今から20数年前のことです。
仕事でアメリカに行き、フロリダからボストンまで飛行機で移動しました。
国内線であり、周囲を見渡したところ、日本人はおろかアジア人もいませんでした。
離陸してしばらくすると食事の時間になり、30代位の女性CAが後席から配り始めました。
直ぐ後ろまで来て、次だと思っていたら、私の横を素通りして、1つ前の人に食事を配ろうとしていました。
慌てて、自分のところがまだだと伝えたところ、謝りもせずに、何事もなかったかのように食事を手渡しました。
これはもしかしたら「差別」ではないかと思いました。
生まれて初めての体験で、あっけに取られていました。
こんなにも平然と、表情も変えずにするのかと驚くと共に、心の闇のようなものを感じて、うすら恐かった覚えがあります。
アメリカは自由で平等な国と思っていましたが、嘘だと思いました。
もちろん、そんな人たちばかりがいるのではありません。
多くの人たちは気持ち良く歓待してくれました。
最近は、人種差別と言う言葉を聞く機会が少なくなったと思っていましたが、想像している以上に根深いものがあるようです。
いったい差別とは何なのでしょうか?
人は、肌の色が白い、黒い、黄色いと、その違いを識別しています。
そこに、優劣の意識が入った瞬間、差別が生まれると考えられます。
差別とは地上的な概念です。
私たちが死んだ後に行く霊的な世界には、差別など存在しません。
肌の色などなく、周囲には同類の人しかいないために、優劣など存在しないからです。
地上は、霊的な世界とは大きく異なります。
自分と違う人たちばかりがいます。
同類の人だけしかいない霊的な世界の生活は、お互いが深く判り合えているので、快適そのものです。
しかし、地上にいる私たちは、自分と違う人たちに囲まれながら生きています。
そのため、判り合えないために生じる苦痛を味わうことになります。
そんな地上にわざわざ生まれて来るのは、苦痛から大切なことを学び、魂を成長させるためです。
違う者同士が、互いを認め合い、許し合うことに、大きな意味があると考えられます。
自分と違う人たちの中で暮らすのは、肉体によって思念が隠されてしまうために、何を考えているのか判りません。
何をされるのか判らないと、怖れを感じます。
そのため、自分を守りたい欲求がどうしても生じてしまいます。
守りたい欲求が高じると、自分と違う人が傍にいると安心できなくなります。
出来れば傍にいて欲しくないと思うようになります。
安心を得たいために、違う人を排除しようとする気持ちが生まれる時があります。
その気持ちが、差別的行為の原因になっていると考えられます。
地上に生まれると、自分を表現するため、そして守るために、地上だけに存在する自我(以下自我)が形成されます。
成長するのに従い、自我の働きは強くなって行きますが、それは正常な発達と考えられます。
幼い子供は、自我が発達していません。
自分を守るものがない無防備な状態ですが、その代わりに差別的な意識もありません。
自分を守るものがない無防備な状態ですが、その代わりに差別的な意識もありません。
差別的な意識は、違う人を排除しようとする過程で生まれ、自分を守ろうとする自我の働きが強い人ほど生じやすくなると考えられます。
日本は単一民族なので、人種差別は少ないと言われています。
実際は、様々な差別が存在しています。
良く聞くのは、女性差別や障がい者差別ですが、分かりずらい、見えにくい差別もたくさんあります。
若い女性が良く「キモイ」と言っているのを見かけますが、これも一種の差別です。
言葉の中に、排除の意識が感じられるからです。
見た目で判断し、気嫌いしてしまう傾向は誰にでもありますが、その延長線上に差別が存在していると思います。
人が差別をする、もう1つの理由は何でしょうか?
