人は何のために生きているのか?死んだ後はどうなるのか?その明確な答えが「シルバーバーチの霊訓」の中にありました。本当の自分とは魂です。この世を生きるたった1つの目的は、魂を成長させるためです。人生で出会う障害や苦難を乗り越えること、人や動物そして社会のために奉仕することで、魂は成長していきます。死んだ後、魂は次の世界に移り、この世を振り返る時が必ず来ます。悔いのない様に、失敗を怖れず、今を大切にして生きましょう。
2014年4月21日月曜日
自らを癒やす
ほぼすべての人は、からだの不調を自覚したら、医者にかかります。医者は検査をして、病気を診断し、それに見合った治療を行います。薬、手術は治療の大きな柱です。目に見える病巣であれば、消失させることを目標とします。
先進国において、ほとんどの医者が拠り所としているのは西洋医学です。その発展は人類に大きな貢献をもたらしました。中でも、ペストやコレラなどの流行病の原因が細菌であることをつきとめたのは、大きな発見であり、後に抗生物質の発見につながります。ワクチンの発見による予防効果も絶大であり、多くの命が救われることになります。それ以降、薬で病気が治る、医者が治すものという概念が定着していったように思えます。
ガンという深刻な病気を告げられた時のショックは、経験した人でなければわかりません。命にかかわる病気という認識があるから当然です。不安や恐怖が心を支配してしまい、この窮地から抜け出したい一心で、医者の提示する治療法を選択する人がほとんどです。
感染症はウィルスや細菌などの増殖により起こりますから、原因は顕微鏡で確認できて、薬で劇的に治るものも多いです。しかし、病気には自己の変性や、機能異常によるものが多く、未だに原因を見出せないものも、たくさんあります。
ガンは、目で見ることができ、増殖するものであり、その点では感染症と類似しています。しかし、大きな違いがあります。それは、正常細胞と性質が異なりますが、ガンは自己だということです。
細菌などの非自己であれば、薬で選択的に死滅させたり(ウィルスは除く)、外科的に取り除くことで完治が期待できます。しかし、遺伝子レベルで差異があるものの、ガンは紛れもなく自己であるため、薬で選択的に死滅させることは不可能です。もし死滅したのであれば、正常細胞も死滅してしまうか、相当のダメージを受けます。
ガンは正常細胞が細胞分裂時に変異したものと言われています。遺伝子の複製ミスにより、細胞の際限のない増殖が起こると考えられています。1日に数千個のガン細胞が発生し、免疫システムで死滅させられていると考えられています。
すべての動物は1つの受精卵から始まります。細胞分裂を繰り返し、増殖し、分化して組織を作り、個体を完成していきます。成長過程において、最高度に活発な細胞分裂が繰り返されています。もし、単なる複製ミスと言うことであれば、免疫システムが構築される以前に、多数のガン細胞が発生し、増殖してしまうと推察されます。成長過程にガンが多発するということになりますが、実際はそうではありません。
以上のことから、遺伝子の複製ミスが、一定の確率で起きているとは、考えにくいと思われます。
人間が作業をする時、どうしてもミスが起きてしまいます。それは、人間が不完全であるためと思われます。機械で作業すれば、ミスは大きく減りますが完全になくすことはできません。しかし、自然(神)の営みは完璧であり、一分の狂いもありません。
水は0℃になったら凍り、100℃になったら蒸気になります。130歳を超えて生きる人はいません。摂理(法則)に従っているからです。細胞分裂も、人知の及ばない、自然の摂理により営まれていますので、ミスはあり得ません。
では、なぜ複製ミスが起こりガン細胞が出来てしまうのか?
ガン細胞の発生はミスではなく、神の摂理によって生じていると思われます。
一般的に、環境因子であるエックス線、発ガン物質に影響を受けると言われています。また遺伝的素因があるとガン発生は明らかに高くなります。肉体的(物理的、化学的、生物学的)次元での法則が存在し、ガン発生に影響を与えていると思われます。
近年になり、ストレスは防御機能である免疫力を低下させて、ガンの増殖を許してしまうことが分ってきました。これは精神的次元での法則が働いていると思われます。
人は肉体と精神により成り立っているのではなく、その上位に生命であり、真の自分である魂(霊)が存在しています。目の前で証明することは不可能ですが、紛れも無い事実です。
霊的次元でも摂理(法則)は働いています。
神の摂理(愛)に背いた、憎しみ、恨み、嫉妬、怒りの想いは、生きていると湧き上がってしまうことがあります。一瞬であれば良いのですが、その想いが常に付きまとい、支配していると、魂のありさまを変えてしまいます。
怒りの想いは怒ることで表現されますが、憎しみ、恨み、嫉妬などの想いは、表現が難しく、うっ積してしまうことが多いと思われます。長い時間であればあるほど、強い想いであればあるほど、想いは多くうっ積し、魂のありさまが変化してしまいます。魂の変化は肉体の変化として表現され、病変となります。
ガンは、肉体的、精神的、霊的次元に存在する原因が複合的に働き、発生すると思われます。しかし、主因は霊的次元にあると考えています。
ここからは私なりの解釈になります。ガンが霊的次元での原因があると言うことが、前提となります。その根拠は、残念ながら提示することはできませんので、ご承知下さい。
ガンは、少々出来の悪い、粗暴な細胞ですが、あくまでも自分です。
そのガンという自分を作ったのは、自分です。
1つ1つの想いが、1つ1つのガン細胞に形を変えているように思えてなりません。
薬でガン細胞を完全に死滅させることができないのは、性質は異なっていても自分だからです。
たとえガンであっても神から与えられた肉体の一部であり、大切にしなければいけないのかもしれません。現代の治療法は、神から与えられた肉体を傷つける摂理に反した不自然な行為であるのかもしれません。薬で苦しむのは、自分で自分を傷つける罪の償いかもしれません。
ガン患者の数が増え続けているのは、神の摂理に反した考え方、生き方をする人が多くなったためであり、死亡者数の減少が認められないのは、不自然な治療、神の摂理に反した治療をしているためなのかもしれません。
ガンは肉体に表れた結果であり、主な原因は霊的次元にあると考えます。
従って、霊的次元での原因が取り除かれなければいけません。
霊的次元の原因とは、想いにあります。
想いには、摂理に適ったものと、反しているものがあります。
摂理に適った想いとは、「愛」の想いです。
摂理に反した想いとは、「愛」の対極にある、憎しみ、恨み、嫉妬、怒りなどの想いです。
想いは、精神を経由して、肉体で表現されます。
しかし、精神を経由する時に、強い抑制がかかると、想いを表現できなくなります。
また、想いが強すぎると、すべてを表現できなくなります。
表現して、外に表さないと、想いの摂理に反した、想いが滞ってしまい、うっ積していきます。
うっ積した想いは、魂に影響を与えます。
そして、魂のありさまが変わっていきます。
肉体は、魂を表現するものですから、肉体のありさまが変わります。
摂理に反した想いを抱き続けることにより、魂は次第に平和や調和や協調を失っていきます。
その結果、平和や協調や調和を失ったガン細胞が、摂理により発生し、増殖していきます。
ガンは霊的次元に原因がある病気であり、霊的次元での対応が必要と考えられます。
病気になったら、その事実を受け入れることは、何より重要です。
事実を知り、衝撃を受け、怖くなったり、不安になったりするのは、自然な反応です。しかし、その事実と向き合わず、逃げてしまっては、大切な魂の変化が始まりません。
すべての原因は自分にあることを認めて下さい。
他の誰のせいでもありまぜん。運が悪かったのでもありません。自らが種を蒔いています。その結果は医者ではなく、自らが刈り取らなければいけません。
何かが、間違っていたと思われます。
何かが、不自然だったと思われます。
神の摂理に反した考え方や生き方をしてきたことが原因となり、結果としてガンという病気になったと考えられます。
考え方に神の摂理(愛)に反したところがありませんでしたか?
長い間、何かを恨むことはありませんでしたか?
長い間、何かを憎むことはありませんでしたか?
長い間、何かを妬むことはありませんでしたか?
生き方に不自然なところはありませんでしたか?
良く眠れていましたか?
偏りなく、必要十分な食事を取っていましたか?
からだに無理を強いていませんでしたか?
からだを、粗末にしていませんでしたか?
欲が強すぎませんでしたか?
生きているだけでも幸せなことなのに、たくさんのことを求めていませんでしたか?無意味なものに振り回されていませんでしたか?人と比べて苦しみませんでしたか?
愛に欠けたところがありませんでしたか?
自分のことばかりを考えていませんでしたか?他の人との協調を大切にしていましたか?
いままで起こった出来事で、想いを封印してしまったことはありませんでしたか?
つらい出来事や、忌まわしい出来事を、早く忘れてしまおうと思い、正面から受け止めずに、受け流してしまいませんでしたか?
つらい出来事、困難なことを、(与えられた試練として受け止めずに)責任転嫁したり、逃げてしまいませんでしたか?
受け入れて、乗り越えなければいけなかったのかもしれません。病気になって、今、乗り越えているのかもしれません。
その出来事を、今、思い出してみて、どう思いますか?
怒り、憎しみ、恨み、哀しみ、嫉妬の想いがわきあがりますか?
はっきりと言葉にしてみてはどうでしょうか。思いっきり泣いても良いかもしれません。積もり積もった思いのたけを、誰かに聞いてもらうのも、とても良いことです。何かに向かって「バカやろー」と叫んでも良いと思います。
想いを溜め込まないこと、それが1番大切です。
いろいろと経験して、その時よりもずっと成長していますから、その出来事を事実として、今では受け入れることができるはずです。
それでも、受け入れようとすると、怒りや恨み哀しみなどの感情が、どうしてもわきあがってしまうでしょうか?
自分自身に良いことは一つもない。わかっていても、それでも湧き上がってしまいますか?
すべてを許す、許せる時がきたから病気になりました。病気になったのは許すためです。
人は誰も完璧ではありませんので、過ちを許してもらう時があるはずです。許してもらうのであれば、許さなければいけません。
どうしても、許せないことはありません。愛が少し足りないだけです。時が満ちていないだけです。
愛でしか、想いは手放ません。
もし、手放せたのであれば、それは生きてきた証です。成長の証です。魂が向上した証です。
魂の向上は、生きている目的そのものです。許すことは、愛すること。成長の証です。
想いが手放せたら、そこに愛(治癒力)が流れ込みます。
神の愛で、魂が癒されます。
そして肉体が癒され、病気が治癒します。
病気を進行させる力と、癒やす力は、方向が違うだけで、同じ神の力です。
想いが変われば、魂が変わり、肉体も変わります。
愛の想いで、魂は輝き、肉体も輝きを取り戻します。
この世は愛を学ぶために生きています。しかし、物質の存在があまりに大きいために、目に見えない愛に気付きにくく、表現もしにくくなります。
それがこの世ですが、愛がすべてであり、すべてが愛であることは間違いありません。
病気と愛は結びつきにくいのですが、苦痛こそが魂を呼び起こします。
魂は神の一部であり、神の心は愛です。そのため魂は愛を表現しようとします。
病気は魂を目覚めさせ、より大きな愛、真の愛を表現するためにあります。
痛み、苦しみが大きければ大きいほど、手に入れるものの価値は大きいはずです。
愛の大切さに気付いたのであれば、最も価値のあるものを手に入れたことになります。
すべての経験は、愛を知るためにあります。
2014年4月17日木曜日
神の摂理
私は神を信じていませんでした。生きていく上で、自分には関係ないと思っていたからです。神を信じる人は、どこかの宗教に属する、少し変わった人だと思っていました。
今、私は神を信じています。神の概念を語るには、あまりにも未熟ですが、すべてを考案し、創造し、統率している何者かがいるはずであり、それが神だと、おぼろげに分かります。自然が美しいのは、神の心が表れているためであり、秩序が保たれているは神の摂理(法則)が存在するためだと、思っています。
神は必要のないものを、創り出すはずもなく、すべてのものは明確な意味を持って存在していると考えられます。
地球上に生きる、人、動物、植物の1つ1つが、かかわり合い、調和しながら、意味を持って存在していると思います。
この世に存在しなくても良さそうな、戦争や病気はどうなのでしょうか?
戦争や病気を、不幸なことと片付けてしまえば、そこでお終いです。何らかの意味を持つものとして捉え、(神の)目的を理解するように努めた方が、前に進んでいけると考えています。
戦争は、決してあってはならないものです。人が傷つき、国土が破壊され、多くの悲劇が生みだされれます。そんな無益な戦争が起こってしまうのは、当たり前のことなのですが、集団や国家が協調や調和の精神を忘れ、自己の主張や利益を優先したためと考えられます。国家が神の摂理である「愛」を忘れたために起こり、その結果、国民に苦痛がもたらされます。
もし、神の摂理に適った「愛」が発揮されたのなら、飢えや貧困に苦しんでいる弱者に手を差し伸べる側となり、世界はもっと、やさしく、あたたかく、平和となり、戦争など起きるはずはありません。
戦争で、大きな苦痛を味わった人たちほど、心の底から平和を希求し、他国との友好を尊重するようになると考えられます。代償は大きいのですが、戦争により、友愛、調和や協調と言った、神の摂理(心)に気付くことになるとも言えます。
病気にも、明確な目的があると考えられます。すべての病気は結果であり、原因があります。その原因として環境や遺伝が挙げられますが、現代医学では説明ができない、原因不明の病気も数多くあります。
人を構成しているのは肉体だけはありません。肉体に命令を下している精神があります。その上位には、生命そのものであり、真の自己である、魂があります。五感には触れませんが、実在しています。
肉体は物理法則に支配されていますが、精神そして魂も、それぞれの法則(摂理)により支配されています。現在、西洋医学の対象は肉体だけであり、魂(霊)の存在は認めていませんので、精神的、霊的次元での原因は、残念ながら解明されていません。
見えないもの、検出できないものは存在しないと決め付けてしまうのは簡単ですが、病気の原因は精神的、霊的次元にあることが多いと思われ、多次元的に病気を理解することが、病気の治癒のため重要と思われます。
良くストレスが溜まると病気になると言われます。それは事実だと思いますが、正確には、ストレスにより生じた、表現されなかった想いが溜まると、魂(霊)が変化をきたし、その変化が病気として精神や肉体上に表れると言うことになります。
肉体は魂を表現している媒体です。想いが生まれ、精神を経由して、肉体で表現されています。おかしければ笑い、悲しければ泣きます。内の想いが外に表現されています。もし、魂(霊)のありさまに変化があれば、肉体のありさまに変化として表れます。
人生にはさまざまな出来事が起こり、さまざまな想いが生まれます。喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、その他にも、たくさんの想いが生まれ、表情や言葉、そして行動となり、常に表現されています。
しかし、何らかの原因で抑制が働き、その想いを肉体で表現できなくなると、想いだけがうっ積していきます。心にいつもひっかかるもの、心に重くのしかかるものを感じるのは、うっ積した想いがあるからなのかもしれません。
想いを解放するために、話(想い)を聞いてもらったり、文章にしたり、からだを動かすのも有効です。
人によっては、うっ積して耐え切れなくなると、想い(感情)を爆発させることもあります。うっ積した想いを、一気に表現して手放すことになりますので、周りの人は大変ですが、本人はさっぱりします。
しかし、生きていると、そんなわけにはいきません。生活していくのに悲しんでいられない、理不尽なことをされても立場上文句は言えない、つらい胸の内を聞いてもらえる人が側にいないなど、想いを表現できない時は、いくらでもあります。
また、想いが強ければ強いほど、うまく表現ができなくなります。
表現されなかった想いが滞り、蓄積してしまうと、魂に影響を与えて変化が生じてしまい、その変化が、肉体上に病気として表れるとことになるかもしれません。
この世では、想いには実体はなく、影響力はないと考えてしまいますが、霊的次元は思念の世界であり、想いが実体であり、影響を及ぼしています。うっ積した想いが、怒り、憎しみ、妬み、恨み、貪欲といった、神の摂理に反したものであれば、魂に相応の変化が生じてしまいます。
病気は、変化した魂の反映であり、苦痛はその償いです。同時に、苦痛には、「生命」や「愛」といった神の摂理に気付かせるという大きな意味があります。摂理に気付けば、神とのつながりは深まり、魂は浄化され、肉体の病気は癒されていくと考えられます。
人生にはいろいろなことが起きます。想いを表現できない時もあると思います。では、どうすれば良いのか?
