2025年8月31日日曜日

自分を責めてはいけない


マンションから幼児が落ちて亡くなるという、痛ましい事故のニュースが時折報道されます。

それを聞いて真っ先に考えてしまうのは、ご両親のことです。

途轍もない自責の念に襲われているのではないかと思うからです。

人間の苦しみはたくさんあります。

その中でも、自責の念ほど苦しいものはないのかもしれません。



「何をやっているんだ」「だめじゃないか」と上司が部下を叱責することがあります。

自分が自分に向かって叱責しているのが自責の念です。

時には、否定したり、傷つける言葉や想いを、自分に向かって投げかけていることもあります。

自分の腕を自分の指でつねると苦痛を感じるように、自分に投げかけている言葉や想いによって心が苦痛を感じていることがあります。



自責の念は、罪悪感から生まれると考えられます。

人間の心には、神が良心となって顕現しています。

罪悪感は、良心があることによって生まれます。

「良心の呵責」は罪悪感の一種と考えられます。



良心に背いて、霊的な法則に反した行いをした時、罪悪感が生まれます。

それにより心が苦しくなりますが、苦しみを通して法則に従うように促されていると考えられます。



社会で罪を犯せば、法律によって裁かれて、償うことになります。

霊的な罪を犯せば、法則によって裁かれて、償うことになります。

法律は人が作ったので、人が裁きます。

法則は神が創ったので、神が裁いていることになります。



神はどのようにして裁いているのでしょうか?

行いの「動機」に対して、法則が働いています。

動機が法則に反していれば、霊的な罪となります。



法則を貫いていのるは「愛」です。

例えば、人を故意に傷つけようとして、傷つけたのであれば罪になります。

傷つけようとする動機が、愛に反しているからです。



傷つけようとする意図がないのに、結果的に傷つけてしまったら、法律的に罪は問われるかもしれませんが、霊的な罪を問われることはありません。

マンションから落ちてお子さんを亡くされたご両親は、法則に反した行いをしたわけではありません。

従って、霊的な罪はありません。

注意義務を怠ったのではと言う人がいますが、予見するのは極めて難しい事象です。

それを罪と言うのであれば、ほとんどのご両親が問われることになるでしょう。



病気でお子さんを亡くされたお母さんの中にも、自分を責めている方がいます。

自分に責任(原因)があったと思われているようですが、そうではありません。

ご自身の想像も及ばないところに原因(目的)があり、それは向こうの世界に行ってから分かるでしょう。



SNSで誹謗中傷を受けて、命を絶ってしまう人が後を絶ちません。

中には罪を犯していなかったり、軽微な罪なのに、過剰に責め立てられる人がいます。

他人から責め立てられることにより、いわれのない罪悪感が生じます。

多くの人に責め立てられることで罪悪感が増して、それに伴い自責の念が強くなります。

自責の念が極度に強くなると、自分を傷つけようとする衝動が生まれて、それにより死に至ってしまう人がいます。

そんな悲劇が起きたなら、誹謗中傷した人たちは霊的な罪を免れることはできません。



それは、自分に対しても当てはまります。

自分のことをどう思おうと自由というわけではありません。

自分で自分を断罪して、責め立てることは許されないのです。

断罪するのは、神(法則)です。



責め立ててしまうのは、自分のことが許せないからです。

「自分がこうしていなければ、こんなことは起きなかった」あるいは「自分がこうしていれば、こんなことは起きなかった」等々、放っておくと直ぐに自分と結びつけてしまいます。

自分と事象を結びつけるのを、自分の意志によって、断ち切らなければいけません。



罪を犯していないのに、苦しむ必要はどこにもありません。

それでは、神の公正が崩れてしまいます。

そのために苦しみが創られたわけではありません。



神は無限の愛です。

奥深くにいる自分(魂)は神とつながっています。

自分を責めて苦しんでいる自分を、鏡の中に映る自分の中に見い出して下さい。

目を閉じて、心の中に思い浮かべても結構です。

その自分から少し距離を置いて、客観視するようにして下さい。


最も親しい人が、悪いことをしてないのに誰かに責められて苦しんでいたとします。

その人に苦しみを和らげるような言葉を見つけて下さい。

「悪いことはしていないのだから安心して」

「私は信じている」

「いつでも味方だよ」

他にもあるでしょう。



客観視している自分は、奥深くにいる自分です。

見つけた言葉を、苦しんでいる自分に向かって、語りかけてみて下さい。



責めている自分は、自分が悪いと思っています。

そんなことはできないと思ってしまうのであれば、それは奥深くにいる自分の意識ではありません。



怒っている子供を母親が優しくなだめるように、許せないでいる自分を奥深くにいる自分が根気強く諭すことによって、直ぐにというわけには行きませんが、少しずつ許せるようになって行くはずです。

