2021年5月30日日曜日

本当の幸せ


ほとんどの人は、幸せを求めて生きていると思います。

何に幸せを感じるのかは、人それぞれです。

20年前の私は、社会的に成功し、人並み以上の収入を得て、余暇は海外旅行に行く、そんなことに幸せを感じていたような気がします。

今から考えると、随分と地上的なものにこだわっていたようです。

霊的真理を知り、そんなこだわりが死ぬまで続かなくて良かったと、胸を撫で下ろしています。



もし、続いていたらどうなるのでしょうか?

死んだ後直ぐに、その性分が変わるはずもありません。

次の世界でも、同じものにこだわり続けるでしょう。



次の世界には、階級も肩書も身分もありません。

あるのは、あるがままの自分(魂)だけです。

社会的な地位にこだわっていた人は、周囲の人に「私は○○だった」と言って、自分を誇示するでしょう。

もう存在しないものにこだわっている姿は、滑稽に映ると思います。

まるで「裸の王様」のようです。



1番大切なものはお金と、信じて疑わなかった人はどうでしょう?

次に行くのは、思念の世界です。

思い描いたもの、欲したものが、すぐ目の前に現れます。

お金が欲しいという願望により、その人の周りにはお札がうず高く積まれているでしょう。

大金に囲まれて、その中で喜んでいる姿が想像できます。

しかし、そのお金の使い道は全くありません。

意味のないものに喜んでいる姿に、哀れみを感じる人もいるでしょう。

遺して来たお金のことが気になれば、地上に縛られることになります。

それが原因で、家族が分裂する様子を、目の当たりにするかもしれません。



この世で終わりだと信じている人が多いので、次の世界ではこのような光景が頻繁に見られると思います。

地上的なものは、全く価値がないことを知った時に、愕然とするでしょう。

幻影を追い求めて、大きな労力を費やしてしまったことを、きっと後悔すると思います。



旅行に行くのが楽しみな人は多いです。

美しい景色を観たりすると感動し、私も幸せを感じていました。

シルバーバーチの霊訓には、霊界の様子がこう書かれていました。

「地上の誰一人として見たことのないような花があり色彩があります。その他小鳥もいれば植物もあり、小川もあり、山もありますが、どれ一つをとっても、地上のそれとは比較にならないほどきれいです。」

この文章を読んで、昔のように旅行に行く気は失せてしまいました。

地上とは比べ物にならないくらい素晴らしい光景が見られる日を、楽しみに待つことにしました。



多くの人が追い求めている幸せは、死と共に消滅してしまうようです。

本当の幸せとは、次の世界にも持って行ける、永続的なものでなければいけません。

シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。

「この地上で学んだ知識、体験から得た叡智が、俗世で追い求めている物的なものに比べて、その永遠の魂にとっていかに大切であるかが分かるはずです。」

私たちが地上の体験を通して学んだことは、何にも増して大切なようです。



そして、次のように書かれています。

「そのうちあなたも、地上人生を明確な視野のもとに見つめ直す時がまいります。苦難こそ最も大切な教訓を教えてくれていること、もしあの時あれだけ苦しまなかったら、悟りは得られなかったであろうこと、しみじみと実感なさいます。辛い教訓ではあります。が教訓とはそういうものなのです。もしも教訓がラクに学べるものだとしたら、もしも人生に苦労も誘惑も困難もなく、気楽な漫遊の旅だったら、それは頽廃への道を進んでいることになります。」(地上人類への最高の福音より)

いろいろな体験の中でも、誰もが避けたい苦難から最も大切な教訓が得られるようです。



さらに、こう書かれています。

「霊的な宝はいかなる地上の宝にも優ります。それはいったん身につけたらお金を落とすような具合になくしてしまう事は絶対にありません。苦難から何かを学び取るように努める事です。耐え切れないほどの苦難を背負わされるような事は絶対にありません。」