摂理に反した、怒り、憎しみ、妬み、恨み、貪欲といった想いを抱かないようにするしかありません。仕打ちを受けても許す、すべての事実を受け入れる、自分と違っていても認める、とても、とても難しいことですが、そうなれるように努力することが、生きている意味の一つだと思います。
時として、許すこと、受け入れること、認めることは、苦痛そのものとなりますが、もし、出来たのであれば、「愛」を表現していることになり、魂の向上が図られます。もし出来ずに、摂理に反した想いを抱いてしまえば、病気になるかもしれません。
繰り返しになりますが、病気は、神の摂理である「愛」に気付かせるため、生命の危機にさらされて、魂を目覚めさせるためにあります。
決して死に追いやるものではありません。
少し遠回りしたことになりますが、魂が向上した結果、今度同じことが起きたとしても、許せなかったことが許せるようになり、認められなかったことが認められるようになり、拒絶したことが受け入れられるようになると思われます。
どちらに進んだとしても、神とのつながりは絶たれていません。
神の摂理は完璧であり、自らに近づけるように導いていると思います。
2014年4月7日月曜日
ガンを癒す
色とりどりの花が咲く、季節がやってきました。田んぼのあぜ道には、レンゲがやさしく、美しい色合いで、可憐な花を咲かせます。あたたかな陽差しとともに、春という季節が来たことを実感します。
大自然の営みは、すべて神の摂理(法則)に従っています。摂理を知る、知らない、信じる、信じないにかかわらず、正確無比に働いています。人が生まれ、死ぬのも、季節が巡るのも、森羅万象のすべては神の摂理により支配されています。人々を苦しめている病気も例外ではありません。
植物が美しい花を咲かせるのは、見る人を喜ばせるためではなく、蜂などの虫たちを惹きつけて受粉させ、子孫を残すという明確な目的があります。人が病気になるのも、医学では解明されない、深層に原因があり、明確な目的があったとしてもおかしくありません。
全世界で優秀な科学者が、ガンの原因解明を目指して日々研究をしているにもかかわらず、残念ながら原因は不明のままです。現代医学では認められていない、肉体より高次にある魂に、根本的な原因があると仮定した方が、合理的な説明ができると考えています。
魂は肉体の上位にあり、精神と肉体を支配しています。また、肉体は魂を表現する道具であり、媒体です。魂の変化は、肉体の変化として表現されます。従って、ガンという病変は、魂の変化を表していることになります。花が色鮮やかに咲いて、虫たちに存在を知らせているように、ガンは魂のありさまの変化を肉体上で分かるかたちとなって表れ、知らせています。
ガンを癒すためには、まず魂を癒さなければいけません。過去の出来事を振り返り、その時にどういう想いを抱き、どう行動したのかを省みる必要があります。
繰り返しますが、肉体は魂を表現するためにあります。魂の想いは、肉体を道具として、言葉や行動により表現されます。うれしいことがあると笑顔になり、うれし過ぎて涙を流して泣くこともあります。怒りがあれば、表情や言葉や行動で、想いを表すこともあります。また、困っている人がいたら助けたり、悲しいんでいる人を慰めるのも、魂の表現であり、心(精神)を経由して、肉体で表現しています。
しかし、悲しくても泣けなかったり、怒りを言葉や行動で表せなかったり、悔しい胸の内を聞いてもらえなかったりすると、想いが外に出ずに内に滞っていきます。想いが素直に表現できていれば問題はありませんが、うまく表せない状態が続けば、表現できなかった想いがうっ積していき、魂のありさまを変えてしまいます。悲しいことやつらいことがあると、多くの人は涙を流して泣きます。特に女性は涙を流して泣く人も多いようです。感情表現というよりも、泣くという行為により肉体で表現して、つらい想いを内に溜め込まないで、外に吐き出していると考えられます。心や魂の健全さを保つために、無意識にしているのかもしれません。喜びの想いであれば、たとえうまく表現できなくても心配はないのですが、とてもつらいことを経験し、その想いをうまく表現できずにいると、後に問題となるかもしれません。なぜなら、つらい経験からは、怒り、恨み、憎しみ、悲しみ、嘆きなど、神の摂理に反した想いが生じやすくなり、魂のありさまを変えてしまうかもしれないからです。魂のありさまが変われば、病気として肉体に表れることになります。ただ、怒りや恨みや憎しみなどの想いを、言葉や行いで表わすことも、摂理に反していますので、因果律が働いて、何らかのかたちで苦痛を経験して、償わなければいけなくなります。
ガンという病巣は、うっ積した想いが形を変えて、肉体上に表れたものだと考えられます。
もしそうだとすれば、うっ積した想いを手放してしまえば、肉体の病巣もなくなることになります。うっ積した想いを手放すためには、怒り、憎しみ、恨み、嫉妬の想いから、解放されなければいけません。解放されるためには、魂の向上が必要となってきます。病気の苦痛には、魂を向上させ、目覚めさるという、大切な意味がありますので、手放したい苦痛こそが、うっ積した想いを手放すために必要であり、魂を浄化させていると考えられます。また、ガンの苦痛により、生命である魂に目覚めれば、魂は神の一部であるため、神の心である愛に目覚めて、表現しようとします。そして、愛に目覚めた時に、怒り、憎しみ、恨み、嫉妬から解放され、つらい出来事を受け入れて、許し、その結果、うっ積した想いが手放されて、肉体の病変はなくなると考えられます。
ガンは肉体を死に至らせる病ではありません。肉体や精神の苦痛は、耐えがたいものに感じられるかもしれませんが、魂に目覚めさせ、愛に目覚めさせるためにあります。乗り越えられない苦難は与えられませんので、ガンになった人は、魂に目覚めて、愛の大切さに気付ける人だと言うことになります。愛の大切さに気付けば、考え方や生き方は摂理に適ったものとなっていきます。そして、神とのつながりが深くなり、霊力(生命力)がふんだんに魂に流れ込みます。魂が癒され、その結果、肉体が癒されると考えられます。
ガンに対する認識の大転換が必要かもしれません。肉体上のガンは、魂のありさまの変化を表わし、しこりは見えざる想いの塊が表現されたものと思われます。自分の一部であることに変わりなく、敵対してはいけません。大切なことを教えてくれて、魂を良い方向に導くものと考えられます。したがって、怖がる必要など、全くありません。
忌み嫌ったり、憎んだりではいけません。その想いが、ガンそのものであり、勢いを増してしまいます。そして、摂理に適った「愛」の想いにより、勢いは失われます。
信じられないかもしれませんが、苦痛は病を癒やすためにあり、怖れ、憎むのではなく、愛することでガンが癒されるということになります。
(
2014年3月31日月曜日
ガンという病気について思うこと
多くの人に共感してもらえるかどうかわかりませんが、今までのまとめとして書いていきます。病気で苦しむ人にとって失礼になるかもしれませんが、良くなってもらいたい気持ちからですので、どうかご容赦下さい。
すべての病気は、それぞれに原因があって生じます。偶然、病気になることはありません。ガンという病気も厳然とした原因があり、肉体上の病変はその結果を見ているだけです。ガンという病気は、かかりやすさを決める遺伝的要因や、発ガン物質や放射線、食事や生活習慣などの環境的要因が深くかかわっているとされています。しかし、膨大な医学的研究にもかかわらず、はっきりとした原因は、いまだ分かっていません。
人は肉体と精神により成り立っていると、多くの人は考えていますが、肉体と精神の上位にあり、生命そのものである魂(霊)の存在を認める人は、まだわずかです。見えるものではないですし、普段は意識することもありません。
しかし、よく考えてみて下さい。愛を感じるのはどこでしょうか?美を感じるのはどこでしょうか?困っている人を助けるようとする気持ちは、どこからくるのでしょうか?嘘をついてはいけない、悪いことをしてはいけないという良心はどこからくるのでしょうか?頭脳を超えた魂が存在して、愛や美や良心を内在していると考える方が自然ではないでしょうか。魂は、精神(心)のさらに奥にある、本当の自分であり、偽らざる自分です。肉体ではなく、魂こそが真の自分であり、肉体は魂(の想い)を表現するためにあります。したがって魂がなければ、肉体の存在理由はありません。
肉体上の変化は、人の目に見えるためすぐ気付きます。しかし、本当の自分である魂の変化は、自覚さえもされていないため、気付くことはまずありません。肉体は魂を表現するためにあるので、魂の変化が肉体の病気として表現されることがあります。従って、ガンは魂の変化が、誰にでも見える肉体の変化として表されたものと考えられます。魂が平和、調和、協調を欠いてしまったことが原因で、肉体上に平和、調和、協調を欠いたガンが結果として表れます。魂の変化が肉体にガンとして表れ、苦痛を通して、神の摂理に反した想いや行いを償い、正して、魂を向上させる方向に軌道修正させるためにあります。大切なことに気付き、生き方を変えるためです。運が悪くガンになったのではなく、何らかの原因があってガンになったのであり、取り除いて治るのではなく、摂理に適った考え方や生き方に変わることで、治ると考えられます。
もしそうであれば、もっと多くの人のガンは治ってもいいはずです。なぜ、そうならないのか?ガンになると誰しも恐怖に怯えてしまいます。世の中では、依然として、死にいたる病という認識が根強く残っていますので、当然のことであり、一刻も早く、ガンを身体から取り除きたいと考えます。ほとんどの人は、医者に治療を委ね、医療で治すものと考えています。第1選択として手術が選択され、ガン組織を取り除き、病巣が消失すれば治癒ということになります。再発すれば抗ガン剤や放射線で縮小させようとします。
多くの人に治癒が得られないのは、肉体上に表れたガンという結果を消滅させることにこだわりすぎて、原因の除去ができていないためと考えています。もし、ガンが肉体だけの病気であれば、医学の進歩に伴い、ガンで亡くなる人はもっと減少してもいいはずです。しかし、現実には日本において35万人以上の人がガンで亡くなっています。医学は物理(肉体)的次元を対象としているため、リスク要因しか究明できておらず、根本原因は未だ不明のままです。他にも原因不明の病気は数多くありますが、もしかしたら現代の医学では認められていない、精神的、霊的な次元に原因があると考えることは愚かでしょうか。目に見えないところ、認知されていない魂に原因があり、その結果として肉体に病変が表れていると考えることに、無理があるのでしょうか。
人は悲しければ、涙を流します。おかしければ、声に出して笑います。また想いや考えを言葉にして表現します。生きていることは、想いや考えを、言葉や肉体で表現することと言ってもいいのかもしれません。ところが、つらいことがあっても、その想いを言葉や肉体で表現できずにいることがあります。また、つらい出来事自体を封印してしまうこともあり、知らないうちに表現されなかった想いが少しずつ蓄積していくことになります。その想いが、摂理に反した怒りや憎しみ、恨みや嫉妬、あるいは強い欲であれば、魂のありさまが変わってしまうことになります。想いが蓄積していくと、うっ積した想いのしこりとなり、それが肉体上にガンとして表れるかもしれません。肉体のガンを手術で取り除いても、想いのしこりが在リ続ければ、肉体に反映され、いずれ表れてきます。従って、ガンの根本的な治癒には、魂が癒されなければいけないと考えます。魂が癒されるためには、つらい出来事と正面から向かい合い、受け入れて、許し、表現できずにいた、うっ積した想いを手放さなければいけません。
また、摂理に反した想いを抱き、生活を続けていると、生きている目的である、魂の向上が図れなくなってしまいます。早く誤りに気付き、考えや生活を改めなければいけません。しかし、人はそう簡単に変われるわけではありません。そもそも、正しいと信じて、生きているのですから、変える必要があるなどと思っていません。どのようにしても変えられないところまで行き着くと、神の摂理である因果律が作動し、その結果、病気になります。ガンは否が応でも、休息を与え、自分を見つめさせる時をつくります。間違った生き方をしていたのか、追い求めていたものに価値はあったのか、そして本当に大切なものは何か、突きつけられた現実の前に、考えざるを得なくなります。そして、生命よりも大切なものはないことに気付きます。生命とは魂ですから、魂に気付き、本当の自分に気付くことになります。魂に目覚めれば、神の摂理である「愛」に気付くことになります。自分ひとりで生きてきたのではなく、多くの人に支えられて生きてきたこと、お互いがお互いのために存在すること、すべてが愛という力によるものです。ガンは肉体の死に至らせる病として存在するのではなく、生命の危機にさらされることにより、生命と正面から向き合い、本当に大切なことに気付かせるためにあると思います。
病気の治癒は、病変を消滅させることではありません。考え方や生き方が健全になることであり、魂が主導権を握り、摂理に適った考え方、生き方に変わることです。その結果として病変が消失すると思われます。
私は知りたいことがあります。それは、医学的治療に頼らず、ガンが治癒した人たちについてです。本当に必要な研究は、新たな抗ガン剤の開発ではなく、例外的に扱われている、ガンが治癒した人たちを対象にした研究です。なぜ自然治癒が起きたのか?その人たちに共通するものは何か?ガンになったことをきっかけに、考え方や生き方が変わったのか?です。きっと興味深い結果が得られるはずです。知る限りにおいては、偶然治癒したのではなく、今までの考え方や生き方とは決別して、治すという強い意志を持ち続け、その結果治癒している人が多いと思われます。医者に治してもらおうとする人でなく、自助努力で治そうとする人だと考えられます。医者は病気を治す人ではありません。プロとして治すのを手伝う人であり、物理的に修復を行なう人です。治すのはあくまで患者であり、治しているのは自然治癒力です。医学にはどうしても限界が有ります。その現実を忘れて、手術や薬で治そうとするのであれば、患者は大きな損失を被ることになります。あらゆる医学的データは病気の本質を表すものではありません。時として無用な恐怖心を生み、自然治癒力が働くのを妨げる方向に向かわせます。手術は病巣を除去することで、不安や恐怖心が少なくなり、自然治癒力が回復するのであれば有用だと考えます。しかし、神が与えた自然治癒力を損なわせるような治療、病気と正面から向かい合い、自己と向かい合う内省の時間を奪うような治療には賛同できません。なぜなら、ガンは大切なことに気付き、魂が目覚めるためにあり、その先に新しい「生」が待っていると思うからです。
ガンは肉体に現れた病巣との闘いではなく、不安や恐怖との闘いです。それは長く、厳しく、つらい、逃げ出したくなるような闘いかもしれません。待ち構えているかもしれない死や、ガンの進行にともなう痛みに対して、否が応でも不安や恐怖が生まれてしまいます。不安や恐怖に打ち克つためには、正しい知識も必要です。きわめて重要な知識は、死は肉体から魂が解き放たれる現象であり、死の後も生命(魂)は生き続け、意識は存続するということです。跡形もなく存在が消えてしまうのでは、決してありません。繰り返し言います。生命は魂であり、神の一部であるため、死のうにも死ねないのです。死とはどういうものなのか、経験すればはっきりと分かりますが、決して怖いものではありません。知らないから怖く思えるのであり、私の知る限りにおいては喜びです。
そして、痛みはからだの異常を知らせるシグナルであり、ガンの存在を痛みにより知らせています。ガンの活性状況を反映していて、ガンの活性が高まった時に、強く痛みを感じると考えられます。心が不安や恐怖に傾くと、ガンの活性は高まり、痛みが増強すると思われます。痛みから不安や恐怖が生まれ、それによりガンの活性が高まるため、痛みが強まり、さらに不安や恐怖が強くなり、ガンを活性化させるという、悪循環が生まれます。痛みはガンが存在しているというシグナルであるため避けられません。難しいことですが、痛みを感じても、出来るだけ心を平穏に保ち、不安や恐怖を抱かないようにした方が、賢明と思われます。ガンを活性化させると同時に、生命(治癒)力の流入を妨げてしまうからです。
不安や恐怖に立ち向かう最強の武器は、やはり愛です。支えてもらう、励まされる、涙を拭いてもらう、愚痴を聞いてもらう、つらい気持ちをぶつてもそばに居てくれる、すべてが愛あればこそです。霊的な力である愛により、不安や恐怖がどれだけ和らげられているかわかりません。周りから愛はもらえないという人がいるかもしれませんが、そうであれば、もう亡くなってしまった最愛の人に、愛念の想いを伝えて下さい。むこうから、不安や恐怖に打ち克たせる愛の想いが返ってくると思います。もし、そんな人もいないと言うのであれば、神に、「この不安や恐怖に打ち克つために、力を与えて下さい」と、祈って下さい。神の心は愛であり、つながりは永遠です。神の愛が、魂に伝わり、不安や恐怖が和らいでくるかもしれません。ガンを癒す力は愛だと思います。
こんなことを言うと叱られるかもしれませんが、怖れるのではなく、いろいろなことを気付かせて、教えてくれたガンに感謝して下さい。ガンを愛する想いを持てたならば、ガンの存在する意味はなくなると考えています。
神の愛により、魂が癒やされ、病が癒やされることを祈っています。
2014年3月23日日曜日
うつ病と心のエネルギー
私のそばにいる、まじめで、一生懸命生きている人が、うつ病になりました。早く良くなって欲しいと願うばかりです。
