことを早く忘れるために、神が与えてくれたものなのかもしれませんが、いくら涙を流しても、起こってしまった悲しい事実を消すことはできません。
その悲しみが心を大きく支配してくると、何も考えられず、何も手につかない状態になってしまいます。
この世に生まれてきたのは、魂を向上させるためですから、何も手につかない状態のままでは、その目的を果たすことはできません。
悲しみの想いを持ち続けることにより、魂のありさまが変わっていき、それが肉体上に病気として顕れることになります。
そして、苦痛を通して過ちに気付き、本来の心を取り戻していくことになります。
病気は、大切なこと(摂理)に気付くためにある、神の摂理だと考えられます。
病気の原因を知るためには、過去にあった心を支配することになった、つらい出来事を振り返らなければいけません。
そして、向き合うことから始まると考えられます。
そのことは記憶としては忘れかけていても、魂にはしっかりと刻み込まれていて、心や肉体に影響を与え続けています。
身にふりかかった、つらい出来事を、誰かに話を聞いてもらったり、相談したりすると、その胸のうちにある感情が表に出てきて、意識することができたかもしれません。
しかし、誰にもわかってもらえなかったり、話すことができなかったりして、感情の持って行き場がどこにもなかったりすると、怒り、憎しみ、恨み、嫉妬などの摂理に背いた想いに心が支配され続けていたとしても、意識することは難しいと思われます。
人間は未熟ですから、その様な想いを持つことは避けられないのかもしれませんが、たまり続けていくと心に(摂理に背いた想いの)しこりができてしまいます。
徐々に大きくなった心のしこりは、魂にも影響を与えていくことになり、神の心である平和、協調、調和が、魂から失われていきます。
生まれてきた目的は、他者を愛すること、困難を乗り越えることで、魂を向上させることにあり、神の心を抱き、それを表せば向上しますが、摂理に背いた想いを抱いていては望めません。
ガンが肉体上に顕われたのは、苦痛を通じて大切なこと(摂理)を学び、魂が本来あるべき姿を取り戻していくためと思われます。
ガン患者さんの多くは、心のしこり(想い)が原因でガンになったと思っています。
ただ、検査で調べてわかるものではありませんし、それを証明する根拠はありません。
もし信じてもらえるのであれば、心のしこりを作ってしまった過去の出来事(原因)と、あらためて向き合って下さい。
心の傷であり、早く忘れてしまいたいことであり、決して簡単なことではありません。
しかし、病気を治すためには、心のしこりに閉じ込めれた想いを手放してしまうことが必要です。
手放すためには、その時はとてもできなかったこと、その出来事を許して、受け入れなければなりません。
許せなかった、受け入れられなかったから、心のしこりが生まれてしまいました。
そのためには「愛」が必要です。
しかし、病気により痛みや苦しみを経験し、魂が向上して、最も大切なのは「愛」だと気付かれたのならば、許すことも、すべてを受け入れることもできるはずです。
許し、そして受け入れれば、心のしこりはなくなり、魂が癒されて、肉体もそれに従い、病気が癒されていくことになるはずです。
2013年12月15日日曜日
内から湧き上がる思いに従う
6年前、仕事上の不正を公の場で追求されました。
その時は、まさに針のむしろでした。
過ちを行おうとした瞬間、「本当にいいのか?」と問いただす自分がいましたが、「大丈夫だ、みんなしていることだから」という考えに、それは打ち消されました。
シルバーバーチの言う、「良心」という神の監視装置(モニター)が働いたにもかかわらず、それを身勝手な理屈を付けて無視したのです。
心がとがめることを、してはいけないのです。
不正を追求されている期間は、今まで味わったことのない後悔の念、自責の念にさいなまれました。
自分がした過ちの1つ1つが、目の前に晒されていくのは、耐え難い苦痛です。
その1つ1つを担当者から「間違いありませんね」と繰り返し、問い質された時は、まるで神に裁きを受けているような気持ちになりました。
その問いに対する私が選択する答えは2通りありました。
1つはありのままを正直に話し、過ちを認めること。
もう1つは、仕事や生活を守るために、否認することでした。
過ちを認めるのは、人として当然のことですが、その先に待ち受けている現実を考えると身震いがしました。
しかし、「ありのまま、正直に」という内から湧き上がる思いに従い、「はい、間違いありません」と過ちを認める答えをしました。
限りなく暗い将来に進む方向でしたが、「乗り越えられない苦難はない」というシルバーバーチの言葉を信じて、迷いなく進んでいきました。
その結果、恐れていた最も重い行政処分が、私に下されることになりました。
人生最大の屈辱です。
その処分に伴い、多額の返還金の支払いと、歯科医業停止2ヶ月が課せられました。
何よりもつらかったのは、その記事が新聞に載り、多くの人達の知ることとなり、信用が失墜し、多くの患者さんが去って行ったことです。
「信用してたのに」と、面と向かって患者さんに言われた時の気持は、言葉にすることはできません。
しかし、出口の見えない重苦しい日々が長く続く中で、霊的真理が紛れも無い真実であると確信していくとともに、それを手にすることができた大きな喜びを感じていました。
人は生きていると、どちらかを選択しなければならない、重要な局面に出会います。
もし、内から湧き上がる思いが、望まない方、困難な方を指し示していても、後悔しないために素直に従った方が良いと思います。
もし感じなければ、より正直な方、より自然な方、より人のためになっている方を選択するのが賢明と思われます。
そちらの方が、摂理に適っていると考えられるからです。
万有引力の法則により、石を空に向けて投げても、必ず地面に落ちてくるように、神の摂理に背いたら、苦痛を経験して気付き、必ず従うことになります。
摂理に背いたことをして、何の反省も償いもすることもなく、この世を終えたとしても、次の世界で因果律は働き、罪を償うことになります。
人は死んでしばらくすると、この世に生まれてから死ぬまでに想ったこと、行ったことの一部始終を、自ら振り返ることになります。
この世での想いと行いのすべては、魂に刻み込まれていますので、それを1つ1つを検証していくことになります。
この世で償われなかった摂理に背いた行いも、魂に刻み込まれていますので、目の当たりにすることになり、そこで自らの過ちに気付き、後悔し、自責の念を持つことになります。
その過ちを償うために、相応の苦難の人生を自らが望み、もう1度この世に生まれくることもあります。
それとは反対に、摂理に適った行いは、たとえ人知れず、ささやかな行為であっても、世の中を良くし、人を元気にし、明るくし、幸せにしています。
そのことを知り、幸福感に包まれることになります。
私が不正を質されている時に、正直になれずうそをつき、罪を免れたとします。
ホッと胸をなでおろし、前と変わらぬ日常に戻っていったことでしょう。
時とともに、そんなことがあったことさえ忘れてしまうことでしょう。
そして、この世を去る日がきます。
私にも次の世でこの世のすべてを検証する時がきます。
その時、うそをつき苦難を逃れたことを、目の当たりにすることになります。
苦難を逃れたために、魂の向上が得られなかったこと、そして最も大切なものを掴み損ねたことを、深く後悔することになると思います。
正直者が馬鹿を見ることはありません。
内から湧き上がる想いは、そのことを知っている魂の声だったのかもしれません。
2013年12月12日木曜日
病気は必要だった
6年前、私は仕事で過ちを犯し、保険医取り消しという歯科医師として致命的ともいえる行政処分を受けました。
以前の私であれば、大して悪いこともしてないのに、何で自分だけがこんな処分を受けなければならないのかと思ったことでしょう。
しかし、すでに「シルバーバーチの霊訓」と出会っていましたので、過ちを犯したのは紛れもなく自分自身なのだから、罪を償うのは当たり前なことと素直に受け止めることができました。
そう思ったからと言っても、つらい現実から逃れることは出来ません。
人からの信頼をはじめ、多くのものも失いました。
この思ってもみなかった苦難から学んだことは、「摂理に背くと、因果律という神の摂理が寸分の狂いもなく働き、つらい経験をして償わなければならない」ということでした。
仏教で言う「因果応報」であり、キリスト教の「蒔きし種は自らが刈り取る」ということです。
よほど痛い思いをしない限り、鈍感な私には、わからなかったのかもしれません。
