2015年8月16日日曜日

病気は生まれてきた目的を果たすためにある



世界にはたくさんの国があり、その国独自の法律があります。

私たちが平然としている行為が、よその国では法律に触れてしまう場合があるようです。

例えば、日本では、日本料理の店に行くと、魚介の活造りが出されますが、ニュージーランドではタコやロブスターの活き造りは法律で禁止されているようです。

日本では夏の炎天下に日陰のないところで犬をつないでいる家を見かけますが、アメリカのある州ではその様な行為が見つかると動物虐待とみなされ、飼い主は警察に逮捕されるそうです。

破ってしまえば、ペナルティーが課せられるのを知っているので、人は法律を守りながら生きています。



人間を規制しているのは、国や地域で定められた法律だけではありません。

目に見えない自然法則が、万物に働いていています。

多くの人が知っているのは物理法則です。

物を空に向かって投げると、地面に落ちてくるという現象は、万有引力の法則の働きであることは、ほとんどの人が知っています。

しかし、遠い昔の人は、その現象が法則に則って起きているとは思っていませんでした。



当たり前の様に起きていることも、何らかの法則に則って起きています。

すべての現象、出来事は何らかの法則が働いた結果として、生じているということになります。

昔の人が万有引力の法則を知らなかったように、現代に生きる私たちも、未だ知らない法則が無数に存在しています。



人々を苦しめている病気については、どうでしょうか?

現代医学の発展は目覚しく、病気が発症するメカニズムについて、多くの知見が得られています。

必要以上に食物を摂取し続けると肥満傾向となり、糖尿病などの生活習慣病になりやすくなります。

喫煙を続けると、肺ガンになるリスクは高まります。

肉体的法則は、エビデンス(科学的根拠)に基づいているので、証明されたものとして、信頼して遵守しようとします。



一般的に、人間を構成しているのは、目に見える肉体と、目にみえない精神と思われています。

もし精神が存在しなければ、肉体は司令塔を失ったことになり、動きが失われます。



ところで、精神とは何でしょう?

心とは何でしょう?

感情とは何でしょう?

それは、大脳皮質において脳内神経伝達物質のやり取りで作り出される幻影なのでしょうか?



そもそも、感情は何のためにあるのでしょうか?

もし、大脳が精密な機械で、肉体に指令を出したり、効率的に生きるために思考を行う存在であれば、怒りや、悲しみのどの感情は、とても余分なものに思えてしまいます。

そんな余分な感情が、大脳から生じる理由は、どこにも見つかりません。



感情はなぜ生まれるのか、どのように生まれるのか、大脳生理学では依然不明のままです。

感情とか心を、大脳の働きで説明するのは、限界があるようです。



もし、目に見えない「魂」の存在を認めてもらえるのなら、感情や心について、簡単に説明がつきます。



魂から生じているのは、想い(思念)です。

想い(思念)が精神に投影され、感情となります。

その感情は、肉体で表現されて完結します。

魂から生じた想いが、精神を経由して感情となり、肉体で表現されています。



精神には、頭脳と心(感情)の両側面があります。

頭脳は、コンピューターと同じで、状況を判断して、計算して、合理的、効率的な答えを導き出し、より良く生きるためにあります。

感情は、それとは全く異なり、魂から生じた想いを表在化させるものであり、精神のもう1つの側面です。

感情とは、想いを肉体で表現するためにある、この世だけの媒体だと思います。



肉体のみならず、精神にも法則が存在し、その法則に反してしまうと病気が生じます。

心が働き過ぎたとしても、休息すれば回復しますが、肉体と違って疲弊していても気付かないことが多く、激しい情動が持続してエネルギーが枯渇すると、強制的に休ませるような事態が生じます。

