2023年5月7日日曜日

内在する神が顕現する時


若い時に、何のために生きているのだろうと、漠然と考えていました。

答えは見つからないまま、日々に忙殺されて、いつの間にか考えなくなっていました。



20数年の時を経て、霊的真理(シルバーバーチの霊訓)と出会い、その答えが見つかりました。

生きる目的は、この世でさまざまな出来事を経験して、自分を成長させるためです。



自分を成長させるとは、ごく簡単に言うと、強く優しくなることだと思っています。

強さと、優しさの行き着く先にいるのが神と言われる存在です。

けれども、神は私たちから独立している存在ではありません。

宇宙全体が神です。

宇宙全体とそれを統括している法則の総称が神です。

私たちは、神を構成している極小の一部です。



自分が神の一部だと言われても、その実感がないので、にわかには信じられません。

自分と神とは、かけ離れた存在のように思えてしまいます。


考えてみて下さい。

溺れている人が目の前にいれば、理屈なしに助けてやりたくなります。

それは、私たちの中に神がいるからです。

私たちの中にいる神が顕現すると、他者のために何かをしてやりたい衝動が生まれます。

嘘をつきたくない、人を傷つけたくないと思うのも、「良心」と言う神がいるからです。



助けたいと思うのに、助けることのできない自分もいます。

その自分は、この世で自己表現するために存在している「(地上的な)自我」です。

ネガティブな意味を込めて「エゴ」と呼ぶこともあります。



自我は、この世を安全かつ快適に生きることを志向しています。

自分に危害が及ぶことを避けようとするので、「自分も溺れてしまう」と考えて、神が顕現するのを妨げようとします。

自分の中にいる「神」と「自我」のせめぎ合いが、地上ではしばしば起こります。



自我は肉体と密接に結びついています。

そのために、どうしても自分に意識が向いてしまいます。

自我にとって1番大切なのは自分なのです。

溺れている人がいても助けられないのは、自分を大切にしようとする自我の働きがあるからです。



一方、自分の中にいる神は、全体の一部であること、霊的に一体であることを認識しています。

全体に意識が向いています。

神が顕現すると、意識が全体(周囲)に向くために、自分への執着は少なくなります。



ポーランドにコルベと言う名の神父がいました。

彼は第二次世界大戦中にドイツ兵に捕らわれ、アウシュビッツ捕虜収容所に送られました。

ある時、同じ棟に収容されていた捕虜の1人が脱走しました。

捕虜が脱走すると、連帯責任を取らされ、同じ棟にいる捕虜の中から10名が無作為に選ばれ、処刑される決まりになっていました。

処刑方法は、座ることもできないような狭い懲罰房に押し込めて、食事を与えずに餓死させるという残忍極まりないものでした。

選ばれた10人の中に、神父は入っていませんでした。

ところが、選ばれた男性の1人が「ああ、妻や子に会いたい」と言っているのを耳にした神父は、その人の代わりに懲罰房に入ることを申し出たのです。

懲罰房に入った神父は、一緒にいた最後の捕虜が死ぬ時まで祈り続けたそうです。

宣教師として長崎に来ていたコルベ神父(1930年代)

閉じ込められ、餓死して死ぬのは、誰でも恐いに決まっています。

それでも自らが進んで懲罰房に入ったのは、神父の中にいる神の部分が、自我から生じる恐れに打ち克っていたからです。

恐れや苦しみから免れることができたのは、死ぬ時まで同胞のために祈り続けていたからと考えられます。

「全き愛は恐れを締め出す」というイエス・キリストが言った真理を体現していました。



そんな特殊な状況でなくても、せめぎ合いは起こります。

道端でうずくまっている人がいたとします。

自分の中にいる神は「声をかけよう」と心の中で叫んでいます。

一方、自我は「急いでいるから」「誰かが声をかけるだろう」と適当な理由を考えて、その場を通り過ぎようとします。

そのどちらかが克った方の行動を取ることになります。



真っ先にするのは神(良心)の声です。

その後で、その声に自我の声が上書きをします。

双方で上書きが繰り返されると、心の葛藤として感じられます。



シルバーバーチはこう言っています。

「良心(神)が命じていることは、たとえその方向へ進むと苦難に遭遇することが判っていても、迷わずに従いなさい。最後にきっといいようになります。難しく考える必要はないのです。これ以上簡単な話はありません。」



何でもそうです。

良心の声は、より困難な方向を指し示していることが少なくありません。

面倒で、大変で、遠回りをするようで、聞かなかったことにしたい時もあります。

それでも、思い切ってその声に従えば、自分を成長させる方向に進んで行くことになります。

後悔することは、絶対にありません。



自我の声の方が、無難で得策のように思えます。

けれども、そちらを選ぶと成長する機会を1つ失ってしまうことになります。

良心の呵責となって、苦しみが返って来る時もあるでしょう。



ところで、優しさはどこから生まれるのでしょうか?

優しさは愛の表現形態の1つであり、魂に内在する神から生まれています。

いくら愛があっても、強さがなければ行動には移せません。

強さと優しさを兼ね備えてこそ、初めて愛を表現することができ、成長して行くことができます。



私たちは、永遠の時をかけて進化成長して行く存在です。

困難や障害や危険や苦痛が存在するこの世に生まれて来たのは、自分をより強くするためです。

自我の誘惑に負けずに、優しさを表現することで、自分をより高めることができます。



自分が死んでしまうかもしれないのに、他者のために行動できるような人は、十分な強さや優しさを兼ね備えている人ではないでしょうか。


村田奈津恵さん(人民日報インターネット版より)

写真の女性は、2013年に横浜線の電車に轢かれて亡くなった村田奈津恵(享年40歳)さんです。

踏切待ちをしている車内から、踏切内で高齢の男性が倒れているのを見て「助けなきゃ」と言って、家族の制止を振り切って車を降りて向かったそうです。

幸いにも男性は助かりましたが、ご本人は逃げ遅れてしまいました。




いくら人を助けても、自分が死んでしまったら何にもならないと言う人はいるでしょう。

ご家族の悲しみや悔しさは想像も付きません。




死の後も、人生は続いています。

神の声に従って行動した人が、不幸になることは決してありません。

相応の霊的な報いを得ています。




シルバーバーチの霊訓にはこう書いてあります。

あなた方にとって大切なことはただ一つ  地上にいる間にどれだけ内在する大霊(神)を顕現させたか、それだけなのです。」   

彼女の取った行動は、地上に生まれて来た意味そのものなので、悔いはないはずです。

もし自我の声に負けていたら、生涯、良心の呵責に苦しみ続けたかもしれません。




残して来たご両親のことは、何より心配だったでしょう。

けれども、後にご両親が周囲に語っていた「奈津恵は私たちの誇りです」と言う言葉に救われていたはずです。

今は、助け合う悦びに満ち溢れた境涯にいるのに違いありません。



神が顕現して、この世を飛び級で卒業して行く人たちがいます。

そこまでの強さと優しさが備わっていないのであれば、長い年月をかけて少しずつ学び成長し、この世を卒業して行くしかありません。




先月ご紹介した石田様と書籍のことが、朝日新聞DIGITALで取り上げられています。

リンク先:卒業目前で急逝した18歳 後悔ばかりの母、再び向き合うまでの軌跡(朝日新聞デジタル) - Yahoo!ニュース



0 件のコメント: