2020年6月21日日曜日

差別とは?


今から20数年前のことです。

仕事でアメリカに行き、フロリダからボストンまで飛行機で移動しました。

国内線であり、周囲を見渡したところ、日本人はおろかアジア人もいませんでした。

離陸してしばらくすると食事の時間になり、30代位の女性CAが後席から配り始めました。

直ぐ後ろまで来て、次だと思っていたら、私の横を素通りして、1つ前の人に食事を配ろうとしていました。

慌てて、自分のところがまだだと伝えたところ、謝りもせずに、何事もなかったかのように食事を手渡しました。
本文とは関係ありません
相手はプロであり、うっかり忘れてしまったとは考えにくい状況でした。

これはもしかしたら「差別」ではないかと思いました。

生まれて初めての体験で、あっけに取られていました。

こんなにも平然と、表情も変えずにするのかと驚くと共に、心の闇のようなものを感じて、うすら恐かった覚えがあります。

アメリカは自由で平等な国と思っていましたが、嘘だと思いました。

もちろん、そんな人たちばかりがいるのではありません。

多くの人たちは気持ち良く歓待してくれました。






黒人男性が白人警官に殺されて、アメリカ各地でデモが起きています。

最近は、人種差別と言う言葉を聞く機会が少なくなったと思っていましたが、想像している以上に根深いものがあるようです。




いったい差別とは何なのでしょうか?

人は、肌の色が白い、黒い、黄色いと、その違いを識別しています。

そこに、優劣の意識が入った瞬間、差別が生まれると考えられます。




差別とは地上的な概念です。

私たちが死んだ後に行く霊的な世界には、差別など存在しません。

肌の色などなく、周囲には同類の人しかいないために、優劣など存在しないからです。

地上は、霊的な世界とは大きく異なります。

自分と違う人たちばかりがいます。

同類の人だけしかいない霊的な世界の生活はお互いが深く判り合えているので、快適そのものです。

しかし、地上にいる私たちは、自分と違う人たちに囲まれながら生きています。

そのため、判り合えないために生じる苦痛を味わうことになります。

そんな地上にわざわざ生まれて来るのは、苦痛から大切なことを学び、魂を成長させるためです。

違う者同士が、互いを認め合い、許し合うことに、大きな意味があると考えられます。




自分と違う人たちの中で暮らすのは、肉体によって思念が隠されてしまうために、何を考えているのか判りません。

何をされるのか判らないと、怖れを感じます。

そのため自分を守りたい欲求がどうしても生じてしまいます。

守りたい欲求が高じると、自分と違う人が傍にいると安心できなくなります。

出来れば傍にいて欲しくないと思うようになります。

安心を得たいために、違う人を排除しようとする気持ちが生まれる時があります。

その気持ちが、差別的行為の原因になっていると考えられます。




地上に生まれると、自分を表現するため、そして守るために、地上だけに存在する自我(以下自我)が形成されます。

成長するのに従い、自我の働きは強くなって行きますが、それは正常な発達と考えられます。

幼い子供は、自我が発達していません。

自分を守るものがない無防備な状態ですが、その代わりに差別的な意識もありません。

差別的な意識は、違う人を排除しようとする過程で生まれ自分を守ろうとする自我の働きが強い人ほど生じやすくなると考えられます。




日本は単一民族なので、人種差別は少ないと言われています。

実際は、様々な差別が存在しています。

良く聞くのは、女性差別や障がい者差別ですが、分かりずらい、見えにくい差別もたくさんあります。

若い女性が良く「キモイ」と言っているのを見かけますが、これも一種の差別です。

言葉の中に、排除の意識が感じられるからです。

見た目で判断し、気嫌いしてしまう傾向は誰にでもありますが、その延長線上に差別が存在していると思います。




人が差別をする、もう1つの理由は何でしょうか?

