2025年12月28日日曜日

魂の契約


地上を生きていると、喜び、悲しみ、怒りなど、さまざまな感情が生まれます

できれば、笑顔になるような感情をずっと味わっていたいものです。

けれども、そんなわけに行かないのが地上です。



最も味わいたくないものの1つに「後悔」があります。

過去に戻れない、変えることのできない現実が、その想いを生じさせます。


人には神が宿っています。

神は良心となって顕現しています。

私たちが進むべき方向を、良心は瞬時に指し示めしています。

けれども、それに従わずに過った方向に進んでしまうことがあります。



過ちを犯してしまうと良心の呵責が生じます。

それが強いと後悔の念となり、因果律の働きにより、苦しみが生じます。



その苦しみは、過ちに対する償いにもなっていると思います。

人は誰でも苦しみを感じたくありません。

次からは、そのような行いをしないようになります。

悔い改めることで、学びを1つしたことになります。



過ちを犯したわけではないのに、後悔の念が生じる時があります。

望まない出来事が起きたり、良い結果が出なかったりすると、あの時こうすれば良かったと過去を振り返り、後悔してしまうことがあります。



幼い我が子を、お母さんが気付かずに車で轢いてしまったという、痛ましいニュースが報道される時があります。

当事者のお母さんは、起きたことをしばらくの間、受け入れることはできないでしょう。

受け入れたとしても、自分が殺してしまったという強い罪悪感、注意していればという激しい後悔の念が待っていると想像されます。



運が悪かったと言う人も多くいるでしょう。

シルバーバーチの霊訓には、こんな問答があります。

アクシデント(偶発事故)というのはあるのでしょうか?という問いに対して

「非常に難しい問題です。というのは、アクシデントという言葉の解釈次第で、イエスともノーともなるからです。動機も目的もない、何か訳の分からぬ盲目的な力で、たまたまそうなったという意味であれば、そういうものは存在しません。宇宙間の万物は、寸分の狂いもなく作用する、原因と結果の法則によって支配されているからです。(中略) 従って、偶発事故の起きる余地はあり得ません。偶発のように見える事故にも、それなりの原因があるからです。ぜひ知っておいて頂きたいのは、法則の中にも法則があり、それぞれの次元での作用が入り組んでいるという事です。平面的な単純な法則ではないのです。よく人間は自由意志で動いているのか、それとも宿命によって操られているのかという質問を受けますが、どちらもイエスなのです。自由意志の法則と、宿命の法則とが入り組んで作用しているのです。」と、シルバーバーチは答えています。



偶然そうなることはないのであれば、運が悪かったと片付けるのは間違っています。

「法則の中にも法則があり、それぞれの次元での作用が入り組んでいる」とありますが、地上では知ることのできない、霊的次元の法則が働いて起きている可能性があります。



霊的次元の法則とはどんなものでしょうか?