自分に厳しく、人にやさしかった人が、病気になり、なぜ苦しまなければならないのでしょうか。
周りを気遣いすぎたり、頑張りすぎると、うつ病になると言われますが、家族や会社のためを思い、頑張るだけ頑張った人が、ご褒美をもらうのではなく、病気になるのでは割に合いません。
どれ位、多くの人がこの病に苦しんでいるでしょうか。
悶え苦しむ心の中は、外からうかがい知ることができません。
私の知識や解釈が正しいのかわかりませんが、うつ病に苦しむ人の一助となれば幸いです。
うつ病は、つらい出来事を経験して、心に過度のストレスが加わったり、過労が続いたために、脳内伝達物質であるセロトニン、ドパミン、ノルアドレナリンの分泌が減少し、意欲低下や気分の落ち込みが亢進し、脳のエネルギーが枯渇して、日常生活に支障を来たした状態と言われています。
治療として、まず十分な休養を取り、症状改善のため薬物を服用し、必要に応じて精神療法やカウンセリングを受けます。
残念ながら、多くの精神疾患は医学的に十分な解明がされていません。
それは(研究)対象が物質次元に限定されているためであり、うつ病は、精神的、霊的次元の病であり、根本的原因の解明と治療方法の確立には、霊の存在を認めなければならないと思われます。
人が生きて、呼吸して、活動するすべての力は、神を源とした霊力です。
すべての生命は神とつながり、霊力により生かされています。
霊力は生命力と言い換えても良く、生命力には病気を癒す自然治癒力も備わっていると考えられます。
従って、霊力をふんだんに受け取ることが出来る人は活力に溢れ、病気になりにくく、反対に受け取りにくくなると元気がなくなり、病気になりやすくなると考えられます。
うつ病は、脳の機能異常ではなく、心(精神)に生命力(霊力)が十分に行き渡らなくなってしまったことが、根本原因として考えられます。
肉体を維持し、活動するためのエネルギー源は、食事から採りますが、心の活動を維持しているエネルギーの源は霊力であるため、どんなに栄養のあるものを食べても、心にエネルギーが供給されるわけではありません。
心(精神)のエネルギーは、魂が受け取った生命(霊)力が変換されたものです。
魂が受け取る生命(霊)力の量は、心(精神)の状態により大きく左右され、不安感、悲しみ、取り越し苦労、恐怖心などがあると、霊力を受け取りにくくなります。
人生には、楽しいこと、うれしいこともあれば、悲しいこと、つらいこともあります。
遭遇するさまざまな出来事は、さまざまな感情を生み出します。
情動が大きかったり、長引いたりすると、より多くの心のエネルギーが消耗されます。
うれしいことや楽しい感情は、心のエネルギーの消耗があっても、魂により多くの生命力が流れ込むため、心にエネルギーは供給され問題はありません。
しかし、悲しみや不安、怒りや嫉妬などの感情を持つと、魂に流れ込む生命力は少なくなり、心へのエネルギーの供給は少なくなってしまいます。
また、神経をすり減らすような労働が続いても、心のエネルギーが消耗されていきます。
つまり、深い悲しみや、強い不安や恐怖などの感情を持ち続けると、心のエネルギーは激しく消耗しているにもかかわらず、魂に流れ込む生命力は少なくなり、エネルギーは不足していきます。
心のエネルギーの補充に最も大切なのは、睡眠です。
睡眠は、心身を休ませるためにあると考えられますが、睡眠中は魂が肉体より離れて霊界に行き、霊界において生命力の補充をしていると考えられます。
したがって、睡眠が不足すると、十分な生命(霊)力の補充が出来ないため、心のエネルギーを枯渇させることにつながります。
ヒーリングを行うと、多くの患者さんは、リラックスして眠くなりますが、このことは心身を癒すために、心を穏やかにすること、睡眠を取ることが、いかに大切であるかを物語っていると思います。
しかし、多くの難題が重なったり、物事が思うように進まなかったりすると、焦りや不安が生まれて、頭から離れなくなります。
ひどい仕打ちを受けたり、つらいことがあったり、悲しいことがあると、怒りや恨み、悲しみや怖れの感情に、心が支配されてしまいます。
睡眠は大切だと分かっていても、そのような好ましくない感情が居座ってしまい、心は波立ち、眠りを誘う穏やかな心にはなれず、眠りに落ちることはできません。
たとえ眠れたとしても、眠りが浅くなった時に、好ましくない感情に再び支配され、眠れなくなってしまいます。
1日をリセットする睡眠が取れなければ、新しい1日は、疲れていた昨日の続きです。
心を維持しているエネルギーが、急速に枯渇しはじめてきます。
心は肉体と違い、体感的に疲労を感じることがありませんので、無理に無理を、我慢に我慢を重ねてしまい、心の疲労が限界を超えてしまいやすいと思われます。
また、心が傷ついた時にも、心を休ませ回復させる時間が必要です。
身体が傷ついた時には、痛みを感じたり、身体が動かせなかったりするため、癒えるまで身体を休ませます。
しかし、心の傷に知覚的な痛みはなく、自覚的な症状に乏しいために、心を休ませ、傷を癒やす必要があるのにもかかわらず、休ませずにいることが多く、自分ではどうすることもできなくなります。
そのため、神の摂理が働いて、強制的に心身を休養させることになります。
つまり、うつ病は、心の傷を癒すため、心の疲労を回復するために、神が与えたブレーカー装置だと考えられます。
心の(精神)活動や身体活動を、一時的に不活発な状態にさせて、心のエネルギーの消耗を抑えて、心の傷を癒し、心の疲労を回復させます。
うつ病は、つらく、苦しく、時に生きていることさえも否定しまう、耐え難い病と思われます。
しかし、すべての病気と同じく、魂を目覚めさせ、向上させるためにあります。
苦痛は、捕らわれている想いを手放し、不自然な生活から脱却させ、大切なことに気付かせるための触媒です。
大切なことは、拒絶ではなく認めることであり、恨みではなく許すことであり、争いではなく平和であり、競争ではなく協調であり、すべては愛から生まれます。
こだわらない、執着しないことも、うつ病には大切です。完璧や完全を求めるのも一種の欲であり、その欲が自分自身を苦しめることになります。
この世に生まれてきたこと自体、完全とは程遠い存在であることを、証明しています。
すべてを完璧に、完全にやり通すのは不可能であり、完全でない自分に、完全を求めてはいけません。
いい加減にするのは良くありませんが、完全を求めて頑張りすぎて病気になるということは、それが不自然な考え方であり、生き方だからです。
まわりの言動に振り回されると、一生懸命頑張りすぎてしまい、自分を追い詰めてしまいます。
それぞれに役割があり、自分なりに果たすだけで十分です。
将来、訪れるかもしれない、障害や困難、あるいは別れなどを、あれこれと考えてしまったり、過去の出来事を必要以上に意識してしまったりするのもやめましょう。
この世に生きているのは魂を向上させるためであり、従って悲しみや苦難はつきもので、避けて通れません。過去は閉じられていて、変えることはできません。
しかし、今をどう生きるかで、未来を変えることは可能です。
うつ病になり、何も出来なくなってしまい、自分を責めているのであれば、それは誤りです。
神の摂理が働き、目的があって出来なくさせているのですから。
無駄な時間ではなく、必要な時間です。焦ったり、不安に思ったりせず、ゆっくりと、動けるようになるのを待ちましょう。
つらい病状は、必ず改善してくるはずです。
なぜなら、生きる力は自分で作り出すものではなく、生命である魂が神とつながっていて、神から魂に流れ込んでくるものだからです。
神的エネルギー(生命力)により、生命は生かされています。
神とのつながりが深まれば、より多くの生命(治癒)力が流れ込み、病は癒されてきます。
今は、何をするのも、考えるのも無理であれば、何も考えず、ただただ、ゆっくりと休んでいましょう。
そうすれば、心が生命力で少しずつ満たされてくるはずです。
心が生命力で満たされてくれば、自然に、考えたり、動けるようになってきます。
神とのつながりは永遠であり、一瞬たりとも切れることはありません。神とのつながりを深めるためには、神の摂理に気付き、合わせるしかありません。
すべてのものは、意味を持って存在して、かけがえのないものです。
すべてのことは神の摂理に従って起きています。
神の摂理は愛ですから、安心していればいいのです。表面上は悪く見えても、真相は良い方向に進んでいるので、心配は全くいりません。
神からの生命力により、癒やされない病気はありません。
参考ページ; 「うつ病の人へ」
2014年3月14日金曜日
愛はすべてを乗り越えてつながる
人が死んだらどうなるのか?昔から多くの人を悩ませてきました。
作家である渡部昇一氏の「人は老いて死に、肉体は亡びても、魂は存在するのか?」という書籍にの中に、興味深い一節を見つけました。それは“パスカルの賭け”と言われるものです。パスカルは、「人は考える葦である」という名言を遺し、パスカルの定理も発見した、17世紀のフランスを代表する思想家であり、物理学者です。現代と同様に、パスカルが生きた時代においても、神を信じる人もいれば、無神論者もいたと思われます。パスカルは、神が存在するのか、それとも存在しないか、どちらか一方に賭けるとしたら、存在する方に賭けた方が賢明だと言っています。
神の存在を信じる人は、肉体の死後も生命は続き、来世があると信じます。神の存在を信じない人は、肉体の死をもって終局を迎え、無に帰すと考えます。仮に、神の存在を信じる方に賭けたとします。そして、肉体が死んだ後も生命は存続して、生き続けたとします。そうであれば、神が存在したことになり、賭けに勝ったことになります(〇)。もし、神の存在を信じる方に賭けて、死後の世界はなかったとしても、賭けには負けたことになりますが、無となってしまうため、勝敗自体が無効となります(△)。また、神の存在を信じない方に賭けて、死後の生命がなければ、賭けには勝ちましたが、無となってしまうため、同じく勝敗自体が無効となります(△)。問題なのは、神の存在を信じない方に賭けて、死後の生命があった時です。賭けは負けであり、生命はあるわけですから、負けをはっきりと意識することになります(●)。
神の存在の有無を白黒はっきりさせることはできませんが、パスカルは神の存在を信じる方に賭ければ、少なくても負けはなくなり、リスクがなく、理にかなった選択だと言っています。科学者らしい論理的な考え方に、感心しました。
パスカルに言われるまでもなく、私は魂は存在し、肉体が死んだ後も、生命は続くと思っています。何かを信じているためではなく、自分自身の経験に基づき、そう思っています。プライベートな出来事であるため、詳細は控えさせていただき、書くことにします。
その経験とは、あるご家族と私が出会い、亡くなった方からメッセージを私が受け取り、ご家族に伝えるというものでした。
そのご家族は、仕事の関係で訪ねて来られました。初対面でしたしが、少し前にご家族が亡くなられたと聞き、悲しみを癒すために、何かお役に立てるかもしれないと、その時、直感的に思いました。そして、初めてお会いした数日後の朝のことでした。6時前くらいでしょうか、意識が覚醒する直前に、「ベートーヴェンピアノソナタ」という言葉が、頭の中にはっきりと思い浮かびました。突然そんな言葉が頭に思い浮かぶはずもなく、何らかの意図を持って伝わってきたものと判断し、忘れないようにその言葉を復唱しながら、記憶しました。クラッシック音楽を聴くのは大好きですが、思い浮かんだベートーヴェンピアノソナタがどんな曲なのかは、その時はわかりませんでした。ベートーヴェンのピアノソナタは数曲あり、そのうちの1曲がご家族にとって何らかの意味を持つと、後に直感しました。あまりにも具体的で鮮明でしたので、必ず意味があるという、妙な確信があり、後日、お伝えしたところ、予想した通り、ご家族にとって忘れられない、大切な曲であることがわかりました。故人の棺の中にベートーヴェンピアノソナタのCDを一緒に入れたそうです。
ご家族にとって驚きでしたが、私にとっても驚きであり、偶然一致する確率は、限りなく低いと考えられました。たった1語でしたが、ご家族の話を聞いて、間違いなく亡くなった方からの言葉だと確信するとともに、死後にも生があることを、あらためて実感しました。それから数日後になりますが、仕事が一段落して、すべての雑事を忘れ、何も思わず、何も考えず、鎮まった心で、受身の気持ちでいる時間がありましたので、故人に向かって、「ご家族に対して何かお伝えすることはありますか?」という想いを、投げかけてみました。しばらくして、それに呼応するかのようにメッセージが伝わってきました。次から次へと言葉が頭の中に思い浮かび、それが文章となっていき、それを紙に書きとめていきました。
小説のように、きれいに整理された文章ではありませんでしたが、家族をあたたかく見守り、気遣い、励ます想いに溢れていました。自分が突然いなくなって、悲しんで沈んでいる家族の様子を見て、生きていて、そばにいて、見守っていることを、どうしても伝えたかったのだと思います。向こうの世界から、こちらの世界にメッセージを伝えることの難しさは、シルバーバーチの霊訓に書かれていますが、家族を愛する強い想いがあったからこそ、あらゆる困難を乗り越えてメッセージを伝えてきたのだと思います。
もしかしたら、このメッセージは、私の潜在意識や願望の現れではないかと、思うこともありましたが、ご家族に対して特別な感情や、願望を持っているわけではありません。そして、その前に伝わってきた言葉は、故人を象徴するものであり、確かな証拠となっていましたので、自信を持ってご家族にメッセージを、お伝えしました。人によっては、悲しみに付け込んだ、ひどい侮辱と受けとられてしまうかもしれませんが、私には伝える責任があり、どう思われてもかまわないという覚悟がありました。ご家族は、涙を流しながら聞かれていましたので、心に届いたものと思われ、ホッとしました。仲立ちをして、悲しみが癒され、永遠の別れではなく、先に再会が待っていることがわかり、安心してもらえたならば、これ以上うれしいことはありません。
死んだらどうなるのか?どう考えようとも、個人の自由であり、人が干渉することではありません。ただ、この経験に虚偽はなかったので、肉体の死の後も、魂として生きていて、目には見えなくても、愛する家族のそばにいると解釈する方が、合理的で自然だと、私は思っています。いかに疑り深い人であっても、同じ経験をしたのならば、自分の理性や感性を否定しない限り、魂の存在を認めざるを得なくなるのかもしれません。
生命は魂であり、肉体は魂の想いを表現するための媒体(道具)です。死とは表現する媒体が変わることであり、肉体を失ったとしても、想いがなくなってしまうわけではありません。こちらの想いは、向こうに行った愛する人に確実に伝わっています。しかし、向こうの世界から、こちらに想いは伝えるのは、きわめて困難になります。なぜなら、こちらの世界では、肉体(物質)の存在があまりにも大きいため、魂を意識することは、ほとんどありません。さらに、あわただしい生活を強いられ、雑念や雑音から解放されて、心が静まっている時がほとんどありません。向こうの世界から、想いを伝えようとしても、受け取る側の条件が整っていないと思われます。例えて言えば、感度が悪くなった受信機で、騒がしい部屋の中で、ラジオ放送を聴くようなものと考えられます。また、死んだ人の想いなど、伝わってくるはずがないと思ってしまえば、ラジオのスイッチを切ってしまったのと同じです。私個人の意見としては、こちらの条件さえ整えれば、(魂の)感度を良くして静寂が得られれば、どなたでも、向こうに行った愛する人の想いを受け取ることが出来ると考えています。それを妨げているのは、唯物的思考であり、偏見であり、悲しみの思いなのかもしれません。
(魂を)表現する媒体の次元は違いますが、お互いの魂は同次元ですから、魂から生じる想いは、次元を超えて認識し合えるはずです。悲しみの思いを、しばし脇に置いて、日々の喧騒から離れ、心を鎮めて、愛する想いを投げかけていれば、いつの日か向こうからの想いを受け取り、魂が共鳴して、深い悦びを感じるとともに、生きていることを実感できると考えています。
向こうに行った人の願いは、この世に残してきた愛する人が、(向こうで)元気に暮らしているという真実を知り、少しでも早く悲しみを乗り越えて、この世の人生を活き活きと、全うしてもらうことだと思います。
2014年3月6日木曜日
後悔しないために
先日、夢を見ました。
普段はあまり見ることはないのですが、飼い犬のリックが出てきて、はっきりと覚えていました。私は毎朝6時半頃、リックを連れて散歩に行きます。夢の中でもリックを連れて散歩をしていましたが、いつもとは違いリード(綱)を付けておらず、自由に散歩させていました。散歩コースである小さな河に沿って道を歩いていると、河の中で大きな犬が泳いでいました。そして前の方からは、犬を連れた人が歩いてきました。リックを跳びかからせてはいけない気持ちと、犬と一緒に河で泳いでみたらという気持ちとで、リックを持ち上げ河の中へ放り投げました。
ところが、道から水面まで2mもないはずだったのに、下を覗くと数十mの断崖でした。リックは真っ逆さまに下に落ちていき、河の縁にあるコンクリートに打ち付けられて、ピクピクと痙れんしているのが見えました。何と言うことをしてしまったんだ、私のせいでリックを死なせてしまったかもしれないと焦り、何とかしなければと思い、自分も飛び込み、まっ逆さまに落ちていきました。下に激突する寸前に目が覚めました。
