2025年6月15日日曜日

自分の中にいる神


昔は、神など信じていませんでした。

神は宗教の産物であり、弱い人間が頼るものと思っていたからです。



40代半ばに霊的真理(シルバーバーチの霊訓)に出会い、神の存在を信じるようになりました。

ただ、そこにあった神は宗教が説いていたものとは違っていました。



神は自分と離れたところに存在しているのではありません。

全てのものに存在しています。

私自身も神です。



けれども、自分が神であるという実感は全くありません。

他の人を見ても神とは思えません。

そのため、その真理を受け入れるまでに、少し時間がかかりました。


自分の中に自分とは違う「何か」がいるのは、子供の時から感じていました。

その「何か」は、やってはいけないことをしようとする時に、声なき声で引き留めていました。



それこそが、自分の中にいる神です。

神が良心となって顕現しています。



人の行いの中にも、神を見る時があります。

第2次世界大戦中、リトアニアの日本領事であった杉浦千畝は、ナチスドイツの手から逃れて来たユダヤ人にビザを発給して、国外に脱出させました。

この行為は国の方針に背いたものでしたが(後に失職)、リトアニアの地を去る最後の一瞬まで続けられたと言われています。

国外に脱出できた六千人以上にのぼるユダヤ人たちは、彼の行いの中に「神」を見たと思います。



大きな行いだけではありません。

転んだ人の手を取って起こそうとする人の中にも、神を見ることができます。

出来事を許そうとしている人の中にも見ることができます。

神は遍く存在しているのです。



神を見るのは、人の行いの中だけではありません。

ファシリティドッグというのをご存じでしょうか?

入院している病気の子供たちのためにいる病院専属の犬です。

彼らは、子供たちが嫌いな注射をする時や手術室に向かう時に寄り添って、立ち向かう勇気を与えています。

つらい思いをしている子供たちを癒そうとしている犬の姿にも、神を見ることができます。

人間が訓練したので、そのような振る舞いができるようになっただけと考える人もいるでしょう。

それ以上のものが存在していなければ、子供たちに勇気や元気や笑顔は生まれません。



訓練したわけでもないのに、溺れかけている猫を救っている犬の姿を見ても、それ以上のものが存在していることが分かります。

種に関係なく、生命(魂)に神が存在しているからこそ、このような行いができるのだと思います。

それ以外に合理的な説明はできません。



神が存在しているのですが、地上では自我によって、その発現が妨げられています。

「自分の身が危ない」「自分が不利益を被る」と自我(エゴ)が出てしまえば、神が発現することはありません。

何かをきっかけにして、自我の束縛から解放された時、初めて発現します。



無限大の宇宙の中で、地球という限られた空間の中で生きている全ての生命は運命共同体です。

全体のために、何らかの役割りを果たすため、能力を発揮するために、地上に生まれて来ています。

前述のファシリティドッグも、医者や看護師にできない、自分に与えられた能力を発揮しています。

しかしながら、多くの人はその役割りや能力に気付いていません。


生命とは神そのものです。

そのことが分かったのなら、傷つけたり苦しめたりすることはできないはずです。

他者の中に神の存在を認めたのならば、戦争や差別はなくなるはずです。

最も尊いもの、聖なるものを、蔑んだり、憎んだり、壊そうとすることは、誰にもできないからです。



神の意図を実現させるために、この世界は存在しています。

私たちの中に神がいること、神性でつながっていることに、多くの人が気付くことによって、神が意図した愛と喜びに満ちた世界へと変わって行きます。






2025年6月8日日曜日

霊界に持って行けるもの


人間は喜びを感じていたい生き物です。

服を買ったり、おいしいものを食べたりすると、ちょっとした喜びを感じます。


けれども、その喜びは時間の経過と共に薄れて行きます。

しばらくすると、また新しい服が欲しくなり、おいしいものを食べたくなります。


人に喜ばれた時や、物事をやり遂げた時にも喜びを感じます。

その喜びは、もっと深いところから生まれていて、時を経ても思い出すことができます。



地上の人は2つの自我が存在しています。

肉体を使って表現するための自我(以下地上的自我)と、霊体を使って表現するための自我(霊的自我)です。

起きている時は地上的自我、眠っている時は霊的自我を前面に出して自己表現しています。

真の自分とは、もちろん霊的自我です。



物的な欲求が満たされた時の喜びは、地上的自我から生まれています。

人に喜ばれた時の喜びは、霊的自我から生まれています。

同じ喜びであっても、次元が違う自我から生まれています。 



あの世に行くと、地上的自我はなくなり、霊的自我だけになります。

お金や地位など物(地上)的なものに喜びを感じていた人は、喜びが感じられなくなります。

喜ばれることに喜びを感じていた人は、より深い喜びが感じられるようになります。



喜ばれた時、物事をやり遂げた時に喜びを感じるのは、どうしてでしょうか?

他者に奉仕すること、困難や障害を乗り越えようとすると、法則の働きによって人は成長します。

反対に、人を貶めたり傷つけたりすると、同じ法則の働きによって成長は妨げられ、苦痛による償いが生じます。

喜びと苦痛を通して、私たちは成長する方向へと導かれていると考えられます。



「地上へ誕生してくる時、魂そのものは地上でどのような人生をたどるのかあらかじめ承知しております。あなた方は自分がどんな人生を生きるのか覚悟の上で生まれてきているのです。その人生を生き抜き、困難を克服することが、内在する資質を開発してより大きな自分に新たな神性を付加していくことになるのです。」

シルバーバーチの霊訓にはこう書いてあります。

人生には計画があります。

計画に沿って人生は展開して行き、予定されていた出来事が因果律の働きによって、絶妙のタイミングで起こります。



出来事が起きた時、どう想い、どう行動するのかは、その人の自由意志に任されています。

そのため、予定されていた方向に進んで行くとは限りません。



死んだ後に、地上の人生を振り返る時が訪れます。

出来事が起きた時、どう想い、どう行動したのかを、思い出します。

追い詰められて、どうにもならなくなった時、奥深くにいる自分が目覚めて、そこから予定されていた人生を歩み始める人がいます。

生まれて来た目的を果たすために、その出来事がどうしても必要だったことが分かります。



感情に捉われないで、奥深くにいる自分(霊的自我)の想いに従って進んで行かなければいけません。

想いが分からないのであれば、より自分を成長させると思われる方向に進んで行きましょう。

その方向は往々にして困難が伴いますが、予定されていた人生から大きく外れることはありません。



その時、地上的自我はこのように考えるかもしれません。

「無理だからやめておこう」

「このままでもいいじゃないか」

そんな考えは無視して、自分の想いに正直になりましょう。

決して後悔することはありません。



出来事は法則の働きによって起きています。

法則は無限の愛によって創られているので、克服できない出来事は起きないようになっています。

挫折させたり、絶望させるためではありません。

学び成長させるために起きています。



いつまでも受け入れなかったり、運命を呪ったり、人生を嘆いたり、誰かのせいにしてしまうと、予定されていたのとは違う方向に進んでいることになります。

そんな自分の姿を見たとしたら、後悔は避けられません。

自分の意志で、自分の責任で、自分の未来を決めていたことが、死んだ後にはっきりと分かるからです。



苦しくても前に進んで行こうとするのは、試練は完全に報われることを、奥深くにいる自分(霊的自我)は知っているからです。

この人生の後にも、人生は続いています。

無駄な経験はなく、後の人生で活かされることを知っているからです。



霊界に持って行けるのは、さまざまな経験を通して得た学びです。

成長することができた喜びです。





2025年6月1日日曜日

自分の想いを問い質す

私たちは、肉体を使って自己表現しています。

生まれた時からそうしているので、当たり前のように感じられますが、そうではありません。



死ぬと肉体はなくなります。

別の媒体で自己表現を始めます。

そこでは想ったことが、直ぐに具現化します。

想いが周りに知れる、嘘や偽りが存在しない、ありのままの世界です。



地上での行いの全ては、魂(オーラ)に刻み込まれています。

死後に人生を振り返る時が来ますが、自分の行いがどんな結果をもたらしたのかを知ることになります。



同じ行いであっても、動機は様々です。

例えば、大きな災害が起きると、被災地を支援する人たちが現れます。

支援する動機が、被災者のために役に立ちたいという人がほとんどでしょうが、中には見栄や称賛を得るための人もいます。

外からは知ることはできませんが、その動機が問われます。



地上を生きる人間は、肉体、精神、魂(霊)の3者から成り立っています。

3者の存在する次元は異なります。

私たちは物(肉体)的次元の存在ですが、同時に精神的次元、霊的次元にも存在していると言えます。



肉体、精神、魂(霊)は、それぞれの次元の法則の働きによって支配されています。

私たちが認知しているのは物的次元に働いている法則です。

物理的、化学的、生物学的法則などがそうです。



精神的法則は、精神次元に形成されている自我に働いています。

別れの時に悲しくなり、裏切られた時に怒るのもそうです。

特定の出来事に対して、特定の感情が生じるのは、精神的法則の働きによるものと考えられます。



霊的次元の法則は、魂に働いていて、進化成長に関わっています。

他者に奉仕をすること、困難や障害を乗り越えようとすること、内なる神の声に耳を傾けることで、霊的次元の法則に則って、魂は成長します。

人を傷つけたり、苦しませたりすると成長は妨げられ、償いが生じるのも同じ法則の働きによります。



霊的次元の法則は、目に見えない想い(動機)に対しても働いています。

想い(動機)が、役に立ちたいなど利他的なものであれば、法則に叶っているので成長を促します。

見栄や称賛を得るためなど利己的なものであれば、法則に叶っていないので成長することはありません。

同じ行いをしても、想い(動機)によって魂に与える結果は大きく違って来ます。



自分の心は自分のものです。

何を想っても自分の自由だろうと考えている人もいるでしょう。

行動に移さなければ、何を想っても構わないと考えている人もいるでしょう。


壁を手で押すとどうでしょう?

壁から押し返されます。

これは「作用・反作用の法則」(ニュートンの第3法則)の働きによるものです。

霊的次元においても、同じような法則が働いていると考えられます。

憎しみや恨みなどで他者を貶めようとする想いが生まれると、魂を貶める結果となって自らに返って来ます。

想いは具現化する力です。

行動に移さなくても、自分から生じた想いは、形を変えて具現化するので、気を付けなければいけません。



あらゆる次元の法則の根幹を成しているのは「因果律」です。

人に喜んでもらうと、自分もうれしい気持ちになります。

愛情を知らない動物たちが、飛び切り愛情深い家族に迎え入れてもらい、幸せそうに暮らしている姿を見ると、自分もとても幸せな気持ちになります。

幸せになって欲しいという想いは、自分自身を幸せにしてくれます。           

良くも悪くも行動を起こした想い(動機)は、霊的次元の法則の働きにより、自分に返って来ます。



人のためにと思っていても、実は自分のためにしている時があります。

法則は誤魔化せません。

どんな想いで行動しようとしているのかを、自分に問い質す必要があります。



シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。

「自我を発達させる唯一の方法は自我を忘れることです。他人のことを思えば思うほど、それだけ自分が立派になります。」

地上において培われた、誰かのために何かをしようとする想いは、霊界で遺憾なく発揮されて、自らを成長させることになります。

全体のために、もっと自分を役に立てたいと言う想い(動機)があったからこそ、居心地の良い霊界を離れて、さまざまな体験ができる地上に生まれて来たのです。




2025年5月25日日曜日

意識が変わる時


地上にいる私たちは、肉体(物質)しか見えません。

そのため、自分と他の人を全く別なものとして認識しています。

当たり前のことを言うなと叱られそうですが、そうではない世界にいづれ赴くことになるのです。



死ぬと地上を離れて霊界に行きます。

そこでは、肉体(物質)は見えなくなり、代わって霊(魂)が見えるようになります。

そして、人と人(魂と魂)の間にあるつながりを意識するようになります。


死ななくても、意識するようになった人もいます。

エドガーミッチェルは、アポロ14号に搭乗して、6番目に月面を歩いた宇宙飛行士です。

彼はこう語っています。「宇宙から地球を見下ろした時、私の中で何かが変わった。私は自分が宇宙の一部であり、宇宙が私の一部であることを感じた。」

そして「地球へ帰還するあの3日の旅程で私が経験したことは、宇宙の一体性(ユニティ)という圧倒的な感覚に他ならない。」と言っています。



宇宙に行くという特別な体験をしたので、考え方が変わったと言う人もいるでしょう。

全ての人は、死の際に宇宙飛行士よりもはるかに強烈な体験をします。

そして意識は激的に変わります。

個は全体を構成する一部であり、全体はつながっていて1つであることを、自然に意識するようになります。



2020年初頭、新型コロナウィルスが流行し始めました。

ロックダウンなど、人との接触を断つ対応が取られましたが、そんなことなどお構いなしに世界の隅々にまで、ウィルスは拡がって行きました。

人とのつながりを断つことは不可能であることを物語っていました。



2011年3月に東日本大震災が起こりました。

悲惨な現実を前にしながらも、被災者同士が食料や水、毛布などを分け合い、支え合いました。

知らない人同士でも「大丈夫?」と声をかけ合いました。

「自分だけが助かれば良い」ではなく「みんなで乗り越えよう」という意識が生まれました。

こんな様子が各地で見られました。



神秘的な体験をしたり、危機的な状況に直面すると、普段とは別の意識が現れる時があります。

別の意識が、命あるもの同士の間に存在する、目に見えないつながりを感識することがあります。



大切な人を亡くすと、もう姿を見ることも、声を聞くことも、体に触れることもできなくなったと嘆き悲しみます。

悲しみの末に、導かれるようにして、亡くなった人の存在を見出す人がいます。

肉体はなくなっても、霊的なつながりは失われていなかったことを知ります。



地上では、五感で感じられるものに意識が向きます。

眠っていた魂が目覚めるような体験をすることによって、物的なものから霊的なものへと意識が向くようになります。

お金や地位を追い求めるのをやめて、人間関係を大切にするようになった人を見かけますが、そんな人は意識に変化が起きていたのかもしれません。



見かけは違っていても、人間(生命)の本質は同じ魂です。

魂に内在する神性によって、私たちは1つに結ばれています。

広大な宇宙の中で、地球という同じ空間に住んでいる同胞です。

それぞれが全体のために何らかの役割りを果たすために存在しています。

死んでからではなく、生きているうちにそのことに気付くべきです。


1つに結ばれているものを、分断しようとする考えや行いは、明らかに間違っています。

本質は同じなのに、優劣を付けたり、不平等に扱うのは、明らかに間違っています。

間違っていると思うけど、根拠がないので確信を持てない人が少なくありません。



多くの人が漠然と感じていることを、明文化したものが霊的真理です。

真理に出会ってから20年経ちます。

さまざまな実体験に基づいて、私なりに検証して来ましたが、その内容に矛盾や疑問を感じたことは1度もありません。

少なくても私にとって確固たる根拠となっています。

真理に照合すれば、対象となるものが正しいのか、間違っているのか、直ぐに答えが出ます。



シルバーバーチの霊訓にはこうあります。

「魂が開発され進歩するにつれて、自動的に他人に対して寛大になり、憐れみを覚えるようになります。これは悪や不正に対して寛大であれという意味ではありません。相手は自分より知らないのだという認識から生まれる、一種の我慢です。人間はたいていの場合、自分のしていることの意味が分らず、全くの無知から行動しているものです。それがあなたの我慢のしどころです。しかし、その我慢は悪を放任し黙認することではありません。それは我慢ではなく、目の前の現実に目を瞑ることです。」

