2020年10月25日日曜日

難しい方を選ぶ

 

人生は、選択の連続です。

小さなことでは、着る服を選んだり、ご飯を選んだり、読む本を選んだりしています。

大きなことでは、学校を選んだり、職業を選んだり、結婚相手も選んでいます。



こんな選択もあると思います。

思いもよらぬ役回りが巡って来た時に、引き受けるのか、辞退するのか。

壁が立ちはだかった時に、乗り越えて行こうとするのか、避けるのか。



そんな時に、相反する自分がいることに気付きます。

失敗を怖れ、無難で安全な選択をしようとする自分と、難しいけど挑戦してみようとする自分がいます。

両者のせめぎ合いがしばらくあり、最終的に優った方の行動を取ることになります。



失敗を怖れているのは、「地上的な自我」と考えています。

一方、挑戦しようとしているのは「霊的な自我」と考えています。

地上的な自我は、本当の自分である霊的自我と表現媒体である肉体との間に介在していて、霊的な自我から生まれた思念を、表現するべきかどうか、どう表現すれば良いのかを、頭を使って考えています。



「失敗したらどうしよう」と心配しているのは、地上的な自我です。

地上の自我は、自分の立場が悪くなったり、人から非難されるを嫌うので、挑戦を避けようとします。

「どうせ~だから」と言い訳を考えて、霊的な自我から生じている本当の自分の想いを否定しようとします。



そんな時に取るべき態度について、シルバーバーチの霊訓にはこんなことが書かれています。

「困難との闘いを前にして逃げ出すよりも堂々と戦って負ける方が立派です。」

判っていても、進むのをためらう時はありますが、後悔しないために挑戦した方が良さそうです。




この世に生まれて来たのは、自分を成長させるためです。

困難を乗り越えることで、成長するようになっています。

負荷がかかり、緊張を強いられ、苦しいのに決まっていますが、成長するためには挑戦する方を選んだ方が良いのです。




失敗したり、挫折したり、期待したほどの成果が得られない時もあります。

たとえ、結果が出なかったとしても、奮闘努力する中で霊的な成長が得られます。

地上的な結果よりも、霊的な成長の方が永続的な価値があります。




人一倍奮闘努力して挑戦しても、自分の望んでいる結果が得られない人もいます。

しかし、その姿を見て、勇気付けられ、元気をもらった人は、たくさんいます。

多くの魂に生きる力が与えられたので、努力以上に霊的な成長が得られていると思います。
ソチ五輪の浅田真央選手



私たちには、例外なく守護霊が付いています。

その目的は、地上の人が予定されていた人生を歩んで、学び成長するためです。

様々な手法を用いて、訴えかけ、時に警告を発して、導こうとしています。




ひとりぼっちで生きているように思えますが、それは大きな間違いです。

霊界から無形の援助を受けながら、私たちは生きています。

守護霊と二人三脚で、この世界を生きていると言っても過言ではありません。




人には自由意思が与えられています。

自由に決めることが出来ますが、その代わりに結果責任を取らなければなりません。

全責任は地上の人にあるので、守護霊は決定に干渉出来ないと考えられます。




地上の人の目の前に困難が生じた時、乗り越える方向に進んで行くことを、守護霊は切望しています。

乗り越えられないことは、この世で起きないことを知っているからです。

避けないで前に進むように、意念を送り促しているのですが、最終的に決めるのは地上の人です。




固唾を飲んで、地上の人の決定を見守っています。

もし、避ける方向に進んでしまったのなら、学びや成長の機会を失ったことになり、残念に思っているでしょう。

首尾よく、挑戦する方向、乗り越える方向に進んで行ったのなら、大いに喜んでいるでしょう。




難しい方を選んだ瞬間から、地上の人に意念という力を送り続けていると思います。

その意念を地上の人が受け取ると、内から力が湧き出て来て、前に進んで行けるような感覚になると考えられます。

挑戦しようとする意志が鮮明になると思います。




霊界から届く意念によって、地上の人の意志は強固で、新たなものになります。

「大丈夫だろうか?」と言う気持ちが、「何とかなる」と前向きな気持ちになります。

視界がパッと明るくなったり、心が急に軽くなって、前に進んで行こうとする気持ちになるのは、霊界から意念と言う力が届いたせいかもしれません。




せっかくの霊界からの援助の力を妨げてしまうものがあります。

それは、怖れであり、不安であり、心配であり、取り越し苦労です。

そんな気持ちが地上の人を支配してしまうと、援助の力が届き難くなってしまいます。




挑戦しようとする時に、どうしても不安や心配が生じてしまいます。

そんな時は、自分一人ではなく、霊界にいる人たちと一緒に挑戦していると思うことが大切です。

そうすることで、両者のつながりが再び強くなり、援助の力が届きやすくなります。




落ち込んでいる時に、人から励まされたり、勇気づけられたりすると元気になったり、気持ちが前向きになったりします。

それは、言葉や行動を介して、目に視えない力を人からもらっているためと考えられます。

励まそう、勇気付けようとする気持ちの根底にあるのは愛であり、それが相手に伝わると生きる力に変わると考えられます。




霊界にいる人も、地上にいる人と同じことが出来ます。

言葉や行動を介さずとも、意念という力を、地上にいる人の魂に伝えることが出来ます。

伝わった意念は、地上の人に生きる力を与え、気持ちを変容させます。




魂の存在を信じていない人でも、霊界の援助を受けています。

ふと思い付いて行動したり、無意識の内に行動したりする時は、霊界からの意念に促されていることが多いと思います。

逆に、何となく気が進まない、やってはいけないと胸騒ぎがする時は、霊界から止めさせるような意念が届いている可能性があります。




霊界からの援助は、明確な線引きがされていると考えられます。

地上の人が予定通りに学び、成長をしていくために守護霊が付いています。

守護霊が、無闇に助けてしまえば、その人の成長を妨げてしまうことになりますので、何にもなりません。




そうであれば、何かあった時に「助けて下さい」と祈るよりも、「乗り越えるための力を与えて下さい」と祈った方が効力があるはずです。

もちろん、お金や地位を手に入れるような、地上的な願望実現のための祈りは聞き届けられることはありません。

自らの学びや成長を望む祈りが霊界に届くのは、それがこの世に生まれていた目的そのものだからです。




全ての起点が、思念です。

思念から肉体的表現が生まれます。

動機が神の摂理に適っている、または成長させるものであれば、その時から霊界からの働きかけが始まり、表現するための援助が得られます。




人や動物や社会のためになることであれば、迷わずにやる方を選んで下さい。

地上的な努力と、霊界の援助によって、良い結果が必ず生まれます。

直ぐに結果が得られなかったとしても、当初の想いを持ち続けていれば、最終的に目的は成就されます。




1人で成し遂げようとするのではなく、霊界との共同作業と思って下さい。

難しく思えても、霊界からの援助があるので、そちらに進んで行けば大丈夫です。

想いを持ち続け、霊界とのつながりを信じていれば、それで良いのです。




振り返ってみると、どうなるだろうかと案じていたことが、何とかなっていることに気付きます。

自分を信じて取り組んだ時は上手く行き、失敗した時は決まって不安や心配が先行し、自分を信じられなかった時のようです。

それは、霊界からの援助を上手く受け取れたかどうかの、差なのかもしれません






2020年10月18日日曜日

美しい光(思念)を放つために


世の中の意識が、少しずつ変わっているのを感じています。

まだまだなところもありますが、総じて生命を尊重をするようになって来ていると、私は思っています。

社会的弱者に対する配慮が、以前よりもされるようになって来ました。

アフリカの子供への支援(ユニセフの㏋より)

人の権利や差別に対して、敏感になって来ました。
人種差別抗議デモ(時事通信)

毛皮のコートを着ている人は、めっきり少なくなりました。(牛革はまだまだですが・・)

