2025年5月25日日曜日

意識が変わる時


地上にいる私たちは、肉体(物質)しか見えません。

そのため、自分と他の人を全く別なものとして認識しています。

当たり前のことを言うなと叱られそうですが、そうではない世界にいづれ赴くことになるのです。



死ぬと地上を離れて霊界に行きます。

そこでは、肉体(物質)は見えなくなり、代わって霊(魂)が見えるようになります。

そして、人と人(魂と魂)の間にあるつながりを意識するようになります。


死ななくても、意識するようになった人もいます。

エドガーミッチェルは、アポロ14号に搭乗して、6番目に月面を歩いた宇宙飛行士です。

彼はこう語っています。「宇宙から地球を見下ろした時、私の中で何かが変わった。私は自分が宇宙の一部であり、宇宙が私の一部であることを感じた。」

そして「地球へ帰還するあの3日の旅程で私が経験したことは、宇宙の一体性(ユニティ)という圧倒的な感覚に他ならない。」と言っています。



宇宙に行くという特別な体験をしたので、考え方が変わったと言う人もいるでしょう。

全ての人は、死の際に宇宙飛行士よりもはるかに強烈な体験をします。

そして意識は激的に変わります。

個は全体を構成する一部であり、全体はつながっていて1つであることを、自然に意識するようになります。



2020年初頭、新型コロナウィルスが流行し始めました。

ロックダウンなど、人との接触を断つ対応が取られましたが、そんなことなどお構いなしに世界の隅々にまで、ウィルスは拡がって行きました。

人とのつながりを断つことは不可能であることを物語っていました。



2011年3月に東日本大震災が起こりました。

悲惨な現実を前にしながらも、被災者同士が食料や水、毛布などを分け合い、支え合いました。

知らない人同士でも「大丈夫?」と声をかけ合いました。

「自分だけが助かれば良い」ではなく「みんなで乗り越えよう」という意識が生まれました。

こんな様子が各地で見られました。



神秘的な体験をしたり、危機的な状況に直面すると、普段とは別の意識が現れる時があります。

別の意識が、命あるもの同士の間に存在する、目に見えないつながりを感識することがあります。



大切な人を亡くすと、もう姿を見ることも、声を聞くことも、体に触れることもできなくなったと嘆き悲しみます。

悲しみの末に、導かれるようにして、亡くなった人の存在を見出す人がいます。

肉体はなくなっても、霊的なつながりは失われていなかったことを知ります。



地上では、五感で感じられるものに意識が向きます。

眠っていた魂が目覚めるような体験をすることによって、物的なものから霊的なものへと意識が向くようになります。

お金や地位を追い求めるのをやめて、人間関係を大切にするようになった人を見かけますが、そんな人は意識に変化が起きていたのかもしれません。



見かけは違っていても、人間(生命)の本質は同じ魂です。

魂に内在する神性によって、私たちは1つに結ばれています。

広大な宇宙の中で、地球という同じ空間に住んでいる同胞です。

それぞれが全体のために何らかの役割りを果たすために存在しています。

死んでからではなく、生きているうちにそのことに気付くべきです。


1つに結ばれているものを、分断しようとする考えや行いは、明らかに間違っています。

本質は同じなのに、優劣を付けたり、不平等に扱うのは、明らかに間違っています。

間違っていると思うけど、根拠がないので確信を持てない人が少なくありません。



多くの人が漠然と感じていることを、明文化したものが霊的真理です。

真理に出会ってから20年経ちます。

さまざまな実体験に基づいて、私なりに検証して来ましたが、その内容に矛盾や疑問を感じたことは1度もありません。

少なくても私にとって確固たる根拠となっています。

真理に照合すれば、対象となるものが正しいのか、間違っているのか、直ぐに答えが出ます。



シルバーバーチの霊訓にはこうあります。

「魂が開発され進歩するにつれて、自動的に他人に対して寛大になり、憐れみを覚えるようになります。これは悪や不正に対して寛大であれという意味ではありません。相手は自分より知らないのだという認識から生まれる、一種の我慢です。人間はたいていの場合、自分のしていることの意味が分らず、全くの無知から行動しているものです。それがあなたの我慢のしどころです。しかし、その我慢は悪を放任し黙認することではありません。それは我慢ではなく、目の前の現実に目を瞑ることです。」