苦難から学んだことは、次の世界にも持って行ける、永続的な宝となるようです。

苦しみには、地上の人には分かり難い、深い意味があるようです。



私たちは、自分を成長させるために、地上に生まれて来ました。

そのために、さまざまな出来事を経験しなければいけません。

苦を伴う経験によって、人(魂)は大きく成長するようになっています。



本当に価値があるものは、目に視えるもの、形あるものではありません。

それらは、いずれ消えてしまう、あるいは手放さなければならないものばかりです。

人に優しくしたり、思いやったり、労わったり、親切にしたりするのは、形あるものではありません。

人を認めたり、許したりするのも、形はありません。

それらの行いの中には、愛情、友情、信頼、寛容、そして自己犠牲などが隠されています。

何の得にもならないような行いによって、目に視えない霊的な財産が魂に蓄えられて行きます。

霊的な財産は、消えてしまったり、手放したりすることはありません。



最も価値があるのは、人や動物や社会のために役に立つことです。

愛を表現することであり、悦びを与えることです。

その行為に対し、因果律が働いて、霊的に成長します。



地上で生きている時には、自分が成長していることは実感できません。

死んで次の世界に行って、どれほど成長したのかが判ります。

人生の一部始終を見せられて、何が自分を成長させていたのかを知ることになります。

出来事が起きて、もがき苦しんでいる中で、大きく成長していたことを知ります。

誰かのためにしたことが、自分を成長させていたことを知ります。



本当の幸せは、追い求めるものではありません。

苦しみの中で育まれるものです。

他者の喜びの中にあります。



本当の幸せは、次の世界に行って、噛みしめるものなのかもしれません。

成長できた幸せに優るものはありません。




13 件のコメント:

ラッパ吹き さんのコメント...

イクミさん、

苦しむことが、すべて魂の成長につながると良いのですが。。
(シルバーバーチ霊も、苦しむことがすべて自動的に成長につながるのではありません、とおっしゃっていたと思います。)

誰かに無償の愛を注いで、もし感謝されたら、それはきっと無上の喜びでしょう。
でも、それはエリザベスの言った、「補助輪を付ける愛」なのかもしれません。

例え嫌われ憎まれても、それでもやらなければならない、「補助輪を外す愛」、そのためにその人から憎まれても、それでもやらねばならない。その人のために、やらねば、ならない。愛するがゆえに、やらねば、ならない。

愛というのは、無償の愛というのは、そんな抜き差しならないもの、なのではないかと、私は思います。我が子に対するように。。

自分でも何が言いたいのか、、頭が混乱していて申し訳ありません。。

神の愛は、、そして苦しみは、、幾重にも幾重にも、重層的で、深いのだと、思います。
計り知れないほどに。。

ラッパ吹き

イクミ さんのコメント...

ラッパ吹き様

こんばんは。
早速、読んでいただきありがとうございます。

そうですね、苦しむことが全て成長につながるのではありません。
苦しみを通して、何か大切なことに気付いて、その人が変わった時に、成長しているのだと思います。
自分の苦しみを、人や社会や運命のせいにすれば、変わることが出来ないので、苦しみは続いてしまうと思います。
また、カルマによる苦しみは、償いが終わるまで、変わることが出来ないと考えられます。
変わる(成長する)ために、苦しみが存在すると思います。

ブログには与える愛を書きましたが、おっしゃる通り、奪う(外す)愛もあると思います。
表現の形はいろいろありますが、動機がその人のためになっていれば、それで良いのです。
奪う愛の方が、表現が難しく、高い霊性が求められるのかもしれません。

奪うのも愛である様に、苦しみも神の愛の1表現です。
どちらも分かりにくい愛ですが、その人の成長に伴い、気付く時が来ると思います。

愛は深遠です。
地上に生きる私たちは、表層をかじった程度なのだと思います。

ラッパ吹き さんのコメント...

イクミさん、

辛くて辛くて、何故かふと、昔の写真を引っ張り出して見ました。
幼い子どもたちが、私を慕ってくれている無邪気であどけない子どもたちが写っていました。今では、私は子どもたちから蛇蝎のように嫌われ、疎まれていますが。。

叱られたことの無い人たちが、どんなに愚かで弱い者になってしまうか、何故か私は、いやというほど、そんな人たちを見てきました。
だから、私はそれが恐ろしくて、そうしてはならじと、子どもたちを叱ってきました。

疎まれ、嫌われても、それでもやらなければならなかった。いや、違います。やらずにいられなかった。何かに追い立てられるように。。

神は、子どもたちを愛し、守ってくださいました。命の危機に、必ず守ってくださいました。神が子どもたちを愛してくださっていることを、私は何故かどこかで強く感じていました。

子どもたちはみな、しっかりと自立してくれました。自分を信じ、自分の足で歩める者としてくださいました。
神は、私の願いを叶えてくださいました。

神が守ってくださった子どもたちに嫌われ、憎まれ、疎まれるのは、その神の恩寵の代償なのだと、、
価値あるものは代償なしに得られない、と、、シルバーバーチ霊はおっしゃっていました。

「両極」、この言葉の深い意味を、思い知っています。

支離滅裂、どうか、お許しください。

ラッパ吹き

イクミ さんのコメント...