最近になり、この言葉の存在が大きく感じられます。



間違った行い(悪)は、因果律の働きによっていずれ正されて行きますが、それまでに多大な犠牲が払われることになります。

間違っていることを確信しているのに、何もしなければ目を瞑っているのと同じような気がしてなりません。

真理を知った者同士が一致団結して、声を上げれば1つの力になるのかもしれません。



シルバーバーチの霊訓にはこうも書かれています。

「大自然の働きの基調は革命(レボリューション)ではなく、進化(エボリューション)です。進化の過程はゆっくりと着実に進行します。」

  「神の摂理は完璧ですから、地上の人間が一人の例外もなく、生涯に一度は真の自分を見出すチャンスに巡り合えるように配慮されております。」

さまざまな体験を通して、真の自分を見出し、意識が変わろうとしている時に、真理を伝えるのは極めて重要なことです。

一人ひとりの意識が変わり、真理を知ることで、望ましい世界へと変わって行きます。      



けれども、変わろうとしている人が、容易に真理に辿り着ける環境にあるとは言えません。

もっと身近で、手に届く範囲に置かれていなければいけません。

今は、書籍よりもSNSを利用して知識を得る時代です。

より多くの人が参画した方が、必要としている人が辿り着ける可能性は高まります。

可能性が高まることを、一人ひとりが追求して、導き先が構築されることを霊界は望んでいると思います。





2025年5月18日日曜日

許すという意志を持つ


今生きている世界と、死んでから赴く霊界では、大きく違うところがあります。

霊界では、周りにいるのは自分と同類の人ばかりです。

一方、地上では、周りにいるのは自分と違う人ばかりです。

そのために、相性が良くない人や、苦手な人がいたりして、人間関係で苦労します。



自分と違う人、例えば肌の色が違う人、言葉の違う人と会うと、どこか隔たりを感じます。

隔たりを感じて避けてしまうと、お互いを理解できなくなります。

理解できていないために、誤解が生まれて、いさかいに発展してしまう時があります。

争いの多くが、お互いの違いを認めなかったり、理解し合えないために起きていると思われます。



争いにより被害を被ると、怒りや憎しみが生まれます。

相手のことが許せなくなると、やり返すことになります。

それが繰り返され、争いは発展して行きます。



怒りや憎しみは、地上的自我から生まれます。

地上的自我は、肉体で自己表現するための(精神の)媒体です。

死んで霊界に行くと、肉体はなくなり霊体で自己表現するようになります・

それに伴って、霊的自我が媒体となります。

地上的自我はなくなるので、怒りや憎しみの感情は生まれなくなります。

普段、私たちはこの地上的自我を前面に出して生活しています。



許せなくなるのは、地上的自我の働きによるものです。

許せなくなると、怒りや憎しみの感情が生じて、心が苦しくなります。

苦しさから解放されるためには、許せば良いのですが、いくら許そうと思って許せるものではありません。



許すのは、地上的自我ではなく、霊的自我の働きによるものです。

霊的自我には神性があります。

神性は、寛容心、親切心、共感力、忍耐力、誠実さ、利他性、公平さ、責任感、思慮深さ、柔軟性、勇気などによって表現されています。



許すためには、神性が発揮されなければいけません。

頭でいくら許そうと思っても許せないのはそのためです。

許そうとする霊的自我と、許すまいとする地上的自我の間で葛藤が生じることがあります。



2つの自我の間で葛藤が起きることは日常的にあります。

道で倒れている人を助けようとするのは、霊的自我の神性が発揮されたからです。

的自我は、自分には関係ない、関わりたくないと考え、その場を去ろうとします

助けるのか、助けないのか、迷う時があります。



神性は、魂が進化するほど発揮されます。

さまざまな経験をしながら、年月をかけて、魂は少しずつ進化して行きます。

従って、一朝一夕に許せるようにはなりません。



それでは、どうやっても許すことはできないのでしょうか?

人間には意志があります。

意志は具現化する力を秘めています。



許さないと言う意志がある限り、当然のことながら許すことは決してありません。

その逆に、許すという意志を持てば、たとえ直ぐにではなくても、許す方向へと向かって行くはずです。



怒りや憎しみの感情は、地上的自我から生じています。

許そうとする意志は、霊的自我から生じています。

地上的自我(精神)の上位に霊的自我があります。

怒りや憎しみはの感情は、霊的自我から生じている許そうとする意志には勝てないので、消えて行くはずです。


自分にある神性を信じましょう。

神性が発揮されて、許せないことは何もありません。



許そうとする意志の本質は、自己犠牲を伴う愛です。

愛によって、内に溜まっている怒りや憎しみの感情は手放されます。

手放された時、対象は許されます。



負の感情に支配されそうになった時、認める、許す、哀れむという意志を持ちましょう。

その意志は、神性を帯びたものなので、感情は鎮まって来るはずです。



シルバーバーチの霊訓から引用します。

「あなたが地上に生まれたのは、その内部の神性を少しでも多く発現させるためです。それは永遠に終わりません。なぜなら神性は無限だからです。神性は自発的に表現を求めます。
それが、あらゆる種類の美徳と善行、つまり、親切、同情、寛容、慈悲、哀れみ、友情、無私の愛となって表現されます。その量が多ければ多いほど、それを発現している魂は偉大です。」



自我に打ち克って、神性を発現させることが、地上に生まれた大きな目的のようです。

小さなことから、大きなことまで、その機会はいくらでも巡って来ます。

その1つ1つが、魂を進化成長させることにつながっています。


2025年5月11日日曜日

赤ちゃんの死について思うこと


死にかけた人が、すでに亡くなっている人と会ったという話を、度々聞きます。

科学者の中には、臨死状態で脳への酸素供給が低下して、幻覚が起きて「死んだ人に会う」というビジョンが現れることがあると言っています。

それは死後の世界や魂の存在を否定するための根拠のないこじつけです。

「死んだ人に会う」という同じビジョンが現れるのは、実際に会っているからです。


会った時に、「まだ早い」と言われて、意識が戻った人は少なくありません。

「まだ早い」は、寿命が来ていない、地上で果たすべきことが残っているという意味が込められています。

機が熟していないことを、霊界にいる人たちはオーラから読み取っていると思われます。



働き盛りのご主人を亡くされた奥様がいました。

突然死でしたが、その数か月前から「もう時間がない」と、奥様にしきりに言っていたそうです。

記憶にはありませんが、魂は寿命を知っていると考えられます。



寿命は決まっています。

それでは、生まれて直ぐに亡くなった赤ちゃんも寿命だったのかと言う人もいるでしょう。

シルバーバーチの霊訓にはこう書いてあります。(少し長文です)

「障害児とか早世する子の問題は、やむを得ぬこととはいえ、この種の質問はみな、物的側面を見ることから生じるものです。地上の人間にとっては、霊的な観点から見ることは不可能でしょう。いわば短期的な視点から見ておられ、長期的な視点から見ることができません。皆さんの焦点は常に日常生活の期間だけに置かれていて、それで不完全なものとなるのです。再生とカルマと奉仕的精神、それに霊性の進化と成熟度が絡んでおります。とても複雑なのです。生命の霊的本質とその無限の可能性がすべての基本にあるのです。こうした深刻な問題にその場限りの安直な返答ですり抜けることは、私には許されないことです。これには物的法則と精神的法則と霊的法則が絡んでおります。法則は法則通りに結果をもたらすものです。因果律に罪があるように、埋め合わせもあります。神の秤は寸分の不公正もありません。見た目は何か大きな手違いがあったかに思えるかもしれませんが、霊的な観点から見た場合、地上人類の現在の進化の階梯では理解の及ばない事情があることを理解して下さい。」

何やら難しく感じられる文章ですが、地上にいる私たちには理解できない理由があって、生まれて直ぐに亡くなったと言うことになります。


人生という物語は、地上と霊界の間を行き来しながら、途切れることなく続いています。

その1つの章として、今、地上を生きています。

死とは次の章に進むための自然現象であり、自然法則の働きに則って起こります。



自然法則には、物的法則、精神的法則、霊的法則があります。

物的法則とは、目に見える世界を支配している法則です。

その1例として、万有引力の法則が挙げられます。

風邪を引いたら熱が出るのもそうです。

精神的法則とは、心の世界を支配している法則です。

感情は、この法則の働きにより生じます。

悲しくなると涙が流れます。

この現象は、精神的法則と物的(肉体的)法則が、同時に働いて起きていると思われます。

霊的法則とは、魂(生命)とその成長を支配している法則です。

地上に生まれて来たのは、霊的法則の働きによるものと考えられます。

いつ、どのような亡くなり方をするのかは、物的(肉体的)法則、精神的法則、霊的法則の働きが絡まって決まると考えられます。



全ての法則を創ったのは神です。

神の心は、言葉では言い尽くすことのできない愛です。

その愛が、法則の中に顕現しています。

地上に生まれるのも、そして去るのも、神の愛の為せる業と言うことになります。



早すぎる死に対して、前生のカルマのせいではないかと言う人がいます。

幾ばくかの霊的な知識があれば、そうは思えないはずです。

死によって地上から解放され、苦しみや悩みのない霊界へ戻ることが、どうして償いになるのでしょうか。

地上に留まり、相応の苦しみや痛みを味わって償われるべきものです。



その死は、「奉仕的精神(愛)」に基づいているのかもしれません。

愛する人の死ほど、残された人に衝撃を与えるものはありません。

その衝撃が魂を目覚めさせ、生まれて来た目的を果たし始める人もいます。

亡くなった人の分まで、精一杯生きようとする人もいるでしょう。

最も大切なものに気付く人もいるでしょう。



生まれて直ぐに亡くなる赤ちゃんとは、霊的に親密なつながりがあると考えられます。

私たちは、自分を成長させるために生きています。

その赤ちゃんは、自分を成長させるためではなく、親密なつながりがある人を大きく成長させるため、大切なことを学んでもらうために、生まれて来たのかもしれません。

平たく言うと、強く優しい人になってもらうことを望んでいるのかもしれません。

成長させたいという意志に、霊的法則が働いた結果として、自らが直ぐに亡くなるという計画が立てられた可能性があります。

その計画を許容するほど利他的な魂であれば、地上を長く生きる必要もないのかもしれません。



地上にいると法則の働きが分かりません。

そのため、不運で不幸な出来事にしか思えません。

理不尽さが募るばかりです。



人は死んで霊界に行きます。

それまで分からなかった法則の働きが分かるようになります。

不運でも不幸でもなく、確固たる目的(原因)があり、それに法則が働いて起きていたことを知ります。



その出来事が起きたことで、自分が大きく変わって行ったことを知ります。

耐え忍びながら、必死に生きることで、地上に生まれた目的を果たしていたことを知ります。

全てに合点が行った時、背後に控える無限の存在に究極の愛を感じて、深く感謝するでしょう。






2025年5月4日日曜日

霊的に目覚める


全世界の軍事費は約390兆円だそうです。

一方、全世界の飢餓人口はおよそ7億3千万人と言われています。



もし、軍事費を飢えている人に回せたらどうでしょう?

その額は一人当たり53万円ほどになります。

武器を必要としない平和な世界になれば、飢餓に苦しむ人はいなくなるはずです。



何故、そうならないのでしょうか?

人間には、地上的な自我(以下自我)が存在するからです。

自我が発達していない動物たちは、生きるために他の動物を捕えたり敵対することはありますが、物欲や所有欲がないので、無用な争いをすることはありません。



戦争は、国と国の間で行われることが多いです。

ところで国とは何でしょう?

国とは、人間が作りだした概念です。

概念なので、実際には存在していません。

頭の中にしか存在しない概念に固執する自我によって、無用な戦争が起きています。



仕事でアメリカに行き、国内線の飛行機に乗った時のことです。

昼食の時間になり、CAが前から順番に機内食を配っていましたが、私の席を飛ばして行きました。

うっかりして忘れたのかと思いましたが、そうではなく意図的なようです。

これが人種差別というものかと思いましたが、表情1つ変えずに平然とこのような行為が行われていることに怖さを感じました。

外見で人を判断するのも、差別的な行いをするのも、同じく自我の働きによるものです。



悪者のように思える自我ですが、地上で自己表現するために必要不可欠なものです。

自我は肉体と密接に関係して、安全かつ快適に生きることを志向しています。

けれども強くなり過ぎてしまうと、様々な問題を引き起こすことになります。



人間の本質は魂です。

目に見える肉体ではありません。

五感で認識して、頭で考えている自我には、それが分かりません。



自我の働きが強くなると、自分を守ろう、自分が良くなろうとする気持ちが強くなります。

それに伴い、人を信じる気持ちや思いやる気持ちは薄れて、殺伐とした気持ちになります。



地上の人間には、自我の他に、真の自分とも言える「霊的な自我」が存在しています。

死んで肉体がなくなると、この霊的な自我が直接自己表現するようになります。



霊的な自我の働きが強くなると、相対的に地上的な自我の働きは弱くなります。

それに伴い、人を信じる気持ちや思いやる気持ちが高まり   温和な気持ちになります。



普段、私たちは地上的な自我を前面に出して生活しています。

けれども、状況によっては霊的な自我が前面に出て来ることがあります。

東日本大震災の時、津波で街は押し流されて、たくさんの人が亡くなりました。

現実とは思えない悲惨な状況を目の当たりにして、霊的な自我が前面に出て来た人が多くいたと推察されます。

そんな人たちは、普段考えることもなかった命について思いを巡らし、つながりの大切さに気付いて、励まし合い、助け合っていたと思います。

しばらくの間、日本全体の霊的な意識が高まり、同じ想いを共有して1つになっていたように感じられました。



人類は1つです。

霊的につながっています。

自我には肉眼を通した世界しか見えないので、そのことに気付けません。

もし、人類の半分くらいが死んでしまうくらいの大きな隕石が、近いうちに地球に衝突すると分かったらどうでしょう?

