2025年11月30日日曜日

この世に苦がある理由


最近、終活をしている人が多いようです。

備えあれば憂いなしですが、昔は死んだ時のことを考えるなんて縁起でもないと考える人が多くいたので、時代は変わったものです。



死後の世界や魂の存在を、頭ごなしに否定する人が少なくなって来ているように感じられます。

それに伴い、死に対する考えが少しずつ変わって来ているのかもしれません。



死は忌まわしいものでも、怖いものでもありません。

肉体から魂(意識)が解放され、本来の住処に戻る現象であり、喜ばしいことです。



死後の世界が明らかされれば、死を恐れずに、安心して生きて行けると思いますが、そうはなっていません。

明らかされないのは理由がありそうです。



オーストラリアでこんな調査結果が出ました。

16歳から85歳までのオーストラリア人のうち約150万人(7.4%)が自殺の計画を立て、約97万人(4.9%)が生涯のどこかで自殺未遂を経験しています。

計画を立てないまでも、死んでしまいたいと思ったことのある人はずっと多く、日本人の若年者の44.2%が希死念慮を経験しています(日本財団の調査より)

死にたいと思ったことのある人は、想像していた以上に多いです。



あの世があり、死んでもそこで生き続けることが明らかになったらどうなるでしょう。

自らの意志で行ってしまう人は、少なくないと予想されます。



この世では、時に生きているのがつらくなるような困難や苦難に遭遇します。

そんなこの世を生きている目的は、自分(魂)を成長させるためです。



シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。

「地上の人類はまだ痛みと苦しみ、困難と苦難の意義を理解しておりません。が、そうしたものすべてが霊的進化の過程で大切な役割を果たしているのです。」

そしてこうも書かれています。

「苦しみの淵を味わわずに、魂の修練は得られません。底まで降りずに頂上まで上がれません。それ以外に霊的修練の場はないのです。あなた自らの苦しみ、自ら艱難辛苦を味わい、人生の暗黒面に属することの全てに通じて進化が得られるのです。」