私の家には犬が5匹いますが、リックは最年長の13才で、まだまだ元気ですがいつまでも一緒に居られるわけではありません。別れの時は、少しずつ近づいています。夢の中とはいえ、自分の過ちで、罪もない飼い犬が死んでしまい、横たわっている姿を見て、とんでもない後悔の念に襲われました。そして、いかにリックを愛していたのかが、よく分かりました。後悔のないように、十分愛しなさいと、言うことなのでしょう。
ところで、人は死ぬと脳の機能が停止しますが、魂(霊)は生き続けています。生命の本質である魂が、肉体から開放されたのであり、意識はそのまま存続しています。肉体の一部である脳は、想いを言葉や行動で表現するための司令塔であり、想いが生まれるのは魂です。(肉体の)死により、心がなくなってしまうことはありません。魂の想いを、肉体で表現できなくなることであり、表現はさらに自由に、円滑にできるようになります。
肉体の死の後に、誰もが必ずしなければならないことがあります。それは、この世での一部始終を振り返ることです。
生まれてから死ぬまでの間に、抱いた想いと、すべての行いを振り返り、総括します。膨大な量になると思われますが、細大漏らさず、正確に、魂(オーラ)に刻まれています。
子供の頃、死ぬと閻魔大王の前で裁きにかけられ、悪いことをしていると舌を抜かれるという話をよく聞きました。閻魔大王はいませんが、自らが振り返り、神の摂理に照らし合わせて、自らを裁くことになります。1つ1つの想いと行いが、どのような結果をもたらしたかを、知ることになります。そして、その行いを、どんな想いでしたのかも、合わせて振り返ります。行いの動機が問われるわけです。動機が人のためなのか、自分のためなのかが、明らかになります。同じ行いであっても、人を思いやる気持ち、喜んでもらいたい気持ちからであれば、摂理に適っていますので、喜びで満たされます。しかし、見栄や偽善から出たものであれば、摂理に反していますので、悔いて、恥じることになります。
そして、人や社会のために、奉仕をする機会が訪れた時に、どういう行動をとったのか、また、困難や障害が降りかかった時に、どう対応したのかも、振り返ります。どちらも魂を向上させる好機であり、正面から受け止めて、最善を尽すのが正道であり、そうすれば後で悔いることはありません。残念ながら逃してしまったのであれば、悔いることになります。
この世に生まれてきた目的は、魂を向上させるためです。楽しみや喜びの中で、魂が向上すれば良いのですが、神の摂理はそうではありません。苦難を乗り越えようと必死に生きる中で、向上が得られます。つまり、この世の目で見ると、何の苦労もなく、安泰な生活をしている人は幸せで、苦難の多い人は不幸な人生と思えますが、霊的に見ると全く逆であり、苦難を乗り越えてきた人ほど、魂は向上して、この世に生まれてきた目的を果たしていることになります。
苦難の最中にいる時は、心にゆとりはなく、早く抜け出したいと思うばかりです。しかし、向こうの世界に行き、この世の人生を振り返った時に、つらくて仕方がなかった苦難の経験こそが、魂を向上させていたことが、はっきりとわかるために、貴重な経験が与えられたことを感謝するようです。
苦難や悲しみは、人を挫折させ、失望させるためにあるのではなく、魂を向上させ、目覚めさせるという深甚な意味があります。親が子供を叱るのは、子供に生きていく上で大切なことを教えるためであり、愛しているからです。同様に、神が人に苦難を与えるのは、大切なことに気付かせるためであり、神に愛されているからです。
神の公正は完璧であり、苦難を乗り越えようと奮闘した人には、報償として魂が高みに導かれます。
苦難は、神の摂理として与えられているので、乗り越えられないはずはありません。
ところで、人の体を見ると、さまざまな組織があります。目や耳、鼻の存在する意味ははっきりしていますが、のどにある口蓋垂(のどちんこ)はどうでしょう。なくてもいいと思っていましたが、手術で切除された人は、気管に食物などが入る誤嚥が多くなってしまったそうです。無用に見えても誤嚥を防ぐという大切な役割があったのです。
神は必要のないもの、意味のないものは、決してつくりませんし、与えません。一つ一つのもの、一つ一つのことが、大切な意味を持っています。しかし、この世で人は、5感で認識し、頭で考えてしまうために、深い意味を理解することがなかなかできません。次の世界に行くと、自分の身に起こった出来事は、偶然でも、運、不運でもなく、因果律の結果か、もしくは与えられた試練であり、どちらにしても魂を向上させるためだったことが、つぶさにわかります。そして、神の愛を実感し、叡智の完璧さに驚嘆するようです。
事実を知らなかったとはいえ、私はどれくらい向上の機会を逃したことでしょう。全力を尽くして立ち向かわなければいけないのに、適当な理由を付けて逃げてしまったことは、たくさんあります。摂理に反した行いもあります。夢の中でさえも、後悔の思いは強烈でした。向こうの世界に行き、「この世の総括」をした時にする後悔の思いは、さらに強烈だと思われます。人が後悔しないように生きようとするのは、先に待ち受けている「この世の総括」を知っている、魂の要求なのかもしれません。
自分が取った行動が、魂の想いに忠実であり、そして神の摂理に適ったものであれば、恥じることや、後悔することは、何一つありません。魂の想いに忠実でなかったり、神の摂理に適っていない時に、後悔が生まれると思います。神の摂理(心)は愛ですから、どんな時でも、他者を思いやる気持ち、許す気持ち、感謝の気持ちを忘れてはいけません。また、どんな苦難が降りかかろうとも、それを正面から受け止めて、乗り越えるために、最善を尽くさなければいけません。つらくても、後悔しないためには必要と思われます。
2014年2月27日木曜日
摂理(自然法則)は想いにも働いている
私は、日本という国に生まれ良かったと思います。なぜなら、当たり前の自由があるからです。世界中には、その当たり前の自由がなく、窮屈な思いをしたり、肉体的、精神的に束縛を受けている人たちが、まだたくさんいます。
私は、いつ、どこで、何をしようと自由です。かと言って、何をしても良いわけではありません。法治国家であるため、法律を破ることをすれば、罰せられます。また、社会にはモラルというものがあり、それを逸脱した行為に対しては、咎められたり、非難を受けたりします。自分の取る行動は、他の人から見られていることもあり、多くの人は法律やモラルを守りながら、生活しています。
ところで、自分の思いや考えはどうでしょうか。どう思おうと勝手であり、何を考えても自由であり、咎められることはありません。また、自分から言わない限り、他人には知られることもありません。たとえ、悪い考えや、良くない想いを抱いたとしても、それを罰するものは何1つなく、心で思っているだけならば問題はないと、ほとんどの人は考えています。
仮に、他人から、ひどい仕打ちを受けたとします。抑えきれない怒りの感情が生まれ、ある人は相手に殴りかかるかもしれません。また、暴力ではなく、言葉で相手に怒りをぶつける人もいるでしょう。行動や言葉で表さなくても、心の中で相手を憎んだり、恨んだりする人もいると思います。感情にまかせて殴りかかれば、警察に捕まり、罪を問われ罰せられます。言葉で怒りをぶつけても、相手の心を傷つけてしまえば、罪となり罰を受けることがあります。心の中で、相手を憎んだり、恨んだりするのはどうでしょう。行動に移さなければ、法律的に罪に問われることはありません。
人間が作った法律では不問となりますが、霊的な摂理では、そういう訳にはいきません。摂理は、自由意志により自らが取った言動はもちろん、心の中で考えたことや、思ったことに対しても、働いています。心の中は、他人には覗けなくても、神には知られることになります。なぜなら、さまざまな想いは魂が作り出すものであり、魂は神の一部であり、つながっているため、すべての想いは神の知るところとなります。自分(の魂)を欺けないように、神に対して繕ったり、ごまかしたりすることは、絶対にできないのです。神を信じようと、信じまいと、神の摂理を知ろうと、知るまいとに関係なく、人が抱いた想いのすべてに働いて、正確に結果をもたらします。
神の摂理(心)は「愛」であり、怒り、憎しみ、恨み、妬みなどの想いは、「愛」とは対極にあるため、摂理に反しています。もし、摂理に反した、怒り、憎しみ。恨み、妬み、貪欲などの感情を抱き続けたなら、それは霊的な罪となり、苦痛を経験して償わなければいけません。
地上の物質に万有引力という法則が働き、支配しているように、魂には霊的法則(摂理)が働き、支配しています。石を真上に投げれば、真下に落ちてくるように、自らの想いも、自らに戻ってきます。もし相手に怒りをぶつけたなら、その怒りを相手からぶつけ返されます。それがなかったとしても、相手に苦痛を与えていたならば、相応の苦痛の経験として、戻ってきます。また、怒りや憎しみの感情を抱き続けると、魂のありさまが変わってしまい、やさしさや思いやりの心、平和な心が失われ、些細なことで怒りやすくなったり、人の過ちが許せなくなったりして、いさかいが多くなってしまいます。次第に周りから人が遠ざかり、孤独を味わったり、制裁を受けて、苦痛を経験することもあるでしょう。また、魂のありさまの変化が、肉体上の変化として現れ、病気として苦痛を経験することになるかもしれません。
しかし、その苦痛も人を不幸にさせるためにあるのではなく、摂理に気付かせ、摂理に反した想いを抱かないようにするためにあります。子供が悪いことをしたら、親に叱られます。悪いことだと教えるためには必要であり、子供にとっては叱られるのは苦痛であるために、その後、同じことを繰り返さなくなります。神の摂理(心)も、子を思う親の気持ちと同じであり、間違っている(摂理に反している)ことを、苦痛を通して教えているのです。誰しも、つらいことが重なったり、思うようにいかなかったりすると、穏やかな心を失い、怒りの感情が生まれやすくなります。私も以前は、どちらかと言うと感情的な人間であり、瞬間的に怒りの感情がわき上がりやすかった方だと思います。しかし、怒りをぶつけても、解決するどころか、返って事態が深刻になったり、後悔することがほとんどでした。今は、いくつかの神の摂理を知っているため、嫌なことや、つらいことがあっても、なるべく穏やかな心を保つように努めています。
憎しみを表せば、憎しみが返ってきますが、愛を表せば、愛が返ってきます。実に単純なことなのです。それが真実であることを、歴史が証明しています。インドのマハトマ・ガンジーは他国の支配に、非暴力で臨みました。もし、彼が暴力(武力)で対抗したのなら、暴力(武力)で返されて、独立はとても出来なかったでしょう。非暴力であったからこそ、相手も非暴力にならざるを得ませんでした。彼は「人類が自由になるために、非暴力は、もっとも強い武器である。それは人間の英知によって作られたあらゆる武器よりも、強いものである。」と言っています。また「敵と相対するときには、愛で征服しなさい」とも言っています。たとえ理不尽なこと、道理に適っていないことであっても、神の摂理に背いた怒りや憎しみの感情にまかせて、暴力で解決するのではなく、神の摂理に適った平和や共存の想いで解決しようとしたため、神の力が得られ、自由と独立を勝ち取ったと考えられます。ガンジーは政治的指導者と言うより、神の摂理を知る偉大な霊覚者でした。
この世の中を生きていると、さまざまな人との出会いがあり、さまざまなことが起こります。楽しく、うれしいこともあれば、つらいこと、嫌なこともたくさんあります。そんな時に、感情に流され、怒りや憎しみ、妬みの想いを持ってしまうのは、賢明ではありません。なぜなら、想いや考えも目には見えませんが自分の一部であり、神の摂理が働くからです。怒りや憎しみ、恨みや妬み、貪欲の想いは、自分の魂を汚す上に、苦痛として自らに返ってきますので、何一つ良いことはありません。けれども、怒りや憎しみの想いを抱かずにいるのは、口で言うほど簡単ではありません。ガンジーやイエス・キリストが言うように、憎しみを愛に変えていくのは、きわめて難しく感じられます。もし、それが簡単にできるようであれば、この世に生まれてくる必要はないのかもしれません。
未熟な私は、良くない感情が芽生える前に、こう思うようにしています。「この世に生まれてきた目的は、魂を向上させるためであり、つらいこと、悲しいこと、困難なことを乗り越えていくことで、魂は向上する。この世に生まれてきた限り、つらいこと、悲しいこと、困難なことに出会うのは避けられない。与えられた試練として、乗り越えなければいけない」そして「許すことで、怒りや、憎しみや恨みの想いを抱かず済む」と。許すことなど断じてできないと思うこともあるかもしれません。しかし、許さなければ、憎しみや恨みの想いから、いつまでも解放されません。それは、自分の魂にとって、決して良いことではありません。許すことは自己犠牲であり、愛の表現です。
自身に降りかかる出来事に対して、怒りや憎しみなどの想いを抱くか、それとも許すか、どちらを選択するのも自由です。ただ、自分の想いにも、神の摂理が働いていることは、紛れも無い事実なのです。
2014年2月21日金曜日
ガンと霊的摂理
私は、ガンという病気を経験したわけではありません。
そのつらさは想像を超えるものだと思います。だから安易な気持ちで書きたくはありません。
ガンは、単純ではなく、根が深い病気だと考えています。
私には、まだ多くの人に知られていない、多少の霊的知識がありますので、その知識がガンという病気を理解する上で、少しでも役立てばと願っています。
からだの不調が続き、おかしいと思いつつも、仕事が忙しく、暇がないと、不調の原因を突き止めるのは、つい後回しにしてしまいがちです。
いよいよ症状が深刻になり、家族にも促されて病院に行くことになりますが、普段、行き慣れていない病院で、検査をしていくうちに、不安は高まっていきます。
そして主治医から、「ガン」という病名を告げられた時の衝撃は、経験した人でなければ分からないと思います。
医者により治療法が提示され、手術可能であれば手術をして、ガン組織を肉体から取り除いていきます。
そして今までと同じ生活に戻り、あわただしく過ごす中で、からだの異変に気付きます。
一番怖れていたガンの再発が現実のものとなり、何とか生き延びたいという願いから、医者が提示する治療に、わらをもすがる思いで臨んでいきます。
これは、多くの再発ガンの患者さんが辿る道だと思われます。
ガンは肉体を死に至らしめる病であるという認識は、恐怖心や不安感を生み出し、病気の治癒を妨げてしまうため、決して良いことではありません。
霊的次元から見たガンを、私なりの解釈で書いてみます。
ガンの発生原因は、環境や遺伝という肉体次元の原因を否定するわけではありませんが、主因は摂理に反した想い、怒り、憎しみ、妬み、恨み、貪欲などが蓄積して、魂のありさまが変わってしまったために起きると考えています。
からだの平和、調和、協調を乱しているガンは、魂が平和、調和、協調を欠いてしまった結果であり、内にあるものが、外に顕れて知らせていると思われます。
摂理に反した想いや行いに対して、因果律が働いて病気となり、相応の苦痛を経験して償うことになります。
かつてない苦痛と、逆境の経験は、心の奥底にまで響き、眠っていた魂を目覚めさせます。
長い、長い沈黙を破って魂が目覚めると、霊的な「生命」と「愛」が、最も大切なものであり、大切だと思っていた物的なものは、価値がないことに気付きます。
目に見えるすべてが輝いて見えたり、愛おしく思えてくるのは、魂が目覚め、神とのつながりが深まり、神の心である「愛」がふんだんに流れ込んできたためです。
神の愛により、不安や恐怖は追い払われ、さらに大きな生命力(治癒力)が流れ込み、魂は癒され、後を追うようにして、肉体の病は癒されていきます。
つまり、医学的にはガンを、遺伝子のコピーミスによる細胞の際限のない増殖と考えられますが、霊的には、内なる魂の変化が、外なる肉体の変化(病変)として現れたものと考えられます。
そして、医学的には、放置すれば増殖を繰り返した末に、母体の生命を奪ってしまうものと考えられますが、霊的には、摂理に背いた過ちを償い、魂を目覚めさせ、摂理に適った人生を歩ませるためにあります。
魂は、誰かに教えてもらい何かをしたり、知識を得たりして、目覚めるものではありません。
本当につらいことなのですが、自らが苦痛や苦難の経験をして、何とか乗り越えようと悪戦苦闘する中で、初めて目覚めます。
耐え難い苦痛や苦難にも意味があり、魂を向上させて、神の摂理を受け入れる土壌をつくっています。
従って、苦痛や苦難を経験し、魂が目覚め、大切なことに気付いたのなら、からだにガンが存在する理由はなくなり、治癒していくはずです。
しかし、多くの人は、ガンを単なる肉体次元の病変としてとらえてしまい、霊的次元に原因があることに、全く気付いていません。
めざましい医学の進歩にもかかわらず、死亡率が一向に低下しないのはどうしてでしょうか。
根本的原因を捉え損ねているためと、思えてなりません。
一方、余命数ヶ月と宣告された人の中で、手術や投薬もなく、奇跡的に治癒したり、または進行が止まっていたりする人がいます。
医学的には例外的な人として扱われ、問題にされませんが、根本的な治癒への糸口が、そこにあるのではないでしょうか。
その人たちに共通しているのは、ガンという病気になった意味を考え、内省し、考え方や、生き方が変わったことだと思われます。
ガンになる前に、ひたすら追い求めていた幸せや価値観と決別し、精神的、霊的に充足感が得られる生活に、変わっていると思います。
その人たちは、魂に目覚めたとは考えていないかもしれません。
しかし、結果として魂の窓は大きく開かれ、すべての源である神から、十分な生命力を受け取っていると思います。
太いパイプができて、ふんだんに生命力が流れ込み、ガンを治癒させたと思われます。
生まれ変わったように、活き活きとされている人が多く、一様に奉仕の心に目覚め、他者を慈しむ心、感謝の気持ちに溢れているように見受けられます。
神は愛であり、魂(生命)は神の一部であるため、魂に目覚めると、想いや行いは自然と摂理に適ったものとなります。
その摂理に適った想いや行いにより、神とのつながりがさらに深まり、より多くの生命力が流れ込み、ガンを封じ込んでいると思われます。
また生命力により、恐怖や不安は一掃されて、代わって、やさしさや、思いやりの心で満たされ、その表情は明るく輝いて見えます。
病気になったのは、偶然や不運ではなく、因果律の働きであり、必ず原因が存在します。
多くのガンの根本原因は、摂理に反した想いを持ち続け、魂のありさまが変わってしまい、不自然な生き方をしたことにあると思われます。
そのため、摂理に反した想いを抱くことになった過去の出来事があれば、正面から向き合い、事実を受け入れて、許すことが必要となります。
肉体上の変異した組織は、手術で取り去ったり、抗ガン剤で小さくすることはできますが、魂のありさままで変えることはできません。
埋もれていた自分の想いを知り、あるがままを認めて、許すことにより、その想いは手放され、魂のありさまは良い方向に変わっていきます。
ガンの原因となっていた想いを、自らが内側からなくしていかなければいけません。
そして、ガンという病気は、他力的な医療を受けることや、自力的な気力で立ち向かうには限界があります。
私は7年前に治癒力が出現しましたが、その生命力とも言うべき治癒力は、私の気(力)で作っているのではなく、外部から受け取り、患者さんに伝わっていきます。そのことが感覚としてわかります。
そして患者さんに伝わっていった生命力は、心を穏やかにさせ、肉体の病気を癒していきます。
たとえ唯物的な科学では否定されても、動かしがたい事実であり、「病気は生命力(治癒力)により癒される」さらに「魂が癒されることで、肉体も癒される」と、確信しています。
お伝えしたいことは、生命は魂であり、魂は神の一部であるため、すべての生命は神とつながっています。
生命力の源は神にあり、神とのつながりを深くすることにより、無尽蔵にある生命力(治癒力)を、どなたでも受け取ることができるのです。
その恩恵に授かれれば、百万の援軍を得たようなものです。
もし、存分な生命力(治癒力)を受け取ることができたなら、ガンは勢いを失い、やがて撤退していくことでしょう。
ガンの自然治癒は偶然でも奇跡でもなく、十分な生命力を受け取った結果として起こったと思われます。
生命力の源である神とつながっていることを意識(イメージ)し、穏やかで、明るい気持ちでいるようにして下さい。
そうすれば、より多くの生命力を、受け取り易くなると思われます。
さらに、神とのつながりを深めていきましょう。神は5感に触れるものではなく、摂理(法則)として全宇宙を支配しています。
お願いするのではなく、摂理に合わせることにより、自然と深まっていきます。
神の根源的摂理(心)は「愛」です。人や社会のために奉仕をしたり、人や動物を思いやり、やさしくすることも、愛の表現の1つであり、摂理に適っています。
また、世の中の平和や、人の幸せを祈ることも、愛の表現の1つであり、摂理に適っています。
利己的な祈りは神に届きませんが、「もう1度、世の中や人のために、役立たせて下さい」という、真摯な祈りは、神の摂理と一致し、つながりが深まり、病気を癒やす生命力(治癒力)が流れ込み、願いは叶えられるかもしれません。
神は愛であり、無限の叡智です。その可能性は人智をはるかに超えています。
いかなる状況からでも、治癒の道は開かれています。
参考ページ: 「ガンは愛により癒される」
「ガン(癌)は怖くない!」
2014年2月14日金曜日
ガンが嫌いなもの
母校から大学を紹介する小冊子が届きました。巻頭の特集に、今から20年ほど前に、病院の外来で良くお見かけした、ある先生のことが書かれていました。
その先生とは話をしたこともないのですが、活き活きと仕事をされていた若き日の姿が、心に残っていました。
タイトルは、「命のケア」~何かをすることではなく、そばにいることが大切~でした。
その内容についてですが、先生は「人が生まれてくるときに産科医が迎えるのならば、看取りのときにも医者がいてもいいのでは」と考えられていたそうです。
外科医だった先生は、日本に緩和ケアが現在ほど認知されていなかった90年頃から、「痛みをコントロールして、残された時間を患者さんが生きたいように支えてあげられる医療を」を目標に、こころとからだを支える医療を実践されてきました。
大学を卒業し、外科医になった先生は、術後、ガンが再発した患者さんと接する機会も多く、ガンの痛みに耐え、薬の副作用に苦しみ、やがて逝く患者さんを看とることになります。
そんな日々の中で、イギリスのホスピス医が書いた「末期癌患者の診療マニュアル」という本に、導かれるように出合いました。
本に書いてあるとおりにモルヒネを使用すると患者さんの痛みが嘘のように軽くなり、懸念した副作用もなく、自分がもとめていた、こころとからだを支える医療は、がんの痛みを癒す緩和ケアなのだと、この時気付いたそうです。
アルバイトをして渡航費を捻出し、イギリスの地で本場の緩和ケアを見聞してこられましたが、中にバーがあって、患者さんも職員も一緒にお酒を飲む。ペットもOK。
その一方で末期の肺がん患者がたばこを吸っている、常識を超えた自由さに驚いたそうです。
“治す医療”の概念からかけ離れた世界が新鮮であり、「何かをすることではなく、そばにいること」、緩和ケアにとって1番大切なものがそこにあったそうです。
帰国後、大学内に緩和ケアチームを立ち上げましたが、「医者は治すのが仕事。治さないのは医者の敗北を認めるようなもの」と言う、反対の声も少なくなかったそうです。
それでも、ご自身の信念に従い、現在まで、多くのがん患者さんと向き合ってこられました。
担当した患者さんの中に、乳がんが再発し余命3ヶ月と診断された女性がいて、婚約者がいたそうです。
ある日、婚約者から「結婚式ができないか」と相談を受けました。
式から3ヶ月だけの結婚生活、それをやる意義があるのだろうかと思ったそうです。
ところが、式の準備を始めてから病状は見る見る好転し、病院の最上階で挙げた結婚式の当日も痛みを全く見せなかったそうです。
全身の骨に転移したがんは、彼女の希望に応えるように進行しないでいるかのようだったそうです。
「手術や薬だけが病状を好転させるわけでない。患者さんの気持ちに寄り添い、望みを叶え、精神的に支えることの大切さ。それは患者さんに教えられた、緩和ケアの原動力です」と、言われています。
今でこそ、緩和ケアは当たり前となりましたが、20数年前には認知されておらず、私も先生を初めて見た時には、恥ずかしながら、メスを持たない変わった外科医だと、思ってしまいました。
当初から、痛みのケアだけでなく、全人的なケアをされていて、現在も第一線で活躍されているのを知り、尊敬の念とともに、勇気をもらった気がしました。
ところで、23歳の乳ガンの女性は、ドラマのような話ですが、深い意味があるように感じられました。
男の私には良く分かりませんが、女性にとって、ウェディングドレスを着て、周りの人に祝福されながら、結婚式を挙げることは、人生で最高の喜びなのかもしれません。
私も、時々結婚式に参列しますが、新婦の輝く笑顔を見ると、何か特別なものを感じます。
先生が言われてるように、この女性も、愛する人との結婚という、大きな夢と希望があったため、式の日までガンの進行が止まっていたのかもしれません。
私は、ガンは心、そして魂と密接に関係した病であると考えています。
さらに言うと、ガンは魂のありさまが肉体上に顕れたものであり、平和、協調、調和を欠いた魂のありさまがが、(平和、協調、調和を欠く)ガンとして肉体上に顕れたものと考えています。
怒りや嫉妬、虚栄心、貪欲など摂理に反した想いや、深い悲しみや失望などが蓄積していくことにより、魂のありさまが変わってしまうことが、霊的次元でのガン発症の原因ではないかと考えています。
また、恐怖心や不安感を抱くことは、生命力(自然治癒力)の流入が妨げられ、本来持っている免疫力が発揮されず、ガンの増殖を許してしまいます。
そして、からだの平和を乱しているガンが最も嫌うものは、心の平和であり、喜びや希望、そして愛の想いだと考えています。
また、喜びや希望、愛の想いは、恐怖心や不安感を追い払い、十分な生命(治癒)力を、受け取ることにつながると思います。
私は、喜びや希望、愛の想いは、ガン細胞の性質(性格)と相容れぬものであるため、ガン細胞を増殖させる力が絶たれて活性を失わせ、反対に、怒りや嫉妬、悲しみ、虚栄心、貪欲などの陰湿な想いは、ガン細胞の性質(性格)と似かよっているため、増殖する力が与えられて、活性化するのではないかと思っています。
この女性も、結婚という大きな希望と喜びの想いが、からだの細胞の隅々まで行き渡り、全身に転移したガン細胞の勢いを止めていたと考えています。
また、愛する想いにより、恐怖心や不安感は追い払われ、十分な生命(治癒)力が流れ込んだために、ガンの増殖は抑えられ、痛みを感じずにいたのだと思います。
ガンは肉体の病であるとともに、心や魂の病であると思います。
肉体は魂の表現媒体であり、魂が肉体の上位にあります。
ガンも肉体の一部であるため、魂に従うはずです。
魂が癒されれば、肉体の病気も癒されます。
心を穏やかに保てば、肉体も追従して穏やかになり、ガンも鎮まっていくと考えられます。
まず、心穏やかに生活することが大切です。
結婚のような大きな喜びはめったにありませんから、日常の小さなことに喜びを見出し、家族、友人、周囲の人と楽しく過ごし、時に感謝の気持ちを言葉にして、ペットをかわいがり、自然と触れ合うとともに慈しみ、人を愛し、そして許し、ありのままを受け入れることで、魂は平穏となり、ガンの勢いは失われていくように思えてなりません。
2014年2月9日日曜日
愛するもの同士は離れることはない!
死は永久の別れ、それはとんでもない誤解です。
目の前からいなくなってしまった、愛する人と、また再会できることを断言します。
その根拠を見せて欲しいと言われても、それは無理です。
愛する人の魂と、愛する人のあなたへの想いは、五感を超えたものだからです。
五感を超えて認識できないものを否定するならば、魂は存在しないことになってしまいます。
しかし、魂があるからこそ、深い悲しみを感じます。
目に見えない、聞こえないものは存在しないのではなく、認識できないだけです。
これまでも、人間は理解を超えたものを、否定してきました。
500年以上前の人は、夜空の星の動き見て、星が地上のまわりを回っていると、信じて疑いませんでした。そして地上を球体だとは思っていませんでした。
真実を知る時代が、来ていなかっただけです。
いつの時代にも、見えないもの、理解できないものは、自分の考えを守ろうとするために、拒否される運命にあります。
生命は魂であるということは、地球が丸いことを認知していく過程と似ています。
どんなに、地球は丸くないと思っていた人でも、ロケットに乗り、大気圏外に出て、数千キロ離れたところから地球を眺めれば、地球が丸いことを認めざるを得ません。
同じく、魂の存在を否定しても、自らが肉体の死を迎えても、意識や心がなくならないことに気付けば、魂が存在し、生命そのものであることを、認めざるを得ません。
常識とはされておらず、自らの目でも確かめられなくても、真実であることは、たくさんあります。
魂などは存在しないと、頑なに主張する人がいますが、気にしてはいけません。
知らないだけなのですから。
その人も数十年すれば、死を境に現実を知ることになります。
世の中は未知のことだらけです。
そして、少しでも多くの知識を得ていく過程が、人生の目的の1つであると、私は考えています。
目の前からいなくなってしまった愛する人は、あなたが愛する想いを持ち続けている限り、そばから離れることはありません。
両者を引きつける力は「愛」であり、たとえ目には何も見えず、耳に何も聞こえなくても、「愛」がある限り、魂はそばに寄り添っています。
大好きな人のそばが、一番心地がよく、安心します。
あなたが愛する人の喜ぶ姿を見るが好きだったように、愛する人もあなたが喜ぶ姿を見ているのが、一番好きです。
悲しむのは、愛していたからこそであり、仕方のないことですが、悲しみすぎるのは良くありません。
死んで無になってしまったのではありませんから、そこまで悲しむことはなく、愛する人も悲しくなってしまうからです。
見えなくなったけれども、生きていて、片時も離れずそばにいてくれるのを、あなたが承知することが、向こうにいる愛する人の大きな安心につながります。
さらに、あなたの愛は、愛する人の生きる力となり、喜びとなり、向こうの世界での生活を充実させます。
肉体は、はかないものですが、魂は不滅です。
外には、雪がたくさん積もっています。陽差しを浴びて、少しずつ溶けていっています。しばらくすれば跡形もなく消えてしまうでしょう。
雪は溶けて見えなくなっても、決してなくなったわけではありません。水に形を変えて、河に流れ込み、海に注いでいきます。
愛する人も、見えなくなってしまいましたが、形を変えて生き続けています。
すべては神の摂理に従い、変化しながら進化していきます。
その過程に、死があります。
そして、愛する人は、いつでもあなたとの繋がりを求めていますが、肉体はありませんので、手と手ではなく、言葉と言葉ではなく、魂と魂で繋がるしかありません。
愛する人と繋がりたいのであれば、まず愛する人の魂がそばにいることを、確信しなければいけません。
そして、そばにいてくれることに感謝して、今も変わらず愛していることを伝えて下さい。
その想いは、愛する人の魂に必ず伝わります。
そして、同じ想いであること、今も愛していることを、あなたに伝えようとします。
「愛を伝えたい」という同じ想いにより、お互いの魂が共鳴し合えたならば、あなたの魂に、愛する想いが、響きわたってくるかもしれません。
心の奥底から込み上げてくる、あたたかい何かを感じたのなら、それは愛する人の想いかもしれません。
あなたの想いを伝えることは、いつもそばにいて、見守ってくれている愛する人の、大きな喜びとなりますので、大切なことです。
想いを言葉にして伝えてもいいです。
次元の違う向こうの世界から、想いを受け取るのは、難しいのは確かですが、いつの日か、あなたの魂に、愛する人の想いが届き、喜びで満たされることになるかもしれません。
愛する人のことを思い出すのは、あなたを愛する想いが、魂に伝わってきているからなのかもしれません。
神の摂理として、魂は不滅であり、愛するもの同士は離れることはありません。
参考ページ: 「亡くなった愛する人とつながる」
2014年2月6日木曜日
私の治癒力について その2
前回(その1)の続きです。
1848年、米国の田舎町で不思議な現象が起こりました。
引っ越してきたばかりの家で、物音がしているのを、家族全員が毎日のように耳にするのです。あまり気になるので、一家は意を決して、その音の正体を突き止めようと考えました。音は何らかの意志を持ってしているのを感じていたため、こちらの質問に音の回数で答えて欲しいと言ったのです。家族の年齢などを質問したところ、音による合図が返ってきましたが、その答えはどれも正確なものでした。そして、町中の人たちの知るところになり、音の主が誰なのかを、尋ねることになりました。音の数でアルファベットの文字を知らせるという方法により、この音の主が判明しましたが、そこには惨劇がありました。この音の主は、この家に以前住んでいた家主に、500ドルを奪われて殺された行商人の霊であり、地下に埋められていると告げてきました。後日、地下を掘り返したところ、遺体の一部が見つかりました。以前から、音を鳴らすという、ラップ音現象は、世界各地で起こっていたと思われますが、今回は、霊がこの世の人に向けて音によりメッセージを送り、立ち会った人すべてが、目に見えない知性の存在、魂の存在を認めざるを得なくなった、初めての出来事と言われています。
その後は、英国の地において、唯物的な近代科学に挑戦するかのように、次々と心霊現象が起きることになります。特筆すべきことは、それらの現象を、気味悪がったり、怖れたり、あるいはインチキと決め付けたりするのではなく、ノーベル賞級の科学者の手により、真摯に検証した点にあります。心霊現象研究協会という非営利団体を設立して検証していくことになりますが、歴代会長には、首相も務めたバルフォア、蛍光灯の原理を発見したクルックス、アレルギーの父として有名なノーベル医学・生理学賞を受賞したリシェなどがいることからも、少なくても、いかがわしい団体ではないことがわかります。
心霊現象は多岐にわたり、数十年間、英国各地で起こりました。最も印象に残るものとして、「エクトプラズム」という心霊現象があります。40年近く前ですが、私が中学生の頃、同級生がオカルト本を学校に持ってきました。みんなで騒ぎながら見た覚えがあります。その中に、いすに座る女性(霊媒)の前に、別の女性が立っていて、雲みたいなものでつながっている写真があり、「エクトプラズム」と説明文に書いてありました。それを見た時に、信じられないけど、だましているようにも見えない、と感じた覚えがあります。この現象は、クルックス管(蛍光灯)を発明した化学者である、クルックスにより検証されることになります。
もしかしたら当初クルックスは、この現象をトリックだと思っていたのかもしれません。いすに座っている女性と、エクトプラズムとして出現した女性は、同一人物と考えていたようです。しかし、明らかに別人であることが分かったばかりか、驚くことに、出現した女性の皮膚を触った感触は、生体とほとんど変わらず、脈も触れたのです。英国医師会のガリーという外科医が、出現した女性の脈をとっている写真が残っていますが、生きた人間にしか見えません。数年間にわたり、検証を重ねた結果、クルックスが出した結論は、「信じがたいことだが、紛れもない真実」というものでした。霊魂の存在の肯定論者になったクルックスは、その後、科学者仲間からは、異端児扱いされますが、生涯自身の考えを撤回することはありませんでした。
科学者に否定されていた霊魂の存在を、目に見える形(物理的)の現象を顕現させて認めさせるという計画が遂行されて、それを目の当たりにした科学者は、唯物的な考えを、改めざるを得なくなったのです。
あまり知られていませんが、日本でも同時期に、常識では考えられない現象が起きていました。
中でも、長南年惠という山形の女性は、目をみはるような数々の霊的現象を起こしたとされています。それは、彼女が10分程度祈願すると、空ビン数十本が様々な色の水で満たされるというものでした。この水は、霊水として万病に効いたと言うことですが、試しにやらせてみようといった考えの人のビンには、なぜか水が入らなかったようです。故郷を出て、大阪にしばらく滞在しましたが、うわさが広まり、その驚異的な現象を、多くの人が知るところとなります。そして、新聞記事として取り上げられましたが、そのすぐ後に、当局の捜査を受けて、(民衆をかどわかした等の罪だと思われますが)裁判を受けることになります。1900年に神戸地方裁判所で公判が行われ、裁判長から空ビンに水を入れるという現象を、この場で再現できるかと尋ねられ、お易いことと、彼女は快諾します。裁判所が用意した封印された空きビンが手渡され、厳重な監視の下、検証が行われました。そして、公の場で、うわさ通りの現象が起きて、空ビンは茶褐色の水で満たされることになります。立ち会った、裁判官、検察官、弁護士等すべての人が、その現象がトリックではなく、真実であることを認めざるを得なくなりました。当然のことながら、彼女の疑義は晴れることになります。
説明が長くなってしまいましたが、このように19世紀後半から20世紀前半にかけて、世界各地で、常識や科学では説明ができない現象が起きました。時期が重なったのは偶然ではなく、目に見えない偉大な力が存在することを認めさせるために、綿密な計画が霊界で立てられて実行されたのです。この先、あらゆる科学(技術)が格段に進歩して、大きな戦争(世界大戦)が起きてしまうことを予見した霊界が、人類に向けて鳴らした警鐘だったのかもしれません。そして、時代の変化とともに、目に見える物理現象は起こらなくなり、代わって霊媒を通して霊界からのメッセージが届けられるようになりました。「シルバーバーチの霊訓」に代表される、全人類を啓発するための、高級霊からの霊言もあれば、亡くなった愛する人から、遺された人へのメッセージもあります。そして、病気を癒すヒーリングも、世界のいたるところで、行われていると思われます。これらのことすべてに共通する目的は、見えない力(霊力)がこの世に顕現することにより、魂が目覚め、人間は霊的な存在で、生命は魂であり死後も生きつづけること、愛が最も大切であることを、気付かせるためにあります。
人間には理性があるため、自らが経験しなければ信じない人がほとんどです。しかし、病気で長い間、苦痛を経験してきた人や、愛する人を喪い深い悲しみを経験してきた人は、魂に受け入れる用意ができつつあります。(霊的な)治癒力は、病気が癒されることにより、この世のものではない力が働いたことを認めさせます。亡くなった愛する人からのメッセージは、死後にも生があることを認めさせます。どちらも、魂を目覚めさせるためにあります。魂が目覚め、霊的真理がもたらされ、この世に生まれてきた意味を自覚し、本来の目的を成就していくことになります。
私も、霊界でこの計画が立てられたなどとは、空想のように感じられ、信じられませんでした。しかし、これまでのヒーリングを通じて、病気が癒されていくのを目の当たりにしていくうちに、目に見えない力が存在することは、動かしがたい事実となりました。その力を届けているのは、この世を慈しむ霊界の人であり、その始原が神であることを、徐々に得心していくことになります。「生命は魂」であり、「魂は神の一部」であり、「神は愛」であるという事実を、より多くの人に伝えるための手段として治癒力が存在し、私はその通路です。
この潮流は急速に世界中に広まりつつあり、真実であるがために、その流れを留めることは、誰にも出来ません。
2014年2月2日日曜日
私の治癒力について その1
少し前までは、宗教とは無縁の人生でした。
宗教から連想するものは、変わった風貌の教祖であり、荒唐無稽とも思える教義であり、すごく立派な教団施設でした。関心があったのは、日々の仕事であり、生活だけでしたので、その様な世界とは、一生接点を持つことはないだろうと、考えていました。
しかし、7年前に、突然、治癒力が左手から出始めました。別に願っていたことでもありませんでしたし、そんな力が存在することすら知りませんでした。手を当てると病気が癒されるという現象は、不思議であり、未知のものであり、とても興味をひかれた覚えがあります。人が喜んでくれて、笑顔になりますので、歓迎される力であり、うれしい力であることは確かです。
治癒力について、知識を求めていたところ、幸運にも「シルバーバーチの霊訓」(潮文社)という本との出会いがありました。繰り返し読んでいるうちに、私の身に起こっていることについて、合理的な解釈をすることができました。そして、治癒力には、想像もしなかった、大きな目的と計画、そして責任が託されていることを知ることになります。私の解釈が正しいのか分かりませんが、その目的と計画について書いていきます。
治癒力は、霊力であり、心身の病気を癒すためにあります。しかし、真の目的は人間の奥深い部分に働きかけ、霊的な覚醒を促すためにあります。眠っている魂を目覚めさせるためです。
近年の科学の進歩はめざましいものがあります。ライト兄弟が飛行機を作り、空を飛んでから、夜空に浮かぶ月に、人類はわずか60数年で到達しました。あらゆる分野の科学が、これほどまでに急激に進歩した時代は、かつてありません。科学の進歩は、人類に多くの恩恵をもたらしたことは、紛れもない事実であり、その上に私も生活しています。車と電話がないだけでも、日常生活はきわめて不便なものとなります。しかし、急激な進歩は、ひずみを生じさせることにもなります。
科学(技術)は、人類の幸福のためにあるはずですが、時として使い方を誤ってしまい、人類を不幸にしてしまいます。アインシュタインの偉大な発見(E=MC²)は、40年足らずで原子爆弾という破壊兵器を作り出し、広島と長崎に投下されてしまいました。その凄惨な結果は知っての通りです。また、科学的にすべてのことは説明がつくという、科学万能主義という弊害をもたらしました。それは、科学的に説明できない、証明されないものは、否定されることを意味します。「心」や「魂」の存在は、あらゆる機器をもってしても、証明できる次元のものではありません。「心」については、誰にでもあることがわかりますので、たとえ証明されなくても、否定するわけにはいきません。しかし、「魂」については、実感もなく、証明もできないため、存在を否定されることになります。
科学者が、魂の存在を否定したならば、世の中の多くの人は、その意見に従います。「魂なんかは、やっぱり存在しない」という考えになります。魂が存在しなければ、死後の世界も否定され、「死ねば終わり」ということになります。そして、「死ねば終わり」ならば、生きているうちに、精一杯、楽しい思いをしよう、という考え方になるのは、当然かもしれません。その考えのすべが悪いわけではありませんが、自分の楽しみに関心が向けられると、周囲のことはあまり気にしなくなってしまうかもしれません。さらに「自分さえ良ければ、人はどうでも良い」という風潮が生まれないとも限りません。その風潮が蔓延すれば、世の中は殺伐としたものになり、犯罪が多くなり、あちらこちらで争いが生まれます。人を押しのけて、われ先に、という我欲むきだしの世界になってしまったら、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」に描写されている地獄の世界そのものだと思います。そんな世の中を、望んでいるわけではありませんが、進んでしまう危険性をはらんでいます。
魂の存在の否定は、向こうの世界にも、良からぬ影響を与えることになります。死ねば終わりだと思っていた人が死んだとします。向こうの世界に行っても、肉体がないだけであり、意識はあり、考え方はそのままですから、この世でまだ生きていると、錯覚してしまいます。すでに亡くなっている家族が、喜んで迎えにきていても、そのことを認めようとしません。何かの幻覚を見ていると思ってしまうのかもしれません。死んだら終わりだと頑なに信じていたので、終わりでなかったことを理解し、受け入れることが、なかなかできないのです。この世で、「死ねば終わり」だと思っている人が増えれば増えるほど、向こうの世界では、適応できない、孤立した魂が増えていくことになります。
今、生きている世界は、大切なことを学ぶための、学校であり、向こうの世界(霊界)は、学んだことを活かす、言わば実社会です。この世で、さまざまな悲しみや苦しみを経験して、「愛」より大切なものはないこと、他者への奉仕が最も価値を持つことを、長い年月をかけて、少しずつ学んでいきます。向こうの世界は、肉体はありませんので、生活するために働くことはありません。働くということは、他者への奉仕になります。お互いがお互いのために、自分を役に立てる世界です。奉仕をする原動力は他者への「愛」であり、その力を神から受け取りますので、「神は愛」ということを、この世とは比較にならないほど、実感することになります。夢物語に思えてしまうかもしれませんが、これは多くの人に訪れる現実です。
しかし、「死ねば終わり」と思い、「自分だけが今を楽しく生きれればいい」という考えからは、苦難に立ち向かっていくことも、他者への奉仕の気持ちも、生まれなくなります。この世に生まれてきたのは、魂を向上させるためであり、魂の向上は苦難を乗り越えていくことで得られますので、生まれてきた意味を、大きく失ってしまいます。また「愛」の大切さを、学び損ねたことにもなります。この世での「魂の向上」は予定していた通りにはならず、向こうの世界で、活かすまでには至りません。また、ある国が他国との協調を忘れて、「自国だけが良ければいい」、さらに「もっと富や領土を得たい」という考えに陥れば、戦争という悲劇が起こってしまうかもしれません。
昔から「魂」が存在し、この世をどう生きれば良いのかを説いてきたのは、宗教でした。愛する者を失った人に、永遠の生命を説いて悲しみを癒したり、霊的能力がある聖職者は、向こうの世界からのメッセージ(啓示)を伝えたりして、生き方を説いていたと思われます。しかし、現在、世界にある宗教のほとんどが、昔とは違い、儀式や教義にこだわってしまっている様に見えます。日本でも、お坊さんを見かけるのは、葬式やお盆に、お経を上げてもらう時だけであり、説法を聞いても、仏様(魂)は生きているという実感を持ったことは、残念ながらありません。お坊さん自身が、魂の存在を心から信じているかどうかも、定かではありません。魂は存在しないという科学に、対抗するだけの信頼や、説得力を、今日の宗教が持ち合わせているとは思えません。
科学は、証拠をもとに理論を構築していきます。まず魂が存在する証拠の提示を、要求してきます。当然のことながら、魂は物理的次元のものではないので、あらゆる機器で検出することはできず、証拠はないということになります。これでは完全に、科学に軍配が上がってしまいます。魂は存在するにもかかわらず、事実がねじ曲げられ、存在しないと結論付けられてしまいそうです。そこで、向こうの高次の世界において、そのようなことにならないための計画が立案されました。それは、全世界の人々に、検証に耐えられるだけの、魂が存在する「証拠」を提示していくというものでした。
その計画は、約160年前の米国で始まり、その後、英国を中心に展開されていきました。〈つづく〉
2014年1月30日木曜日
魂と愛について
私は若い時、自分に問いかけていたことがあります。それは、「何で生きているのだろう?」ということでした。
最も若さに溢れて、自由を満喫している20代前半にも、一人静かにしていると、時折、頭に浮かんできました。
しかし、深刻な悩みというわけでもないので、そのままにしておきました。
同時に、何かしなければいけないという衝動を、いつも感じていました。
突き動かされる何かがあるのに、それが何なのか、何がしたいのかも分からず、何もしていない自分に苛立ちを覚えていた様に思います。
そして2つとも、答えは見つからないまま、時は過ぎていきました。
何かをしなければいけないという衝動は、仕事をすることで、解消された様に思えました。
仕事さえうまくいっていれば、人生すべてがうまくいくと、いつしか思うようになっていきました。
そして7年前、仕事上で絶体絶命と思われる不祥事が起こりました。
ほぼ同時に「シルバーバーチの霊訓」に出会いました。
不祥事をきびしく追求され、追い詰められて行く日々の中で、心の奥で眠っていた魂が、目を覚まし、表に出てきました。
それまで思いもしなかった、大切なこと(摂理)に気付き、私の中で輝き始めました。
若い時に抱いた「何で生きているのだろう?」という問いに対し、「生命は肉体ではなく魂であり、魂を向上させるため」という、永遠不滅の真理を見出すことができました。
苦難に出会う人は不幸な人であるという、世間一般の考えは、「シルバーバーチの霊訓」により根底から覆されました。
苦難の真っ只中にいる時は、早く逃れたい、楽になりたいと思ってしまうこともありますが、「苦難を乗り越えることで魂が向上する」という、神の摂理が厳然と存在し、与えられた試練として立ち向かっていくことを学びました。
子供の頃から、「世のため、人のため(に尽くす)」という言葉を良く聞きました。
立派な心がけを奨励するための、道徳的な言葉と思っていました。
ところがそうではなく、神の心である「愛」を表現することであり、摂理そのものであることが分かりました。
シルバーバーチは「人のために自分を役に立てる」と言っていますが、滅私の奉仕こそが、最も価値あるものであり、魂を向上させることになり、生きている意味を成就していることになります。
広い世界には、貧しい人や、困っている人、病んでいる人のために、人知れず尽力し、生涯を捧げている人たちがいます。
その人たちの姿を見るたびに、本当に幸せな人だと思います。
人を幸せにしようとする想いは、神の心と同調し、深くつながり、神の愛を十分に受け取ることができます。
受け取った神の愛は行動する力となり、想いを成就させていきます。
そして、奉仕の行いにより、人々が幸せになり、その姿を見て自らが喜びを得ます。
摂理に適った想いや行いは、因果律により、自らに喜びと幸せをもたらします。
他者のために、何かをしてやりたいという想いが湧き上がるのは、頭で考えたものではなく、魂の自然な欲求です。
踏切でうずくまっている老人を見て、わが身の危険を顧みずに助けようとして亡くなった女性がいましたが、助けようとする衝動の源は、魂だったと考えられます。
もし、頭で考えたとしたら、助け出そうとする一歩は、とても踏み出せないと思うからです。
魂は神の一部であり、神の心が「愛」であるがゆえに、我を忘れて助け出そうとしたのだと思います。
亡くなった女性は、霊的な摂理など知らなくても、内なる魂の声に、忠実に従って行動したのであり、肉体を失ってしまいましたが、向こうの世界で、魂はより美しく光輝いていることと思います。
そこまで滅私の行いはできなくても、人にやさしくすることはできます。
近所に住む足が不自由な一人暮らしの女性が、道端に座り込んでいました。近所のスーパーで買い物をした荷物が重たいらしく、たまたま自転車で通りかかったので、家まで運びました。
本当に簡単なことでしたが、うれしいことだったみたいで、わざわざお礼にと、お菓子を持ってこられました。
小さなことでも、ためらわずにすることで、とても喜ぶ人がいることを、あらためて実感しました。
やさしい気持ちで笑顔で人と接することも、世の中をほんの少しだけ明るくしていますで、小さな小さな奉仕です。
いやなことをされても、その人を許してやることも、形を変えた奉仕なのかもしれません。
イエス・キリストの有名な言葉に、「愛は摂理の成就なり」というのがあります。
頭で考えてしまうと、意味はさっぱりわかりませんが、もっと深いところでは「愛することは、神の御心」と、理解することができます。
魂は肉体という入れ物に押し込められ、普段は頭による思考により支配されているため、存在を意識することはありません。
しかし、危機的状況になり、頭で解決できなくなると、初めて表に出てきます。
若い時に感じた、何かをしなければならないという衝動は、もしかしたら内なる魂が、しきりに表に出たがっていたのかもしれません。
愛というものを、言葉ですべてを表現することは不可能です。
同じく魂も、言葉で表現することは不可能です。
なぜならば、この世の次元のものではないからです。
言葉で説明できない、証明できないものを、否定するのは、あまりにも愚かです。
愛は、見えるものではなく、感じるものです。
やさしくされると、うれしいのは、「魂」が「愛」を感じ取っているからです。
愛を信じられる人は、同次元の魂も信じられるはずです。
2014年1月26日日曜日
生きている!そばにいる!