最近になり、この言葉の存在が大きく感じられます。



間違った行い(悪)は、因果律の働きによっていずれ正されて行きますが、それまでに多大な犠牲が払われることになります。

間違っていることを確信しているのに、何もしなければ目を瞑っているのと同じような気がしてなりません。

真理を知った者同士が一致団結して、声を上げれば1つの力になるのかもしれません。



シルバーバーチの霊訓にはこうも書かれています。

「大自然の働きの基調は革命(レボリューション)ではなく、進化(エボリューション)です。進化の過程はゆっくりと着実に進行します。」

  「神の摂理は完璧ですから、地上の人間が一人の例外もなく、生涯に一度は真の自分を見出すチャンスに巡り合えるように配慮されております。」

さまざまな体験を通して、真の自分を見出し、意識が変わろうとしている時に、真理を伝えるのは極めて重要なことです。

一人ひとりの意識が変わり、真理を知ることで、望ましい世界へと変わって行きます。      



けれども、変わろうとしている人が、容易に真理に辿り着ける環境にあるとは言えません。

もっと身近で、手に届く範囲に置かれていなければいけません。

今は、書籍よりもSNSを利用して知識を得る時代です。

より多くの人が参画した方が、必要としている人が辿り着ける可能性は高まります。

可能性が高まることを、一人ひとりが追求して、導き先が構築されることを霊界は望んでいると思います。





2025年5月18日日曜日

許すという意志を持つ


今生きている世界と、死んでから赴く霊界では、大きく違うところがあります。

霊界では、周りにいるのは自分と同類の人ばかりです。

一方、地上では、周りにいるのは自分と違う人ばかりです。

そのために、相性が良くない人や、苦手な人がいたりして、人間関係で苦労します。



自分と違う人、例えば肌の色が違う人、言葉の違う人と会うと、どこか隔たりを感じます。

隔たりを感じて避けてしまうと、お互いを理解できなくなります。

理解できていないために、誤解が生まれて、いさかいに発展してしまう時があります。

争いの多くが、お互いの違いを認めなかったり、理解し合えないために起きていると思われます。



争いにより被害を被ると、怒りや憎しみが生まれます。

相手のことが許せなくなると、やり返すことになります。

それが繰り返され、争いは発展して行きます。



怒りや憎しみは、地上的自我から生まれます。

地上的自我は、肉体で自己表現するための(精神の)媒体です。

死んで霊界に行くと、肉体はなくなり霊体で自己表現するようになります・

それに伴って、霊的自我が媒体となります。

地上的自我はなくなるので、怒りや憎しみの感情は生まれなくなります。

普段、私たちはこの地上的自我を前面に出して生活しています。



許せなくなるのは、地上的自我の働きによるものです。

許せなくなると、怒りや憎しみの感情が生じて、心が苦しくなります。

苦しさから解放されるためには、許せば良いのですが、いくら許そうと思って許せるものではありません。



許すのは、地上的自我ではなく、霊的自我の働きによるものです。

霊的自我には神性があります。

神性は、寛容心、親切心、共感力、忍耐力、誠実さ、利他性、公平さ、責任感、思慮深さ、柔軟性、勇気などによって表現されています。



許すためには、神性が発揮されなければいけません。

頭でいくら許そうと思っても許せないのはそのためです。

許そうとする霊的自我と、許すまいとする地上的自我の間で葛藤が生じることがあります。



2つの自我の間で葛藤が起きることは日常的にあります。

道で倒れている人を助けようとするのは、霊的自我の神性が発揮されたからです。

的自我は、自分には関係ない、関わりたくないと考え、その場を去ろうとします

助けるのか、助けないのか、迷う時があります。



神性は、魂が進化するほど発揮されます。

さまざまな経験をしながら、年月をかけて、魂は少しずつ進化して行きます。

従って、一朝一夕に許せるようにはなりません。



それでは、どうやっても許すことはできないのでしょうか?

