2016年3月27日日曜日

因果律の働きを知って



現在、私は歯科医師をしています。

10年前のある日、私の元に一通の文書が届きました。



仕事を監督する機関からのものであり、そこには私の保険の請求に問題が認められたため、行政指導を行う旨が書かれていました。

ほとんどの医療機関は保険診療を行っており、患者さんの診療内容に応じて、支払い元に請求を行います。

指導とは、保険の請求が適切に行われているかを審査し、問題があれば改善を促すものですが、最悪の場合には、保険診療が出来なくなる保険医の取り消し処分が下されます。

もし、保険医の取り消し処分が下されれば、事実上、廃業に追い込まれるのがほとんどであり、医療従事者であれば誰もが怖れています。

けれども、悪いことをしたという意識は少しもなかったので、どこかに不備が見つかったとしても、注意されて終わるだろうと考えていました。

ところが、指導を受ける準備のため、カルテ等の資料を良く調べてみると、行ってはいけない請求もたくさんあったことが判明しました。

そのことを、とても悔いると同時に、発覚して咎められた時のことを考えると、とても不安な気持ちになりました。

指導を受ける当日の朝は、まるで裁判を受ける被告人のような心境であり、緊張すると共に、惨めな気持ちになりました。

いよいよ指導が始まりましたが、怖れていたことが現実となり、それを追求され、正当な釈明が出来ないため、疑義は深まっていきました。

約1年に渡り、指導が繰り返され、これまでいかに決まりごとを守らずに、いい加減に生きてきたかを思い知らされました。

そして、当初の予想とは全く異なり、最も怖れていた保険医の取り消しという処分が、私に下されました。

地元の新聞の3面記事に名前が載り、当然のことながら歯科医師として信用は大きく失墜し、それまで通って来ていた多くの患者さんが、私の元から離れていきました。

従業員にも多大な迷惑をかけたため、信頼関係は大きく崩れて、職場の雰囲気は一変しました。

家族にも、心配をかけた上、恥ずかしい思いをさせて、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

今まで築き上げたものが、一瞬にして崩壊したような気がしました。

仕事に関しては、私なりに力を入れてやってきましたので、不名誉な処分を受けた挫折感、屈辱感は相当なものでした。

そして、これから先、どうやって生活していけばいいのだろうと、絶望的な心境になりました。

この出来事により、多くのものを失うことになりました。



その中で、手にしたものがありました。

それは、シルバーバーチの霊訓に書かれている「霊的真理」です。

窮地に追い込まれ、多くのものを失わなければ、きっと手にすることはなかったと思います。



霊的真理の中でも、当時の私の心に突き刺さったものは「因果律」でした。

仏教で言う「因果応報」であり、聖書では「自分が蒔いた種は、自分で刈り取る」と書かれ、自分のした行為に対して、結果責任を取らなければならないことを知りました。

自然法則の根幹を成している「因果律」が、私にも正確に働いていることを、つらい日々を過ごす中で、身を持って知りました。



裁判では同じ行為でも、「過失」によるものか、「故意」なのかで、課される量刑が違ってきます。

うっかり人を傷つけてしまったのか、わざと傷つけたのかで、罪の大きさに差があるのは当然です。

今回、私の不祥事では、知らなかったこともありましたが、知ってた上でしてしまったこともありました。

振り返ってみると、初めてしてしまった時に、自分に言い訳みたいなことを言っていました。

きわめて身勝手で、恥ずかしい言い訳であり、「誰もがしていることだから」とか、「これくらいは大したことはないだろう」と言うようなものでした。



一方、こんな声もしていました。

「本当にそれでいいのか」

頭をかすめていたその声も、言い訳に掻き消されて、結局、不正な請求をしてしまったのです。

それが、当たり前のようになってしてしまうと、声はしなくなります。



どうやら、10年前の私の中には、二人の自分がいたようです。

表現が適切かどうかわかりませんが、一人は、この世を生きている内に、知らず知らずに作り上げてきた自分であり、言い方をかえると表向きの自分でした。

もう一人は、その陰に隠れている、ありのまま(素)の自分であり、本当の自分です。



子供の時は、本当の自分でいられたと思いますが、大人になるにつれて、周りに合わせたり、良く見られようとしたり、打算的に生きている内に、表向きの自分が少しずつ作り上げられて行ったようです。