前世で人を苦しめる行いをしていたから、因果律の働きにより、このような出来事が起きたと言う人がいるかもしれません。

それを否定はしませんが、私はこう思っています。



神の心が法則となって顕現しています。

神の心は愛です。

愛が法則を貫いています。

その出来事が、偶然ではなく法則の働きによって起きたのであれば、最後には悦びが感じられるようになっているはずです。



何でこんなことが起きてしまうのかと思いを巡らしていたところ、「契約」という言葉が心に浮かびました。

契約とは責任や義務を伴うものであり、約束より重い取り決めです。



お子さんはお母さんを選んで生まれて来ています。

地上に生まれる時に、どのような人生を辿るのかも承知しています。

寿命も決まっています。

過った自由意志を行使して起きた出来事ではありません。



以上のことから、にわかには信じられないのですが、こんなシナリオが導き出されます。

お母さんが関わる事故によって、お子さんが地上を卒業することが、予め決まっていた。

もし、そのことをお母さんに伝えたのなら、そんなことを私が承知するはずは絶対にないと、憤慨されるでしょう。



早く卒業するのは、私が知る限り霊性の高い子です。

病気だけでなく、突発的な事故でさえも、それは当てはまります。

早く霊界に戻ることが許された魂であり、愛と悦びに溢れた境涯に赴くことになると思われます。



お子さんとは対照的に、お母さんは地獄にいるような心境と察せられます。

生きていることが許されないと感じながら生きているお母さんもいるようです。



想像もつかない辛い日々を過ごす中で、生き方が変わった人もいるようです。

こう言っているお母さんがいるそうです。

「以前は“ちゃんとした母親”を演じていました。今は、弱い自分のまま人の前に立てます。それが、思っていた以上に強かった。」

この人は後に、事故防止講話やグリーフケアの語り部になったそうです。



こう言っているお母さんもいるそうです。

「もう、失うものがありません。だから逆に、失敗や人の評価が怖くなくなりました。」

この人は、人前で話すこと、自分の過去を語ることを避けなくなり、結果的に社会的な活動が広がったと語っているそうです。



そして、こんなことを言っているお母さんもいたそうです。

「この子に向けられなかった分の愛を、目の前の人に注いで生きようと決めました。」

この人は、里親支援をしているそうです。




もちろん、全ての人の生き方が変わるわけではありません。

絶望と孤独と自責の念に苛まれながら、生涯を終える人もいるでしょう。

それも契約の1つなのかもしれません。

けれども、地上で生き方を変えるために、生まれる前に契約を交わしていた人もいるはずです。




何故、そのような契約を交わすことになったのでしょうか?




私たちが死後に赴く霊界は、自分の好きなように生きられる世界です。

好きなように生きられるのはうれしいのですが、周りのために何かをするようにならなければ、自分を成長させることはできません。

生きている意味を果たせていないのです。




地上での経験によって、誰かのために何かをしようとする生き方に変わったのならば、死んで霊界に行っても、周りのために何かをするようになるでしょう。

自分の意志によって、自律的に成長して行けるようになることが、契約を交わした目的と考えられます。




もしこのような契約を交わしていたのであれば、後悔することも罪の意識を感じる必要はありません。

けれども、根本的に生き方を変えるためには、魂が目覚めなければならず、そのためには相応の苦しみや痛みを味わう過程が必要となります。

予定通りに起きているのならば、後悔する必要はないのですが、後悔して苦しむことを前提にして、出来事が起きていると考えられます。

従って、魂が目覚めるまでは、「あなたが悪いわけではない」などと、いくら慰めても聞く耳を持ってもらえません。





全ての出来事は、神の法則の下で起きています。

光(真理)を見出すために、法則の働きにより、真っ暗闇の中にいます。

明るい陽ざしの中では、見出すことはできないのです。

光の意味を深く知り、刻み込むための契約であったと考えられます。




恨んでいる、怒っている、悔やんでいるなどと、絶対に思ってはいけません。

これだけは言えます。

深い愛がなければ、このような契約を交わすことは決してありません。

その愛を強く信じて、どんなにつらくても今生を生き抜くことで、魂の契約を果たしているのです。







2025年12月21日日曜日

愛について


「愛」の対極にあるのは?

多くの人は「憎しみ」と答えるかもしれません。



そもそも、愛と憎しみは別次元のものです。

愛は霊的次元のものであり、魂に内在している神性から生まれています。



一方、憎しみは精神的次元のものです。

魂が肉体で表現するための媒体である、地上の自我(エゴ)から生まれています。



魂は永遠の存在です。

愛が死を超越して存在しているのはそのためです。



死ぬと肉体は消失します。

それに伴いエゴもなくなります。



エゴがなくなるので、(霊界の低い界層は除いて)憎しみも生まれなくなります。

愛の対極にあるのが憎しみと思うのは、地上の人だけです。



地上では、さまざな次元の愛が存在しています。

シルバーバーチの霊訓にはこう書いてあります。

「気が合うというだけの友情、趣味が同じということから生まれる友愛から、己を忘れて人のために尽くそうとする崇高な奉仕的精神に至るまで、愛は数多くの形態を取ります。地上では愛Loveという言葉が誤って用いられております。愛とは言えないものまで愛だ愛だとさかんに用いる人がいます。ある種の本能の満足でしかないものを愛だと錯覚している人がいます。が、私が理解しているかぎりで言えば、愛とは魂の内奥でうごめく霊性の一部で、創造主たる神とのつながりを悟った時におのずから湧き出てくる魂の欲求です。」