あの世は、苦から解放された世界です。

この世を生きた方が、より自分を成長させることができると考えられます。

快適なあの世を離れて、苦のあるこの世に生まれて来たのは、自分を成長させようとする意志があったからです。



この世に生まれると、肉体で自己表現するための自我が生まれます。

その自我は、肉体の成長と共に発達して行きます。

多くの人はその自我を自分だと思っていますが、その奥に真の自我が存在しています。

死んであの世に行くと肉体がなくなり、この世で自己表現していた自我もなくなります。



あの世は真実の世界と言われます。

それは、真の自我が露わになり、嘘偽りのない、本当の自分の想いのみが表現されるようになるからです。



五感に触れない極めて大切なものが2つあります。

1つは「愛」であり、もう1つは「神」です。

あの世に行くと霊的な感覚だけになり、それらの存在がありありと感じられるようになります。



神は無限の存在です。

全宇宙であり、全宇宙を支配している法則であり、全宇宙と法則を創造した意識であると考えています。



その意識は完全なる愛です。

その意識に触れると、愛を実感し、悦びに満たされます。



霊的に成長し、神の意識に近づくことで、より深い悦びが得られるようになります。

深い悦びを得たいがために、私たちは成長する方向へと進んでいると考えられます。



神は遠く離れたところにいる存在ではありません。

私たちの内にもいます。

私たちは完全な愛を秘めた存在ですが、表現媒体である自我が不完全なために、表現することができないだけです。



あの世に行ってしばらくすると、自分の不完全さを自覚して、足りない資質が意識されるようになります。

足りない資質を身に付けるために、苦のあるこの世に生まれて来ています。


6歳くらいの時に、自転車の乗り方を覚えました。

本を読んだり、口で教えてもらって、乗れるようになるわけではありません。

サドルにまたがり、時に転んで痛い思いをして、試行錯誤を繰り返しながら、乗れるようになります。



それと同じで、実際に自分で経験しなければ、霊的な資質を身に付けることはできません。

身に付けるのに相応しい経験をすることになります。



例えば、「勇気」です。

真の勇気とは、良心に従って行動しようとする力であり、成長して行くために不可欠な資質です。

身に付けるために、怖れや不安を克服して、乗り越えて行かなねばならない経験をすることになるかもしれません。



「寛容」は、自己犠牲を伴う愛の表現であり、神の意識に近づくために重要な資質です。

身に付けるために、他者の過ちを許さなければ、前に進んで行くことができない経験をすることになるかもしれません。



どんな出来事を、いつ経験するのかは、知ることはできません。

完全なる神によって立てられた計画であれば、最善の出来事が、最善のタイミングで起きるはずです。

けれども、この世の人にとっては、最悪の出来事が、最悪のタイミングで起きたと感じられるかもしれません。



少し長くなりますが、シルバーバーチの霊訓にはこう書いてあります。

「何もかもがうまく行き、鼻歌まじりののん気な暮らしの連続では神性の開発は望むべくもありません。そこで神は苦労を悲しみをそして痛みを用意されるのです。そうしたものを体験して初めて霊的知識を理解する素地が出来上がるのです。(中略)霊的な宝はいかなる地上の宝にも優ります。それはいったん身につけたらお金を落とすような具合になくしてしまうことは絶対にありません。なんらかの荷を背負い、困難と取り組むということが旅する魂の本来の姿なのです。もちろん楽なことではありません。しかし魂の宝はそうやすやすと手に入るものではありません。もしも楽に手に入るものであれば、なにも苦労する必要はないでしょう。痛みと苦しみの最中にある時は中々、その得心が行かないものですが、必死に苦しんでいる時こそ魂にとって、一番の薬なのです。」



生きるのがつらくなるような出来事を経験しているのであれば、それを不運や不幸と思わない方が良いのかもしれません。

自分のために起きていて、自分で決めていたことかもしれないからです。



人生を嘆いたり、運命を呪ったり、神を恨んだりしてはいけません。

予期していた資質を身に付けて、成長して行く妨げになるからです。

不平不満や愚痴を言ったり、誰かのせいにしてしまうと、自分を変える力が削がれてしまいます。



あの世に行くと全てが明らかになります。

たとえ今は分からなかったとしても、自分を望ましい方向に変えるために起きていると、強く信じましょう。

あの出来事があったからこそ、今の自分がいると思う時が必ず来ます。



この世の苦の経験は、霊的な資質を身に付け、成長することにより、完全に報われています。

あの世での生きる悦びにつながっていたことを知り、神に感謝するでしょう。



2025年11月23日日曜日

動物を食べてはいけない

 

前回は「クマの駆除」について思うところを書きましたが、それでは片手落ちではないかと感じましたので、このテーマで書くことにしました。


子供の頃、たくさんの牛が貨物トラックに載せられて、走って行くのを見ました。

今にも涙を流しそうな潤んだ悲しい目をしているように見えて、何とも言えない気持ちになりました。



小学6年生くらいの時に、その牛たちの行く末を知ることになります。

実家の近くに、規模の大きい食肉工場がありました。

ある日、近所の友達とその工場に隣接した公園で遊んでいました。

ふと工場の中がどうなっているのかが気になり、中を覗いて見ようという話になりました。

友達とともに背丈よりも高いブロック壁をよじ登ると、目の前に工場のくもりガラスの窓がありました。

半分位割れてなくなっていたので、建物の中の様子を覗くことができました。(※ここからは凄惨な描写になりますのでご注意ください)