優劣をつけて、自分が優れていると思いたいからです。

自分は優れていると思うことで、自我が満足するからです。




一般的に優劣は、頭が良い悪い、文化程度が高い低い、容姿が美しい醜いなど、比較対象とされるものに存在します。

相手が劣っていると思うと自分が優れていると錯覚し、それにより自我の満足が得られます。

優れていると思いたい自我の働きにより、相手が劣っていると言う差別的な意識が自動的に生み出される時があります。

それは、劣っていることを認めたくない、自我の裏返しなのかもしれません




けれども、優劣を認識する対象のほとんどは地上的なものです。

死んで霊的な世界に行けば学歴、肩書き、貧富など優劣の存在するものは、跡形もなく消えてなくなってしまいます。

差別的な意識を持っていた人が霊的な世界に行くとその対象を失ってしまいます。

自分が優れているのは錯覚であり、真の自分の姿を目の当たりにして愕然とします。

魂に染み付いてしまったその習性は、直ぐに改めることは出来ません。

差別的な意識は、神の心に反するものです。

自然法則の働きによって、その意識に自らが苦しむことになります。

優劣が存在しない世界で、差別的な意識を持つこと自体、自然法則に適っていないからです。

周囲との調和を乱して、孤立することになります。

結局は、同じ意識を持つ人たちに引き付けられ、その界層に赴くことになるでしょう。

そこは、自分の方が優れていると主張し合い、互いを蔑み合う世界と考えられます。




中には、親や周囲から差別的な行為を、善悪の判断がつかないまま、無意識の内に受け継いでしまう場合もあります。

当り前のようにしている行為に対しても因果律は正確に働いて、その結果に対して責任を負わなければいけません。




差別的な行為をして、相手を悲しませたり、傷つけてしまうようなことがあれば、魂に罪が刻み込まれます。

その先で、相応の償いをすることになりますが、自分が蔑まれ、排除されるような出来事を経験することになるかもしれません。

が積もりに積もってしまえば、今度は逆の立場となって生まれ変わらなければならないかもしれません。

相手がどう感じているのか判らないのであれば、受ける立場になって、苦痛の経験を通して学ぶしかありません。




黒人男性を押さえつけている白人警官の姿は、あまりにも残酷で正視できません。

しかし、私たちの心の中にも、多かれ少なかれ警官と同じ思いが存在しているのではないでしょうか。

自分と違う人間に対し怖れを抱いて排除しようとする気持ちや、優れている人間だと思いたい気持ちが存在しています。

それによって、差別的な意識が生まれたとしても、おかしくはありません。




差別的な意識があっても行為に移さないのは、良心と言う神の監視装置が働いているからです。

神の摂理に反した行為をしようとする時に、良心の声がして止めさせようとしています。

生まれて初めて差別的な行為をする瞬間、良心が咎めているのを感じたはずです。

しかし、無視して行為に移してしまったと考えられます。

その後も、良心の声を無視し続けてしまったために、終いには何も感じなくなってしまったと考えられます。

1つ1つの差別的な行為は、自らの魂を貶めていることになります。

常態化すると魂の様相まで変えてしまい(霊性を下げてしまい)、この様な残酷な行為をするまでに至ってしまったと考えられます。



人の痛みが判らないから、差別的な行為をしてしまいます。

同じことをされたとしたら、どう感じるのか想像すれば良いのですが、自分にしか意識が向いていないので判りません。

差別主義者は、一種の利己主義者と考えられます。




差別する対象は人間とは限りません。

動物を見て、人間よりも劣っていると思うのであれば、それは立派な「異種差別」です。

劣っているから食べても良いと思うのも、明らかな差別です。

差別的な意識があるので、動物が感じている苦痛や恐怖や悲しみを判ろうとしないのです。




以上の様に、怖れによる排除の意識、優れていると思いたい気持ち、無意識に身に付いてしまった習慣、それらが単独あるいは複合して差別的な行為に至ると考えられます。

その全てが、相手を思いやる気持ちの欠如、想像力の欠如から生まれています。




愛の対極にあるのは憎しみです。

差別的な意識も対極にあると思います。

愛を表現すれば世界は1つになって行きますが、差別的な意識を表現すれば、個と個は分断され、1つになるのを妨げてしまうからです。




それぞれに違いがあるのが地上です。

違いがあるのは偶然ではなく、それぞれ理由があります。

目的があって予め決められていたことです。




差異はあっても、優劣などありません。

外側ではなく内側を見なくてはいけません。

魂がどのような光(想い)を放っているかが全てです。

最も高貴で美しい光が愛です。




どうすれば差別がなくなるのでしょうか?