2度と経験したくない苦難を通して、それまで意識もしなかった、真の自分である魂が、硬い殻を突き破って表に出てきました。
何もなければ、自分が殻の中にいることすら気付かず、心の奥に押し込められたまま、じっとしていたことでしょう。
苦難があったからこそ、そこにじっとしているわけにもいかず、殻を突き破り、外に出てくることができました。
外の明るい世界を見てしまったので、もう暗い殻の中に戻りたくはありません。
真に、生き始めることができたのは、その時からです。
以前は、仕事で人より成功して、良い暮らしをしたいという願望が強かったのですが、家族で仲良く暮らしていければ十分満足と思えてきました。
当たり前のことに、ようやく気付くことができたと思っています。
何気ない日常に感謝の気持ちを持つことが多くなりました。
りんごを食べて感謝。
そこに家族がいて感謝。
犬がそばに来てくれて感謝。
朝日を見て生きていることに感謝。
青い空に浮かぶ雲が美しく感じられることに感謝。
ふとした瞬間、感謝の気持ちが高まり、涙が出てくることがあります。
それは愛されていることを、魂が実感しているからだと思います。
自分の幸せを追い求めて、あわただしく生きるのではなく、他者の幸せの中に、ささやかな歓びを見出しながら、穏やかに生きることにしました。
すべての苦難は、その人に大切なことに気付かせるために、必要なものです。
苦難は不幸なことではなく、大切なことに気付かないままでいることこそが、不幸です。
病気は、健康な時には意識もしなかった、「生命」と「愛」に目覚めさせるために必要なものです。
「生命」と「愛」の大切さに気付たということは、魂が目覚めて、今まさに殻を突き破って、外に出ようとしているところだと思います。
「生命」とは肉体ではなく「魂」であり、「愛」は「魂」を通して流れる神の心です。
人に親切にすると、心があたたかいもので満たされるのを感じるは、その行為を通して神の愛が流れていくのを、魂が感じるからです。
人に優しくされるとうれしくなるのは、優しくしてくれた人の魂を通して、神の愛が流れ込むからです。
魂は他者を愛することで、美しくなります。
魂は苦難を乗り越えることで強くなります。
この世に生まれてきたのは、魂を美しく、強くさせるためであり、それ以外にありません。
病気は、魂が殻を突き破るために必要だったのであり、外に出てしまえばもう必要はないはずです。
摂理に背いた罪は苦痛を通して償うことになりますが、苦痛により魂が目覚めたのであれば、今度は摂理に従い他者を愛することで償えるはずです。
生きていることに感謝し、その歓びを他の人にも分けてあげましょう。
大きなことはできなくてもいいです。
自分なりに、少しずつ、生きている歓びを込めてしましょう。
2013年12月8日日曜日
ガンの痛み
歯医者として仕事をしていると痛みを抱えてくる人は多くいます。
歯の神経が死んで急性の炎症を起こすと、あごまで大きく腫れてしまい、歯に少しでも振動が加わると激痛が走り、治療をすることが出来ないこともあります。
痛みのつらさは、体験している患者さんでなければ理解できません。
歯の痛みの場合は、神経の治療などをして抗生物質と鎮痛剤を処方すれば、解決することが多いのですが、ガンに伴う痛みはそういうわけにはいかず、患者さんを大変苦しませることになります。
ガンが広がり、神経を圧迫したり、骨や脳に転移などをすると、時として耐え難い痛みが襲うことがあると思われます。
近年、有用な鎮痛剤が開発されていますが、完全に痛みを取り去ることはできていません。
痛みは、身体に異常があること知らせる重要なシグナルですが、ガンによる行き過ぎた痛みは患者さんの生活の質を著しく低下させ、心を不穏にさせます。
局所のガンの痛み刺激は、末梢神経から中枢である脳に伝わり、精神により痛みとして表現されます。
楽しい、うれしい、悲しいなどの感情もみな精神、心の表現ですが、心を表現する感情は通常1つであり、うれしさと悲しさを同時に表すことは出来ません。
痛いとかつらいということも、一種の感情表現であり、激しい痛みを感じている時は、楽しいという気持ちには決してなれません。
一方、楽しいという気持ちに満たされていれば、痛みを感じなくなることもあるでしょう。
ガンの痛みを感じているよりも、楽しくうれしい気持ちでいた方が良いに決まっています。
できるだけ楽しい思いをして過ごし、痛みを感じにくくした方が賢明だと思いますが、毎日が楽しいことばかりであるわけがありません。
やらなければいけないことも、いやなこともたくさんあります。
ただ、不快に感じた瞬間にストレスとなり、ガンの痛みを呼び起こすことに繋がりかねませんから、たとえいやなことでも、しなければならないのであれば、気持よく前向きにした方が、病気のためには良いと思われます。
また、ささいなことに喜びを見出し、ありふれたことにも感謝することは大切であり、その気持ちはドーパミンという脳内ホルモンの分泌を促すことになります。
ドーパミンはガン患者さんにとってすばらしい作用があり、痛みを抑制するとともに、ガン細胞を攻撃するNK細胞の活性高めると言われています。
この様に、精神と肉体は相互に影響し合っています。
前にも書きましたが、精神は魂の表現媒体であり、魂のありさまは精神に顕れて、肉体に影響を与えます。
ガンは秩序のない無法者というべき組織ですが、自分の身体の一部であることには変わらず、魂の支配下にありますので、魂からの指令であれば従うはずです。
医学的にガンの原因は不明な点も多いのですが、私は平和、協調、調和を乱した魂のありさまがガンとして肉体に顕れ、そのことを自覚させ、罪を償うための摂理として、痛みがあると考えています。
したがって、肉体上のガンを鎮めていくために最も有効な手段は、平和で穏やかな心を保ち、取り巻くすべてに感謝し、愛することだと思います。
平和で穏やかな心により、ガンの増殖が止まり、愛する心により、存在自体が脅かされると考えています。
もし、ガンという病気を憎み、敵対して闘おうとすると、穏やかな心や、愛する心が保てなくるため、ガンは活性化し、増殖を始めるのではないかと思われます。
ガンという病気も意味があってなったのですから、否定するのではなく、例えば「あなたには本当に大変な思いをさせられているけど、お陰で大切なことにも気付くことができた」と存在を認めてみるのは、おかしなことでしょうか。
また、強い恐怖心を持ったり、必要以上に不安になったりすると、生命力である治癒(免疫)力が低下し、ガンの増殖を許してしまうと考えています。
患者さんが強い痛みを感じる時は、ガンが活性化して増殖している時だと思われますので、怖れや不安な心を拭い去り、平和で穏やかな心を保ち、愛に満ちた時を過ごすことが、何より大切だと思います。
もし、痛みやつらさに挫けそうな時は、「全ては私の魂の向上ためにある。耐えられない痛みは決して与えられない」と強く自分に言い聞かせて下さい。
それは真実ですから。
ガンが増殖するか、鎮静化するか、あるいは縮小するかは、ガンと治癒力とのせめぎあいの中で決まります。
繰り返しますが、恐怖心や不安感を克服し、穏やかで平和な心を保ち、愛に満ちた時を過ごすことにより治癒力が最高に高まり、ガンの進行と痛みを押さえ込むことにつながると考えています。
愛する人、親しい人、気にかけて来てくれる人と、楽しく語り、笑い、喜び合い、励まし合う、そんな時を過ごすことは、どんな抗ガン剤、鎮痛剤よりも効果があるのではないでしょうか。
2013年12月5日木曜日
何で生きているのか
20代前半の私を悩ませていたのは「何で生きてるのか」ということでした。
いくら考えても答えは見つかりません。
目標に向かって一生懸命に生きている人や、ひたむきに何かに打ち込んでいる人は、力強く、輝いて見えて、うらやましく思えました。
大学を卒業して歯科医師になった時も、恥ずかしながら人のため、社会のために貢献するぞ、という強い意気込みがあったわけではありません。
「何で生きているのか」という悩みは、あわただしく過ぎる日々の中で、置き去りにされていきました。
それから結婚して、故郷に戻り、仕事や家庭のことに追われながら、20年近くの時が過ぎました。
44歳となった時に、治癒力の出現と、仕事上の深刻な問題が立て続けに起こりました。
まもなくして、「シルバーバーチの霊訓」に出会い、霊的真理を受け入れることになります。
そして「何で生きているのか」という、若き日からの悩みに終止符が打たれることになります。
52年前、私はこの世に生まれました。
その時にできたことは、自分の要求を知らせるために、泣き叫ぶことだけだったと思います。
泣き叫ぶ私に、両親はその要求を満たすべく、昼夜を問わず無償の奉仕を私にしてくれたと思います。
数年後、幼稚園に入り同じ年の子供と時を過ごすことになります。
相変わらずわがままなことばかりを言っていたと思いますが、その中で他の子供たちと仲良く遊んだり、時にけんかをしたりして、自分以外の存在を意識していくことになります。
小学校に入学しますが、幼いと言えどもすでに一人ひとりに個性があります。
泣き虫な子、よく笑う子、怒りっぽい子、先生の言うことを素直に聞く子、聞かない子、勉強が好きな子、嫌いな子など誰一人として自分と同じではありません。
性格や考え方の違う子に囲まれながら、お互いに違いを認めていきます。
学年が上に行くに従い、近くに集まる仲間が出来始めていきました。
時々、仲間から反発を買い、孤独を味わったりもしましたが、それは決まって、うそをついたのがばれた時、周囲を無視し、わがままを言った時でした。
仲間はずれになりたくないので、反省し同じことをしなくなった様に思います。
中学、高校では他者とぶつかり合い、競い合う中で個性が磨かれていったと思います。
大人になり社会人になると、多くの時間を患者さんのために費やし、1人前の歯科医師となるために努力しなければなりませんでした。
過去から現在の振り返ると、あらためて摂理のもとに生きていることを、実感します。
子供の時、わがままばかり言ったり、自分のことしか考えていないと、たとえ子供といえども摂理が働き、友達に嫌われ、一人ぼっちにされます。
その苦痛を味わうことで、他者のことも考え、仲間との協調が必要なことを学んでいったと思います。
大人になり仕事に就きましたが、働くということは、自分の感情を抑え、他者のために奉仕することに他なりません。
働くことを通して、シルバーバーチが繰り返し言っている「人のために自分を役に立てる」ことを少しずつ実現していくとともに、その大切さを学んでいったと思います。
また、「役に立つ喜び」も患者さんの喜ぶ顔を見て実感していくことになります。
そして、機が熟して結婚をしましたが、独身の時と違い、仕事が終わった後も自分以外の人(配偶者)のことを考え、大事にしなければいけません。
さらに子供が生まれると、自分の楽しみよりも子育てを優先しなければならず、家族を中心に物事を考える様になってきました。
ありふれた人生のイベントは、自分から他者に意識を向かわせ、他者のために奉仕していく方向に進ませるためにあったと思います。
過去に数々の過ちを犯し、その度に痛い思いをしながら、知らず知らずのうちに、神の摂理を学んできたと思います。
人生のあらゆることが、摂理の支配下にあり、摂理を信じる信じないかにおかまいなく、それに沿って人生が展開してきたと思います。
「何で生きているのか」という私の答えは「人のために生きている」ということであり、これからも変わることはないだろうと考えています。
2013年12月1日日曜日
死について
命にかかわる病気になってしまった人に、伝えたいことがあります。
余命を告げられた人も、最後まで見ていただければ幸いです。
私は幸いにして健康であり、深刻な病気を経験したわけではありません。
病気のつらさや痛み、怖れや不安は経験した人でなければわからないことなので、安易な同情の気持ちで書く気はありません。
病気に怯えている人、死の恐怖と闘っている人に、真実を知ってもらうことにより、少しでも心が安らぎ、穏やかになってもらいたいと願っています。
病気の人を、恐怖に陥れる元凶は「死」です。
10年前の私は、死は生の終局だと考えていました。
時折、メディアを通じて死後の世界のことを語る人を見ましたが、それは脳が作り出した空想もしくは幻影の世界であると思っていました。
死後の世界が存在することを、証明できるものは何ひとつなく、体験者の主観的なものだったからです。
世界各地のことを知りたければ、現地に行った人から直接話を聞いたり、書籍、インターネット等で調べて多くの情報を得ることができます。
しかし死んだ後の世界について容易に知ることは出来ません。
たとえ知識を入手できたとしても、それが正しいかどうかを検証することは不可能です。
宗教においても死後の世界を説いてますが、キリスト教は天国と地獄、仏教では極楽と地獄というように統一されたものではないため、どれが正しいのかわからなくなってしまいます。
宗教や文化や地域によって違うため、どうしても普遍的なものではないと感じてしまいます。
そんな分からないことを考えても仕方がないと、思っている人もきっと多いのではないでしょうか。
もし、死後の世界が存在しないとすれば、死がもたらすものは「無」です。
生命は肉体の死とともに終わります。
一方、死後の世界が存在するのであれば、生命は肉体の死の後も存在し続けるということになります。
死がもたらすものは「肉体からの解放」であり、肉体を超越した何らかの存在を認めなくてはいけません。
多くの人はそれを魂(霊)と呼びます。
2つに1つであり、どちらかが真実です。
人間の身体は様々な組織から成り立つ、精密な機械と言って良いと思います。
機械は指示をしなければ動かすことはできません。
身体を動かしているのは脳からの命令ということになりますが、脳は自動的に命令を出しているのではありません。
すべての命令を出しているのは精神です。
精神が、脳という器官を通じて命令を出し、身体を動かしています。
精神を大脳の働きとして説明しようとすれば、電気的、化学的反応により作り出された実体のない幻影ということになります。
本当に精神とは実体のない幻影なのでしょうか。
そうではなく、五感で認識することのできない非物質的次元のものと考えることに無理があるのでしょうか。
精神は、様々な感情を表現します。
もし、脳が電気的、化学的反応を繰り返す機械ということであれば、満開の桜を見て美しいと感じることもないでしょう。
ニコッと微笑んだ赤ちゃんを見て、かわいいと感じることはないでしょう。
愛する人を喪って、涙を流すこともないでしょう。
脳という機械に、そんな感情が入り込む理由は見つかりません。
魂が感じとって、精神(心)を動かしています。
例えて言えば、魂という譜面に曲が書かれていき、精神(心)は曲を表現する楽器です。
曲がなければ楽器の存在意味はなくなり、楽器がなければ曲を奏でることはできません。
精神(心)は魂の表現媒体なのです。
目に見えない精神(心)の存在を認めながら、魂の存在を否定するのは不合理だと思います。
死の正確な知識を最も必要としているのは、愛する人を亡くされて深い悲しみに沈まれている人たちであり、病気を患い死の恐怖と闘っている人たちです。
何回でも、その人たちに伝えます。
人は死んで無になるのではなく、心、意識は存在し続けます。
生命とは、肉体を超えた魂です。
肉体は死んでも、この世に残した愛する人に寄り添い、見守ることができます。
そして、亡くなった愛する人と、肉体の死後すぐに再会することができます。
しばらくして、この世に遺した愛する人を、出迎えることになります。
愛するもの同士に、永続的な別れがないことは、紛れもない事実です。
信じられなくても、いずれ現実のものとなります。
死が訪れるのは多少の遅い早いがありますが、誰も避けられない自然の摂理であり、悲しむべきことではありません。
この世は、様々な経験を通して大切なことを学ぶためにある、いわば学校であり、死は卒業を意味します。
卒業後には、この世で学んだことを活かすことのできる、すばらしい世界が待ち受けています。
死に対する無知は恐怖を生み出し、正しい知識は恐怖を打ち消します。
限られた人だけが知っているのは、あまりに不公平です。
(肉体の)死の後にも生があります。そのことを前提に生きて下さい。
死の悲しみや恐怖から、心が解放されることにより、今、本当にするべきことが見えてきます。
この世も次の世も、愛が最も大切であるのことに変わりはありません。
悔いの残らぬように、この世で愛を存分に表現しましょう。
美しい曲を奏でていきましょう。
2013年11月14日木曜日
ガンを愛する
少年の時、私も宇宙飛行士になりたいと思っていました。
宇宙空間から地球を眺めたかったからです。
スペースシャトルに搭乗した宇宙飛行士の方も、きっと皆そうだと思います。
船窓から地球を眺めて国境線がどこにも見えないことに感慨を覚えるそうです。
地球は限りなく美しい1つの生命体だと言われた方もいます。
地球には多種多様の生物がいて、周りの環境に調和して生きています。
人にはそれぞれ住む国があり、文化や宗教も様々です。肌の色や顔つきも違いますが、広大な宇宙から見れば大した差ではありません。
同じ仲間です。
しかし、地上では争いが絶えることがありません。
お互いを認め合わず、敵対し、さらに好戦的な組織が次々と生まれていきます。
組織を構成している個々の人間は、初めから敵意を抱いていたのではなく、過去に侮辱を受けたり、家族や友人を傷つけられたり殺されたりして、怒りや憎しみの気持ちが生まれて、銃を手にしたのかもしれません。
いかに過激な組織であっても、彼らは彼らなりの理由があります。
9.11テロは赦しがたい非人道的な行為です。
米国は首謀した組織を壊滅させるべく、中東の国々に侵攻して、圧倒的な武力により鎮圧させようとしました。
結果はどうでしょう。
平和は生まれず、混迷が深まるばかりです。
原因は組織ではなく、怒りや恨みそして憎しみにあるからです。
組織を消滅させても、あらたな憎しみを生み出すだけであり、争いが治まることはありません。
力ずくで問題を解決しようとすると一旦は静かになりますが、根本的な原因は依然としてそのままであり、さらに大きな争いが起きることになります。
お互いを認めあい、同じ人間という同胞精神のもと憎しみや怖れを抱かなくなれば、傷つけあうことはなくなるでしょう。
相手と共に生きようとする気持ちを持つことが、平和への第一歩だと考えられます。
話は変わりますが、からだの中にも様々な組織があり、それぞれが欠かすことの出来ない存在として調和して働き、肉体を維持しています。
組織の細胞は絶えず新生していますが、時に細胞分裂が正常に行われず、ガン細胞を造り出してしまいます。
免疫システムの監視をくぐり抜けたガン細胞は増殖を続け病気として発症し、多くの人は恐怖を感じ、それを異端な組織として手術をして肉体から取り除こうとします。
取り除けば肉体上の健康を取り戻しますが、しばらくの期間を経て再発してしまうことがあります。
残された治療法として、抗ガン剤の投与が開始され、終わりのないガン細胞との徹底抗戦が始まります。
敵であるガン細胞は、薬の攻撃を受け撤退していきますが、味方である正常細胞も大きなダメージを受け、強い副作用として現れます。
薬という援軍により、劣勢に回ったかに見えたガン細胞は、耐性という戦略をとり、失地を回復していきます。
より強くなったガン細胞を攻撃するために、さらに強い薬がを投入されることになりますが、強い薬ほど副作用も強くなるのが一般的です。
薬によりガンは強力になっていくのに対し、身体は副作用により徐々に衰弱していきます。
そんな戦争みたいなことが繰り返されていくうちに、身体は傷つき、消耗して力尽きていきます。
そして両者が負ける引き分けとなります。
戦争が生み出すものは、平和ではなく憎しみであり、新たな戦争です。
神の摂理である因果律が働いて、そうならざるを得ないのです。
ガンという病気も、同じに思えてなりません。
薬でガンを攻撃すれば因果律が働き、結果として強く攻撃性を増したガン細胞が生まれてくると考えられます。
根本的な原因は肉体次元ではなく霊的次元にあり、平和、協調、調和を欠いた魂が肉体上に顕れたものがガンであると考えられるからです。
もし、魂が平和、協調、調和を取り戻したなら、肉体のガンも鎮まっていくはずです。
戦争も人々が平和、協調、調和の心を取り戻したのなら、治まってくるでしょう。
すべてを解決することができるのは、「愛」しかありません。
遠い昔、ユダヤの地で「汝の敵を愛せよ」と言った人がいました。
実に難しいことですがそれしかありません。
できたのならすべてが好転します。
ガンは、自らの原因で作り出した、自らの体の一部です。
敵対して攻撃するのではなく、自らの一部として受け入れ、共に生きていこうとし、愛の心でガンさえも包み込むことができたなら、因果律の結果としてガンの存在理由はなくなり、身体に平和が訪れるのかもしれません。
参考ページ: 「ガンは愛により癒される」
2013年11月13日水曜日
ガンの治療について
以前に、「抗ガン剤と自然治癒力」というタイトルでブログを書きましたが、いろいろなことが整理されつつありますので、改めて書きたいと思います。
個人的な意見として、ご覧下さい。
ガンという病気には様々な治療法がありますが、手術をして根治を目指す患者さんがほとんどだと思います。
しかし、手術によりガン組織が、体から取り除かれたかに見えても、ガン細胞は体のどこかで生き残り、年月を経てまた姿を現すことがあります。
人は肉体、精神、霊から成り立っているため、病気には肉体的、精神的、霊的次元での原因があります。
外傷などは、物理的な侵襲が体に加わり起こるので、原因は肉体的次元のものです。
精神(心)的次元に原因がある病気として、胃潰瘍があり、強いストレスを感じることにより、肉体に変化(病変)を起こします。
現代医学により原因が解明されていない多くの病気は、霊的次元で原因が存在すると推察されます。
ガンは、平和、協調、調和を欠いた魂のありさまが、病気として肉体に顕れたものと考えています。
神の御心は愛であり、平和、協調、調和の心も愛から生まれます。
それらを欠くことをは、摂理に背いたことになり、病気などを通し相応の苦痛を経験することになります。
ガンという苦難を通して、生命や愛の大切さに気付けば、心は平和、協調、調和を取り戻し、生き方も摂理に適ったものに変わっていくと思われます。
つらく苦しい経験であっても、魂のありさまが変わり、摂理に適った生活をし始めることができたなら、ガンという病気になったことに重大な意味があったことになります。
しかし、病気になったのは運が悪かっただけ、取り去ってしまえばお終いと思ってしまうと、大切なことに気付くことはありません。
手術で肉体上の病気はなくなったように見えても、霊的次元での原因は存在し続け、肉体上に再び顕れることもあるでしょう。
再発はガン患者さんにとっ、て最も避けたかった事態です。
その心境は経験したものでなければ、とても分からないと思います。
この過酷で深甚な経験は、魂にまで響くことになり、生命というものを強く意識させるとともに、愛こそがもっとも大切だと気付かせることになります。
これらすべてのことは、内在する魂を目覚めさせるためにある、神の摂理です。
ただ、患者さんには家族があり、仕事があり、その先の人生がありますので、何とか生きていたいと強く願うのは当たり前のことです。
そんな時に、医者から提示されるのが抗ガン剤治療であり、少しでも良くなって欲しいという思いから受け入れます。
周知のことですが、抗ガン剤はガン細胞の増殖を抑制すると同時に、数々の副作用があり、患者さんを容赦なく苦しめることになります。
病気の苦痛は神が創った摂理であり、大切ものに気付き、魂を目覚めさせるという大きな意味を持ちます。
しかし、副作用の苦しみは人間が作った薬から生み出されるものであり、病気の苦痛とは違い何ら意味を持たないと考えています。
そればかりか、大切なものに気付く機会を奪い、愛する者とすばらしい時を過ごす大きな妨げになっていると思われます。
全く不必要な苦痛であり、貴重な時間が奪われていると思えてなりません。
また、薬を研究開発のため、罪のない動物たちを実験材料にしていることも、摂理に大きく背いた行為です。
そして、抗ガン剤には、骨髄機能の抑制という大きな副作用があります。
骨髄は血液を造り出し、その中にガンなどの異物を排除してくれる免疫細胞が含まれます。
免疫細胞が少なくなれば免疫機能は低下します。
つまり、抗ガン剤はガン細胞の増殖を一時的に抑えることになりますが、免疫機能を低下させることにもなります。
例えて言えば、皿の汚れをガン、洗剤は抗ガン剤、そして流水は治癒(免疫)力とすると、水道の蛇口を絞ってしまう様なものです。
洗剤をいくら使って皿から汚れを排除したとしても、流水が少なくなってしまえば皿から汚れは流れ落ちず、きれいになりません。
神が創った免疫システムの働きを、人間が作った薬により抑制されてしまうことが許されるのでしょうか。
再発したガン組織はある程度の大きさになっていて、全身に転移していることもありますので、免疫力ですべて消滅させることは難しいのかもしれません。
しかし、神から与えられた免疫という治癒力を十分に発揮することができたなら、進行を遅らせたり、止めたりすることは十分可能だと思います。
治癒力を最大限に発揮させるには、心を穏やかに生活して、病気は必ず治るという強い信念を持つことだと思います。
すべてのものを慈しみ愛する気持ちも大切です。
つらい抗ガン剤の副作用により、心が不穏になり、信念が揺らいでしまって、治癒(免疫)力が低下することが何より心配です。
参考ページ: 「ガン(癌)は怖くない!」
「ガンの自然治癒」
「ガンは愛により癒される」
「ガンは魂のかさぶた」
2013年11月9日土曜日
ガンとは何なのか
子供の頃、ガンは怖い病気だけど、大人になる頃には医学が進歩して治療方法が見つかり、死んでしまうことはなくなっているだろうと漠然と考えていました。
大人になった今でも、残念ながら決定的な治療法は見つかっておらず、死因のトップはガンです。
近年の検査器機の進歩は目覚しく、より早期の発見が可能となり、手術方法も日々改良され、抗がん剤などの薬も多数開発されています。
それにもかかわらず、ここ数十年、ガンの死亡率に大きな変化は見られません。
また、ガンを発生させるリスク因子の究明も進み、発がん物質の使用を規制したり、個人においても健康志向の高まりとともに、禁煙する人や食事内容に気を遣う人が増えてきています。
ガンを予防する知識の普及にもかかわらず、ガンの罹患率は減少するどころか増加傾向にあります。これはどう解釈すればいいのでしょう。
結核などの細菌感染症で亡くなる方は、抗生物質の発見により激減しました。
原因は細菌という顕微鏡により目で確認できるものであり、それを消滅させれば治癒となります。
細菌感染症と同様に、ガンも手術により身体から取り除き、残っているガン細胞を抗がん剤で死滅させるという考えに則って治療は行われていますが、実際には日本で約30万人もの方がこの病気で亡くなっています。
ガンという病気は、そんな単純なものではないのかもしれません。
ガンの発生は、遺伝的要因や環境的要因など複数の因子が関係してると言われ、免疫力もガンの発症に強く関わっていると考えられます。
最近の研究で、強いストレスを感じるとNK細胞(免疫)の活性が低下することが分かっています。
NK細胞はウィルスやガン細胞を探知して攻撃する細胞ですから、ストレスによりNK細胞の活性が低下すれば、ガンが発生しやすくなると考えられます。
ストレスを感じているのは心ですから、心とガンは密接な関係があることは明白で、ガンの罹患率が年々増加してきているのは、ストレスを強く感じさせる世の中になってきているためと考えてもおかしくはありません。
経験的に、多くのストレスは人間関係や過労から生まれると思います。
そして、余裕のない社会や個人の心が、多くの人の心に新たなストレスを、次々と生み出していきます。
社会がゆとりを失い、気持ちに余裕がなくなると、他者のことまで考えなくなりがちです。
どうしても自分優先となり利己的になっていきます。
利己的な心は神の心である「愛」と対極にあり、摂理に反するものとなります。
摂理に反した利己的な考えを国が持てば、他国との友好が崩れ、戦争となるかもしれません。
個人が持てば、他者との協調は失われ、孤独になったり、時として病気を経験することになるかもしれません。
ガン細胞の発生は、細胞分裂時の遺伝子の複製ミスにより、起こると言われていますが、細胞分裂は自然の摂理により営まれています。
人がすることにはミスがありますが、摂理を創造した神がミスを起こしているとは考えられません。
1つ1つの細胞は、肉体の上位にある魂の支配下にあり、常に影響を受けていると思います。
利己的な心により平和、協調、調和を欠いてしまった魂が、細胞分裂という動的できわめて繊細な営みに影響を与えて複製ミスが起こり、平和、協調、調和を欠いたガン細胞を生じさせてしまっているのかもしれません。
複製ミスを起こすこと自体も、摂理の1つだと思います。
たとえガン細胞が生じたとしても、自然治癒力として与えられている免疫システムにより感知され、死滅させられるはずですが、不安や心配、恐怖などの心を持ち続けると、治癒力が十分に働かずガン細胞の増殖を許すことになり、病気として発症することになります。
つまり、ガンという病気の発生、発症すべてに神の摂理が働いていて、霊的な原因は摂理に背いた心ということになります。
原因がわかれば対応は見えてきます。
摂理に適うように、他者を慈しみ愛する想いを持ち、表現しましょう。
生きていることに感謝して、心を穏やかにして過ごしましょう。
自分が作った病気なら、自分が病気を治すことも可能なはずです。
末期ガンというのは人が考えた概念です。
そんなものは存在しません。
ガンも自分の肉体の一部であり、魂の支配下にあります。
あなたの魂はすべてを乗り越えていく力を秘めています。
従って病気は治ります。
2013年11月3日日曜日
病気の癒やし
ヒーリングについては、わからないことだらけです。
直接、触れて行なうこともあれば、遠く離れた場所にいる患者を思い描き治癒力を送ることもあります。
どちらも同等の効果があると言われており、私の経験からもそうだと思います。
ラジオの電波は、距離が遠くなったり、山が立ちはだかったりすると、受信しにくくなりますが、治癒力は距離や地形的な制約を全く受けないことからも、地上的(物理的)なものではないことが分かります。
しかも、一面識もない方であっても、正確に力は届きます。
ヒーラー側からの思念により患者との間にリンクが出来るということですが、リンクが出来たという実感はありません。
私がヒーリングの時にすることと言えば、穏やかな気持ちを保ちながら病気が癒されていくイメージを思い描き、あとは委ねるだけです。
しばらくすると、左腕から指先に向かってしびれが伝わっていく感覚が、次第に強くなっていき、どこかに向かって放散していきます。
会ったこともない方に力が届けられること自体、私の理解を超えていますから、今回はうまくいくのだろうかと気になります。
後で、ヒーリングしている時の様子を聞かせてもらうことにしていますが、多くの人が眠気を感じてうとうとしたり、患部がぴりぴりしたり、体が暖かくなるのを感じたりする様です。
痛みなどの症状がその場で改善していたり、あるいは症状の改善があったことを教えてもらうと、今回もうまく力が届けられたと安堵し、うれしくなります。
ただ、病気がどの様なメカニズムで癒やされるのか、私には分かりません。
シルバーバーチの霊訓の中に書かれているところがありますが、言語で説明しにくいことだけは確かな様です。
また、霊訓の中で病気について度々述べられていますが、その中に(患者自身で)「治せない病気はない」と言っているのが特に心に残ります。
肉体を支配している魂が、病気を追い出すよう命じればできるということなのです。
医学では魂(霊)の存在を否定してるので、ナンセンスなことと一蹴されてしまうでしょうが、魂をはっきりと自覚した上で、相応の段階まで進化していればきっと可能なのでしょう。
魂を表現しているのが肉体であれば、魂の不健全さは時として肉体に病気として顕れます。
熱心なキリスト教信者の肉体に現れる聖痕(スティグマ)も、魂のありようが肉体上に顕れた典型ではないかと考えています。
もしそうであれば、魂が浄化されていけば肉体も浄化されるということであり、病気も治癒していくことになります。
ただし、浄化されるには相応の期間、病気の苦痛を経験しなければいけません。
病気になったのは因果律の結果であり、手術をして病巣を取り除いても、薬で症状が改善しても、それは肉体次元での対処療法に過ぎず、根本原因に対する霊的な償いは必要となります。
原因となっているのは、摂理に背いた想いや価値観にとらわれた生き方と、不自然な生活習慣にあると考えられます。
もう1度、静かに見つめ直し、過ちに気付いたら素直に認め、改めることが何よりも大切です。
摂理を一言に集約すれば「愛」です。
摂理に背いた想いとは憎しみであり、恨みであり、妬みであり、生きているだけで幸せなことなのに、多くのものを求めようとする生き方です。
摂理に適った生き方は、他者の気持ちを察し、いたわり、やさしくすることから始まると思います。
許すことも「愛」の一つの表現です。
病気になった運命を恨んだりしてはいけません。
何かの意味を持って病気になったと受け止め、すべてを受け入れ、病気さえも許すことにより、心の平穏が保たれると思います。
その心の平穏さが、肉体の調和を乱している病気を、鎮めていくのではないでしょうか。
子供のころ私も、親や先生に良く叱られていました。
何か悪いことをして叱られることがほとんどであり、それに気付き、反省し、時に罰を受けて、最後は許してもらった記憶があります。
病気になるということは、人に代わって神に叱られているということであり、摂理に従うように促されているのだと思います。
つらくて、痛くて、苦しくて、耐えられない時を送っている方ほど、多くの償いをされているわけですから、許される時が近づいているはずです。
もしかしたら、明日の朝かもしれません。
2013年10月26日土曜日
苦難は不幸なことではない
人は、様々な悩みや苦しみを抱えながら生きています。
どんなに避けようと思っても、人は生きている限り苦難に遭遇することになっています。