自分に投げかける言葉や思いによって、自分を苦しめることができます。

同様に、自分に投げかける想い(愛)によって、自分を癒すことができます。



神はあらゆる事象を想定しています。

そこから生じる全ての思いや感情も想定しています。

全ての事象、感情や想いは、自らが創った法則によって生じているからです。



愛は宇宙に存在する最高の力です。

自分を支配している苦しみを生じさせる思いや感情は、愛によって解放させることができます。

全ての事象は、愛によって解決することができます。



愛について深く学ぶために、私たちはさまざまな事象を体験することのできる地上に生まれて来たと考えられます。



2025年8月24日日曜日

背後にいる存在を信じる


30年前、都内を車で走っていた時のことです。 

信号待ちで止まっていて、ふとバックミラーに目をやると、後続車がかなりのスピードで近づいて来るのが見えました。

ぶつかると身構えた瞬間、追突されました。

私の車は飛ばされて、前に止まっていた車にぶつかり、その車も飛ばされて前の車にぶつかりました。

いわゆる、4重衝突です。


車はかなり損傷しましたが、身構えることができたので、怪我をしないで済みました。

その話をある人にしたら、「守護霊に守ってもらったのね」と言われました。

当時は霊的なことに関心がなかったので聞き流しましたが、正しかったようです。

ミラーに目をやったのは偶然ではなく、事故を予見した守護霊に促されていたと、今は考えています。



生涯に渡って守護霊は付いています。

ほとんどの人はその存在を意識することはありません。

けれども、地上の人が学びや成長を得るために、人生のさまざまな局面で働きかけています。



働きかけは、主にインスピレーションの形を取ります。

言葉を超えたインスピレーションが、地上の人の魂に伝わって来ると、行動を起こす衝動が精神で生まれると考えられます。



何となく気が進まない、行きたくない感じがして、その衝動に従って難を逃れたという話を聞きます。

そんな時は、背後にいる存在からインスピレーションが伝わって来たと考えられます。



音楽家がメロディーが降って来た、小説家が言葉が湧いて来たと表現する時があります。

そんな時も、同調する霊界の存在からインスピレーションが伝わって来たと考えられます。



霊的真理に出会ったのも偶然ではありません。

インスピレーションを受け取り、無意識の内に行動したことで、辿り着いたと考えられます。



仕事である学会に所属しています。

年に1度総会が開かれて、全国から同業者が集まりますが、最も重要なセクションの座長をやってみないかと打診されました。

大きな会場で、たくさんの人の前で話すのは得意ではありませんが、「乗り越えられない困難は与えられない」という霊的真理を信じて、思い切って引き受けることにしました。

実際の会場

初めての経験で、かなりの重圧を感じました。

上手く行くだろうかと不安に思っていた時に、背後にいる存在に意識を向けてみました。

すると、一瞬で不安が解消し、心が明るくなるのが感じられました。

当日も、意識して臨んだところ、自分でも驚くほど冷静に対処することができました。

背後にいる存在は、想いという力を伝えることで、地上の人の心のありさまを変えることができると思いました。



話は変わりますが、1970年アポロ13号は月に向かって航行中に酸素タンクが爆発しました。

地球から遠く離れた宇宙空間で想定外の事故が起こり、助かるのは難しいだろうと思った人は少なくありません。

極めて困難な状況の中で、いくつかの画期的なアイデアが生まれて、それを実行することで全員無事に帰還することができました。

「万事休すとあきらめかけた、その最後の一瞬に救いの手が差しのべられることがあります。」とシルバーバーチは言っています。

絶対に助けると言う関係者の強い意志と、世界中の人たちの祈りによって、霊界の人たちが突き動かされ、人類の英知をはるかに超えた英知が結集され、最善のンスピレーションが与えられて、このミッションは成功したと思います。