いつの日か、作り上げてきた自分が前面に出て、自分自身だと錯覚するようになり、本当の自分は奥に引っ込んでしまったようです。



本当の自分は、善悪をしっかりと判断しているようです。

「やってはいけない」と、表向きの自分がしようとしている、自然法則に反した言動を拒否しているようです。

本当の自分には、シルバーバーチが言う「神の監視装置」、一般的に言う「良心」が存在しているようです。

「本当に、これでいいの?」と、心の中でつぶやいていたのは良心の声であり、表向きの自分に対して、自制を促していたと思います。

一方、表向きの自分は、「大したことはない」、「誰でもしているから」、「ばれやしない」と、心の中でつぶやき、本当の自分に言い聞かせていたと思います。

行動をする直前まで、両者のせめぎ合いがあり、結局は、表向きの自分に押し切られてしまったと思います。



普段から、慌ただしく、頭を使った生活をしていると、表向きの自分が優位に立ってしまい、本当の自分の声は聞こえにくくなってしまうようです。

本当の自分がいることを意識し、その声に耳を傾けていれば、「やっぱりやめておこう」と、思い留まれたと思います。

俗に言う「エゴ」とは、表向きの自分と同じような気がします。



表向きの自分は、周りに影響されながら作り上げてきたものなので、周囲の状況に流されやすいと思います。

また、物事の表面しか見ていないので、お金や地位、名誉など、表面にあるものを、追い求めてしまい、見栄や虚勢を張ってしまうかもしれません。

本当の自分は、生まれながらの自分であり、周りにも影響されにくいようです。

物事の内面を見ているので、人の想いを察知したり、本当に大切なものや、美しいものが判るようです。



長い間、表向きの自分と、本当の自分のせめぎ合いの中で、生きてきたと思います。

次第にバランスが崩れて行き、不祥事が起きた時には、本当の自分の存在に気付けないほど、表向きの自分の存在が大きくなっていたと思います。



本来は、本当の自分が、主導権を握って生きなければいけないと考えられます。

表向きの自分では、どうしても目先のことに捉われてしまって、自分の成長につながる決断ができません。

そのために、この世で予定していた成長が、得られなくなってしまう可能性があります。

一方、本当の自分は、この世に生まれる前に約束したシナリオを、無意識下で知っていて、自分の成長につながる決断が、直感としてできるようです



人生では、どちらを選択するか迷う時があります。

その時には、表向きの自分と、本当の自分の間で、せめぎ合いが行われていると思います。

表向きの自分は、外面しか見ていないために、失敗を怖れて、安易な方向、楽な方向に進もうとします。

本当の自分は、困難や障害が待ち受けている方向に進もうとします。

もし、両者のせめぎ合いを感じたのなら、思い切って本当の自分が指示する方向へ進んで行くのが賢明と思われます。

その選択が、より自分を成長させることが出来るからです。



人生では、さまざまな苦難や障害を伴う出来事が起きます。

表向きの自分にとって、災難であり、不幸な出来事にしか思えないようです。

しかし、本当の自分は、今生に与えられた試練であり、成長する機会として受け止めるようです。

10年前に起きた出来事は、以前の私でしたら、最悪な出来事であり、不運を呪ったでしょう。

今の私は、本当の自分が目を覚まし、成長して行く人生に変わるために、なくてはならなかった出来事だと思っています。



そして、強く感じたことがあります。

それは、因果律の働きは、最適なタイミングで、結果を生じさせると言うことです。

このタイミングでなければ、本当の自分にまで響き、目覚めさせることは出来なかったと思われます。



1つの出来事には、2重3重の意味があったようです。

表面的には、私は法令遵守をしなかったため、行政処分を受けました。

内面的には、良心に従わなかったため因果律が働き、苦痛を味わったと思います。

さらに内面には、苦痛が触媒となり、ありのままの自分を目覚めさせる意味があったようです。

シルバーバーチは法則の裏側に法則が働いていると言っていますが、このようなことを指すのでしょうか。

物事の表面だけ見ると、災難や凶事と思えることも、深層には必ず意味があり、霊的には良い方向に導かれていることを実感しました。

突発的に起きたのではなく、タイミングを見計らって、因果律が働いたと確信しています。

これらを勘案すると、因果律を支配している叡智はやはり完璧であり、すべてが佳きに計られているような気がします。



話は変わりますが、子供の時に、「悪いことをしたら、罰が当たるよ」と、何度も言われました。

そう言われても、別に何も起こらないので、悪さをさせないための大人の口実と思っていました。

今、考えてみると、因果律の働きを、言葉にしているようです。



目に見えるもの、見えないものに拘わらず、因果律は働いています。

石を真上になげれば、物理的法則である万有引力の働きにより、真下に落ちてきます。

同じように、自分のしたことは、目に見えない霊的法則の働きにより、自分に返って来ます。

自然の決まりに反した行いをすれば、因果律の働きにより、相応の苦痛を伴う結果として返ってきます。



しかし、世の中を見渡すと、悪いことをしていても、平然と生きている人はいます。

誰にも判らないように、人を傷つけたり、貶めたりしている人もいます。

人がどうなろうとも、自分の欲望を満たそうとする人もいます。



そんな人は、法律的な裁きを免れたとしても、霊的に許されないことを知りません。

肉体を失っても、犯した罪が、償いがなければ消えないことも知りません。

この世の人生における、全ての行い、さらに想いまでも、魂に刻まれていて、犯した過ちと直面する時が必ず訪れることも知りません。



法律に背いたことをすると、時に刑務所に入れられ、自由を奪われます。

霊的法則に背くと、成長が許されません。

自分を成長させることは、生きる意味そのものです。

その苦しみは、自由を奪われた受刑者以上に違いありません。

再び、成長していくためには、過ちを認め、相応の苦痛を経験して償わなければいけません。

その事実を知っていれば、傷つけられ、ひどい仕打ちをされたとしても、同等の痛みや苦しみを味わうことになるので、憎む必要はありません。

イエス・キリストがゴルゴタの丘で磔の刑にされ、鞭を打たれている時に、「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」と、言ったそうです。

自然法則を知らずに、罪を犯している人たちに待ち受けている報いが、どんなものかが判っていたので、哀れに思わずにはいられず、神に向かって慈悲を求めていたと思われます。



「因果律」により、全てが解決されます。

不公平、不公正は、全く存在しません。

この世だけを見て、判断してはいけません。

この世で因果律が作動しなければ、あの世で間違いなく作動し、公正は完全に保たれます。

だから、人を傷つけたり、悲しませたり、苦しませたりすることは、絶対に出来ないのです。

後悔しないように、自分に正直に、良心に忠実に従って、生きなければならないのです。



以上が、10年前の出来事をきっかけに、私が学んだ教訓です。



ところで、因果律は人の過ちばかりに働いているのではなさそうです。

子供の時に、「人にやさしくしましょう」と、多くの人から言われました。

でも、なぜやさしくしなければいけないのか、判りませんでした。

人が喜んでくれるのは確かだけれど、やさしくしても何の得にもならないと思っていました。

実際は、得にはならなくても、徳にはなるようです。



人を傷つけるのとは正反対で、やさしさや思いやりは、自然法則に適ったものであり、因果律の働きにより、相応の報酬をもたらしています。

「情けは人のためならず」と言うことわざがありますが、情けをかけた人に、巡り巡って同じ想いが返ってくるという意味だと解釈しています。

この現象も、自分から出たものは、自分に返ってくるという、因果律の働きによるものと思われます。

たとえ、誰から何も返って来なくても、また誰にも知られない行いであっても、自然法則に適ったものであれば、目に見えない形で、自分に返って来ることになります。

魂の成長として、自分に返って来ます。



魂が成長したって、それが何になると思われるかもしれませんが、この世に生きている意味そのものが、魂を成長させることです。

本当の自分とは、魂です。

自分を成長させるために、この世に生まれて来たことを、私たちはすっかり忘れています。

「人にやさしくしましょう」の意味は、人に喜んでもらうと同時に、自分を成長させるものであり、その想いが広く行き渡り、世の中が喜びに満ちたものになり、平和になるためだと思います。