人間には意志があります。

意志は具現化する力を秘めています。



許さないと言う意志がある限り、当然のことながら許すことは決してありません。

その逆に、許すという意志を持てば、たとえ直ぐにではなくても、許す方向へと向かって行くはずです。



怒りや憎しみの感情は、地上的自我から生じています。

許そうとする意志は、霊的自我から生じています。

地上的自我(精神)の上位に霊的自我があります。

怒りや憎しみはの感情は、霊的自我から生じている許そうとする意志には勝てないので、消えて行くはずです。


自分にある神性を信じましょう。

神性が発揮されて、許せないことは何もありません。



許そうとする意志の本質は、自己犠牲を伴う愛です。

愛によって、内に溜まっている怒りや憎しみの感情は手放されます。

手放された時、対象は許されます。



負の感情に支配されそうになった時、認める、許す、哀れむという意志を持ちましょう。

その意志は、神性を帯びたものなので、感情は鎮まって来るはずです。



シルバーバーチの霊訓から引用します。

「あなたが地上に生まれたのは、その内部の神性を少しでも多く発現させるためです。それは永遠に終わりません。なぜなら神性は無限だからです。神性は自発的に表現を求めます。
それが、あらゆる種類の美徳と善行、つまり、親切、同情、寛容、慈悲、哀れみ、友情、無私の愛となって表現されます。その量が多ければ多いほど、それを発現している魂は偉大です。」



自我に打ち克って、神性を発現させることが、地上に生まれた大きな目的のようです。

小さなことから、大きなことまで、その機会はいくらでも巡って来ます。

その1つ1つが、魂を進化成長させることにつながっています。


2025年5月11日日曜日

赤ちゃんの死について思うこと


死にかけた人が、すでに亡くなっている人と会ったという話を、度々聞きます。

科学者の中には、臨死状態で脳への酸素供給が低下して、幻覚が起きて「死んだ人に会う」というビジョンが現れることがあると言っています。

それは死後の世界や魂の存在を否定するための根拠のないこじつけです。

「死んだ人に会う」という同じビジョンが現れるのは、実際に会っているからです。


会った時に、「まだ早い」と言われて、意識が戻った人は少なくありません。

「まだ早い」は、寿命が来ていない、地上で果たすべきことが残っているという意味が込められています。

機が熟していないことを、霊界にいる人たちはオーラから読み取っていると思われます。



働き盛りのご主人を亡くされた奥様がいました。

突然死でしたが、その数か月前から「もう時間がない」と、奥様にしきりに言っていたそうです。

記憶にはありませんが、魂は寿命を知っていると考えられます。



寿命は決まっています。

それでは、生まれて直ぐに亡くなった赤ちゃんも寿命だったのかと言う人もいるでしょう。

シルバーバーチの霊訓にはこう書いてあります。(少し長文です)

「障害児とか早世する子の問題は、やむを得ぬこととはいえ、この種の質問はみな、物的側面を見ることから生じるものです。地上の人間にとっては、霊的な観点から見ることは不可能でしょう。いわば短期的な視点から見ておられ、長期的な視点から見ることができません。皆さんの焦点は常に日常生活の期間だけに置かれていて、それで不完全なものとなるのです。再生とカルマと奉仕的精神、それに霊性の進化と成熟度が絡んでおります。とても複雑なのです。生命の霊的本質とその無限の可能性がすべての基本にあるのです。こうした深刻な問題にその場限りの安直な返答ですり抜けることは、私には許されないことです。これには物的法則と精神的法則と霊的法則が絡んでおります。法則は法則通りに結果をもたらすものです。因果律に罪があるように、埋め合わせもあります。神の秤は寸分の不公正もありません。見た目は何か大きな手違いがあったかに思えるかもしれませんが、霊的な観点から見た場合、地上人類の現在の進化の階梯では理解の及ばない事情があることを理解して下さい。」