多くの人の、霊的な自我が目覚めると考えられます。

戦争をしている人たちは、無意味さに気付いて、直ちに止めるでしょう。

国を超えて知恵を出し合い、生き残るためにどうすれば良いかを話し合うでしょう。

同じ想いを共有することで、世界は1つになるのかもしれません。



目覚めさせようと思っても、霊的に目覚めるものではありません。

危機的な状況に陥ったり、深刻かつ重大な問題に直面して、初めて目覚めます。

霊的な自我が前面に出て来ると、霊的な眼が見開かれて、それまで気付かなかった大切なものが見えて来ます。



国を動かしているのは、概して権力欲の強い人たちです。

悲しいことに、そんな人たちの霊的な眼は閉じられています。

人類は1つと思うようなことはなく、自分(自国)のことしか考えようとしません。

自然法則の働きに反する利己的な行動をして、世界に不調和が生まれて、不必要な苦痛を味わっている人が多くいます。

でもそれは一時的なものです。

因果律の働きによって、利己的な行動をした人(国)に、苦痛を伴う結果が返って来ます。

苦痛を味わうことで、霊的に目覚めます。

過ちに気付いて、全体を意識して協調するようになるでしょう。

長い長い年月をかけて、神の心である自然法則の働きと、神の力である愛によって、全体は1つになって行きます。


NASA公開画像より
「全生命は霊的に1つ」

「個々の生命は全体のために生きている」

この事実を受け入れる人が多くなるほど、平和で平等な世界になると思います。



2025年4月27日日曜日

病気を治す


私は歯科医として地域医療に携わっています。

ご存じのように、虫歯はプラークという細菌の塊が原因で起こります。

甘いものが好きな人や、日頃の歯磨きを怠っている人は、虫歯になる可能性が高くなります。


地上の人間は、肉体、精神、魂(霊)から成り立っています。

たくさんの病気がありますが、肉体(物質)的、精神的、霊的次元のどこかに、その原因が存在しています。



虫歯菌は顕微鏡で確認できるので、物質的次元に原因が存在していると言えます。

胃潰瘍は過度のストレスで起きることが多いので、精神的次元に原因が存在していると言えます。



ストレスを感じると、つい甘いものを食べてしまう人もいます。

従って、虫歯は物質的次元だけではなく、精神的次元にも原因が存在していると言えます。



未だに原因が分からない病気があります。

その多くは、現代医学で認められていない霊的次元に原因が存在していると考えられます。



霊的次元に原因が存在する病気は、「魂の成長」に深く関わっていると思います。

記憶には上ってきませんが、この人生の前に地上を生きた経験があります。

前の人生で過ちを犯し、その償いをするために病気になっている人がいます。

相応の償いをしないと、成長することが許されないからです。



自分を成長させるために、病気になることを決めていた人もいます。

肉体がないと経験できない病気を通して、霊界では得られない資質を手に入れるためです。


甘いものを食べるのも食べないのも、歯を磨くのも磨かないのも決めているのは「自分」です。

ストレスを感じる生き方や考え方をしているのも「自分」です。

自分で決めて、行ったことが、病気という結果として自分に返って来ています。



今まで、どれ位のことを決めて来たのか想像もできません。

どんな身体に宿るか、どんな環境(家庭)で育つのかも決めています。

肉体の弱点や、親から受け継ぐ因子も、生まれる前の自分は承知しています。



それぞれの人に、人生の計画があります。

効率よく成長させるために、無限の叡智(神)の配慮により考案されたと考えられますが、その計画も承知して生まれて来ています。

その身体や環境を通して経験したことが、今の自分を形づくっています。



計画などすっかり忘れてしまっている地上の人のために守護霊が付いて導いています。

けれども、分岐点に差し掛かった時、どちらに進むのかを決めるのはあくまでも自分です。



誰のせいでもありません。

運が悪いのでもありません。

自分で決めて来た結果として、今の自分がいます。



病気になり、運命を呪ったり、神を恨んだりしてはいけないのはそのためです。

理不尽さを感じるのは、原因(決定)と結果の連鎖が地上では分からないからです。



神の公正は完璧です。

宇宙の隅々まで自然法則が働いています。

法則が働いた結果として起きているので、偶然や不運はありません。



法則は神の心の反映です。

神の心は愛です。

悪い方向に向かっているように見えても、法則の働きによって、善い方向に向っています。



肉体だけを見て判断してはいけません。

大切なものに気付いて、生き方や考え方が変わったのであれば、病気になった目的が成就されています。



病気に負けることはありません。

シルバーバーチの霊訓にはこうあります。

「魂の優位を主張し、肉体と言う下等なものによって束縛され抑えられることを拒否することで病気を追い払うのです。身体を従者にするのです。主人にしてはなりません。誰にでも出来ることです。ですが、大部分の人間は頭から出来ないものと思い込んでいます。だから出来ないのです。」

魂の表現媒体に過ぎない肉体上にある病気に、負けるはずなどありません。

たとえ肉体を失ったとしても、それは病気に負けたのではなく、計画がそうであったと考えるべきです。

いづれにしても、善きに計らわれています。



魂から生じた意志は具現化する力となります。

「(病気を)治す」と言う強い意志を持ち続けて下さい。

元気になっている自分を心の中でイメージするのも有効です。

魂が肉体より優位で、意志が具現化する力になるのなら、肉体はそれに従うはずです。

スティグマ(聖痕)などは、意念が肉体に変化を起こす実例と考えられます。

「治りたい」「治したい」は願望であり、「治して下さい」は依頼であり、意志とは違うので気を付けなければいけません。



自分の本質は魂です。

身体が病んでいても、苦痛により魂は浄化され、健やかになっているはずです。

たくさんの苦痛を味わって来た人ほど浄化は進んでいるはずです。

それが表現媒体である肉体に反映される時は、もうすぐかもしれません。



希望と意志を持ち続けましょう。

肉体がいかなる状況にあったとしても、病気になった目的が果たされたのならば、存在する理由はなくなり、癒されるはずです。







2025年4月20日日曜日

神の心を表現するために成長し続ける


2つのうち、1つが真実の時があります。

たとえば、あの世が「ある」のか、それとも「ない」のかです。

どちらも客観的に証明できるものではありませんが、私はある方を信じています。



証明できないものとして「性善説」と「性悪説」があります。

性善説は人間は本来、善い心を持って生まれてくるという考え方です。

一方、性悪説は人間は悪い心(欲望や利己心)を持って生まれてくるので、教育や法律で律する必要があるという考え方です。

どちらもそれなりに正しいように思えますが、ある根拠があって私は性善説を信じています。


じゃれ合っている子猫を見ると愛らしさを感じます。

なぜでしょう?



同じ生きるものとして、霊的なつながりを感じるからです。

そして、私たちにある「神」の部分が、愛らしさを感じているからです。



子供の頃、寂しそうにないている子猫を、家に連れて帰った人もいるでしょう。

大人になると、そんな子猫がいても素通りしてしまいます。

なぜでしょう?



地上の人間は、「魂」「精神」「肉体」から成り立っています。

魂は意識であり、肉体は地上における(魂の)表現媒体です。

精神(自我)は魂と肉体の間に介在し、肉体(五感)を通して得られる情報を魂に伝え、魂から生じる意念を肉体で表現するための指令を出しています。

自我は、その人のパーソナリティと言えます。



幼い時は、自我が発達していません。

そのため、子猫を「かわいそう」と思うと、自我に捉われることなく、行動に移してしまいます。

大人になるのに従い、自我が発達して行き、いろいろなことを考えるようになります。

「連れて帰ると大変だ」と考えると、素通りしてしまいます。

自我の発達により、思うがままに行動しなくなることを、「大人になる」と表現しているのかもしれません。



自我がなければ思うがままに行動できそうですが、それでは地上を安全に生きるのは難しくなります。

火事で家の中に取り残された人を見ると助けようとして、死んでしまうかもしれません。

肉体を守るために恐れを生じさせるのも、自我の重要な働きの1つです。



私たちには自由意志が与えられています。

そのために、過ちを犯してしまうことがあります。

過ちを犯す前に、何者かが押し留めようとします。

魂に宿っている神が「良心」となって顕現して、「やってはいけない」という衝動を起こさせています。



そんな良心の声に、自我が逆らおうとする時があります。

「ばれなければ良いだろう」「みんなもやっていることだから」など、適当な理由を考えて正当化します。

自我の欲求に負けて、良心の声を無視した時、人は過ちを犯します。




悪人と呼ばれる人たちにも、もちろん神は宿っています。

自我が強くなり過ぎて、良心の声を無視するのが常態化して、過ちを繰り返してしまう人たちのことを指していると思います。



生まれながらにして万人に良心が備わっていることが「性善説」が正しいと思う根拠です。

「性悪説」とは、自我が持っている特性を意味していると思います。



眠っている時には、魂(意識)は肉体を離れて霊界に行っています。

霊界では、霊体によって自己表現しています。

魂と霊体との間には、地上とは別の自我が存在しています。

その自我をシルバーバーチが言う「インディビジュアリティ」と考えています。(類魂とはさらに大きなインディビジュアリティ(集合意識)を形成しています。)