魂と肉体の永続的な分離が死です。

死によって肉体を失った魂は、むき出しの状態になりますので、その人の素性が露わになります。

この世で想ったこと、言ったこと、行ったことは、魂にしっかりと刻まれていて、全てが周りに知れてしまいます。

良くも悪くも、ありのままの自分でしか、生きられません。

当然のことですが、この世を去れば、お金など形ある財産は、全て失われます。

代わって、この世では見えなかった内面に築き上げたものが、あの世での財産となります。



魂とは生命です。

神のものであり、神の一部です。

そして、神の心は愛です。

やさしさや思いやり、無私の奉仕は、愛の表現であり、神の心を表現しています。

愛の表現が魂の財産となるのは、肉体を失っても消えない、神的な価値を持つものだからです。

神的な財産が多い魂ほど、次に行く世界で美しい光輝を放つことになります。



この世を、どう生きるかは、個人に任されています。

想い、言葉、行いの全てに、休むことなく因果律が働いていることを、忘れてはいけないと思います。

人がどうであろうと関係なく、良心に忠実に生きて行きましょう。

やさしさや思いやりを表現して生きて行きましょう。

本当の自分の声を見出し、それを大切にしましょう。



怒りや、憎しみの想いを向けられたとしても、受け流して、微笑みを返しましょう。

ひどい仕打ちをされても、その人と魂が同調するような想いを抱くのはやめるようにしましょう。

それが、自分の魂を守るための、最善の方法です。



人や動物、そして社会が悦ぶような生き方が、最も賢明な生き方です。

因果律の働きにより、自らの成長と、悦びという幸せが、その先で返ってくるからです。














2 件のコメント:

ローズ さんのコメント...

初めまして

ブログを読ませて頂きました

霊的心理の目覚めは、人それぞれ、色々ですね

私はつらい経験から、魂がどん底まで落ちて目覚めました

霊的心理にしがみつき、這い上がる思いで必死に学びました

3年かかりました
今も学びは継続中です
貴方の伝えたい気持ちというものも、よく理解できます
大人になるにつれて、人は変わっていきますが、本来の自分、霊性、魂は、
子供の頃に気づいています

私は自分に正直に素直になる事が大切だと考えています
誰もが、学ぶ為に生まれてきています

どんな状況であれ、学び経験出来る事に感謝し、人の役に立つ事を
心掛ける生き方ができれば、どんな事も乗り越えていける事でしょう

ですがそれも人それぞれ
受け入れられない人にとって、それも経験なのです

生き方は人それぞれ
何事も試練なのです
人生一度きりだから、楽しむだけ好きな事をして生きなきゃ損だ
と、いう考えは、間違っています

ですがそのように生きたい人は、それでいいのです
それが自分に与えられた経験だからです
自分の人生、誰のものでもありません
選択するのも自分
生き方に責任を取るのも自分だからです

私は、どなた様にも、いい経験であったと思う人生を送って
頂きたいと思っています
読んで頂きありがとうございました
失礼いたします

イクミ さんのコメント...

ブログを読んでいただき、ありがとうございます。
過去に大変つらい思いをされて、霊的真理にしがみつき、学びながら、今に至っていると聞き、何もなければ大切なものは手に入れないことを改めて感じます。

ローズ様が言われるように、子供の頃は、魂が前面に出ていたと思われますが、次第に、自分の中に何者かを作り上げ、その中に埋没してしまっていたようです。
自分に正直に生きることは何より大切ですが、私がそうであった様に、本当の自分と作り上げてきた自分(エゴ)の区別がつかず、作り上げてきた自分の要求を満足させるのが、正直な生き方と錯覚されている人も、きっと多いと思います。
いくら、その要求を満足させようと努力しても、虚しさを感じるだけであり、本当の自分が目覚めれば、学び経験できることに感謝し、心は喜びに満たされると思います。

人生で起きる出来事で、悲しみ、苦痛に喘ぐ人はたくさんいます。
そんな人たちに、自分が助けられたものを教えたいと、ごく自然に思いました。
ただ、霊的真理のような、価値のある真実を受け入れられない人は、世の中にたくさんいます、と言うよりほとんどかもしれません。
何事も試練であり、好きな事をして生きなければ損だという考えが間違っているのを認めさせるのは、とても難しいと思われます。
魂の存在、生命の永遠性を認めない限り、無理なのかもしれません。
でも、そんな人たちに、こんな考え方もある、知識があると、知ってもらうだけでも大きな意味があると考えています。
今は無理でも、苦難や障害に遭遇した時に思い出して、すぐにたどり着けると思うからです。
誤った考え方、知識に捕らわれないためにも、全く知らないよりは、頭の片隅にでも、残っていた方が良いと考えています。

今は、ネットを中心とした情報化社会であり、知識をすぐに手に入れられます。
逆に言うと、誤った情報に惑わされたり、悪意の情報に騙されやすい状況にあると思います。
全ては自己責任であり、辛酸をなめて気付くこともあると思いますが、とにかく多くの人が最短で真実にたどり着いて欲しいと思っています。

私も、良い経験であったと思えるような人生であって欲しいと思います。
良い経験であったと、心から思ってもらうためにも、霊的真理を多くの人に知ってもらいたいと考えてます。