2025年10月26日日曜日

病気を癒す力


20年前のある朝、ヒーリングの力が左手から出ていることに気付きました。

その力の正体を知りたくなり探している時に、霊的真理(シルバーバーチの霊訓)に出会いました。



そこには、こう書いてありました。

「痛みや苦しみを取り除いてあげることがヒーリングの目的ではありません。あくまでも手段です。つまり、居眠りをしている魂を目覚めさせ、真の自分を見出させるための手段に過ぎないのです。」

初めて読んだ時には、その意味がさっぱり分かりませんでした。



霊的真理を学び、ヒーリングの経験を積むに従って、少しずつ分かって来ました。

ヒーリングの目的は、魂に働きかけて目覚めさせることにあります。

けれども、魂が目覚めたかどうかを、外から判断することはできません。

その後の様子を見て、推測することになります。



今から、15年位前でしょうか、50代の女性が歯の治療を目的に来院しました。

顔色が良くありません。

お話をお伺いしたところ、家庭の事情などから精神的に追い詰められ、心身の不調が続いて、引きこもり状態になっているそうです。

お役に立てるかもしれないと思い、ヒーリングを行うことを提案しました。

すると、快く了承していただけました。



診療が終わった後にヒーリングを行いましたが、終わると彼女の表情は明るくなり、目の輝きが増していました。

その後、ご自分でも驚くほど快活になったそうです。

以前やっていたピアノ演奏のリサイタルを開くまでになり、聴きに来てくださいとチケットを渡されました。

この人のように、ヒーリングの後に生き方や考え方が大きく変わったとしたら、魂が目覚めている可能性が高いと思われます。



シルバーバーチの霊訓には、こうも書いてあります。

「ヒーリングによって奇跡的に病気が治る、それはそれなりに素晴らしいことですが、その体験によってその人が、霊的真理に目覚めるところまで行かなかったら、そのヒーリングは失敗に終わったことになります。」