結局は、人間の霊性が高まるのを待つしかないのかもしれません。

しかし、それでは遅いので、差別がいかに罪な行為なのかを、知識として広めて行く必要があります。

霊的真理が広まった分だけ、差別のない世界も広がるでしょう。




2020年6月7日日曜日

インスピレーションとは?



「天才とは99%の努力(汗)と1%の直感(インスピレーション)である。」

アメリカの発明王であるエジソンの、あまりにも有名な言葉です。

トーマス・エジソン(1847~1931)
エジソンが発明したものは白熱電球の他に、蓄音機、電話機などがあり、どれもが今日の生活になくてはならないものの原型となっています。

数々の偉大な発明をして来たエジソンですが、晩年に取り組んでいたものは何でしょうか?

それは「霊界通信機」でした。




周囲は驚いたでしょうが、エジソンは面白半分ではなく、大真面目に作ろうとしていました。

元々、霊の存在など信じていなかったエジソンですが、知り合いに紹介されたバート・リーズという人物に卓越した透視能力を見せつけられ、科学を超えたものが存在していることを確信したようです。(エジソンが紙切れに文章を書いてポケットに入れ、それを正確に言い当てたそうです。)

その後、研究所を設立して十数年に渡って製作を試みましたが、完成することなく亡くなりました。




ところで、インスピレーションとは何でしょう?