霊界にいる存在の力が遺憾なく発揮された時、「奇跡」と呼ばれる現象が起きると思います。

帰還したアポロ13号

インスピレーションの恩恵に与かるために大切なのは、背後にいる存在を心から信じることです。

信じることにより、両者のつながりは強くなります。

そして、存在を意識しながら、頭を空っぽの状態(感情にも考えにも捉われない)でいると、必要としているインスピレーションが心に浮かんで来るかもしれません。

それを、気のせいや思い付きにしてはいけません。



背後にいる存在が、もっとはっきりと分かったら良いのにと思う人もいるでしょう。

地上の人を導きやすくなると思います。

それにより、霊的な罪を犯す人も少なくなると思います。

けれども、頼ろうとしたり、利己的なことに利用しようとする人もいるでしょう。

学び成長させるために付いているのに、それでは意味がなくなってしまいます。

地上の人の進化の程度に合わせて、はっきりと分からないようになっていると考えられます。



インスピレーションに従って行動するか、それとも無視するかは自由です。

決めるのは地上の人であり、背後にいる存在は干渉することはできません。

自分で決めたことを、自分で責任を取るようになっています。



信じて進んで行くと、困難や障害が待ち受けているかもしれません。

間違っているのではなく、それが霊的に正しい方向、予定されていた方向かもしれません。

学びや成長は、困難や障害を乗り越えて行く過程で得られるからです。



背後にいる存在は、地上の人を懸命に導き、正しい方向に進んで行くのを固唾を飲んで見守り、進み始めたら惜しみのない援助を与えています。

その恩恵は計り知れません。



地上の人が学び成長している様子に、背後にいる存在は喜びを感じているはずです。

その喜びが守り導くことに対する報酬となっているのでしょうが、感謝の想いを忘れてはいけないと思います。





2025年8月17日日曜日

突然の別れから40年を経て


1985年8月12日の夕刻、群馬県御巣鷹山に日航ジャンボ機が墜落し、520名の方が亡くなられました。

ほどなく身元確認作業が始まりましたが、ご遺体の損傷は激しく、現在のように遺伝子検査がなかったために、困難を極めました。

歯型の照合による確認が行われていて、歯科医院を開業していた父は県警から確認作業の協力の要請を受けました。

当時、歯科大生であった私は父に促されて、アシスタントとして同行することになりました。



御焼香の煙りが立ち込める学校の体育館に入ると、たくさんの棺が並べられていました。

ご遺族たちが、棺の蓋を開けてご遺体の確認をされていました。

少し前まで元気でいた人が変わり果てた姿になっている、この現実を受け止め切れないからでしょうか、少しでも早く家に連れて帰りたいという気持ちが勝っていたからでしょうか、そこにいたご遺族に涙はありませんでした。