うつ病(状態)と言われる状態であり、病状の回復には心の休息が必要と思われます。



しかし、人間を苦しめている病気は、肉体的、精神的法則に背いた結果として生じているだけではありません。

感情の素となる、想いが生まれている魂(霊)にも、病気を生じさせる法則が存在します。

霊的法則に背いた結果、生じている病気は多くあると思いますが、現代医学では霊(魂)の存在を否定しているために、原因不明とされてしまいます。

そのことについて、拙い文章で理解していただけるかどうか判りませんが、書いていきます。



生きていると、さまざまな出来事が、自分の身に起こってきます。

うれしいこと、楽しいこと、悲しいこと、悔しいことなど、その1つ1つが積み重なって人生となっていきます。



ささいな出来事であれば、頭で考えて対処していきます。

しかし、深刻な出来事が起きると、魂にまで届いて、何らかの想いが生じます。

「想い」と書きましたが、その言葉が一番近いと考えたからであり、それ以外の言葉が見つからないからです。

感情になる前の、言葉に表せない何かです。



想いは目に見えませんが、精神で感情となって、肉体を突き動かす力に変わっていきます。

人からひどい仕打ちを受ければ、怒りや憎しみとなり、相手に怒りをぶつけてしまうかもしれません。

愛する人を亡くしたのなら、深い悲しみとなり、涙が流れてしまいます。



喜び、悲しみ、怒り、憎しみ、恨み、嫉妬など、たくさんの想いがありますが、それ以外にも言葉に言い表せない想いがたくさんあると思います。

そんな想いが、魂から生じていますが、人に知られることはありません。

人に知られるどころか、自分でも想いに気付いていないことが多いと思われます。

慌しく動き回り、頭ばかりを使った生活をしているので、魂から生じている想いに、気付かなくなっています。

気付かれない想いは、肉体で表現して解放されないので、溜まっていきます。



この世は物質の世界です。

そのため、魂から生じる想いを外に向かって表現するのに、肉体という目に見える媒体を使用しなければいけません。

肉体は、魂を包んでいる鎧のようなものであり、あまりにも鈍く、そして重いため、意識はそちらばかり行ってしまいます。

かつての私もそうでしたが、肉体こそが自分だと錯覚してしまっている人が、限りなく多くいます。

何もなく生きていれば、目に見えるものが全てに思え、魂などには意識は向かず、存在を感じることは、ほぼありません。



人の本質は、魂です。

魂とは生命そのものです。

魂とは、生命エネルギーがほとばしる出口と、言えるのかもしれません。



人体の1つ1つの細胞は、人体を構成するの一部分であり、何らかの役割を持ち、密接な連携の下に、繋がりながら、人体からエネルギーが供給されて生きています。

同じく、1人1人の人間(魂)は、全体を構成する一部分であり、何らかの役割を持ち、密接な連携の下に、繋がりながら、全体からエネルギー(生命力)が供給されて生きています。