何やら難しく感じられる文章ですが、地上にいる私たちには理解できない理由があって、生まれて直ぐに亡くなったと言うことになります。


人生という物語は、地上と霊界の間を行き来しながら、途切れることなく続いています。

その1つの章として、今、地上を生きています。

死とは次の章に進むための自然現象であり、自然法則の働きに則って起こります。



自然法則には、物的法則、精神的法則、霊的法則があります。

物的法則とは、目に見える世界を支配している法則です。

その1例として、万有引力の法則が挙げられます。

風邪を引いたら熱が出るのもそうです。

精神的法則とは、心の世界を支配している法則です。

感情は、この法則の働きにより生じます。

悲しくなると涙が流れます。

この現象は、精神的法則と物的(肉体的)法則が、同時に働いて起きていると思われます。

霊的法則とは、魂(生命)とその成長を支配している法則です。

地上に生まれて来たのは、霊的法則の働きによるものと考えられます。

いつ、どのような亡くなり方をするのかは、物的(肉体的)法則、精神的法則、霊的法則の働きが絡まって決まると考えられます。



全ての法則を創ったのは神です。

神の心は、言葉では言い尽くすことのできない愛です。

その愛が、法則の中に顕現しています。

地上に生まれるのも、そして去るのも、神の愛の為せる業と言うことになります。



早すぎる死に対して、前生のカルマのせいではないかと言う人がいます。

幾ばくかの霊的な知識があれば、そうは思えないはずです。

死によって地上から解放され、苦しみや悩みのない霊界へ戻ることが、どうして償いになるのでしょうか。

地上に留まり、相応の苦しみや痛みを味わって償われるべきものです。



その死は、「奉仕的精神(愛)」に基づいているのかもしれません。

愛する人の死ほど、残された人に衝撃を与えるものはありません。

その衝撃が魂を目覚めさせ、生まれて来た目的を果たし始める人もいます。

亡くなった人の分まで、精一杯生きようとする人もいるでしょう。

最も大切なものに気付く人もいるでしょう。



生まれて直ぐに亡くなる赤ちゃんとは、霊的に親密なつながりがあると考えられます。

私たちは、自分を成長させるために生きています。

その赤ちゃんは、自分を成長させるためではなく、親密なつながりがある人を大きく成長させるため、大切なことを学んでもらうために、生まれて来たのかもしれません。

平たく言うと、強く優しい人になってもらうことを望んでいるのかもしれません。

成長させたいという意志に、霊的法則が働いた結果として、自らが直ぐに亡くなるという計画が立てられた可能性があります。

その計画を許容するほど利他的な魂であれば、地上を長く生きる必要もないのかもしれません。



地上にいると法則の働きが分かりません。

そのため、不運で不幸な出来事にしか思えません。

理不尽さが募るばかりです。



人は死んで霊界に行きます。

それまで分からなかった法則の働きが分かるようになります。

不運でも不幸でもなく、確固たる目的(原因)があり、それに法則が働いて起きていたことを知ります。



その出来事が起きたことで、自分が大きく変わって行ったことを知ります。

耐え忍びながら、必死に生きることで、地上に生まれた目的を果たしていたことを知ります。

全てに合点が行った時、背後に控える無限の存在に究極の愛を感じて、深く感謝するでしょう。






2025年5月4日日曜日

霊的に目覚める


全世界の軍事費は約390兆円だそうです。

一方、全世界の飢餓人口はおよそ7億3千万人と言われています。



もし、軍事費を飢えている人に回せたらどうでしょう?

その額は一人当たり53万円ほどになります。

武器を必要としない平和な世界になれば、飢餓に苦しむ人はいなくなるはずです。



何故、そうならないのでしょうか?

人間には、地上的な自我(以下自我)が存在するからです。

自我が発達していない動物たちは、生きるために他の動物を捕えたり敵対することはありますが、物欲や所有欲がないので、無用な争いをすることはありません。



戦争は、国と国の間で行われることが多いです。

ところで国とは何でしょう?