霊界において実感する愛は、地上よりもはるかに深遠で強烈です。



霊界では厳然たるヒエラルキーが存在しています。

その絶対的な基準となっているのが愛です。

地上を生きている時に、どのような次元の愛を表現していたかによって、死んだ後にどのような境涯に赴くのかが決まります。



霊界に行くと、周りにいるのは自分と霊的に似通った人たちばかりです。

互いの想いを共有しながら生きています。

生きるために働く必要がなく、自分の望むことを心行くまですることができます。



地上では、周りにいるのは自分とは違う人たちばかりです。

何を想っているのかも分かりません。

生き方や考え方の違いから軋轢や摩擦が生じたり、いさかいに発展することもあります。



そうならないためには、互いの違いを認めなければいけません。

違いを認めて、相手を尊重することは、神性の顕れであり、間接的に愛を表現していることになります。



地上は不完全な世界です。

そのため、しばしば過ちや誤りが起こり、苦しみや痛みを味わう人がいます。

それにより怒りや憎しみなどが生まれる時がありますが、その感情を相手に向かって表現してしまうと、争いに発展してしまう可能性があります。

そうならないためには、相手を許さなければいけません。

寛容の精神を発揮することも神性の顕れであり、間接的に愛を表現していることになります。




人は仕事や家事などを通して、社会や家族のために奉仕をしながら生きています。

ゴミを拾ったり、道を譲ったり、相談に乗ったりするのもそうです。

誰かのために何かをするのは、直接的に愛を表現していることになります。



地上は、直接的あるいは間接的に愛を表現することにより、円滑に生きて行くことができるようになっています。

争いなどから生じる、無用の苦しみや痛みを回避することができます。


地上に生まれて来たのは、より高い境涯へ行きたい欲求が魂にあるからです。

何もしなくても生きて行ける霊界よりも、愛を表現することが求められる地上の方が、より自分を成長させることができます。



さまざまな人間と生きて、さまざまな出来事を経験することで、自我(エゴ)から怒りや悲しみ、憎しみや嫉妬など、さまざまな感情が生まれています。

それらの感情が生じると、因果律の働きにより、心に苦しみや痛みが生じます。

苦しみや痛みから解放されるためには、対象に向かって愛を表現しなければならないことを悟ります。



マハトマ・ガンジーは、イスラム教徒に息子を殺され、相手への激しい憎悪に苦しんでいるヒンドゥー教徒の男性に向かってこう言ったそうです。 

「あなたが救われる方法が一つある。イスラム教の両親をヒンドゥー教徒に殺された孤児をあなたの子供として育てなさい。それもヒンドゥー教徒ではなくイスラム 教徒として育てなさい。」



イエス・キリストは簡潔にこう言っています。

「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」



極めて難しいでしょうが、もし実行できたのであれば、苦しみから解放されるその経験を通して、愛について深い学びが得られているはずです。

生まれる前より高い次元の愛を表現できるようになっていて、より高い境涯に赴くことができるはずです。



魂は自我(精神)より次元が高いです。

そのため、自我から生まれているいかなる感情も、魂から生まれている愛には敵いません。

愛は、苦しみを生み出す感情を打ち消す、絶対的な力を持っているのです。



冬の富山(イナガキヤストさんのⅩより)

2025年12月14日日曜日

病気になった理由


数年前から、逆流性食道炎を患っています。

命に関わる病気ではありませんが、不快な症状に悩まされています。

胃の入り口の筋肉が緩んでしまうために起こりますが、ストレスも大きく関わっていると言われています。



思い起こすと、私の亡くなった父親も同じ様な症状にずっと悩まされていました。

どうやら、肉体的な素因を引き継いでしまったようです。


人間は、魂(霊)、精神、肉体から成り立っています。

それぞれが存在している次元は異なります。

全ての病気の原因は、そのどこかの次元に存在しています。



逆流性食道炎は、胃の一部の機能に問題があるために起こるので、肉体的次元に原因があります。

ストレスも関わっているので、精神的次元にも原因があると言えます。

遺伝したのであれば、この病気になることが生まれる前に決まっていたので、霊的次元にも原因があると言うことになります。

このように病気の原因は、多次元に渡って存在することが多いです。



病気は医者が治すものと考えている人が多くいます。

肉体的(物質的)次元の病気であれば医者は治すことができますが、霊的次元の病気は治すことはできません。

医者が分るのは、細菌など物質的次元の原因、ストレスなど精神的次元の原因の一部であり、霊的次元に原因が存在することを認めていないからです。



現代医学で原因不明とされているガンや膠原病などは、霊的次元に原因が存在すると考えられます。

原因がなくならなければ、病気は存在し続けます。

病巣を切除したとしても、薬で症状が改善しても、根本から治ったわけではなく、ぶり返したり、再発したりします。



霊的次元の原因(目的)には、どんなものがあるのでしょうか?