優劣をつけて、自分が優れていると思いたいからです。
自分は優れていると思うことで、自我が満足するからです。
一般的に優劣は、頭が良い悪い、文化程度が高い低い、容姿が美しい醜いなど、比較対象とされるものに存在します。
相手が劣っていると思うと、自分が優れていると錯覚し、それにより自我の満足が得られます。
優れていると思いたい自我の働きにより、相手が劣っていると言う差別的な意識が自動的に生み出される時があります。
それは、劣っていることを認めたくない、自我の裏返しなのかもしれません。
自分は優れていると思うことで、自我が満足するからです。
一般的に優劣は、頭が良い悪い、文化程度が高い低い、容姿が美しい醜いなど、比較対象とされるものに存在します。
相手が劣っていると思うと、自分が優れていると錯覚し、それにより自我の満足が得られます。
優れていると思いたい自我の働きにより、相手が劣っていると言う差別的な意識が自動的に生み出される時があります。
それは、劣っていることを認めたくない、自我の裏返しなのかもしれません。
けれども、優劣を認識する対象のほとんどは地上的なものです。
死んで霊的な世界に行けば、学歴、肩書き、貧富など優劣の存在するものは、跡形もなく消えてなくなってしまいます。
差別的な意識を持っていた人が霊的な世界に行くと、その対象を失ってしまいます。
自分が優れているのは錯覚であり、真の自分の姿を目の当たりにして愕然とします。
魂に染み付いてしまったその習性は、直ぐに改めることは出来ません。
差別的な意識は、神の心に反するものです。
自然法則の働きによって、その意識に自らが苦しむことになります。
優劣が存在しない世界で、差別的な意識を持つこと自体、自然法則に適っていないからです。
周囲との調和を乱して、孤立することになります。
結局は、同じ意識を持つ人たちに引き付けられ、その界層に赴くことになるでしょう。
そこは、自分の方が優れていると主張し合い、互いを蔑み合う世界と考えられます。
中には、親や周囲から差別的な行為を、善悪の判断がつかないまま、無意識の内に受け継いでしまう場合もあります。
当り前のようにしている行為に対しても因果律は正確に働いて、その結果に対して責任を負わなければいけません。
差別的な行為をして、相手を悲しませたり、傷つけてしまうようなことがあれば、魂に罪が刻み込まれます。
その先で、相応の償いをすることになりますが、自分が蔑まれ、排除されるような出来事を経験することになるかもしれません。
罪が積もりに積もってしまえば、今度は逆の立場となって生まれ変わらなければならないかもしれません。
相手がどう感じているのか判らないのであれば、受ける立場になって、苦痛の経験を通して学ぶしかありません。
黒人男性を押さえつけている白人警官の姿は、あまりにも残酷で正視できません。
しかし、私たちの心の中にも、多かれ少なかれ警官と同じ思いが存在しているのではないでしょうか。
自分と違う人間に対し怖れを抱いて排除しようとする気持ちや、優れている人間だと思いたい気持ちが存在しています。
それによって、差別的な意識が生まれたとしても、おかしくはありません。
差別的な意識があっても行為に移さないのは、良心と言う神の監視装置が働いているからです。
神の摂理に反した行為をしようとする時に、良心の声がして止めさせようとしています。
生まれて初めて差別的な行為をする瞬間、良心が咎めているのを感じたはずです。
しかし、無視して行為に移してしまったと考えられます。
その後も、良心の声を無視し続けてしまったために、終いには何も感じなくなってしまったと考えられます。
1つ1つの差別的な行為は、自らの魂を貶めていることになります。
常態化すると魂の様相まで変えてしまい(霊性を下げてしまい)、この様な残酷な行為をするまでに至ってしまったと考えられます。
人の痛みが判らないから、差別的な行為をしてしまいます。
同じことをされたとしたら、どう感じるのか想像すれば良いのですが、自分にしか意識が向いていないので判りません。
差別主義者は、一種の利己主義者と考えられます。
差別する対象は人間とは限りません。
動物を見て、人間よりも劣っていると思うのであれば、それは立派な「異種差別」です。
劣っているから食べても良いと思うのも、明らかな差別です。
差別的な意識があるので、動物が感じている苦痛や恐怖や悲しみを判ろうとしないのです。
以上の様に、怖れによる排除の意識、優れていると思いたい気持ち、無意識に身に付いてしまった習慣、それらが単独あるいは複合して差別的な行為に至ると考えられます。
その全てが、相手を思いやる気持ちの欠如、想像力の欠如から生まれています。
愛の対極にあるのは憎しみです。
差別的な意識も対極にあると思います。
愛を表現すれば世界は1つになって行きますが、差別的な意識を表現すれば、個と個は分断され、1つになるのを妨げてしまうからです。
それぞれに違いがあるのが地上です。
違いがあるのは偶然ではなく、それぞれ理由があります。
目的があって予め決められていたことです。
差異はあっても、優劣などありません。
外側ではなく内側を見なくてはいけません。
魂がどのような光(想い)を放っているかが全てです。
最も高貴で美しい光が愛です。
どうすれば差別がなくなるのでしょうか?
結局は、人間の霊性が高まるのを待つしかないのかもしれません。
しかし、それでは遅いので、差別がいかに罪な行為なのかを、知識として広めて行く必要があります。
霊的真理が広まった分だけ、差別のない世界も広がるでしょう。