国とは、人間が作りだした概念です。

概念なので、実際には存在していません。

頭の中にしか存在しない概念に固執する自我によって、無用な戦争が起きています。



仕事でアメリカに行き、国内線の飛行機に乗った時のことです。

昼食の時間になり、CAが前から順番に機内食を配っていましたが、私の席を飛ばして行きました。

うっかりして忘れたのかと思いましたが、そうではなく意図的なようです。

これが人種差別というものかと思いましたが、表情1つ変えずに平然とこのような行為が行われていることに怖さを感じました。

外見で人を判断するのも、差別的な行いをするのも、同じく自我の働きによるものです。



悪者のように思える自我ですが、地上で自己表現するために必要不可欠なものです。

自我は肉体と密接に関係して、安全かつ快適に生きることを志向しています。

けれども強くなり過ぎてしまうと、様々な問題を引き起こすことになります。



人間の本質は魂です。

目に見える肉体ではありません。

五感で認識して、頭で考えている自我には、それが分かりません。



自我の働きが強くなると、自分を守ろう、自分が良くなろうとする気持ちが強くなります。

それに伴い、人を信じる気持ちや思いやる気持ちは薄れて、殺伐とした気持ちになります。



地上の人間には、自我の他に、真の自分とも言える「霊的な自我」が存在しています。

死んで肉体がなくなると、この霊的な自我が直接自己表現するようになります。



霊的な自我の働きが強くなると、相対的に地上的な自我の働きは弱くなります。

それに伴い、人を信じる気持ちや思いやる気持ちが高まり   温和な気持ちになります。



普段、私たちは地上的な自我を前面に出して生活しています。

けれども、状況によっては霊的な自我が前面に出て来ることがあります。

東日本大震災の時、津波で街は押し流されて、たくさんの人が亡くなりました。

現実とは思えない悲惨な状況を目の当たりにして、霊的な自我が前面に出て来た人が多くいたと推察されます。

そんな人たちは、普段考えることもなかった命について思いを巡らし、つながりの大切さに気付いて、励まし合い、助け合っていたと思います。

しばらくの間、日本全体の霊的な意識が高まり、同じ想いを共有して1つになっていたように感じられました。



人類は1つです。

霊的につながっています。

自我には肉眼を通した世界しか見えないので、そのことに気付けません。

もし、人類の半分くらいが死んでしまうくらいの大きな隕石が、近いうちに地球に衝突すると分かったらどうでしょう?

多くの人の、霊的な自我が目覚めると考えられます。

戦争をしている人たちは、無意味さに気付いて、直ちに止めるでしょう。

国を超えて知恵を出し合い、生き残るためにどうすれば良いかを話し合うでしょう。

同じ想いを共有することで、世界は1つになるのかもしれません。



目覚めさせようと思っても、霊的に目覚めるものではありません。

危機的な状況に陥ったり、深刻かつ重大な問題に直面して、初めて目覚めます。

霊的な自我が前面に出て来ると、霊的な眼が見開かれて、それまで気付かなかった大切なものが見えて来ます。



国を動かしているのは、概して権力欲の強い人たちです。

悲しいことに、そんな人たちの霊的な眼は閉じられています。

人類は1つと思うようなことはなく、自分(自国)のことしか考えようとしません。

自然法則の働きに反する利己的な行動をして、世界に不調和が生まれて、不必要な苦痛を味わっている人が多くいます。

でもそれは一時的なものです。

因果律の働きによって、利己的な行動をした人(国)に、苦痛を伴う結果が返って来ます。

苦痛を味わうことで、霊的に目覚めます。

過ちに気付いて、全体を意識して協調するようになるでしょう。

長い長い年月をかけて、神の心である自然法則の働きと、神の力である愛によって、全体は1つになって行きます。


NASA公開画像より
「全生命は霊的に1つ」

「個々の生命は全体のために生きている」

この事実を受け入れる人が多くなるほど、平和で平等な世界になると思います。