「愛」の対極にあるのは?
多くの人は「憎しみ」と答えるかもしれません。
そもそも、愛と憎しみは別次元のものです。
愛は霊的次元のものであり、魂に内在している神性から生まれています。
一方、憎しみは精神的次元のものです。
魂が肉体で表現するための媒体である、地上の自我(エゴ)から生まれています。
魂は永遠の存在です。
愛が死を超越して存在しているのはそのためです。
死ぬと肉体は消失します。
それに伴いエゴもなくなります。
エゴがなくなるので、(霊界の低い界層は除いて)憎しみも生まれなくなります。
愛の対極にあるのが憎しみと思うのは、地上の人だけです。
地上では、さまざな次元の愛が存在しています。
シルバーバーチの霊訓にはこう書いてあります。
「気が合うというだけの友情、趣味が同じということから生まれる友愛から、己を忘れて人のために尽くそうとする崇高な奉仕的精神に至るまで、愛は数多くの形態を取ります。地上では愛Loveという言葉が誤って用いられております。愛とは言えないものまで愛だ愛だとさかんに用いる人がいます。ある種の本能の満足でしかないものを愛だと錯覚している人がいます。が、私が理解しているかぎりで言えば、愛とは魂の内奥でうごめく霊性の一部で、創造主たる神とのつながりを悟った時におのずから湧き出てくる魂の欲求です。」
霊界において実感する愛は、地上よりもはるかに深遠で強烈です。
霊界では厳然たるヒエラルキーが存在しています。
その絶対的な基準となっているのが愛です。
地上を生きている時に、どのような次元の愛を表現していたかによって、死んだ後にどのような境涯に赴くのかが決まります。
霊界に行くと、周りにいるのは自分と霊的に似通った人たちばかりです。
互いの想いを共有しながら生きています。
生きるために働く必要がなく、自分の望むことを心行くまですることができます。
地上では、周りにいるのは自分とは違う人たちばかりです。
何を想っているのかも分かりません。
生き方や考え方の違いから軋轢や摩擦が生じたり、いさかいに発展することもあります。
そうならないためには、互いの違いを認めなければいけません。
違いを認めて、相手を尊重することは、神性の顕れであり、間接的に愛を表現していることになります。
地上は不完全な世界です。
そのため、しばしば過ちや誤りが起こり、苦しみや痛みを味わう人がいます。
それにより怒りや憎しみなどが生まれる時がありますが、その感情を相手に向かって表現してしまうと、争いに発展してしまう可能性があります。
そうならないためには、相手を許さなければいけません。
寛容の精神を発揮することも神性の顕れであり、間接的に愛を表現していることになります。
人は仕事や家事などを通して、社会や家族のために奉仕をしながら生きています。
ゴミを拾ったり、道を譲ったり、相談に乗ったりするのもそうです。
誰かのために何かをするのは、直接的に愛を表現していることになります。
地上は、直接的あるいは間接的に愛を表現することにより、円滑に生きて行くことができるようになっています。
争いなどから生じる、無用の苦しみや痛みを回避することができます。
地上に生まれて来たのは、より高い境涯へ行きたい欲求が魂にあるからです。
何もしなくても生きて行ける霊界よりも、愛を表現することが求められる地上の方が、より自分を成長させることができます。
さまざまな人間と生きて、さまざまな出来事を経験することで、自我(エゴ)から怒りや悲しみ、憎しみや嫉妬など、さまざまな感情が生まれています。
それらの感情が生じると、因果律の働きにより、心に苦しみや痛みが生じます。
苦しみや痛みから解放されるためには、対象に向かって愛を表現しなければならないことを悟ります。
マハトマ・ガンジーは、イスラム教徒に息子を殺され、相手への強い憎しみに苦しんでいるヒンドゥー教徒の男性に向かってこう言ったそうです。
「あなたが救われる方法が一つある。イスラム教の両親を ヒンドゥー教徒に殺された孤児をあなたの子供として育てなさい。それもヒンドゥー教徒ではなくイスラム 教徒として育てなさい。」
イエス・キリストは簡潔にこう言っています。
「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」
極めて難しいでしょうが、もし実行できたのであれば、苦しみから解放されるその経験を通して、愛について深い学びが得られているはずです。
生まれる前より高い次元の愛を表現できるようになっていて、より高い境涯に赴くことができるはずです。
![]() |
| 冬の富山(イナガキヤストさんのⅩより) |
.jpg)



0 件のコメント:
コメントを投稿