本人が生まれる前に病気になることを決めていた場合です。

先天的な病気や障がいなどはそれに当たりますが、多くの目的は病気(障がい)を通して、学び成長するためと考えられます。



成長を阻害している霊的な原因を取り除くために、病気になる場合もあります。

原因として挙げられるのは、過去生における過ち(カルマ)です。

病気の苦痛によって過ちを償うことにより、原因が取り除かれて、再び成長して行くことができます。



エゴの働きが強くなり、成長が妨げられている時にも、病気になることがあります。

例えば、お金や地位など地上的なものを追い求めるのが、生きる目的になっている人がいます。

そんな生き方をしていては、成長することはできません。

けれども、過った生き方をしていると、本人が気付いていなければ、どうすることもできません。



そんな人が、命にかかわる病気になったとしたらどうでしょう?

今まで追い求めていた地上的なものが無力であり、価値がないことに気付くでしょう。

それまで気に留めることもなかった、「生命」や「愛」など霊的なものに意識が向くようになります。



外からは、病気になって人が変わったように見えるかもしれません。

実態は、本来の自分を取り戻して、予定されたシナリオに沿って成長して行くために、因果律の働きにより、病気になったと考えられます。

そんな人の中には、大切なものに気付かせてくれたと、病気に感謝する人もいます。



病気になり、霊的に価値のある生き方に変わった人が多くいます。

以前、このブログにも書きましたが、阪神タイガースに横田慎太郎さんという将来を嘱望された選手がいました。

22歳の若さで脳腫瘍になり、再起をかけて手術をしましたが、目に障がいが遺り野球を続けられなくなりました。

重い病気になり、誰かを励ましたり、苦しんでいる人を助けようとする気持ちが強くなったそうです。

諦めないことの大切さを伝える講演活動を、28歳で亡くなるまで続けました。

病気にならなければ、野球選手として素晴らしい成績を残せたでしょう。

けれども、ご自身が困難や障害に立ち向かって行く姿を見せて、多くの人の魂を鼓舞し、成長を促すことにつながるこの人生の方が、霊的に価値があると考えられます。



病気になったことを嘆いたり、病気を憎んだりする人がいます。

そのような感情を持つと、大切なものに気付くことも、変わることもできません。

病気は結果です。

原因を作ったのは自分です。

何が原因だったのかを、心を鎮めて見つめ直して下さい。

霊的法則に照らし合わせて、過った生き方や考え方をしているのに気付いたのなら、直ぐに改めましょう。

気付くことができなければ、知ることのできない過去に原因があったり、霊的な目的が存在しているのかもしれません。



病気になったのは、万物を支配している法則の働きによるものです。

その法則を創ったのは神です。

神の創った法則の隅々にまで、神の愛が行き渡っています。

従って、苦しめるため、痛めつけるためではありません。



原因はそれぞれ違いますが、目的は同じです。

苦しみや痛みが強い時には、望ましい自分に変わるために、肉体のある地上でしかできないこの経験がどうしても必要だったと、言い聞かせて下さい。



後に、肉体を脱ぎ捨て、魂が露わになった時、浄化された自分の姿を目の当たりにして、悦びを感じるはずです。





2025年12月7日日曜日

愛する人との別れの意味


地上では、さまざまな感情が生まれます。

怒り、悲しみ、怖れなど、肉体を持つ人間として、避けられない感情です。



怒りが生じると、顔が紅潮して、眉間にしわが寄るなどして、肉体によって表現されます。

悲しみが生じると、泣いて、目から涙が流れます。

すごくうれしい時にも、人は泣いて涙を流します。

悲しくて泣いているのか、うれしくて泣いているのか、見分けがつかない時があります。

人間は不可思議な生き物です。



別れの時に、多くの人は涙を流します。

愛しいほど、悲しみは深くなり、たくさんの涙を流します。



シルバーバーチの霊訓によると、霊界から地上に誕生(再生)する人を見送る時にも、涙を流す人がいるようです。

ただ、目的があって地上に生まれ、目的を果たしたら帰って来るのを知っているので、地上のような悲しみの涙ではありません。



また、霊界にいる人は、地上にいる人に会いたくなったら、自分の意志によって会いに行くこともできます。

けれども、肉体はなく五感もないので、地上の人のように外部を感識しているわけではありません。

肉体などの物質は影のように見えます。