全体とは、想像をはるかに超えた極大なものです。

地球に暮らす人類は、全体から見ると極小の一部に過ぎませんが、全体を表現している一部に変わりなく、極めて類似している魂の集合と思われます。

全体の意志を、個々(の魂)が表現しています。

宗教的に聞こえるかもしれませんが、全体の意志を、神の心と言い換えて良いのかもしれません。



魂は、全体の一部であるために、神の心をしきりに表現したがります。

世界のどこかで大災害が発生すると、世界中から人が集まってきて、人道支援が行われています。

溺れている子供がいると、我が身の危険を顧みずに、飛び込んで助けようとする人がいます。

打算を抜きにした、滅私の人助けが行われるのは、人間は肉体を超えた魂であり、ごく自然に神の心を表現したがっていることを物語っています。



神の心とは愛です。

私は宗教にあまり詳しくありませんが、2000年前にイエス・キリストがすでに言っていたことであり、釈迦は慈悲という表現をしていると思います。

言葉は違っても、同じことを、伝えたいのだと思います。



その神の心は、自然法則を通して、顕現しています。



今日も、世界のどこかで争いが起きています。

その結果、傷つき、悲しむ人が後を絶ちません。

人は理由もなく、相手を殺したり、傷つけたりはしません。

そこに、強い怒りや憎しみの想いがあるからであり、暴力によりその想いを相手にぶつけて、伝えているだけです。

暴力を受けた者は、傷つき、悲しみ、それが怒りや憎しみに変わり、その想いを相手に返していきます。

想いを返されることにより、苦痛が生まれます。

俗に言う「憎しみの連鎖」ですが、自分から出た憎しみの想いが、自分に返ってきているだけであり、因果律という自然法則の働きによるものです。



実際にあった、とても身近な話ですが、私の知り合いの男性は、家族内(妻、娘2人)で孤立して、会話もなく、長い間、寂しい思いをしていたそうです。

そんな時に、飼い主がいなくなってしまった犬を引き取ることになりました。

ただ、その犬には大きな身体の障害があり、飼うのは決して簡単ではありませんでした。

家族が1つになって、犬のことを考えました。

犬の周りに家族が集まり、みんなで世話をしました。

すると、いつのまにか犬を中心にして、家族の間に会話が生まれ、とてもあたたかい雰囲気になっていったそうです。

喜ばしいことに、長い間の孤立から、男性は解放されたそうです。

犬を幸せにしようとする愛の想いが、自らに返ってきて家族が幸せになったのであり、自然法則(因果律)の働きによるものと思っています。



自然法則は、実にシンプルです。

自然法則に従えば悦びがもたらされ、背けば苦痛がもたらされます。



人は、苦痛を味わいたくありません。

悦びを感じながら、生きていたいです。

自らが苦痛を経験して、自然法則の働きを知り、それに従うようになって行きます。

苦しみや痛みを通して、怒りや憎しみなど愛に反する想いを、愛の想いに変えていくように、自然法則は導いています。

自然法則が存在する目的は、人間(生命)を、より次元の高い愛を表現できるように、導くためにあると思います。

別の言い方をすれば、神に近づけるためにあると思います。



人は、愛はすばらしいもの、大切なものだと理解しています。

そうは思っていても、現実の生活が大切であり、つい忘れがちになってしまいます。

愛は理想に過ぎず、もっと大切なことがあると思っている人もいるでしょう。

目に見えない愛よりも、目に見えるお金が大切に思えてしまう人もいるでしょう。

自尊心を満足させるものを追い求めたり、頭ばかりを使った生活をしていると、本当に大切なものは忘れられてしまいます。



この世で愛すること以上に、大切なものはありません。

なぜならば、愛を表現して、霊性を高めるために、この世に生まれてきたからです。

残念ながら、魂にまで響き、目覚めるような出来事が起こらない限り、そのことに気付きません。



病気は、肉体的、精神的、霊的な自然法則に背いた結果として生じます。

病気には苦痛が伴いますが、それは自然法則に背いた過ちを償うためです。

肉体がある1つの目的は、自然法則に背いた時の痛みを感じるためであり、その痛みを通して自然法則の働きを知るためと思います。



霊的な自然法則は、魂から生まれる想いにも働いています。

想いには、自然法則に適ったものと、自然法則に背いたものがあります。

法則の根底には愛があるため、自然法則に適った想いとは、もちろん愛の想いです。

怒りや憎しみ、恨みや嫉妬などの想いは、愛と対極にある、自然法則に背いた想いです。



愛の想いとは、人や動物を好きになる気持ちもそうですが、他者を慈しみ、やさしくしたり、親切にしたり、奉仕したりする動機になる想いも含まれます。

そして、忘れてしまいたいような出来事を受け入れたり、意見の違う人を認めたり、あるいは許したりするのも、自己犠牲を伴うため、自然法則に適った想いと思われます。

愛に反する想いとは、怒り、憎しみ、恨み、妬み、貪欲など、傷つけようとする衝動が生まれるような想いですが、それ以外にもあります。

人や出来事を拒絶したり、認めなかったり、許さなかったりするのは、自然法則に背いた想いです。



心の中でどう思おうと勝手であり、行動に移さなければ問題ないと思われるかもしれませんが、想いには自然法則が厳格に働いていることを忘れてはいけません。

想いは目に見えず、この世の人に知られることはなくても、霊的には実在であり、影響力を持っています。

想いは、一種のエネルギーと考えて良いと思います。

とても強い怒りの想いを持っている人のそばに行くと、自分自身もなぜか怒りの感情が生まれてしまうことがあります。

その放散されている想いを受け取っているためであり、想いは周囲に影響を与える力となっています。

想いは、精神を経由して、肉体で表現される力に変わり、外に向かって出されることで完結します。

しかし、何らかの理由で、肉体で表現できないと、内に留まって、自分自身に大きな影響を与えます。



愛に反した、怒り、憎しみ、恨み、妬みなどの想いが溜まっていくと、その後の行動を変えて行きます。

怒りや憎しみがうっ積した状態で、人にやさしくできるでしょうか?

やさしくするどころか、ふとしたことで、うっ積した想いが吐き出され、人を傷つけてしまうかもしれません。



俗に言う、ストレスが溜まった状態と呼ばれるのは、表現できない想いが溜まった状態と考えられます。

運動したり、趣味に没頭したり、おしゃべりしたりすることで、人はストレスを解消していますが、それは内に溜まった想いを吐き出している行為だと思います。

しかし、常日頃から怒りを感じていたり、憎しみを抱いていると、自分では解放できないほどの、想いが溜まっていきます。

その溜まった想いが、自分の性格(パーソナリティ)に影響を与えています。

怒りの想いが滞っている間は、相手を思いやり、やさしくする想いは生まれません。

自分の奥底では、人にやさしくしたり、親切にしたいと思っていても、その想いが行動に影響を与えて、どうしてもやさしく出来ません。

魂から生じた想いが、歪められた性格(パーソナリティ)により遮られて、表現できなくなってしまっています。

溜まっている想いは、人生に大きく影響を与えています。



人が生きている目的は、魂を成長させるためです。

魂は、苦難や障害を乗り越えたり、他者に愛を表現(奉仕)することで成長していきます。



人には、この世のおおまかなシナリオがあり、そのシナリオに沿って人生が展開していきます。

そのシナリオに沿って起きる出来事を、自分の想いに従い乗り越えていくことで、魂の成長が得られるようになっています。

自分の想いを表現しようとしても、想いにより歪められてしまったパーソナリティは、そうさせようとしません。

これでは、魂を成長させることは出来ず、それではこの世を生きている意味を大きく失ってしまいます。



成長を妨げるような想いは、一刻も早く手放さなければいけません。

しかし、その想いが根深い場合は、自分でいかに努力しても手放すことはできません。



魂から生じた想いを表現するために、媒体として肉体があります。

表現されなかった(愛に反した)想いは、因果律の働きによって、別の形で表現されます。

自然法則に反した想いは、五感に触れる心身の不調や病気という形となって表現されます。



想いの様相は、病態に表現されます。

怒りや憎しみなど想いは、身体上に攻撃的な組織となって表現されるかもしれません。

自分を責める想いは、身体を守る機能を、責めてしまうように変えていくかもしれません。

身体上に現れた(霊的な)病気を観察すれば、自分の内にどんな想いがあるのか、およそ見当がつくと思われます。



霊的な病気は、いくつかの目的があって生じると思われます。

その1つは、目に見えない想いが滞っていることを、目に見える病気として、認識させるためであり、もう1つは、その様な(愛に反した)想いを抱き続けたことに対する、償いです。