ひらめきであり、頭の中に瞬間的に浮かぶものです。

こんなイラストを良く見かけますが、電球を発明したエジソンに因んでいるのかもしれません。


思考は、大脳の働きによるものです。

インスピレーションはどちらかと言うと大脳の働きが低下して、何も考えていない時や、リラックスしている時に生まれることが多いようです。

科学的な検証はできませんが、インスピレーションは思考とは全く異なる経路で生じていると考えられます。




発明や発見に限らず、優れた芸術作品の発想もインスピレーションによって生まれることが多いようです。

思考とインスピレーションの大きな違いは、思考は目的を持った能動的な作業であるのに対し、インスピレーションは受動的であり、時に突発的に生じるものです。

従って、いくらインスピレーションを得ようと努力しても、得られるとは限りません。

作家が締め切り間際までアイデアが浮かばずに、編集者共々困り果ててしまうことがあるようですが、そんな時はインスピレーションが生まれて来ないのだと思います。




インスピレーションは思考の結果ではなく、無の状態から生まれるものであり、その多くは霊的次元から伝わって来ていると考えられます。

霊的次元とは、私たちが死んだ後に行くところです。

そこには、過去に物質的次元(地上)で生活していた、肉体のない人たちが生きています。

この世の私たちには、肉体のない人の姿を想像するのは難しいのですが、紛れもない事実です。

人間の本質は霊(魂)です。

肉体は、霊を表現するためにある媒体です。

肉体に宿っているこの世の私たちの方が、本来の姿を取り戻している霊的次元にいる人たちよりも特殊な存在と言えます。

そんな霊的次元にいる人たちの関心が、物質的次元で生きている人たちに向いていて、何らか目的があって伝えたものが、インスピレーションになると考えられます。




私たちは、言葉を使ってコミュニケーションをしています。

当たり前の様に行っていますが、実は言葉は思念を表現するための媒体に過ぎません。

本質は思念です。

思念を言葉に置き変えて、五感を通してやり取りをしています。

言葉なので、お互いに考えていることや思っていることが違ったとしても、コミュニケーションが可能です。




インスピレーションは、次元を超えて伝わります。

しかし、誰とでもと言うわけには行きません。 

FM放送をAMラジオで聴くことは出来ません。

波長(周波数)が違うからです。

それと同じで、霊界の送り手と地上の受け手の波長(思念)が大きく違っていれば、伝わることはありません。




例えば、地上の人が、お金のことばかりを考えていたとします。

霊界の人が、目に視えない霊的なもの、生命や愛の大切さについてインスピレーションで伝えようとしても無理です。

お互いの思念(想い)に、隔たりがあるからです。

霊界と地上の人の間に、霊的な親和性がなければ、インスピレーションは伝わりにくいと考えられます。




日本には、以心伝心と言う言葉があります。

心が通じ合い、語らずとも伝えたいことが伝わることを指します。

この世においても、気心の知れた人が、何を考えているのか判る瞬間があります。

スポーツに集中している時、選手同士で何を考えているのか判ることがあるようです。

また、双子の人は、片方が何を考えているのか判ると言う話も良く聞きます。

そんな時には、お互いが同調し、思念が伝わっていると思います。

もらい泣き、もらい笑いも、思念の伝播によるものではないでしょうか。

インスピレーションも、それと全く同じ原理で伝わっていると考えられます。




生きている次元は違っていても、共通の想いで魂が結ばれた時、インスピレーションは伝わると考えられます。

音楽で人を喜ばしたい、地上の人のそんな想いに応えて、霊界の人がメロディーを伝えて来ることもあると思います。

この世のものとは思えない美しさが、芸術の中に表現されている時があります。

それは霊界の美しさがインスピレーションにより伝わり、地上の人によって忠実に表現されているからだと思います。




インスピレーションを受けるのは、創造的な活動をしている人に限ったことではありません。

全ての人がインスピレーションによる恩恵を受けていて、それによりつつがなく生活が出来ていると思います。

地上の人には、霊界で見守っている存在が必ず付いています。

その存在からインスピレーションが送られていて、それを受け取り、無意識に行動に移していることが多いと考えられます。




私たちは皆、目的を持ってこの世に生まれて来ています。

しかし、いざ地上に生まれると、その目的をすっかり忘れてしまいます。

全ての人に共通している目的、それは魂の成長です。

しかし、魂は一様ではありません。

豊かなところもあれば、足りないところもあり、それが個性となっています。

豊かなところをさらに伸ばし、足りないところを補うためには、それにふさわしい経験が必要です。

けれども、それは不幸と言われるような、苦難の経験となることが多いようです。

もし、事前に判っていたのならば、気になってしまい、何とかして避けようとしてしまうかもしれません。

人間は未熟なために、人生の計画(予定)は判らないようになっていると思います。

そのため、全てを承知している守護霊が付いて、目的が無事に果たせるよう、インスピレーションを送って導いていると考えられます。




しかし、導きが上手く行くとは限りません。

地上の人の自我が強くなってしまうと、相対的に霊的な感度が弱くなってしまい、守護霊から送られて来るインスピレーションに反応しなくなってしまいます。

魂の成長を妨げるような、予定外の方向に進んでしまいそうになった時、やめさせようとして、必死にインスピレーションを送っていると考えられます。

しかし、それに気付くことなく、予定されていた人生から外れてしまうこともあるでしょう。

すると、因果律の働きによって、その先で苦痛を伴う出来事が起こります。

苦痛により、本当の自分(魂)が目覚めて、再び守護霊からのインスピレーションが受け取れるようになります。

そして、再び生まれて来た目的を成就して行くようになります。




霊界の人たちは、地上の人に待ち受けているもの、迫っている危険を予見しています。

何かをしようとする時に、何となく気が進まない、どこかに行こうとする時に、何となく行きたくない、そんな気持ちになることがあります。

それは、霊界から送られて来るインスピレーションが反映されているのかもしれません。

無用な危害が地上の人に加わらぬよう、インスピレーションを送って、回避させようとしています。




もっと明確にインスピレーションが判ったのなら、今よりも円滑に人生が送れるような気がします。

この世にいる私たちが、人生の主役です。

自分で決断し、前に進んで行くことに、大きな意味があります。

困難を乗り越えて行くこと、人や動物や社会に奉仕をすることで、魂は成長して行きます。

訪れた成長の機会を活かすのか、活かさないのか、その決断は地上の人に委ねられていて、霊界の人たちは干渉出来ないと言われています。




もし、インスピレーションがはっきり判ってしまったら、必要以上に頼ってしまうかもしれません。

それでは神から与えられている自由意志を侵害することになります。

それを避けるために、はっきりと判らなくなっていると考えられます。

地上の人が、期待した通りに、成長する方向に進んで行ったのならば、我がことのように喜んでいるでしょう。

そして、力が湧き出るようなインスピレーションを送って、後押しを始めると思います。







話を戻しますが、何故、エジソンは霊界通信機を作ろうとしていたのでしょうか?

