2014年11月13日木曜日

人生にはシナリオがある


先日、「アイーダ」というオペラを初めて観ました。

音楽もさることながら、シナリオや舞台も美しく、とても感動しました。

どのような劇でも、拍手とともに幕が降りてしまえば、お終いになります。



しかし人生は、死という幕が降りても、お終いにはなりません。

生命は魂であるため、次の幕がすぐ始まります。

肉体は死んで骨になっても、本当の自分である魂は、何も変わりはありません。



死んだらお終いと、頑なに信じている人が、まだたくさんいます。

そんな人は、死んだ後にも意識は存在し、生き続けているという現実と、固定観念との間に、大きな矛盾が生じるため、混乱状態となってしまうかもしれません。

生きているうちに、真実を知っておかなければいけないと思います。



この世に生まれてきたのは、大切なことを学び、人間を成長させるためです。

人間の本質は魂であるため、魂を成長させるためと言うことになります。

大切なことを学びながら、魂を成長させるために、さまざまな出来事が、人生で展開されていきます。



仕事が休みの日に、障害者施設に行っています。

多くの障害者は、自分の不具を受け入れて、前向きに、精一杯生きていて、私がいつも元気をもらっています。

その中に、様子がどうしても気になるM君がいます。

M君は先天的な病気(奇形)により、重度の身体障害があります。

食事、排泄、着替え、入浴など日常生活のすべてに、介助が必要です。

寝返りも打てず、蚊にさされてかゆくなっても自分で掻くことはできません。

知的障害は全くなく、会話が普通にできます。

しかし、口にするのは、嘆きや、他の人への不満や批判と、無用な心配ばかりであり、いつも険しい顔をしています。

時折、私に「死にたい」ともらしますが、その裏には「こんな身体で、生きていてもしょうがない」という、思いがあると推察されます。

M君の立場になれないので、M君の気持ちは正直、私には分かりません。

想像力を働かせ、M君の置かれている状況に私が置き換わってみると、変わることのない将来への絶望と、強い現状への不満と、不平等に対する恨みを抱いてしまう様な気がします。

自由にどこへでも行き、好きなことができる私には、半畳ほどのベットの上で、身体を曲げたまま身じろぎもせず、1日、いや一生を過ごすことになるであろうM君の気持ちは、分かるはずもありません。

周りにいる人も、本人にしか気持ちは分からないと思うと、かける言葉を失ってしまい、離れていくためなのか、彼はいつも部屋に一人でいます。

そんな、孤独なM君を見ていると、つい色んなことを考えてしまいます。



この世に生きているすべての人に、あらかじめ決められたシナリオ(青写真)があると言われています。

今生で、大切なことを学び、魂を成長させるために、完全なる叡智により創作されたシナリオです。

生まれる(受胎)前の自分は、シナリオの内容を、十分に承知していたはずです。

いざ生まれてしまうと、肉体が前面に出てきてしまうために、魂の奥にしまわれたシナリオのことなど、すっかり忘れてしまいます。

そのシナリオに逆らわずに生きていれば、予定通りに魂は成長していくと考えられます。

しかし、人には自由意志が与えられているために、予定通りに行くとは限りません。



世の中は、さまざまな次元の摂理(法則)が働いています。

ほとんどの人は、科学的に証明されている、万有引力などの物質的な法則の働きは認めています。

しかし、霊的な法則(摂理)が存在するなど、思ってもいません。

そのために、摂理に反した想いを抱き、行いをしてしまうために、因果律が働いて、その償いのために苦痛を伴う出来事が生じてしまいます。

憎しみの想いからは争いが生じ、愛の想いからは平和が生まれます。

何となくそうなっているのではなく、厳然とした霊的な法則(摂理)が存在して、それが働いた結果です。

人生で起きる出来事も、必ず原因は存在しています。

蒔いた種を、後になって自分が刈り取っているだけです。



しかし、出来事を生じさせた原因を、これまで生きている間に、どうしても見つけることができなければ、その原因は過去世にあるのかもしれません。

M君は、生まれた時から障害があるので、原因は過去世にあります。

生まれながらに抱えている心身の障害や病気、そして何の前触れもなく生じた人生を変えるような出来事の中にも、過去世に原因が存在している場合があると考えられます。

出来事を生じさせた過去世の原因は、魂の奥にしまわれていて、現世では分かりません。

変えられない過去は、知らなくても良いのだと思います。



過酷なシナリオの人生に宿るのは、そのシナリオに耐えうるほど向上した魂か、過去世の償いを一刻も早く済ませたいと望む魂の、どちらかだと思います。

もしかしたら、M君は後者かもしれません。

すべての魂は、向上(成長)するように定められ、向上していくことを希求しています。

しかし、過ちを犯したのならば、相応の償いをしない限り、向上は許されません。

そのシナリオは償いであるとともに、大切なことを学び、同じ過ちを2度と犯さないためにあると考えられます。

M君にとって大切なこととは、「一人では生きていけない」と言うことなのかもしれません。

あるいは、「周りに支えられて生きている」と言うことかもしれません。

そんなことなどどうでもいいと、M君に怒られてしまうかもしれませんが、肉体が不自由であればあるほど、長い時間であればあるほど、深く学ぶことができると思われます。



さまざまな形となって、人生で出来事は生じますが、学ぶべき大切なことは「愛」に集約されると、信じています。



知的障害や言語障害により、想いを表現するのが不自由、あるいは全くできない人がいる中で、M君には自分の想いを、言葉で表現する手段が残されています。

しかし、M君から出る言葉は、いつも変わらず、不平不満ばかりです。

何かをしてもらったら、素直に「ありがとう」と言えば、お互いに気持ちが良いし、何か変わってくると思うよと、話したこともあります。

しかし、M君の想いが変わらない限り、表現する言葉が変わるはずもありません。



先日、M君に会いに部屋に行きましたが、姿が見えません。

職員に、どうしたのかと尋ねたところ、肺炎になり大きな病院に入院していると言われました。

呼吸がしにくくなったために、気管切開をして管を入れたそうです。

身体が不自由な上に、気管切開をされたと聞き、M君はどんな想いでいるのだろうかと思いました。

このまま逝ってしまった方が、楽に決まっていますが、償いが残っているのであれば、引き続き生かされることになると思います。

この経験も、M君にとって何か意味があるはずです。

気管切開により失われたものは、M君の言葉です。

不自由な身体であるために、今までいろいろな人に支えられ、たくさんの愛情を受けてきたにもかかわらず、感謝の思いではなく、不平不満の思いを言葉で表現し続けてしまったため、因果律が働いたのではないかと、考えてしまいました。

つらく、過酷な状況に置かれているとしても、1つ1つの想い、1つ1つの言葉、1つ1つの行いのすべてに、神の摂理が働いていて、冷厳に結果をもたらしているのではないかと、考えたりもしました。



自分の想いを表現できる、唯一の手段である言葉を失ったのは、M君とってとてもつらいことだと思います。

そのつらい経験により、何か気付くことがあり、M君の想いや言葉が変わるのかもしれません。

前のままかもしれません。

病気が治り、管が外された後に、どんな言葉を口にするのか。

想いが変わり、「助けてくれて、ありがとう」と、言って欲しいです。






参考ページ: 「人生のシナリオは自分を成長させるためにある」


































2014年11月3日月曜日

生命力が病気を治す


大きな病気になると、ほぼすべての人は医者にかかります。

医者は、患者を診て、病気を診断し、治療をしていきます。

そして軽快すると、医療行為により病気が治ったと考えます。




果たして、医療行為により病気は治ったのでしょうか?

それは、大きな誤りであり、自然治癒力という、本来生命に備わっている力が、病気を治したのです。

ぱっくりと開いた傷口を縫い合わせるのは医療行為ですが、細胞レベルで傷口を閉鎖させているのは自然治癒力です。




では、医療行為は無駄なものかと言うと、そうではありません。

体内での細菌やウィルスの増殖を抑える、抗生物質や抗ウィルス剤は、外敵から人体を守るために、きわめて有効な手段となっています。

また、骨折や裂傷などの外傷は、早期に整復や縫合をすることで、良好な治癒が得られます。

血管からの出血、あるいは詰まってしまう梗塞は、適切な医療が施されないと、生命の危機につながります。

私は歯科医師をしていますが、虫歯の苦痛は生活の質を著しく低下させます。

もし、放置したならば歯は失われ、咀嚼という機能が低下します。

痛みを取り除くため、歯を失わないため、失われた機能を回復するため、回復された機能を生涯にわたって維持していくために、医療行為は必要です。

医療がなければ、多くの人が命を落としたり、生活に支障をきたしたりするのは、目に見えています。

しかし、感染症や外傷などに対して大きな威力を発揮する医療も、ガンや膠原病、糖尿病などの慢性疾患を根本的に治癒させるのは、残念ながら困難です。

現代医学は、目に見える物質次元の原因を除去することを目的としています。

ガンや膠原病など、難治性の疾患の多くは、目に見えない次元、霊的次元に根本原因があると考えられ、現代医学では原因を除去できないために、治療は手術を含め、対症療法となります。




人は、肉体と、精神(心)と、魂(霊)により構成されています。

生きる力である生命力は、魂に流れ込み、想いという力に変わり、精神に投影され、肉体で表現されています。

魂から精神そして肉体へと、力が常に流れています。

魂で生まれた想いという力が、肉体で表現され、外に向かい放散されています。

さまざまな想いが、魂から生まれます。

生命力は神の力であり、愛の力です。

魂に流れてきた生命力は、愛の想いとなり、肉体で表現されるはずなのですが、私たち人間は魂の進化の発展途上にあり、それがなかなかできないと考えられます。

人生で起きるさまざまな出来事により、魂に流れてきた力は、愛の想いではなく、それとは反対の憎しみや恨み、嫉妬などの想いが生じてしまうことがあります。

それらの想いは、神の心である愛と対極にあり、摂理に反する想いです。

摂理に反する憎しみなどの想いを、言動(肉体)で表現してしまう人もいますが、そうすればさらに罪は大きくなってしまいます。

魂は、そのことを知っているので、多くの人は(肉体で)あえて表現しようとしません。

自分を抑えて、我慢します。

ストレスが溜まっていくのは、この状態だと思われます。

表現されない想いが、解放されず、滞り続けてしまうと、次第に魂のありさまを変えていきます。

怒りを感じているのにもかかわらず、それを外に出さないでいれば、イライラとした精神状態になってしまいます。

ささいなことで口論となり、人によっては相手を暴力的に攻撃したりするかもしれません。




生きる目的は、自らの魂を向上させることにあり、愛を表現することで成就します。

しかし、想いが滞っているために、思いもよらず人を傷つけてしまい、罪を作ってしまうならば、とても大きな問題と言えます。

魂は、目に見えるものではありませんので、想いが滞り、好ましくない様相に変わってきても、わかりません。




魂は肉体の上位にあるため、肉体は魂に従います。

従って、魂に何らかの変化があると、それが肉体に反映されることになります。

魂の様相の変化が、肉体上の変化として表われたものが、(霊的次元に原因がある)病気と考えられます。

ガンや膠原病の多くは、これに当たると思われます。

想いは実体がなく、瞬間的に消えてなくなりそうですが、霊的には、実在そのものであり、想いが表現されなければ、消えることなく魂に残っていると考えられます。

想いは、表情や言葉そして行動する力となって、具現化されていきます。

生きることは、表現することと言ってもいいほど、想いを表現することは、生命にとってきわめて重要だと考えられます。

想いは、肉体をも変えてしまう、力を秘めています。

イエス・キリストを崇拝する信者の手のひらから出血する、スティグマ(聖痕)は、その良い例です。

失敗のイメージにとらわれていると、実際に失敗してしまうことがあります。

それと同様に、成功を強くイメージしていると、その通りになるような気がします。

想いが、具現化されているのだと思います。

すべての肉体的表現に対し、想いが常に先行しています。

病気も、肉体的表現の一種です。

想いにより、魂の様相は変化していき、それが肉体的な変化として表現されたのが、病気だと思われます。




摂理に反した想いを抱き続け、表現されず滞ってしまえば、その想いの滞りが、肉体上にガンとして表現されると考えられます。

病気の苦痛は、憎しみ、恨み、嫉妬、貪欲など、摂理に反する想いを抱き続けた、償いとしてあります。

そして、苦痛の経験は、魂を目覚めさせて、愛の想いに変えていきます。




想いが適切に表現されなければ、行き場を失った力は内に向かい、肉体や精神を変化させる力となったり、機能を変化させる力となります。

魂から生じる想いを、納得のいかない、不本意な表現をし続けていると、悔いや自責の念が生じてしまい、肉体上では免疫機能の変化として表れ、膠原病を発症するかもしれません。

そのことに気付き、変えていくために、膠原病になったのかもしれません。

苦痛の経験は、魂を目覚めさせ、ありのままで自分にふさわしい表現をしていくようになります。




魂から生じる想いを、愛の想いに変えていき、自分にふさわしい表現をさせていくのが、病気の本質です。

偶然や、不運ではなく、魂を成長させ、生きる意味を成就させるためにある、神の摂理である「因果律」の結果です。




生命力は細胞内のミトコンドリアが作り出しているわけではありません。

始源である神から、生命である魂に流れ込んでいますが、全く意識されることはありません。

その力は魂で想いとなり、肉体に伝わり表現する力となります。

魂は神の一部であり、神の愛を表現するためにあります。

生命力は、神の心である愛を表現するためにある力ということになります。

その力が、摂理に反した想いになったり、表現になってしまうと、因果律の働きにより、病気や苦難が生じます。

苦痛の経験は、償いであるとともに、神の摂理に気付かせる触媒となっています。




病気になると、肉体上の病変を切除したり、薬で症状を緩和させようとしますが、霊的次元に原因があれば、解消したことにはなりません。

霊的次元に原因があれば、まず想いを変えていかなければいけません。




少しずつ、少しずつ、愛の想いに変えていきましょう。

やさしくする、思いやりを持つ、親切にする、同情する、励ます、慰める、いたわるなどは、愛の想いの表現です。

許すことや、違いを認める寛容の精神も、愛の想いです。

人や動物そして社会が、喜ぶこと、助かることは、愛の表現だと思います。

愛の想いを表現をすると、喜びを感じるのは、摂理に適っているからであり、神からのささやかな褒賞だと思います。

自分にふさわしい形で、その想いを表現していきましょう。

想いを素直に表現できるようになれば、神から生命力はよどみなく流れ、魂から肉体に行き渡ります。

ふんだんに流れ込む生命力により、魂が癒され、そして肉体が癒されていくと思います。




愛を表現すればするほど、神との繋がりは深まり、より多くの生命力が魂に流れ込むと思われます。

そればかりか、愛の表現は他者の魂にも影響を与え、今度は受け取った人や動物そして植物が、愛を表現しようとします。

人は受けた愛を誰かに返して、動物は穏やかに従順になり、花は美しく咲き、実をつけます。

すべての魂はつながっていて、愛の想いは伝搬していくと思われます。

それが連鎖して、拡がっていき、世界が愛で満たされていくことが、神の心だと信じています。




繰り返しますが、神から流れ込む生命力の本質は愛です。

生命は、愛を表現するために存在しています。

人間には自由意志が与えられているため、どんな想いを抱いてもかまわず、それを自由に肉体で表現できます。

それは同時に、自分の想いや表現に責任が問われるということを意味します。




病気を治すのは医者ではありません。

自分の考え方(想い)や生き方(表現)を変えていくことで、病が癒やされると考えています。

なぜならば、魂を向上させる考え方や生き方に変えさせるために、病があると思われるからです。




自らの魂に流れ込む、生命力により病気は治ります。

神の力であり、愛の力だからです。

愛の力により生かされているのだから、素直に、自分にふさわしい愛の表現をしていかなければいけません。



















2014年10月19日日曜日

病気の意味 



夏の暑い季節が過ぎると、さわやかな秋になり、そして寒い冬になりますが、地球温暖化が進んだため、1番好きな創造的な季節である秋が、とても短くなったと実感しています。

西アフリカで猛威を振るう、エボラ出血熱は致死率の高い、恐るべき病です。感染者は増加の一途をたどり、今となっては、拡大を止める手段はないようにも思えます。

もし、最貧国である西アフリカの国々に、欧米や日本などの富める国々が、医療施設、そして知識や技術を提供していたなら、水際で感染拡大は防げたかもしれません。

自己の利益や利便性を追求するあまりに、地球環境への配慮や、人類の同胞意識を忘れてしまった結果を見ているような気がしてなりません。

人、国家、地球、スケールは違いますが、神の摂理である「因果律」はすべてに働き、正確無比に結果をもたらしていると感じます。



忌まわしい病気も、因果律の働きにより生じています。

すべての病気に、何らかの原因があるはずです。

残念なことに、医学の進歩にもかかわらず、原因不明の病気は数多く存在します。



膠原病(自己免疫疾患)は、免疫機能に何らかの異常が生じて、正常組織を攻撃してしまう病気です。

ガンは、遺伝子に変異が生じ、細胞が無秩序な増殖を繰り返していく病気です。

どちらも、多くの人を苦しめている難病であり、未だ原因不明は明らかにされておらず、治療は対症療法となります。

従来の科学的手法では見つけ出せない、未知の領域に原因が存在していると考えています。



人は心身の調和が損なわれると、病気になります。

心身の調和を損なわせる、大きな要因としてストレスがあります。

ストレスは、仕事や、日々の出来事、人間関係などから生じる、心の重圧であり、負担であり、軋轢です。

ストレスを感じると、人は発散しようとします。

うまく発散できないと、ストレスが溜まり病気になることもあります。

ストレスが溜まると発散しようとしますが、発散させているのはストレスによって生じた「想い」であると考えられます。

想いが発散されることなく溜まっていくと、病気になると思われます。

その想いとは、怒りであり、悲しみであり、言葉では言い表せないものもあります。

怒りが高じて、憎しみや恨みの想いに変化してしまうと、発散するのは難しくなるのかもしれません。



肉体は魂の表現媒体です。

魂から生まれる想い(思念)が、肉体により具現化されます。

怒りの想いが生まれれば、顔は紅潮し、心臓の鼓動は高ぶり、大声を出したりして、怒りの想いをぶつけることもあります。

悲しみの想いが生まれれば、目から涙が流れ、嗚咽の声を出すこともあるでしょう。

唄うのも、楽器を演奏するのも、絵を描くのも、自らの想いの表現に他ならないと思います。

もし、肉体が魂を表現する媒体であるならば、魂のありさまの変化が、肉体が変化する病気として表現されていると、考えてもおかしくはありません。

肉体上の病気のありさま(病態)から、魂のありさまをうかがい知ることができると思われます。



膠原病は、自分を守る機能が、自分を攻撃している病気と考えられます。

言い換えると、肉体を守る機能が、肉体を攻撃しています。

肉体が魂の表現媒体であると考えると、魂(心)を守るものが、魂(心)を攻撃していることになります。

「魂(心)を攻撃している」とは、何を指すのでしょうか?