病気の苦痛は、償いであると共に、それまで眠っていた魂を目覚めさせます。

魂とは生命そのものであり、本当の自分です。

魂に目覚めるとは、本当の自分に気付くことです。

本当の自分に気付けば、そこから生まれている想いに気付くようになります。



そして、魂が目覚めると、全体の意志(神の心)に目覚め、本当に大切なものは、愛であることに気付きます。



愛に目覚めれば、滞っている(愛に反した)想いは、魂との間に親和性を失い、異物となり解放されます。

想いが解放されれば、本当の自分が表現できるようになり、肉体上の病気は存在理由を失い、消退していくと考えられます。



個々は独立しているように見えていても、魂が目覚めれば、実はそれぞれがつながっていて、役立て合いながら生きていると言う、調和や協調の意識が自然に生まれます。

調和や協調の意識が生まれれば、肉体もそれに従い、身体は調和や協調を取り戻して、正常に機能するようになっていくと思われます。



病気は、その人の魂の成長にとって必要な時に、自然法則に則って生じます。

過去生の償いをするために、病気や障害を持つ肉体に宿る魂がいます。

また、魂を成長させるために、病気という苦難を志願して誕生する、進化した魂もいます。

幼い子供の病気は、とても痛々しく、それを目の当たりにしているご家族の気持ちを察すると、言葉がありません。

それは、両者にとって、この世で魂を成長させるために必要な出来事であり、予め決められていたシナリオに沿っている可能性が高いと思われます。

とても思いやりがあり、親切で、やさしく、思いやりに溢れた子供(人)が、突然病気になり闘病して、向こうに逝ってしまう時があります。

何で、こんな良い子(人)が早く逝ってしまうのかと、周囲の人は嘆きますが、その時点で学ぶべきものを学んでいて、この世のシナリオは終わりなのかもしれません。

この世という学校を早く卒業できた、魂の優秀な生徒かもしれず、卒業を許された生徒が、学校(この世)に残る理由はどこにもありません。



早く逝った人が不幸で、病気が治った人が幸福であるというのは、物事を一面からしか見ていないと思います。

次の世界は、肉体から解放された自由で快適な世界であり、この世は肉体に魂が閉じ込められた世界です。

どちらが自由で快適な世界であるか、判り切ったことなのですが、次の世界のことを知らないために、この世で生きているのが1番だと錯覚してしまいます。

その証拠に、次の世界に行ってから、この世にもっといたかったと思う人は、あまりいません。



自然法則に背いた想いを抱いたり、自然法則に背いた行いをしてしまい、因果律の働きで病気になった人は、その過ちに気付き、苦痛による償いが終わったなら、健康な心身を取り戻すことが出来ると考えられます。

病気の苦痛により想いが解放されて、本来の自分に戻ると考えられます。

まだ、自分が果たさなければならない役割が、この世に残っていて、それを全うしてから次の世界に行くのだと思います。

元気になって、もう少しこの世で、学ばなければならないことがあると思われます。



本当の自分が姿を現したのなら、自分の想いに素直に従って生きなければいけません。

何事にも惑わされることなく、本当の自分の想いに、忠実に生きなければいけません。

湧き上がる想いを、素直に表現するだけです。

十分な痛みを経験し、つらい日々を過ごしたことにより、魂は浄化され、人の痛みが判るようになり、神の心が自然に表現できるようになっているので、自信を持って下さい。



本当の自分を、自分のやさしさを、つらい出来事で見失ってしまったのです。

想いが積み重なっていってしまったために、本当の自分がわからなくなってしまったのです。

見失ってしまった本当の自分を、取り戻すために、病気になったのです。

病気になり、苦痛を経験するのは、自分に上塗りされている余分なものを削ぎ落とし、本当の自分の顔を出させるためです。



繰り返しますが、この世に生まれてきたのは、魂を成長させるためです。

それ以外に、何もありません。

魂を成長させるために、本当の自分の想いを表現していかなければいけません。

自分でも気付いていなかった、過去に生じた(愛に反した)想いがあるために、本当の想いが表現できなくなっているだけです。

その想いがなくなれば、本当の自分の想いを表現できます。

本当の自分の想いを表現できれば、魂は成長していき、この世に生まれた意味が成就されます。



病気は、人を不幸にさせるためになるのではありません。

病気は、運が悪かったり、偶然なるのではありません。

この世に生まれてきた目的を果たすためには、本当の自分(魂)に目覚めなければならないのです。



病気になったのは、本当の自分に目覚めるためであり、この世に生まれてきた目的を果たすためです。









5 件のコメント:

あおい さんのコメント...

はじめまして。昨年スピリチュアリズムを知りました、27歳のあおいと申します。
無料で公開されている霊的心理を一通り読み終えた頃イクミさんのブログに出会いました。
シルバーバーチの霊訓は受け取る側によって、たまに行き過ぎた極論のようなものがあり戸惑いましたがイクミさんの解釈はとてもしっくりきてより理解が深まりました。ありがとうございます。

このような場でお願いしていいのかわかりませんがイクミさんの遠隔ヒーリングを受けたいと思いコメントしました。
現在パニック障害に悩んでおり、今年で6年になります。投薬治療等で発作が頻発する急性期は過ぎたのですが発作への不安はなくならず行動がかなり制限されています。最近は普通の生活を送れていた頃の自分を忘れそうで、ずっとこのままなのかと怖いです。
以前は、なぜ自分がこんな病気にと思いあの時無理をしなければなどと散々悔やみましたが、なるべくしてなったのだと思うようになりました。また、このように病気に苦しまなければ霊的真理に出会うこともきっとなかっただろうと。
ただ、家族に負担をかけているのも事実で少しでも変化があるならとヒーリングを受けてみたいと思いました。
カルマによる病気の場合は治らないことも承知しております。
一方的なお願いで大変恐縮なのですがお返事お待ちしております。

イクミ さんのコメント...