なぜなら生きる目的は魂を向上させるためであり、苦難に立ち向かい乗り越えようとすることにより、向上が計られるからです。
だいぶ昔の話になりますが、学生時代に1番いやなものはやはり試験でした。
その期間だけは自由を奪われ勉強を強いられ、点数で評価されるからです。
こんなのものがなければいいのにと、何度思ったことでしょうか。
しかし、今、振り返ってみると、実は真剣に学習するために、必要なきっかけであったように思えます。
もし、試験がなくなれば、もろ手を挙げて喜んだかもしれませんが、緊張感がなくなり勉強に身が入らず、学ぶことも学ばずに卒業することになったのかもしれません。
少なくても、私の場合はそうです。
それと同じで、もしもこの世で苦難がなかったとしたら、一見すると安楽で幸せそうな人生に思えますが、立ち向かって乗り越えようと奮闘努力することはなく、そこから学び取ることもありません。
そして、目覚める機会がなくなった魂は眠り続けたままとなり、向上することができません。
従って、「生まれてきた意味を成就するために苦難がある」ということになります。
私も、40代半ばでかつてない苦難が訪れました。
一刻も早く抜け出したいとばかり思っていましたが、予想に反して状況は悪化していきました。
そして、最悪の結末を迎えることが現実味を帯びてきて、経験したことのない惨めさと後悔と不安の思いの中で、「シルバーバーチの霊訓」と出会い、貪るように読んでいきました。
晴れた日の山登りに、避難所は必要ありません。
しかし、嵐が吹きすさぶ時には、安心できる場所を捜し求めます。
襲ってきた嵐(苦難)から身を守ってくれたのは、「霊的真理」という堅牢な山小屋でした。
地上で起こるいかなる嵐からも守ってくれます。
山小屋に逃げ込み嵐が去り出てきた時に、新しい自分になっていました。
そして、「苦難は因果律の結果」であり、「この苦難は不幸ではなく、大切なことに気付き、真の自分を見出すためにあった」と思いました。
前にも書きましたが、ふいの治癒力の発現と、経験したことのない苦難の始まりが、わずか1ヶ月の間に続けて起きたことは、「何らかの計画があり、それに沿って生きている」ことを自覚するためであったと確信しています。
シルバーバーチは、「計画」のことをブループリント(青写真)と呼んでいますが、私だけでなくすべての人に、あらかじめ決まっていた計画があり、それに沿って生きています。
計画の目的は、魂を向上させるためですが、人には自由意志があるため計画通りに行くとは限りません。
遭遇した苦難が、あらかじめ決まっていた計画なのか、この世で摂理に背き作ってしまった原因に対する結果なのか、はっきりと知ることは出来ません。
ただ、今回の経験から、あらかじめ計画されていた事象と因果律で生じる苦難が、魂を目覚めさせるため絶妙のタイミングで組み合わさっていると感じました。
苦難の始まりでは、早めに回避しようと頭で対策を考えます。
事態が悪化していくと他者に助けを求めたり、あらゆる手段を講じて何とかならないかと考えます。
どんなに考えてもどうにもならないことがわかりはじめると、思考が停止して、奥深いところである「魂」が前面に出てきます。
肉体(頭脳)の上位に存在する真の自分であり、思考に代わって、直感として進むべき方向を指示していきます。
頭で考えることは、他人の言動に影響を受けたり、権威に弱かったり、情緒に流されたりして、移ろい易いものです。
しかし、魂の声である直感は、奥深いところにある正直な自分の気持ちや願望であり、素直に従えばたとえどの様な結果になったとしても、後悔することはないでしょう。
また直感は、この世に生きる私たちを、暖かく見守る存在から送られた思念であることも少なくありません。
より良き人生を歩むために、常に導いてくれているありがたい存在です。
霊的な視点から眺めていますので、魂の向上にとって最善の選択をするように働きかけます。
苦難が降りかかってきても、運が悪かったと自分を納得させてはいけません。
ましてや人や社会のせいにしてはいけません。
そして苦難から逃げ出しては決していけません。
どちらも魂が向上する機会を自ら放棄したことになり、生まれてきた意味を1つ失うことになるからです。
どんなに苦しくても、つらくても、痛くても、必ず乗り越えられます。
乗り越えられる苦難しか与えられません。
乗り越えられる人だからこそ与えらたのです。
嵐は去り、陽が差し込む時が必ずきます。
つらくて耐えられない時は、こう言い聞かせてください。
自分(魂)が成長するために、この経験がどうしても必要なのだと。
2013年10月19日土曜日
病気になった意味
内面にあるものは外面に出ます。
悲しくなると泣く、おかしくなったら笑う、恥ずかしくなったら顔が赤くなる、心に思ったこと感じたことは肉体で表現されます。
そうであるならば病気も内面にある何かが、肉体に上に表現されていると考えてもおかしくありません。
例えば、「ガン」はどうでしょう?
正常な細胞と違い、無秩序に分裂を繰り返し増殖してく病気であり、周りの組織を押しのけて拡がり、ちぎれて遠隔地に転移をする、人体との協調性もなく調和もない、言わばわがままな細胞の塊です。
摂理に背いた悪感情を長く持ち続けると、人は病気になります。
悲しみをいつまでも引きずっていたり、憎しみや恨みや嫉妬心で、心が埋め尽くされていたり、欲を張った心や落ち着きを欠く心も、病気の原因となります。
内面にある魂は、外面にある肉体の上位にあり、肉体は魂に従います。
不健全な魂のありさまは、肉体に病気として顕れます。
もしかしたら肉体に顕れているガンは、平和、協調、調和を失いかけた魂の反映であるのかもしれません。
つまり、人体の調和を乱すガンを生みだしているのは、調和を乱しかけた心であり魂である可能性があります。
もちろん、遺伝的素因により乳ガンや大腸ガンになったり、タバコ、放射線などの外的要因によりガンが発生しやすくなるのは確かなことです。
また、摂理に適った生活をしている人でも、耐えなければならない試練(予定されたこと)として、ガンを経験しなければならないこともあるでしょう。
しかし、多くは摂理に背いた心を抱き続けていたことによってガンが生じたのではないかと考えています。
最愛の人を失ったら悲しくなるのは当然です。
信じている人に裏切られたら、憎しみを覚えてしまうこともあるでしょう。
突然、職を失ったら挫折感を感じてしまうかもしれません。
しかし、好ましくない感情にいつまでもとらわれていると、自然治癒力(生命力)を十分に受け取ることが出来なくなり、病気を発症させることになります。
ちなみにヒーリングは、患者に治癒(生命)力を強制的に注入する行為であり、自然治癒力が実在することを証明するものでもあります。
病気になると苦痛や不自由さを伴いますので、そこから何とか抜け出そうとします。
医者にかかったり、生活習慣を変えてみたりするなど、病気を治すことにどうしても意識が向きますので、結果的に摂理に背いた悪感情を抱かなくなります。
誤った価値観、不自然な考え方や生活習慣は、人から忠告を受けたりしてもなかなか変えることはできません。
根底から変えるためには、何か強烈な体験が必要となってきます。
ガンは、(地上の)生命を脅かす病気であり、人には理解してもらえない痛みやつらさを伴いますので、心より深いところにある魂にまで響きます。
健康な時に気付かなかった、真に大切なことを呼び起こさせることになります。
真に大切なこととは「命」であり「愛」です。いずれも肉体を超えた霊的次元のものです。
ほとんどの人が、目に映るもの、証明されたものしか信じないのは、科学を信奉する現代社会において当然なことなのかもしれません。
しかし、科学は叡智を結集してもなお、「生命」をとらえることができません。
それは、生命とは肉体を超えた「魂」であるからです。
もし、科学で証明されないものを否定するならば、「愛」は存在しないことになります。
生命は肉体であり、誕生とともに生まれ死とともに消滅するということであれば、生きている意味はきわめて希薄になり、「愛」の入り込む余地はありません。
生命は魂であり、魂の向上のために、この世に生まれてきました。
そのつらさも痛みも、魂の向上のためにあります。
内面(魂)にあるものが、外面(肉体)に顕れ、外面に顕れたもの(病気)により、内面(魂)を知ることになります。
2013年10月12日土曜日
病気の根本原因とは
今までの多くの病気の方にヒーリングをしてきました。
治癒する方もいれば、効果が認められない方もいますが、どちらの方にも分け隔てなく治癒力は流れていきます。
治癒力により病気が癒され、悦びやさすらぎの表情に変わるのをこの目で見てきました。