大変な現場に居合わせていると思いました。



あの時から40年、8月15日に御巣鷹の尾根に行きました。

9年前に初めてこの地を訪れた時以来です。

登山道は整備されていますが、60代の私が息を切らすほどの急な坂が続いていて、ご高齢の方や身体が不自由な方が登るのはとても大変です。

沢伝いに登って行くと、つづら折りの坂となり、道の脇にはいくつもの墓標が立っていて、この場所でご遺体が見つかったと思われます。

もう少し登って行くと、急に視界が拓けて、平らに整地された場所に着きました。

振り向くと、「昇魂之碑」がありました。



事故直後、この場所は肉体を失った人(霊)たちで溢れていたはずです。

初めて訪れた時、もしかしたら今も留まっている霊がいるのではと思いましたが、その気配は全く感じられませんでした。

それどころか、拍子抜けするほど清々しく、明るい場所でした。



肉体から突然引き離された人(霊)たちは、自分が置かれている状況を全く理解できずに、茫然と立ち尽くしていたと想像されます。

事故を察知した霊界の人たちは、直ちにこの場所に赴いたと思われます。

霊界は、高度に組織化され、適材適所に人があてがわれた世界です。

自分から拒絶しない限り、放置されることは決してありません。

ショック状態に陥っている人たちは、地上の病院に当たるところに連れて行かれ、手厚く看護されたと思われます。

霊界の人たちの愛情と、間断なく注がれている生命(治癒)力により魂は癒され、次第に本来の自分を取り戻して行ったと思われます。



動かなくなった自分の身体に付いて行き、遺体が安置された体育館で家族と再会する人もいたと思います。

しかし、いくら家族に話しかけても応答はなく、身体に触れようとしても手が素通りしてしまいます。

棺に縋り付いて泣き崩れる家族の姿を見て、自分が死んでしまったことに気付いた人もいたと思われます。



しばらくして、ご遺族はこの尾根を訪れるようになります。

悲しみ、悔しさ、怒り、言葉にできない想いが、叫びとなって放たれていたと思われます。



悲しみは、行き場を失った愛です。

悔しさも怒りが生まれるのも、親愛の想いがあってこそです。

祈りは、故人の平穏を願ってのことです。



亡くなった人たちは、その様子を傍で見ています。

言葉にしなくても、想いは分かっています。

涙を流している姿、祈りを捧げている姿を見て、自分はこんなにも愛されていたんだと感じた人もいたでしょう。

同時に、一緒にいられなくなった悔しさや憤り、すまなさを感じていた人もいたでしょう。



そんな人も、徐々に向こうの世界に順応して行きます。

ここが本来の住処であり、ここで経験できないことを経験して、学び成長するために地上に生まれたことを知ります。



学びや成長は、霊界においても引き続き行われ、周りのために自分を活かす生活が始まります。

地上でできなかった経験を、地上に残した人が経験することで、学びを共有することもあると考えられます。

不利益や不公正が生じないようになっているので、地上にいられなかった悔しさは、次第に薄らいで行ったと考えられます。



涙が尽きることのない、地上にいる人を見て、こう想うようになるのかもしれません。

「こんな別れ方をしたのだからいくら泣いても良い。けれどもいなくなったとは思わないで欲しい。前よりも近くにいられるのだから。」

けれども、悲しみに包まれた地上の人に、その想いが届くことはありません。



地上にいる人への愛情表現は、言葉や行動など肉体を介したものから、守り導くという想いを介した霊的なものへと変わります。

そのことにより、霊界においても地上にいた時と同等の成長が得られると考えられます。



この尾根を「聖地」あるいは「歩いて行ける天国」と呼ぶ人たちがいますが、その通りです。

地上と霊界の双方から、長い年月に渡り放たれた想い(愛)と祈りによって、極めて浄化されていると感じられました。

山全体がこの世の雑念から隔絶されているために、霊界にいる人が近くに感じられ、知らずに想い(愛)を受け取っている人も少なくないと思います。

訪れるご遺族が絶えることがなく、笑顔になって山を下りて行く人が多いのは、そのためだと思います。



昇魂之碑の奥には、亡くなった人の名前が刻まれた石碑がありました。

手を併せて、何か伝えたいことはありますかと想いを向けたところ、何も感じられませんでした。

ここに留まっている人(霊)はもういないと、改めて思いました。



40年の歳月が過ぎて、亡くなったご遺族も多くいます。

それは待ちに待った再会を意味します。

その時、想像もしない形で想いを交し合っていたこと、つながりは全く失われていなかったことに気付くでしょう。



自分がいなくなった世界を生き抜いたことを、褒めてもらった人もいるでしょう。

その労をねぎらい、やさしく抱きしめてもらった人もいるでしょう。



今生の突然の別れは、魂の学びや成長として報われていて、完全な公正が保たれていたことを知り、無限の叡智、無限の愛が存在していることがはっきりと感じられて、思わず感謝した人もいると思います。



御巣鷹山へと続く道


参考ページ:日航機墜落事故の遺族を支えたシルバーバーチの霊訓




2025年8月12日火曜日

日航機墜落事故の遺族を支えた「シルバーバーチの霊訓」


40年前の今日、群馬県御巣鷹の尾根に日航ジャンボ機が落ちて、520名の方が亡くなられました。

ご遺族の中に、河口慶子さんという方がいます。

事故で夫の河口博次(享年52歳)さんを亡くしました。



博次さんは、墜落前の機内で、以下のメッセージをご家族に書き残しました。

「マリコ 津慶 知代子 
どうか仲良くがんばって ママをたすけて下さい
パパは本当に 残念だ きっと助かるまい
原因は 分らない 今5分たった
もう飛行機には 乗りたくない
どうか神様 たすけてください
きのう みんなと 食事したのは 最后とは 
何か機内で 爆発したような形で
煙が出て 降下しだした 
どこえ どうなるのか
津慶 しっかり た(の)んだぞ
ママ こんな事になるとは 残念だ 
さようなら 
子供達の事を よろしくたのむ
今6時半だ 
飛行機は まわりながら 急速に降下中だ 
本当に今迄は 幸せな人生だったと感謝している」

