2019年9月1日日曜日

うつ病は薬では治らない


私は歯医者をしています。

毎日のように虫歯の治療をしていますが、時々無力感に襲われることがあります。

それは、歯ブラシをしていない患者さんの治療をする時です。

ご存知のように、虫歯や歯周病の原因は口腔内にいる細菌(プラーク)です。

患者さんが歯ブラシをして、口の中にいるプラークを取り除いてもらわないと、治療をしても虫歯は再発します。

言い方を変えると、プラークを取り除けば原因は除去されるので、虫歯にはなりません。

もし、全ての人が丁寧に歯ブラシをして、砂糖の入った甘いものを食べなければ、虫歯は激減するでしょう。

治療に入る前に、歯ブラシの指導を十分にして、原因を取り除く努力をしてもらうのが何よりも大切ですが、虫歯になる人が後を絶たないのは、指導が足りていないからなのかもしれません。



治療をする前に、患者さんの全身状態を問診しますが、最近、高血圧症と申告する人が多くなったような気がしています。

高血圧症の基準が厳しくなったこともありますが、高齢者ではなく50代の人も珍しくありません。

昔は、血圧が高くなると、医者から塩分を摂り過ぎないように注意されて、体重を減らすように言われていたと記憶しています

今は、すぐに降圧剤が出されるようです。

煩わしい運動療法や食事制限よりも、手っ取り早く血圧が下がれば、患者さんにとっても良いのかもしれません。

しかし、根本的な原因は何も解決されていないので、本当に健康なったとは言えません。



現代医学は、病気の症状を改善するのに精力を傾けているように感じるのは、私だけでしょうか?

症状は改善しても、原因が取り除かれなければ、病気は治ったと言えません。

虫歯になったり、血圧が高くなったりするのは、誤った生活習慣があることが多いと考えています。

何かが自然法則に反しているために病気になったのであり、それを改めることが全てにおいて優先されるはずです。



夜、眠れないのは、つらいものです。

個人的には、昼間のストレスや悩み事が、不眠の原因になっていることが多いと考えています。

現代社会では、ストレスから解放されるのは難しいと承知していますが、不眠を解消するには、ストレスを軽減したり、上手く発散することが重要と考えられます。



2000年頃ですが、ある製薬会社が「うつは心の風邪」と大々的にキャンペーンを行いました。

コマーシャルが頻繁に流れたこともあり、元気がなくなったり、眠れなくなると、精神科を受診する人が多くなったようです。

そこで、うつ病と診断されて、抗うつ剤や睡眠薬が処方されるのが一般的になったようです。



昼間の生活に支障が出ていれば、薬の力を借りてでも眠って、心身を休める必要があるかもしれません。

しかし、原因を取り除かない限り、いつまでも薬に頼らなければいけなくなります。

海外の研究では、睡眠薬を飲み続けると約4分の1が依存症になるそうです。

また、耐性が出来てしまい、より多くの量が必要になってしまうのも、薬の怖いところです。

薬を飲むのを止めようとして、離脱症状に苦しむ人のブログを拝見していますが、想像している以上のつらさであり、人生を狂わされてしまった人も少なくありません。



現代医学は、唯物的な考えに立脚しています。

対象としているのは目に視える身体です。

目に視えない精神(心)については、未知の領域と言っても過言ではありません。



精神は大脳の活動から生まれると、ほとんど人は思っています。

しかし、大脳の活動で作り出されるものではありません。

1人の人間は、肉体と精神と魂(霊)により構成されています。

精神は自己の本質である魂(霊)が投影され、肉体から入って来る情報によって統合されて、作り出されると考えられます。

魂(霊)と肉体の中間に存在するものであり、両者の影響を受けて絶えず変化しながら、活動していると考えられます。


それでは脳はどんな役割をしているのでしょか?

