2018年8月5日日曜日

病気は成長するために存在する


病気は人間が自らの力をもって自然に治すものであり、医者はこれを手助けするものである」これは古代ギリシャの医者であるヒポクラテスの言葉です。

パックリと開いた傷口を、医者は縫って元の様に戻します。

もし、自らの力で治すことができなければどうなるでしょうか?

抜糸をしたら、傷口はまた開いてしまいます

生命力によって、断裂した細胞組織が賦活化されて修復されています。

風邪になると医者に行き、注射をしてもらったり薬を出してもらいます。

しかし、それは症状を和らげているに過ぎません。

治しているのは免疫力であり、それを発現させているのは生命力です。



病気には必ず原因が存在します。

この世の人間は、肉体、精神、魂(霊)が一体となった存在であり、それぞれの次元に原因が存在します。

現代医学によって完治が期待できるのは、肉体的次元に原因がある病気です。

肉体的次元に原因がある病気として代表的なものは感染症であり、多くの細菌感染症は抗生物質により死滅させ、完治させることが可能です。

精神的次元に原因がある病気は、医学的処置が有効とは限りません。

ストレスで胃潰瘍になったのであれば、薬で良くなったとしても、再発する可能性があります。

それでは、霊的次元に原因のある病気はどうでしょうか?

代表的な疾患として、ガンや膠原病が挙げられます。

肉体上の病変は、手術や投薬により消失あるいは寛解するかもしれませんが、根本的に治ったわけではありません。

現代医学の対象は肉体次元のために、行っているのは対症療法に過ぎないからです。



霊的次元に原因がある病気について再度書いて行きます。

実証することは不可能ですが、その原因は大きく分けて、誕生後に生じていたものと、誕生前に生じたものがあると考えられます。



まず、誕生後に生じた原因について説明します。

人生では色々な出来事が起こり、様々な想い(思念)が生じています。

その想いを、肉体を使って外に向かって表現しています。

うれしいことが起これば、ニコニコとした笑顔になります。

悲しいことが起これば、涙を流して泣きます。

嫌なことをされたら、「やめろ」とか「やめて」と言うかもしれません。

納得の行かないことをされたら、「ふざけるな」とか「バカヤロー」などと叫び、憤りをぶつける人もいるでしょう。



もし、言葉や行動にして表現できなかったとしたらどうなるでしょう?

生じた想いは内に溜まってしまいます。



想いが溜まってきたら、人はどうするのでしょうか?

スポーツジムで体を動かしているのは、体力増進のためだけでなく、内にある諸々の想いを、の形にして、外に出そうとしていると考えられます。

仕事帰りに酒を飲んで、大きな声で叫んでいる人を良く見かけますが、アルコールの力を借りて、日中に溜まった想いを、外に吐き出していると考えられます。

心身とって良くない思念を、ストレス発散と称して、無意識に外に出そうとしていると考えらます。



そんな想いを外に出せず、鬱積してしまうとどうなるのでしょうか?

思いもよらぬ行動を取って、一気に晴らそうとする人がいるかもしれません。

攻撃的、暴力的なものになれば、世間を騒がす事件になってしまうかもしれません。



思念(想い)はこの世では目に見えません。

しかし、霊的次元では実在であり、肉体次元で具現化するためのエネルギーと言えます。

魂から生じた思念は、精神を経由して、肉体で表現されることによって外に向かって放散され、完結します。

積した想いは塊となって、エネルギーの自然な流れを妨げていると考えられます。



それでは、具体的にどのような状態になるのでしょうか?

簡単に言えば、自分が思うこと、望んでいることが出来なくなってしまいます。

怒りや憎しみの想いが鬱積していると、人や社会のために何かをしようとしても、行動に移せなくなってしまいます。

怖れや不安の想いが鬱積していると、何かに挑戦しようとする時に、二の足を踏んでしまいます。



の世に生まれて来たのは、大きく成長するためです。

人や社会のために奉仕をする(愛を表現する)こと、困難や障害を乗り越えて行くことで成長して行きます。

従って、怒りや憎しみ、あるいは恐れや不安などの想いが鬱積していると、知らない内に成長が妨げられていることになります。

人は成長するために生まれて来たので、妨げているものがあれば、由々しき問題です。

しかしながら、鬱積している想いに気付かないまま生きている人がほとんどです。



自然法則は、人を成長させる方向に向かわせるように働いています。

鬱積した想いと言うエネルギーは、因果律の働きによって、肉体に変化を生じさせます。

肉体は魂を表現する媒体ですが、想いは全く別の形となって肉体上に表現されることになります。

怒りや憎しみの想いであれば、反発的で攻撃的な組織となって表現されるかもしれません。

自分を責めていると、自分が傷つけられ、自分を否定する想いが生じてしまいますが、それが常態化してしまうと、自己を拒絶する病態となって表現されるかもしれません。

外面に現れている変化は、内面に起きていることの反映であり、病気にならない限り気付くことはないと考えられます。

それが霊的次元に原因がある病気の正体と考えられます。



ところで、溺れている人を助けようとする衝動はどうして起きるのでしょうか?