10数年前のことです。

大学の同級生の奥さんが関節リウマチになりました。

朝の関節のこわばりが特に酷く、肩の関節は固着して腕は少ししか上がらず、家事も満足にできない状態でした。

ヒーリングで力になれないかと思い、同級生宅に赴きました。

話を聞くと、医者に肩が固着したレントゲン写真を見せられて、もう治らないと思ったのでしょう、泣いてしまったそうです。

その肩に左手を当ててヒーリングを行いながら、右手で腕を少しずつ挙げて行きました。

痛みもなく腕が挙げられたことに、とても驚いたようでした。

しばらくして、仕事に復帰し、ゴルフにも行けるようになったと話を聞きました。



その後、奥さんに会って話をする機会がありました。

身体は確かに良くなりましたが、霊的なことに関心は示さず、内面が変わった様子も見られませんでした。

目的を果たせなかったようであり、とても残念に思いました。



病気と言っても、原因はさまざまです。

物(肉体)的、精神的、霊的いずれかの次元に、原因が存在しています。



霊的な過ちを、病気の苦痛によって償っている人もいます。

学び成長するために、病気になることが予定されていた人もいます。



そんな人は、目的が果たされるまでヒーリングが奏功することはありません。

償いが終わりかけた時、予期した学びや成長が得られた時に、導かれるようにしてヒーリングを受ける人がいます。

そんな人たちの多くは、病気が癒されると同時に、魂が目覚めると考えられます。



目に見えない生命(霊)力が流れることによって、私たちは生きています。

病気や怪我は、生命力の一種である自然治癒力の働きによって癒されます。

生命の危機に晒されるほどの病気や怪我をして、自我が追い詰められて、魂が目覚める人がいます。



神の法則の働きによって病気は生じ、神の力である生命力によって癒されます。

ヒーリングにより外部から生命力が注がれなくても、内(魂)から湧き出している生命力によって、病気を癒すことができると考えられます。



そのためには、霊的な意識を高めなければいけません。

霊的な意識を高めるには、自我の働きを鎮めることが必要と思われます。

しかしながら、地上を生きるために自我の働きは必要不可欠なものであり、鎮めるのは容易ではありません。



思考するのも、感情が生まれるのも、自我の働きによるものです。

地上では自分(肉体)を守ろうとする意識が働くために、不安や怖れが生じます。

物質を介して自己表現している不確実な世界であり、思い通りに行かないために悩みが生じます。

そのような感情に捉われてしまうと、霊的な意識を高めることができないばかりか、生命力の流れも妨げられてしまいます。



シルバーバーチの霊訓にはこう書いてあります。

「恐怖は魂を閉じ込めてしまう牢獄を作ります。恐怖の波動で乱されることなく、それを乗り越えていかねばなりません。誰にもやり遂げる力はあるのです。人にはどのような環境をも乗り越えていける力が与えられています。そのことを知り、完全な信仰と自信と信頼をもって『私には神性が宿っており、どのような状況も私を揺るがすことはできない。私の魂にはあらゆる困難に打ち勝つ無限の力があるのだ』と自分自身に言ってください。」(省略なし)



そしてこうも書いてあります。

「この世に克服できない悩みはありません。ですから。悩んではいけないのです。征服できない困難はないのです。力の及ばないほど大きな出来事は何一つ起きないのです。ひとつ一つの経験から教訓を学ぶことです。難しいと思ったときは、ひるまずに自分にムチを打つのです。そうすればそれだけ前よりも強い人間となります。自分が霊であること、それが肉体を通して表現しているのだということ、そして自分という永遠の霊に傷を負わせたり害を及ぼしたりするものは決して生じないことを忘れないことです。」(省略なし)

「自分には神が宿っていて無限の力があるので、克服できないことはない」と自分に言い聞かせることによって、無用な感情や考えに捉われなくなり、内から生命力が湧き出して来ます。


人間よりも動物の方が、怪我の治りが早いように感じられます。

それは、人間のように自我から生じる感情や考えに捉われることがなく、生命力の流れが妨げられずに、自然治癒力が十分に発揮されるためと考えられます。



長寿の人に長生きの秘訣を尋ねると、「くよくよしない」、「腹を立てない」と答えが返って来ることが多いです。

生命力の流れを妨げてしまう感情に捉われなければ、病気になりにくいと考えられます。

昔から病気は気からと言われますが、自我の働き(心)と深く関係しているのは間違いありません。



思念(想い)は、具現化する力です。

地上では直ぐとは行きませんが、想いは具現化する方向へと向かいます。

病気を克服した自分の姿を思い浮かべて、そうなると強く想えば、身体もそちらの方向へと向かうはずです。(スティグマが現れるのもその一例です)



病気は地上でしか経験できません。

霊的なものが見えなくなる地上において、苦痛によって魂を目覚めさせ、言葉を超えた霊的な学びをするために、(霊的次元に原因がある)病気は存在しています。

その目的が果たされると、病気が存在する意味はなくなり、肉体上から消えるはずです。






2025年10月19日日曜日

1人で生きているのではない


先週末は学会参加のため、鹿児島市に行って来ました。

空港からバスに乗り市内で降りて、スマホのグーグルマップを頼りに、予定通りに学会場に着くことができました。

昔は、地図を見たり、道を尋ねたりしていたので、便利になったものです。

人生においても、どちらに進んだら良いのか、迷う局面があります。

これから先、スマホでAIに尋ねる時代が来るのでしょうか?



AIよりも、はるかに信頼できる存在が、私たちには付いています。

それは守護霊です。



守護霊は、地上の人のことを知り尽くしています。

人生の計画も知っていて、それに沿って生きて行けるように導いています。

どんなことがあっても、見放すことはありません。



ふと気が付くと、行動に移していたという経験はないでしょうか?