脳は肉体の一部であり、肉体(五感)から来る情報を処理すると共に、精神から出される指令を電気的信号に変えて肉体を動かしていると考えられます。

物質的な脳から、非物質的な精神は生まれません。



花を見て、美しいと感じたとします。

花を見ているのは、もちろん目です。

網膜で画像が結ばれて、精神によって認識されています。

そして、美しいと感じているのが魂です。

魂は霊的次元の存在であるために、美しいと言う言葉自体は存在しません。

魂で生じた抽象的な思念や概念が、精神の働きによって「美しい」と言う言葉が見つけ出されて、地上的表現として置き換わります。

ちなみに、動物は霊的に未発達なために、美しいと言う概念は存在しません。



話は変わりますが、食事を1日取らないと、エネルギー不足で身体活動は低下してしまいます。

しかし、精神活動には、それほど影響することはありませんので、食物から摂る栄養が精神活動のエネルギー源でないことが判ります。

それでは、どこから供給されているのでしょうか?

精神の上位にある魂から供給されていると考えられます。

魂から霊的なエネルギーが伝わり、それが精神的次元のエネルギーに変換されて活動をしていると考えられます。

エネルギーとは生命力です。

生きる気力が充実している時、自信に満ちている時には、魂にエネルギーは多く供給されます。

逆に、不安や恐怖、心配等があると、エネルギーの流れを妨げてしまいます。



強い不安や恐怖や心配があると、供給されるエネルギーが低下して、消費しているエネルギーが上回ってしまう時があります。

また、供給されるエネルギーは変わらなくても、消費しているエネルギーが増えてしまう時もあります。

長時間に渡って思考をしたり、強い感情が生じ続けると、多くのエネルギーが消費されます。

供給より消費が大きくなり、バランスが崩れてしまうと、脳の活動を低下させたり、感情が生じるのを抑えることにより、(精神で消費するエネルギーを減らして)均衡を取り戻そうとします。

の時の状態が「うつ病」あるいは「うつ状態」と考えられます。

病的な状態ではなく生理的な反応であり、精神が破綻を来さないための安全装置のような役割を果たしていると考えられます。



情はどこで生まれるのでしょうか?

快、不快と言った反応は脳内で生じるようです。

特定の物質を血液に注入すると、快感を得ることが出来ますが、その時、精神は全く関与していません。

精神で悦びを感じて、脳は快感を感じる物質を分泌していると考えられます。

しかしながら、怒りや悲しみなどを引き起こす物質は見つかっていませんので、感情は脳ではなく、精神で生じていると考えられます。

感情が生じる時に、精神でエネルギーが消費されていると思います。



精神で思考をしている時に、脳は活発に働いています。

脳の活動をコントロールしているのが、神経伝達物質です。

代表的な神経伝達物質の1つにセロトニンがあり、感情のコントロール、精神の安定にも深く関わっています。

うつ病になるとセロトニンの働きが弱くなると言われていますが、それは脳の働きを抑えることで、精神で消費しているエネルギーを減らすためであり、自然の摂理の働きによるものと考えられます。

脳の働きが抑えられ、昼間の情報や問題を処理し切れなくなると、夜眠れなくなってしまうかもしれません

その現象(症状)は、人間にとって不快かつ不都合なので、何とかして解消しようとして、多くの人は医者を訪ねます。



うつ病は脳の病気ではありません。

しかし、医者が処方するのは、脳に働く抗うつ薬です。

その代表的なものとして、選択的セロトニン再取り込み阻害薬(SSRI)があります。

薬の作用により、脳内のセロトニン濃度は上昇し、脳の活動は再び高まり、心身に起きている現象(症状)は軽減します。



身体が疲労を感じたら休ませることが出来ます。

それでも、休みなく身体を動かし続けたらどうでしょう?

体力が限界に達したら、倒れてしまいます。

精神に身体のような感覚器はないので、疲労を感じません。

意識的に精神を休ませることが出来ないので、自然法則の働きによって、強制的に休ませることになります。

神経伝達物質を介して、脳の働きが弱められ、精神で消費するエネルギーが抑えられています。



しかしながら、現代医学では脳内でセロトニン(神経伝達物質)の働きが弱まった結果として、うつ病(状態)になると考えています。

そして、抗うつ薬を投与して、脳の働きを再び強めようとします。



狭心症の人が胸の痛みを感じているのに、ニトログリセリンを服用し症状を消して、心臓に負荷をかけ続けたら、どうでしょう?