昔からの知人であり、仕事でも係わっている人の長男が、昨年の12月に亡くなりました。家族と遠く離れて大学生活を送り、地元での就職も決まり、今春には戻ってくる予定でした。交通事故でした。
父親である知人をはじめ、お母さん、兄弟、おじいちゃん、おばあちゃんの衝撃、悲嘆は、想像を絶するものがあると思われます。起きてしまったことが、いまだ信じられないのかも知れず、悲しみやつらさと向き合っていくのは、これからなのかもしれません。大学生活を終えて、社会のために活躍していこうとしている若者が亡くなる理由は、どこにも見当たりません。
仕事にも誠実で真剣に取り組み、家族思いで、曲がったことが大嫌いな知人が、なぜ、このようなつらい経験をしなければならないのか、わかりません。
これから結婚をして、家族を持ち、たくさんの楽しい思い出をつくっていくことを、疑わなかった知人にとって、突きつけられた現実は、あまりにも非情で過酷と思われます。親として、育ててきた子供を亡くすことは、この世で最もつらい苦難の1つに違いありません。
私は、シルバーバーチの霊訓から霊的真理を学びました。死に対する考え方も一変し、怖いものではなく、魂が肉体から解放されることであり、むしろ喜ばしいことであることも知りました。しかし、まだ未熟なために、いざ自分の子供が突然の事故で亡くなってしまったら、平常心でいることは難しく、大きな悲しみや、喪失感を抱いてしまうような気がします。
ただ、忘れてはならないことがあります。それは、(肉体が)死んでしまった子供の魂は生きていて、目には見えなくても、家族と一緒にいるということです。
人は死んだら火葬され骨になりますが、生命である魂は、肉体とは関係なく存在し続けています。肉体がなくなった以外は、意識も、記憶もあり、性格も、すべてそのままなのです。
肉体のない魂は、地上(物理)的制約は何1つ受けませんので、地上のどこへでも瞬時に移動することができます。子供の帰るところは、ただ1つ、わが家です。家の中のいつもの居場所にいて、家族の様子を見ているだろうと思われます。
もし、家族が悲しみにくれ、会話もなくなり、雰囲気がすっかり変わってしまったら、きっと戸惑うことになるでしょう。大好きな人、愛する家族が、嘆き、悲しんでいる姿を見ることは、堪らなくつらいことです。
何とかして、そばで元気に生きていることを知らせたいと思うことでしょう。しかし、目の前にいることに、全く気付いてもらえないのです。「ここにいるよ!ここに!」と、肩に手をかけて教えようとしても、かけた手はむなしく、体を素通りしていくだけです。向こうの世界に行った人が、この世の人に存在を知らせる手段は限られていますので、自分にはどうすることもできないことを知り、深く失望していると思われます。また、交通事故という予期せぬ死であったため、自分の身に起きたこと、肉体をすでに失っていることに、気付いていなかったり、起きている現象が理解できず、混乱していることも十分考えられます。
一方、家族の心は、亡くなって1、2ヶ月では深い悲しみにより閉ざされていて、周囲とのかかわりを持ちたがらないのかもしれません。私は、死の悲しみを癒すものは、霊的真理の他にないと確信していますが、今、家族に伝えたとしても、素直に聞き入れてくれることは、難しいのかもしれません。
以前、同じく子供を交通事故で亡くされた知人に、「今も生きている」ことを伝える機会がありましたが、残念なことに拒否と思われる言葉を受けてしまいました。亡くなってから日の浅い家族は、ただ帰ってきて欲しい、元気な子供の姿をもう1度この目で見たい、この手で抱きしめたいと、願っているだけです。そして家族以外には、到底この気持ちは分からないと、思っています。私の行動は時期早尚であったのかもしれません。
しかし、亡くなった子供は、家族にどうしても「生きている!そばにいる!」ことを伝えたいのであり、霊的な知識を有するもの以外に、代弁してやることが不可能なことも確かです。
もし、「生きている」という事実が、家族により否定されれば、想いは一方通行になり、両者の魂は、つながることはありません。それは亡くなった人が最も怖れ、悲しむことであり、第2の悲劇と言えるのかもしれません。いくら「生きている」と言われたとしても、にわかには信じられないことは、理解できます。しかし、死ぬと何もかもなくなってしまうことを、証明するものは何もないのに対し、「生きている」ことを証明することは、しかるべき通路(霊能者)がいれば可能です。
すべては摂理に従っているために、証明される機会が与えられていないだけです。死別という深い悲しみは、魂を目覚めさせ、向上させるという、きわめて大きな意味がありますので、つらいことですが苦難にじっと耐える時も必要です。そして時期が来て、愛する人が生きている証が、もたらされることになるかもしれません。
いつの日か知人が、「(魂として)生きているかもしれない」と思うことができたのなら、両者のつながりは確実に深まり、「そばにいる」気配を、感じ取れるかもしれません。さらに「生きている」と信じ、親愛の想いを向け続けていれば、両者の魂が同調して、インスピレーション(直感)という形で、子供の想いが、知人の魂に、届けられることになるかもしれません。何も考えていないのにもかかわらず、心の奥底に思い浮かぶものを感じたのならば、それは向こうの世界から投げかけられた「想い」である可能性があり、見過ごしてはいけないと思われます。
向こうにいる人は、家族に愛する想いを伝えたいのであり、その一念で、向こうから家族の魂に働きかけています。向こうは物質世界ではありませんので、目に映る映像や、耳で聞く言葉で、この世の家族に、想いを伝えることは出来ません。
魂の世界ですから、五感ではなく、同次元の魂に、想いを投げかるしかありません。もし、その働きかけが功を奏し、この世に残してきた愛する人の魂に、想いが“ひらめき”として伝わったのなら、それは願いが叶った瞬間であり、向こうに行ってしまった人にとってこれ以上の喜びはないと思われます。
愛する者同士はいつも一緒であり、離れ離れになることは、決してないのです。
参考ページ: 「愛する人を亡くした人へ」
参考HP:「最愛の我が子やご家族 また愛する人を亡くされた方へ~死の真実を求めて~」一人息子さんを亡くされたお母さんのHPです。
2014年1月22日水曜日
魂に老いはない
私は、今52才です。時が経つのは早いものだと感じています。
同年代の人達は、10年もすると定年を迎えるため、その先の人生設計を真剣に考え始める頃だと思います。経済的な豊かさが、幸福な老後につながると考えている人も多く、それまでに少しでもお金を貯めたり、増やしたりして、老後の生活に備えようとしています。
ところで老後とは何なのでしょう?退職し、年金を受給し始める60代頃から、死ぬまでの間の時間と定義する人もいるでしょう。確かに肉体の老化は誰にでも訪れ、避けることはできません。私も、鏡に映る自分の顔を良く見ると、しわも増えて、年を取ったと感じます。あと30年もすれば、トイレに1人で行くこともできないかもしれませんし、もしかしたら肉体はすでにないかもしれません。
しかし、本当の自分は、鏡に映る姿そのものではなく、その姿を見て何かを感じている魂です。朽ちたり、老いたりするということは、物質特有の摂理であり、形態や性状、そして機能が劣化するということです。魂は物資次元のものではありませんので、その摂理は当てはまりません。
これまでに、楽しいこと、うれしいことを経験してきました。そして、つらいこと、悲しいことにも出会い、何とか乗り越えてきました。風に揺さぶられ、雪の重みに耐えてきた木のように、さまざまな出来事を経験して、魂は少しずつですが、強く、たくましくなっていると考えられます。
肉体は成長し、ある時点を境に老化に転じ、最後には朽ち果てます。しかし、魂は成長(向上)し続けるのみで、朽ち果てるのではなく、完成されていくものと思われます。肉体と魂では、たどる道が全く違うのです。老化するのは肉体だけであり、自分そのものである魂に老化はありません。年を取ったと嘆いたり、若さをうらやましく思う必要はないのです。
春になると桜の木は、一斉に花を咲かせます。幹から遠く離れた枝の先端にあるつぼみでも、他のつぼみと同じ時に花が咲きます。それは1つ1つのつぼみは木の一部であり、同じ生命が宿っていて、同調しているからです。1つの魂は、神という無限に大きい木に咲く1輪の花みたいなものです。全体から見れば1輪の花は、あまりにも小さい存在ですが、木を構成している一部には変わりありません。
そして、すべての花は木とつながっているため、同じ生命が宿っています。春に咲く桜の花は、1週間もすればはかなく散ってしまいますが、魂という花は、神の一部としてつながっているため、永遠に咲き続けます。それは、うれしいことでもあり、つらいことでもあるような気がします。
画家にとって色彩が、音楽家には音が、自己表現をするため必要なように、魂を表現するために媒体が必要となります。この世では、媒体として肉体が与えられています。しかし、魂にとって表現媒体となる肉体は、あまりに鈍重であり、思いのままを表現できるわけではありません。手袋をして縫い物をするようなもどかしさや、服を着て水の中を泳ぐようなぎこちなさが、あると思われます。
なぜ、神が地上を生きる魂に、鈍重な肉体を与えたのかわりませんが、きわめて進化の低い未熟な魂が、ありのままを表現してしまったら、秩序や平和を保つことが難しいため、鈍重な肉体を纏わせ、表現が制約を受けることにより、地上の秩序や平和が、どうにか保たれているのかもしれないと、考えてしまうことがあります。
肉体を動かす力は、同じ物質次元の食物から補給するのに対し、霊的次元にある魂は、霊的次元の力、つまり霊力が原動力となります。神とのつながりが深まれば、深まるほど、神の力である霊力が魂に流れ込むと思われます。霊力は、森羅万象を起こす力であり、人にとっては生命力であり、病を癒す力であり、ことを成し遂げさせる力でもあります。
しかし、シルバーバーチが繰り返し注意を喚起していますが、取り越し苦労や、不安感、恐怖心を抱くと、せっかくの霊力を受け取る妨げとなってしまいます。経験的にも、不安でいっぱいな状態で、持てる力のすべてを発揮できたことはありません。一方、ここぞという時に、驚異的な力を発揮して成功や栄冠をつかむ人がいます。そんな人は、障害となる不安や怖れがすべて取り除かれて、揺るぎない自信が生まれ、魂がいつも以上の霊力を受け取り、実力以上の力を発揮したのかもしれません。
神とのつながりを深くして、生きる力である霊力を十分に受け取るためには、自らの心が生みだす迷いや不安を一掃し、心を穏やかにして、神とのつながりを求めなければいけません。神とのつながりを求めなくても、困っている人や傷ついている動物を見て何とかしてやりたいと思った瞬間、つらく悲しい思いをしている人を見て励ましたい勇気付けたい慰めたいと思った瞬間、世の中を明るく平和にしたいと、心から思った瞬間に、神の心と「愛」で同調します。同調をすれば、神とのつながりが深まりますので、霊力が自らの魂に流れ込んできます。そして流れ込んだ霊力は、行動するための原動力となり、肉体により表現(実行)されることになります。
そのことを、心身を病んでいる人にヒーリングをしている時に、実感します。ヒーリングする前は、良き霊力の通路となり、患者の病が癒されることを祈念しつつ、無心になることが必要なのですが、私はまだ未熟なため、心配ごとが心をよぎることもあります。そんな時には、霊界との同調はうまくいかず、治癒力の大きな流れを感じることはできません。しかし、心が穏やかで、愛を誰かに分けてあげたいと思うような時は、すんなりと同調ができて、治癒力がふんだんに流れていくのを感じます。つまり、十分な霊(生命)力を受け取るためには、心を穏やかにすること、他者を思いやる気持ち、愛の想いが、最も大切だと思います。私は霊力が流れていくのを、感覚的に感じることができますが、たとえ感じられなくても、すべての人に同じことが起きていると確信しています。
肉体はどのようなことをしても、時とともに老いていくことは摂理であるため、避けられません。目に見えるものがすべてだと思ってしまうと、魂は存在せず、死ねば終わりという、深刻な事実誤認をしてしまいます。老後は人生の黄昏ではなく、次の世界へ移行する準備期間であり、地上人生の集大成とも言える、大切な時間です。出来るだけ長生きをして、死ぬまでにたくさん楽しいことして過ごすよりも、それまでの経験を活かし、たとえ小さなことでも、こつこつと世の中のため、人のために役立つことをする方が、はるかに賢明です。なぜなら、この世での楽しい思い出は、単なる1つの記憶に過ぎませんが、他者への奉仕は魂を向上させ、永遠の価値を持つからです。誰しも肉体の死の後に、いやでもそのことを知ることになりますが、なるべく早く知っておくのに、越したことはありません。
これから年を取って体が思うように動かなくなったとしても、1人でも多くの人が正しい知識(霊的真理)に出会い、受け入れる手助けをしていかなければならないと思っています。
2014年1月12日日曜日
ヘレン・ケラー
小学生の頃は、校庭で遊ぶのが大好きでした。
じっとしているのが苦手で、読書はあまり好きな方ではありませんでした。
学校の図書館に足を運ぶことはあまりなかった私でも、図書館に偉人伝の本が置いてあるのは知っていました。
シリーズになっていて、エジソン、キュリー夫人、ナイチンゲール、シュバイツァーなどの本が、十数冊置いてあった記憶があります。
その中の1冊に、ヘレン・ケラーの本がありました。
幼少期の病により、視覚、聴力を失ったため、意志の疎通が全くできず、粗暴でわがままで、親も手がつけられない子供になっていったヘレン・ケラーが、サリバン先生と出会い、献身的かつ厳しい教育を受けて、変わっていきます。
もともと優れた知性の持ち主であったヘレン・ケラーは、さまざまな本を読み、勉学を積み、優秀な成績で大学を卒業します。
その後は、盲人の就労支援活動をはじめとして、婦人参政権、公民権活動などを積極的に行いました。あらゆる社会的弱者のために一生を捧げたと言って良いと思います。
サリバン先生との出会いにより、閉ざされていた心が開かれていったことは周知の事実です。
ヘレン・ケラーがサリバン先生により言葉を初めて教えられた時の話は、あまりにも有名です。
その時の様子を著書で、こう語っています。「彼女は私をツタのからまるポンプ小屋へ連れてゆき、彼女がポンプを漕いでいるあいだ、その水をコップで受けるように指示しました。そして空いたほうの手でふたたび力をこめてw-a-t-e-rと書きました。冷たい水の筋が私の手を流れているあいだ、私は全身の注意力を先生の指の動きに集中しながら、じっと立っていました。突然、私の中に不思議な感動が湧きあがりました。おぼろげな意識。遠い記憶のような感覚。それは、まるで死から甦ったような感動でした!先生が指を使ってしていることは、私の手の上を走りぬける冷たい何かを意味しているのであり、こうした記号を使えば私も人に意志を伝えることができるのだということを、私は理解したのです。それは、けっして忘れることのできないすばらしい1日でした!」。
そして、その日のうちに「give」、「go」、「baby」などの単語を30も覚えてしまったそうです。
後にそれが精神的目覚めであったと語っています。
ちなみに「奇跡の人」という映画がありましたが、奇跡の人はヘレン・ケラーのことではなく、教育者としてのサリバン先生のことを指します。
献身的な周囲の支えもあって、たくさんの知識を得ながら自立した女性となり、尊敬をあつめていきます。
しかし、小学生の私には不思議に感じたことがありました。なぜ3重苦の彼女が、誰よりも明るく、前向きに生きてられたのか。
自分が生きていくだけでも、想像を絶するほど大変なのに、世の中のために、人のために、並外れた行動力で社会福祉活動ができたのか。
偉い人だからと言ってしまえばそれまでですが、最近になって、ようやく疑問に対する答えが見えてきました。
偉人伝には書かれておらず、あまり知られていないことですが、ヘレン・ケラーにはサリバン先生とともに、衝撃的な出会いがありました。
それは18世紀に生きたスウェーデンボルグの書籍でした。
その出会いにより、彼女の心に、明るい真理の光が差し込むことになります。
スウェーデンボルグは18世紀に活躍した科学、数学、哲学など、あらゆることに精通した偉大な知性の持ち主であり、ゲーテやユングなど、多くの芸術家や思想家にも影響を与えています。
頭脳明晰で、極めて論理的な思考をするスウェーデンボルグでしたが、50代になり、今までの考えを根底から変える驚異的な体験をします。
それは、生きながらにして死後の世界である、霊界を探訪する体験でした。
魂が肉体から離脱し、霊界を巡り、そこでの人々の暮らしを垣間見てくるのです。
臨死体験をして、すでに亡くなっている人に会ったり、光の体験をする人はいますが、その世界よりも、さらに先にある、霊界を見て巡ることを許されたのです。
その希有な体験と、そこから学び得たものを、世の中に知らせることが、自分に与えられた使命と信じ、多くの著述を遺すことになります。
当然のことながら、優秀な科学者であった、スウェーデンボルグが、ある日を境に霊界などという荒唐無稽なことを言い始めたと、周囲の人は彼の頭はおかしくなってしまったと思いました。
そして理解されないまま、英国の地でこの世を去ります。
そして百数十年の時を経て、彼の著述である「天国と地獄」にヘレン・ケラーは出会うことになります。
視覚、聴覚を失ったことは、周囲の状況を知るということにおいて絶望的なハンディキャップになりますが、周囲からの影響を受けることも最小限となり、内面と向き合うことになります。
幼い頃から、隔絶された心の世界の中で、うごめく何か、叫ぼうとしている何かを、常に感じていたのではないかと思われます。
そして、15,6才の頃に書斎にいながら、意識は遠く離れたギリシャのアテネに行っていたという、いわゆる幽体離脱という決定的な体験をすることになります。
その体験について、「私の霊魂が実在すること、しかもそれは場所や肉体の制約を完全に超えていることを悟ったのでした。
何千マイルも彼方の場所をこんなにありありと“見たり”感じたりしたのは、私が霊そのものであり、そのことにもはや疑う余地はありませんでした」と、後述しています。
内なる魂に目覚めた後に、導かれるようにスウェーデンボルグの著書に出会い、多くの知識や摂理を獲得していきます。
ヘレン・ケラーが書いた「私の宗教」という本の中に、スウェーデンボルグことが多く書かれています。