治癒力の源が神であり、癒やしが御心であるならば、「神は愛」であり、流れていく力は「神の愛」と思わざるを得ません。
すべての人は学ぶべきものを学び、果たすべきことを果たすために、この世に生まれてきたのであり、目的が達成されたらこの世を去っていきます。
摂理に則った生き方をしていれば、シルバーバーチが言うように熟した果実が落ちるがごとく、自然に苦しまず、あの世に旅立って行きます。
しかし現実には病気を進行させ、まだ(魂が)熟していないうちに、苦しんだ末に死を迎えてしまう人が数多くいます。
私の周りを見ても、若くして病気で亡くなった方が多くいますが、ほとんどの方は家族や会社のために勤勉に働いていて、あと何十年かはこの世で喜びや悲しみ、楽しみや苦しみを経験するはずであったろうと思われます。
とても肉体の死をもって償うほど大きな過ちを犯したとは考えられず、健康な私たちとの差はわずかと思われます。
では、なぜ死んでしまうのかを考えてみると、「病気の原因や治療を肉体次元のみで考えてしまう(霊的)知識の欠如にある」という結論にいたりました。
ある人ががんになったとします。
その人は結婚をして出産し、家族のために家事と子育てを懸命にして生きてきました。
子育てが一段落したところでからだの異常に気付き医者に診てもらいます。
診断はがんで手術を勧められます。選択肢は他になかったので摘出手術を受け、化学療法も併用しました。
数年後、がんの転移が見つかりましたが、転移がんは手術の適応でないので、抗がん剤治療を始めました。
抗がん剤治療によりがんは縮小傾向にありましたが、副作用のためつらい日々を堪えねばなりませんでした。
そして徐々に抗がん剤が効きにくくなり、がんは再び大きくなり始めます。
医者は別の抗がん剤を勧め、わらにもすがる想いで治療を受けます。
そして治療の甲斐もなく亡くなったとします。
患者も医者も、病気を治したい一心な気持ちだけでした。
肉体を犠牲にするような大きな原因(カルマ)を作ってしまったとは、どうしても思えません。
この世で果たさなければならないことがまだあるとしたら、たとえ摂理に背き病気になったとしても、相応の苦痛を経験した後に、その機会が与えられると思います。
それにもかかわらず死という転帰をとるのは、何かが間違っているとしか思えません。
病気は摂理に背いた結果であり、苦痛は過ちに気付かせるための触媒です。
たとえ、手術で除去したとしても、肉体上に顕れた結果(病巣)を取り除いたに過ぎず、根本にある霊的次元での原因は依然としてそのままです。
原因がそのままであれば、それを気付かせるためにまた病気になり、苦痛を経験することになります。
まず、原因が何にあるのか、過去を静かに振り返り突き止める必要があります。
例えば、失職し挫折感を味わった、配偶者の裏切りで強い憎しみを覚えた、愛する人を失い深い悲しみが長く続いたなど、心よりさらに深いところにある魂にまで影響を及ぼす出来事がなかったかを検証します。
その時に、陰湿な感情に長くとらわれたり、相手の言動に深く傷つけられたりすると、時として病気という形で肉体に顕れることもあります。
もし相手を傷つける言動をしていれば、自らが病気となり、相手が傷ついて苦しんだのと同等の苦痛を経験しているのかもしれません。
中には人を平気で傷つけていても病気にならない人がいますが、「蒔いた種を自らが刈り取る」という摂理から逃れられる人はいません。
生まれ変わってから、あるいは病気とは違う形で相応の苦痛を必ず経験することになります。
病気になったのは偶然ではありません。
何らかの誤りに気付き、大切なことを学ぶために与えられた契機です。
自分のことしか考えず生きてきた人だったとしても、病気になり大きな苦痛を味わったら、同じ病気で苦しむ人に対して同情の気持ちが生まれます。
それは他者のことを思いやるという大切なことを学んだことになります。
その思いやる気持ちがさらに昇華し、慈愛の想いに変わり、やさしく人に接し、見返りを求めない善行を重ねていくうちに罪は償われて、病気は快方に向かっていくと思われます。
神の御心は愛です。
すべての人に償いの機会はいつでも与えられています。
摂理に背いて病気になったのであれば、摂理に適った慈愛と感謝の心で、世の中や人のために生き、欲を張らず、穏やかに過ごすことにより、少しずつ原因が取り除かれていき、必ず病気は良くなっていくと思います。
あまりにも(肉体の)病気を治すことだけにとらわれ過ぎると、引き起こした真の原因を振り返ることがなくなり、根本から治す機会を失ってしまいます。
多くの人が病気にならないために、また病気を治すために「シルバーバーチの霊訓」に代表される霊的真理を知ることは必要不可欠だと強く思います。
2013年9月7日土曜日
病気にならないために
もし身体の具合が悪くなってしまったら、多くの人は医者にかかります。
医者は(西洋)医学を学んでいますので、問診とともに各種検査を行い病気を診断し、外科処置や投薬などの治療を施します。
血液、レントゲン検査等により異常(所見)を発見し、診断の根拠としますがあくまでも肉体を対象とした物質次元での診断です。
そして、治療も肉体を正常に近い状態に戻すことが目標となります。
骨折などの外傷は物質次元での原因が主ですので、対応も整復や縫合など肉体次元の処置を行えば良いのですが、霊的次元に原因が存在する場合は霊的次元での対応が必要となってきます。
しかし、現代医学では霊の存在は認めておりませんので、霊的次元に原因が存在するなどとは全く考えていません。
誰が見てもわかる証拠(客観性)がないため、非科学的なものとして扱われ、霊を論じること自体がはばかれるというのが現状です。
しかし、科学は生命とは何かという大命題にいつまでたっても答えを見出せずにいます。
その理由は「生命は霊」という根源的な事実を頑なに認めないためです。
霊の存在を認めた時に、はじめて生命の本質が理解され、病気の根本的な原因や自然治癒力について迫ることができると思うのですが、それにはしばらく時間がかかりそうです。
私がヒーリングを行なう患者の霊的次元での原因を探る時、文献や論文があるわけではありませんので、信頼のおける霊的治療家の書籍を参考にしながら、霊訓真理に照らし合わせるようにしています。
何よりも頼りにしているものがあり、それはインスピレーションです。
ヒーリングをしている時や、患者に意識の焦点を合わせていると伝わってくることが多く、ふいに浮かんでくるイメージであったり言葉であったりします。
ただ目に映るものではなく、耳で聞いているわけでもありません。
ヒーリングの治癒力も私が作り出したものではなく、受け取っていますので、それと同じ(霊媒)現象が起きているのだと思います。
インスピレーションは頭脳より瞬間的に生まれる発想ではなく、霊界に存在する知的存在から伝えられるものと認識しています。
それは芸術家に降りてくるインスピレーションと同じ原理だと思われます。
ただし、インスピレーションにより得た情報が正しいことを証明するのは不可能であるため、患者には助言として伝えています。
1例ですが、顔面神経麻痺(Bell麻痺)の方をヒーリングをして現在経過を見ています。
麻痺のはっきりとした原因は解明されておらず、ストレスが誘因となりうることは分かっています。
後日、患者に意識を合わせるとインスピレーションが伝わってきました。
その概要ですが「自分の感情を押し殺して作り笑いをしてしまう心と表情の大きな隔たりに起因している」ということでした。
「自分の気持ちに正直になりなさい」ということなのでしょうか。
どう受け取ってもらえるかが分かりませんでしたが、病状がこれ以上悪化して欲しくなかったのでお伝えしました。
以前は潜在意識による私の推測かもしれないと疑っていましたが、それを否定する決定的な出来事があってから考え方を変えざるを得ませんでした。
そのことについては別の機会に書きたいと思います。
シルバーバーチも言っていますが、霊が王様(上位)であり、精神と肉体は従者(下位)です。
いくら肉体をいたわり大事にしても、より高次の霊に意識が向かなければ、知らず知らず摂理に背いた想いを抱いたり、行為をしてしまうことになります。
その状態が長く続いてしまうと、時として肉体や精神に病気という形で顕現してしまいます。
そうなると償いのために相応の苦痛を経験しなければなりません。
病気になってからではなく、その前に大事なこと(摂理)に気付いた方がはるかに賢明です。
それを学ぶのに霊的真理を超えるものはありませんし、シルバーバーチの霊訓は最適な書であると思います。
何度でも声を大にして「摂理に背いた憎しみ、妬み、恨みの想いを捨て去り、摂理に適った慈愛の想いを持ち続けましょう。