心筋梗塞に移行する危険性があります。

身体に痛みが出ているのに、鎮痛薬により誤魔化して酷使し続けたらどうでしょう?

組織が損傷してしまう危険性があります。

精神が疲弊しているのに、薬によって無理に活動をさせ続けたらどうでしょう?

ブレーキを踏んでいるのに、同時にアクセルを踏んでいるようなものです。

破綻してしまう可能性があります。



抗うつ剤によって、脳の活動は再び高まるため、精神で消費するエネルギーのバランスを保つために感情の働きが強制的に抑制されます。

様々な想い(思念)が魂で生まれていますが、精神で感情として顕在化せずに、溜まって行きます。

溜まった想いが限界を超えると、理性的な思考を経ないで、肉体で表現されてしまう可能性があります。

衝動的に死にたくなったり、攻撃的になったりするのは、そのためだと考えられます。




下のグラフは自殺死亡者数の推移です。

平成10年(1998年)に死亡者数が顕著に増加し、その後も高い水準で推移しています。

尚、自殺者の90%近くが、死亡前1ヶ月以内に精神科を受診しており、65%が1年以上の通院しています。



下のグラフは雑誌からの切り抜きですが、うつ病の患者数と抗うつ剤の市場の推移です。

1998年を境に、うつ病患者数が右肩上がりに増えています。

それに伴い、市場規模が拡大していますが、売り上げの大部分をSSRIが占めていると考えられます。



これらの事実から類推すると、霊界が憂うような、利己的で罪深いことが起きているように思えてなりません。

薬を飲むと深刻な副作用が現れる可能性があることを、私たちは知っていなければいけません。



それでは、薬を飲まずに、うつ症状を改善するためには、どうすれば良いのでしょうか?