そこに数人の男性が見えました。

しばらくすると一頭の黒白模様の大きな牛が、男性たちの中に牽かれてやって来ました。

牛は観念しているのか、身動きも、抵抗もせず、鳴き声ひとつも上げていません。

一人の男性が、つるはしの両刃が10センチ位に短くなったような道具を持っていました。

何に使うのか考えている暇もなく、男性はその道具を振り上げて、力いっぱい、牛の眉間の少し上の部分に、振り下ろしました。

刃先が頭蓋骨を打ち破る、鈍い音が響き渡りました。

直後に、牛はコンクリートの地面に倒れて、頭蓋骨の穿孔部から、どくどくと真っ赤な血が溢れ出てきました。

男性の一人が、倒れた牛の額の穿孔部に針金のようなものを入れて行くと牛の後ろ足がピクピクと痙れんしていました。

他の男性たちは、刃物で皮を引き裂いて、はがしていき、あっという間に、皮膚のない牛が、フックみたいな金属につるされました。

今まで元気に生きていた牛が、人間の手で殺されて、ものの5分もかからないうちに肉の塊になりました。

あまりに衝撃的な光景を目の当たりにして、言葉をなくしたまま家に帰りました。



今も変わらず、たくさんの牛や豚やニワトリが食肉工場へと運ばれて行きます。

あるドキュメンタリー映画で、豚を乗せたベルトコンベアが、小さなスペースの前で止まり、プレス機により一瞬のうちに圧死させて屠殺するシーンがありました。

苦痛や恐怖を軽減するためでしょうか、今は機械により行われていることを知り、より一層の非情さを感じました。



比較的安い値段でハンバーガーを提供している会社があります。

生産コストを下げるために、動物たちは密集度の高く、自由を奪われた環境で育てられていることが多いようです。

動物は商品に過ぎないので、ストレスなど全く関係ありません。

そして、容赦無用に肉にさせられます。

同じ魂を持つ生き物に対する尊厳は微塵も感じられません。

絶対的強者である人間による、弱者への究極的な虐待のように思えてなりません。

口にしている肉が、どのような行程で造られているのかを知れば、食べる気が失せてしまうでしょう。

いいえ、知らないふりをしているだけかもしれません。



ところで、人間は肉を食べなければ生きて行けないのでしょうか?

むしろ、健康的に生きて行けると私は思っています。

疫学的研究からも、摂取する肉食の量が多くなるほど、病気になるリスクが高くなることが示されています。(下図)

「Nature  Madicine」10 October 2022 より


それでは、人間はどんなものを食べるように創られているのでしょうか?

人間の奥歯の形態は、嚙み合わさる面が平らになっていて、穀物や豆類などを砕いて食べるのに適しています。

同じ霊長類であるゴリラやオラウータンは人間と似たような歯の形態をしており、果実などの植物しか口にしません。

人間の下の歯


一方、肉食動物の奥歯の形態は、鋭く尖っていて、肉を嚙み切れるように創られています。
ライオンの下あごの標本

人間は肉を食べるように創られていないのです。



牛や豚やニワトリは、何らかの役割りがあって、地球に存在しています。

例えば牛ですが、草を食べて過度の繁茂を防いだり、背の高い植物の競争力を抑えて多様な草花が生える環境を作り、草原の更新を促し光が地表に届くようにさせるなど、草原生態系の維持に貢献しています。

豚もニワトリも同じように、大自然の中での役割りがあります。

傍にいたならば、犬や猫のように人を癒すことができるのかもしれません。

人間に食べられるために存在していないのは確かです。




食肉工場で屠殺された動物たちはどうなるのでしょうか?

霊界を探訪して来た人によると、人間によって肉体を奪われた動物たちの絶叫が聴こえるエリアがあるようです。

極めて大きな恐怖を感じながら命を奪われ、その意識のまま霊界に行くので、当然のことながらそうなります。

              

