アトランタオリンピックで銅メダルを取った直後に、有森裕子さんが言った言葉が今も記憶に残っています。
「自分で自分を褒めてあげたい」
その時は、何を言っているのか判りませんでしたが、今は少し判るような気がします。
1人の人間には、1つの心しか存在しません。
けれども、何かをしようとする時に、何者かが囁いているのを意識する瞬間があります。
たとえば、学校でクラスメートがいじめられていたとします。
可哀想なので、何とかして助けてやりたいと思います。
しかし、「もし助けに入ったら自分までやられてしまう」と、心の中に声を聞く時があります。
危ないから、失敗するからなどと理由をつけて、やめさせようとしている、ブレーキの役目を果たしている「もう1つの自分」がいると思います。
助けてやりたい想いは、本当の自分である魂から生じています。
魂は神の心を表現する一部であり、良心が内在されているため、いじめられているクラスメートを見ると助けてやりたい衝動が生まれます。
その想いは、精神上に作られた「もう1つの自分」を経由して、脳の働きにより肉体を動かして外部に表現されます。
もう1つの自分は、本当の自分の想いを表現をするためにある媒体であり、外部環境から自分(肉体)を守るため、この世界に適合してより良く生きるために存在していると考えられます。
一般的に「自我」と呼ばれる存在であり、生まれてから今日まで築き上げて来た自分と言えます。
顕在化し、意識されている自分であり、本当の自分(魂)と密接な関係を保っています。
日常生活においては、本当の自分ともう1つの自分は、無意識下で連動しながら自己を表現をしています。
仕事や家事などの事務的な作業は、もう1つの自分により行われていますが、それから逸脱した出来事が起きた時には、本当の自分(魂)が働きだして様々な想いが生じます。
そんな時、もう1つの自分は、地上的な経験や知識を基に頭脳を使って思考をして、その想いを肉体で表現するのが妥当かどうかを検討しています。
普段は本当の自分(魂)と連動しているのですが、ある程度の自律性を備えていて、状況によっては独立し、別個に働いていることがあります。
本当の自分ともう1つの自分の間で主張が異なると、両者の間の協調関係が崩れ、その状態を精神的葛藤として感じます。
最終的には、どちらかの主張が通り行動となって表現されます。
最終的には、どちらかの主張が通り行動となって表現されます。
いじめられているクラスメートを助けてやりたくても、もう1つの自分の声に負けてしまうと、黙認する行動を取ってしまいます。
周りの状況に合わせたり、危険を避けた行動を取った時は、本当の自分の想いが表現されずに、もう1つの自分の声が勝っていることが多いと考えられます。
いじめられているのを黙認すると、良心の呵責が生じて苦痛を感じますが、その苦痛は本当の自分の想いに従うように促していると考えられます。
悲しみの想いは、涙を流して泣くことで、外部に向かって表現されています。
想いを、言葉にして表現する人もいるでしょう。
言葉にするのには精神の働きが必要であり、精神的次元に作られているもう1つの自分がその役割を担っていて、頭脳を働かせて想いを言葉に変換しています。
もう1つの自分は、客観的に自分を評価して、心の中で言葉を発している時があります。
例えば、大きな失敗したり、周囲の期待に応えられなかったりすると、もう1つの自分は「全くどうしようもない」あるいは「何てダメな人間なんだ」と、他者の様に叫んでいる時があります。
心の中でどんなに叫んでも、外に聞こえることはありません。
しかし、その声は本当の自分(魂)に届いています。
自分で発した心の中の言葉なのに、他者から言われているのと同じで、傷つく言葉であれば傷ついています。
「お前なんか生きている資格はない」
こんな言葉を、他者から言われたらどうでしょう。
深く傷ついてしまいます。
毎日の様に言われ続けたとしたら、精神的に追い詰められてしまうでしょう。
もう1つの自分が、そんな言葉を心の中で発し続けているならば、本当の自分に相当なダメージを与えていると考えられます。
高じてしまうと罪悪感から自分を傷つける衝動が起きて、最悪の場合は自ら命を絶とうとしてしまうかもしれません。
自らの肉体を傷つける行動を取ってしまう人がいます。
そんな人はもう1つの自分が、本当の自分を容赦なく傷つけている可能性があると考えられます。
想い(思念)は肉体上で具現化されるエネルギーです。
自分の発した傷つける言葉によって生じた想いは、自分の肉体を傷つける行動となって具現化されるかもしれません。
もし、その想いが行動として表現されなかったとしても、肉体上に病態となって表現されてしまうかもしれません。
もう1つの自分は、本当の自分を守るためにありますが、無意識の内に傷つけている可能性があることを忘れてはいけません。
この世は失敗や挫折を経験し、そこから這い上がり、大切な教訓を学ぶためにあると言えます。
失敗や挫折自体は罪ではありませんが、それを許さない(もう1つの)自分がいて、本当の自分(魂)を容赦なく傷つけている人がいます。
他者を傷つけないように注意している人は多いのですが、自分の言葉で自分が傷つけられていることに気付いていない人がほとんどです。
反省は必要です。
しかし、自分を傷つけるのは、人に傷つけられるのと同じであり、苦痛を味わうことになります。
もし、親しい人が何か失敗して落ち込んでいたらどうするでしょう?
「失敗は誰にでもある」、「今度は上手く行くから大丈夫」など、励ましの声をかけて、早く立ち直ることを願うでしょう。
自分を守ってやれるのは自分です。
励ましてやれるのも自分です。
失敗をしたら、落ち込むようなことがあったら、一番親しい人を励ますように、本当の自分を励まして下さい。
一番欲しい言葉を、自分にかけてやって下さい。
その言葉は、本当の自分に届いて励ますことが出来ます。
誰も手を差し伸べてくれなくても、自分を窮地から救ってやることは出来ます。
「絶対に大丈夫!」、「何とかなる!」
そう言い聞かせることで、本当の自分は勇気をもらい、立ち上がり、前に向かって進んで行くことが出来ます。
私が言うまでもなく、無意識の内にそうしている人は、たくさんいると考えられます。
反省がなければ向上はありません。
けれども自分を責めてしまうと因果律が働き、苦しんでしまうだけです。
この苦しい世の中で、今まで生きてきた自分を思いっきり褒めて下さい。
人に優しくしようとする前に、まず自分に優しくして下さい。
それは、甘えや自己中心的なことではありません。
心の中で言葉を発している自分は、その奥にいる本当の自分を守るために存在していることを忘れてはいけません。
自分を責めることは、神の摂理に反しています。