「リズム運動」と「太陽の光」、「スキンシップ」という3つの要素によって、セロトニンは活性化されるそうです

「リズム運動」は、良く噛んで食べること、散歩するのが良いそうです。

「太陽の光」は、太陽の陽の下で過ごす時間を日常的につくることが大切だそうです。

「スキンシップ」は、顔と顔を会わせたフェイストゥフェイスの情動的コミュニケーションが効果的だそうです。

これらの行為を、ただ漫然と行うのではなく、「集中」して「継続」して行うのが非常に重要だそうです。

また、専門機関を受診して、カウンセリングなどの心理学的な療法を受けるのも有効と考えられます。



そして、精神で消費されているエネルギーを少なくするように努めましょう。

少なくするためには、頭をあまり使わない、心が穏やかでいられる環境で過ごすことが何よりも大切です。

最も避けたいのは、抗うつ薬を飲み続けながら、頭を酷使し、激しい情動が生まれる環境に居続けることです。

環境を変えるのは、決して容易ではありません。

しかし、環境が原因でうつ病になった可能性が高いのであれば、思い切って変えてみる必要があります。



薬を飲んだ後に、うつ病(状態)が治った人がいるかもしれません。

それは薬によって治ったのではなく、供給と消費のエネルギーのバランスが改善することで治ったと考えられます。

精神へのエネルギーの供給を増やすことによって、バランスを改善させることが可能と考えられます。

人や動物や社会のために何かをする、換言すれば他者に愛を表現することで、魂は霊的なエルギーを多く取り入れることが出来ます。

魂から精神へと、より多くのエネルギーが供給されてバランスが改善すれば、正常な状態に戻ることが出来ます。



うつ病になったのは、本当の自分(魂)を目覚めさせ、生き方や考え方を改めるためかもしれません。

追い込まれないと、人は変われません。

今の生き苦しさは、自分を変えるためにあります。

自分本来の、力まない自然な生き方をするようになれば、うつ病は癒されると思います。















2019年8月18日日曜日

神は法則として顕現している


私の人生を大きく変えた書籍は「シルバーバーチの霊訓」です。

10数年前にその存在を教えていただき、直ぐに本屋に行きましたが、私の住む街では売っておらず、東京で手に入れました。

それから月日が経つのに従い、地元の本屋や図書館にも置かれるようなり、一人喜んでいました。

そんな矢先、出版元が廃業してしまい、シルバーバーチの霊訓本屋から姿を消しましたが、スピリチュアリズム普及会さんが再版されたので、ホッとしています。

この書籍を超えるものが出ていないか、いつも探しているのですが、未だに見つけることは出来ません。



本屋に行くと、表題に「神」の文字が入っている書籍を良く見かけます。

しかし、手に取って読む気にはなれません。

神は軽々しく書けるようなものではなく、知っているように書くこと自体、知らないことを証明しているように思えるからです。



イスラム教では神の大きさをこの様に例えています。

「地上の全ての木がペンで、海が墨でその外に7つの海をそれに差し添えても、アッラー(神)の言葉は書き尽くすことは出来ない。本当にアッラー(神)は偉大であり、英明である。」

小さな人間には想像も及ばないほど、途轍もなく大きな存在であるのは間違いありません。



昔の人は、神は外部に存在して、上から人間を見下ろしているような構図を思い描いていたようです。

雷が鳴ったり、火山が噴火したり、地震が起きたりすると、神の怒りに触れていると考え、生贄を差し出す時もありました。

しかし、そんな感情的な存在ではないようです。



シルバーバーチは、神は法則であると言っています。

初めはその意味が良く判りませんでしたが、今は、神=法則ではなく、法則は神の一側面であり、神の心が法則となって顕現していると考えています。



ところで、飛び上がるほど嬉しいことがあれば、どうするでしょう?