北極狐の毛皮

100年前の日本の女性には、選挙権はありませんでした。

約80年前、600万人ものユダヤ人がナチスドイツによって殺されました。

今から、そんな時代に逆戻りするようなことはありません。

許されない世の中になっています。

これは、一時的な傾向ではありません。

一方方向に進んでいます。



人間は経験を通して学びながら、少しずつ進化しています。

進化とは、環境に適応するための肉体上の変化や、知性の発達を指しているように思えますが、そうではありません。

人間の本質は霊です。

進化とは霊性が向上することです。



霊性とは神性であり、神の心です。

私たちは、生まれながらにして神の心を持っています。

神の心が表現されている人ほど進化している人であり、自分ではなく周り(全体)に意識が向いています。

困っている人がいれば助けたくなり、社会のために何かをしようとします。

駅のホームから転落した人を、自分の命を犠牲にして、救おうとした人がいました。

神の心が発揮されるほど、我を忘れて、より次元の高い愛が表現されます。



散歩をしていると、レジ袋を片手に犬の散歩をしながら、ごみ拾いをしている女性に良く会います。

1日で拾うごみは、それほど多くはないでしょう。

しかし、それを何十年も続けていれば、すごい量になっていると思います。

車に道を譲ったり、電車で席を譲るのも、小さな親切です。

人を慰めたり、勇気付けたりするのも、優しさの表れです。

毎日のように、私たちは仕事や家事をしています。

社会や家族のために、何かしらの役に立っていることになります。

地味だけれども、長い間続けていれば、想像している以上に大きな奉仕となっていると思います。

日々の生活の中で、さまざまな形の奉仕をしながら、少しずつ霊性を高めています。



時に、災難や不幸と言われるようなことが起きます。

シルバーバーチの霊訓には、こう書かれています。

「地上生活の目的はきわめて簡単なことです。死後に待ちうける次の生活に備えて、本来のあなたであるところの霊性を強固にするのです。身支度を整えるのです。開発するのです。となれば、良いことも悪いことも、明るいことも暗いことも、長所も短所も、愛も憎しみも、健康も病気も、その他ありとあらゆることがあなたの霊性の成長の糧となるのです。その一つ一つが神の計画の中でそれなりの存在価値を有しているのです。いかに暗い体験も―暗く感じられるのは気に食わないからにすぎないのですが―克服できないほど強烈なものはありません。」

そして、こうも言っています。

解決しなければならない問題もなく、挑むべき闘争もなく、征服すべき困難もない生活には、魂の奥に秘められた神性が開発されるチャンスはありません。悲しみも苦しみも、神性の開発のためにこそあるのです。

苦しく、つらい日々が続いて、逃げ出したくなることがありますが、そんな時ほど魂は大きく成長して、神性が高められていると考えられます。



もし、死後に待ち受けている世界がないとすれば、苦しみは人生において全く不要なものです。

暗い体験は不幸でしかありません。

この世界は、余りにも不公平で不平等です。



死後の世界を、客観的に証明することは出来ません。

少なくても私の中では証明されていることであり、全く疑念はありません。



死後に待ち受けている世界こそが、真実の世界です。

この世界で表現されているものは、全て真実とは限りません。

嘘もあります。

虚飾もあります。

本音と建て前があります。

裏と表があります。



死後の世界では、肉体がありません。

魂が露わになり、白日の下にさらされます。

隠し立ての出来ない、ありのままが表現されてしまう、真実の世界です。



真実の想い(思念)が光となって、魂から放たれています。

肉眼で視えなかった思念が、霊的な眼によって視えるようになります。

美しい思念を放っているのか、醜い思念を放っているのか、その色彩によって一目瞭然です。

霊界に行くと、美の感覚はさらに鋭敏になると考えられます。

地上では、美しい外見の人に憧れる人が多いでしょう。

外見(肉体)がなくなる霊界では、露わになった魂が美の全てになります。



どんな思念が生じるのかは、霊の持っている資質によって決まります。

「慈悲」「慈愛」「寛容心」「協調的精神」「奉仕的精神」が、霊の持っている資質と言われます。

霊の資質が発揮された時、美しい思念が生じます。

美しい思念とは、大きな意味での「愛」と考えられます。



それでは、どの様にすれば霊的な資質が身に付くのでしょうか?

お金を払えば、身に付くものではありません。

学問の様に、本を読んだり、誰かに教えてもらって、身に付けられるものでもありません。

自らの経験を通して、身に付けるしかありません。



私たちは、霊的な資質を身に付けるために、志願してこの世に生まれて来ています。

そのために、さまざまな経験をしています。

うれしい経験もあれば、楽しい経験もあります。

苦しい経験もあれば、悲しい経験もあります。



うれしい経験や楽しい経験をすれば、喜びとなります。

同じ経験をしている人たちと、想いを分かち合えます。

誰もが望んでいる経験ですが、それだけでは霊的な資質は身に付きません。



苦しみや悲しみを伴う出来事は、誰も経験したくありません。

それでも経験しなければならないのは、経験しなければ決して判らない、言葉では伝えられない想いがあるからです。

経験をした人は、経験をしている人の、想いを窺い知れるようになります。

想いが共有された時に、他者に対して「慈悲」の心が生まれます。

経験したくないことを、経験することによって、霊的な資質を身に付けられ、神性を発揮することが出来ます。



許せない様な事象が起きると、怒りが生まれる人もいれば、哀れみが生まれる人もいます。

どちらが生れるのかは、個々の霊の資質によって決まります。

怒りが生れると、平穏さが失われ、内に秘めると苦しみとして感じられます。

怒りが生まれないためには、「寛容心」を身に付けるしかありません。

地上でいろいろな人と交わり、さまざまな経験を通して、怒りに苦しみながらも、自らが成長することによって、寛容心が身に付けられると考えられます。



死後の世界では、肉体はなくなり、周りには自分と良く似た人しかいなくなります。

そのために、病気の苦しみも、争いによる痛みもありません。

あらゆるストレスから解放された世界です。

そんな居心地の良い世界であれば、ずっといたいような気がします。



魂には、完全に向けて成長したい欲求があります。

そのために、自分に足りない資質を、どうしても身に付けたくなります。

シルバーバーチはこう語っています。

「何もかもがうまくいき、鼻歌まじりののん気な暮らしの連続では、神性の開発は望むべくもありません。そこで神は苦労を、悲しみを、そして痛みを用意されるのです。」



水で溺れて苦しい思いをした人は、真剣に泳ぎ方を覚えようとします。

快適な霊界にいるよりも、危機的な状況、追い詰められる状況になる地上に身を置いた方が、霊的な資質を身に付けるのには都合が良いと考えられます。

自分に欠けている資質に気付いて、それを身に付けたいと願う人は、苦しみや悲しみのある地上に生まれて、試練を経験することを望むようになります。

その記憶は生まれたと同時に封印されてしまうので、予定されていた試練の最中にいる時は、何で自分がこんな苦しい思いをしなければならないのかと思うばかりです。

過ぎ去ってみると、以前の自分と何か変わっています。

その変化こそが、霊的な資質を身に付けた証です。



霊界に行くと、望みを叶えるために、最適な経験であったことが判ります。

神の計らいの完璧さに感嘆して、感謝するようです。

この世で果たすべき目的を果たし、欠けていた資質を身に付けて、より美しい思念を放つようになっています。

究極の美である神へと続く無限の階段を、1つ上ったことになります。





2020年10月11日日曜日

愛は癒しの力


今も、やっている人がいるのでしょうか?

子供が怪我をすると、お母さんが手を当てて「ちちんぷいぷい~」と、お呪いをしていました。

そんなの効くはずはないと思っていましたが、中には痛みが確かに引いたと言う人もいました。

動揺した子供が、そうやってもらうと心が落ち着いて、痛みを感じにくくなるのかもしれません。



怪我や病気になった時に、「手当て」をすると言います。

一般的に、消毒して薬を塗るなど医学的処置のことを指します。

それ以外に、昔の人は、人の手から未知の力が出ていて、当てると傷の治りが早くなったり、痛みが少なくなるのを経験的に知っていたと考えています。

人は痛いところに無意識に手を当てますが、そのためかもしれません。


そう考えると、お母さんが傷口に手を当てながらお呪いを言うのは迷信でななく、実際に効力があるのかもしれません。




ところで、怪我や病気が治るのはどうしてでしょう?

自然治癒力と言う、身体を元通りにする力が働いているからです。

もし、その力が存在しなかったとしたら、細菌やウィルスに感染しても免疫機能が働かないために死んでしまうかもしれません。

傷口が塞がることはなく、医者は身体にメスを入れることは出来ません。




自然治癒力とは生命力の一種です。

その力は大始源である神から発せられていると考えられます。




人間や動物を含め、宇宙のあらゆる生命は、神によって創造されています。

それぞれの生命は物質的に独立した存在ですが、神を通して霊的につながっています。

神とのつながりを通して生命力が流れ込み、私たちは生かされています。

生命が永遠と言われるのは、神を構成する一部であり、つながりが断たれることがないからです。




しかしながら、神とのつながりが強くなる時もあれば、弱くなる時もあります。

それでは、どんな時に神とのつながりが強くなるのでしょうか?