それは、自分で自分を責めたり、傷つけてしまったりすることと思われます。

強い後悔の念もそうでしょうし、好ましくない感情を抱いたことに対して強い自責の念を持つこともそうだと思われます。

何かにつけ、自分を責めてしまうのを、やめなければいけません。

高い目標を掲げて、それが達成できないと、過度に自分を責めてしまうような人が、この病にかかりやすいのではないかと思います。

こうしなければいけない、そうすべきだ、そうした方がもっと良いなど、自分により高いもの、完璧さを求めている人ではないかと思います。

慢性関節リウマチの知人は、とても活力に溢れているにもかかわらず、それを活かせていない生活を強いられて、大きな不満を抱いていたように、私には見えました。

他の膠原病の人は、どうなのでしょうか?知りたいところです。

肉体を通して表現できなかった想いが、自分の肉体を攻撃してしまうという、誤った表現がされてしまった結果なのかもしれません。

想いを適切な方法で表現できないと、肉体上に誤った形で表現されてしまうのだと思います。



ガンは、変異した自分(細胞)が、増殖していく病気だと考えられます。

表現されない変異した想いが、際限なく増殖していく様が、肉体上に表現されているのだと思います。

変異した想いとは、摂理(愛)に反する想いであり、怒り、憎しみ、恨み、妬み、貪欲などです。

摂理に反した想いが蓄積して、魂のありさまを変えてしまい、さらに摂理に反した想いを抱いてしまうという悪循環が生まれていると思われます。

摂理に反した想いが際限なく増殖して、自分では歯止めが効かなくなってしまっている状態と考えられます。



つまり、医学的に難病と言われる原因不明の病の多くは、魂から生まれる想いを適切に表現できていなかったり、摂理(愛)に反した想いが魂に滞ってしまっていることが、根本原因と考えられます。

自分の想い(思念)にも、そして表現(行動)にも、因果律が働いていて、摂理に反しているならば、その償いをしなければいけません。



膠原病に対しては、自分を責めずに、想いを適切に表現する、自分にふさわしい表現をすることが、大切だと思われます。

自分を活かせていると、心から思える環境に、身を置く必要があると考えられます。

ガンに対しては、本体は(摂理に反した)想いであるため、感情に敏感に反応して、肉体上のガンに反映されてしまうため、平穏な心を保つことが何より大切だと思われます。

しかし、ガンで多くの人が亡くなっている現実を前にすると、死の恐怖や不安に襲われて、平穏な心を保つのは、決して容易ではありません。

また、日々の出来事で、ちょっとした感情の起伏がすぐ生まれ、心は波立ってしまいます。

ガンを勢いづかせる想いを封じ込めるのは、愛の想いしかありません。



ガンと闘うことは、自らを傷つけることであり、愛の想いに反していると思います。

ガンと闘おうとすると、因果律が働き、ガンも闘おうとするのかもしれません。

自らのからだを傷つけてしまう方法の中には、正解はないような気がします。

病気と闘うのではなく、病気になった意味を知り、考え方や生き方を変えていくのが、正解だと信じています。

ガンのような生命を脅かすような病気が存在するのは、最も大切なのは「生命」そして「愛」であることに気付くためと信じています。



「愛」とは、人を愛することだけではありません。

感謝も、ささやかな愛の表現だと思います。

相手の欠点を認め、言動を許すことも、愛の表現だと思います。

もちろん、人や動物にやさしくしたり、思いやりを持ったり、親切にしたり、社会に奉仕をするのも、愛の表現に他なりません。

素直に、愛の表現ができるように、魂のありさまを変えていくものとして、神は病気を用意したのだと思います。

病気を克服した人たちの中には、生き方や考え方が大きく変わった人が少なくありません。

魂のありさまが、病気を克服していく中で、本来の姿を取り戻したのだと思います。

魂が癒されて、肉体が癒されたのだと思います。



「生命」とは、活動するものであり、変化するものであり、常に何かを表現しているものです。

生命の正体は魂であり、肉体は魂を表現する媒体に過ぎません。

人(魂)は神により創造された、神の一部です。

神の心は愛です。

よって、神の一部である人は、神の心を表現しようとします。

本来、この世の人は、肉体で愛を表現するために、生きていると言うことになります。

人は魂を向上(成長)させるために生きていて、愛を表現することで成就されます。

魂を、さらに向上させるために、より高い、より強い愛を表現しようとすると思われます。



肉体的に病気をとらえると、苦痛や障害を伴い、時に命(肉体)を奪うものであり、恐怖や不安をもたらす、不幸以外の何者でもありません。

霊的に病気をとらえると、苦痛により肉体に埋もれて眠っていた魂を覚醒させ、滞っていた(摂理に反した)想いを、解放させるものです。

愛の大切さに目覚めさせて、想いを変えていくものです。

その人にとって、ふさわしい愛の表現ができるように、導くものです。

魂が本来の姿を取り戻して、愛を素直に表現できるようになり、この世を生きている意味が成就されていきます。



病気が生じるのは、偶然ではありません。

神の意図があり、その人にふさわしい愛の表現を、素直にさせるためにあると思います。

従って、ふさわしい愛の表現を、素直にしていけるようになれば、病気の役割は終わると考えられます。



自分にふさわしい愛の表現とは何かを、考えてみてはどうでしょうか。

それは、生きる目的を考えることでもあり、病気を癒やすことにも、きっとつながると思います。





参考ページ: 「霊的な病気の意味」



2014年10月13日月曜日

愛する人を亡くした人へ




もう、どれ位の涙を流したのでしょうか。

いくら涙を流しても、悲しみから解放されるはずもなく、現実は少しも変わることはありません。

ありふれた笑顔、何気ない会話、いつもの仕草、どれ1つとして忘れられるものではないと思います。

愛する人の存在の大きさに、圧倒されるばかりで、代わるものは、この世のどこにもないのかもしれません。



この世に生きている限り、別れは付き物です。

はっきりしていることは、愛する人が自分より早く死んだということです。

「何で自分より早く死んだんだ」と、思うかもしれませんが、あなたが代わりに早く死んだのであれば、愛する人がこの世で、今のあなたと同じように、悲しんでいたでしょう。

何かの理由があって、あなたがその役を引き受けたのです。



底がないと思われるほどの深い悲しみであれば、それだけ愛する想いも深かったということです。

この世で、それほどまでに、愛するものに出会えたのは、とても幸せなことなのですが、そんなのは慰めにもならないでしょう。

本当に大切なもの、かけがえのないものは、ありふれた存在となってしまうために、悲しいことに失って初めて気付くことが多いと思われます。



愛する人は、すでにこの世にいませんが、次の世界で間違いなく、生きています。

それは、また逢うことが出来るということを、意味します。



肉体を失っても、魂として生き続けています。

これは宗教でも何でも無く、自然現象です。

発想の転換が必要です。

生命の本質、本当の自分は、肉体ではなく魂です。

今の深い悲しみも、魂から生み出されます。

悲しみの想いも、目に見えないように、魂も目に見えるものではありません。

悲しみが確かに存在するように、魂も確かに存在しています。

たとえ、魂が存在したとしても、愛する人の肉体はすでに骨になり、この目で愛する人の姿を見たり、声を耳で聞いたり、手で触れられるわけではありません。

それは、悲しい現実です。

しかし、愛する者同士の魂と魂はつながっているため、双方の想いは伝えられるはずです。

厄介なのは、この世の人には肉体があるために、愛する人の想いが伝わりにくくなってしまっていることです。

この世に残してきた愛する人へ、想いを伝えようと、必死で頑張っているのに、どうしてもうまく伝えることができない、そのもどかしさは、想像を絶するものと思います。

海の中にいる人に、海上の人がいくら大声で叫んでみても、水に阻まれて伝わらないのと、似ているのかもしれません。

ただ、海の中にいる、この世の私達が、海上に出られる時があります。

眠っている時です。

眠っている時に、本当の自分である魂は、からだから離れて、愛する人と同じ世界に行っています。

いわゆる、体外離脱と言われる現象です。

眠っている時に、愛する人と、実際に逢っています。

夢に出てきたという話は、良く耳にしますが、そのほとんどが、愛する人がいる世界で、実際に逢っていると思われます。

お互いの想いを伝え合っているはずです。

そのことを、もっとはっきりと覚えていれば、違う世界で生きていると確証が持てるのにと、考えてしまいます。

愛する人がいる世界は、想いの世界であり、言葉は必要としない世界です。

あなたに伝えたのは、言葉ではなく、あなたへの想いです。

従って、朝起きた時に、言葉を思い出そうとしても無理かもしれません。

この世を生きている人は、頭で考えてしまっていることが多いので、魂に伝わった愛する人の想いを、言葉で思い出そうとするために、無理が生じているのだと思います。

けれども、交わし合った想いは、微かかもしれませんが、残っているはずです。



眠っている間に逢って、想いを確認し合っているはずですが、朝になって目が醒めると、愛する人の姿は目に映らなくなります。

姿が見えないという現実が襲い、すぐに悲しみに包まれてしまいます。

愛する人は、その様子を見ていて、「今まで逢っていたのに、なぜすぐ忘れてしまうの」と、あきれているかもしれません。



愛する人と夢で逢ったのは、紛れも無い事実であり、逢いたいと思う願望が作り出す、幻影ではありません。

愛する人は生きていて、次の世界に移り、元気にしているのです。

そのことを、あなたにどうしても、どうしても伝えたいのです。

なぜなら、悲しんで、涙を流している姿を見るのが、あなたを愛しているので、とてもつらいのです。

生きているという真実を、しっかりと伝えたいのです。



もし仮に、あなたがちゃんと生きているのにもかかわらず、いなくなってしまったと勘違いをして、愛する人達がとても悲しんでいるとしたら、どう思うでしょう。

きっと 「元気でいるから、心配しないで」と、伝えたくなるのではないでしょうか。

向こうに行った愛する人も、それと全く同じ想いです。

元気に暮らしています。

そして、見守っています。

迷った時、悩んだ時、困った時には、向こうから想いを伝えて、導いてくれるはずです。

心を穏やかにして、つながっているという確信を持っていれば、愛する人の想いは、魂に伝わってくると思います。



愛する人が生きていることは、時が来ればはっきりするのですが、なるべく早いうちに、その事実を知っておいた方が、お互いに安心し、悲しみも少なくて済みます。

この世からいなくなってしまったこと、次の世界で生きていることは、ともに現実です。

愛する人のために、どうぞ現実を受け入れて下さい。



もう1つ、はっきりしていることは、あなたもいつか死ぬということです。

その時には、今か今かと待っていた愛する人が、両手を広げて、満面の笑顔で迎えてくれるでしょう。

今の悲しみからは、信じられないほどの喜びに満たされるでしょう。

その歓喜の時が来るまで、衝動を抑えて、生き抜いて下さい。



神は愛です。

神が愛ならば、なぜ、最愛の人と、死によって離れ離れにさせて、ここまで悲しみを与えるのかと思ってしまいます。

もし、愛する人が今も生きているとしたら、ここまで愛していたこと、愛されていたことに、気付いたでしょうか?

愛すること、愛されること以上に、大切なことは、この世にあるのでしょうか?

深い悲しみには、魂を目覚めさせ、愛より大切なものはないことに気付かせるという、深甚な意味があります。

それが、神の摂理であり、神の心だと考えられます。



最も大切なのは愛だと気付き、この先の人生で表現していけたなら、愛する人の死はとても大きな意味を持ちます。

それは、愛する人が最も喜ぶことでもあると思います。





参考ページ: 「亡くなった愛する人とつながる」

       「心に響いた詩」

                          「信じることで愛することができる」



参考HP:「最愛の我が子やご家族をまた愛する人を亡くした人へ~死の真実を求めて~」一人息子さんを亡くされたお母さんのHPです







2014年10月11日土曜日

日々の仕事を精一杯する

人は、なぜ生きているのか?

何となく生きているのではなく、明確な目的があります。

それは、「魂を成長させるため」です。

魂を成長させるために、どうすればいいのか?



この世の欲に流されずに生きる。

人や社会のために奉仕する。

訪れる大小の困難や障害を乗り越える。


シルバーバーチの霊訓にも繰り返し書かれていますが、この3つを、忘れずに生きていけば、魂は成長していき、生きがいのある人生が送れます。


口で言うのは簡単ですが、その1つ1つに、痛みや、苦しみ、葛藤などが伴い、不断の努力を強いられます。

人それぞれ、この世で果たすべきこと、学ぶことは違います。

この世で果たすべきことを果たすため、そして大切なことを学ぶために、その人にとって、最適な時に、最適な形で、人生の出来事が、因果律によりもたらされると、信じています。

その出来事は、時に、困難、挫折、障害、病気と言った、不幸と言われるような形を取り、魂にまで響いて呼び醒まします。

しかし、その苦難の経験があって、真の喜び、真の自由、真の愛、そして生きる目的を知ることができたとしたら、決して不幸な出来事ではないはずです。


世の中には、自らの障害を克服しながら、懸命に生きている人がいます。

休みの日に行っている、障害者施設に、私より少し年上の男性の職員さんがいます。

その方は、極度の弱視で、目の数センチ前まで近づけなければ、文字を読むことはできません。

書類に目を通すのも、顔に触れるほど近づけて1文字1文字を追いかけるようにして、見ています。

目が不自由なため、声や音などの聴覚と、長年の経験を頼りに、状況を把握して、とても器用に仕事をされています。

その方が障害者であるのは、誰の目にもはっきりしています。

何をするにも、障害が立ちはだかりますが、健常者の職員さんに比べて、仕事の質や量に遜色があるかと言えば、違います。

むしろ、他の職員さんよりも、活き活きと、てきぱきと介護の仕事をされているように見えます。

何よりも、うれしくなるのは、施設にいる障害者の人たちに、とてもやさしく接しているからです。

障害者の大変さを、誰よりも理解されているように感じます。

時々、叱るときもありますが、言葉の端々に、愛情がこもっています。

オカリナを独学でマスターし、皆さんの前で吹いて、楽しませています。

十八番(おはこ)は、テレビの水戸黄門のテーマ曲で、その音色に、何とも言えないあたたかさや、やさしさを感じます。

やさしい言葉、あたたかな表情、そしてオカリナの音色にも、魂の様子が表れていると思います。

その職員さんは、自分の障害を乗り越えながら、障害者の介護という大変な仕事を、数十年に渡って、愛情を込めてしてきているため、魂が格段に成長されていると思います。

笑顔を絶やさず、障害のある人を介護されている姿を見ていると、「与えられた仕事を一生懸命することが、魂の大きな成長につながる」と、思えてなりません。


私もそうですが、大部分の人は、仕事をしなければ、食べていけません。

報酬(お金)を得るために、仕事をしています。

生きていくために、働くのは大原則です。

この世では、魂の道具である肉体を、養っていくためには、お金を手に入れなければならず、人や社会のために働く仕事をしなければ手に入りません。

仕事は多種多様ですが、どれも人や社会のための労働であり、奉仕です。

よって、この世では、肉体があるがゆえに、何らかの奉仕をしないと、生きていけません。

進化(霊性)の最も低い段階にあると言われる地上では、神の摂理として仕事が生まれて、生涯に渡って奉仕をせざるを得ないのかもしれません。

しかし、人は働くことに、生きがいや喜びを感じるのも事実です。

仕事を通して、誰かのために役に立つのは、神の摂理に一致し、魂の成長につながっているために、喜びや生きがいをを感じるのだと思います。

死んだ後に行く霊界は、肉体がすでにないため、食べるために仕事をする必要はなく、お互いがお互いのために働く、純粋な奉仕の世界です。

この世の仕事は、霊界に順応するための予行練習であり、奉仕の精神に目覚めるためにあるのかもしれません。

食べていくため、生活していくために働いているのは間違いありませんが、実像は、人や社会のために、何らかの形で奉仕し、自分(魂)を成長させているのであり、同時に、全体のために寄与して、進化につながっているのだと思います。


生活をするためだけに、日々の仕事があると考えると、とても虚しくなります。

肉体が死んだ後の世界でも、次の世界で、人(魂)と人(魂)の係わり合いは続きます。

人のために自分を役に立てる機会が与えられ、それにより魂が成長していくさまが、はっきりと分かるのが霊界だと思います。

奉仕は、愛の表現に他ならず、神の摂理に一致しているために、魂は大きな喜びを感じます。

この世は、肉体を持つがゆえに、奉仕だけの生活はままなりません。

生きていくため仕事をして、金銭的報酬を受け取りますが、同時に、人や社会への奉仕活動として、目に見えない霊的報酬も受け取っていると思われます。

毎日、会社のため、家族のため、自分の欲求を抑え、汗をかきながら一生懸命働いている人は、正道を歩んでいると思います。

家庭での、家事あるいは介護は、金銭的な報酬がないばかりか、休みの日もありません。

人知れず、繰り返される、その行為の1つ1つは奉仕活動であり、霊的報酬を受け取り、魂を着実に成長させていると思います。


自分に与えられた仕事を、精一杯やり遂げるのは、この世で魂を成長させるための、大切な手段になっていると思います。

仕事をやり遂げた時には、満足感があり、途中で投げ出すと、とても嫌な気持ちになるのは、魂の成長にかかわっているからではないでしょうか。

肉体を超えた存在である魂が、働く喜びを感じているのだと思います。


霊的真理を伝えるのは、最も大切なことであり、すべてに優先されなければいけないと思っています。

知識には責任が伴い、義務が生まれます。

恐いほどの、重責を感じます。

必要としている人、受け入れる時期が来た人に、霊的真理を確実に手渡したいと、常に願っています。

しかし、日々の修養を怠ると、霊的真理の崇高さや、使命の重大さを忘れてしまいがちになります。

1番の大敵は、謙虚さを失い、傲慢になってしまうことです。

常に、気を付けなければいけません。


私にとって仕事は、代えがたい日々の修養になっていると思います。

仕事を円滑にするためには、感情を抑えて、寛容にならなければ務まらないからです。

謙虚さを失えば、仕事の上達が止まるからです。

困難や障害は付きものであり、それ乗り越えなければ、完成されないからです。


日々の仕事を、精一杯して、喜ばれるのが、人生の貴重な喜びとなっています。

そして、少しずつですが、魂の成長につながっていると考えています。



















2014年10月5日日曜日

苦しみの原因はどこにあるのか



いろいろなメディアで、「前世」という言葉を目にします。

前世を透視するという人も、多く目にします。

その可能性を全面的に否定するわけではありませんが、得られた情報の信憑性を疑わざるを得ません。

知りたがる人の中には、前(過去)世が歴史上有名な人物であることを、ひそかに望んでいるのかもしれません。

もし、私が前(過去)世がシーザーや、織田信長と言われたとしても、少しもうれしくはありません。

富と権力には恵まれましたが、多くの人を殺し、傷つけてしまった罪は限りなく大きく、繰り返し来世でその償いをしなければならないと考えられるからです。

インドのガンジーだと言われたら、うれしくなりますが、使命を持ってインドの地に生まれた人であり、すでに地上で学ぶことはないため、この世に生まれてこないと思います。

前世を知ることが許されるのは、魂を向上させる上で、有益と判断された場合に限られていて、興味本位で知ろうとするのは良くないと思われます。


ところで、ガンジーが生まれたインドでは、多くの人はヒンドゥー教を信じていて、厳格な身分制度であるカーストが存在します。

最上層はバラモン(ブラフミン)であり、司祭階級に就きます。最下層はシュードラと呼ばれ、バラモンの影さえ触れることはできないと言われています。

前世と業(カルマ)により階級が決まり、その環境(家庭)に生まれるとされています。

そして、カーストにも入れてもらえない、最々下層にアチュートと呼ばれる人たちがいて、常識では考えられない差別を受けています。

少し前に、いわれない理由で集団暴行を受けて女子学生が死んでしまったという、悲惨なニュースがありましたが、被害者はこのアチュートだと思われます。

暴行をした人たちは、自分たちよりも低い身分にある女子学生には、前世に業があり、暴行受けるのもやむをえないと、思い込んでいたと思われます。

アチュートの中にも、虐げられ、仕打ちを受けるのは、自らの業のせいであり、現世はつらくても、来世では良い人生が待っていると信じている人も多いと思われます。

いかに理由を付けようとも、自分の欲望を満足させるために、人に恐怖や苦痛を与えて、殺してしまったという行為は、神の摂理に反していて、大きな罪(業)であるのは間違いありません。

苦しみの中には、前世での過ちが原因となっている可能性はありますが、この事件のように、新たな罪を作ってしまうような形で、因果律が働く(事件が起きた)とは思えません。

もし仮に、霊的に高い人が上の階級に生まれ、低い人が低い階級に生まれるのであれば、インドが世界で最も貧富の差がある国であるはずはなく、この様な卑劣な犯罪が多発する社会であるはずもありません。

弱者をいたわり、富が分配され、差別が起こりにくい社会が構築されるはずだからです。

現実との間に、大きな矛盾があるように見えます。

前世は、都合の良い「物語」となり、弊害をもたらしているのかもしれません。


今の苦しみがとても大きければ、「何でこんな思いをしなければいけないのか」と思ってしまいます。

「私は今まで生きてきて、そんな悪いことはしていない」と思えば、前世の業が原因ではないかと考えてしまったり、不公平さを感じてしまい、神を恨んだりするかもしれません。


私も、過ちを犯したため、かつてない苦難が訪れ、その償いとして苦しみを味わいました。

始まりでは、「何で自分が、悪いことは何もしていないのに」と、思いました。

苦しみが増してくる中では、早く抜け出したい、楽になりたいと思うばかりでした。

そして頂点に達すると、霊的真理を受け入れて、すべての原因は私にあり、その結果として今の現状があり、この苦しみは自分が犯した過ちの償いと思うようになりました。

神の摂理である「因果律」を、身を持って知りました。

この経験が、苦しむ人に、少しでも役に立てばと思います。



その当時、私はその過ちを、それほど悪いことではないと、思い込んでいました。

1つ1つの過ちは、たとえ小さくても、それが積み重なっていくと、大きな過ちとなっていきます。



最初は良心が咎めましたが、習慣になると罪の意識が薄れていきました。

過ちを犯す前に、魂に内在する良心は、正しい方向を指し示します。

それを無視して摂理に反した行いを積み重ねていくと、良心の声は、次第に心に届かなくなっていきます。

自分(魂)が、変わってしまったためだと思われます。



他の人も同じようにやっていると、言い訳をしていました。

他の人が同じようにやっているか、いないかに関係なく、行いが過ちであれば、その罪を自分が償わなければいけません。

同じようにやっていると思うこと自体が、傲慢で身勝手な考えであり、過ちだと思います。



今、考えてみると、見守ってくれている守護霊からも、「こんなことをしていいのか」という、勧告があったと思います。

人生の局面で、ふと頭をよぎったり、咎めたりする、「内からの声」を無視してはいけないと思います。



人が経験する苦しみは、さまざまです。

苦しむということは、何か学ぶことがあるということです。

もし、学ぶことがないほど魂が向上していれば、苦しむこともないはずです。

自分の過ちに気付き、大切なことを学ぶために、因果律の働きにより、苦難が生じると思います。

苦難には、痛みや苦しみはつきものであり、そのつらい経験により、それまで眠っていた魂は呼び醒まされ、過ちに気付き、大切なことを学んでいきます。


苦難の原因はどこにも見当たらず、「何も悪いことをしていないのに」と思うと、苦しみはさらに大きくなります。

自分では悪いと思っていないことでも、神の摂理に反していることがあります。

犯罪と呼ばれるような大きな過ちではなくても、もしかしたら、私と同じように、「小さな過ち」が積み重なっているかもしれません。

当たり前になっている、考え方、生き方のどこかに、過ちがあるのかもしれません。

身勝手な理由を付けて「小さな過ち」が始まり、今も続けてしまっているのかもしれません。


小さな過ちとは、どんなことでしょう?

例えば、悪口を言ったり、嘘をついたり、意地悪をするのはどうなのでしょうか?

法律で罰せられることはありません。

人に迷惑をかけたり、傷つけるほどのものでもありません。

日々の生活の中にあり、大したことではないと思ってしまいます。

しかし、その行動を起こさせるのは、怒りや恨みや憎しみ、虚栄心や妬みや貪欲な想いであったりします。

そして、その想いの1つ1つに、神の摂理が働きます。

ささいな行為であり、誰にも気付かれず、迷惑をかけていなくても、魂は神の一部であり、つながっているため、その動機(想い)は知られています。

その行為が、怒りや恨みや憎しみ、虚栄心や妬みや貪欲な想いからのものであれば、摂理に反しているので、結果として、相応の苦しみがもたらされます。


悪口が言いたくなった時に、悪口を言っている人たちの輪に入れば、つい言ってしまいます。

良心に従い、決して言わない人もいるでしょう。

全員が言っていれば、罪の意識を持たずに済みます。

想い(魂)は表情に表現されます。

悪口を言っている時の表情は、怒り、軽蔑、妬み、優越などの想いが表現されているので、決して美しいものではありません。

1つ1つは過ちは小さくても、習慣となり、長い年月、続けていれば、徐々に大きな罪となっていきます。

1つ1つの想いは小さくても、習慣となり、長い年月、抱き続けていれば、徐々に魂のありさまを変えていきます。

悪口を言ったり、嘘をついたり、意地悪をするのが習慣になっている人は、魂のありさまが変わってしまい、普段でもその想い(魂)が言動や表情に出ていると、感じます。

想いは目に見えず、人にも知れません。

どんな想いを抱いても自由ですが、霊的には実在であり、肉体に具現化していくので、常に注意を払わなければいけません。


苦難(苦しみ)の原因は、人により違います。

人に指摘されることもなく、当たり前となっている習慣(行い)や考え方(想い)の中に、過ちがあるのかもしれません。

ちりも積もれば、山となります。

良心の呵責も感じなくなるほど、習慣になってしまえば、それに気付いて改めていくのは、きわめて難しくなります。

行き着くところまで行くと、因果律の働きにより、苦難が生じることになります。

苦しみは、神の摂理に反した想いや行いの償いであるとともに、過ちに気付かせる触媒となります。

そして、摂理に反した習慣や考え方を、改めていくことになります。


苦しみの中で、過ちに気付き、さらに真実を見いだせたのなら、その苦しみは、魂にとって、大きな意味があったことになります。

過ちを正すため、真実を見出すために、神の摂理として、苦しみがあるのであれば、過ちを正し、真実を見出したのであれば、苦しみからも解放されるはずです。

苦しみが、神の摂理として、罪の償いであるならば、もがき苦しむほどの苦しみであっても、償えば、解放されるはずです。

いわれのない苦しみはありません。

終わりのない苦しみもありません。

今は暗闇の中にいて、さまよっているように思えても、魂は正しい方向に導かれ、解放される時がくるのは、間違いありません。


後ろを向けば、後悔の想いにとらわれてしまい、苦しみます。

後ろを向くと苦しむのは、閉じられていてるので向くなということなのかもしれません。

前を向いている時は、後ろを向かずにすみます。

つらくても、少しずつ、少しずつ、前を向くようにしましょう。







2014年9月28日日曜日

病気になった理由

健康でいる人と、病気になりつらい思いをしている人に、何か違いがあったのでしょうか?

外から見る限り、大きな違いはなかったように思われます。

「どうして私がこんな病気になったの」と思ってしまうのも当然です。

苦痛が強ければ、「何で私がこんなに苦しまなければいけないの」と、誰かに怒りをぶつけたくなるのも仕方ありません。


すべての病気に原因があることは、確かです。

現代(西洋)医学では、物質(肉体)を対象としているため、遺伝子を含め、からだの隅々まで検査をしていくことになります。

感染症は、細菌やウィルスの感染により起こります。

原因は物質次元にあり、検出できます。

免疫機能の働きと、薬の効果により、体内から原因である細菌やウィルスがいなくなれば、病気は治ります。

胃潰瘍になると、一昔前は手術をしていたようですが、今ではストレスが大きな原因となっているのは、周知の事実です。

最近の研究では、腰痛も怒りの感情が関与していると言われています。

日々の出来事がストレスとなり、目に見えない「心」に影響を与えているのは明白です。

心とからだは、切っても切り離せない関係にあります。

目に見えない「心」が原因となり、生じている病気は多いのではないでしょうか。


誤解を恐れずに言えば、日々の出来事により生まれた感情(想い)が、肉体で表現されずに滞っていくと、病気になると思います。

心は、さまざまな感情を生み出します。

忌 (いむ) ・忍 (しのぶ) ・怒 (いかる) ・恐 (おそれる) ・恥 (はじらう) ・恋 (こい) ・悲 (かなしい) ・愁 (うれえる) ・慕 (したう) ・憂 (うれえる) ・怪 (あやしむ) ・怖 (こわい) ・悔 (くやむ) ・恨 (うらむ) ・惜 (おしむ) ・悼 (いたむ) ・愉 (たのしむ) ・憎 (にくむ) ・憤 (いきどおる) ・懐 (なつかしむ)等、
調べてみると、日本には実に多くの感情の表現があります。

これらの感情は、便宜的に名前を付けているだけであり、国や文化によっても表現は変わってきます。


愉(楽)しむ感情がいくらあっても、病気になることはありません。

喜びすぎて病気になってしまったと言う人を、聞いたことはありません。

しかし、怒りの感情が生まれると、からだに大きな影響を及ぼします。

交感神経が興奮し、アドレナリンが分泌され、血圧が上昇します。

一過性の怒りであれば、すぐ回復しますが、怒りが大きく、感情が蓄積していくと、交感神経の興奮が持続したままとなり、からだ全体に悪影響を及ぼし、長引けば病気になってしまうかもしれません。


では、心はどこに存在するのでしょう?

科学(大脳生理学)では、脳から生じると結論付けたいところですが、それは無理なようです。

いくら研究を積み重ねても、心についての解明は進んでいません。

心は、大脳辺縁系での神経伝達物質により、生じるものではありません。


心は魂から生まれます。


人間は、目に映る肉体だけの存在ではなく、肉体を超えた魂が存在し、肉体と精神を支配しています。

(大)脳は、魂から生まれる心を認識し、肉体で表現する司令塔の役目を果たしています。

目に見えない心は、目に見える脳から生まれると考えるよりも、目に見えない魂から生まれると考えた方が、より自然です。

それでも、科学者が「魂」の存在を否定するのであれば、未だ証明されていない「心」の存在も否定しなければいけません。


魂(霊)の存在を認めれば、現代の自然科学が根底から覆えってしまう怖れがあります。

医学においても、病気の概念は変わり、既存の治療法の多くが、過去のものとして姿を消すことになるかもしれません。

証明できないという理由で、魂(霊)の存在を否定してしまうのではなく、偏見を捨てて、未知のものとして解明していく姿勢が科(医)学にあれば、人類のためになる、すばらしい発見が待っていると思います。


なぜ、病気になるのか。

その前に、人はなぜ、この世を生きているのかを知っておく必要があります。


死んでしまえばお終いと考えれば、生きる意味は極めて乏しくなります。

病気は不幸以外の何者でもありません。

生命は、そんな底の浅いものではありません。

深遠であり、神聖なものだと思います。


生命とは魂です。

従って、肉体がなくなっても生き続けます。

これは、動かし難い事実であり、厳粛に受け止めて生きていかなければいけません。


人は、なぜ生きるのか?

この世を生きているのは、生命そのものであり、真の自分である魂を成長(向上)させるためです。

なぜ、魂を成長させなければいけないのか?

生命とは活動し、変化するものです。

意識されませんが、生命である魂は、神からの力(生命力)を受け取っています。

魂は神の一部として、神の心である「愛」を表現するために、力を受け取っています。

神の心に近い「愛」を表現するためには、魂を向上させなければいけません。

それが、自我に目覚めた生命の宿命と考えられます。


向上させるためには、できる範囲で、周囲に愛を表現していかなければいけません。

人や社会のために汗をかき、喜んでもらうことであり、

倒れて助けを求めている人に、手を差し伸べて、立ち上がらせることであり、

傷ついた人を、いたわり、慰め、励ますことであり、

人や動物にやさしくすることであり、

人を許したり、出来事に耐えることです。

生きていると、いくらでもその機会が訪れます。

その1つ1つが、魂を向上させる、またとない機会となります。


そして、人生で訪れる困難を乗り越えていく中でも、魂は向上(成長)していきます。

できれば避けたい障害、病気といった経験を通して、もがき苦しむ中で、知らず知らずに、向上していきます。

自分に欠けているものを補うためであり、大切なことに気付くためであり、神の摂理を身を持って学ぶためです。

魂を向上させさる困難は、痛みや苦しみを伴ったものとなります。

山登りと同じで、登っている時は、とても苦しく感じられます。


なぜ、病気になるのか?


病気は、肉体次元から見れば、正常組織の変性であり、異常組織の増殖であり、そして機能の異常です。

霊的次元から見れば、病気は魂のありさまの変化が、肉体上の変化として反映されたものです。

病気の苦痛は肉体次元から見れば、肉体の異常を知らせるシグナルです。

霊的次元では、摂理に反した想いや行いの償であり、魂を目覚めさせるためにあります。


霊的次元は、思念(想い)の世界です。

人は生きていると、さまざまな想い(感情)を抱きます。

この世(物質次元)では、想いは目に見えず、人にも知れませんが、霊的次元では実在そのものであり、周りに認識されます。

さまざまな想いは、大きく2つに分けられると思います。

自分を成長させる想い(神の摂理に適った想い)と、成長を妨げる想い(神の摂理に反した想い)です。

もっと分かりやすく言えば、愛に基づいた想いと、愛に反する想いです。

怒り、憎しみ、恨み、妬み、貪欲などは、神の摂理(愛)に反した想いです。


生きていると、いろいろな出来事が起こり、さまざまな想い(感情)が生まれます。


例えば、人に侮辱されたり、裏切られたりすると、怒りの想いが生まれてしまいます。

高じると、憎しみや恨みの想いとなっていきます。

人によっては、相手に復讐するという行動に出ます。

復讐は正当と考える人もいますが、自分と同じように相手を傷つけてしまおうとするものであり、明らかに摂理に反した行動です。

それを、真の自分(魂)は分かっていて、好ましくないと感じ、多くの人はその衝動を抑えて、じっと耐えていくと思われます。

この世では、魂から生まれる想いを、肉体で表現しようとします。

しかし、耐えて、我慢してしまうと、想いは表現されずに、滞ってしまいます。

表現されない想いが蓄積していくと、魂のありさまに変化が生じます。

怒りの想いが蓄積して、魂のありさまが変化してしまうと、ささいな事で怒りを感じ、怒りやすくなってしまいます。

悲しみの想いが蓄積し、魂に変化が生じてしまうと、悲しみを感じやすくなり、なみだがすぐに流れてしまいます。

この世では、自分なりに愛を表現して、成長していかなければいけません。

怒りの想いにとらわれている人に、それは難しいかもしれません。

何度となく訪れるであろう、困難や障害を乗り越えて、成長していかなければいけません。

悲しみにくれている人に、それは無理かもしれません。

想いが蓄積して、予定されていた人生を変えてしまうほどになると、因果律の働きによって、病気が生じると思われます。

神の摂理が働いていているのは、言動だけではありません。

自らの想いにも、しっかりと働いて、責任を負うことになります。

病気の苦痛は、摂理に反した想いを抱き続けた、償いとなっています。

それとともに、魂を目覚めさせ、大切なことに気付く触媒となります。

大切なことは、「愛」です。

病気は、愛の大切さに気付き、とらわれていた(摂理に反する)想いから、摂理に適った想いに変えるためにあります。


なぜ、病気になったのか?