インディビジュアリティから生じた意念を霊体によって表現するようになります。



正確には、地上の人間は、「魂(神)」「インディビジュアリティ(霊的な自我)」「霊体」「パーソナリティ(地上的な自我)」「肉体」から成り立っていると言えます。

パーソナリティはインディビジュアリティの一部であり、インディビジュアリティから生じた意念を地上で表現するためにあります。

けれども、パーソナリティは肉体や環境からの影響を強く受けるので、インディビジュアリティから生じた意念を表現するとは限りません。

寂しそうにないている子猫の前を素通りする時もそうです。

本当はこうしたいのだけれども、いろいろなことを考えてしまい、違う行動を取ってしまうのはそのためです。

「魂が目覚める」と、自我の束縛から解き放たれ、インディビジュアリティから生じている意念に、より気付けるようになります。



シルバーバーチの霊訓にはこうあります。

「魂は無限なる霊である神から発せられる神性の一部です。霊はその魂の媒体、魂の伝達手段です。」


難しく感じられますが、私たちは神の一部であり、その表現媒体でもあると言うことです。


霊的成長とは、魂の媒体であるインディビジュアリティがより神性を発揮できるようになり、それに伴い霊体が精妙化して行く過程を指していると考えています。


インディビジュアリティが成長して霊体の精妙化が進むと、形態を取らなくなり思念のみになりますが、その思念に個性的な光輝が伴っているので、誰なのかが分かるようです。





私たちは、神の心を表現するために、永遠に成長し続ける存在であり、その一環として、今地上を生きています。




2025年4月13日日曜日

生きることは愛すること


約20年前のある朝、左手に痺れを感じました。

歯科医という職業柄、頭を傾けて口の中を覗いているため、頸椎を痛めてしまったと思いました。

けれども、その痺れは肩から指先へと一定の速度で移動して行くので、神経的なものとは違っていました。

ネットでいろいろと調べてみて、もしかしたらヒーリングの力かもしれないと思いました。



ある日、妻が胃痙攣を起こしたので、試しにお腹に手を置いてみました。

すると手のひらからビリビリと力のようなものが勢いよく流れて行くのが感じられました。

しばらくすると、痛みが和らいだようです。

不思議なことが起きているのに、少し興奮したのを覚えてまいます。



人は、この力を自然治癒力として持っています。

医者ではなく、自然治癒力が病気を治しています。

もし、この力が存在しなければ、医者は患者の体にメスを入れることはできません。



ヒーリングの力も自然治癒力も「生命力」の一種です。

生命力はどこから来るのでしょうか?

 


私たちは生きるためのエネルギーを、食物から摂っています。

けれども、それは肉体だけの話です。

地上の人間は魂、精神、肉体の複合体です。

非物質である魂は、非物質である「生命力」によって活動しています。

魂に供給された生命力は、次元変換されて精神を活動させる力となります。

何も食べないでいると肉体の活力は低下しますが、精神の活力は保たれるのはそのためです。



魂と精神と肉体は密接に関係しています。

精神の調子が悪くなると、肉体に病変となって現れることがあります。

胃潰瘍はその典型です。



精神と魂の間にも、相互作用があります。

極度の怖れが精神で生じると、魂が生命力を受け取り難くなります。

それが精神の活動を低下させ、ひどくなると思考が停止し、いわゆる頭が真っ白の状態となります。

取り越し苦労はしてはいけないと、シルバーバーチは繰り返し言っていますが、生きる力が奪われてしまうからです。


宇宙全体が神です。

神とは無限の意識であり、無限のエネルギーです。

私たちは宇宙の一部として、全体(神)と繋がっています。

たとえて言うのならば、身体を構成している1つの細胞です。

1つ1つの細胞に同じ血液が流れて生かされているように、個々の生命には同じ力が流れて生かされています。



全体(神)と霊的に繋がっている魂に供給された生命力は、精神そして肉体へと流れて行きます。

高い次元から低い次元へと(垂直的に)流れているので分かり難いのですが、ヒーリングする時は肉体を(水平的に)流れて行くので、その力を体感することができます。



私たちは、全体(神)から届いている力によって生かされています。

そのことを、より多くの人に分かってもらうためにヒーリングの力が存在すると考えています。



神との繋がりは永遠です。

肉体を失っても、同じ力によって魂は生かされ続けます。

ヒーリングの力は、神を源泉として霊界の人たちを介して、地上にいる私たちに届けられます。

神の愛を帯びた力なので、魂が癒されて、病気が治ると考えられます。



同じく、生きる力である生命力も、神を源泉としているので愛を帯びているはずです。

けれども、媒体である精神(自我)が不完全なために、歪められて表現されてしまいます。

大きく歪められてしまうと、時に憎しみになります。

憎しみの中にも、神が宿っていることになります。

自我が完全に近づくのに従い、神の心を忠実に表現できるようになります。

それが霊的成長であり、生きている目的と考えられます。



本来、生命力は神の愛を表現するためにあるものです。

生きることは、愛することです。

けれども、地上にいる私たちは肉体があるため、霊的な感覚が鈍くなり、そのことに気付けません。

意識が自分に向くため、生命力は自分を守ったり、養うために費やされます。



死んで肉体がなくなると、意識は外部に向くようになります。

生命力の働きによって、ごく自然に外部に愛を表現したくなります。



地上においても魂にまで響く出来事を経験して、霊的に目覚めて、愛を表現したくなる衝動に駆られる人もいます。

少し前になりますが、踏切内にいた老人を助けようとして、電車にひかれて亡くなった女性がいました。

危機的な状況を目の前にして、女性の魂が目覚めて、止むに止まれずに愛を表現した結果と考えられます。



私たちの本来の住処は霊界です。

生まれて来たのは、霊的なものが見えなくなる地上で、最も大切なものが愛であることを、実体験を通して、魂に刻み込むためと考えられます。

その目的を果たした人が霊界に戻ると、生まれる前よりも強く高い愛を表現できるようになっています。

愛する悦びをより感じながら、生きるようになっています。






2025年4月6日日曜日

出来事を経験することで成長して行く


「地上へ誕生してくる時、魂そのものは地上でどのような人生をたどるかをあらかじめ承知しております。潜在的大我の発達にとって必要な資質を身につける上でそのコースが一番効果的であることを得心して、その大我の自由意志によって選択します。その意味であなた方は自分がどんな人生を生きるかを覚悟の上で生まれてきているのです。その人生を生き抜き、困難を克服することが、内在する資質を開発して真の自我、より大きな自分に新たな神性を付加していくことになるのです。」

シルバーバーチの霊訓にはこう書いてあります。



今、こうしてブログを書いているのも、予定されていたことだと思います。

宗教に関心のない両親の元に生まれたのも、抵抗なく霊的真理を受け入れるためだと思います。

振り返ってみると、目的を果たすために、さまざまな出来事が絶妙のタイミングで起きていました。



死んで全てが終わりになるのなら、人生に意味などありません。

無になるのに、意味など見つけるのは、それこそ無意味です。

出来事は偶然起きるのであり、運が良い人と悪い人がいるだけです。



この人生で終わりではありません。

死んだ後に、次の世界が待っています。

残念ながら、そのことを客観的に証明する手段はありません。



困難な出来事に遭遇したとします。

人生が終わりになるのであれば、逃げてしまっても構わないはずです。

それなのに、人は何とかして乗り越えようとします。

どうしてでしょう?