神の心を表現している時と考えられます。




神の心とは愛です。

愛を表現しようとする時、神の心と同調し、生命力が流れ込みます。

人や動物を助けたり、社会のために奉仕するなど、他者のために何かをしている時に、生命力が流れ込み、目的を成就させて行きます。

予期した以上の結果がもたらされた時には、神との同調が成立し、より多くの力を授かっていたのかもしれません。

反対に、神の心に反した行いをしている時、つながりは弱くなります。

人や動物に危害を与える行為をしたり、世の中の平穏や秩序を乱している時に、神とのつながりは弱くなります。




そして、精神状態にも大きく影響されます。

自分を信じている時に、つながりは強くなります。

逆に、恐怖や不安を感じている時に、弱くなります。

生きていると、恐怖や不安を感じることがあります。

恐怖や不安を克服して、自分を信じることが、地上に生きている私たちに求められていると思います。




神の心に反した、悪と言われる行為をする時も、神の力は流れています。

何故と思ってしまいますが、私たちには自由意思が授けられていて、神の心を表現するのも、反した行いをするのも許されているからです。

ただし、自由には責任が伴います。

自分の行いの1つ1つに、自然法則が働いています。

神の心を表現すれば、自分が成長して、霊的な悦びを感じます。

反した行いをすれば、負の成長をして、苦痛を味わいます。

人は苦痛ではなく、悦びの中を生きたいものです。

結局は、神の心を表現するようになり、成長する方向に進んで行くことになります。




地上に生きていると、心が傷つけられてしまう時があります。

深い傷を負ったとしても、目に視えるものではないので、他の人には判りません。




その傷は、一生治らないのでしょうか?

シルバーバーチはこう言っています。

「自分と言う永遠の霊に傷を負わせる出来事も、害を及ぼす出来事も起こらないことを忘れてはいけません。」

「物的世界には自分を傷つけるもの、自分に影響を及ぼすものは何一つ存在しないことを魂が悟れば、真実、この世に克服できない困難は何一つありません。」

表現媒体である肉体は傷ついて、元に戻らないこともあるでしょう。

しかし、自分の本質である魂が、取り返しのつかない傷を負うことはなく、その出来事によって生きて行けなくなることもありません。




精神で対応できないほどの出来事であれば、その影響は魂にまで及ぶと考えられます。

肉体が侵襲を受けると血が出るように、魂が侵襲を受けると何らかの想いが生じます。

その多くは、怖れや不安、怒りや憎しみなどの感情となりますが、侵襲が強烈になるほど表現するのが困難になります。

表現されなかった想いは、精神下に滞ってしまうと考えられます。

成長を妨げるような想いであれば、それを苦痛として感じ、心の傷(トラウマ)として認識されると考えられます。




肉体の傷は、自然治癒力によって治って行きます。

心の傷にも、同じように自然治癒力が働いています。

時間の経過ではなく、神の力によって心の傷は癒され、苦痛が和らぎ、元に戻って行くはずです。




「完全なる愛は恐怖心を駆逐します」とシルバーバーチは言っています。

また「全き愛は怖れを締め出します」とイエス・キリストは言っています。

完全なる愛、全き愛とは神の愛ではないでしょうか。

自分の中にいる神を信じることが出来れば、怖れや不安は生じないと思われます。

そして、心の傷となっている、怖れや不安、怒りや憎しみなどの想いは、自らの愛によって、解放することが出来ると考えられます。




表現されなかった想いは、別の形となって表現されて、解放されます。

迷子になった子供は必死になってお母さんを探し、その姿を見つけたとたん泣き出すことがあります。

内に溜まっていた怖れや不安が、涙となって解放されたと考えられます。

迷子の子供を見つけたお母さんも、怖れや不安に隠されていた想いが、安堵して表に出て来て急に叱ったり、高じると涙となって表現されることもあります。

涙によって、想いが物質に昇華され、解放されています。




地上には様々な人がいます。

傷つける人もいれば、傷ついて助けを必要としている人、癒やしを求めている人もいます。

神性を発揮する機会に溢れ、成長する機会に恵まれているのが、地上と言えます。




全宇宙を動かしているのは、神的なエネルギーです。

私たちにも、神的なエネルギーが流れています。

良心あるいは道義心とは、何でしょうか?

私たちに内在している神です。

神的なエネルギーが、内在している神を通して流れているのです。

その力は愛を帯びているので、人を癒すことが出来ます。

傷ついている時に、慰めの言葉をかけられると心の痛みが和らぐ時があります。

それは言葉を通して愛が伝わって、魂が癒やされたからです。




内在する神は、しきりに愛を表現しようとします。

しかし、地上を生きている私たちには(地上的な)自我が存在し、その働きによって抑えられてしまいます。

溺れている人がいれば、内在している神(良心)は助けようとしますが、自我は自分が溺れてしまうと考えるために、それに負けると動けなくなります。

神の愛が流れているのですが、自我のために歪められて表現されてしまうのが地上です。




因果律の働きは正確無比であり、人を傷つければ、償いが生じます。

自らが傷つくような出来事が起こり、その苦痛によって過ちを知ることになります。

傷つけられた人には、埋め合わせがあります。

傷ついた心を癒すのは、愛しかありません。

他者に癒されることで、愛の存在を実感し、その意味を深く知ることになります。

誰にも癒されることはなかったとしても、その苦しみの中で魂の成長が促されます。

苦しみが触媒となり、魂が目覚めれば、より多くの神の力が流れ込むようになり、癒されると思います。




神の心は愛です。

神によって創られた自然法則を貫いているのも愛です。

不公正、不公平、不平等は一切ありません。

見捨てられることもありません。

見捨てられたと思えば、自らが見捨てたことになり、神とのつながりを弱めてしまいます。

信じて、つながりを強めた者が、その恩恵を享受することになります。





2020年10月4日日曜日

この世は怒りが生じる世界



以前は、人生は楽しむものと考えていました。

世界中を旅して、素晴らしい景色を眺めたいと思っていました。

行ってみたい場所が、いくつかありました。

1つはエベレストです。

もちろん登るわけではありませんが、間近でその雄姿を眺めてみたいと思いました。




もう1つはオーロラです。

北極圏に行って、心行くまで眺めてみたいと思いました。




霊的な事実を知ってから、その願望はだいぶ少なくなって来ました。

霊界に思いを馳せると、地上のいかなる絶景も色あせてしまうような気がするからです。

地上にない色彩や音が、霊界には存在するようです。

地上の枠から外れた、美が存在するようです。

表現が難しいですが、生命エネルギーに満ち溢れ、光輝いている世界のようです。

そこには、地上の何十倍、いや何百倍の神々しさを感じる光景が拡がっていると思うので、今から楽しみにしています。




霊界に行くと、肉体がなくなります。

肉眼はなくなり、霊的な眼で視るようになります。

生命(霊)が視えるようになります。

霊から思念が光となって放たれ、その色彩によって何を想っているのかが判ります。

電光石火で、ありのままが伝わります。




一方、地上の人に視えるのは肉体であり、思念は視えません。

そのために、思念を肉体によって言葉や行動に変換して、相手に伝えなければいけません。

当たり前の様に使っている言葉は、思念(想い)を伝えるための代替品です。

肉体によって思念を表現すると言う、煩わしい行程を繰り返しながら、私たちは生活をしています。




地上では、思念は正確に相手に伝わりません。

「赤い色」と言われても、トマトの赤を思い浮かべる人もいれば、夕日の赤を思い浮かべる人もいます。



涙を流している人がいれば、悲しみの涙なのか、うれし涙なのか、悔し涙なのかはっきりと判りません。




地上では、表現をした人と受け取った人の間に、どうしても齟齬が生じます。

齟齬から誤解が生まれ、誤解から諍いに発展することもあります。

今までに起きた戦争のいくつかも、齟齬から発展したと考えられます。




諍いにならないためには、どうすれば良いのでしょうか?