霊的な感覚によって、人間の本質である魂(霊)がはっきりと分り、そこから発せられた想いを感じ取ることができます。



霊界の人が残念に思うのは、傍にいるのに地上の人が気付いてくれないことです。

仕方がないとは言え、「いなくなってしまった」と勘違いして、嘆き悲しんでいるのを見ると、いたたまれない気持ちになります。



地上の人に求められるのは、正しい霊的な知識を持つことです。

そして「守り導いてくれている」と強く信じることです。



信じようとする地上の人の想いは、霊界にいる人にとって愛されているように感じられます。

両者のつながりは強くなり、霊界にいる人は安心して導くことができます。



信じるのも、信じないのも個人の自由です。

けれども、信じないのならば「もう会えない」と言う事実誤認から生じる無用の苦しみを味わうことになります。



信じることができれば、次元を超えて愛することができます。

次元を超えて愛するのは、同じ次元にいた時よりもはるかに困難です。

困難を克服して愛することができれば、愛せない苦しみから解放されます。



霊界にいる人は、地上の人を守り導くことで、愛を表現しています。

次元を超えて守り導くことは、同じ次元にいた時よりもはるかに困難です。

困難を克服して守り導くことで、自らも学び成長しています。



導きは、はっきりと分る形で示されるわけではありません。

こんなことはないでしょうか?

特別な理由もないのに、どうしても行かねばならない、どうしても行く気になれない気持ちになる。

心に浮かんだ場所に行ってみると、探しているもの(答え)が見つかった。

特定の人と、どうしても関りを持ちたくなる。



それらは思考の産物ではなく、霊界からのインスピレーションが伝わって来て、衝動に駆られたのかもしれません。

地上の人にも霊的な感覚があり、想像している以上に霊界からのインスピレーションを受け取っています。

そのことを知っていた方が、ずっと導きを受けやすくなります。



心が沈んでいる時、霊界にいる人とのつながりを意識すれば、励ましの想いを受け取れるかもしれません。

受け取った瞬間、心の中がパッと明るくなったり、温かいものを感じたり、前向きな気持ちになるのが感じられるかもしれません。



生きている次元は違っても、本質である魂は同じ次元に存在しています。

本来は自由に思念のやり取りができます。

しかしながら、地上の人には五感があり、そこから入る情報に圧倒されて、霊界から届いている想いやインスピレーションに気付きにくくなっています。

もし、気付いてもらえたならば、霊界にいる人はうれしくなるでしょう。



眠っている時は、肉体から解放されています。

霊界にいる人と同じ次元で会い、想いを交わしているのですが、起きてしまうと思い出せません。

想いは言葉を超越したものです。

従って、言葉として思い出すことはできません。

けれども、想いを受け取った時の余韻は残っているかもしれません。

親愛の想いを交わし合っていたのならば、うれしさや悦びに包まれながら目覚めるかもしれません。



ところで、自分がいなくなり悲しんでいる地上の人を見て、どう感じているのでしょうか?

愛されていると感じているのではないでしょうか。

その理由は、愛しさがなければ、悲しみは生まれないからです。



行き場を失った愛が、悲しみとなります。

悲しみを抱き続けるのは、愛し続けるのと同義なのかもしれません。



生きていたとしたら、そこまで愛し続けることができたのでしょうか。

半ば強制的に、愛し続けるようになるのが、地上の別れの本質と考えられます。



人は愛することで成長します。

片時も忘れずに、愛し続けるのであれば、同じ次元で生きているよりも、成長しているはずです。



出会うことは、生まれる前に決まっています。

死ぬ時も決まっています。

従って、出会い、別れることは、予定されていたと考えられます。



何故、別れが予定されていたのでしょうか?

一生涯をかけて、学び成長してもらうためかもしれません。



相手への想いがなければ、そのような人生を選択することはありません。

「何故、逝ってしまったの?」という地上からの問いかけに、「心から愛しているから」と答えているのかもしれません。




正確な答えは、再会の時に分かります。

悲しみの涙は、うれし涙に変わります。

どちらの涙も、同じ愛から生まれていたことに気付くでしょう。



信じて生き抜いたこと、守り導き通したことによって、魂と魂はより強く結ばれています。

約束が無事果たされたことを知り、深く安堵するでしょう。