ダッチロールを繰り返す機内で、このようなメッセージを書き残せたのは、ご家族への強い想いがあったからに違いありませんが、奇跡と言えます。

2010/8/10  日本経済新聞 電子版より
ご遺体の服がびしょびしょに濡れている中で、このメッセージが書かれた手帳は濡れていなかったそうです。

「何も言わずに消えることはどうしても避けたい、絶対に伝えなきゃという気持ちが、ちゃんと自分たちの手に届くように守っていた」と、ご家族は感じたそうです。



この魂の叫びのようなメッセージを見て、慶子さんの魂は目覚めたと思います。

事故から5年後、光の彼方へ:死後の世界を垣間見た人々(TBSブリタニカ、レイモンド・A・ムーディ著)を翻訳しました。

当時の世の中は今よりも霊的なことに否定的だったので、悲しみの末に少しおかしくなってしまったのではと思った人がいるかもしれません。

けれども、ご本人にとって、そんなことはどうでも良く、使命として感じていたのでしょう。



「訳者あとがき」にはこう書かれています。

「主人は1985年8月ジャンボ機の事故で、この世の命を終えております。私どもに宛てて遺しました「走り書き」には、「どうか神様助けてください」という一行がございましたが、生前は、「人間は死んだらどうなると思う」という私の再三の問いについても、「何にもなくなるさ」と答えておりました。でもやはり、死んでみてそうではないことを知り、私にこの本の翻訳をさせてみて、みなさまに読んでいただきたいと思ったのではないかという気がいたします。(ムーディ博士の第一作「垣間見た死後の世界は出版当初に読んでおり、亡き主人が私に望んでいる仕事かもしれないと思い、翻訳させていただくことにしました。)」

専業主婦で経験のない自分にできるのかと心配されたかもしれませんが、極限状態の中であのメッセージを書き残したご主人のことを考えると、できないことは何もないと思い、引き受けたのかもしれません。



慶子さんは、ご遺族や事故後に知り合った多くの人たちに「古代霊は語る:シルバーバーチの霊訓より」(潮文社、近藤千雄訳、現在は絶版)を、こんな文章を書き添えて送っています。

「ここにお届けする本は、昨年私が本屋で見つけて読みはじめ何度も何度も読んでいたものでございます。これが今回の事故に際して、何ものにもまして私を支えてくれました。常の時ならば、このような本をお勧めするのも躊躇するのですが、少しでも興味をお持ち下さってお読み頂ければ、これに増した喜びはございません。」