それは、守護霊を始めとする霊界の存在の働きかけによるものかもしれません。



霊界の存在は、地上の人にインスピレーションを送っています。

それを受け取った地上の人は、理由もなく行動に移したくなる衝動を覚えます。



子供の頃、家族で海に行った時のことです。

海に入って夢中になって遊んでいましたが、「ふと」後ろを振り向きたくなりました。

振り向いてみると、当時、幼稚園児であった妹が海面に顔を浸けていました。

変だなと思って起こしてやると、目を丸くし驚いた表情で、大きく息を吸い込みました。

遊んでいたのではなく、溺れていたのです。

振り向かなければ、どうなっていたのか考えると、今でもぞっとします。

霊界の存在は、妹の危機的な状況を知らせるために、インスピレーションを伝えて、私を振り向かせたと考えています。

胸騒ぎを感じる時は、霊界の存在が何かを訴えている可能性があります。



生きていると、さまざまな人に出会います。

そんな中で、どうしても気になる人がいます。

理由もなく意識が向いてしまうのは、霊界の存在がインスピレーションを伝えているせいかもしれません。



地上の人の学びや成長のために役割りを果たす人であったり、今生で出会うことが予定されている人かもしれません。

そんな人が出現すると、関りを持ちたくなるようなインスピレーションを地上の人に吹き込んで、会いたくなる、話したくなるような衝動を起こさせるかもしれません。

重要な出会いの多くは、霊界の存在が深く関わっていると考えられます。



霊的真理(シルバーバーチの霊訓)との出会いもそうでした。

さまざまな情報が飛び交うこの世界で、何も知らない私が最短で霊的真理に辿り着けたのは、いくつかの局面において、インスピレーションを伝えて導いてくれたおかげです。

今、振り返ってみると、それが良く分かります。



霊的真理には、生きる目的、死の意味、神について、霊界や守護霊の存在など、漠然と抱いていた疑問に対する答えが書いてありました。

それらは誰も教えてくれなかったことであり、真実と確信した私の生き方は大きく変わりました。



霊的真理によって、霊界の存在が身近に感じられるようになりました。

想いを寄せれば、何かしらの形で応えてくれます。

そのことが分かり、この世を一人で生きているという感覚はなくなりました。

自分の存在に気付いてもらい、霊界の存在も安心したと思います。



ふと思いついたこと、気付いたことは、霊界からのインスピレーションかもしれないと思うようになりました。

思考の産物ではないかと思うこともありますが、その場合はその前に必ず「入力」があります。

例えば、「2」と思いついたとすれば、思考であればその前に「1+1は?」などの入力があるはずです。

入力がないならば、霊界からインスピレーションが伝わって来て、ひらめきや気付きとして顕在化した可能性があります。



霊界に何かを尋ねた時、「瞬時」に答えが返って来たのであればインスピレーションの可能性が高いです。(忘れた頃に返って来ることもあります。)