ラッパ吹き様

こんばんは。
お子さんの小さい時の写真を見て、思うことがあったのですね。

叱られたことのない人たちが、全て愚かで弱い人になってしまうことはないでしょうが、育て方で大きくかわることは確かです。
何かに追い立てられるようにと言うことですが、ご自身の現生の体験から来ているものありますが、過去生において、そうせざるを得ない体験があったのかもしれないと思いました。
結果的に、あなたが望まれたように、自立して、自分の足で歩めるようになって、良かったですね。
外す愛を表現するのは、お子さんが可愛いだけに、おつらかったでしょう。
あなたがそうして来た動機が、お子さんのためを思ってのことであれば、今はそうでなくても、分かってくれる日が来ると思います。
次の世界で、今生を振り返った時に、ご自分がされた行動の適正な評価がなされると思います。

ナオヤ さんのコメント...

本日もお疲れさまです。

2ヶ月の麻酔科での研修が終わり、来週から呼吸器内科で研修する予定です。

やっと念願の病棟での勤務で楽しみですが、麻酔科と病棟での仕事内容が違いすぎるので、また1から仕事を覚え直しかと思うと気が遠くなりますが。。^^;

1つ1つ丁寧に積み重ねていきたいなと思っています。

当直勤務は予想以上に大変だなと感じました。世の夜勤をやっている全ての業種の皆様に感謝と敬意を表します。
どうか無理をなさらず、ご自身の体を大切にされてください。そしてありがとうございますm(__)m

私の場合も診療するのは楽しいですし、人の役に立っていると直接的に実感できることはとても有り難いことです。が、体がキツくて。。
自律神経が乱れるからか、不整脈がたくさん出て胸が苦しくなります。
特に夜中の3時あたりが一番の正念場です。
患者さんを連れてきてくださる救急隊の方と”今日もお疲れさまです”と励まし合ったりして乗り切ります。
次の日にヨガをやると軽減するので、ヨガをやっていて良かったと痛感しています。
これは多分、神様からの贈り物ですね。

“乗り越えられない試練は与えられない” この言葉を信じて、自分の体をきちんと休息させつつ、心を燃やして頑張っていこうと思います。

p.s.. 今日最後に担当した患者さんは浮腫で血管がほとんど見えない、触れない方で、”いつも点滴取るのが大変なのよね”とおっしゃる方だったのですが、ルートを1発で決めることができました! 同期に自慢しまくりました笑 あれだけ苦しんで練習したかいがありました。とにかく、これである程度自信を持って患者さんに点滴することが出来ます(*^^*) もちろん、もっと精進します。

イクミ さんのコメント...

ナオヤ様

こんばんは。
今日で麻酔科の研修が終わったのですね。
私も大学に残っている時に、医学部麻酔科の研修をさせてもらいました。
週に1回位、当直がありましたが、当直室で眠っている時に電話が鳴りたたき起こされて、それから朝までオペ室で全麻して、終わって直ぐに定時の麻酔をかけるようなことをしていました。
若いからできましたが、良く考えてみると、事故につながりそうで危ないです。
不整脈が出るのはストレスからでしょうが、麻酔科はあまり向いていないのかもしれませんね。
ストレス解消になるヨガをやられていて良かったです。

そうですね。
しっかり休んで、しっかり働くようにして下さい。
必要十分な休息を取らない人は、霊界からは神から与えられた肉体を大切にしていない人のように映るようです。

浮腫の人のルートを良く採れましたね。
自信を持って、迷いなく臨むことが何より大切だと思います。

ナオヤ さんのコメント...