思わず、神に向かって感謝してしまいます。

しかし、つらい出来事が起きて感謝する人はいません。

何で自分だけがこんな思いをしなければならないと、神を恨んでしまう人もいるでしょう。



避けて通りたかった出来事であっても、法則が働いた結果によって生じています。

神が無限の愛であるならば、神が創造した法則も愛を帯びているはずです。

不幸や不運にしか思えなくても、法則によって生じた出来事なので、神の愛が行き渡っているはずですが、そこまで理解が及ばないので、とてもそうは思えません。



人は肉体を携えた魂です。

多くの人は目に視える肉体が自分だと思っていますが、本当の自分は目に視えない魂です。

肉体は魂の表現媒体に過ぎず、司令塔である魂が存在しなければ肉体は全く動きません。



魂は霊的な存在であるため、私たちは物的な世界にいると同時に、霊的な世界に生きていると言えます。

けれども、五感を通して入る情報と、霊的な感覚を通して入る情報では、その量に圧倒的な差があるため、霊的な世界に生きている実感は極めて希薄になってしまいます。



物的な世界には物質(理)的な法則が霊的な世界には霊的な法則が、それぞれ支配しています。

物質的な法則は、万有引力の法則を初めいくつも発見され、科学的に証明されています。

一方、霊的な法則は客観的に証明するのは不可能なので、信じることが必要になります。



霊的な法則の根幹を成しているのは「因果律」です。

結果には必ず原因があり、原因があれば必ず結果が生じる、それが因果律です。



この世では、結果だけが見えていることが多いです。

そのために、出来事が突発的あるいは偶然起きたと思ってしまいます。

今、起きている出来事は、もしかしたら、これまでの想いや言葉や行動、言い方を変えれば生き方や考え方が原因となっているのかもしれません。

不運を嘆いたり、憤りを覚える前に、思い当たることがないかを、検証する必要があります。

当然のように思っていたことが、実は法則に反していて、それが積もって閾値に達し、因果律の働きによって、見える形になったのかもしれません。



これは私が身を持って経験したことです。

法則(摂理)に反した行いをしようとする時に、良心の声がして止めさせようとします。

良心とは、魂に内在している神です。

それを無視して実行に移し、繰り返されると、良心の声はほとんど聞こえなくなってしまいます。

法則に反した罪は、確実に蓄積されて行きます。

絶妙のタイミングで因果律が作動して、相応の苦痛を伴う結果(出来事)が生じます。



結果だけを見れば、突発的な凶事にしか思えなかったでしょう。

しかし、霊的真理を知り、原因が自分にあったことに気付きました。

苦しみを通して過ち(原因)に気付き、生き方や考え方を変えるために、出来事が生じていました。

良心の声を遮っていた(この世の)自我は小さくなり、本来の自分(魂)が前面に出て来ました。



いくら探しても、思い当たらないのであれば、原因はこの世に存在しないのかもしれません。

その場合は、過去生にあると考えられますが、残念ながら具体的に知ることは出来ません。



生まれながらの病気になったとします。

受胎した瞬間、病気になることが決まっていたのであれば、原因は受胎前にあるはずです。

もしそうであれば、物質的次元(この世)に原因が存在するはずはなく、霊的元にあると考えられます。

霊的次元の原因として、2通り考えられます。

過去生のどこかで過ちを犯しているか、大切なこと学び成長するために病気になることを選択しているか、そのどちらかと考えられます。

いづれにせよ、明確な目的があって病気になったのであり、生まれる前の自分は承知していたはずです。



私がボランティアで通っていた障害者施設には、病気により身体の自由がほぼ失われている人がいました。

生まれてから死ぬまで、一生をベッドの上で過ごす人を見て、以前の私でしたら可哀想に思ったでしょう。

しかし、真理を知った今は、それぞれに目的があって、この人生を選択したと考えるようになりました。



身体の自由が失われた状態は、苦痛以外の何者でもありません。

その苦痛を通して、過去生の過ちを償っているのかもしれません。

人の自由に関わる過ちを犯していたのか、過った自己表現していたのか判りませんが、償いを通して何かを学んでいるはずです。



身体の自由が失われたならば、周りの人の助けがなければ、数日も生きて行くことは出来ません。

その現実を通して、人の援助のありがたさ、大きな意味で愛を学んでいるのかもしれません。

この世の人生は、次の世界で奉仕をするための資質を身に付けるためにあると言われています。

一生涯に渡り、人に助けられて生きて来た経験は、次の世界で他者に奉仕をするための強力な動機付けになるのは間違いありません。



肉体が朽ち果てた時、人生が終わるのであれば、何のために生まれて来たのか、その意味を見出せない人もいるでしょう。

記憶がなくても、魂の奥深くでは、この人生の目的が判っています。

過酷な状況にじっと耐えているのは、生まれて来た目的を果たそうとしているからです。


肉体が朽ち果てた後も、魂(生命)は変わりなく存続しています。

次の世界で、この世で起きた出来事の原因(目的)が、はっきりと判ります。

全ての出来事は、法則が働いた結果として生じていて、原因に対して寸分の狂いもなく結果がもたらされています。

視えない原因があって、それが視える形の結果として現れただけであり、偶然や運が入る余地は全くありません。



不公平で不公正に思えるのは、結果しか視えないからです。

後で原因(目的)が判ると、誰もが納得し、不平不満を言う人はいなくなるようです。

法則が、全ての人に、同じように働くことによって、完全な公平、公正が保たれています



神に特別愛されている人も、憎まれている人もいません。

あるのは法則の働きだけです。

法則に適った行いをすれば悦びを、反した行いをすれば苦痛を味わうことで、神性が顕現するように導いています。

則の働きを学ぶのに従い、人は成長し、苦痛から解放されて行くはずです。

何故なら、法則の働き(叡智)を学ぶために、神はこの世に苦痛を創造したと思うからです。




死んだら神の元に帰ると言われています。

しかし、それは間違いだと思います。

死とは、物質的次元からの離脱です。

地上で学ぶことが残っていれば、再び戻って来ます。



地上で学ぶことがなくなれば、霊界で向上進化するようになります。

霊界には無限の界層があり、そこで学び成長することで、上の界層へと移行して行きます。

上の界層に行くほど、より多くの神性が発揮されるようになります。



神は、無限なる叡智であり、愛です。

学ぶこと、成長する余地が限りなく残されているために、私たちに永遠の生命が与えられたと考られます。