思考によるものであれば、答えが出るのに時間がかかります。

霊界からインスピレーションが伝わっていることを地上の人が自覚すれば、気のせいにして無視してしまうことも少なくなり、霊界の存在も導きやすくなると思います。



霊的真理を知り、自分の中にある神性をはっきりと自覚するようになりました。

神性は良心となって顕現しています。

進むべき方向を、良心は指し示しています。

しかしながら、その方向は地上の自我(以下自我)が望んでいないことがほとんどです。



例えば、学校で誰かがいじめられているのを見かけたとしたら、良心は助けるように働きかけます。

助けたら自分までいじめられてしまうかもしれないと自我は考えます。

会社に不正があったとして、告発して正さなければいけないと良心は訴えます。

けれども、告発すれば職を失いかねないと自我は考えます。

両者の間で葛藤が起きますが、自我に打ち克つのは難しいです。



神性を発揮することで、人は成長が得られます。

霊界の存在は、良心に従って行動するように、想いを送って促しています。

勇気が湧くのは、そんな時です。



何かをやり遂げようとする時、それを後押しする想い(力)を、霊界にいる存在は送っています。

その想いによって、妨げている感情や考えが一掃され、前向きになれる時があります。



仕事の時にも、そのことが分かります。

難しい治療(手術)を行う前に、霊界の存在に意識を向けるようにしています。

手伝ってもらえるわけではありませんが、正しい方向を気付かせてもらったり、挫けそうになりそうな時は続ける力をもらえます。

感謝しています。



日常生活全般に渡って、想像している以上に、地上の人は霊界から恩恵を受けています。

日頃から霊界の存在を意識し、感謝を忘れないことは、人生の計画に沿って生きることにつながります。



周囲にいる人が、何かに挑戦する時や挫けそうになっている時に、勇気づけたり、励ましたり、慰めたりするのは、霊界の存在に代わって、想いを伝えていることになります。

自分の成長だけでなく、周囲の人の学びや成長につながることを手助けするのは、霊的な真実を知った者の責務なのかもしれません。





2025年10月12日日曜日

全ての存在は霊的につながっている


地上は物質の世界、霊界は思念の世界と言われます。

もう少し具体的に言うのなら、地上は思念が物質(肉体)を介して表現される世界であり、霊界は思念がそのまま表現される世界です。



例えば、地上では心の中にある想いや概念を、文字や言葉などに置き換えて、五感を介して相手に伝えます。

一方、霊界では思念は、直接相手の魂に伝わります。



思念(想い)は波動です。

地上の人にも波動を受信する霊的な感覚が備わっていますが、五感から入る情報量に圧倒され、伝わって来ている思念に気付くのは困難です。

それでも、伝わって来た想いを感じ取り、共感する時があります。



地上と霊界の違いは、肉体の有無です。

地上では肉体があるために、活動するには食物を摂らなければいけません。

食物を摂るためには、お金が必要になります。

お金を得るためには、働かなければいけません。



働くとは、人や社会のために精神や肉体を使って奉仕することです。

地上は生きて行くために、何かしらの奉仕をしなければいけない仕組みになっています。



肉体がない霊界は、食べて行くために働く必要はありません。

束縛するものは何もなく、好きなことを自由にすることができます。

毎日が休日のようなものであり、地上にいる私たちには羨ましく思えます。


  

         

地上も霊界も、生きる目的は同じです。

自分(魂)を成長させるためです。



困難や障害を乗り越えて行くこと、愛を表現することで人は成長して行きます。

けれども、肉体のない霊界では、地上のような困難や障害は存在しません。

争いや病気もなく、生きて行く上での不安や心配もありません。



好きなことが自由にできても、魂を成長させることができなければ、生きている目的を果たしているとは言えません。

いくら楽しくても、それだけでは虚しさを感じます。



そこで、霊界では起こり得ない出来事を経験するために、地上に生まれることを志願します。

自分を成長させるための人生が計画され、それを承知して母体に宿ります。

成長させるのに相応しい出来事が、最適のタイミングで起こります。

その出来事は往々にして苦しみや痛みを伴うものなので、そのことをすっかり忘れている私たちには、不幸な出来事としか思えません。



シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。

「困難こそ魂の肥やしです。むろん困難の最中にある時はそれをありがたいと思うわけにはいかないでしょう。辛いのですから。しかしあとでその時を振り返った時、それがあなたの魂の目を開かせるこの上ない肥やしであったことを知って神に感謝するに相違ありません。」

そして、こうも書かれています。

「あなた方にとって悲劇に思えることが、私どもから見れば幸運と思えることがあり、あなた方にとって幸運と思えることが、私どもから見れば不幸だと思えることがあるのです。」