両者の間にある隔たりを埋めるのには、相手を信じることが必要です。

信じられなければ、誤解がさらに増してしまいます。




私たちは、自分とは違う人たちに囲まれて生きています。

それぞれの人に、それぞれの生き方や考え方があります。

そのために、交わると互いの相違から反発や軋轢が生じることがあります。




宗教や文化の違いから、今も世界では戦争が起きています。

争いに発展しないためには、相手の違いを認めることが必要です。

想いが正しく伝わらず、違う人間と生きているこの世界で、平穏無事に暮らして行くためには、信じること、認めることがどうしても必要です。




この世に生まれたのは、自分(魂)を成長させるためです。

他者に奉仕すること、困難や障害を乗り越えることで成長して行きます。

もし、相手を信じられず、認められなかったとしたら、人とのつながりは希薄となります。

助け合いながら、成長して行こうとしても叶いません。




想いを伝えるのは、誤解が生じたり、認められないかもしれず、勇気が要ります。

それでも、伝えなければ何も始まらない世界に生きています。

伝えられた方も、何を伝えたいのか推し量らなければいけません。

思惑があって、言葉や行動と想いが一致していない時があります。

嘘もあれば、社交辞令もあり、真に受けると、思わぬ事態に発展することがあります。

外国人が日本人から別れ際に「いつでも遊びに来てね」と言われて、実際に遊びに行くと怪訝な顔をされて困惑したと聞きます。

真意が伝わらない、真意が判らないために起こる事象に苦悩しながら、それでもお互いを理解しようとするところに、地上に生きている意味があります。




違う人たちと交われば、時に軋轢が生じます。

軋轢が、怒りとなって表れることもあります。

アンガーマネージメントと言う心理療法プログラムがあり、要約すると次の3つになるそうです。

1.怒りが生じた時のピークは6秒までで、やり過ごすように努める。

2.自分がするべきと思っていることと、相手がするべきと思っていることの間のギャップを自覚する。

3.自分で解決できないことを怒らないようにする。

この様な対処法も有効と考えられます。

しかし、大きな打撃や損害を受けたら、怒りは収まりません。

高じると憎しみや恨みに発展して行くでしょう。




事象が赦せないと、怒りは生じます。

しかし、いくら赦そうと思っても、赦せるものでもありません。

明らかな過ちであればなおさらです。




怒りが生じると、心の平穏が失われます。

その想いは、摂理に反した想いであるために、苦しみとなります。

苦しみから逃れるために、対象に向かって想いを表現したくなりますが、いざ表現してしまうと、因果律の働きによって、別の形となって苦しみが返って来ます。




同じ事象が起きても、怒りが生まれる人と、生まれない人がいます。

寛容心は、不滅の霊性です。

霊性が発揮されている人ほど、寛容心に富み、怒りが生まれにくいと考えられます。

大きな意味においての愛があれば、怒りは生まれないと考えられます。




どんな出来事であっても、克服できないことはありません。

「神性は自発的に表現を求めます。それが、あらゆる種類の美徳と善行、つまり、親切、同情、寛容、慈悲、哀れみ、友情、無私の愛となって表現されます。」と、シルバーバーチは言っています。

赦そうとしないのは、(地上的な)自我の働きによるものと考えられます。

魂に内在する神性は、事象を赦そうとしています。

怒りが生じたら、赦そうとしない自分(自我)ではなく、赦そうとしている自分を意識した方が良いと思います。

怒りを鎮められるのは、自らの中にある神性しかありません。

内在する神から溢れ出ている霊力(愛)によって、怒りから解放され、事象は赦されるはずです。




怒りが生じなくなるのは、一朝一夕にとは行きません。

因果律の働きに委ねられるところが大きいと考えられます。

苦しみは無意味ではありません。

魂を成長させ、目覚めさせ、神性が発揮されます。

怒りの苦しみが、怒りから解放させる触媒になっています。




次に行く世界(霊界)では、周りに自分と類似した人しかいません。

そのため、自分と違うことで、怒りが生じることはありません。

怒りに苦しむことはありませんが、そこから学ぶこともありません。

霊界で学ぶことが出来ないことを学ぶために、自分と違う人がいる地上に生まれて、さまざまな経験をしています。

違う人たちを認められ、赦すことが出来るようになるほど、より次元の高い愛が表現されるようになります。

霊界において、互いを深く理解し、周囲との調和を増すことにつながると思います。




もし、全てを認められ、赦せるようになったとしたら、地上に生きる意味はなくなり、霊界において向上進化して行くようになると思います。





2020年9月27日日曜日

死によって失われないもの

 




人は言葉によって、コミュニケーションをしています。

言葉(文字)から受ける印象は、大きなものがあります。

「生」と言う漢字は、植物や木が地上に生じてきた様子を表しているそうです。



「死」はどうでしょう。

漢字の由来は、左側の「歹」が骨、右側の「ㇶ」が人の意味があるそうです。

人が骨になる説と、骨の前で人が弔っている様子を表している説があるようです。

そんな成り立ちがあるからでしょうか、正直なところ、この漢字から受ける印象は良くありません。

暗くて、終わりの様なイメージしか湧いて来ません。




それでは、「死ぬ」に代わる言葉として、何が適切でしょうか?

「亡くなる」は、無くなるに通じてしまうので、あまり良くありません。

「他界」は妥当です。

「旅立ち」も良いと思います。

死とは次の世界に移行する現象です。

行先は明るく自由な世界なのですから、暗さを感じさせる言葉は相応しくありません。




「死別」はどうでしょう?

どうもしっくりと来ません。

肉体はなくなり、視えなくなってしまうのは事実ですが、両者が思い合っていれば、別れることはないからです。




親しい人が、遠い国に行ったとします。

どんなに離れていても、電話やメールをすれば、コミュニケーションは取れます。

しかし、死んでしまうと、いかなる通信手段をもってしても、コミュニケーションは取れなくなります。

そのことで、死は永遠の別れと思ってしまう人がいます。




ところで、別れとはどんな時のことを指すのでしょうか?

信じていた人に裏切られて、袂を分かったとしたら、その時は別れです。

真の別れとは、心が離れてしまうことです。

たとえ傍にいたとしても、心が離れていれば、別れているのです。




では、思い合っている人が死んでしまったらどうでしょう?

肉体はなくなりますが、心はそのままです。

心が離れてしまったわけではないので、別れでも何でもありません。

生前と同じように、心はつながっているのです。




向こうに行った人は、「死」をどの様に感じていたのでしょうか?

肉体を失うことで、地上にいる時と状況が大きく変わったことに戸惑っていたでしょう。

意識があり、記憶もあり、性格も変わらずに居るのに、地上の人に骨になってしまったと思われています。

居ることを伝えたいのに、どうしても伝えられません。

そんことなど知らずに、地上の人はただ悲しむばかりです。




真実は2つに1つです。

死んで無になるのか、それとも生き続けるか、そのどちらかです。

どちらも決定的な証拠はありません。

白黒はっきりしないところに、神の意図が隠されていると思います。




無になるとしたら、生きている意味を見い出せません。

人生はうたかたの夢幻です。

どうせ無になるのなら、楽しいことだけをして、苦しいことは逃げてしまえば良いはずです。

人のことなど、どうでも良いはずです。




しかし、苦しくても逃げ出したくはありません。

人のために何かをしたいと言う気持ちもあります。

それは、生まれて来た目的と深く関わっていることであり、無にならないことを、心の奥にいる本当の自分(魂)が知っているためと考えられます。




無になるのなら、地上の人がどう思っていようと関係ありません。

生きているとしたらどうでしょう?