自分がいない中で、立派に子供を育て上げ、霊的な真実を広めている慶子さんの姿を見て、ご主人も誇りに思っているはずです。

近況は分かりませんが、もう再会されているのかもしれません。


御巣鷹山の夕焼け雲






2025年8月10日日曜日

霊界に行って分かること


若い頃は、死ぬのが怖かったです。

意識がなくなり、自分が消えてしまうと思ったからです。



20年前に霊的真理と出会い、怖くなくなりました。

意識は不滅の存在である魂にあり、消えてしまわないことを知ったからです。



何で生まれて来たのだろうと思う時がありました。

その答えは明確であり、自分(魂)を成長させるためです。



苦難ばかりの人を見て、不幸な人だと思いましたが、今はそうではありません。

1つ1つ克服して行くことで人は成長するので、生まれて来た目的を果たしていると思うようになりました。



労せずして富を得て、自由気ままに暮らしている人を見て、何て運が良いのだろうと思う時もありました。

今は、成長する機会を逸した、霊的に運が悪い人かもしれないと思うようになりました。



本来の住処は霊界です。

そこでは、生きて行くために働く必要もありません。

争いが起きたり、人間関係で悩むこともありません。

思ったことが直ぐに具現化します。

天国と呼ぶのに相応しい世界です。



肉体はなくなり、本当の自分(魂)が露わになります。

至上の存在(神)が感じられるようになり、同時に自分の至らなさを自覚するようになります。

至らない自分を、どうにかして変えたい(成長させたい)と思うようになります。


地上は「学校」と良く言われます。

学校には先生がいて、勉強を教えてくれます。

時々、試験があり、きちんと学んでいるのか確かめられます。



家で学ぶのはどうでしょう。

何をどう勉強したら良いのか、分からない人も少なくありません。

ゲームやスマホもあり、誘惑に負けてしまうかもしれません。

途中で挫折してしまう可能性は大いにあります。

自由があり過ぎると、返って学ぶのは難しくなると考えられます。



霊界にいながら自分を変えるのは、家にいながら学習するのと同じで、自由で快適な世界だけに難しいのかもしれません。

そこで、半ば強制的に自分を変えることのできる地上に生まれると考えられます。



学校では、順序立てて学ぶための「カリキュラム」があります。

地上の人生も、自分を変える(成長させる)ための「計画」があります。



試験は、学んだことを自分のものにするために必要です。

経験は、教訓を自分のものにするために必要です。



学期が終わったら、通知表をもらいます。

成績が上がっていたら喜び、下がっていたら落ち込みます。



地上の人生が終わったら、総括する時が訪れます。

どんな想い(動機)で、どんな行動を取ったのかを、全て思い出します。



予定されていた方向に進んで行き、成長することができたのを知ったら、喜びに包まれるでしょう。

違った方向に進んでしまい、成長する機会を逃してしまったのを知ったら、悔むことになるでしょう。



シルバーバーチの霊訓にはこのように書かれています。

「そのうちあなたも、地上人生を明確な視野のもとに見つめ直す時がまいります。その時、苦難こそ最も大切な教訓を教えてくれていること、もしもあの時あれだけ苦しまなかったら、悟りは得られなかったであろうことを、しみじみと実感なさいます。辛い教訓ではあります。が、教訓とはそういうものなのです。もしも教訓がラクに学べるものだとしたら、もしも人生に苦労も誘惑も困難もなく、気楽な漫遊の旅だったら、それは頽廃への道を進んでいることになります。」



そして、こうも書かれています。

「いつの日かあなたは、その時は嫌で仕方なかった体験を振り返り、それらが実際はあなたの霊的進化を促す貴重な機会であることを知って、感謝なさる時が来るでしょう。」

苦難の最中にいるとそう思えないでしょうが、霊界で地上の出来事の真意を知ることになります。



地上では分からなかった様々なことが、霊界に行くと分かるようになります。

完全な叡智(神)によって、地上の人生は立案されています。

その人生を了承して、相応しい環境に生まれて来ています。



出来事が起きて、それをどう捉えて、どう行動するのかは自分で決めています。

運命を呪ったり、神を恨んだりすると、成長する方向へと進んで行く力が奪われてしまうことが分かります。



生まれる前も、生まれた後も、あらゆることを自分で決めています。

自分で決めたことが、相応の結果を生み出しています。

その連鎖を繰り返しながら、現在の自分に至っています。

決めたことに対して責任を負うのは自分なので、現状に不平不満を言うのは間違っていることに気付きます。



私たちは原因と結果の関係から学びを得ています。

何故、このようなことが起きたのか? 

