2019年5月26日日曜日

真理を伝えるために



私が1番リラックスできるのは、音楽を聴いている時です。

最近はエフゲニー・キーシンと言うピアニストの演奏を聴いています。

10歳でデビューし、12歳でモスクワ交響楽団と共演するほどの才能の持ち主であり、20世紀を代表する指揮者であるカラヤンが彼の演奏を聴いて涙を流したそうです。

デビューしてから30数年の年月が流れていますが、演奏は力強さを増しながらも、少年の時の繊細さは失われていないように感じます。

キーシンは6歳で音楽学校入学し、アンナ・パヴロフナ=カントルという祖母と孫ほどの年の差がある女性に師事しましたが、ピアニストとして絶大な評価を得た後も、師弟関係が解消されることはありませんでした。

少年の時と同じように、彼女の忠告や助言に真剣に耳を傾け、練習に励む姿をビデオで観て感じるものがありました。

周囲から神童と言われても驕ることなく、最高の演奏を目指して、ひたむきに努力を重ねて来たようです。

謙虚さ、純粋さを失わないことが、聴く人の心に響く演奏につながっていると思いました。



話は変わりますが、私は13年前に、シルバーバーチの霊訓(霊的真理)に出会いました。

人生の底とも言える状況で、真理は救いとなり、明日を生きる力をもらいました。

真理は眩い光のように輝いて、それまでの価値観は一変し、世界がそれまでと違って見えました。



真理を知った者は、今度は暗闇の中にいる人、苦痛に喘いでいる人、必要としている人に伝えなければなりません。

私は真理に救われて、その価値を認識し、真実であることを確信したので、自然に伝えたくなったように思います。

しかし、伝えた人全てに、真理を受け容れてもらうのは無理です。

魂に準備が整っていない人、必要としていない人に、いくら伝えても受け容れてもらうことは来ません。

苦痛や悲しみの経験を経て、魂に受け容れる時期が出来た人が導かれて来るようです。

導いているのは、霊界の人たちです。

霊界の人たちは、魂に受け容れる時期が来た人と、伝えようとしている人の間に接点を見つけて、結びつけていると思います。

霊界(背後霊)からの思念を受け取った人は、何かに突き動かされるように行動し、伝えようとしている人を見つけて、訪ねて来ます。

訪ねて来る時は、理由も判らず来ることが多いようです。

ふと思い付いて行動しているようで、実は霊界の働きかけによるものであり、計画された通りに実行されていると思います。



霊界からは、地上の人の魂そして想いが視えています。

真理を伝えたいと言う、地上の人の想いを視ていると思います。

また、どれ位理解しているのか、(受け容れて)どれくらい成長したのかも視ていると思います。

救われて、成長して、その恩恵に与った人が、真剣に伝えられるからです。



霊的な成長は、遭遇する困難や障害を乗り越えて行くこと、そして人や動物や社会のために奉仕をすることで得られます。

真理の理解が深まるほど、成長する機会が訪れ、内と外から力が与えられ、目的を成就して行くと考えられます。

けれども、そんな日々ばかりではありません。

何事もなく過ぎて行く日も多いです。

大切なことは、摂理に適った行いを、心がけていることだと思います。

人に優しくしたり、親切にしたり、喜ばれることをすることは、とても大切だと思います。

仕事や家事を精一杯するのも奉仕であり、霊的な成長につながっていると思います。

ボランティアも人や社会のためになっているので、立派な奉仕です。

車に路を譲るのも、お年寄りに席を譲るのも、困っている人に声をかけるのも、ちょっとした奉仕です。

腹が立っても許すのも、自己犠牲を伴うので、形を変えた奉仕なのかもしれません。

たとえ小さな奉仕であっても、それを積み重ねて行くことで、長い年月をかけて、大きな成長につながると思います。

そして、公明正大に生きるのも大切です。


霊界は真理の普及を強く望んでいます。

伝えるためには、地上の媒体(伝道者)が必要です。

地上の媒体の霊的な意識が低くなっていると、霊界の意図(導き)が判らずに、大切な機会を逸してしまいます。

自我が大きいと、真理が媒体により脚色されてしまいます。

ヒーリングの力やメッセージを伝える時に、媒体によって影響を受けますが、真理を伝える時も全く同じだと思います。

霊的真理は、神の法則であり、神の心です。

そのため、神の摂理(心)に合わて生きようとする霊的な意識の高い人、(地上的)自我の少ない人を選んで導いていると思います。




ピアニストが、ただ譜面通りに演奏しても、聴く人の心には響きません。

作曲家の意図を汲み取り、インスピレーション(霊力)を感受して、概念や想いが演奏で表現されると、聴く人の魂に響くと思います。

真理を伝えるのも同じかもしれません。

ただ言葉を伝えるのではなく、神の意図を汲み取り、霊力を感受しながら伝えることで、魂に届くと思います。

神の意図とは、法則の働き(叡智)を知り、痛みではなく悦びの中で生きて、手を取り合って成長することだと思います。



たとえ知識が豊富であったとしても、人の苦しみや痛みが判らない人の元へ導くとは思えません。

それでは霊界と同調出来ないからです。

その人と同じ経験をしなければ、同じ想いを共有するのは難しいかもしれません。

しかし、真理を受け容れたのであれば、苦しみや痛みを感じることは出来るはずです。

感じることが出来れば、自然に慈しみの想いが生まれます。

慈しみの想いによって霊界と同調し、言葉に霊力が宿り、魂に届くと思います。




シルバーバーチはこんなことを言っています。

「真理の啓示を受けた者ー永いあいだ取り囲まれていた暗闇を突き破って目も眩まんばかりの真理の光に照らされて目覚めたはずの人間の中にさえ、往々にして我欲が先行し滅私の観念が忘れられていくものです。まだまだ浄化が必要です。」

耳の痛い話であり、自分の生活に追われると、大切なことが後回しになってしまいます。

真理の輝きが失われてしまわないようにするには、人や社会のために役立つことを優先し、神の心が顕現するように、日頃から心がけなければならないと思います。

知っていることで自己満足してしまい、一番肝心な他者への奉仕を忘れがちになってしまう自分がいることを自覚していたいと思います。

知っていることで人よりも優れていると思うのは傲慢であり、神や霊界が最も嫌うことかもしれません。


続けてシルバーバーチは、「まだまだ精進が足りません。まだまだ霊的再生が必要です。真理普及の仕事を託された者に私が申し上げたいのは、現在の我が身を振り返ってみて、果たして自分は当初のあの純粋無垢の輝きを失いかけていないか。今一度その時の真摯なビジョンにすべてを捧げる決意を新たにする必要はないか。
時の流れとともに煤けてきた豊かな人生観の煤払いをする必要はないか。そう反省してみることです。霊力の地上への一層の顕現の道具として、己の全生活を捧げたいという熱誠にもう一度燃えて頂きたいのです。」と言っています。

霊界は伝えようとする媒体の熱意が頼りであり、その想いが時と共に薄れて行くのを憂いていると思います。

神や霊界が求めているのは、謙虚さや純粋さを失わないことであり、他者への慈しみの想いを持つことだと思います。





2019年5月12日日曜日

信じることが愛すること



連休を利用して福島県南相馬市に車で行きました。

南相馬市は2011年に起きた東日本大震災の被災地ですが、今どうなっているのか自分の目で見ておきたかったのと、もしかしたら何かお役に立てることがないかと思ったからです。

市の南部にある日高地区に宿泊しましたが、そこは福島第一原発から20Km以内で避難地域に指定され、ゴーストタウン化した町として度々報道された場所です。

一昨年の6月に避難がようやく解除されましたが、空き地が目立ち、震災前に1万数千人いた人口は、半分にも満たないと聞きました。

あれから8年余りの歳月が流れ、戻って来た人たちは、何事もなかったかのように生活をしていました。

沿岸部に向かうと広大な空き地のようになっていて、海岸は今も防波堤を建設中でした。



津波で家が流されてしまっても、建て直すことは可能です。

しかし、亡くなった人は2度と戻って来ません。

当たり前の日常だった、大切な人の姿を見たり、声を聴いたり、体に触れることが出来なくなった人たちにとって、震災は一生終わらないと思います。

ついさっきまで元気にしていた人が一瞬で死んでしまう、あまりの理不尽さに言葉を失い、神を呪った人もいたでしょう。



亡くなった人はどうでしょうか?