「魂が正しい方向へ進んで行くため」であり、

「愛を表現するため」という答えになると思います。


次の世界に行けば、肉体はもうありません。

病気の苦痛からは解放されます。

ただし、魂のありさまが変わってしまっても、それを知らせてくれるものがなくなります。

変わってしまった自分(魂)に気付くために、この世に病気が存在し、肉体や精神の苦痛は、魂の浄化を促し、神の摂理(愛)を学ぶためにあると考えられます。

もし、変わってしまった自分(魂)に気付かずに、大切なこと(神の摂理)を学ばないまま、この世を去ったのであれば、変わってしまった自分が犯した過ちを償い、大切なことを学ぶために、もう1度この世に生まれて、さらに大きな苦難を経験して、目的を果たさなければならないと思われます。

病気は、言葉ではとても言い表せないほど、つらいものですが、自分(魂)が正しい方向に進んで行くため、この世のうちに軌道修正するために、どうしても必要だったと思われます。

そして、正しい方向に進み出したのなら、目的が達成されて、治癒していくと考えられます。

病気は、無意味で不幸なものではなく、神の摂理の働きによるものであり、自らを成長させる方向に導くものです。

ガン、膠原病、ALS等、人々を苦しめている病気の根本原因は、残念ながら解明されていません。

従って、有効な治療法も確立されておらず、手術を含め対処療法となります。

医学的に原因不明で、治療が困難な病気の中には、霊的次元に根本原因があり、それ突き止めて解消していけば、治癒に向かうものも多いと考えられます。

霊的に見れば、不治の病は存在しません。


生きる力は、神から流れてくるものであり、愛する力そのものです。

精一杯生きたとしても、愛を忘れた生き方をしてしまえば、この世を生きる目的は成就されません。

生命は魂であり、魂は真の自分です。

真の自分は、肉体で愛を表現するために、この世に生まれ、そして生きています。


病気は不幸ではありません。

魂を成長させて、愛を表現する生き方へ変えていく、この世だけにある神から与えられた機会(チャンス)です。

この世で生まれ変わるためにあると、言ってもいいのかもしれません。


生まれ変わるためには、想いを捨てなければいけません。

愛を表現するために、とても障害となっている、怒り、憎しみ、恨み、妬み、貪欲などの想いです。

想いにとらわれている限り、変わることはできません。

その想いを手放すためには、出来事を正面から受け止めて、許さなければいけません。

とても難しいことだと思います。

しかし、長い間、病気でつらい思いをして、大切なことに気付いた人であれば、できるはずです。

苦痛に耐えてきたので、そこまで魂が向上していると思われるからです。

想いを手放せば、魂は本来の姿を取り戻します。

魂が本来の姿を取り戻せば、肉体や精神も本来の姿を取り戻します。

生き方が変わり、病気は癒されて、この世に生まれてきた目的を果たしていくと思います。


生きることは、愛することです。


病気になり、本当に大切なことに気付いたのであれば、解放される日は近いと思います。

どんなに苦しく、つらい状況であっても、その時は、すぐに訪れるかもしれません。

どうか希望は持ち続けて下さい。


2014年9月16日火曜日

生まれる前にした約束




すべての人に、生まれる(受胎)前、自分で自分にした約束があります。

どんな約束をしたのか、残念ながら、知ることはできません。

私も、この世に生まれて53年が経とうとしていますが、その約束を、きちんと果たせているのかどうかは分かりません。

だいぶ回り道をしてきましたが、この文章を書いているのも、約束を果たすための一環だと思っています。


周りから見て、とても大変な人生を歩んできた人を見かけますが、人や社会に貢献するために、どうしてもその経験が必要であり、強い動機付けになっていることが、多いと思われます。

そんな人たちは、「その経験があったからこそ、今の自分がある」と、異口同音に語っています。

人の苦しみは、経験してみなければ分かりません。

誰しも、苦しみは味わいたくありませんが、経験した人のみが、同じ苦しみを抱えている人を、救うことができる時があります。

同じ苦しみを抱えている人の重荷を、少しでも軽くすることができたのなら、その経験は少なからず価値を持ちます。

ある人は、他の人に同じつらい経験をして欲しくないために、社会に訴えて、世の中を変えて行こうとします。

ブログなどで、自分の経験を発信し、一人でも多くの人に知ってもらい、役に立てようとする人もいます。


先日、高校の先輩の話を聴きました。

幼くして父親を失い、新聞配達をして家計を助け、苦労の末に大学を卒業し、事業を立ち上げて成功し、現在は政治家として要職にあります。

経済的に恵まれていない子供たちにも、夢を叶えさせる機会を与えるという、強い信念のもと、精力的に活動をされていて、今まさに実を結びつつあります。

その信念は、自身の経験に裏打ちされたものであり、揺らぐことはありません。

経験が活かされて、同じ境遇にある子供たちに、夢や希望を与えようとしています。

もし、恵まれた家庭環境で育ったならば、そんな子供たちに思いを巡らせることはなかったかもしれません。

生まれる前に自分にした約束を、今、果たされていて、過去の経験や環境はそのために必要だったと、私は強く感じました。


道路の端に、横断禁止を知らせる交通標識を見かけます。

その下に小さなプレートがあり、「わたるな」とひらがなで書かれています。

私の記憶が確かなら、数十年前に、交通事故でお子さんを亡くされたご両親の働きかけにより、このプレートができたはずです。

ご両親のお子さんは、小学生の低学年であり、それまでの標識に書いてあった、「横断禁止」という漢字の意味が理解できずに、道路を渡ろうとしたために、不運にも交通事故に遭ってしまいました。

ご両親の悲嘆はどれほどのものだったでしょう、長い間、つらい日々が続いたと思われます。

その日々の末、同じ年頃の子供が同じ悲劇にあってはならない、亡くなった最愛のお子さんの死を無駄にしないたくない、という結論にたどり着いたのだと思います。

行政に強く訴え続けて、幼い子にもわかる標識の設置を、全国で実現させました。

標識に「わたるな」と書いてあるのに気付き、事故に遭わずに済んだお子さんも、きっとたくさんいると思います。

亡くなったお子さんも、さぞ喜んで、ご両親を誇りに思っていることでしょう。

とても大きな社会貢献だと思います。


身を引き裂くような、つらい経験であっても、世の中のために活かすことで、計り知れない意味を持つことがあります。

たとえ社会で活かすことができなくても、同じ立場の人と、想いを分かち合えて、力になることはできるでしょう。

自分の経験が、誰かの役に立つのは、とてもうれしいことです。

楽しい経験は、あまり人の役には立ちません。

苦難の経験であればあるほど、救いを求める人にとって大いに役に立ち、貢献できると考えられます。


生きていると、どうしても悲劇や不幸と思える出来事が身に降りかかってきます。

避けたくても、避けらるものでなく、その渦の中に巻き込まれていきます。

苦しくて、つらくて、逃げたくなります。

無我夢中で、何と切り抜けようと苦闘する中で、少しずつ魂は向上していきます。

そして、魂に目覚めて、本当に大切なことに気付くことになります。

魂は神の一部です。

そして、神は愛です。

魂に目覚めたら、障壁は取り払われて、しきりに(神の)愛を表現しようとします。

人や社会のために何か役に立たつことはできないかと考えるのは、そのためだと思います。

つらい出来事がなければ、魂に目覚め、本当に大切なことに気付くことはありません。

人や社会のために、何かの行動を起こし、役立てていけたのならば、つらい出来事は、大きな意味を持ったことになります。

人それぞれ、起こす行動は違いますが、それが生まれる前にした約束なのかもしれません。


困難を乗り越えて、人のために役に立てていくのは、神の意思そのものと考えられます。

魂を目覚めさせるために、つらい経験があり、魂は神の一部であるために、その意思に従い、役に立とうとするのだと思います。

生きている目的は、人として成長する、本質は魂を向上させるためにあります。

すべての経験は意味があると言われますが、自らの魂の向上にとって意味があるのだと思います。

人や社会のために役に立つ以上に、魂を向上させ、人間を成長させるものはありません。

神の摂理に一致し、愛を表現しているからです。


人は人、自分は自分と思っていても、つい周りが気になって、比べてしまいます。

その結果、人を羨ましがったり、あるいは優越感に浸ったりしてしまいますが、どちらも間違っています。

自分が生まれる前にした約束と、他の人がした約束は、それぞれ違うのであり、同じような人生になるはずがありません。

その人にとって必要な出来事が、神の摂理である因果律により展開されているだけであり、誰一人として同じになる訳がありません。

忘れてはいけないのは、性別、家庭、容姿、頭脳、およその人生を、すべて自らが承知し、納得した上で、生まれてきているということです。

もし、不幸としか思えない出来事や障害が、自らがこの世で蒔いた種ではなく起きているとしたら、魂を向上させる機会として、生まれる前に約束したことと考えた方がいいのかもしれません。

偶然や突発的なものは、存在しません。

幸、不幸を超えた、神の摂理により営まれています。

従って、外から見るだけで、人を羨ましがったり、身の上を嘆いたりするのは、正しくありません。

たとえ生きている時に、知ることはできなくても、(肉体が)死んでしばらくすれば、真意がわかります。

大切なことは、つらくても、苦しくても、逃げ出さないで、立ちはだかる想いを振り払い、乗り越えようとすることです。

生まれる前に、自分が自分にした約束であるならば、何としても守らなければいけないからです。

それが、この世に生まれてきた意味だからです。


すばらしい人生とは、不幸に遭わず、障害もなく、何不自由なく生活した人生では、決してないと思います。

不幸や障害と言われる出来事にあっても、立ち向かい、乗り越えて、その経験を人や社会に役に立てることができた人生だと思います。







参考ページ: 「人生のシナリオは自分を成長させるためにある」

         「この世の出来事の意味を知る時」















2014年9月2日火曜日

恐怖に打ち克つ力



何かに立ち向かったり、乗り越える時に、いつも前に立ちはだかるものがあります。

恐怖や不安です。

この感情を踏み越えて行かないと、前に進んでいくことができません。


イエス・キリストが、処刑される前、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と祈ったそうです。

父とは神であり、彼らとはユダヤ教の指導者であり、ローマ兵です。

今まさに、十字架の上で殺されされようとしている時に、自分を殺そうとしている者を、哀れんで祈りを捧げる、

「汝の敵を愛し、汝らを責むる者のために祈れ」という教えを、最も過酷と思われる状況で、実践していました。

その姿を目の当たりにして、多くの人は胸を打たれたと思います。

普通の人間であれば、恐怖に押しつぶされてしまうでしょう。

「完全な愛は恐れを取り除く」というイエスの言葉が真実であることを証明しています。

しかし、未熟な私にとって、恐怖や不安との闘いは続いています。


イエスにとって、死は霊界への帰還であるのは、揺るぎない真実だったのは間違いありません。

死んで無になってしまうかもしれないと思うと、大きな怖れを抱いてしまいます。

死の先に、新しい世界が待っているのは、疑う余地のないことです。

けれども、死ぬ時は苦しいのだろうか?病気の痛みに耐えられるだろうか?周りの人を悲しませたり、迷惑をかけたりしないだろうか?と、つい考えてしまうと、恐怖に襲われてしまいます。

現実は、想像と少し違うようです。

霊界に行った人からのメッセージでは、死ぬ時は側から見ているより、苦しくないそうです。

痛くて耐えられなかったと言う話も、聞いたことがありません。

周りで悲しむ人もいるでしょうが、生命は魂であり、少しばかり早く次の世界に行くだけなので、必ず再会できることを、しっかりと伝えておくべきだと思います。

霊的な真実を知れば、知るほど、死の恐怖が和らいでくるは、間違いありません。


未来は、どうなるか分かりません。

分からないだけに、この先、どんなにつらく、苦しいことが待ち受けているのだろうかと、大きな不安や、怖れを抱いてしまいます。

不安や怖れを抱くと、穏やかな心は失われ、苦しく感じられ、いたたまれなくなります。

苦しく感じるということは、不安や怖れが、神の摂理に反している想いであるからなのかもしれません。

克服していかなければいけません。

今まで生きてきて、緊張を強いられる場面は数知れずあり、恐怖や不安に襲われて、それを拭い切れずに、怯えてしまうこともありました。

失敗を恐れたり、悪い結果を想像したりして、不安にかられて、持てる力が発揮されずに終わり、後悔してしまうこともありました。

恐怖や不安を追い払うのには、どすればいいのか?

勇気を出すしかありません。


魂は神の一部です。

そして、苦難を乗り越えていくことで、魂が向上します。

魂を向上させるために、人は生きていますので、苦難に立ち向かっていく勇気は、神の摂理に適っている想いのはずです。

神に摂理に適った想いは、神とのつながりを深め、神の力を受け取れます。

神の力よりも、強く、頼りになるものはありません。

従って、神の力を受け取るためには、勇気を出さなければいけないと考えられます。

その力を持ってすれば、心を侵食している恐怖や不安は、跡形もなく吹き飛ばされると思います。

恐怖や不安が消えてしまえば、霊力(神の力)の流入を妨げるものはありません。

勇気を出せば、神の力をふんだんに受け取ることができ、望む方向に進んで行けると思います。

つらくても、苦しくても、勇気を出すしかありません。


しかし、現実を見つめると、どうしても悲観的になり、勇気など出せないと思ってしまう時があります。

どこを、どう探しても、良いところは見つからず、悪いところだけしか見当たらない、絶望的な状況もあります。

激しい苦痛があったり、心を支えていく力がどこにもない時に、勇気を出すのは難しいと思われます。

そんな時は、祈ってみてはどうでしょうか。

「乗り越えていく勇気を与えて下さい」と。

魂は神の一部であり、つながっているため、祈りが見過ごされることはありません。

祈りにより、恐怖や不安が少しでも和らいだのであれば、回答として、神から力が与えられのだと思います。

もし、叶うのであれば、「病気を治して下さい」とか「今の苦しみからから逃れさせて下さい」と、祈りたいところですが、残念ながら、それは叶えられないと思われます。

なぜなら、すべては因果律によってに生じているため、結果(病気や苦しみ)を変えることはできないからです。

病気や苦難には、魂を向上させ、大切なことに気付かせるという、深い意味があります。

そうであるならば、魂が向上し、大切なことに気付いたのなら、病気や苦難は、過ぎ去っていくことになります。

もし、祈りで病気が治り、苦難が取り除かれるとしたら、魂を向上させる機会が失われてしまい、大切なことに気付くこともありません。

神の意図ではないことを、神が叶えるとは思えないからです。

しかし、苦難を乗り越えるようとする、真摯な祈りは、摂理に適っているため、勇気(力)が与えられるはずです。

勇気が与えられ、恐怖や不安が追い払われると、痛みやつらさも、いくらか和らいでくるのではないでしょうか。

そんな私も、少し前は神などに関心はなく、祈ったことはありませんでした。

今は、(摂理に適った)祈りに対して、導きが得られたり、力が与えられるのを知っています。

魂は神の一部であり、つながっているために、すべての人に力が与えられます。

祈りは、宗教的儀式ではありません。

生きる力を呼び込むため、人に与えられた、ありがたい恩寵です。

その恩寵に浴した方が、賢明です。


恐怖や不安の相手(対象)が外にある時に、克服するために、どうしても必要なものがあります。

それは、愛です。

愛は、好きという感情が発展したものだけではありません。

奉仕する、やさしくする、親切にする、思いやる、励ます、労わるなど、すべて愛に基づいた行いです。

自分と異なるものを認める、許すのも、自己犠牲がなければ成り立たず、愛が必要です。

恐怖や不安を抱く、最たるものとして、戦争があります。

ほとんどの国は、自国を脅かす者に対しては、敵とみなして、守るために攻撃をします。

何の理由もなく、脅かしてくるのであれば、自国を守るために、反撃するのはやむを得ません。

時代が古くなるほど、そんな戦争が多かったと考えられます。

現代では、国家間の連携が強くなり、無用に侵略する国家は、国際社会において非難され、制裁を受けます。

それでも、世界中で戦争や粉争が絶えることはありません。

人種、宗教、文化、言語の違いから、誤解が生まれて、戦争へと発展することもあります。

どちらが善で、どちらが悪と決められない争いが、ほとんどなのかもしれません。

認めない、尊重しない、許さないために起きる戦争と言っていいのかもしれません。

戦争になれば、爆弾や銃弾により、命を落とすかもしれないので、恐怖と不安な日々となります。

何とか終わりにするために、相手を降伏させる必要があると考えます。

そのために、攻撃をすることになります。

相手が降伏するまで闘おうとするならば、因果律が働き、相手から相応の反撃を受けることになります。

相手が傷つき、苦痛が生じたのならば、相手は報復し、自らが傷つき、苦痛を経験します。

攻撃をして、相手に恐怖や不安を与えたなら、自らが攻撃を受け、恐怖や不安を味わう結果となります。

自分から出たものが、自分に返ってきているだけです。

争いを終わりにするためには、元となった、根本的な原因を見つけて、改めることが必要です。

思いもよらぬ出来事は、いつ起きるのか分かりません。

その出来事により、自らが傷を受けてしまうことがあります。

憎しみを持ち、目には目をで、報復すれば、争いになるかもしれません。

もし、許せたのならば、争いは避けられます。

どちらに進むのかは、自分次第です。

認め合う、尊重する、許すことは、自己犠牲であり、苦痛を伴うかもしれませんが、神の摂理である「愛」を表現しているため、争いから生まれる恐怖や不安から逃れることができます。


私の歯科医院に、とても気難しく、少しでもこちらに不手際や失敗があると、容赦なく怒鳴られる、年老いた男性の患者さんがいました。

治療は、誠心誠意、行いましたが、どうしても気になり、納得できないことがありました。

客観的に問題はなく、これ以上の改善は難しいことでした。

以前、時間を取って、話をして、その時は了解して帰られましたが、また、突然来られました。

受付から、その患者さんが来られたと聞いて、怒鳴られた時の記憶がよみがえり、緊張しました。

前回と同じことを、話さなければなりませんが、どの様な反応をされるか、全く分かりません。

また、怒鳴られはしないかと思うと、「いやだ」という気持ちになりかけますが、相手を思いやる気持ちでいるように心がけました。

早く帰って欲しい思うと、どうしても表情や、言葉に表れてしまい、相手に伝わってしまいます。

言葉で丸め込もうとか、誤魔化そうとすれば、さらに不満が募り、怒りがこみ上げて、容赦なく怒鳴られたかもしれませんでした。

相手を思いやる気持ちで対応したので、怒りを爆発させるきっかけを失い、徐々に鎮まる方向へ向かっていきました。

しばらくして、心が落ち着かれて、帰っていきました。

話の内容よりも、どんな気持ちでこちらが対応しているのかを、しっかり見ていると感じました。

どこにでもある話ですが、相手を思いやる気持ちは、怒りを鎮め、結果として恐れや不安にとらわれずに済むことを、私は実感しました。



恐怖や不安を克服するためには、相手(対象)を忌み嫌っているよりも、親愛の想いを向ける方が得策だと思います。

神の摂理である因果律により、親愛の想いを向けるものに、怒りや憎しみの想いを返すことはできないために、新たな恐怖や不安が生まれることはないからです。

そうは言っても、恐怖や不安の相手(対象)に対し、親愛の想いを向けるのは、とても難しく思えます。

しかし、過去を振り返ってみると、幼い時には、嫌いな人が来ると逃げたりしたのが、少し大きくなると、嫌いな人が来ても、逃げたりせずに、向き合えるようになっています。

さらに、年月が経つと、嫌いな人でも、どうにか普通に付き合えるようになっています。

いろいろなことを経験し、成長しているからです。

さらに成長することが出来たなら、決して無理ではないように思えます。


忌み嫌うのをやめれば、相手(対象)の想いに気付くようになるかもしれません。

実は、何かを、必死に訴えているのかもしれません。

もし、訴えている想いを、素直に認めて、共感できたならば、相手(対象)との関係は変わってくるでしょう。

そうすれば、相手(対象)から生じる、恐怖や不安は、きっと少なくなります。


恐怖心は、人から理性と、生きる力を奪う、最大の敵です。

一刻も早く、決別すべきものです。

前に進んでいくには、乗り越えなければいけません。

恐怖と不安に打ち克ち、困難に立ち向かわせるのは、愛と勇気であり、それは神の力だと思います。

愛と勇気の大切さを、恐怖や不安を克服していくことで、学んでいるのかもしれません。






2014年8月27日水曜日

自分を大切にする


自分のからだを傷つけ、苦しんでいる人は、どうぞ最後まで見てください。



本当の自分とは、魂です。

目に見える肉体(からだ)は、魂を表現している媒体に過ぎません。

本当の自分は目に見えず、媒体である肉体は目に見えます。

従って、からだの変化には気付きやすいのですが、魂のありさまの変化には、なかなか気付きません。

魂のありさまの変化は、肉体上の変化として表れる時があります。

その逆に、肉体に影響を与えるのものは、心そして魂に影響を及ぼしています。

誰かに暴力を振るわれて、からだに傷を負ってしまったならば、少なからず心にも傷を負ってしまいます。

傷つけた人が、たとえ自分自身であっても、心に傷を負っています。



自分のからだを、自分で傷つける、自傷行為をしている人は、直ちにやめましょう。

生きていたいのだけど、うまく生きれない、罪の意識に苛まれて、とても苦しい状態に置かれているかもしれませんが、傷つけても、苦しみから逃れることは、決してできません。

それどころか、その行為は危険なばかりではなく、霊的に大きな罪を犯していることになります。

自らを傷つけるのは、人を傷つけるのと、罪の大きさに変わりありません。

その罪の償いのために、さらに大きな苦しみを経験しなければいけません。

苦しみから逃れたいために、自らを傷つければ、さらに苦しむことになるだけです。



自分のからだは、自分のものであり、どうしようとも、かまわないと思うのは、無知であり、傲慢です。

もし、自分にしている行為を、他の人にしたらどうなるでしょうか?

傷害罪で逮捕され、繰り返せば、刑務所行きになるでしょう。

自分のからだを、どんなに傷つけても、法律上、罪に問われることはありません。



しかし、世の中を支配しているのは、人間が作った法律だけではありません。

すべての人間は、逃れることができない、目に見えない法則に支配されています。

その法則では、自分のからだを傷つけるのは、他人のからだを傷つけるのと、同等の罪になると思われます。

もし、他人を傷つけてしまったら、後悔して、罪の意識に苛まれます。

自分を傷つける行為も、全く同じです。



からだは、この世で果たすべきことを果たすために与えられた、魂の大切な乗り物です。

与えられたと言うより、この世にいる時だけ、借りているものです。

その大切な肉体を傷つける行為は、見えない法則に反していて、自らの心の苦により、その罪を償わなければなりません。



少しでも楽になりたいと思ってする、その行為は、楽になるどころか、さらに心を苦しめる結果につながっています。

周囲の人に、迷惑や心配をかけていれば、さらに償いは大きくなります。



うまく生きれないこと自体は、罪ではありません。

うまく生きれないから苦しいのではなく、後悔し、自らを責めてしまっているから苦しいのだと思います。

世の中は、うまく生きている人と、生きれない人がいるように思えますが、そうではないのかもしれません。

後悔の念をあまり持たず、今を生きている人は、うまく生きているように見え、後悔の念が強いために過去に縛られ前に進めない人は、うまく生きれないと感じてしまうのだと思います。



そもそも、罪悪感を持つ必要はないと思います。

蒔いた種は、自らが刈り取らなければいけません。

すべてに因果律が働いて、罪悪感を持とうと、持つまいと、結果責任は、自分で引き受けることになるからです。

傷つける時の痛みや、傷から流れ出る血により、現状(結果)を寸毫(すんごう)足りとも、変えることは出来ません。




今までの生き方、言動に対して、悔やんでばかりいると罪悪感が生じて、因果律により苦しみを味わいます。

苦しみに耐え切れなくなって、罪悪感から逃れようとして、さらに自らを傷つけてしまっています。

傷つける行為により、罪悪感が増して、大きな苦しみが生まれ、さらに深く自らを傷つけようとします。



いっそのこと、手首をもっと深く切れば、苦しみから解放され、楽になるのではないかと思う人もいるかもしれませんが、それは大きな間違いです。

もし、そんなことをすれば、今、味わっているのとは比べ物にならないほどの、とてつもない後悔と罪悪感が待っています。

想像を絶する苦しみの世界に、長い間、閉じ込められます。

この世で、つらいことがあっても、乗り越えるという、魂の約束があったのを、自らが破ってしまったからです。

その約束をすっかり忘れてしまい、破ってしまった時の後悔は、今の比ではありません。

いくら後悔しても、今度は取り返しがつかないからです。

からだがなくなっても、生命は魂であるために、生き続けます。

後悔、苦しみの思いから逃れたくて、命を終わりにしたはずなのに、意識は前のままであり、後悔、苦しみの思いから逃れれらないことを知ります。

しまったと思っても、戻るからだは、もうありません。

からだは、魂の入れ物であり、自分のものではなかったことに気付いても、手遅れです。

自分のものは魂だけであり、表現する肉体を、自ら手放してしまったのです。



人生で何か起きた時、望まない出来事が起きた時にどうするか、道は2つです。

後悔して留まるか、それとも、そこから何かを学んで進むか。

何かを学んで進むのが、見えない法則に則った、正しい道です。

後悔して留まってしまうと、法則に反しているため、結局は苦しみが待っています。

つらくても、前に向かって進んでいかなければいけません。

ほんの少しでもいいから、前に進むことが大切です。

少しでも前に進めば、きっと心が楽になるでしょう。

薬では、心は楽にはなりません。

前に進んでいるわけではないからです。



この世は、楽しむためだけにあるのではありません。

自分に足りなかった何かを学ぶために、この世を生きているのであり、それは楽しい出来事よりもつらい出来事から多くを学ぶことができます。

多くのことを学び、向上していくのが人生ならば、つらい出来事はつきものということになります。

失敗や挫折に出会うのは、この世では避けられません。



悔やんでも、悔やみきれないことは、誰にでもあると思います。

私も仕事上で過ちを犯して、大きな後悔の念に苛まれました。

あの時こうすればよかった、何でしなかったのか、どうして全力を尽くさなかったのか、数えたら切りがありません。

勇気が足りなかったり、自分をごまかしてしまったりすると、後悔することに繋がると感じています。

けれども、そこから何かを学ぶことができたのなら、意味があったことになり、立ち直るきっかけになると、私は思っています。



生きる目的は、人や社会に奉仕して、自分(魂)を向上させるためにあり、悔いの想いに縛られていては、とてもできません。

悔やんでばかりいると、生きている意味がなくなってしまいます。

この世で与えられた時間は限られていて、大きな損失をしています。

今の苦しみは、そんな大切なことに気付いて、想いを手放すためにあります。



繰り返します。

からだを傷つける行為により、得られるのは、苦しみだけです。

今すぐ、やめて下さい。

責任を取ることが、さらに多くなってしまいます。



生命は魂です。

死んで終わりではありません。

この世に生まれてきたのは、前世で悔やむことがあり、借りを返すためかもしれません。

自分を傷つけるのは、自分の魂を裏切る行為です。

また、借りを作ってしまいます。



本当の自分である魂は、からだを傷つけるのを止めようとしています。

勇気を出して、正直に生きろと、叫んでいると思います。

その声に、逆らってはいけません。



過去は変えられません。

しかし、未来を変えていくことはできます。

そのためには、たとえ少しでも、前に進んで下さい。

一歩進めないのであれば半歩、半歩進めないのであれば、足を地面から離すだけでも、大きな前進です。

それが苦しみから解放される、唯一の道だと思います。







2014年8月24日日曜日

身近な人の死に接して



私のごく身近にいる人が、回復が難しい病になっていることが判りました。

高齢ではありますが、まだまだ元気と思っていただけに、身内の者にとっては大きなショックでした。

しばらくして、抵抗力が弱くなったためか、呼吸器系の疾患を併発したため容態は急激に悪化し、危篤状態になりましたが、毎日遠隔治療を行った効果なのか、危険な状態を脱し意識を回復することが出来ました。

近親者は覚悟をしていただけに、うれしかったのですが、本人にとっては肉体の苦痛を堪えなければいけないので、試練の時が続くことになります。

ただ、家族との別れの時間が十分に持てたことは喜ばしく、今まで言葉にすることがなかった自分の想いをはっきりと伝えることが出来ました。

言葉はありませんでしたが、こちらを見つめる眼差しから、相手の想いも感じ取ることが出来たと思います。

もし、ヒーリングにより、この大切な時間が与えられたなら、やはりこの力は愛なのだと感じました。

寿命という摂理には従わなければいけませんが、お互いの理解が深まり、愛を確かめさせてもらったからです。

お別れ際に最も愛する人が向こうで待っているのはわかっていましたので、「何も心配しなくてもいい」、自分がこの世を去った時に、迎えにきていただけるのではないかと思いましたので、「また会いましょう」と伝えました。

しばらくして肉体を離れる時がやってきました。

さみしくはありますが、悲しくはありません。

棺の中に花を添える時に顔を見ていたら、在りし日の優しさが想い出され、涙がやはり出てしまいました。

感激の再会の後に、お二人でこちらの様子を見に来られるかもしれません。

いつ来ても恥ずかしくない様に、生きていきたいと思います。




大切な人を亡くした若い人へのメッセージが書かれていましたので、よろしかったら読んで下さい。
こころのフォト ~忘れない~  

「心に響いた詩」






2014年8月22日金曜日

過去を忘れ、魂の命ずるままに生きる



ガンの根本原因は、残念ながら未だ不明とされています。

数十年を経ても、その状況はあまり変わっていません。

生命とは何か?

この大きな命題についても、長い年月をかけて究明しているにもかかわらず、答えを見出せていません。

ガンの原因が分からないのも、生命の本質について分からないのも、同じ理由だと考えています。

答えは肉体の中にはなく、魂にあるからです。


生命は魂です。

この事実を否定すれば、先には進めません。

地上の物質は、物理的法則により支配されています。

生命である魂も、霊的法則により支配されています。

これから、魂(霊)について多くの知識がもたらされる、時代になると思われます。

医学も例外ではなく、ガンについても、霊的次元での解明が進んでくるとともに、全く新しい治療法が確立されてくることでしょう。


魂を表現する媒体として肉体があります。

魂は肉体の上位にあり、肉体は魂に従っています。

怒ると顔が赤くなり、悲しいと涙が流れるのは、魂の変化が、肉体の変化として表されているからです。

魂の変化が、肉体上に病気として表れることがあります。

魂のありさまの変化は目に見えないので気付きませんが、肉体上に目に見えるガンとして反映されれば気付きます。

肉体に表れた病巣は、結果を見ているのであって、根本原因は魂にあると思われます。

従って、目に見えるガンをいくら研究しても、根本的な治療法は見つけられないことになります。


魂からは、絶えずさまざまな想いが生まれます。

魂から生まれた想いは、精神を経由し、言葉や表情、行動など、肉体で表現されています。

言葉や表情、行動で表さず、想っただけでも、神の法則(摂理)は働きます。

生きていると、うれしいことばかりではなく、納得できないこと、理不尽なことにも遭遇し、さまざまな想いが生まれてしまいます。

自分に非がなくても、怒り、憎しみ、恨み、妬みなどの想いが生まれれば、因果律が働き、相応の結果をもたらします。

時に、怒り、憎しみ、恨みの想いは、外に向かって表現されます。

はげしく相手を責め立てたり、暴力をふるったり、いやがらせをしたりして、表現されることがあります。

その行いは、摂理に反しているために、償いが生じます。

相手から、さらに責められて、つらい思いをしたり、周りから非難され、孤立するかもしれません。

もし、人を傷つけたり、不幸にさせたりすると、同等のつらい想いをして、負債(カルマ)を返さなければいけません。

この世で償うことがなかったとしても、時効はなく、その先で必ず償わなければいけません。

心の奥底にある魂は、そのことが分かっているために、多くの人は怒りを表現せずに、我慢をするのだと思います。

言いたくても言えない、泣きたくても泣けない、怒りをぶつけたくてもぶつけられないと、その想いはうっ積していきます。

人は、うっ積した想いを、別の形で解放しようとします。

おしゃべりをしたり、運動をしたり、趣味に没頭したり、あるいは大きな声で唄を歌ったり、食べたり、飲んだりして、内にある想いを、肉体で表現し、解放しています。

ストレス解消に当たります。

しかし、想いがとても強かったり、うまく解放できなかったりすると、想いはうっ積したままとなります。

怒りの想いがうっ積している状態で、人にやさしくしたり、許したりすることは、難しいと思われます。

怒らなくてもいいのに、怒ってしまったり、言わなくてもいいことを、つい言ってしまうことがあります。

些細なことが許せなくなり、人を責めてしまったりします。

その対象は周りだけでなく、自分にも向けられます。

自分に不満を覚えたり、許せなくなります。

自分でも、どうしてなのか分からずに、感情的になってしまうのは、怒り、憎しみ、恨みなどの想いが、うっ積しているためだと考えられます。

うっ積した想いのために、本来の自分とはかけ離れた、表現(言動)をしてしまいます。

人は、愛を肉体で表現するために、この世を生きています。

怒りなどの想いが溜まっていると、この世を生きている目的を十分に果たせなくなってしまいます。


通常は、怒りなどの想いが湧き上がったとしても、時とともに消えてしまうことが多いと思われます。

しかし、怒りがとても強ければ、消えずに想いが留まってしまうことがあります。

長い間、想いが留まり続けてしまうと、その状態が当たり前となってしまいます。

本来の自分と違うのに、気付かなくなります。

周りから、人が変わってしまったと、言われてしまうかもしれません。

無用な過ちを犯して、魂に負債(カルマ)を抱えてしまっては大変です。

この状態は、魂の向上にとって、想像する以上に、深刻な問題だと考えられます。

いくら人から言われたとしても、変わってしまった自分を本来の姿に戻すのは無理でしょう。

自分を変えていくのは、自分しかありません。

強制的に変えていく、1つの手段として病気があります。

想いの根が深ければ深いほど、大きければ大きいほど、手放すのは容易ではありません。

その想いを手放すために、深刻な病気が因果律により生じると思われます。

根が深い想いを生じさせた、忘れられない出来事であっても、ガンになればこだわっていられなくなります。

想いを生じさせるような生き方や考え方が、どんなに正しいと思っていても、ガンになれば、見つめ直します。

そんな過去の出来事よりも、生命の方が大切です。

生き方や考え方へのこだわりよりも、生命が先です。

今まさに海で溺れかかっている人が、過去のことを思いだすでしょうか。

溺れて苦しい時に、生き方や考え方にこだわるでしょうか。

そんなことはどうでも良く、現状から抜け出したいだけです。

パニックになり、苦しいと、何かにすがりたくなります。

しかし、すがったものが適切でないと、また沈んでしまいます。

恐怖や不安を鎮め、冷静になり、からだの緊張を解けば、からだは自然に浮いてくるのかもしれません。

人間のからだは、浮くようにできているからです。


過去の出来事から生じた、想いを手放せば、本来の自分に戻れると思います。

想いを手放し、本来の自分に戻るためには、最も大切なものに気付かなければいけません。

愛だけが、出来事を許し、想いを手放すことができます。

ガンは想いの出口であり、本来の姿に戻るためにあると思います。


摂理に反した想いにより、因果律が働き、病気が発病します。

病気の苦痛は耐え難いものですが、摂理に反した償いであると同時に、魂を向上させて、愛の大切さに気付き、許すためにあります。

出来事が許されれば、本来の姿に戻り、愛を素直に表現できるようになります。

生きる目的は、愛を表現して、魂を向上させるためにあります。

よって、肉体を死に至らせる病ではなく、魂を目覚めさせ、この世で生きる目的を果たすために生じた病だと言えます。

すべての想いをことごとく吹き飛ばし、洗い流し、より良い生き方、考え方に変えていく、台風なのかもしれません。

それなのに、怖れて、敵対し、からだから消すことだけを考えてしまいます。

無秩序に増殖を繰り返す、得体の知れないものと考えてしまうと、怖がってしまうのも無理のないことです。

恐怖を克服するためには、正しい知識が必要だと思われます。


神の摂理は完璧であり、すべてに意味があり、間違いなく答えが用意されていると思います。

病から解放された人は、その意味を知り、答えを見出した人だと考えられます。


過去を忘れ、魂の命ずるままに生きる。

とても難しいことですが、そんな生き方をするために、この病気はあるのかもしれません。





2014年8月15日金曜日

苦しみから解放されるために許す



人は、肉体で愛を表現するために、この世を生きています。

人にやさしくする、親切にする、社会奉仕をするのは、直接的な愛の表現であるのに対し、人を許すことは、自己犠牲を伴い、間接的な愛の表現と言っていいのかもしれません。

しかし、人を許すのは、口で言うほど生易しいものではありません。

生きていると、さまざまな出来事に遭遇します。

うれしいことばかりであればいいのですが、この世は苦しいこと、つらいこと、悲しいことにも出会います。

その中には、他の人の行いが原因となり、苦難を経験しなければいけないことがあります。

自分が蒔いた種で、苦しみを味わうのであれば、納得できますが、他人のせいで自分が苦しむのは、とても納得できるものではありません。

怒り、恨み、憎しみの想いが、湧き上がってしまうのを、どうしても、抑えきれないことがあります。


数年前に、想像を絶する苦難を味わっている人との出会いがありました。

その人は、相手の暴挙とも言える過ちにより、とても大切なものを失いました。

恨むなというのが無理なほどの、酷い仕打ちでした。

詳しくは書けませんが、人が経験する苦難としては、おそらく最も過酷ではないかと思います。

相手は反省するどころか、その人に非があったと開き直っています。

その人は、当然のことながら、相手を激しく憎み、そして恨んでいたと思います。

相手をいくら憎んでも、大切なものは帰ってこないと分かっていても、そこにしか、やりきれない思いの持って行き場はありません。

深い悲しみ、身悶えるような苦しみ、絶望の日々の末に、喜びの真実に辿り着くことができました。

そして、相手を許しました。

相手を憎むのと同時に、容赦なく自分を攻め続けていました。

喜びの真実により、自分を攻めることから解放されました。

私はその人から、自分が許されなければ、相手を許すことはできないことを学びました。


自分が苦しい思いをしているのに、相手を許す気持ちには、とてもなれません。

ただ、勘違いしてはいけないことがあります。

それは、自分を苦しめているのは、相手の過ちそのものではなく、それによって生じた怒り、憎しみ、恨みの想いだということです。

その想いが、神の摂理に反しているために、因果律により、苦しみが生じています。

それを知らずに、こんなに自分が苦しい思いをしているのは、相手の(過ちの)せいだと思ってしまうと、憎しみ、恨みの想いが増していきます。

憎しみや恨みが増していけば、因果律により、苦しみが増していきます。

その悪循環を断ち切らなければいけません。

相手を憎むことにより、気持ちが晴れて、苦しみから逃れられることは、決してありません。

苦しみから解放されたいのであれば、憎しみ、恨みの想いから、自分を解放してやらなければいけません。

憎しみ、恨みの想いを解放するには、とてもつらいことですが、相手を許さなければいけません。

相手を許すには、まず傷ついた自分を癒やさなければいけません。

肉体の傷が自然治癒力という神の力で癒やされてくるように、心の傷も神の力により癒されてきます。

時とともに、傷は少しずつ癒されてきますが、傷が深いければ深いほど、長い時間を要します。

失ったものが、元に戻らないのであれば、傷はなくならないかもしれません。

ただし、影響を与えているのは、傷そのものではなく、傷から生じる想いです。

傷は消せませんが、傷から生じる想いを消そうとすることはできます。

傷から生じる想いを消していくためには、自分への愛が必要となります。

ありのままの自分を認めて、大切にしなければいけません。

足りない自分、違っている自分、変わっている自分は、劣っているのではありません。

すべてが足りている人は、この世に存在しません。

人と違っているのは当たり前であり、それをお互いに認め合うことは、この世を生きる1つの意味であると思います。

正直に、素直に生きることは、ありにままの自分を認めることにつながります。

投げやりにならずに、今を真剣に生きることは、自分を大切にするとにつながります。

つらくても正直に、素直に、真剣に生きていれば、神の力で傷は癒されて、想いは生じにくくなっていくと考えられます。

正直に、素直に、真剣に生きようとする努力は、魂を向上させると思われるからです。

そして、いつの日か相手を許せる時が来ると思います。

相手を許せた瞬間に、憎しみ、恨みの想いから解放されて、長かった苦しみからも解放されると思います。


正直な自分とは、どんな自分だろうと考えてしまいます。

憎しみや、恨みに染まった自分ではないはずです。

正直な自分とは、魂です。

魂は神の一部であり、繋がりが切れることはありません。

生命は、魂に流れ込む神の力により生かされています。

神の力とは、愛を表現する力そのものです。

許すことも、愛の表現であれば、正直な自分は、許そうとしているはずです。


生きていると、許すか、許さないかの判断に迫られることの連続です。

許すか、許さないかは、自分の自由です。

「右の頬をぶたれたら、左の頬を差し出しなさい」とイエス・キリストは言いましたが、許すことの大切さ、愛の大切さを表現しています。


許せずに、怒りや、憎しみや、恨みの想いに、いつまでも捕らわれているのは、賢明ではありません。

神の摂理により、自らが苦しむだけだからです


この世は、肉体で愛を表現するためにあります。

怒り、憎しみ、恨みの想いを抱き続ければ、愛の表現は妨げられたままです。

この世を生きている意味を、大きく失ってしまいます。


許すには、相等の苦しみや痛みを伴いますが、その行為は摂理に適っているため、やがてなくなるでしょう。

魂の向上が図らた上に、苦しみからも解放されるのであれば、その意味はとても大きいと思います。















2014年8月10日日曜日

この世の先にある世界



死んだ後、どうなるのだろうか?