魂の成長という観点から判断している霊界では、起きた出来事の捉え方が地上とは真逆になります。



愛を表現することによっても成長して行きますが、何も難しく考える必要はありません。

人に親切にしたり、動物に優しくしたり、困っている人を助けたりするのは、愛を表現していることになります。

励ましたり、慰めたり、寄り添うことも、愛を表現していることになります。

許すこともそうです。

他者の幸せを願うこともそうです。

誰かが喜び、笑顔になれば、それで愛を表現していることになります。



霊界では、愛は実在として認識されています。

地上では五感により認識されないので、言葉や行動に置き換えて表現することになります。

表現の中に込められた想いを察することになります。

霊的な感受性が高ければ、(霊界と同じように)想いを直接感じ取れるでしょう。


地上的なものを手に入れた時の喜びは束の間です。

けれども、愛を表現した時、表現された時に得られる霊的な悦びには永続性があります。



霊的な悦びを得た地上での経験は、好きなことだけをして生きて行ける霊界において、全体のために何かをしようとする原動力になります。

霊界で自律的に成長して行くために必要な経験を地上でしています。



霊界では「愛」をどのように捉えているのでしょうか。

シルバーバーチは、このように表現しています。

「愛あればこそ全宇宙が存在するのです。宇宙がその宿命を成就し、全存在がそれぞれの宿命を成就していく背後にはこの愛の力が存在します。」


NASA公開画像より

霊界に行くと、想いは直ちに具現化されます。

それと同じです。

神の心(想い)が具現化されたものが宇宙です。



神の心は無限の愛です。

無限の愛が、宇宙に表現されています。

宇宙の一部である私たちにも、神の心が表現されていて、無限の愛を内在しています。



魂の成長とは、より高い愛を、より強く表現するようになることだと考えています。

別の言い方をすれば、神に近づくことです。

それによって、全体に調和が生まれ、霊的に1つになって行きます。



より強い愛を表現するためには、より強い意志が必要になります。

自分を表現するために肉体的、精神的な労力が必要とされ、困難や障害が存在する地上を生きることで、表現するための意志が培われていると考えられます。

今生の労苦は、霊界で活かされます。



愛は最も強い(波長の短い)波動です。

神を内在している私たちは高い波動を放っていますが、幾層にも重なった媒体によって、最終的に放たれる波動(表現)は低いものになっています。

幾層にも重なった媒体が、自然法則に働きによって、1つ1つ脱ぎ捨てられて行きます。

肉体の死もその一環です。

媒体がより精妙になるのに伴って、より高い愛が表現されるようになります。



霊界に行くと、地上とは比べものにならないほどの一体感が感じられるようになります。

全ての存在が霊的につながっていることが、はっきりと分かるようになるからです。






2025年10月5日日曜日

霊的な意識から生まれているものを表現する


「死」とは、寿命が来て魂が地上を去り、霊界に戻る自然現象です。

眠りに落ちると、魂は肉体を離れて霊界に戻ります。

魂と肉体はシルバーコードでつながっていて、朝になると肉体に戻って来ます。

人は毎夜死んで、毎朝生まれると言っても良いのかもしれません。


目覚めの良い朝があります。

それは霊界に戻り、生命(霊)力が十分に補充された時に実感するのかもしれません。

あるいは、霊界でうれしいことや楽しいことがあり、その余韻が残っていたのかもしれません。



霊界で補充された生命力は、仕事で神経を遣ったり、人間関係で揉まれたりして、徐々に減って行きます。

多くの生命力が日中で費やされ、夜になり霊界に戻り、再び補充されます。

毎日がその繰り返しです。

眠れない日が続くと、日中の精神活動が低下してしまうのは、生命力が補充されないためと考えられます。



地上の人間は、霊(魂)、精神、肉体から成り立っています。

肉体は、食物からエネルギーを吸収して活動しています。

霊および精神は、目に見えない生命力によって活動しています。



「霊的次元にある意識」から意志(思念)という力が生まれています。