そのエリアには、神からの癒しの力が降り注がれていると共に、動物を慈しむ霊界の人たちによって介抱されて、興奮状態は鎮められて行くと思われます。

良心に反して、利己的な目的のために動物に苦痛や恐怖を与えた人たちは、死んで大いに後悔することになります。

その後悔を晴らすため、罪を償うために、地上からひっきりなしに送られてくる動物たちの管理や世話をしているのではないかと想像しています。

愛により本来の姿を取り戻した動物たちは、自分が属している類魂へと戻って行くと考えられます。


人間から愛を受けることによって、動物は霊的に進化します。

肉を食べるという行為は愛とは真逆であり、動物たちの進化は妨げられます。

摂理に反したその行いは、自らの進化を妨げるという結果となって、人間に返って来ます。



動物たちの苦痛や恐怖を想像する力の欠如、そして霊的な知識の不足から、肉を食べる習慣が続いています。

それを急に止めさせることはできません。

けれども、人類の霊的成長に伴い、毛皮のコートを着る人が少なくなったように、肉を食べる人も少なくなって行くでしょう。

数百年後には、肉を食べる人は少数派になります。

そして千年後には、食べていた時代があったのかと、驚かれる時が来るでしょう。



動物を食べてはいけないのは、人間と霊的に近しく、豊かな感情を持っているからです。

人間に食べられるために創られていないからです。









2025年11月16日日曜日

クマの駆除について思うこと


連日のように、人里にクマが出没し、人が襲われるニュースが報道されています。

今年、日本でクマに襲われて命を落とした人の数は13名で、過去最高です。

生息地域周辺に住む人にとって生命に関わる問題であり、早急な対策が望まれます。



なぜ、クマが人の住んでいる地域にまで入って来るのでしょうか。

その大きな理由として、山でドングリなどの食糧が採れなくなったことが挙げられます。

通常、冬眠前のクマはたくさんの木の実を食べて、皮下脂肪を蓄えて丸々と太っていますが、ニュースの映像を見る限り、ほっそりとしていることからも、そのことが窺えます。



十分な皮下脂肪を蓄えないと、クマは冬眠に入れません。

冬眠に入れなければ、食糧の乏しい冬は越せません。

生命に関わる深刻な状況にクマも陥っています。



クマが狂暴になったと言われますが、果たしてそうでしょうか?

人間も空腹になると(血糖値が下がり)イライラしたり、怒りっぽくなります。

クマも同じだと思います。

寒い冬が迫って来て、焦りのようなものも感じているのかもしれません。



クマは警戒心が強く、臆病な動物です。

食べないと冬が越せないので、やむを得ず食糧のある人里まで降りて来ていると考えられます。

山にいると飢えて死んでしまい、人里に下りて餌を探すと撃ち殺されてしまう、どちらにしても過酷な運命が待っています。



何故、このような状況になってしまったのでしょうか?

木の実が採れなくなった原因は、気候変動にあると考えられます。

気候変動の大元に、地球温暖化があるのは間違いありません。



ドングリやナラなどの実は、一定間隔で豊凶作を繰り返していますが、気温が高くなると凶作が短い期間で起きると言われています。

特に、猛暑の年は花芽の発育が不良になり、翌年は凶作になるようです。

猛暑が続く限り、凶作も続くと考えられます。



地球温暖化は、人間が過剰に作り出している二酸化炭素によって起きています。

つまり、クマが人里に下りて来る大きな原因を作っているのは人間と言うことになります。


地球温暖化により被害を被っている動物は他にもいます。

気温上昇のために北極圏の氷が溶け出して(過去40年で40%消失)、アザラシなどを捕食しているシロクマは移動できないために、飢餓状態に陥っています。

私たちが知らないだけで、たくさんの生き物たちが生命の危機に晒されています。

痩せたシロクマ

全ての生き物に神性が宿っています。

霊的に同じ価値があります。

けれども、多くの人間は自分たちが最も価値のある生き物だと思っています。

そのために、人間中心に考え、他の生き物にまで関心が及びません。



人間の行いの1つ1つに、自然法則が働いています。

傲慢で利己的な行いには、苦痛を伴う結果が返って来ます。

(ケガをした人や亡くなった人に非があるわけではありませんが)クマに襲われるのは人間の身勝手な行いが原因と考えられます。



人家に入ったクマを撃ち殺す銃声がニュースで流れて、心が痛くなりました。

もちろん自分の身を守る権利はありますが、人間の諸業の被害者であるはずのクマが、一方的に撃ち殺されている現実に矛盾を感じずにはいられません。



私も日常生活で、車に乗り、電気を使い、二酸化炭素を出しているので、責任の一端があります。

非現実的かもしれませんが、人間とクマの命を守るための対策を、私なりに考えてみました。

〈短期的対策〉

・クマの食糧となるものを屋外に置かない。(柿や栗などの実も早期に収穫)