信じてもらいたい人に、存在を信じてもらえないのは、つらくないわけがありません。

いないことにされてしまったと、嘆き悲しんでいるでしょう。

もし死んだ人のことを思うのであれば、たとえ姿が視えなくなり、確証が得られなかったとしても、生きていると信じるべきです。




当たり前の話ですが、電球の明かりは、電気が流れて点きます。

明かり本質は、電球ではなく電気です。

しかし、電気は目に視えず、実体もありません。

電線を触ってビリっと来た瞬間、何かが流れているのが判り、電気の存在を実感します。




愛もそうです。

愛も目に視えず、実体もありません。

それでも、ほとんどの人が信じています。

その理由は、愛を実感したことがあるからです。




愛を実感しているのが、魂です。

そして、愛が生まれるのも魂です。

肉体は物質的次元の存在ですが、魂は霊的次元の存在です。

肉体は荼毘に付されて消滅しても、魂は不滅なため、愛は変わらずに存在しています。

愛の存在を信じられる人ならば、魂の存在も信じられるはずです。




魂を引き付ける力が愛です。

愛によって魂が引き付けられるので、傍にいるのです。

愛し合う者同士に別れはありません。

「死別」は誤りです。




人生にはシナリオがあります。

けれども、全く判らないようになっています。

一寸先は闇です。

出来事は何の前触れもなく起こります。




それが、死の場合もあります。

最愛の人の死であれば、これだけは起きて欲しくなかった出来事に違いありません。

変えようのない現実を前にして、全てが失われてしまったと思う人もいます。




肉体は失われましたが、霊的なつながりが失われることはありません。

両者の関係はそのままです。

愛されていた人は、引き続き愛されています。

けれども、想いを表現する肉体がもうないので、地上の人にどうしても伝えられません。




今、あるのは魂だけです。

1つだけ伝える手段が残されています。

それは、地上の人の魂に、自分の想いを吹き込んで伝えることです。




鍵を握っているのは、地上の人です。

魂の存在を否定したならば、自分の存在も否定されてしまいます。

せっかく想いを吹き込んでも、気のせいとして受け流されてしまいます。

そんな虚しい努力が、いたるところで、どれ位繰り返されているのか判りません。

声を聴きたくても聴けない地上の人の悲しみは、想いを伝えたくても伝えられない霊界にいる人の悲しみの裏返しなのかもしれません。

お互いに、涙を流しています。




神はわずかですが、地上と霊界のつながりを残してくれています。

信じてもらえれば、存在が肯定され、想いを伝えられる可能性が残されます。




人間は肉体を携えた霊的な存在です。

五感が圧倒的に優位になっている地上では気付きにくいのですが、元々備わっている霊的な能力があります。

その能力が発揮されれば、言葉を超えたコミュニケーションは可能です。




目に視えず、確証もないけれど、それでも信じられる人を神は祝福します。

次元を超えてつながることが許されます。

地上の人が条件さえ整えてくれれば、霊的につながれるのです。
          
変わらずに愛されていると、素直に信じて下さい。

信じることでリンクが張られ、そのリンクを通して伝わって来る幽(かす)かな想いを感じ取れる日が、きっと訪れると思います。




参考ページ:「亡くなった愛する人とつながる」





2020年9月20日日曜日

不安のメカニズム



世界中で猛威を振るっている新型コロナウイルスですが、これまでに3000万人を超える人が感染し、死亡者数は100万人に迫る勢いです。

多くの人は、この未知のウィルスに感染したらどうしよう、運が悪ければ死んでしまうかもしれないと怖れを感じています。

喉が痛かったり、咳が出たりすると、もしかしたらと不安になってしまいます。




これまでの人生でも、いろいろな局面で不安を感じていたと思います。

試験に落ちたらどうしよう、仕事で失敗をしたらどうしよう、悪い病気ではないのか等々、小さいものを含めれば、大変な数になるでしょう。




不安が生じると、心が落ち着かず、不安定になります。

穏やかさが失われて、一種の苦しみのようなものを感じます。

少しでも早く、解消したいと思います。




私たちは、過去から未来に向かって生きています。

過去を悔やむことはありますが、過ぎ去ったものに不安を感じることはありません。

今から起きること、未来に対してのみ、不安が生じます。




例えば病気です。

苦痛を感じていれば、ずっと続くのかと思うと穏やかな気持ちではいられません。

この先、どうなるのだろうかと不安になります。




隕石が、1年後に地球に衝突するとします。

ほとんどの人は大きな不安を感じるでしょう。

しかし、感じていない人もいます。

当たり前の話ですが、そのことを知らない人、あるいは動物たちは感じません。

先のことを考えなければ、不安にはならないのです。




不安は、大脳での思考の副産物です。

あれこれと考え、先を予測してしまうことで生じてしまいます。

未来を予測する能力がある者にだけに、不安は生じます。




しかしながら、不安に実体はありません。

精神上に作られたものだからです。

もし、何も考えていなければ存在しないからです。




けれども、何も考えていないのに、漠然とした不安を感じることがあります。

それは、過去に生じていた何かしらの思念(想い)が、時を経て、不安と言う形になって表に出て来ているせいかもしれません。

あるいは、不安を生じさせる思念を、他者から受け取っていたせいかもしれません。




今を生きるのが大切と良く言われます。

それは、先のことをあれこれ考えないで済むからです。

不安が生じずに、自分の持てる力が出せるという意味があると考えられます。




それでは、恐怖や不安はどんな弊害があるのでしょうか?

「恐怖心と心配の念は、私たちが特に不断の警戒を要する敵です。なんとなれば、それが霊力が作用する通路を塞いでしまうからです。」

また「恐怖心、信念の欠如、懐疑の念は、せっかくの霊的雰囲気をかき乱します。私たち霊は信念と平静の雰囲気の中において初めて人間と接触できるのです。恐れ、疑惑、心配、不安、こうした邪念は私ども霊界の者が人間に近づく唯一の道を閉ざしてしまいます。」とシルバーバーチは言っています。




恐れや不安は、生まれた後に私たちの精神上に形成される、地上的な自我の働きによって生じると考えられます。

自我は、自分を脅かそうとするものから、自分を守ろうとして活動しています。

脅かす可能性があるものを脳が認識して、先を予測してしまうと不安が生じます。




私たちには、顕在意識である地上的な自我の他に、潜在意識である本当の自分とも言える「霊的な自我」が存在します。

いわゆる「魂」です。

地上的な自我は、霊的な自我を表現するためにある地上の媒体であり、本来は協調的に働いています。

しかし、霊的な自我と地上の自我の両者の働きが拮抗する時があります。

自分を脅かすものに対して不安が生じ、そのために自我の働きが強くなり相対的に霊的な自我の働きが弱くなります。




霊的な自我が活動している時は、意識は外に向かっています。

その逆に、地上的な自我の働きが強くなると、意識は内に向かいます。

言い方を変えると、霊的な自我は全体を意識し、地上的な自我は個(自己)を意識しています。

従って、大きな不安に襲われた時には、自分のことで頭が一杯になり、周りのことは目に入らなくなります。




前に進んで行こうとする力、乗り越えて行こうとする力は、どこから生まれて来るのでしょうか?

その力は生きる力であり、霊的な力です。

私たちの中に存在している神から湧き上がって来ます。

不安が大きくなり、霊的な自我の働きが弱くなってしまうと、生きる力も湧き上がって来なくなってしまいます。




不安が生じ地上的な自我の働きが強くなると、それがバリアのように魂を取り囲んでしまいます。

そうすると、背後にいる霊との接触が妨げられます。

インスピレーションによる導きを受けられなくなり、地上の人に向けられた励ましや勇気付けの思念の力も伝わり難くなってしまいます。




私たちは意識していませんが、内と外から生命力とも言える霊的な力を受け取りながら、この世を生きています。

恐怖や不安や心配や取り越し苦労などの念は、地上的な自我の働きを強めてしまうために、霊的な力を受け取る際の大きな障壁となります。




それでは、どうすれば良いのでしょうか?

試験の前に、不安を極力少なくするためには、ひたすら勉強をするしかありません。

まず、不安を解消するための、地上的な努力をしなければいけません。

今を精一杯生きます。




それでも、解消しない時には、霊的な自我の働きを強めるようにします。

そのために、自らの意志によって、自分の中にいる神とのつながりを深める必要があります。

「自分の中には神が存在し、今起きている出来事を乗り越えて行く力が秘められている。」
気持ちを込めて、心の中で唱えます。

そして、背後にいる霊とのつながりを強めるようにします。

「自分には守り導いている存在が付いて、援助の力を授かっている。」

そう強く信じて下さい。




この能動的な行為により、内(神)と外(背後霊)のつながりが強化され、それに伴い霊的
自我の働きが強くなります。

相対的に地上的な自我の働きは弱められ、不安は和らいで来るはずです。




内と外から伝わって来る霊的な力は、愛を帯びています。

両者とのつながりが強くなると、愛を帯びた霊力が流れ込むことで心は安定し、自信に満ちた心境になります。




1つだけ条件があります。

それは、神の存在、霊界の存在を信じていることです。

心から信じていなければ、強くつながることは出来ません。




自分の経験や実績から、自信は生まれるものだと考えていました。

しかし、経験や実績がなくても、自分を信じることさえ出来れば、自信は生まれます。

自分を信じるとは、自分の中にいる神を信じることです。

守り導いている存在を信じることです。

両者のつながりが深くなり、霊力に満たされた状態が、自信の実体と考えられます。




あらゆる出来事は、自然法則の働きによって起きています。

その法則が創造された目的は、生命を向上進化させるためです。

苦難を乗り越える過程で、自然法則の働きにより、魂は向上して行きます。

どんなに絶望的に思えても、最終的には乗り越えて行けるのは、全ての事象は私たちを向上進化させるために起きているからです。

起きることの全てに、神の愛が行き渡っていることを得心できたのならば、不安は生じません





神の法則の働きに絶対的な信頼を置けたのなら、不安は生じないはずです。

シルバーバーチはこう言っています。

「その秘められた神性を開発しそれを生活の原動力とすれば、心配も不安も悩みも立ちどころに消えてしまいます。なぜなら、この世に自分の力で克服できないものは何一つ起きないことを悟るからです。その悟りを得ることこそあなた方の勤めなのです。それは容易なことではありません。」




真っ暗闇の中に、ただ1人置かれたとしたら、不安になってしまいます。

神とは光りです。

不安や恐怖という心の闇を創ったのは、自らの中に光を見い出すためではないでしょうか。




自らの中に神がいます。

常に守り導かれています。

そのことを信じ、強く意識すれば、精神が霊(魂)の支配下に置かれ、不安は和らぎます。

霊は精神に優るのです。





2020年9月13日日曜日

死の後に起きること



最近は、コロナウィルスの流行で旅行に出かける人も、めっきり少なくなりました。

旅行に出かける前に、多くの人は雑誌やインターネットで目的地の情報を入手します。

そうすることで、事前に計画が立てられ、安心して旅行が楽しめるからです。





全ての人は、片道切符を持って旅立ちます。

行先は、あの世です。

全員行くのが決まっているのに、行った先のことを知っている人は、意外と少ないようです。

旅行と同じで、事前に正しい情報を持っているのに越したことはありません。

その理由は、死んだ後に迷わないばかりではありません。

死の後に起きることを知っていれば、この世の生き方が望ましい方向に変わって来るからです。




死ぬ年齢も、原因も、人それぞれ違います。

しかし、起きる現象は皆、同じです。

死とは、肉体から魂(霊)が永続的に分離する自然現象です。




多くの人は、病気で死にます。

その時に、呼吸が苦しそうで、顔を歪めている人が多いのですが、本人は傍で見ているほど苦しくないようです。

自然法則に適った生活をしていると、苦しまずに死ねるようです。




死ぬと肉体は、全く動かなくなり、次第に冷たくなります。

その現象は、生命の本質である魂が抜け出した瞬間から始まります。

それまで肉体に生気を与えていたのは魂なのです。




一時的なブラックアウト(意識消失)の後、自分の肉体の近くに佇んでいるようです。

動かなくなった自分の肉体の傍で、涙を流して悲しんでいる人がいて、それを傍観しています。

ふと周囲に目をやると、昔、親愛の想いを寄せて、既に亡くなった人たちがいるのに気付きます。

しばらくの間、再会の悦びに浸りますが、その時に自分に何が起きたのかを理解する人もいるでしょう。

生気を失った自分の身体が、棺の中に入れられますが、まだ身体に愛着があるので傍に付いています。

しばらくすると、お坊さんが来てお経を読み始めます。

そして、親交のあった人たちがやって来て、自分の遺影に手を合わせて、焼香している姿が見えます。

自分の葬儀が行われているので、本当に死んでしまったと自覚します。

死後のことを知らなくても、客観的な状況から、自分がこの世にいないことを、少しずつ理解して行きます。

荼毘に付され、もう元に戻れないことを悟ります。




死は、さなぎから羽化して飛び立つ蝶に例えられます。

物理的な制約から解放され、自由度が飛躍的に増すからです。

親愛の想いを抱いていた人は、どうしているのだろうと気になった瞬間、その人の元に移動していることに驚きます。

涙を流していれば、そっと寄り添い、傍にいること知らせようとします。

ところが、その声は届かず、触れようとしても、自分の手が素通りしてしまいます。

全く気付いてもらえないことに、愕然とします。

それでも、何かの気配を感じている人もいるようです。

地上の人は五感が優位になっていますが、霊的な感覚も備わっているからです。

しばらくは、この世に関心が向いています。

親交のあった人、思い出の場所など、愛着を感じるところに赴きます。




あの世(幽界)は、この世に似ています。

肉体はもうないはずなのに、呼吸もしていて、食欲もあります。

景色もそっくりです。

そのために、死んだことに気付かない人たちがいます。

似ているのは、新しい環境に戸惑わないための神の配慮と言われています。




あの世は思念の世界です。

想ったことが、立ちどころに具現化します。

肉体を駆使して具現化しなければならないこの世が、いかに煩わしい世界だったのかを実感します。

そんな世界を離れて、自由で快適な世界にいることに喜びを感じます。




願望がそのまま具現化される現象には驚かされます。

眠りたいと思えば、目の前にベッドが現れるのです。

食べたいと思えば、食べたい物が直ぐに現れるのです。

たくさんのお金が欲しい人は、目の前に山のようなお金が現れるので、大いに喜んでいます。

しかし、全く価値を持たないものに喜んでいる姿は、周囲の人に滑稽に映っています。




肉体はもうありません。

そのために、魂(想い)が露わになり、本当の自分が周囲に知られてしまっています。

偽善者はいようがなくなり、表裏も存在しません。

心が素っ裸にされたような感覚です。

恥ずかしい思いをしないために、もっと自分の内面と向かい合っていれば良かったと反省する人もいます。




人は、後悔しないよう、恥じることのないように生きようとしています。

それは、この世の人生を総括する時が訪れることを、魂が知っているからなのかもしれません。

目の前にスクリーンのようなものが現れ、人生が映し出されています。

記憶から忘れ去られていたことも、魂にはしっかりと刻まれています。

あの時はこう思ってこうした、動機までも含めて、この世の全人生を振り返ることになります。




悔やむことがありました。

それは、神の摂理に反する行いをしたことです。

人を欺いたり、傷つけたり、良心に逆らって行動していたことが悔やまれます。




もう1つあります。

成長の機会を逃したことに気付いた時です。

与えられた奉仕の機会を逃したこと、困難や障害から逃げてしまったこと、そんな行動を取ってしまったことが悔やまれます。




悦ぶ時もあります。

人や動物や社会のために、頑張っている自分の姿を見つけた時です。

自分の行いによって、喜びをもたらしていたのを知った時です。

挫けそうになりながらも、起きた出来事を必死に乗り越えて行った自分の姿を見つけた時です。




大切なことが、徐々に判って来ます。

楽しい時ではなく、むしろ苦しい時に、人生の意義があったことを。

苦難を乗り越えようとする中で、魂は成長することを。

この世に生まれたのは、自分(魂)を成長させるためであり、人生に計画があったことを。




後悔が大きいので、もう1度この世に生まれ、想いを晴らしたいと思う人がいます。

過ちを犯して、その償いのために、もう1度この世に生まれなければならない人もいます。

自分の人生は、自分で決められます。

その代わり、責任も取らなければなりません。

そのことを知っていたのなら、人生は違ったものになったかもしれません。

こうすれば良かった、あんなことをしなければ良かったと、悔やむことはずっと少なくなったでしょう。










それからどれ位経ったのでしょうか、本来の住処(霊界)に戻る時が訪れます。

そこには、自分と良く似た人たちがいて、帰るのを待っていました。

自然法則の働きによって、親(ちか)しい魂が集まるようになっているようです。

同じ想い、同じ意識が共有されています。

そこでは、この世から持ち帰った経験や叡智が活かされるようです。

凡例を挙げてみます。

私は歯医者をしています。

霊界では肉体はないので、歯医者はいません。

地上では生活して行くために働いていますが、同時に患者さんの健康を取り戻すためでもあります。

それを続けているうちに、他者に奉仕することに、少しずつ慣れて来ています。

人や社会のために働かないと食べていけないのが地上です。

肉体がない霊界では、食べるために働く必要はなくなり、純粋な奉仕活動になります。

地上時代に働くのは、霊界に行った時に、ごく自然に奉仕活動が出来るようになるためであり、そのための準備をしているようです。




考え方や価値観の違う人たちと共に生きるのが地上です。

上手くやって行くためには、協調性を身に付けなければいけません。

時に、自分を犠牲にすることも必要でしょう。

いさかいが起きないために、認め合い、許し合わなければいけません。

そんな経験をする中で、多くのことを学び、魂が向上して行きます。

1つの魂が霊界に持ち込んだ叡智により、全体にさらなる調和が生まれるようです。




争いはありません。

無用な苦しみや悲しみが生じることもありません。