真の自分である「魂」が、そうすることを望んでいるからです。



悪いことをしたくありません。

人には良心があるからです。

良心とは「魂」に内在する神です。

過ちを犯さないように、神によって監視されているのです。



「魂」は肉体を超えたものです。

死によって肉体がなくなっても、次の世界で変わりなく魂は存在しています。



死んで無になるのか、魂となって生き続けているのか、どちらを選ぶのかは個人の自由です。

無になる方を選ぶのは、一定のリスクを伴います。



それぞれの人に、予定されている人生があります。

自分に足りない資質を身に付けたり、過去生の過ちを償うために、神の叡智によって計画されています。

およその人生は決まっていますが、起きた出来事をどう捉えるのかは、個人の自由です。

捉え方によって、進んで行く方向が大きく違って来ます。



小学校の時に漢字を習いました。

当時は何でこんなものを覚えなければいけないのかと思いましたが、今は生活して行く上で活かされていることを知っています。

出来事が起きた時、何で自分がこんな目に遭わなければならないんだと思う時があります。

死んだ後、地上の人生を振り返ります。

その時に、出来事から大切なことを学んで、意図していた自分に変わるために起きていたことが分かります。



けれども、霊的な目が閉ざされている私たちは、偶然や運として片付けてしまいがちです。

偶然や運として片付けてしまうと、出来事から何も学べなくなります。

人生を呪ったり、神を恨んだりするのも同じです。

変わるための力が削がれてしまいます。

それでは、地上に生まれた来た目的を果たせなくなります。



出来事を正面から受け止めると、感情に押しつぶされそうになる時があります。

それは自然なことです。

その後、どう捉えるのかが重要です。



偶然ではありません。

誰のせいでもありません。

自分に必要なことが、自然法則の働きによって起きています。

出来事から何かを学ぶことで、それまで捉われていた感情から解放されて、今までと違う自分に変わることができます。



私は、自分の障害を神に感謝しています。私が自分を見出し、生涯の仕事、そして神を見つけることができたのも、この障害を通してだったからです。」

この言葉はヘレン・ケラーのものです。

自分の身を嘆いたり、運命を呪っていたのなら、暗闇に閉じ込められたままです。

苦しみの中で、光(真理)を見つけて、変わることができて、暗闇から抜け出せたと思います。



人間の本質(魂)は、変えようと思っても、変わるものではありません。

そこで地上に生まれることを志願します。

苦しみや痛みを伴う出来事を経験することで魂が目覚めて、霊的に大切なことを見つけ出して、変わることができます。



出来事は自然法則の働きによって起きています。

つらい状況に追い込まれたとしても、良い方向に変わるために起きています。

なぜなら、神の心(愛)が、自然法則の働きの中に顕現しているからです。

最後は良くなると、強く信じて下さい。



生まれて来た目的を果たすために、地上の人が辿る人生を知っている守護霊が付いて導いています。

けれども、自我の働きで我欲や怖れなどが強くなってしまうと、導きに気付きにくくなってしまいます。

出来事の捉え方を誤り、予定されていたのとは違う方向に進んでしまい、変われずに終わることもあります。

地上に生まれた目的の果たせなかったことに気付き、ひどく後悔するでしょう。



後悔を晴らすために、今度は予定された方向に進んで行くと固く誓って、もう1度地上に生まれることがあります。

相応しい環境に生まれて、同じような出来事が起こるでしょう。

困難で、できれば行きたくないなのに、どうしても進んで行かなければならない衝動に駆られたとしたら、過去にそのようないきさつがあったのかもしれません。

もしそうだとしたら、迷わずに進んで行くしかありません。




出来事に偶然はありません。

自然法則の働きによって起きています。

私たちは、自然法則の働きによって起きた出来事を経験することで、成長して行きます。

成長することで、全体の成長が促されて、神の意図した世界となって行きます。


2025年3月30日日曜日

内在する愛によって許すことができる



死んだ後にも、生きる世界(霊界)があります。

あるのは確かですが、残念ながら客観的に証明することはできません。


眠っている間は、魂は肉体を離れて、霊界に行っています。

爽やかで、新鮮な気持ちで目が覚める時があります。

そんな時は、霊界でリフレッシュされ、余韻を残しながら肉体に戻って来たのではないかと考えています。



小さい時は悩みや心配などなく、日が暮れるまで無中になって友達と遊んでいました。

霊界も同じで、生きて行く上での悩みや心配はなくなり、友達よりもさらに親しい人たちと、やりたいことを思う存分することができるようになります。



霊界のことを知るほど、早く行きたくなります。

地上に戻ることなく、できるなら霊界で成長したいと思うのは、私だけでしょうか。



若い時、社会で成功することはとても大切であり、自分の価値の多くはそれで決まると考えていました。

少しでも高い地位、たくさんのお金を求めて、努力している人は少なくありません。

けれども、霊界に持って行けるのは自分(魂)だけです。



霊界に行ってしばらくすると、地上の人生を振り返る時が来ます。

想ったこと、言ったこと、行ったことの全てが、オーラに刻み込まれています。

自分の言動が、周りにどのような結果をもたらしたのかを知ることになります。



因果律の働きは、正確無比です。

人や動物に喜びを与えれば、相応の喜びとなり自分に返って来ます。

苦しみを与えれば、相応の苦しみとなって自分に返って来ます。

与えた喜びは自らの成長を促し、与えた苦しみは成長を妨げます。



成長したいと言う根源的な欲求が私たちにあります。

成長を妨げる原因(カルマ)を取り除かない限り、欲求を満たすことはできません。

原因(カルマ)を取り除くために、生まれて来た人も少なくないようです。



霊界で経験できないことを、地上では経験できます。

経験を通して大切なことを学び、自分に足りない霊的な資質を手に入れるために、生まれて来ている人も多くいます。



思念が直接伝わる霊界と違い、地上では自分の想いや概念を言葉に変えて、五感を通して伝えなければいけません。

けれども、自分の想いや概念を正確に言葉に変えられるわけではありません。

住んでいる場所によって、言語も違います。

言語が違えば、自分の想いを正確に伝えるのは、さらに難しくなります。



心が似通っている人たちだけと接している霊界と違い、地上では心が似通っていない人たちとも接して生きなければなりません。

たとえ自分の想いを正確に伝えられたとしても、考え方や価値観が違う人と、同じ想いを共有できるとは限りません。

お互いを理解し合うのが困難な世界に生きていると言えます。



肉体を持つことにより、意識は自分に向かいます。

自分が大切になるほど、他者の想いはどうでも良くなります。



これら地上ならではの要因によって、いさかいが起きやすくなります。

高じると戦争になります。

肉体を持たない霊界では、戦争は起こり得ないのです。



考え方や価値観が違う人間と共に生きているのが地上です。

そのことを、まず認識しなければいけません。

自分の考えの方が正しい、あるいは優っていると主張し合うのではなく、相違があるのは当然として受け止め、相手の考えを認めなければいけません。



肉体を介して自己表現しなければならないのが地上です。

思った通りに表現できるとは限りません。

表現できたとしても、意図した通りに相手に伝わらない時もあります。



不完全な人間が、完全に近づくために生まれて来るのが地上です。

不完全であるがゆえに、時に過ちを犯してしまいます。

自分は完全だと言う人がいますが、それ自体が不完全さを証明しています。



お互いが不完全な存在であることが認められたのなら、相手の過ちを許すことができるはずです。

侵害しようとする相手から自分の身を守ることは許されますが、相手の過ちを許せずに、感情に任せて報復したのなら、自然法則の働きに背いたことになり、好ましくない結果が返って来ます。