昔、漠然と考えたことがあります。

死ぬことは、遠い先にある出来事であり、そんなことを考えるより、今をいかに楽しく、充実させる方が、よっぽど大切に思えました。

死んだ後どうなるのかは、死ななければ分からないという結論に至り、深くは考えませんでした。

もし、無になってしまうと考えると、心も意識もなくなってしまって、何だか怖く感じます。

無になってしまうのであれば、生きている意味はあまりないように思え、とても虚しくなってしまいます。

幸いにして、死ぬ前に、確かな知識を手にすることができました。


無になることはありません。

生命は魂であり、生き続けます。


肉体の死とともに、この世から次の世界に移行します。

空想でも、夢物語でもありません。

神の摂理に従って、その現象が起こるだけです。

そんなことは信じられないと、言っている人も、その現象に直面します。

知らないよりも、知っていた方が、混乱することなく、次の世界にすんなりと順応して行けます。


死んだらお終いであれば、この世を生きる意味を、説明するのは困難です。

ただ、生まれて、生きて、死ぬということになります。

人生は、そんな浅はかなものではありません。

終わることのない物語を、自らが綴っています。

物語の主人公は、自らの魂です。

物語のテーマは、愛です。

死とは、1つの章の終わりであり、新たな章の始まりです。

物語の終わりではありません。

この世と次の世界は、それぞれが乖離(かいり)した世界ではなく、お互いがつながっていて、密接に関係をしています。

この世をどう生きたかで、次の世界での展開は変わっていきます。

死ねばお終いと思えば、好きななことをして、人生を長く楽しむことが、最も大切と考えてしまうかもしれません。

お金をたくさん得て、欲しい物を手に入れ、贅沢な暮らしをするのが、幸せな人生だと思ってしまいます。

私も恥ずかしながら、仕事で成功して、高い評価と、収入を得ることが、人生の目的と考えていた時期がありました。

真実を知ることができて、心から良かったと思っています。

次の世界は間違いなく存在しますが、地位や名誉や財産は持っていけません。

次の世界に持っていけるのは、自分の魂だけです。

愛に根ざした行いは、魂を美しく光り輝かせる、永遠の財産となります。

魂には、この世での想い、行いのすべてが、刻み込まれています。

次の世界での生活に慣れてくると、そのひとつひとつを、自らが検証する時がきます。

自分の行いが、人を幸せにしたり、社会を良くしたのを知り、喜びに満たされます。

喜びとともに、魂は一歩向上します。

自分の行いが、人を不幸にしたり、社会に迷惑をかけたのを知り、後悔します。

後悔とともに、魂に負債(カルマ)が生じます。

すべての想いや行いが、細大もらさず勘案されます。

大事なのは、生まれる前の魂に比べて、死んで向こうに行った時の魂が、少しでも向上していることです。

少しでも向上していれば、この世を生きた意味があったことになります。

家族や社会のために、自分を犠牲にしながら、一所懸命に生きてきた人は、何の苦労もなく、楽しく気ままに生きてきた人より、幸せです。

なぜなら、自己犠牲は愛の表現に他ならず、その努力により、魂の向上が得られているからです。

この世に生まれてきた目的を、より成就したことになるからです。


人はどうして、つらい試練を乗り越えようとするのでしょうか?

そのことに、どんな意味があるのでしょうか?

誰かに言われたから、そうしているのではありません。

苦しい経験、つらい経験、悲しい経験の中で、悪戦苦闘し、奮闘努力することで、魂が向上することを、真の自分が知っているからだと考えられます。

この世では、魂を表現するために肉体をまといます。

想いを、肉体を使って、言葉や行動で表現しなければいけない、とてもわずらわしい世界です。

自分の想いを、言葉や行動で、完璧に伝えることはできません。

肉体は、魂の想いを表現するのに、あまりにも不完全な道具です。

言葉を駆使しても、どんなにうれしいのか、どんなにつらいのか、どんなに悲しいのかを、人には伝え切れません。

しかし、相手が何も言わなくても、喜びや悲しみに共鳴して、笑ったり、泣いたりすることがあります。

それは、言葉を介さず、相手の想いが自らの魂へ、直接伝わったためと考えられます。

言葉よりも、はるかに鮮明で、強烈です。

次の世界は、魂の世界であるため、このような想いのやりとりが常に行われていると考えられます。

言わなくても分かり合える、想いを共有できる世界です。

この世では、権力のある者、地位のある者、あるいは富のある者が、強者とみなされることが多いと思われます。

次の世界では、より愛を表現できる人が、真の強者であり、上に立ちます。

恵まれない人に、手を差し伸べて、やさしくできる人が、真に偉い人であり、上に立ちます。

より愛を表現できる人、やさしい人が上に立つのですから、神の愛が上から下へと、満遍なく行き渡り、世界は平和そのものとなります。

争いなど、起こるはずはありません。

お互いがお互いのために奉仕をして、悦びを感じる世界です。

それを天国と言うのかもしれません。

この世と、次の世界は、どちらが素晴らしい世界なのでしょうか?

答えは、はっきりしていると思います。


肉体は魂を表現する道具(媒体)です。

魂は、肉体を超えた次元で存在しています。

自分を犠牲にしてまで、相手を思いやるのは、肉体を超えた愛が存在するからです。

肉体を超えた愛の想いは、肉体を超えた魂から生まれます。

愛の存在を確信できる人は、魂の存在も確信できるはずです。

生命は、肉体とともに消滅してしまう、はかないものではありません。

炎により肉体は焼かれて骨に変わっても、生命である魂は、何も変わりません。

死んだら、自分の意識はどうなってしまうのか?

意識は頭脳からではなく、魂から生まれます。

頭脳は意識を表現するためにある、司令塔です。

したがって、肉体(頭脳)がなくなっても、意識はそのままあり続けます。

無になってしまう心配は無用です。


この世では表現媒体である肉体が、あまりにも重すぎるために、どうしても意識が肉体に向いてしまいます。

魂は肉体の奥に埋もれてしまい、意識しなくなります。

魂から生じた想いは、頭脳から生まれた思考により、掻き消されてしまうことが多くなります。

魂は神の一部であるため、しきりに愛を表現しようとしますが、肉体や自己の要求が強くなると、それに負けてしまうことが多くなります。

この世を生きているのは、肉体で愛を表現して、魂を向上させるためです。

大切なことを忘れてしまったのでは、この世を生きる目的が果たせなくなってしまいます。

大切なことを忘れかけると、神の摂理である因果律の働き、不幸と言われる、苦難が生じます。

苦難には相応の苦痛が伴いますが、その苦痛が忘れかけていた、最も大切なことである生命(魂)や愛を呼び覚まします。

苦難が、魂を目覚めさせ、本来の姿に戻し、向上させるためにあるとしたら、それは不幸なことであるはずがありません。

苦難の最中では、そう思う余裕はとてもありませんが、次の世界に行けば、苦難の真の意味を知ることになります。

摂理の完璧さに驚嘆するとともに、神の愛に感謝するようです。


すべての人に、肉体の死は訪れますが、死ぬ間際は外からは見るより、本人は苦痛ではないようです。

死を迎えて、穏やかな顔になる人が多いそうですが、それは疲弊した肉体から解放され、自由になった喜びの顔ではないでしょうか。

死は別れであるとともに、再会です。

一足先に向こうに行き、今か今かと待ち構えていた、愛する人との再会があります。

愛で結ばれた者同士に、別れがなかったことが証明されます。

神を信じていなかったとしても、その歓びを、きっと神に感謝すると思います。

そして、この世に残してきた愛する人を、次の世界から見守ります。

言葉でなくても、魂から魂へと、想いがうまく伝えられれば、愛する人を導くことができます。

肉体に包まれて良く分からなかった生命の真の姿を、目の当たりにします。

そして、愛がすべてを動かしている、崇高な神の力であることを知ります。

この世の先に待ちうけているのは、ありのままが表現される世界です。

死は、大きな変化には違いありませんが、怖れるものではないのは確かです。





2014年7月21日月曜日

想いを手放してガンを手放す



7年前に、人生で最も屈辱的な経験をしました。先が全く見えなくなり、言い知れぬ不安な日々を過ごしました。

しかし、すべての原因は私にあり、蒔いた種は、自らが刈り取らなければいけなかったのです。

今までのブログで、幼少期のつらい出来事が、ガンの根本原因の1つとなっていて、その表現されなかった想いが、時を経て、肉体上に表れたものであると書きました。

幼少期の子供に、落ち度や責任があったとは、とても思えません。

もしかしたら、知ることのできない、さらに過去の自分に、原因があるのかもしれません。



ガンは、表現されなかった想いが原因であるという根拠は、自分の想いが、ガンに大きく影響を与えるという事実があるからです。

恐怖や不安を感じると、ガンはその想いに反応し、活性化して、痛みが増強してしまうようです。

その逆に、心穏やかに過ごすと、ガンも大人しくしてくれるように思います。



自分の想いに敏感に反応するのは、何を意味するのでしょうか?

医学的には、恐怖や不安を感じると、交感神経が優位になり、免疫機能が抑制されて、NK細胞の活性が低下して、均衡が崩れて、ガンが増殖を始めると考えられます。

霊的には、恐怖や不安に反応して、あの時の想いが呼び起こされてしまうために、肉体に反映されているガンが活性化してしまうと考えられます。

「怖い、助けて」、あの時の想いと全く同じです。

あの時のつらい思いをした自分は、安心と愛情を、ひたすら求めています。

穏やかな心でいれば、安心しています。

自分の想いに敏感に反応するのは、あの時の想いが魂のありさまを変えて、ガンとして肉体に表れているからであり、ガンを進行させないためには、恐怖や不安を寄せ付けずに、穏やかな心でいることが何よりも大切と思われます。



しかし、どんなに穏やかに生活をしていても、ガンは治るわけではありません。

治癒のためには、あの時の表現できなかったつらい想いを、どうしても手放さなければいけません。



そのためには、あの時の自分に会うことが必要です。

あの時の自分が、あの時の想いを生じさせたからです。

一般的に、過去の自分の記憶や想いを表在化させるためには、退行催眠が必要と思われます。そのためにセラピストの元を訪れなければいけません。

しかし、病気は誰にも頼らないで、自分の力で治せるものだと考えられます。



では、あの時の自分に会うにはどうすればいいのでしょうか?

落ち着く場所で、一人静かになり、目を閉じて、考えること、思うことをやめて、心を穏やかに、しばらく待ちます。

頭の働きが低下している、眠りに入る前や、起きてから間もない頃が、最も良いのかもしれません。



そして、あの時の自分を思い浮かべて下さい。

あの時の自分の外見を、記憶の中で思い出すのではなく、少し遠くから、知らない人になって、眺めるようにして下さい。

近い頃の、自分の写真があれば、もっと良いでしょう。

その写真に写っている、あの時の自分を、じっと見つめます。

良く見てください。

あの時の自分が、そこにいます。

何も知らない、幼くてかわいい自分です。

何か悪いことをしたのでしょうか?

そんなことは、何もしていません。

ただ、幼いだけです。

小さいだけです。

心の中で、声をかけてみましょう。

「あなたは、何にも悪くないよ」

それは、事実です。

「あなたのことを一番知っているのは、この私だよ」

「だから、安心して、大丈夫だから」

「何も怖くない。もう大丈夫」

「とてもつらい想いをしてたね」と言って、心の中で、思いっきり抱きしめましょう。

愛を込めて。

「あなたのつらい想いが、やっと今、分かった。」

「寂しかったね。苦しかったね。泣きたかったね。」

「もう大丈夫、私がいるから」

「私が代わりに、いつもいてあげる」

「もう一人にさせない」

「安心して」と。

心の中で、あの時の自分にかける言葉を、例として書きましたが、あの時の自分をやさしくする気持ち、いたわる気持ちがあれば、表現は何でも良いと思います。

あの時の自分を慰めてやり、安心させてやりましょう。



もし、あの時の自分が、今の自分に心を開いてくれたのなら、あの時の想いが伝わってくるはずです。

こみ上げてくる、表現されなかった想いを、しっかりと感じることができるはずです。

それは、苦しかった、悲しかった、寂しかった、悔しかった、魂に封印されていた、あの時の想いが解放された証拠です。

涙を流すことで、想いが表現されるかもしれません。

泣きたければ、思いっきり声を上げて泣きましょう。

あるいは、感情が昂ぶり、怒りや、悔しさとして、想いが表現されるかもしれません。

あの時の幼かった自分に代って、今の自分が泣いたり、怒ったりして封印されていた想いを表現しています。

今の自分を通して、あの時の想いが、解放されています。

毎日、少しずつでいいですから、あの時の自分を思い浮かべて、やさしく抱きしめて、愛してやりましょう。

そして、あの時の想いを、感情として表現して、解放させてやりましょう。



あの時の、つらい思いをした自分を救ってやれるのは、ガンでつらい思いをしている、今の自分しかありません。

ガンは、肉体を死に至らせる病ではなく、あの時のつらい想いを解放させ、本来の自分を取り戻すためにある、神の摂理です。



神は愛です。

つらい出来事を経験した幼い子供に、時を経て、追い打ちをかけるように病気にさせて、ただ苦しみを与えるようなことはしません。

つらい出来事によって生じてしまった想いを、ガンという深刻な病気を通して気付かせ、解放させ、魂を本来の姿にもどすためにあります。

あの時の自分のつらい思いは、病気になりつらい思いをしなければわかりません。

前のように生きていたのでは、あの時のつらい思いをした自分に気付くことは、まずありません。

もし、気付いたとしても、あの時の想いを、分かち合い、解放することはできません。

どんなにつらかったのか、理解できないのですから。



解放されない想いが、どれだけ魂に重大な影響を与えているのか、この世を生きている私達には良くわかりません。

魂は生命であり、真の自分です。

それを少しでも向上させるのが、私達に与えられた責務です。

この世に生まれてきたのは、魂を向上させるためであり、愛を表現することで成就されます。

愛を表現することが、最も大切であり、それ以上のものは存在しません。

解放されない想いは、ありのままの自分を表現する、大きな妨げになっています。

本当の自分は、もっと愛を表現できるはずなのに、その想いが足かせとなり、できなくなっています。



永遠に生き続ける魂にとって、この世の人生は、ほんの僅かな時間ですが、愛を表現できなければ、無意味なものとなってしまいます。

想いを手放すことは、この世を生きる目的を果たすために、絶対に必要だったのでしょう。

すべてのことに意味があり、「愛」を中心に考えれば、納得の行く意味が、必ず見つかると思います。

ガンという病気になったのは、愛の大切さに気付くためです。

そして、あの時の想いを、あの時の自分と分かち合うために、苦痛の経験が必要だったのです。

あの時の自分は、閉じ込められて、愛を求めています。

愛されなかったあの時の自分を、愛の大切に気付いた今の自分が愛すればいいのです。

そして、愛により封印された想いは手放されるはずです。

あの時の自分を見つめながら、愛を送って下さい。

慰めて下さい。

つらい出来事を耐えたことを、無条件に褒めて下さい。

想いが手放されれば、魂は本来の姿を取り戻していき、肉体はそれに追従し、病気は癒やされてくると考えられます。

ただし、忘れてはならないことがあります。

それは、今の自分の病を治すために、あの時の自分を愛するのではなく、あの時の自分に心から同情し、共感し、いとおしむ想いから、愛さなければいけません。

あの時の自分のためにです。

それが、今の自分はできるはずです。

なぜなら、痛みに耐えて、十分に苦しんできたからです。



これまでのことを、信じていただけるかわかりませんが、本当に病気が良くなってもらいたくて、書いてきました。

私の知識や思考からではなく、向こうの世界からのインスピレーションと考えて下さい。

あの時の自分を、思いっきり愛する。

「あなたのことが、私は大好き」

こんなシンプルなことで、ガンが良くなってくるのであれば、私も驚きです。

試した人は、まだいませんので、結果がどうなるのかはわかりません。

ただ、失うことは、何1つありません。騙されたと思って、どうぞやってみて下さい。



愛がすべてであり、すべてが愛です。

あなたの苦しみ、痛みが少しでも癒やされることを、心から祈っています。




参考ページ: 「ガンは愛により癒される」













2014年7月17日木曜日

あの時の想いを手放すために



ガンという病気の根本原因は、表現されなかったつらい出来事から生じた想いであり、つらい出来事とは、幼少期に同性の親から受けた拒絶ではないかと、前回のブログに書きました。

その時の、想いが魂のありさまを変えていき、長い時を経て、ガンという形で肉体上に表れたと思います。

魂は、すべてのことを承知の上で、母体に宿り、地上に誕生します。

魂は自分の親がどんな人か、生まれ育つのはどんな家庭かを、知っていた訳です。

当然、生まれてから親との関係についても、およそ分かっているはずです。

幼い時に、親から冷たくされたり、あるいは拒絶されたりするかもしれないのも、分かっていたと思います。

それでも、その親を選んで生まれてきたのは、何かしらの意味があるはずです。

この世に生まれてきたのは、魂を向上させるためであり、そのためには、今の親である必要があったのでしょう。

親子の関係が、どうしてもうまくいかないのは、子供や親の性格が悪かったり、合わないのではなく、お互いに理解しあい、許しあうことを、この世で学ぶためであったのかもしれません。

もしガンが、つらい出来事から生じた想いの結果であれば、この世で、この病気を乗り越えていくことは、あらかじめ決められたことなのかもしれません。

最近、いろいろな本を読んでいますが、親との関係はもっとも近く、しかも親密なために、子供の心や魂に与える影響は、計り知れないものがあると感じています。

ガンを治すのには、想いを手放さなければいけない、出来事を許さなければいけないと思っていますが、そんな生易しいものではないことは確かです。

ガンという深刻な病気になるほど、つらい想いだったのでしょうから。

医学的には、ガンは異型の細胞が際限なく増殖して、肉体に死をもたらす病とされています。

しかし、霊的には、肉体は魂に従うため、魂のありさまの変化が、肉体上にガンとして表れたと考えられます。

ガンは、魂のありさまを変えてしまった、表現されなかった自分の想いに気付かせるためにあると考えられます。

苦痛の経験は、想いを手放すために必要と考えられます。

もし、つらい想いが時を経てガンとして表れたのであれば、つらい出来事が起きた時の想いと、ガンにより生じた想いは、似かよっているかもしれません。

ガンを告知された時の絶望感は、つらい出来事が起きた時の絶望感と同じなのかもしれません。

ガンの肉体上の痛みは、つらい出来事が起きた時の、心の痛みの反映かもしれません。

ガンの恐怖は、その時に味わった恐怖かもしれません。

ガンの不安は、その時に味わったの不安なのかもしれません。

うまく表現できなかった絶望、苦痛、恐怖、不安な想いが、時を経て、ガンとなり表現されています。

その時の、張り裂けそうな想いは、ガンとなり張り裂けそうな想いとして表現されています。

奥底の自分の想いに気付いて欲しいために、形を変えて肉体にガンとして表れた、魂の叫び、魂の訴えだと思います。

封印された想いは、誰にも知られることはありませんが、魂はいつも手放したがっています。

なぜなら、想いはありのままの自分を表現することの妨げになっているからであり、魂に流れ込む神の愛を表現する制約となっているからです。

想いを手放すため、出来事を許すためにはどうすればいいのでしょうか?