はじめまして。イクミです。
ブログを読んでいただき、ありがとうございます。

シルバーバーチの霊訓は、行き過ぎた極論のようなものがあり戸惑われたということですが、私も最初は理解できないところがありましたが、繰り返し読み、真理に沿わせた生き方や考え方をしようと努めて行くうちに、徐々に受け入れることが出来て、今では最も信頼のできる真理と確信しています。
霊的真理に27歳で出会えたのは幸運なことであり、これからの人生経験を通して、自分のものとなり、生きる指針となって行くと思います。
シルバーバーチの霊訓が原点であり、全てがその中に書かれていますが、私のブログが理解の補助になったのならば、こんなうれしいことはありません。

6年前からパニック障害で悩まれているそうですね。
現代医学では原因不明であり、薬物による対処療法しかないので、これからどうなるのか不安になるのは仕方がありません。
私の個人的な見解ですが、病気の原因は、押し殺してきた過去の想いかもしれません。
あの時無理をしなければと書かれていましたが、その時に表現できなかった不安や恐怖、言い尽くせない想いが、今になって外に現れているのかもしれません。
その想いが内にあるために、前に進んで行けなかったり、ありのままの自分を表現できなくなっていて、現状を変えていくために、パニック障害という病気になったのかもしれません。
病気になったのは決して不幸なことではなく、内に溜まっている想いを外に出して、本当の自分を取り戻すためと、私は考えています。
そして、霊的真理に沿った生き方や考え方をしていくことで、より早く病気は改善してくると思っています。


お役に立てるのかどうか判りませんが、遠隔ヒーリングを行います。
少なくても心身をリラックスさせる効果はありますので、良い方向に働くと思います。
今晩(1月12日)11時ではどうでしょうか?
ご都合が悪ければ、また知らせて下さい。
ベッドやソファーの上で、静かにお待ちいただければ結構です。
時間は15分~30分間くらいです。
治癒力が届いているのを感じる人もいれば、感じない人もいます。
もし眠たくなれば、そのまま眠ってしまってもかまいません。

あおい様が、今の苦しみから、少しでも早く解放されることを願っています。

あおい さんのコメント...

早速のお返事ありがとうございます。
今晩11時ですね、大丈夫です。ありがとうございます。
内に溜まっている想い、たくさんありそうです。元々人に頼ったり弱味を見せるのが苦手で、無理をして自分を誤魔化すことが多かった気がします。
もうそのやり方じゃ通用しないと体に言われているようです。

取り急ぎ今晩のお返事だけで失礼します。
よろしくお願い致します。

あおい さんのコメント...

昨夜はヒーリングをしていただきありがとうございました。
半分寝たような状態だったせいか特別何かを感じたりはしませんでしたがこれから良い方向に進むといいなと思います。

幼い頃無条件に神様の存在を信じていましたし、祖父が亡くなった際ももう亡くなっている(祖父の)両親には会えただろうかと自然と考えたので、受け入れる土台ができているところに霊的真理と出会ったという感じです。
これからも自分の病気と向き合いながら霊的真理を学び続けていこうと思います。
イクミさんのブログも何度も読ませていただきますね。ありがとうございました。

イクミ さんのコメント...

こんにちは。
予定通りヒーリングを行いましたが、半分寝たような状態になったのであれば、治癒力はうまく届いていたと思います。
何か変化があれば、知らせて下さい。

あおい様は幼い頃から、神や魂の存在を、素直に信じていたそうですね。
言われるように、土台ができているところに、病気が触媒となり、受け入れる時が来たのだと思います。
幸運にも出会えた霊的真理は、病気や人生で遭遇する出来事を乗り越えていくための、強力な力となります。
そこから得た知識は、実生活で実践することで自分のものとなり、成長し、新たな学びにつながっていくことを、心に留めておいて下さい。

つらい病気に、感謝する日が来ることを、心から祈っています。