>週に1回位、当直がありましたが、当直室で眠っている時に電話が鳴りたたき起こされて、それから朝までオペ室で全麻して、終わって直ぐに定時の麻酔をかけるようなことをしていました。

しんどいですよね^^; 私の病院は当直明けは基本的に午前中で勤務終了なので有り難いことです。イクミ様のような方々がいて、それを改善しようと奮闘してくださった方がいて、私達に今のような環境を享受できているのだと思います。本当にお疲れさまでした。ありがとうございますm(__)m

すみません。説明不足でした。
うちの病院は研修している科に関わらず、当直は救急外来を担当します。
なので、不整脈は麻酔科云々というよりも、夜ふかしによるものでしょうね^^;
体大事にします。

とにかく楽しく仕事を続ける大人でありたいです。
絶対に。
職場には色んな人がいて、中々しんどいこともあります。
でも、そういう方々に負けないように。
仕事で心が荒んでしまわないように気をつけたいです。
“私も苦しんだんだからあなたも苦しみなさい”的な思考に無意識にでも陥らないように。
人は変えることが出来ないが、自分が良い循環を生み出す1人となれるように。
自分が大変な思いをしたのであれば、それを下の世代や他の人にさせない努力をすること。

以上、気をつけたいです。

では、今日は寝られるうちに早く寝ますね笑

イクミ さんのコメント...

ナオヤ様

おはようございます。
当直の件ですが、より健全な方向に進んでいるようで、良かったです。
あなたが大変な思いをして、後進のためももこれではいけないと思ったことは、思い切って改善して下さい。
正しいことであれば、きっと上手く行くはずです。

匿名 さんのコメント...

イクミ様

はじめまして。カズといいます。

昔霊訓に出会い、生きる指針を与えられたと思い
喜びに満ちて活き活きとした毎日を過ごしていましたが

最近は、霊は本当に存在するのか?神はいるのか?と疑うようになり、自分の努力のみが信じられるもので霊的世界など関係ないのではとまで思うようになりました。


信仰が生きる支えとなっていましたが、人間死んで終わりなら苦しんでまで生きる意味はあるのかとネガティブになってしまいます。

いままで霊的体験は一度もなく、守護霊も身近に感じたことがないため、すべては自分の思い込みなのではと疑う思いが頭から離れません。

そのせいで霊の存在を証明してくれる方や方法を探してしまいますが、その疑問に答えてくれる方に会うことはありませ?でした。


霊が存在する、死後も人生は続く、そのことを体験的に知りたいのです。これは、興味本位の生半可な気持ちで霊的体験をしたいといった類の気持ちではなく、人生に意味があることを実感したいという強い思いからです。

この疑問にどう向き合えばいいでしょうか?
もしアドバイスがあれば教えてください。

イクミ さんのコメント...

カズ様

おはようございます。
霊的真理に出会い、活き活きとした毎日を過ごしていたのに、最近では、霊や神は本当に存在するのかと疑問を持つようになったのですね。
これは霊的真理を受け入れた多くの人に、大なり小なり起きることだと思います。

もし、カズ様が大切な人を亡くされて、悲しみ、苦しみの果てに霊媒と出会い、伝えられたメッセージの中に死後の生の揺るがない証拠を見い出したのなら、疑うことは多分ないでしょう。
また、長い間、病気の苦痛を味わい、ヒーリングによって解放されたのなら、この世の力でないものが働いたことを確信し、疑うことはないでしょう。
そんな霊的体験を伴わなくても、人生で様々な出来事を体験し、時期が来て受け入れた人も、きっと疑うことはないと思います。
体験を伴って真理と出会い受け入れたのか、そうでないのかによって、違って来ると思います。
魂ではなく、頭で学んだものは、移ろいやすいと考えられます。

仕事などで、現実社会にどっぷりと浸かっていると、霊的な意識はどうしても薄らいでしまいます。
霊的な意識が薄らぐと、霊や神の存在を疑うというよりも、関心が向かなくなります。
自分の努力のみを信じてしまうでしょう。
霊的な意識を維持するために、日々霊的真理に触れて、実践することも大切です。
瞑想や精神統一も必要です。

私は霊的真理と出会った直後に、今まで経験したことのない出来事が起きて窮地に追い込まれました。
霊的真理を信じたというより、乗り越えられない出来事は起きないという言葉にしがみつきました。
それが生きる支えになり、何とか乗り越えられました。
出来事は運が悪かったのではなく、因果律の働きによって起きたことが判りました。
そんな経験を通して、霊的真理は真実であると確信を得ました。

もし、霊の存在や死後の人生の確信を得たいのであれば、自分が成長するため必要な体験させて下さいと祈ってみてはどうでしょうか?
その願いは、きっと叶えられると思います。
今の揺らいでいる心は、何らかの出来事が起きて、真理を確信し、人生を変えるための準備段階なのかもしれません。

匿名 さんのコメント...