意志(思念)が「精神的次元にある意識」に伝わり、具体的にどうすれば良いのかを考える力となります。

どうすれば良いのかが決まったら、肉体に指令が出されます。



このブログもそうです。

書こうという「意志(思念)」がなければ、何も始まりません。

その思念を、精神を働かせて、具体的な言葉を見つけます。

見つけた言葉を、肉体を使って文字としてパソコンに入力しています。

霊、精神、肉体が連動して働くことによって、ブログが書かれています。



霊的次元にある意識(以下霊的な意識)の中心に魂があります。

魂は神を内在しています。

そこから「愛」が生まれています。



一方、地上における精神的な意識(以下地上的な意識)は、肉体と密接不可分な関係にあります。

怒りや怖れや悲しみなどの感情が生まれています。

そして、食欲や性欲などの欲求も生まれています。



霊(魂)、精神、肉体に不調和が起こると病気になると言われています。

霊的な意識から生じた思念(意志)が、地上的な意識で具体化されて、肉体によってスムーズに具現化されている状態は、調和が取れていると考えられます。

思念が、何らかの理由で肉体で表現できなくなると、不調和が起こります。



そんな局面が地上では起こります。

例えば戦争です。

上官の命令により、敵を撃たなければならない時があります。

霊的な意識には良心があり、人を傷つけたくないという思念を出している人がほとんどです。

地上的な意識は、自分の置かれている立場を考え、上官の命令に従おうとします。

そんな時、霊的な意識と地上的な意識の間で、激しい葛藤が起こります。

もし、良心に逆らい、人を撃ち殺したとしたら、著しい不調和が起こります。

心身が病んでしまう人もいるでしょう。


霊的な意識は、人生の計画を知っていて、それに沿って生きようとします。

そうすることで、予定していた学びや成長が得られます。



けれども、予定した通りに行くとは限りません。

地上的な意識が強くなり過ぎると、霊的な意識から生まれている思念(意志)に気付けなくなったり、無視をするようになります。

金銭欲や名誉欲に捉われてしまい、生まれて来た目的を忘れている人がいます。



そのような人に因果律が働いて、災難のような出来事が降りかかることがあります。

出来事から生じる苦痛により、霊的な意識が目覚めて、本来の自分を取り戻し、再び計画に沿って生きるようになる人もいます。

不幸と思われる出来事は、後で大きな後悔をしないために、神の配慮により起きていたことになります。



私事ですが、20年前のある日、病気を癒す力が出現し、まもなく霊的真理と出会い、直後に経験したことのない出来事が起こりました。

それによって、霊的な意識が目覚めて、生まれて来た目的について思いを巡らすようになりました。

人生を変える大きな出来事が立て続けに起きたので、計画があることを信じざるを得ませんでした。


日常生活をしている時の意識と、道に倒れている人を助けようとする時の意識は違います。

助けようとするのは、愛に根差しているので、霊的な意識から生まれています。

地上的な意識は、助けることによる自分の不利益を考え、「仕事に遅れてしまう」「誰かが助けるだろう」などと理由を付けて避けようとする傾向があります。



混雑した電車に乗っていて足を踏まれて腹立たしくなるのは、地上的な意識の働きによるものです。

痛いのを我慢して、許そうとするのは、霊的な意識の働きによるものです。



この世の人間は、霊的な意識と地上的な意識の2つの意識が存在しています。

2つの意識は、並列的な関係ではなく、直列的な関係です。

霊的な意識から生じている思念(意志)を、肉体によって表現するための媒体として、地上的な意識は存在しています。

2つの意識が連動して働くことにより、地上での生活は営まれています。

本当の自分とは、言うまでもなく上位にある霊的な意識です。



心の中にある想いや感情が、どちらの意識から生まれているのかを見極めるのは大切です。

地上的な意識から生まれているものに、翻弄されることのないように努めなければいけません。

霊的な意識から生まれているものを表現することで人は成長し、生まれて来た目的を成就することになります。