初めは死んだとは思わなかったでしょう。

しばらくして地上とは違う世界にいることに気付き、茫然としたでしょう。

自分の亡骸にすがり泣き叫ぶ人に、自分の想いが全く伝えられなくなったことに苛立ちを覚えた人もいたと思います。

やり残したこともあったでしょう。



地震は自然現象です。

地球規模の自然法則の働きによって生じます。

自然法則を創ったのは神であり、神が全責任を負って地震が生じているはずです。

従って、地震で亡くなった人に、不公正や不公平が生じるとは考えられません。

向こうの世界に行くのは早まりましたが、埋め合わせの原理が働いて、この世を全うした時と同じような生活が待っていると思います。

もし、そうでなければ亡くなった人は自分の運命を恨み、神を呪うことになりかねません。

しかし、自然災害で亡くなった人で、その様な話を見聞きしたことは1度もありません。

神の摂理(愛)が完璧に働いているからだと思います。



多くの人は、人生はたかだか90年位と思っています。

向こうの世界に行くと意識が大きく拡がります。

地上にいる期間は、永遠に続く生命の営みの中で、わずかだったことに気付きます。

期間は短くなったけれども、全体から見れば大したことではないと思っているでしょう。

当初あった、戸惑いや不満や不安や怒りは、向こうの世界に馴染み、真実を知るにつれて、消えて行ったと思います。

神の法則に則って起きたことに、不運や不幸は存在しません。



唯一の心配は、残して来た人のことです。

「自分はいなくなってなんかいない、生きてそばにいる。」

「離れ離れになって悲しいけれども、元気に生きていて、いづれまた会えるので、早くいつもの自分を取り戻して欲しい。」

あの時の被災地には、そんな想いが充満していたと想像出来ます。

今は、亡くなった人のそんなやり切れない想いは全く感じられず、少し離れたところから、温かく見守っている、そんな印象を受けました。



大切な人を失うと大きな悲しみや苦しみが生じます。

人は愛されなくなるとつらいですが、愛することが出来なくなる方が、もっとつらいのかもしれません。

愛することは、魂に内在された根源的な欲求だからです。

愛されると心地良さを覚えますが、生きている本来の意味は愛することであり、その人の霊的成長に結びついているからです。



それでは、亡くなった人を、もう愛することはできないのでしょうか?

愛することが出来ます。

肉体はなくなっても、魂は存在しているからです。

愛は魂から生まれ、魂が受け取るものだからです。

地上の人の想いは、視えない世界にいる魂に瞬時に届いています。

言葉や行動を介して表現していた時よりも、はるかに鮮明に届いています。



いなくなったと思っている人は、愛することは出来ません。

対象を失っているのですから当然です。

愛する想いは行き場を失って、全て悲しみや苦しみに変わってしまいます。



完全にいなくなったと思っている人は、大切な人の魂(生命)を、自らが亡き者にしています。

目に視えないもの、証明されないものは信じられないと言う、愚かなエゴによって。

そのことを1番嘆き悲しんでいるのは、大切な人だとも知らずに。



愛は証明されているでしょうか?

愛も魂も霊的次元の存在なので、科学的に証明されるはずがありません。

証明されないものが存在しないのであれば、生前、愛し合っていたこと自体も夢幻であり、涙を流がす理由も、どこにも見つけられません。



たとえ、証明されなくても生きています。

想いも伝えられます。

見守っています。



求められているのは、ただ信じることです。

視えなくなっても、変わらずに愛されていると強く信じることです。

愛し、愛されていたことを夢幻としないためにも。



たとえ、信じてもらえなくても、その人は愛し続けるかもしれません。

しかし、信じてもらいたい人に、信じてもらえないのは、最も悲しいことではないでしょうか。



自分の中で存在していない人を、愛することは出来ません。

当然のことながら、向こうにいる人も、愛されることはありません。

その誤った認識を正すために、苦しみが生まれてしまうだけです。

信じることで、地上ではなく、心(魂)の中に、生き返らせましょう。



生きていた時と全く同じです。

お互いを信じることで、初めて愛し合うことが出来ます。

離れ離れになったものを1つにさせる力が愛です。

両者に愛があれば、別れは存在しません。



同じ想いによって同調すれば、次元を超えてつながることが出来ます。

両者がつながれば、想いが伝わって行きます。

伝わって来た想いによって、心の中心(魂)に温かい何かが生じるのを感じられるかもしれません。

生きて行く力が生まれるかもしれません。

自然に涙が出るかもしれません。

言葉やイメージが生まれるかもしれません。

愛する想いを向けることで、こちら側に何らかの変化が起きたならば、それは向こうから返して来た愛の力による結果が生じたと考えて差し支えないのかもしれません。



人の心を窺い知ることは出来ませんが、今も見守ってくれている、そう考える方が心が安らぎ、痛みを感じないで済むので、自然に信じるようになって行く人は多いのかもしれません。

悲しみ、苦しみのどん底まで行って、受け容れる時期が来た人には、神と霊界は霊的真理に辿り着くように取り計らってくれていたはずです。

被災地の中に辿り着いた人はどれ位いたのか、ふと思いました。