・無用な接触を避ける。(生息地域周辺の登山やハイキングなどの自粛)

〈中期的対策〉

・人里に現れたクマを射殺するのではなく、麻酔銃(吹き矢)で捕獲して、人間が恐い存在であることを自覚させて、位置情報が得られる発信器を装着して山に帰す「キャッチ&リリース」を繰り返す。(都道府県単位でクマGメンを組織してこの業務に当たらせる。)

・「クマアプリ」を開発し、一定範囲内にクマが近づいて来たらスマホに通知するようにする。

〈長期的対策〉

・放置されている人工林(スギ・ヒノキ)を間伐し、ブナなどの広葉樹を植えて、実り豊かな森林にする。

⦿学校の授業の一コマに「地球を考える(仮称)」を組込み、その中で野生動物との共生について考える。

その中で、自我(エゴ)がまだ発達していない子供たちに、こんな霊的真理が伝えられれば、どんなにか良いでしょう。

「愛が愛として本来の威力を発揮するようになれば、すべての創造物が仲良く暮らせるようになります。地球という生活環境を毒し問題を発生させる不協和音と混沌のタネを蒔くのは、人間という破壊主義者、人間という殺し屋です。すべての問題は人間が拵えているのです。神が悪いのではありません。動物が悪いのでもありません。人間が自由意志の行使を誤り、勝手に優越性を誇ったためです。」

子供たちに分かりやすく書くとこうなります。

「みんなの心の中にある「愛」がちゃんと働くようになれば、この世界の生きものは、みんな仲よくくらせるようになります。でもね、人間は地球をよごしたり、あらそったりしています。神さまが悪いわけでも、動物たちが悪いわけでもありません。人間が「ぼくたちが一番えらいんだ」と勘違いをして、好き勝手にしてしまったから、いろんな問題が起きているのです。」



「人間が悪いのに、クマを殺しても良いの?」と子供たちに問いかけたらどうでしょう?

「だめ!」と多くの子供は答えるでしょう。

「動物たちを助けるためにはどうすれば良いの?」と投げかければ、おのずと地球温暖化に関心が向くと思います。

そこで、二酸化炭素を減らすために、社会でするべきこと、自分にできることを、みんなで話し合います。

答えが出たら、今日から実行に移してもらいます。



同じような問題が世界中で起きています。

日本だけでなく世界中の学校で、今起きている問題を通して、地球温暖化について話し合います。

同じ想いを、世界中の子供たちに共有してもらいます。


射殺された母クマの乳を吸う赤ちゃんクマ(日本熊森協会HPより)