それは人(魂)に神性が内在しているからです。

しかし、人には(この世だけの)自我もあります。

自我は自分が溺れてしまうと心の中で囁いています。


自我と魂が葛藤する中で生きていますが、自我の存在が大きくなり勝ってしまうと、魂の自由な表現が抑えられてしまいます。


あるがままの自分が表現出来なくなり、行き場を失った想いが鬱積して行きます


話を戻します。

肉体上に現れた病気は、当然のことながら心身の苦痛を伴います。

苦痛は本来、肉体の異変を知らせるものですが、霊的には魂を目覚めさせると言う、深甚な意味があります。

病気により魂は目覚め、それまで前面に出ていた自我は後退します。

自我の足枷が外れて、魂はあるがままの想いを、肉体で表現できるようになります。

そうすると、魂から精神、精神から肉体へのエネルギーの変換が円滑に行われ、3者に調和が生まれて、魂に生命力がふんだんに流れ込むようになり、鬱積した想いは解放されて行きます。

想いが解放されれば、因果律の働きによって、肉体上の病気は消退して行くはずです。



誕生後に生じた霊的次元の原因は、表現されずに鬱積した想いですが、因果律の働きによって肉体上に生じた病気によって解放されて行きます。

あるがままの自分が表現出来るようになり、本当の自分が望んでいる生き方が出来るようになると考えられます。



もし、自己を拒絶する病態が現れている人がいるなら、他者と同じように自分を責めない、他者と同じように自分を大切にする、そんな単純なことで、病気は癒されるかもしれません。

自分を責めることは、他者を責めるのと同じであり、神の摂理に反しているからです。

自分を大切にするのは、他者を大切にするのと同じであり、摂理に適っているからです。



以上のことから、常々思っていることがあります。

健康でいるために大切なこと、それは想いを溜めないこと。

そして、あるがままの自分を認め、表に出してやること。



次に、誕生前に生じていた原因について説明します。

人生は1度だけではありません。

記憶にはありませんが、この世の前にも人生があります。

たとえば、富や名声を得ることが、人生の目的と信じて生きて来た人がいたとします。

その人が死んで向こうの世界に行くと、手に入れたものはことごとく消えてなくなります。

もし、間違ったものを信じて生きて来たために、摂理に反する行いをしたのであれば、苦痛の経験によって、その罪(カルマ)を清算しなければいけません。

そのために、人生のどこかで病気になるシナリオを承知して、この世に生まれて来るかもしれません。

シナリオの通りに病気が生じ、苦痛の経験によって、カルマは清算されて行きます。

苦痛により魂が目覚め、そして生命の危機に晒されたなら、富や名声は大して価値がないことに気付きます。

生きる意味を必死に探している中で、人は自分のためではなく、人のために生きている、そんな大切な真実に辿り着くかもしれません。



そして、成長した魂がより成長するため、価値のある教訓を得るために、苦痛や障害の大きい過酷な病気になるのを承知して生まれて来ることもあると思います。

身動きが出来ないまま一生を終える人がいますが、成長した魂でなければその試練に耐えられず、自己表現が極限まで抑えられた長い年月の中で、価値のある教訓を魂に刻み込んでいると思います。



「何故こんな良い人が」と、多くの人に嘆かれながら、病気になり逝ってしまう人がいます。

そんな人も成長した魂であることが多く、この世で予定されていた役割を果たして、向こうの世界に移行するために、病気になったと思われます。

いづれにしても予め決められていたことであり、誕生前に(病気の)原因が存在していたと言えます。



何のために病気になったのかを自問する時に、魂の存在、そして成長を抜きにして答えは見つかりません。

魂の表現を妨げている、あるいは成長を妨げている原因が存在し、それを取り除くために病気になる人がいます。

償いのため、さらなる成長のため、そして向こうの世界に移行するために、病気になる人もいます。

病気は自然法則の一環であり、私たちを成長させるために存在しています。




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