マンションから幼児が落ちて亡くなるという、痛ましい事故のニュースが時折報道されます。
それを聞いて真っ先に考えてしまうのは、ご両親のことです。
途轍もない自責の念に襲われているのではないかと思うからです。
人間の苦しみはたくさんあります。
その中でも、自責の念ほど苦しいものはないのかもしれません。
「何をやっているんだ」「だめじゃないか」と上司が部下を叱責することがあります。
自分が自分に向かって叱責しているのが自責の念です。
時には、否定したり、傷つける言葉や想いを、自分に向かって投げかけていることもあります。
自分の腕を自分の指でつねると苦痛を感じるように、自分に投げかけている言葉や想いによって心が苦痛を感じていることがあります。
自責の念は、罪悪感から生まれると考えられます。
人間の心には、神が良心となって顕現しています。
罪悪感は、良心があることによって生まれます。
「良心の呵責」は罪悪感の一種と考えられます。
良心に背いて、霊的な法則に反した行いをした時、罪悪感が生まれます。
それにより心が苦しくなりますが、苦しみを通して法則に従うように促されていると考えられます。
社会で罪を犯せば、法律によって裁かれて、償うことになります。
霊的な罪を犯せば、法則によって裁かれて、償うことになります。
法律は人が作ったので、人が裁きます。
法則は神が創ったので、神が裁いていることになります。
神はどのようにして裁いているのでしょうか?
行いの「動機」に対して、法則が働いています。
動機が法則に反していれば、霊的な罪となります。
法則を貫いていのるは「愛」です。
例えば、人を故意に傷つけようとして、傷つけたのであれば罪になります。
傷つけようとする動機が、愛に反しているからです。
傷つけようとする意図がないのに、結果的に傷つけてしまったら、法律的に罪は問われるかもしれませんが、霊的な罪を問われることはありません。
マンションから落ちてお子さんを亡くされたご両親は、法則に反した行いをしたわけではありません。
従って、霊的な罪はありません。
注意義務を怠ったのではと言う人がいますが、予見するのは極めて難しい事象です。
それを罪と言うのであれば、ほとんどのご両親が問われることになるでしょう。
病気でお子さんを亡くされたお母さんの中にも、自分を責めている方がいます。
自分に責任(原因)があったと思われているようですが、そうではありません。
ご自身の想像も及ばないところに原因(目的)があり、それは向こうの世界に行ってから分かるでしょう。
SNSで誹謗中傷を受けて、命を絶ってしまう人が後を絶ちません。
中には罪を犯していなかったり、軽微な罪なのに、過剰に責め立てられる人がいます。
他人から責め立てられることにより、いわれのない罪悪感が生じます。
多くの人に責め立てられることで罪悪感が増して、それに伴い自責の念が強くなります。
自責の念が極度に強くなると、自分を傷つけようとする衝動が生まれて、それにより死に至ってしまう人がいます。
そんな悲劇が起きたなら、誹謗中傷した人たちは霊的な罪を免れることはできません。
それは、自分に対しても当てはまります。
自分のことをどう思おうと自由というわけではありません。
自分で自分を断罪して、責め立てることは許されないのです。
断罪するのは、神(法則)です。
責め立ててしまうのは、自分のことが許せないからです。
「自分がこうしていなければ、こんなことは起きなかった」あるいは「自分がこうしていれば、こんなことは起きなかった」等々、放っておくと直ぐに自分と結びつけてしまいます。
自分と事象を結びつけるのを、自分の意志によって、断ち切らなければいけません。
罪を犯していないのに、苦しむ必要はどこにもありません。
それでは、神の公正が崩れてしまいます。
そのために苦しみが創られたわけではありません。
神は無限の愛です。
奥深くにいる自分(魂)は神とつながっています。
自分を責めて苦しんでいる自分を、鏡の中に映る自分の中に見い出して下さい。
目を閉じて、心の中に思い浮かべても結構です。
その自分から少し距離を置いて、客観視するようにして下さい。
最も親しい人が、悪いことをしてないのに誰かに責められて苦しんでいたとします。
その人に苦しみを和らげるような言葉を見つけて下さい。
「悪いことはしていないのだから安心して」
「私は信じている」
「いつでも味方だよ」
他にもあるでしょう。
客観視している自分は、奥深くにいる自分です。
見つけた言葉を、苦しんでいる自分に向かって、語りかけてみて下さい。
責めている自分は、自分が悪いと思っています。
そんなことはできないと思ってしまうのであれば、それは奥深くにいる自分の意識ではありません。
怒っている子供を母親が優しくなだめるように、許せないでいる自分を奥深くにいる自分が根気強く諭すことによって、直ぐにというわけには行きませんが、少しずつ許せるようになって行くはずです。
自分に投げかける言葉や思いによって、自分を苦しめることができます。
同様に、自分に投げかける想い(愛)によって、自分を癒すことができます。
神はあらゆる事象を想定しています。
そこから生じる全ての思いや感情も想定しています。
全ての事象、感情や想いは、自らが創った法則によって生じているからです。
愛は宇宙に存在する最高の力です。
自分を支配している苦しみを生じさせる思いや感情は、愛によって解放させることができます。
全ての事象は、愛によって解決することができます。
愛について深く学ぶために、私たちはさまざまな事象を体験することのできる地上に生まれて来たと考えられます。
2 件のコメント:
はじめまして。
少し前にこちらのサイトにたどり着きました。腑に落ちる話しで、しばらく夢中で拝読しておりました。
特に今日のお話しは自分に響き、励まされました。
この世は厳しいと思うことが多いのですが、自分を励ましながら生きていこうと思います。
ありがとうございました。
匿名様
初めましてイクミです。
ブログを読んで、早々にコメントをいただき、ありがとうございます。
今日の内容に励まされたと聞き、私もうれしいです。
自分を責めてしまい、苦しまれている人たちの一助となればと思い書きました。
そうですね。この世を生きるのは大変なので、自分を励ましながら生きることは大切です。
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