印象的であった文章のいくつかを紹介すると、「天界での生活とは、すべての物質的制約から自由になった状態と考えるのがいちばんよいだろう、とスウェーデンボルグは明快で信頼すべき啓示をもたらしました。もしそれが本当だとすれば、天界での教育について、私達は明確な観念を持つことができるでしょう。つまり、天界というのは霊の体をまとった魂たちの広大な領域であり、そこではすべての魂がひとつの壮大な“役立ち”のシステムの中に相互に関係しながら結び合わされています。その集団の中ではすべての個人が、自分をより高く向上させ、それによって全体の美を拡大させることのできる可能性や関心や特殊な知識をもっています。そこで、それぞれの個人は、お互いに他人に依存しながらも自分なりの仕方でより完全な成長を遂げ、ますます増大してゆく幸福感に応じてより多くの責任感を持つようになるのです。」と書かれていて、その見出しは「役立ちの生活」となっています。
また「スウェーデンボルグは霊界での引力の法則に相当するものが愛であることを悟り、愛という放射の源泉が、太陽にのように実際にすべての霊魂に生命を与え、すべての被造物に美を与えるのを見た、と証言しています。」と書かれています。
すばらしい表現だと感じるとともに、その内容は、霊界からの通信と多くの点で符合しているものと思いました。
ヘレン・ケラーは3重苦という、想像を絶する苦難を経験し、若くして魂に目覚め、霊界の存在や神の摂理を受け入れていたことが良くわかります。
障害は神から与えられた試練と受け止め、愛や奉仕が最も大切であり、神の御心に適った行為であることを、深く理解していました。
だからこそ、誰にでも明るく笑顔で接し、優しく弱者を励まし、世の中のために、人のために一生を捧げることができたと考えています。
怯むこと無く、苦難に立ち向かい、他者を愛することで、神に愛された、美しくも偉大な魂の人です。
最後に、心に残った、ヘレン・ケラーの言葉を引用します。
「私は、自分の障害を神に感謝しています。私が自分を見出し、生涯の仕事、そして神を見つけることができたのも、この障害を通してだったからです。」
2014年1月10日金曜日
病気は魂を浄化させる
今日は仕事が休みなので、障害者施設に行ってきました。あたたかい職員の方に囲まれ、皆さん元気にしていましたが、気になるM君は相変わらず部屋で一人でテレビを見ていました。
重度の身体障害があり、いつもベッドで横になっています。知的障害は全くありませんので、普通に会話はできます。昨日は病院に行って診察で疲れてしまい、腰痛がひどくなり顔をしかめて耐えています。今までに何回も手術をしていますが、痛みから開放されたことはなさそうです。腰に手を当ててヒーリングをしながら、話をします。
彼は、こんな思うようにならない体で、痛い思いをしながら生きていて、何の意味があるのだろうかと常に考えています。そして時々「死にたい」ともらします。そこに彼の弟がお見舞いに来ました。彼もまた兄と同じ先天性の疾患があり車いすでの生活ですが、勉学やスポーツにも励み、快活そのものでした。兄をいたわり、気遣う言葉をかけていました。まだ20歳くらいですが、常に前向きに生きようとしているのが、その顔つきや、言葉から感じられました。M君と同じ病気を抱えているのに、何でここまで違うのだろうと思うとともに、同じ病気の弟が心の支えになっていることに安心しました。
M君はこれから数十年、障害と痛みを抱えて生きていくことになりますが、それに負けて投げ出すことは許されません。M君の病いも摂理により生じて、想いや行いのすべてに因果律という摂理が働くからです。つらさから逃げだしても、もっと過酷なつらさが待ち受けているだけです。その日が来るまで、精一杯生きるしかないことを、あらためて伝えました。
摂理は時に冷酷にも見えますが、公正と秩序をもたらします。私も車の運転をしますが、もし交通ルールがなかったらどうでしょう。ある人は猛スピードで車を運転し、交差点で信号機がなければ混乱し、路上駐車した車で道が塞がれるかもしれません。交通を円滑にして安全を保つためにはルールが必要です。宇宙が開闢し、地球という惑星が誕生して太陽の周りを回っているのも、海中に生物が発生して進化して人間が生まれたのも、種が芽を出すのも、そして花を咲かせ散っていくのも、目に見えない摂理に則って行われています。
すべてを支配している摂理の枠から出ることは出来ませんが、摂理があるからこそ、世界の秩序と公正は保たれています。人が生まれ、死んでいくのも、病気が生じるのも摂理に従ってのことです。想いや行いのすべてに摂理は寸分の狂いもなく働いています。
ただ、この世では因果律の働きがわかりにくくなっていて、結果として生じた出来事と、原因となる過去の想いや行いの関係を、明確に結びつけることは、容易ではありません。そのため生じた出来事を偶然とか運として片付けてしまいがちです。今、起きている出来事は、過去のどこかで蒔いた種の結果に過ぎません。因果律という摂理が確かに存在することを、気付かせるためには、何かしら体感的なものが必要となります。
病気の苦痛は最も体感的なものであり、そのつらい経験により、過去の過ち(摂理に背いた想いや行い)に気付き、それを正し、摂理に則って生きていくようになります。そして健康な時に追い求めていたことより、はるかに大切なことに気付くことになります。
それは「生命」であり、「愛」です。それ以外のことは取るに足らないことばかりです。生命は肉体を超えた魂であり、魂は神の一部であるために、愛が最も大切であることを強烈に意識していきます。生命と愛の大切さに目覚めたことは、魂が目覚めたことを意味します。生きている目的は、魂を向上させるためです。そのためには、まず魂が目覚める必要があります。
病気になると、何も悪いことをしていないのに何で私がと思ってしまうのは、この世という限られた視野から眺めているためであり、霊的次元から見れば、魂を深い眠りから目覚めさせるための、けたたましい目覚まし時計の役割を果たしています。
すべての出来事は、決して偶然や運、不運ではなく、何らかの原因により起きていることが判ってくることは、因果律という最も根源的な霊的真理を受け入れつつあることになります。もし因果律がなく、病気というものも存在しなければ、摂理に背いていても気付かせるものはなく、魂は際限なく神から遠ざかり、暗く、陰鬱な世界を、あてどもなくさまようことになると思われます。そのままでは、愛というものからかけ離れた荒涼とした世界に、魂が迷い込んで抜けられなくなってしまうかもしれません。
因果律の働きにより、摂理に背けば神から一歩遠ざかり、遠ざかっていることを苦痛により知らされ、摂理に沿うように軌道修正されていきます。この世に生まれた時の魂は無垢でも、さまざまな想いや行いにより、魂のありさまは変わっていきます。摂理に適った想いや行いを積み重ねていくと、魂は美しくなり、輝きを増していきます。反対に摂理に背いた想いや行いにより、魂は汚れていき、輝きを失っていきます。病気は、大切なことに気付かせ、神に向かっての正道を歩ませるためにあります。そして、耐えがたいと思われる苦痛により、魂の汚れは浄化され、本来の輝きを取り戻していきます。
苦痛は人を不幸にさせるものではなく、魂を浄化させ、神への道へと導くものです。
2014年1月1日水曜日
不安と恐怖に打ち克つ
悲しくつらい出来事があると、心は痛みます。肉体の痛みは、鎮痛剤である程度少なくすることはできますが、心の痛みはそんな訳にはいけません。
肉体の傷は目に見えますが、心の傷を見ることは出来ず、傷の深さは本人すら計ることはできません。
さまざまな出来事や言葉により、心を傷つけられ、痛みを生み出しますが、肉体の傷もふさがっていくように、心の傷もいつかはふさがり、痛みはなくなってくるはずです。
目の前にある現実を受け入れると、時として耐えられないと思うほどの痛みに襲われることもありますが、神はこの世に時を与えていますので、時間とともに心が癒されていきます。
人は肉体を携えた魂です。神へと続く階段を魂が1段1段登っていく永遠の道です。
心の痛みを感じなくなっていくのは、魂が1段、向上した結果だと思われます。
平地を歩くのとは違い、上に登って行くためには力が必要になります。より高く登っていくにつれ、階段は急になり、出会う苦難は厳しいものとなってきます。
そうでなければ苦難と感じないはずであり、苦難と感じないようであれば魂の向上は得られません。
今度ばかりは乗り越えられそうにないと思われる苦難であっても、乗り越えられるはずです。
なぜならば、今までも乗り越えてきたからこそ、神の法則に従って与えられたはずだからです。
しかし、事実があまりにも深刻で、衝撃的であったりすると、まともに受け入れてしまうと、重圧に耐え切れなくなり、感情のコントロールを失い、耐え難い悲しみや不安や絶望感に襲われるのではないかと思ってしまうことがあります。
心がバラバラにされ、修復不可能な状態に陥ってしまうのではないかと、無意識のうちに心を守る防衛反応が働き、その事実を心の奥に封印してしまう場合があるのかもしれません。
正面から向き合うことなく、事実を受け入れなければ、なかったかのように過ごすことができるのかもしれません。
繰り返しになりますが、人は魂を向上させるために生きています。
経験したこともなく、全く予期しなかった、つらい出来事でも、無我夢中で危機を切り抜けていく過程で、魂は鍛えられ向上していきます。
これは無理だと思われたことでも、乗り越えられるはずです。もしそうでなければ、この世は挫折だらけになり、絶望感と無力感に包まれたものとなってしまいます。
とても耐えられないと思われた出来事も、実は乗り越えていくことが出来たのです。
しかし、封印してしまうと、つらさからは逃れられ、一見賢明な方策に思えますが、苦難を乗り越えて魂を向上させる機会を1つ失ったことを意味します。
事実が心に封印され、忘れてしまったかに見えても、その事実を消すことは出来ません。その時に表すことのできなかった、はりさけそうな想いが、たくさんあるはずです。
事実に対して、悲しみ、恨み、怒り、憎しみなどの様々な想いが、たとえ表現されなくても無意識のうちに、心に湧き上がっています。
そして幾重にも積み重なっていき、心のしこりとなっていきます。
そして魂に影響を与えていき、魂のありさまが変わっていきます。
肉体は魂に従いますので、病気として表在化していくことになると思います。
よって肉体に顕れた病変は、封印された出来事から生み出された、悲しみ、怒り、憎しみなど様々な負の感情の集まりが形を変え、目に見えるものとして顕れたものと考えられます。
もしその出来事を、誰かのせいにしたり、不運を嘆いたり、人を妬んだすることで、正面から向きあうことをしなかったとしても、摂理に背いていることになり、同様の結果を生じることになると思われます。
つらくても正面から受け止め、悲しむ時は悲しんで、痛みを感じながら、乗り越えていくことが、摂理に叶った取るべき道だったはずです。
心の痛みやつらさを経験することより、魂は向上しますが、その事実を封印してしまい、痛みやつらさを感じることがなければ魂の向上は得られません。
この世で与えられた苦難として、痛み苦しむはずだったのであれば、何らかの別の機会で相応の苦難が与えられることになるはずです。
そして事実を受け入れた時に味わったであろう心の苦痛と、同等の苦痛を後に経験し、魂を向上させることになると思われます。
神の摂理は完全であり、形を変えて苦痛が与えられて、魂を向上させることになります。
病気として与えられた苦難を、今度は乗り越えていかなければいけません。
乗り越えられないと思わせるのは、病気に対する誤解であり、恐怖であり不安だと思います。
病気に限らず、不安や恐怖は、ことを成し遂げる時の妨げとなり、力を十分に発揮できなくなります。
病気を魂の次元で理解し、不安や恐怖を払拭できたのなら、必ず乗り越えられるはずです。
前にも書きましたが、不安や恐怖に心が支配されると、十分な治癒力を受け取れなくなります。
不安や恐怖を感じたり、摂理に背く想いを抱いてしまったりして、事実と向き合わなかった過去と同じ過ちを、病気として形を変えた苦難において、繰り返してはいけません。
摂理に背いた想いを抱かないか、不安や恐怖を退け正面から向き合うことが出来るのかを、試されているのです。
もしそれが出来たならば、病気は乗り越えられて、治癒につながっていくはずです。
病気は不安や恐怖に打ち克つことが試されている苦難なのだと思います。
不安や恐怖に打ち克ち、魂が肉体を支配すれば、神からの治癒力を存分に受け取ることができ、病気の進行は抑えられ、痛みを感じることはないと思っています。
反対に不安や恐怖に支配されたら、ガンを抑えこむ力は減弱し、病気は進行し、痛みを感じることになると考えています。
ガンは死という誤った認識があまりにも広まり、多くの人が不安や恐怖を感じています。
ガンは肉体を蝕む得体の知れない病気ではなく、魂を向上させるために与えられた試練です。
神は愛であり、死に至らせるための病としてではなく、過ちを正し、大切なこと(摂理)に気付かせるために与えた病です。
ガンは肉体に対する治療も必要ですが、それ以上に魂のありさまを変えていくために、心を意識し続けなければいけません。
心を穏やかにして、すべてに感謝し、他者を慈しみながら日々を過ごせば、魂の平和、協調、調和が取り戻せるはずです。
そうすれば支配下にある肉体も従い、ガンも癒やされていくはずです。
病巣をなくすのが治療ではなく、不安や恐怖に打ち克ち、心を穏やかに平和に保つことこそ、根本的な癒やしになります。
2013年12月28日土曜日
すべては魂の向上のため
赤ちゃんのつぶらな瞳を見ていると、魂そのものであり、神の一部であるということを、感じることがあります。
役目を果たすために、どこか遠いところから、この世に降りてきて、生まれた直後に泣き叫んでいるのは、もちろん呼吸をするためなのですが、この先の大変さを魂が分かっているからと思えてしまうことがあります。
子供にとって親は必要な存在であり、強者です。
しかし、親が上で子供は下であり、親の意見に子供は従わなければいけない、などということは大間違いで、1つの魂として見れば、対等の関係です。
肉体は遺伝しますので、容姿は似通ったところがありますが、魂は別次元のものであり遺伝はなく、反映している心、性格は親子でも肉体みたいに似ていません。
数十年、早くこの世に生まれてきただけであり、魂に年齢は関係はなく、親よりも魂が向上している子供もたくさんいると思います。
幼い子供が生まれながらの難病で苦しみ、治療のかいもなく亡くなってしまうことがあります。
小さいながらも親や周囲の人を気遣い、決して弱音をはかない子がいて、周囲の人を驚かさせます。
そんな子は、この世を長く生きて大切なこと(摂理)を学ぶ必要はなく、自分に足りなかった部分だけを、病気という苦難を通して学びとり、それが終わると早々と、次の世界に行ってしまうのかもしれません。
幼いのは肉体だけであり、魂は向上していて、成熟した大人なのかなと思うことがあります。
子供に先立たれた親は、深い悲しみを味わうことになりますが、その耐え難い苦痛が、魂を向上させることにつながります。
つまり、短い生涯であっても、その親の子供として、病気を抱えて生まれてきたのは、それぞれの魂の向上を成就させるために、必要だったということになります。
魂は、自らに足りないものを自覚して、その部分を補うために、適切な試練が得られる、環境を選んで生まれてきます。
災難や不幸と思われることは、摂理に背いた想いや行いをして因果律が働き、その結果として表れたものもありますが、魂の向上させるために、あらかじめその人に計画されている場合も多いのではないでしょうか。
休みの日で時間があれば障害者施設にボランティアに行っています。
ボランティアと言っても、遊び相手や話し相手になっているだけなのですが、良く来たと、笑顔で歓迎してもらえると、うれしくなります。
そこでは足が不自由で車いすの人、身体は健康だけど知的障害がある人、身体が不自由で知的障害がある人など、様々な種類や程度の異なる障害を抱えた人達が共に生活しています。
一人ひとりの意見は尊重されますが、集団生活なのでわがままや規律を乱す行動は許されません。
そんな中で、自分の置かれている立場を十分に理解して、残された能力を活かしながら、精一杯生きてるのを見ていると、こちらが元気をもらいます。
抱えている障害は、生活していく上で大きな支障となり、健常者にはわからない大きな苦痛となっていると思います。
中には、障害が重度で、食事をするのも、ベットで寝返りをするのも、着替えるのも介助が必要で、常に人の手を借りなければ、生きていけない人もいます。
ベッドに横たわったまま、身体を動かすことも、話すこともできず、一生を終えるであろう人を見て、以前の私でしたら、かわいそうにと同情したり、生まれてきた意味があったのだろうかと思ったことでしょう。
しかし、霊的真理を知った今は、肉体で魂の表現がほとんどできないという、最も過酷とも思われる試練は、大切なこと(摂理)を学び魂の向上をさせるために、その人に必要だったのかもしれない、あるいは前世での罪の償いを今、果たしているのかもしれないと、考えるようになりました。
どちらにしても、その人の魂の向上にとって不可欠なものであり、目的があって不自由な身体を選んでこの世に生まれてきたことになります。
一人では生きていけないこと、人に助けてもらうことを通して、愛がもっとも最も大切であることを、心身の障害を通して学んでいるのかもしれません。
もしかしたら、全人生をかけての苦難に耐えられるほど、すでに魂が向上している人であり、さらなる向上を得るためなのかもしれませんので、安易な同情は慎まなければいけないと感じています。
すべてのことに無駄はなく、意味を持っている、と言われても、この世では目に映るもの、耳に聞こえるものが、すべてに思えてしまうため、目に見えない霊的法則が働いていることは、どうしても分かりにくくなってしまいます。
高い次元から見ると、すべてのことは神の法則である因果律に従っていて、その叡智により計算しつくされた上で、絶妙の時期に、かかわる人すべての魂の向上のために、最適な形で出来事が生じていることが、手に取るように分かるため、シルバーバーチは神の完璧な叡智には驚嘆させられる、と言っているのかもしれません。
私を含めて、魂を表現をする自由を与えられた人は、存分に愛を表現していくべきであり、この世ではそのための手段として肉体が与えられたのだと思います。
参考ページ: 「早世した子供たち」
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