「クマを駆除する」

山にいて平和的に共存していたクマを、人里に下りて来なければならない状況を作った人間に、そんな権利があるのでしょうか。

その場しのぎで、人間のことしか考えない、エゴの強くなった人たちにいくら言っても無駄なような気がします。

動物たちの窮状と、なぜこうなったのかを教えれば、子供たちの良心に響いて、真剣に考えてくれるでしょう。

子供たち一人ひとりの意識が、人間だけでなく動物たち、そして地球全体に向かうことで、世界は確実に変わって行きます。






2025年11月9日日曜日

地上に生まれた理由


私たちは地上に、何らかの目的があって生まれて来ました。

自分には目的など見当たらないと言う人もいるでしょう。

それでも、なければ生まれて来ないので、あったと言わざるを得ません。



死んで無にならないと、霊的真理によって知りました。

肉体から魂が分離する現象が死であり、肉体から離れた魂は霊界に赴きます。

そこが本来の住処です。



想像するのが難しいのですが、霊界では想ったことが直ちに具現化します。

食べる必要がなく、働く必要もありません。

煩わしい人間関係もありません。

病気や怪我の心配もありません。

自由にやりたいことができます。

何の悩みもなく、無邪気に遊んでいた子供の頃に、少し似ているような気がします。



高い界層から地上圏に戻って来た目的を、シルバーバーチはこう語っています。

宇宙には神の愛が行きわたっております。その愛が天体を運行せしめ、その愛が進化を規制し、その愛が恵みを与え、その愛が高級霊の魂を鼓舞し、それまでに成就したもの全部をお預けにして、この冷たく、薄暗い、魅力に乏しい地上へ戻って人類の救済に当たらせているのです。

何の目的もないのに、快適で住み慣れた世界を離れて、好き好んで地上に生まれようとする人はまずいません。



それぞれに目的がありますが、いざ地上に生まれると分からなくなってしまいます。

特別な使命がある人もいるでしょうが、多くの人は学び成長するためと考えられます。



地上に生まれなくても、学び成長することができるのではないかと思う人がいるかもしれません。

出来るならば霊界で成長して行きたいと私も思う時がありますが、そうは行かないようです。


私たちが学んでいる叡智で最も重要なものは「愛」です。

そして、霊的に成長するために必要なものも同じく「愛」です。



思念の世界である霊界では、愛に実体があります。

愛は光輝であり、霊的な感覚によって認識されます。



例えて言うならば、太陽の光のような存在かもしれません。

生きる上で、必要不可欠なものです。

けれども、在って当たり前のように思うと、ありがたさは感じられなくなります。

ありふれたものになるほど、その存在意義が分からなくなってしまいます。



そこで地上に生まれます。

地上では、肉体に付随する五感に依存するようになります。

相対的に霊的な感覚は極めて弱くなります。

霊的に盲目な状態で生きています。



五感で愛は感じられません。

地上では肉体を介した表現を通して、魂が感じ取るようになります。



道を譲ってもらうと、うれしくなります。

失敗して慰めてもらうと、気持ちが落ち付きます。

助けてもらうと、助けてくれた人に感謝したくなります。

このような心の変化は、魂が愛を感じ取った時に起こります。


太陽の光の下では、ロウソクの光は分かりにくいです。

闇の中で、浮かび上がります。



それと同じで、愛が実感できる霊界では、却って愛は分かりにくくなります。

地上という霊的な闇の中で、愛は光り輝きます。



そのために必要な出来事を経験しています。

その出来事は、往々にして苦しみや痛みや悲しみを伴います。

精神的に追い詰められた末に、魂が目覚めます。

真っ暗闇の中で、霊的な目が見開かれて、本当に大切なものを見出します。



地上では肉体があるために、怒りや憎しみなどの感情が生まれます。

それらの感情が渦巻く世界で、より一層、愛は存在を際立たせます。



何故、そこまでして愛を学ばなければいけないのでしょうか?