自分と似たような人たちしかいないので、それは当然です。










穏やかな生活が、どれ位続いたのでしょうか。

全体のために、もっと役に立ちたいと思う気持ちが芽生えます。

そのためには、今の自分にはない資質を身に付けなければいけません。




資質を身に付けるのは、自分のためではありません。

全体のために活かすためです。

生きる目的は、全体のために自分を活かすことです。

活かすことで自分が成長しているのが、霊界では良く判ります。




自分をもっと成長させたくなります。

新たな資質を身に付けるためには、苦しみや悲しみのない今の快適な環境にいるよりも、困難や障害の多い地上に降りて様々な経験した方が、はるかに効率的です。




目的が決まったら、神に祈ります。

祈りは届き、目的を成就させるための、地上の人生が提示されます。

それは過酷な人生に映りました。

しかし、無限の叡智である神によって勘案されているので、乗り越えられることは保障されています。

提示された人生を了承します。

そして、地上で最適な母体を選んで、受胎の瞬間に入り込みます。

肝心の目的をすっかり忘れてしまうので、生涯に渡って守り導く人(守護霊)が付けられます。




霊界の人たちにとって、地上への再生は死に相当するようです。

涙を流しながら見送っている人もいます。

ただ、地上の別れの悲しみとは少し違います。

成長して、再び戻って来るのが判っているからです。




死とは、新たな環境に生まれることです。

生と死を繰り返しながら、人は向上進化して行くように定められています。




全ての事象は、自然法則の働きにより起きています。

どん底に落とされるような経験は、実は高みに導くためだったことを、死んだ後に知ります。

真実を知った時、大いなる存在を如実に感じ、思わず感謝するでしょう。



2020年9月6日日曜日

自分の中に神がいる



少し前まで、私は神の存在を信じてはいませんでした。

正確には、存在しても、していなくても、生きて行く上で関係がないので、どうでも良いと思っていました。

目に視える現実が全てでした。




神の存在を信じている人は、世の中にたくさんいます。

そんな人の中には、高いところから地上を見下ろし、監視しているような存在だと考えている人もいるでしょう。

また、悪いことをしたら罰を与えられ、信じていないと天国に行けないと思っている人もいると思います。




神は自然法則として顕現しています。

自然法則によって、全宇宙を経綸しています。

法則は神の心の反映です。

神の意志を遂行するために、法則は働いています。




シルバーバーチの霊訓を読み始めて、しばらく理解出来なかったことがあります。

それは、私たちが神の子であると言うことです。

何故なら、神の子である実感が全くなかったからです。

人間とはかけ離れた存在であるように思えました。




宇宙を創造したのは神です。

神的エネルギーにより、宇宙は創られています。

宇宙は偶発的に誕生したのではなく、明確な意図を持って、偉大なる存在によって創造されたのです。




話が変わりますが、人間にはいくつの細胞があるのでしょうか?

何と37兆個もあります。

脳細胞、筋細胞、皮膚細胞など様々な種類がありますが、そのどれもが全身の中で大切な役割りを果たしています。

1つ1つの細胞は小さくても、人間にとって必要なものとして存在しています。





NGC2275

私たち人間は、宇宙の片隅に生きる、限りなく小さな存在です。

しかし、どんなに小さくても、神によって創られた、宇宙を構成する一部には変わりありません。

何かしらの役割りがあって、今、ここに存在しています。




全ての創造物は、神的エネルギーが形を変えたものです。

創造物は、生命体と非生命体の2つに分かれます。

地球上の動物や植物は生命体であり、水や土や岩は非生命体です。




目に視える体は生命体であり、生命そのものは目に視えません。

生命とは物質とは次元の異なるものであり、霊(魂)と便宜的に呼ばれています。

霊(生命)が物質(体)を媒体にして活動をしています。




物的な生物には、意識があるものと、ないものが存在しています。

もちろん、人間は意識があります。

意識の源泉、それが魂です。




魂は霊的(生命)エネルギーの供給を受けながら、全宇宙(神)とつながっています。

私たちは無限大のネットワークの一部です。

しかしながら、地上では五感が優位になり霊的感覚が乏しくなるため、霊的なつながりが認識されにくくなっています。

肉体が失われ、五感が取り払われた次の世界に行くと、はっきりと認識されるようになります。




生命は尊いと言われます。

死んでしまったらお終いと思うからなのでしょうか。

しかしながら、それは事実とは違います。

死とは、肉体と魂の永久的な分離です。

生命自体は失われることなく、次の世界で生き続けます。




魂は永遠不滅です。

侵し難い神聖なものです。

何故かと言えば、そこに神が宿っているからです。

いえ、神そのものと言って良いのかもしれません。

神が宿っているので、生命は尊いものだと感じているのではないでしょうか。




生まれたての赤ちゃんを見て、何か神々しいものを感じます。

それは魂が前面に現れているからだと思います。

赤ちゃんは、少し前まで霊界にいました。

自らの成長のために志願して、最適な母体を選んで、地上に生まれて来ています。

お腹の中にいる期間は、霊的次元から物質次元への移行期間のようなものかもしれません。

霊的次元で生きていた余韻を残している存在です。


フリードリヒ2世(1740~1786年)
神聖ローマ帝国にフリードリヒ2世という君主がいました。

彼は知的好奇心から、想像も付かないような実験を行いました。

捨てられた50人の赤ちゃんを引き取って養育しました。

その時にミルクを与え、お風呂に入れて、おしめは交換しますが、アイコンタクトを含め一切のコミュニケーション、スキンシップを排除すると言うものでした。

結果は悲惨なものでした。

数年以内に、全ての赤ちゃんが死んでしまったそうです。

その理由は、科学的に説明がつきません。

フリードリヒ2世ですが、死後とんでもない過ちを犯したことに気付き、酷く後悔したのは想像に難くありません。




どうして、赤ちゃんは死んでしまったのでしょうか?

生まれる前にいた霊界は、霊的エネルギーで満たされています。

魂(霊体)は、そこから生命エネルギーを補給していると考えられます。

いざ地上に生まれ肉体を持つと、今度は物的エネルギー(食物)が必要になります。

胎内にいる時は、母親から物的エネルギーとオーラから霊的エネルギーの両方が供給されていると考えられます。

そして、生まれたばかりの赤ちゃんも、物的エネルギー(ミルク)だけではなく、引き続き霊的エネルギーを必要としているのかもしれません。

必要としている霊的エネルギーの多くは、愛情と考えられます。

人間から愛情を与えられなかった赤ちゃんは、霊的エネルギーが枯渇してしまい、生きていけなかったのかもしれません。

赤ちゃんでなくても、人は人とのつながりの中で、知らずに霊的エネルギーを与えたり、もらったりしていると思います。

それが生きる力となる時があります。



赤ちゃんを見て可愛いと思うのは、愛情を与えなければ、生きて行けない存在であることを外部に認識させるための神の配慮だと思います。

知らない赤ちゃんであっても、一人で泣いていれば、何とかしなければと衝動に駆られるのは、本能と言うよりも、自分の中にいる神が愛情を与えようとしているからではないでしょうか。

困っている人がいれば、助けてやりたくなるのもそうです。

悪いことをすると心が咎めるのも、自分の中に神がいるからです。




もし、人間の中に神がいないとすれば、どうなるのでしょう。

善悪の判断がつかなくなるでしょう。

人を傷つけたり、殺したりしても、咎めるものはなくなります。

罪を犯しても、後悔も反省もありません。




思いやりも、親切心も、優しさもなくなります。

誰かが死にそうになっていても、関心はありません。

助けを求めている人がいても、放って置きます。

世の中は、無秩序、無関心、利己心が蔓延り、地獄絵の様相を呈するでしょう。




現実はどうでしょうか?