難しいことですが、感情を抑えて、因果律の働き(神)に委ねなければいけません。



地上は、認め合い、許し合うことの大切さを学ぶ場です。

寛容さが求められています。

それらが欠けていると、因果律の働きによって苦痛を伴う事象が起きて、経験的に学ぶことになります。



自然法則を貫いているのは愛です。

寛容であるためには、自己犠牲が求められ、大きな意味の愛を表現しなければなりません。

自然法則に叶っているので、好ましい結果が生まれます。



認められない、許せないのは、地上の表現媒体である自我(エゴ)の働きによるものです。

魂には神が宿っています。

エゴから生じた怒りや憎しみの感情は、内在している神の愛によって、完全に鎮めることができます。



自分にも神が内在していると強く信じましょう。

何が起きたとしても、そこから愛を引き出すことができたのならば、許すことができるはずです。



地上にいる私たちは、魂に内在する愛とエゴから生まれる感情の間で、日々揺れ動いています。

エゴに打ち克って、内在している愛を表現することで、霊性は発達して行きます。

それこそが、地上に生まれて来た目的です。



地上で身に付けた寛容の精神は、魂の財産として持って行けます。

博愛の精神となって、霊界で花開くと思います。




 

2025年3月23日日曜日

意志は感情よりも強い


ALSと言う病気を聞いたことがある人も多いかもしれません。

ALS(筋萎縮性側索硬化症)は、運動神経細胞が徐々に障害され、筋肉が衰えていく進行性の神経疾患です。

根本的な治療法はなく、呼吸に関わる筋肉が動かせなくなり、最終的に死に至ります。



ALSの患者さんは大きな決断をしなければいけません。

呼吸が困難になって来たら、気管切開をして人工呼吸器を取り付けて延命を計るのか、または自然に任せる(死を待つ)のか、どちらかを選択しなければいけません。



死後の生があるのが分かっていて死ぬのは恐くなくても、息ができない苦しみは避けたいです。

少しでも長く生きて欲しいと家族に懇願されたのなら、心が動かされてしまうかもしれません。

極めて難しい選択を迫られるのは間違いありません。



霊的真理には「乗り越えられない困難や障害は起きない」と書いてあります。

この病気には、治療法がなく死に至ります。

どう乗り越えて行けば良いんだと思われる人もいるでしょう。



病気が進行すると、全身の筋肉は麻痺し(眼球を除いて)動かせなくなりますが、意識は最後まで清明です。

意志の疎通が全くできなくなるのを「Totally Rocked Syndrome(完全閉じ込め症候群)」と言いますが、人工呼吸器を付けて生き長らえたとしても、この状態が死ぬまで続きます。

逃れられない苛酷な現実を前にして、多くの患者さんは絶望と恐怖を感じるようです。

精神的に追い詰められて、それまで眠っていた魂が目覚めて、霊的真理に辿り着く人もいるでしょう。



地上の人間は、肉体を携えた魂です。

本質は魂です。

従って、肉体がいかなる状況に追い込まれたとしても、魂から生まれる意志によって思い通りの自分でいることができるはずです。



けれども、人間には(地上の)自我が存在しています。

肉体や外部の環境から影響を受けて、精神(自我)からはさまざまな感情が生まれます。



精神(自我)よりも魂が上位にあります。

精神から生まれる感情よりも、魂から生まれる意志の方が強いのです。

意志を持つことによって、好ましくない感情は抑えられるはずです。



ALS患者に藤田正裕さんと言う方がいます。

彼は広告プランナーとして第一線で活躍していましたが、30歳の時にALSと診断されました。

次第に呼吸が困難になり、生きるか死ぬかの決断をしなければいけない時が来ました。

肉体に閉じ込められる恐怖はもちろんのこと、家族に金銭的、精神的、身体的な負担や迷惑をかけたくないという理由から、約70%は人工呼吸器を付けない方(死)を選ぶそうです。

1度人工呼吸器を装着したら、倫理的、法律的な問題から外すことは難しくなります。

そんな中で、藤田さんは生きる方を選びました。



藤田さんの魂は目覚めていると思います。

命の終わりを意識することで、生きる意味に気付き、絶望ではなく希望を持って人生を全うしようと決めたそうです。

「END ALS」という組織を立ち上げて、治療法の確立と患者の生活向上支援のための活動を始めました。



絶望や恐怖を感じていたい人はいません。

何かをしようとする「意志」が生まれている時には、絶望や恐怖などの「感情」から解放されています。

逆境の時ほど、感情に翻弄されないために、意志を持つことが必要です。



「死にたくない」と思うのは意志ではなく、自我から生じている願望です。

願望なので叶えられないかもしれないと思うと、そこから負の感情が生まれてしまいます。



「生きる」と決めてしまえば良いのです。

生きて、ALSを終わらせると心に決めた藤田さんは、無用な感情に悩まされにくくなっていると考えられます。

意志は全てに優先されるからです。



以前も書きましたが、戦時下のアウシュビッツ強制収容所である出来事が起こりました。

囚人が脱走して、同じ棟にいた10人が無作為に選ばれ、連帯責任として飲まず食わずで死に至る飢餓刑を科せられました。

選ばれた人の中に、妻子がいることを知ったゴルベと言う神父は、自分が身代わりになることを申し出ました。

身代わりとなり飢餓刑に処せられた神父は、牢内で最期まで周りの人たちを励まし続けたそうです。

「全き愛は恐れを知らず」

このイエス・キリストの言葉をゴルベ神父は証明していたと思います。(神父は1982年に聖人に列せられました。)



聖人でなくても、全ての人は神の愛を持っています。

泣いている子供がいると声をかけたくなるのも、悲しんでいる人を慰めるのも、落ち込んでいる人がいると励ますのも、私たちは神の愛を持っているからです。

駅のホームで転落した人を助けようとして亡くなった人がいますが、死の恐怖より助けようとする意志(愛)の方が優っていたからです。

置かれている状況から生み出される、絶望や恐怖を完全に抑えることのできる最高の意志は愛です。



霊界にいる存在からも、地上の私たちは愛を受けています。

将来のことで怖れや不安が生まれそうな時は、霊界にいる存在とつながっていると強く信じましょう。

霊界から届く愛(想い)により、怖れや不安が和らぎ、あたたかいもので満たされるのを感じることができるかもしれません。

「万策尽き、これにて万事休すとあきらめかけた、その最後の一瞬に救いの手が差しのべられることがある」とシルバーバーチの霊訓に書かれています。

1人ではなく、霊界にいる存在と共に地上の人生を歩んでいることを忘れてはいけません。



ALSによってたくさんのものを奪われたが、「感謝、希望、人とのつながり」は奪われなかったと藤田さんは言っています。

病気により奪われることなく、最後まで残ったものが、藤田さんにとって最も価値のあるものと思われます。



自らの成長のため、周りに示唆を与えるために、この病気に立ち向かうことを、決めていたと考えられます。

多くの人に支えながら生きている、大きな意味での愛を学んでいます。

自分を表現することの大切さ、勇気や希望を持ち続けることの意味を訴えています。

病気により培われた生きようとする意志は、霊界に行くと誰かのために何かをしようとする強い意志に変わるでしょう。



最後に、シルバーバーチの霊訓のこの一節を、病気に苦しむ人に捧げます。

「時として厳しい環境に閉じ込められ、それが容易に克服できないことがあります。しかし、正しい信念さえ失わなければ、そのうちきっと全障害を乗り越えることができます。『自分は神の一部だ。不滅なのだ。永遠の存在なのだ。無限の可能性を宿しているのだ。その自分が限りある物質界でくじけるものか』と。そう言えるようになれば、決してくじけることはありません。」