生命が愛によって1つになって行く計画が立てられ、この宇宙は創造されたと考えています。



愛は魂を引き付ける力です。

お互いが愛を発揮することで、調和が生まれ、霊的に1つになって行きます。

愛は宇宙を進化させている根本原理なのです。



霊的なものが見えなくなる地上に生まれ、さまざまな出来事を経験することにより、霊界に戻ってより高く強い愛が発揮され、深い悦びが感じられるようになります。

魂と魂が愛によって強く結ばれ、霊的に1つになった時に感じる悦びに優るものはありません。



限りなく先になりますが、全ての人が神の愛を表現するようになった時、全体は1つとなり、至高の悦びに満たされた世界となります。






2025年11月2日日曜日

法則の働き

地上の人間は、目に見えない霊(魂)と精神、目に見える肉体から構成されています。

それぞれが存在している次元は異なります。



全ての次元に、自然法則が働いています。

法則には普遍性と再現性があり、いつどこでも同じような現象が起こります。

水は0℃になると凍り、100℃になると沸騰します。

これは物質的次元の法則の働きによるものです。

別れには悲しみが、裏切られると怒りの感情が生まれます。

これは精神的次元の法則の働きによるものです。

地上に生まれるのも、去るのも、霊的次元の法則が働いた結果です。



全ての法則の根幹を為しているのが「因果律」です。

原因があれば必ず結果が生じ、結果があれば必ず原因があります。

あらゆる事象は、因果律の働きによって起きているので、偶然はありません。



病気にも原因があります。

お酒の飲み過ぎで肝臓病になる人がいます。

これは物質的次元のアルコールが原因です。

過労で胃潰瘍になる人がいます。

これは精神的次元のストレスが原因です。



霊的次元に原因があって、物質的次元(肉体)に病気となって現われることがあります。

例えば、遺伝性疾患です。

受精した瞬間に遺伝子の変異が起きるのであれば、原因は受精以前にあることになります。

生まれる前に原因が存在しているので、霊的次元の病気と言えます。

ガンや膠原病などの病気も、物質的、精神的、霊的次元の原因が絡み合って生じていると考えられます。

物質的、精神的次元の原因は取り除くことが可能ですが、霊的次元の原因を医学的に取り除くことは不可能です。



病気以外の出来事も、生まれる前に原因があって起きることがあります。

過去の人生において、何かしらの過ちを犯して、それが原因となって(苦痛を伴う)出来事が起きることがあります。

自分を成長させるために、出来事を経験する人生を選んでいる時もあるでしょう。



起きた出来事を偶然や運と思ってしまうと、何で自分がこんな経験をしなければいけないんだと、理不尽さが募り、憤りを感じることもあります。

シルバーバーチの霊訓にはこのように書かれています。

「一つとして偶然がないのです。偶発事故がないのです。全てが不変絶対の法則によって統制されているのです。霊的な意識が芽生え、真の自分に目覚めた時、何もかも分るようになります。」

「私がこれまで送ってきた霊界生活で、“自分は神の法則によって不当に扱われている、不公平だ”と真剣に言える人を一人も知りません。」

地上で分からなかった原因や目的が、霊界に戻ると分るようになり、誰もが納得します。



人生には、およその計画があります。

無限の叡智によって、人生の計画は立案されています。

その計画を了承して、私たちは生まれて来ています。



計画されていた出来事が、目的を果たすために最善のタイミングで起こります。

それは地上にいる人にとって、最悪のタイミングに思えるかもしれません。

何の前触れもなく、亡くなる人がいます。

どこを探しても理由が見つからなければ、その時に亡くなることが予定されていた可能性があります。

そうであれば、地上にいる時間が短かったとしても、生まれて来た目的を果たしたと考えられます。



無限の叡智によって、法則は創られました。

法則の働きによって、宇宙は経綸され、秩序が保たれています。



無限の叡智は、無限の愛でもあります。

それを「神」と呼ぶことにします。

この宇宙は、神の心が具現化したものです。

宇宙の一部である私たちには、神の心が内在されています。



人生の計画の隅々にまで、神の愛が行き渡っています。

法則の中に、神の愛が顕現しています。

人生で起こる出来事は、神の愛のなせる業であるために、最終的には良きに計らわれます。



災害や事故により、苦しみや痛みを味わっている人がいます。

そんな出来事を経験した人にも、法則は働いています。

学びや成長という霊的な埋め合わがもたらされています。



冬の寒さに耐えた者は、春の暖かさにささやかな悦びを感じます。

この人生が終わると、新たな人生が始まります。

地上でしか起こり得ない出来事を経験した者は、新たな人生が始まると生きる悦びを感じます。

生きる悦びを感じるために、出来事を経験していると言った方が正しいでしょう。



さまざまな出来事を経験することで、魂は豊かになります。

苦難を乗り越えることで、魂は成長します。

それが神の法則であり、神の愛です。