欲を張らず穏やかな日々を送りましょうと、言いたくなります。
長寿で元気な方に「長生きの秘訣は」と質問すると、「くよくよしない」とか「明るく楽しく生きる」中には「腹八分目」と答えが返ってきますが、すべて摂理に適っており、確かな証人だと思います。
心身ともに健やかに生きるために、これ以上大切なことはありません。
2013年9月1日日曜日
病気を治すために
病気とは何かを考えてみました。
岩波出版社の生物学辞典では、病気とは「個体の秩序が何らかの原因(病因)によって偏倚した状態をいう」と定義しています。
「原因には内因と外因があり、内因は年齢、性、人種などの素因や体質のほか、遺伝・内分泌線機能障害・免疫などをさし、外因には栄養の欠乏、物理的・科学的作用、ウイルス類、細菌類などの感染をあげることができる」と記載されています。
何やら難しいことが書かれていますが、「病気」という文字を眺めた方が良さそうに思えます。
気が病む、肉体を超えた何ものかが病むということで、それは精神であり魂(霊)であると考えられます。
つまり精神、魂が病んだ結果として、肉体に病態として顕れ、認識されるということです。
そうであれば多くの病気の根本的な治療は、精神や魂を対象としたものでなければならないと思います。
ストレスで胃潰瘍になる方がいますが、H2ブロッカー(胃酸を中和する薬)を飲んでも対処療法に過ぎず、精神的ストレスを改善しなければいけません。
精神的ストレスを生み出すものは様々ですが、その多くは人間関係であったり、過度の労働であったりします。
かと言ってそれらを避けて日常生活を送ることはなかなか許されません。
いやだとか避けたいと思った瞬間、ストレスとなって肉体や精神に悪影響を与え始めます。数年前に私も大きな困難に遭遇しましたが、幸運にも「シルバーバーチの霊訓」と出会うことができたため、つらい経験でしたが精神的、肉体的にも健全さを失うことはありませんでした。
もし出会ってなかったら、深い絶望感から心身は衰弱し、病気になっていたかもしれません。
この世に生まれてきたのは、魂の向上のためであることは言うまでもありません。
魂の向上は、困難や苦痛を伴う経験を通しても、得られます。
従って、この世を生きているうちに、望む、望まないにかかわらず、困難や苦痛を伴う経験に、出会うことになります。
つらいライフイベントや深刻な災難が起きても、(霊的)知識があれば与えられた試練として受け止め、ストレスから病気になってしまうことはないでしょう。
霊的知識のあるなしは、物理的な内的、外的因子よりも、はるかに現代の病気の発症に関係していると思います。
そして病気には、この世に生まれる前の罪(カルマ)によるものと、生まれてからの罪(カルマ)によるものがあります。
いずれも相応の償いの期間が必要であり、苦しみや痛みを経験しなければいけません。
生まれてからつくってしまったカルマで病気になってしまった、例えば摂理に背いた憎しみや、怒り、妬みなどの感情を持ち続けたために、ガンになったり、あるいは、心身の限界を超えて働き過ぎると、うつ病になったりします。
そして、病状がさらに悪化して、死という転帰をとったとします。
死は魂が肉体から解放されることであり、決して不幸なことではありません。
しかし、学ぶことがあってこの世に生まれてきたのであり、それを病気により道半ばで切り上げてしまうことは、神や霊界が望むことでは決してないはずです。
そんなことから、私は神により病気を治す機会が、すべての人に平等に与えてられていると、考えています。
せっかくの機会を無視し、摂理に背き続けると、シルバーバーチが言うようにカルマ的負債が大きくなりすぎて、肉体を犠牲にする(死ぬ)しかなくなります。
病気を治すために最も優先すべきことは、摂理に背いた心を抱くことや、行動を改めることです。
摂理に適った心、慈愛の心、赦す心、感謝の心を持ち続け、過度な労働は避けて、無欲で穏やかに日々生活することにより、病気の原因であるカルマは少しづつ小さくなり、それに伴い病気も良くなってくるはずです。
摂理に適った心に変わるためには、相応の苦しみや痛みを経験しなければなりませんが、人や動物に親切にやさしくすることを心がけ、社会貢献やボランティア活動をするにより、その期間はきっと短くなると思います。
病気を根本から治すのは(自然)治癒力であり、薬ではありません。
治癒力は受け取るものであり、より多く受け取るためには他者を愛するしかありません。
「施すものほど授かる」は、永遠不滅の真理です。
岩波出版社の生物学辞典では、病気とは「個体の秩序が何らかの原因(病因)によって偏倚した状態をいう」と定義しています。
「原因には内因と外因があり、内因は年齢、性、人種などの素因や体質のほか、遺伝・内分泌線機能障害・免疫などをさし、外因には栄養の欠乏、物理的・科学的作用、ウイルス類、細菌類などの感染をあげることができる」と記載されています。
何やら難しいことが書かれていますが、「病気」という文字を眺めた方が良さそうに思えます。
気が病む、肉体を超えた何ものかが病むということで、それは精神であり魂(霊)であると考えられます。
つまり精神、魂が病んだ結果として、肉体に病態として顕れ、認識されるということです。
そうであれば多くの病気の根本的な治療は、精神や魂を対象としたものでなければならないと思います。
ストレスで胃潰瘍になる方がいますが、H2ブロッカー(胃酸を中和する薬)を飲んでも対処療法に過ぎず、精神的ストレスを改善しなければいけません。
精神的ストレスを生み出すものは様々ですが、その多くは人間関係であったり、過度の労働であったりします。
かと言ってそれらを避けて日常生活を送ることはなかなか許されません。
いやだとか避けたいと思った瞬間、ストレスとなって肉体や精神に悪影響を与え始めます。数年前に私も大きな困難に遭遇しましたが、幸運にも「シルバーバーチの霊訓」と出会うことができたため、つらい経験でしたが精神的、肉体的にも健全さを失うことはありませんでした。
もし出会ってなかったら、深い絶望感から心身は衰弱し、病気になっていたかもしれません。
この世に生まれてきたのは、魂の向上のためであることは言うまでもありません。
魂の向上は、困難や苦痛を伴う経験を通しても、得られます。
従って、この世を生きているうちに、望む、望まないにかかわらず、困難や苦痛を伴う経験に、出会うことになります。
つらいライフイベントや深刻な災難が起きても、(霊的)知識があれば与えられた試練として受け止め、ストレスから病気になってしまうことはないでしょう。
霊的知識のあるなしは、物理的な内的、外的因子よりも、はるかに現代の病気の発症に関係していると思います。
そして病気には、この世に生まれる前の罪(カルマ)によるものと、生まれてからの罪(カルマ)によるものがあります。
いずれも相応の償いの期間が必要であり、苦しみや痛みを経験しなければいけません。
生まれてからつくってしまったカルマで病気になってしまった、例えば摂理に背いた憎しみや、怒り、妬みなどの感情を持ち続けたために、ガンになったり、あるいは、心身の限界を超えて働き過ぎると、うつ病になったりします。
そして、病状がさらに悪化して、死という転帰をとったとします。
死は魂が肉体から解放されることであり、決して不幸なことではありません。
しかし、学ぶことがあってこの世に生まれてきたのであり、それを病気により道半ばで切り上げてしまうことは、神や霊界が望むことでは決してないはずです。
そんなことから、私は神により病気を治す機会が、すべての人に平等に与えてられていると、考えています。
せっかくの機会を無視し、摂理に背き続けると、シルバーバーチが言うようにカルマ的負債が大きくなりすぎて、肉体を犠牲にする(死ぬ)しかなくなります。
病気を治すために最も優先すべきことは、摂理に背いた心を抱くことや、行動を改めることです。
摂理に適った心、慈愛の心、赦す心、感謝の心を持ち続け、過度な労働は避けて、無欲で穏やかに日々生活することにより、病気の原因であるカルマは少しづつ小さくなり、それに伴い病気も良くなってくるはずです。
摂理に適った心に変わるためには、相応の苦しみや痛みを経験しなければなりませんが、人や動物に親切にやさしくすることを心がけ、社会貢献やボランティア活動をするにより、その期間はきっと短くなると思います。
病気を根本から治すのは(自然)治癒力であり、薬ではありません。
治癒力は受け取るものであり、より多く受け取るためには他者を愛するしかありません。
「施すものほど授かる」は、永遠不滅の真理です。
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