エジソンは発明の元となるインスピレーションが、異次元から送られて来ていることに気付いていたようです。

生前、「宇宙という大きな存在からメッセージを受け取り、それを記録することで発明としたに過ぎない」と語っていたそうです。

また、エジソンはこうも言っています。

「私の発明は、全ての人にとって役に立つものでありたい。そして、世界の平和に貢献するものでありたい。もし私の発明で一人でも死んだとしたら、私には人生を生きる意味も資格もない。」

こんな想いに同調する霊界の存在がたくさんいて、エジソンに有益なインスピレーションを伝えていたと考えられます。




シルバーバーチの霊訓のこんな文章も思い出しました。

「これまでのあなたの人生を振り返ってみれば、万事休すと思えた時に、霊の道しるべがあなたの進む方向を教えてくれていることが分かります。霊の力は、そういう形で働いているのです。」

霊界の人は、地上の人が困難に立ち向かい、障害を克服して、成長して行くことを強く望んでいます。

全力を尽くして、諦めかけそうになったその時に、援助の手を差し伸べていると考えられます。

人のために役に立つ発明をしようと、努力に努力を重ねていたエジソンは、最後の最後になって、霊界からインスピレーションが与えられていたと思います。

そして、冒頭の格言が生まれたのではないでしょうか。




当初、エジソンは人や社会の幸せのために発明をしていました.

その発明は、莫大な利益をもたらし、その名が世界中に知れ渡りました。

周囲に人が群がり、エジソンの発明に大きな期待をするようになります。

そんな中にずっといると、何かが変わってしまってもおかしくはありません。




霊界にいる人たちは、この世の人の心の中はお見通しです。

もし、発明の動機が商業的な成功に変わってしまったのならば、互いの波長が合わなくなり、今までのようにインスピレーションが得られなくなると思います。

そして、元部下であったテスラとの送電方式(交流、直流)の主導権争いにも敗れ、非常に悔しい思いをします。

憶測の域を超えませんが、かつてのように大発明につながるインスピレーションを得ようとして、霊界通信機を作ろうとしていたのかもしれません。




霊界通信機は、あの世から届く思念や概念を受信して、音声に変換しようとするものですが、果たして作ることは可能なのでしょうか?

シルバーバーチは、霊界との交信に器機装置を使用する計画はないのか?と言う質問に対し、こう答えています。

「霊界と地上界との交信を促進するための計画はこちらでもいろいろとなされておりますが霊媒に取って代わるもの、電子工学を応用したものを考案中と言う話は聞いたことはありません。(中略)それは絶対にできないでしょう。なぜかと言えば、二つの世界は霊と霊との関係、つまり霊性で結ばれているからです。」




思念も電波もどちらも波動です。

しかし、全く種類の異なるものであり、思念はラジオのような器機で捕らえられる性質のものではありません。

それは、生身の人間が電波を受信できないのと同じです。

思念(インスピレーション)は霊的次元の魂(霊)から生まれ、同次元の魂(霊)でしか受け取ることは出来ないと考えられます。




もしもですが、エジソンが霊界通信機を完成させたとしたら、どうなっていたのでしょう?

死別の悲しみに沈んでいる人たちが、エジソンの元に殺到したでしょう。

そして、向こうにいる人たちから、元気でいることが伝えられて、地上の人に大きな癒やしがもたらされたでしょう。

中には、こんな質問を投げかける人がいるかもしれません。

「何故、私を残して先に逝ってしまったの?」

すると、こんな答えが返って来るかもしれません。

「決まっていたことで意味のあることなの。また会えるから安心して。」

この言葉を聴いて、勇気付けられ、力強く生きて行ける人もいるでしょう。

しかし、そんな人ばかりではありません。

寂しさに耐えられず、つらいこの世に自ら終止符を打ち、会いに行こうとする人もいるでしょう。

しかし、それは絶対に許されません。

会うことが出来ないどころか、待っているのは真っ暗闇の孤独です。

過ちを犯したことに気付き、深く後悔し、償いをしなければならなくなります。

そんな悲劇が決して起きてはならないので、霊界通信機など作る必要はないと思います。




その代わりに、神はインスピレーションによる次元を超えたつながりを残してくれています。

インスピレーションを受け取るために必要なもの、それは霊界の存在を強く信じることです。

お互いに信じることで、魂と魂はつながります。

つながった魂を通して、インスピレーションは伝わります。