そうではありません。

それは、私たちの中に神が宿っているからです。




もし、それぞれの人や動物に神が宿っているのであれば、傷つけたり、殺したりすることは許されません。

差別はあってはいけないはずです。

生命に優劣はなく、同等の価値があるからです。

全ての人そして動物も、神聖なものとして敬うのが当然ではないでしょうか。



虐待され食肉となる牛

神聖な生命を傷つけようとする行為は、明らかに神の摂理に反しています。

その行為は、同時に自らの神聖なもの(魂)を傷つけていることになります。

因果律の働きによって、相応の苦痛がもたらされて、過ちを償うことになります。




私たちは、全知全能の神ではありません。

自分の中に宿っている神を、少しでも多く表現しようとする、進化の途上にある存在です。

生まれる前にいた霊界では、魂から生じる想いが、ストレートに外部に表現されています。

地上に生まれると、魂から生じる想いは、精神を経由して、肉体で表現されるようになります。

精神上に、地上的な自我(以下自我)が形成されて行きます。

自我は、肉体や外部からの影響を強く受けていて、性質上、自分を守ろうとするため抑制的に働いています。

溺れている人がいても助けられないのは、自我の働きにより、神性の発現が妨げられているからです。

自我に打ち克って、より多くの神性を発現させることが、この世に生まれて来た目的であり、それが魂の成長につながります。

霊界に戻った時に、より一層の神性が発揮されるようになると考えられます。




自分は神であると尊大になるのは論外です。

しかし、自分の中にいる神を意識することで心に安らぎを見い出し、自信を持って生きるのは望ましいことです。

自分の中に神がいるのであれば、怖れるものは何もありません。

遭遇する難局を乗り越えて行く力が、自分の中に秘められているからです。

自分の中にいる神を強く信じて、迷わずに進んで行きましょう。




神は、救いを求めている人の傍に来て、助けてくれるような存在ではありません。

自らの中に神を見い出し、そこから湧き出る力によって、現状を打破することで、結果的に救われると考えられます。




2020年8月30日日曜日

霊的につながっている


小学校の時に、いつも一緒にいる友達から、仲間外れにされたことがあります。

昔のことで、いきさつは良く覚えていませんが、何か怒らせるようなことをしてしまった
のではないかと思います。

近くにいて無視されるのは、とても嫌な経験でした。

しばらくすると元に戻り、ホッとしました。




人と人は、誰かとつながっていないと、不安になる生き物なのかもしれません。

友達はいなくても、家族同士が仲良かったり、また共通の趣味の人がいたり、行きつけの
店で会う人がいたりして、どこかでつながっていると思います。

今は、SNSを通して、つながっている人もたくさんいます。




もし、人間が肉体だけの存在であれば、孤独を感じることはないでしょう。

肉体は元々、別々なのですから。

肉体(大脳)を超えたところで孤独を感じています。




私たちの本質は魂です。

魂は、意識の本体であり、生命そのものです。

個と個は独立していますが、それは肉体の話です。

肉体に宿っている霊は、完全に独立していません。

1つ1つが全体の構成要素であり、関連性を持ってつながっています。



クロード・モネ「積みわら₋夏の終わり」










上の絵のように、様々な色彩の点や線がたくさん集まって、1つの絵画が構成されています。

どんなに小さい点であっても、その場所に必要だったから描かれたのです。

広大な宇宙の中で、1人の人間は限りなく小さな存在です。

けれども、全体の中で何かしらの役割りを担っています。

存在意義のないものが、この宇宙に誕生することはありません。




誰とも接することなく、孤立無縁の様に思えても、霊的にはつながっています。

例えが少々強引かもしれませんが、パソコンやスマホが肉体で、ネット上のIDが魂(霊)と言えるのかもしれません。

精緻で無限大の霊的なネットワークがあり、全ての人(魂)は全体とつながっていて、意念を向ければ、思念が届くようになっています。

それが、肉体と言う媒体に阻まれて感じられなくなっているのが地上です。




霊的なつながりは、物理的な制約を受けません。

遠く離れた場所で、別々に暮らしていても、お互いが想っていれば、つながっています。

たとえ、この世にいなくても、存在を信じ意念を向ければリンクが張られて、次元を超え
てつながることが出来るのです。




磁石は、磁力によって引き付けられています。

人と人を引き付けているのは、霊的な力です。

最強の力は愛です。

両者に愛あれば、霊的に強くつながります。

どんなに近くにいたとしても、愛がなければつながりは脆弱です。




愛はさまざまな形態を取ります。

情愛、友情、同情、慈悲、哀れみ、寛容心は不滅の霊性であり愛の諸相と、シルバーバーチは言っています。

その様な想いを向ければ、見たことも、会ったこともない人でも、霊的につながることが出来ます。




その根拠があります。

私は、これまで多くの人たちにヒーリングをして来ました。

信じられないかもしれませんが、世界のどこにいようとヒーリングの力は届きます。

依頼の連絡が届いた時点で、目に視えないつながりが出来上がります。

そのつながりを通して、力が伝わります。

住所、名前などの情報は一切必要ありません。

こちらが意念を向ければヒーリングが成立する、そのことから想いを向ければ遠く離れた人でもつながることが、少なくても私の中では実証されています。




想い(思念)が視えないのが、地上です。

視えない想いを、肉体を使って言葉や行動により表現して、視える形にしなければなりません。

視える形となって表現されたものに込められた想いを、霊的な感覚によって感じ取っています。

込められた想いが、愛に根ざしたものであれば両者の距離は近くなり、反していれば遠ざかります。




それぞれの人間は、何かしらの役割を持って生まれて来ています。

役割りとは、仕事もそうでしょうが、人や動物や環境にどんな影響を与えているのかと言う意味が大きいと思います。

人は、出会う人に何かしらの影響を与えています。

同時に、影響を受けています。

もし、肉体だけの存在であれば、個は確立されているので、お互いに影響し合うことはありません。




人とのつながりの中で、反発することがあります。

地上はさまざまな個性の魂が入り混じる世界なので、それは仕方ありません。

共感して、考え方が変わる時があります。

誰かの一言で、人生が変わる時もあります。

自分の本質は可変的なものであり、つながりの中で変わって行きます。




私たちは、絶え間なく変化をしている存在です。

変化する方向は、自然法則の働きによって、定められています。

お互いに影響し合いながら、より神の心(愛)を表現する方向に変化して行きます。

個と個はつながり、愛によって1つになるのが、神の心だと考えられます。




つながりを感じているのは、霊的な部分です。

普段の生活で働いているのは、頭(大脳)です。

頭が活発に働いている時は、霊的な部分は休んでいます。

従って、日常生活で頭が働いている時には、つながりは意識されず、人と接触しているだけであり、それぞれが孤立した存在に思えてしまいます。




しかし、非日常的な状況になると違って来ます。

それまで眠っていた霊的な部分(魂)が呼び覚まされて、つながりを意識することがあります。




東日本大震災により、1万人以上の人が津波により亡くなりました。

多くの人が亡くなった人に哀悼の念を捧げ、そして残された家族に同情しました。

一時ですが、同じ日本人としての絆を感じた人も多かったのではないでしょうか。

同じ想いになった時、霊(魂)は同調しており、つながりが意識されます。




私たちが想像もできないほど、貧しい国々が世界には存在します。

栄養が足りず、衛生状態が悪いために、亡くなって行く子供たちが後を絶ちません。

スーダンの難民キャンプの子供
そんな子供たちを見る度に、悲しくなり、何とかならないかと思います。

同じ人間として、許されることではないと感じますが、それは私たちに霊性が存在しているからです。

同じ人間として、同胞意識があるからです。

霊的なつながりがあるからこそ、同胞意識が生まれます。






動物が虐待されたり、殺されたりするのを見ると、心が痛くなります。

痛みを感じているのは、霊的な部分です。

私たちの中にいる「良心」と言う神が、摂理に反する行いに対して、痛みを感じています。

同じ地球に生きて、同じ生命としてつながっているからこそ、その様な気持ちになると思います。

あらゆる生命は霊的につながっているのですが、そのことに気付かない人間は、摂理に反したことを平気で行ってしまいます。




霊的なつながりは、同じ想いになった時に強くなります。

双方が、愛によってつながった時、両者の関係は最も強固なものとなり、大きな悦びとなります。





私たちは、拒絶されたり、嫌われたりすれば、心に苦痛を感じます。

また、信じてもらえなかったり、認めてもらえなかったりするのも、大きな苦痛となります。

怒り、憎まれたり、恨まれたり、妬まれたり、蔑まれたりするのも、とても嫌なものです。

そのどれもが、つながりを断とうとするものです。

つながりが断たれるのを感じるのは、人間にとって最大の苦しみの1つです。




逆に、信じてもらえたり、受け入れてもらえたり、認めてもらえたりすれば、悦びとして感じます。

それは、他者とつながったと感じるからです。

親切にしてもらったり、優しくしてもらったり、労わってもらうとうれしいのは、つながりを強く感じるからではないでしょうか。




この世に生まれた目的の1つは、他者とのつながりを深めることです。

生まれる前にいた世界と違うところは、周りに自分と違う人、似ていない人がたくさんいるところです。

つながるためには、お互いに認め合い、許し合わなければなりません。

自己犠牲も求められます。

そんな苦労をする中で、大切なことを学び、成長するようになっているのが、地上の良いところであり、難しいところでもあります。




お互いが信じられなくなり、離れて行く人がいます。

そんな人たちは、つながりが失われているために、想いは通い合わなくなっています。

悲しく、つらいことです。

この世から大切な人がいなくなって、深い悲しみ、苦しみを味わっている人もいます。

五感に触れない、悲しみ、寂しさは、どうしても避けられません。

しかし、その苦しみは残された人の無知から生じている時があります。

存在がなくなってしまった、もう会えないと事実誤認をしてしまうと、向こうにいる人にとって、地上の人とのつながりが断たれてしまったと感じるでしょう。

少なからず、苦しみになっていると思います。

無知から生じた苦しみが、因果律の働きによって、自分に返って来ているのかもしれません。

肉体はなくなっても霊的につながっている、確証は持てなくても、そう信じることによって、双方の苦しみは和らぐと思います。




つながりが断たれて苦しむのは、個と個がつながるためにあると考えられます。

自然法則の働きによって、お互いがつながることを促されています。




地球上の全生命が、物質の壁を取り払い、再び1つになって行くのが、神の意志と考えられます。

それを主導しているのが人間であり、愛によってのみ成就されます。


愛犬しろ