あの時の自分に、心の中で会いに行きましょう。

あの時の記憶を思い出すのではなく、道端で泣いている、見知らぬ子供のそばに行って、「どうしたの?」と尋ねるように、あの時の幼かった、もう一人の自分に言ってみましょう。

「大変だったね。つらかったね」と。

そして、心の中で、思いっきり抱きしめてやりましょう。

つらい想いをしても、何もできなかった、涙さえも流せなかった、あの時の自分を抱きしめながら、「もう、大丈夫だから、安心して」と慰めてやりましょう。

今、ガンになり、つらい想いを経験しているのは、つらい想いをしているあの時の自分を理解するためです。

つらい経験をしている、今の自分であれば、あの時の自分とともに、悲しみ、怒り、痛みを分かち合えるはずです。

全く同じ想いなのですから。

一人ぼっちで悩み、苦しんでいたあの時の自分を、救えるのは、一人ぼっちで悩み、苦しんでいる、今の自分しかいません。

幼かったあの時の想いを、今の自分であれば、解放させてやることができます。

今の自分は、ガンで十分に苦しみや、痛みを味わってきたため、あの時の想いを、あの時の自分に代わって、張り裂けそうな想いを、言葉や感情で、素直に、ありのまま表現してやることができるはずです。

ガンにならなかったら、怒りなどの感情に阻まれて、あの時の自分に会うことはできません。

あの時の自分は、「お母(父)さんがいなくなっちゃった」と泣き叫びたいのかもしれません。

お母(父)さんは生きていても、心の中にいなくなってしまったのかもしれません。

あの時の自分に会って、お母さんのようにやさしくしてあげて下さい。

それだけ、あの時の自分は、つらい想いをしてきたのですから。

あの時の自分を、存分に愛してやって下さい。

強く抱きしめてやって下さい。

慰めてやって下さい。

あの時の自分の想いは、あの時のまま、魂に閉じ込められています。

閉じ込められた想いは、あの時の自分の想いであり、今の自分の想いではありません。

今の自分は、あの時の出来事を許すことはできません。

あの時の自分だけが、あの時の出来事を許すことができます。

あの時の自分だけが、あの時の想いを手放すことができます。

あの時の自分に寄り添い、慰めて、愛してあげられるのは、今の自分しかいません。

つらい想いをした、あの時の自分を、溢れる愛で、包み込んで下さい。

あの時の自分を、今の自分が愛することで、出来事は許され、想いは手放されます。

ガンという病気で苦しみ抜いた、今の自分だからこそ、できるはずです。




参考ページ: 「ガンは愛により癒される」






2014年7月9日水曜日

「ガン ‐希望の書」を読み終えて



リズ・ブルボーの「ガン-希望の書」(ハート出版)を読みました。

著者は霊的真理にも精通していると思われ、ガンは肉体の病気ではなく、ハートからのメッセージであることを、ガンは愛によって癒やされることを、多数の患者さんの治癒の経験を通して学ばれました。

ガンを克服したいと願いう患者さんに、自らの経験や知識を惜しみなく授けようとしているのが、良く分かりました。



ガンは表現できなかった、つらい出来事が根本原因になっていると思っていましたが、リズ・ブルボーは「同性の親からの拒絶」から始まると、言い切っていました。

同性の親から拒絶は、子供の魂にそれほどまでに、影響を与えるのでしょうか。正直、私にはわかりません。

子供の頃、親からは毎日のように怒られていましたが、傷にはなっていません。

幼少の頃は、親は絶大な存在です。

親に頼らなければ、生きていけません。

すべてを信じ、すべてを委ねる存在です。

その親から拒絶されたのであれば、持って行き場のない、強烈な想いが生じるのは、何となく想像できます。

そして、魂が深刻な影響を受けて、時を経て、ガンになっていくのかもしれません。



数年前の出来事を、思い出しました。

私の同級生の友人と奥さんが、クリニックの患者さんとして通院していました。

人も羨むような、仲の良い夫婦です。

治療が終わり、挨拶をしようとしたら、奥さんは治療用のいすに座り、まっすぐ前を見ていました。

そして「病気になったので、しばらく通院できなくなりそうです。」と言われました。

「どうしたのですか?」と尋ねたところ、

「悪い病気みたいです。」と、淡々と話されました。

夫である友人は医者であり、後日連絡して聞いたら、ガンでステージⅣと言うことでした。

腰痛を訴えていて、ガンが背骨に転移していて、最初に見つけたのは、友人でした。

友人の勤務先の病院に入院し、手術は適応外のため、抗ガン剤治療が始まりました。


少しでも良くなってもらいたかったので、私は友人夫婦にヒーリングについて話をしました。

友人は信じられないという感じでしたが、奥さんには喜んで同意してもらえました。

週1回日曜日の午前中に、ヒーリングをすることになりました。


友人夫婦には、小学生の子供が二人いました。

新居も建築中であり、家族とともに新しい住まいでの生活を夢見ていました。

そんな時に、突然のガンの宣告、しかもステージⅣ。

奥さん、友人の心境は、とても想像できません。

奥さんの性格は、明るく、前向き、そして快活であり、病気とは無縁に思えました。

社交的で多くの友達が周りにいて、スポーツも大好きで、ガンになる原因はどこにも見当たりません。

どうして自分がガンになったのか、子供を育てているこの時期なのか、本人が1番納得いかなかったでしょう。



入院先の病院から抜け出して、私の仕事場にヒーリングを受けに来ましたが、しばらくはステージⅣには見えないほど元気でした。

ある日のこと、ヒーリングが始まってしばらくすると、奥さんがポツリと言いました。

母親からいつも「〇〇、〇〇」と言われ続けていましたと。

具体的に書くのは控えますが、女性が言われて最も傷つく言葉の1つだと思われます。

怒りや、悲しみを通り越して、あきらめに近い表情で話をしていたのが、印象に残っています。

何で私に、そんなことを話すのかと思いましたが、ヒーリングで霊的な力が流入し、魂が優位になっていると思われ、魂に刻まれた、子供の頃のつらい出来事が呼び戻されて、話したくなったのだと思います。

その時は、ずいぶんひどいことを言う母親だと思いはしましたが、そんな大したことではないと思い、聞き流してしまいました。



奥さんの病状は、家族の願いや医療スタッフの努力にもかかわらず、日に日に悪くなっていきました。

日曜のヒーリングにも、来られなくなりました。

しばらくして連絡したところ、脳に転移して大変つらいと話をしていました。

周りの人が驚くくらい、気丈に、前向きに頑張って、完成した新居に戻り、家族とかけがえのない時間を過ごすこともできたそうです。

すごく、うれしかったでしょう。

許されるのであれば、このまま家族といたかったでしょう。

しかし無情にも、愛する子供たち、友人を残して、次の世界に旅立って行きました。

38歳でした。

その日は、夫である友人の誕生日でした。

神が、その日まで生きていることを、許しました。

夫である友人に向けて、強いメッセージが込められていると感じました。

「私を忘れないで欲しい」というよりも、「私を愛してくれて、本当にありがとう」だと思いました。

目には見えなくなっても、子供や友人に寄り添い、あたたかく、時にきびしく、見守っているのは間違いありません。



他のガン患者さんがどうなのか知ることはできませんが、私の身近にいた人は少なくとも「同性の親からの侮辱的な拒絶」は受けていたと思われます。

なぜ、同性の親なのか疑問に思いました。

愛されたいと思う親から、拒絶された時の想いは、経験しなければわかりません。

同性の親は、数十年先を行く、未来の自分に近い存在であり、手本となる立場です。

同性の親の中に、自らが向かうべき方向や、将来の姿を見出していくのかもしれません。

人に分かってもらえないことでも、母親にわかってもらえれば、気持ちは落ち着きます。

そんな母親から、侮辱や拒絶のメッセージを受け取ってしまったのですから、逃げ場はありません。

本人にとっては、きっと耐えられない、気持ちが張り裂けそうな出来事だったのでしょう。

強い自己否定感が生まれてしまっても、おかしくありません。

もし私が同じ経験をしたら、自分の中に否定的な想いや、親に対する怒りや憎しみが、生じてしまうと思います。

幼少期であれば、大人のように怒りとか悲しみを、言葉や表情や行動で、うまく表現できるはずはありません。

できることといえば、泣きわめくくらいです。

母親からの「侮辱的な拒絶」は、泣くこともできない、あまりにつらい出来事だったのでしょう。

それが、幾度と無く繰り返されて、表現できなかった想いは、積み重なっていったと考えられます



他の人には分かってもらえない、苦しみや葛藤を、子供の頃から抱えていたことになります。

もし、その時のつらい想いを、言葉にして表現してもらって、少しずつ手放せていけたのなら、どう変わっていたでしょう。

自分を許し、母親を許すことができたとしたら、向こうに行かずに済んだのでしょうか。

今となっては、知ることはできません。



ガンは魂のありさまの変化が、肉体のありさまの変化として表れたと考えられます。

魂のありさまを変えたものは、過去のつらい出来事から生じた、表現されなかった想いと考えられます。

もう忘れてしまっているかもしれませんが、同性の親からの拒絶がなかったか、振り返える必要があります。

もし、そんな経験があったとしたら、幼かったために、想いは表現されずに滞ってしまっていると考えられます。

時を経て、子供ができて育てる立場になった時に、その出来事が再び呼び起こされて、同じ想いが積み重なっていったとしても、おかしくはありません。

そして、魂のありさまを変えるほど、想いがうっ積してしまい、肉体にガンとして表れたのかもしれません。

魂は自分のものであり、すべての責任を負わなければいけません。

ガンはその想いに気付き、手放し、魂を浄化させるためにあると思います。

ありのままの自分を許し、より大きな愛を表現するために、存在していると思います。

いたずらに苦しめたり、死に至らせる病では、決してありません。



過去(幼少期)に生じた想いを手放し、つらい出来事を許すことは、ガンを治すために避けて通れません。

しかし、想いは深く根を張っていて、そう簡単に手放したり、許すことはできないと考えられます。

ガンが治りにくいのは、想いを手放したり、許したりすることが、とても難しいからだと思います。



もし、想いを手放し、許すことができたのなら、奇跡のようなことが、現実に起こるような気がします。



現実に起きているので、そのことを伝えたくて、この本を書かれたのでしょう。

内容は難しく感じるかもしれませんが、真実を語っていると、直感的に思いました。

素直に信じて、実践する価値はあります。

この本を、私は支持します。



<追記>2014年12月16日
「がんが自然に治る生き方」 ケリー・ターナー(著)プレジデント社が出版されました。ガンを克服した人の、実体験に基づく病気に対する考え方や、根本的な治し方が、分かりやすく書かれていますので、とても参考になると思います。是非、読んで下さい。




参考ページ: 「ガンは愛により癒される」

        「ガン(癌)は怖くない!」

                        「想いを手放してガンを手放す」

                      「ガン(癌)の真相」










2014年7月3日木曜日

ガンの正体を知る

今まで、ガンという病気について、度々書いてきました。

ガン細胞には、遺伝子の変異が認められます。

しかし、変異を起こす主因は、未だ突き止められていません。

細胞分裂は、人の意志とは関係のない、自然の営み、神の営みにより行われます。

ガンが細胞分裂時のコピーミスということであれば、神の営みにミスがあったということになります。

もし、神の営みのミスということであれば、1つの受精卵から、細胞分裂を繰り返し、精緻な人体を造り上げていくことは、とても不可能です。

神の営みのミスではなく、神の営みの一環、神の摂理として、遺伝子に変異が生じたと考えた方が正しいと思います。

ガンの原因として、タール、ベンツピレン、ニトロソアミン等の発ガン物質、また放射線の被爆があります。遺伝的素因も確実に影響しているでしょう。

しかし、私の祖父はヘビースモーカーでしたが、ガンにはなりませんでした。

私の友人の奥さんは、タバコも吸わず、健康的な生活をしていましたが、ガンになりました。

それだけでは説明できない、何らかの要因があるのは明白です。


悲しければ泣き、うれしければ笑う、絶え間なく、内(魂)にあるものが、外(肉体)に表現されています。

魂のありさまの変化が、肉体の変化として表れているのが、ガンと考えられます。

魂のありさまを変えてしまったのは、過去のつらい出来事から生じた、表現されなかった想いと考えられます。


ここで、疑問がわきました。

魂のありさまを変えてしまうような出来事とは、どんなことだろうか?

1つの答えが、1冊の本の中にありました。

リズ・ブルボ‐というカナダ人が書いた、「ガン ‐希望の書」(ハート出版)という本です。出版されたばかりです。

その出来事とは、「同性の親からの拒絶」と言うことです。

30年にわたって、多くのガン患者さんを治癒に導いてきたので、書かれている内容は確信に満ちていて、きわめて納得のいくものでした。

「ガンを含めたあらゆる病気の背後には、肉体を超えた原因が存在する」、「ガンを人生における大切な〈学び〉の機会とみなす」と、述べられています。

表現は違っていても、同じことを伝えようとしているのがわかり、すごく安心しました。


そして、こんな疑問もわきます。

どうして、つらい想いを過去にして、(それを表現できずに)我慢した人がガンとなり、さらにつらい思いをしなければならないのか。

それは、本当はもっとたくさんの愛を表現できる人なのに、その出来事から生じた想いに縛られているために、できなくなってしまっているからなのかもしれません。

本当は愛を表現することに喜びを感じる人なのに、愛を表現するのを避けてしまっているからなのかもしれません。

ありのままの自分を認めていないために、ありのままの自分を表現できなくなってしまっているからなのかもしれません。

愛を表現することは、生きている意味そのものなので、自分を変えていかなければいけません。

変えていくためには、その出来事を許し、想いを手放さなければいけません。

その出来事を許し、想いを手放すためには、大きな愛の力が必要です。

愛の力は、自分で作るものではなく、神からの流れ込む(生命)力です。

他者に愛を表現することで、神からの(生命)力は、魂に流れ込みます。

愛することで、愛されます。

愛することで、癒されます。

人を、もっと愛するためには、自らの魂が向上していかなければいけません。

魂を向上させるためには、苦難を乗り越えていく経験と、愛の大切さに気付く経験が必要となります。

ガンによる肉体的、精神的苦痛は、経験した人でなければわからないほど、つらいものだと思われます。

つらい苦痛に耐え、不安や恐怖との闘いの中で、少しずつ魂は向上していきます。

そして、追い詰められて、逃げ場がなくなった時に、眠っていた魂がようやく目覚めます。

つらいでしょうが、それが神の摂理です。

魂は生命そのものであり、神の一部であるため、魂に目覚めると(神の心である)愛の大切さに気付き、しきりに表現したくなります。

感謝の思いも、形を変えた愛の表現です。

愛を表現していくことで、神から愛が流れ込み、その愛の力により、出来事が許されて、想いが手放されます。



魂に深く突き刺さっている矢に、本人も気付かずにいることがあります。

魂に矢が突き刺さっていることを知らせているのが、ガンという病気の正体であり、矢を引き抜くためには、相応の苦痛が伴います。

魂に矢を打ち放った人を許すことで、矢を引き抜くことができ、魂の傷は癒やされていきます。

許すことで、許されます。



人生がこの世で終わると考えると、つらい想いをして、つらい病気になるのは、きわめて不公平、不平等と思われますが、生命は魂であり、次元をまたいで生き続けます。

向こうの世界は、魂の世界であり、想いがすべてです。

魂が、愛の想いを放っていることが、最も大切です。

もっとも美しく、眩しい光を放っているのは、愛に満ちた魂です。

向こうの世界に行けば、誰もが愛の想いを放つことができるわけではありません。

憎しみを抱いたまま死ねば、向こうの世界でも憎しみをいだいたままです。

病気にならずに、怒り、憎しみ、恨みを抱いたままよりも、病気になり、たとえ苦しい思いをしても、愛の大切さに気付いて、愛の想いを抱き、表現しながら、この世を去っていった方が、生まれてた意味を成就しています。

周りに感謝し、生きている喜びを噛みしめ、愛の想いを表現するほど、幸福を感じることはありません。

神の摂理に適っているからです。

怒り、憎しみ、恨みの想いを、できるだけ愛の想いに変えるために、悩み、苦しみ、痛みを感じながらも、弛まぬ努力をしていくのが、この世に生まれてきた大きな目的だと思います。


もし、ガンにならずにいたのなら、生命や愛の意味を、これほどまでに知ろうとしたでしょうか。

生命や愛の意味を知ることは、この世の命をかけてまでも、大切だと言うことになります。

生命は神の愛を表現するために存在し、より高く、純粋な愛を表現するために、生き続けています。


この世のさまざまな経験は、愛の大切さに気付き、愛を深く知り、より高い愛を表現するためにあります。

ガンは、苦痛の末に死に至らせる病ではなく、さまざまな経験の中の1つです。

ガンの正体を知り、受け入れることは、治癒に導くために、不可欠だと考えています。




参考ページ: 「ガンは愛により癒される」



2014年6月26日木曜日

かわいい動物たち




シルバーバーチの霊訓を読んで、意外に思ったことがあります。

それは、動物についてです。

地球上で最も進化した動物は人間です。

2番目に進化した動物は何でしょう?