カズさまへ


通りすがりですみませんが私も書かせていただきます。
お許しください。


みんな霊的進化の過程が違うので、これが正解とはいえませんし、
みんなそれぞれ、自分の責任を負って生きています。


私の場合は、
霊とは、存在するしないではなく、
肉体に宿っている人間、自分も含めて皆さん霊である。もちろん肉体のない魂も霊である。
(だから、みんな本当は霊能力者なんだけど、肉体に宿ってしまったから発揮できる方とできない方がいるらしい。わたしもできません。<笑>)


霊については、イクミ様が6月6日(今日ですね)のブログにアップされました「神性を表現する方を選ぶ」にて記されているので、そちらをご覧になっていただいたほうがわかりやすいですね。すみません。毎週ブログ更新、本当に感謝申し上げます。


神は、イクミ様が何度もブログでおっしゃっておられるように宇宙の法則。


自分の努力…何かに書かれていましたが、人間がしていることは霊界からの援助がほとんどであるらしい。実際に、一人でできることなんて限られているので皆様のおかげ様だと私も思っております。今日無事に終われるのも結局はだれかが力を貸してくれたおかげだと思っています。


死んで終わるのではなく…肉体から離れてもとの居た霊界へ、本来の世界へ帰るだけのことです。


地上は自分を鍛えてくれる場所だから苦しみがあるのは当然。本当に毎日毎日尽きることはありません。本当に勘弁してほしいです。ここに来られるかたがたよりはやさしい課題ですが。


「霊的体験は一度もなく、守護霊も身近に感じたことがない」とありますが、
気づいていないだけで、実際はたくさんたくさんあると思います。
カズさんの守護霊さん、たくさん、たくさんインスピレーション送っていますよ。
わたしも、たくさん助けられています。
疑いを持っているということだったので、気づきにくくなっているのかもしれません。


霊的真理にもありますし、池川明さんや体内記憶のことを書かれている方々の書籍には、
私たちが生まれてくるのは、「人の役に立つこと」これが一番の醍醐味のようです。
人の役にたつ練習をしに来てるんだと思います。人の役に立つことは言葉でいうのは簡単ですが以外に勇気のいることであり、実践となるとハードルが高いです。


一人で霊的真理の道を歩むのは険しい道なので、私はこちらのブログに来て記事を読ませていただいたり、コメントを覗かせていただいたりしております。
そうすることによって、物質世界に住んでいながらも霊的世界に気持ちを置けるからです。
一日のわずかでも、霊的真理に毎日触れていることが大切なのかとも思います。


霊的真理を受け入れて実践するのは容易なことではありません。
だから、カズさんのように「あれ???」と思うのもありだと思います。
が、「霊の存在を証明してくれる方や方法…」外に探しに行くのではなく、自分の奥底にあるものにコンタクトをおとりになられたほうが近道なように感じられます。

地上で生き抜くって本当に過酷だと思います。
が、自分の魂の成長だと思えば頑張れる気もします。
イクミさまのブログではたくさんのお仲間の方々がコメントされていたりして、自分一人ではないんだなと。仲間っていいですよね。

カズさんの守護霊さんがこちらのブログに行くように仕向けたに違いありません。
偶然はないですから。お導きですよ。大丈夫!!!




イクミさまへ

いつもいつも、ありがとうございます。
コメント欄に私的な意見を書かせていただきました。お許しくださいませ。
霊的真理の仲間が増えていくことを私も切に願っております。
ありがとうございます。




えり







イクミ さんのコメント...

えり様

こんばんは。
更新したブログも読んでいただき、ありがとうございます。
コメントで率直な意見を書いていただければ、観ている方の参考になると思います。
守護霊については、その通りです。
これからもよろしくお願いします。

Mossarian さんのコメント...

イクミ様、えり様

通りすがりのコメントに真摯にお答えいただきありがとうございます。

ご返信をいただき、雑多な日常にまみれ、霊的生活をおざなりにしたために霊的援助に気づきにくくなってしまっている自分に気づき反省。

霊訓に日常的に触れること、祈り瞑想を行い導きを得ること、そして一番は他の存在への奉仕、地道ですがコツコツと積み重ねていこうと思います。

ご助言ありがとうございました。

カズ