自分に問いかけた時、合点が行くような答えが見つかり、それまでの苦しみが和らいだとしたら、それが出来事を通して学ぶべきことなのかもしれません。



どうしても答えが見つからない時、知ることのできない過去生に原因があるのかもしれません。

この出来事を経験しなければならない出来事(原因)が、過去生にあったのかもしれません。

それも霊界に行けば分かるでしょう。



霊的な学びは、顕在意識に上ってこないことも、言語化できないことも多いと思われます。

知らないうちに生き方や考え方が変わったのなら、何かしらの学びが得られていて、奥深いところ(魂)が変わったのかもしれません。



学校に行くのは、人や社会のために役立つ素養を身に付け、自立して生きて行くためと考えられます。

地上に生まれたのは、さまざまな出来事を経験することで、全体のために奉仕をする資質を身に付けて、霊界で自律的に成長して行くためと考えられます。

そのことを承知して生きて行けば、後悔することはないと思います。



2025年8月3日日曜日

私たちは霊的に一体



人がクマに襲われる事象が多く起きています。

温暖化の影響でしょう、木の実などの食料が山で採れなくなったために、人里に降りて来るようになったと考えられます。

人とクマが出くわした時、人が怖くなるように、クマも怖いのです。

人を襲って来るのは、多くの場合、自分の身を守ろうとしているからと思われます。




今、起きている戦争も同じような気がします。

地上は自分と違う人たちと暮らす世界です。

違う人たちのことが理解できないと、不安に思ったり、警戒したりします。

自分を守ろうとする気持ちが高じると、対象を攻撃してしまうことがあります。

お互いが理解できないことから生じる「怖れ」が争いの原因になっていることが多いと考えられます。




肉体を持つことにより、(地上の)自我が生まれ、そこから怖れが生じます。

外部から自分(肉体)を守るために、怖れを感じることは必要です。

もし感じなければ、高い所から落ちて死んでしまうかもしれません。

ただ、過度な怖れを抱いてしまうと、過度な行動を取ってしまう可能性があります。




過度な怖れを抱かないようにするのには、どうすれば良いのでしょうか?

地上の人間には、外面上さまざまな違いがあります。

けれども、本質は同じ魂です。




魂とは生命そのものです。

神性を帯びた意識です。

困っている人を見ると、何とかしてやりたいと思うのも、私たちに神性があるからです。

嘘を付きたくないと思うのもそうです。

全ての人は神が内在している善なる存在であることを理解すれば、過度な怖れを抱かなくなり、尊ぶようになるはずです。



戦争は、遠い場所で起きている、自分には関係のない出来事のように思えます。

それは違います。

地上で起きていることは、自分にも深く関わっています。




少し話が逸れますが、長い間、盲腸は役割りがない組織と思われていました。

最近になり、腸内の免疫力を高める役割りを果たしていることが分かりました。

全ての細胞(組織)は、全身のために、何らかの役割りを果たしています。

用のない細胞(組織)は存在しません。




それと同じで、全ての人は全体を構成する1部として、何らかの役割りを果たしています。

自分には役割りはないと思っている人がいたとしても、それは分かっていないだけであり、知らずに役割りを果たしているのです。




1つ1つの細胞には、同じ血液が流れていて、全身とつながっています。

1人1人の魂にも、同じ霊(生命)力が流れていて、全体とつながっています。

人と人の間には、目に見えないつながりが存在しています。




戦争により飢えてやせ細ってしまった子供たちを見ると心が痛みます。

それは、霊的なつながりを通して、子供たちの苦しみや痛みを魂で感じているからです。




自分に関係ないと思うのは、自分の身体の一部が傷ついているのに関係ないと思うのと同じです。

霊的な感覚が鈍麻しているせいかもしれません。




肉体はばらばらに存在しています。

けれども、霊的には一体です。

霊界にいる時には、当たり前のように感じられていた霊的な一体感は、地上に生まれてしまうと、自我の働きが強くなるため、分からなくなってしまいます。




それでも、一体感を取り戻す時があります。

危機的な状況に直面すると、意識が一変します。

東日本大震災の時、悲惨な光景を目の当たりにして、霊的な意識が目覚めた人も少なくないはずです。

そんな人は、人とのつながりを意識するようになり、一体感を感じていたと思われます。

もし、お互いの違いを乗り超えて、この一体感を共有できるようになったならば、地上から戦争はなくなるでしょう。




戦争で非道な行いをしている人たちがいます。

そんな人たちを憎むのではなく、哀れみましょう。

神は法則となって顕現しています。

1つ1つの行いに対して、厳格に法則は働いて、苦痛を伴う結果をもたらします。

地上を生きている時に結果が出なくても、霊界に行って内在している神(良心)と向かい合い裁かれることになるからです。




互いの違いを認め合い、許し合うという、神性が発揮されると、争いは回避されます。

遠い先になりますが、神の法則(因果律)の働きによって、いずれ戦争のない世界になります。




今、できることは限られています。

平和な世界になることを祈りましょう。

1人の祈りの力は小さくても、多くの人が祈れば、大きな力となります。

祈る心は、内に平和をもたらし、それが外の平和へとつながって行きます。




「全ての人は霊的に一体」

この事実が少しずつ広まるのに従い、争いのない平和な世界になって行きます。