答えは、犬ということです。

猿ではないのかと思いましたが、人間のそばにいて愛情を受けた犬が、猿を抜き去ったそうです。

3番目に進化しているのは、猫だそうです。

私は、進化というのは知性の発達だと思っていましたが、そうではないみたいです。

進化とは、知性ではなく、霊性の向上ということになります。

犬や猫が進化したのは、人間のそばにいて愛情をもらい、霊性が向上したためだと思われます。



霊界に行くと、肉体である頭脳はなくなり魂(霊)のみの存在となります。

従って、頭脳による思考はなくなり、魂から生まれる想いがすべてとなります。

この世では、知性が高いか低いかが重要視される傾向にありますが、向こうの世界では霊性がすべてを決定します。

頭の良し悪しよりも、やさしさや思いやりがあるかないかが、はるかに重要と言うことになります。

学歴、肩書きなどは、すべて剥ぎ取られてしまい、全く意味を持ちません。

人や社会のために、何をしてきたかが問われます。

魂を隠す肉体はなくなっていますので、魂はあらわとなり、どんな想いでいるのか、誰が見ても分かるようになります。

本音と建前はこの世だけであり、本音だけとなります。

表と裏のある人は、裏だけになります。

魂がむき出しになり、隠し立ては一切出来なくなります。

この世を去った後のことを考えると、今のうちから、正直に、ありのままに、誰から見られても恥ずかしくないような生き方をしていきたいです。



ところで、私は動物と一緒にいっしょにいるのが、とても好きです。

家には、しろという雑種の4才のメス犬がいます。

2回も保健所に収容されました。1回目は生まれてすぐに飼い主に捨てられて、2回目は新しい飼い主となった家から出て、1ヶ月の放浪の末に捕獲されて、いずれもぎりぎりのところで見つけ出しました。身ごもっていました。

しろは、自分の立場が良く分かっています。

自分が出戻ってきたこと、新しい飼い主が見つかれば、この家を出て行かなければならないことを、承知していると思います。

夜、仕事から帰ってきて部屋のドアを開けると、しろはソファに座っていて、いつもあたたかい穏やかな眼差しで迎えてくれます。

「おかえりなさい。ご機嫌はどうですか?」と語りかけているように感じます。

やさしい犬なのですが、疲れて帰った時には、背中を向けて撫でてくれと、私に訴えます。

何で疲れている時に限って、なぜ撫でてもらいたがるのか、しばらくは分かりませんでした。

しょうがないなと思いつつ、やや大きな背中を撫でてやります。

しばらく撫でているうちに、仕事で波だっていた気持ち、疲れて沈滞していた気持ちがほぐされて、穏やかな気持ちに変わっていくのが分かります。

しろの背中を、無心に撫でているうちに、1日のいやなことが忘れられて、代って愛おしむ気持ちが自然に湧いてきます。

犬や猫は、想像する以上に賢く、愛情深い動物だと思っています。

人の想いを瞬時に読み取り、どうすればいいのかがわかるようです。

しろは、撫でてもらいたいのではなく、疲れているのを見てとって、撫でさせることで、私の気持が良い方向に変わってくるのを知っていると思いました。

しろにしかできない、愛情表現だと思い、いつも感謝しています。

自分が受け取った愛情を忘れずにいて、自分なりに返そうとしているのだと思います。飼い主のために、役に立ちたいのかもしれません。

しろの背中を撫でてやるのは、神の摂理に適った愛情を表現する行為であり、そのため、神からの生命力が流れ込み、私が癒やされているのだと思います。

癒やすことで、癒される。

施すものが、施される。

神の摂理を、ささいな日常の出来事の中に、見つけたような気がしました。



犬や猫などの動物は、言葉や論理的な思考はありませんが、魂から生まれる想いはあります。

人間みたいに、想いと表現の不一致はありません。

建前はなく、いつも本音です。

想いを、素直に正直に表現しているので、気が許せて、かわいいのでしょう。

私は動物たちのように、過去を振り返らず、将来を心配せず、今を精一杯生きたいと思っています。

しかし、できそうで、なかなかできません。過ぎたことを後悔し、先のことを考えて悩み、それに縛られると、今を精一杯生きられなくなってしまいます。

少しずつ、克服していきたいと思います。



動物も人と同じ様に、喜びや悲しみ、怒り、怖れ、嫉妬の感情があります。

そのことに、全く気付かずに、あるいは気付いていても無視して、人間は信じられない行為をしています。

毎年、数十万匹の罪のない犬猫たちが、悲しみ、恐怖、絶望の果てに、ガス室で息絶えています。

向こうの世界で、傷ついた動物たちの魂は介抱され、徐々に落ち着きを取り戻していくのは、せめてもの救いです。

しかし、神の摂理に反した弱者を虐げる行為は許されるはずもなく、かかわったすべての人たちは罪を償わなければいけません。

犬や猫を飼いたいと思った時は、保健所や動物愛護センターに行って、生命を救って下さい。

その行為は、神の摂理と完全に一致しているために、動物たちとの幸せな日々が、きっと待っていると思います。

人間と動物を結びつけているのは、種を超えた愛であり、動物を守り、愛することは、進化の上に立つ人間の義務であり、その結果として動物から愛されます。

そして、動物を愛することで、神からも愛されるのではないでしょうか。
新しい飼い主が現れないので、親子3匹私の家族になりました。




参考ページ: 「人は動物を食べる生き物ではない」


参考ブログ: 「ヴィーガンと動物愛護、そして時々、霊的真理」胸が痛くなりますがこれが現実です。是非見て下さい。



              
骨折した子犬を支援して下さい(2017年3月)
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ありがとうございます!目標金額に達しました。
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家族として迎え入れてくれる人を募集しています!(2017年7月)


ホープ・雄・7ヶ月(写真は4ヶ月当時)

     ⇩           ⇩        
家族に迎え入れてもらえました!!(2017年9月)       



2014年6月20日金曜日

神の摂理に合わせて病気を治す



世の中には、病気で大変つらい思いをされている方がたくさんいます。

医療に携わる人は、患者さんの健康を回復するために、日々研鑽、努力しています。

その努力にもかかわらず、日本において、30万人以上がガンにより亡くなられています。

根本的な治療を確立するためには、ガンの原因について解明されなければいけません。

ガン発症のリスク要因(喫煙、飲酒、肥満等)についての研究データは豊富にありますが、残念ながら、主因については、未だ解っていません。

主因が解らないまま、目に見えるガンを消滅させようとする治療が、多くの人に不利益をもたらしているように思えます。

ガンの主因を見つけられないのは、医学が対象としているものの中には、ないからだと思います。

人は、肉体と精神から成り立っていると考えられています。

しかし、精神(心)はどこから生まれるのか、解っていません。

大脳皮質における化学伝達物質の反応により生じるという説明では、とても納得することはできません。

膨大な脳の研究によっても、人の性格や考え方の多様性を説明することは不可能です。

生命とは何か?という根源的な問いに対しても、科学は答えを見出せずにいます。

生命、心の正体を突き止められないのは、科学が対象としているものの中には、ないからだと思います。

未知の領域である、魂(霊)に踏み込んでいけば、説明は簡単となります。

生命とは肉体を超えた魂であり、心は大脳からではなく、魂から生じるものであり、そのために多様性を持ちます。

そう考える方が自然だと思いますが、残念ながら、医者や科学者は、霊(魂)の存在を、認めていません。

触れてはいけない、入ってはいけない領域だと思っています。

しかし、霊と肉体は不可分であり、健康と密接に関わっていることは、明白な事実です。

その(霊的な)知識なしに、病気の本質を理解することは、不可能だと断言します。


人は肉体を超えた存在であり、生命力で生かされています。

肉体は土に還っても、生命は存続します。

その厳粛な事実を、謙虚に認めることから、すべてが始まります。

私はシルバーバーチの霊訓から、崇高な霊的真理を学びました。

多くの病気の根本原因は魂にあり、神から生命力が流れ込むことにより、病気が癒やされることを知りました。

途切れることなく、神から生命力が流れ込んでいます。

しかし、その実感はありません。

そのため、生命力の存在を信じるのは容易ではありません。

約7年前に、思いもよらず、治癒力が出現しました。

病気の人に、私の左手を置くとエネルギーらしきものが上腕から前腕、そして指先に伝導していき、患者さんに流れていくのを、はっきりと感じます。

そのエネルギーらしきものは生命力であり、患者さんに治癒力として働いていることを、経験を通して確信するに至りました。



過去のブログにもある内容ですが、ガンで苦しんでいる患者さんが、少しでも良くなることを願って、あらためて書きます。

目には見えませんが、魂は間違いなく存在します。

生命の本体であり、意識の本体です。

魂は、神の一部であり、神とつながっています。

魂は、神からに流れ込む(生命)力により生かされています。

生命力は神の力であり、神の心である愛を表現しようとする力です。

魂は生命力により、愛を表現しようとしますが、表現するには媒体が必要となります。

肉体は、地上の人が魂を表現をするための媒体です。

間断なく、魂から想いは生じています。

想いは精神を経由して、肉体で表現されます。

人は、肉体を使い、言葉、表情、行動により、想いを表現します。

この世を生きている人の魂は、さまざまな進化の過程にあります。

進化した魂は、神の力である愛を忠実に表現しようとしますが、進化が足りなければ愛が歪められてしまう時もあります。

怒り、憎しみ、恨み、妬みなどの想いは、神の力である愛が歪められてしまった結果です。

人は生きていると、思いもよらぬ、つらい出来事に遭うことがあります。

その出来事により、魂から様々な想いが生まれます。

想いは精神を経由し、感情となり、肉体(言葉や行動)で表現されますが、強い抑制がかかると、想いを表現できないことがあります。

つらい出来事から生じた、怒り、恨み、憎しみ、妬みなどの摂理に反する想いが、表現されずに留まると、やがて魂のありさまを変えていきます。

愛が歪められ、怒り、恨み、憎しみ、妬みを帯びた想いが、魂から生じるようになっていきます。

そのため、怒りやすくなったり、許せなくなったり、認めようとしなくなったり、協調しなくなったり、欲深くなったり、摂理に反した行いとして、表現されてしまいます。

摂理に反した想いを抱き、それを表現するのが習慣になってしまうと、過ちに気付き、自らの力で改めるのは困難になっていきます。

そして、神の摂理である因果律が作動します。

その結果として、病気が生じることがあります。

病気になれば、苦痛を経験しなければいけません。

苦痛の経験は、摂理に反した想いを抱き、表現した、相応の償いです。

償いであるとともに、魂を向上させていきます。

魂が向上すると、他者の想いを理解できるようになります。

愛の大切さに気付き、愛を表現するようになります。

神の愛を表現することは、魂を向上させることであり、生きている意味そのものです。

従って、病気は、生きている意味を取り戻すためにある、神の摂理と言うことになります。

ガンは、不運でも偶然でもなく、神の摂理によって生じます。

死に至らせるため、苦痛を与えるだけの病では、決してありません。

原因は魂にあり、肉体の病変はその結果を見ているに過ぎません。

魂のありさまの変化が、肉体のありさまの変化として表現されています。

もしかしたら、魂にありさまを変えてしまうような、とてもつらい出来事があったのではないでしょうか。

その記憶は薄れても、魂にはしっかりと刻まれています。

つらい出来事によって生じている想いは、固く、深く根を張り、魂にしこりとなっています。

想いを表現するのに、大きな障害となっています。

愛を素直に表現することが、どうしてもできなくなっています。

その人にふさわしい愛の表現ができるようになるために、魂にまで響く、深刻な事態が、神の摂理である因果律により生じます。

とてもつらいことですが、絶望の淵に立ち、耐え難い苦痛を味わい、頼るものは何もなくなり、観念しかけた時に、それまで眠っていた魂が、ようやく目を覚まします。

魂が目覚めると、生命が輝きだし、しきりに愛を表現しようとします。

愛を表現することで、神とのつながりがさらに深まり、より多くの生命力(神の愛)が魂に流れ込み、その力により、想いのしこりは徐々に消えていきます。

想いのしこりが消えていくととも、魂のありさまが変わり、やがて肉体のしこりも消えていきます。

想いを表すのに、さえぎるものは消えてなくなり、魂は本来の姿を取り戻し、その人にふさわしい愛を、素直に表現できるようになります。



病巣が消退していき、健康になり、前の生活を取り戻したいと望むのは当然です。

痛みとの闘い、恐怖と不安との闘いを、早く終わりにしたいと願うのは当然です。

愛の想いを抱き、愛の表現を出来るだけしていきましょう。

やさしくすること、思いやること、いたわること、慰めること、励ますことは、立派な愛の表現です。

許すこと、認めることも、自己を忘れた愛の表現です。

感謝の気持ちを表すのは、相手に喜びや満足を与えるので、大切な表現だと思います。しかし、慣れてしまうと忘れがちになりますので、注意して下さい。

笑顔も、人だけに許された、ささやかな愛の表現です。

しかし、病気になると、したくてもできないことが多くなってしまいます。

マザー・テレサは、こう言っています。

「私たちは、この世で大きいことはできません。小さなことを、大きな愛をもって行うだけです」と

感謝の想いを込めて、笑顔で「ありがとう」と言いましょう。もし、言えなければ感謝の想いを送りましょう。

自分なりに、自然に、素直に、愛を表現をしていきましょう。

神の摂理である愛を表現することで、より多くの生命力が魂に流れ込み、ありがたい自然治癒力となり働きます。

病気を治すために、からだを養生することは大切です。

それ以上に、神の摂理に合わせることは大切だと思います。













2014年6月12日木曜日

想いを表現する



今日は仕事が休みなので、いつもの障害者施設にボランティアに行ってきました。

ボランティアと言っても、話をしたり、一緒に遊んだりするだけです。

それでも、行くと皆さん喜んでくれます。中でも20代の男性であるH君は障害のない片手を上げて、満面の笑顔で迎えてくれますので、こちらが恥ずかしくなります。

彼は、小学6年生の時に、交通事故に会い、生死の境目をさまよいました。

向こうの世界には行かず、こちらに戻ってきました。

ご両親とご家族は、さぞ喜んだことでしょう。

しかし、肉体は大きく傷つき、半身不随、片眼失明、言葉を失い、車いすの生活となりました。知能の発達は止まってしまっている可能性が高く、会話をすることはできません。

脳は損傷を受けて、たとえ言葉を失っても、魂から湧き上がる想いは、健常者と変わりありません。

子供のような瞳を見ていると、その奥に彼の魂をしっかりと感じることができます。

目に見える肉体に障害があっても、目に見えない魂はいたって健全であることが、心やさしい彼と一緒にいると分かります。

そして、想いをうまく表現できないことが、いかにつらいことなのか、伺い知る時があります。

「嫌だ」、「やめて欲しい」、こんな簡単な表現ができないために、どれほどつらい思いをしてきたのか、想像もできません。

そんな彼には、大好きなお父さんがいて、時々週末には家に連れて帰ってくれます。それを何よりの楽しみにしています。

ある日、部屋で二人っきりになる時があり、日頃、感じていることを、思い切って彼に尋ねてみました。

「どうしても伝えたいことがあるでしょう?」

「分かるかもしれないから、良かったら伝えてごらん」と言いました。

想いは言葉を介さずに、魂から魂に伝わるものだと知っていましたので、大きな瞳を見つめながら、彼の想いが伝わってくるのを、静かに待ちました。

すると、「ありがとう」という感謝の想いを感じ取ることができました。そして、お父さんの面影が頭に浮かび上がり、結びつきました。

ためらうことなく「お父さんに、ありがとうと伝えたいの?」と聞いてみたところ、目から大きな涙が溢れてきて、大きくうなずきました。

受け取ったやさしいさや思いやりを、「ありがとう」という言葉で返すのは、礼儀を超えた、魂の素直な表現です。

日々、多くの恩恵を受けているのもかかわらず、感謝の気持ちを言葉にするのを、ついためらってしまう私は、この「ありがとう」の一言がどれほどの重みを持つのかが、あらためて分かりました。

周りから、いろいろな想いや行いを受けるばかりで、表現して返すことができない、彼のくやしさ、もどかしさは、計り知れません。

残念なことに、彼の身体は元には戻りません。言葉で表現するのは、これから先も無理でしょう。

しかし、肉体のない次の世界に行けば、想いのすべてを思う存分、お父さんに伝えることができます。

言葉という、もどかしい、あいまいな媒体は必要とせず、魂から魂に、想いを直接伝えることができます。

肉体が障害となり、伝えられなかった想いは、肉体がなくなることで、間違いなく伝えられるようになります。そんな事も、H君に話をしました。

表現の自由が限られたH君は、これから先も試練が続いていきます。

彼にとってどんな意味を持つのだろうと考えてみましたが、自由に表現できるありがたさを知るためとしか、思いつきません。

失うことでしかわからない大切なことが、あるのだと思います。

大切なものであればあるほど、試練は長く、こんなに厳しくなるのでしょうか。

何十年かして、一足先に向こうに行き、待っているであろう、お父さんと再会して何を伝えるのでしょうか。

言葉にすれば「お父さんがいたから、つらいけど乗り越えられたよ。本当にありがとう」でしょうか。

しかし、ずっと伝えられなかった想いは、「ありがとう」という言葉では表現し尽くせるものではない、強烈な愛の想いであり、魂と魂でしか伝わらないものだと思います。

今日のH君ですが、活動時間にしたボウリングで優勝しました。喜びは、しっかりと満面の笑顔で表現していました。

この世では肉体という、鈍重な媒体が使われているため、想いのすべてを表現することは、到底できません。

しかし、この世を生きているうちは、神から与えられた肉体と言葉で、想いを表現していかなければいけません。

さまざまな経験をするのは、魂を向上させるために避けらませんが、出来事がとてもつらく感じられてしまうと、人は早く忘れようとします。

しかし、頭では忘れたとしても、魂にはしっかりと刻まれていて、想いは生じています。

そして想いが滞ってくると、魂に流れてくる神の愛が堰き止められてしまい、肉体で素直に表現できなくなります。

魂は神の一部であり、神の心である愛を表現するために存在していますので、滞った想いは早く開放してやらなければなりません。

H君のように障害があり、つらい経験をしても想いをうまく表現できない人は、想いが滞り、病気になってしまうのではないかと思いました。

しかし、現実には感染症以外の病気にかかる人は、あまりいないようです。

想いを表現することができない人は病気にはならないで、想いを表現しようとしなかった人が病気になるのかもしれません。

人に伝えにくい想いは、いくらでもありますが、自分なりに精一杯、言葉や表情、あるいは行いで表現していくしかありません。

素直に、ありのままを、正直に。

とても難しいことですが、愛の想いに変えて。

H君を見ていて、そう思いました。