2016年7月24日日曜日

全てのことに意味がある



仕事が休みの日に、障がい者施設を訪ねています。

そこには、小学6年生の時に交通事故に遭い、重度の障がい者になってしまった、青年がいます。

車いすの生活であり、脳に損傷を受けたため、言葉による意思疎通は出来ません。

でも、こちらの話していることは、良く判っていそうです。

うれしい時には、満面の笑顔と、「あー」と言う叫び声で表現します。



それまで元気な小学生だった彼が、突然の事故で自由の利かない身体になってしまえば、どのような心境になるのでしょうか?

失望したり、落胆するなと言っても、それは無理です。

自分の運命を嘆き、泣き叫んでいたのは、容易に想像が出来ます。



そんな彼に、

「今は不自由な体で大変だけど、ちょっと先になるけど、自由にどこへでも行けるようになるよ」

「お父さんやお母さんに、自分の気持ちを、はっきりと伝えられるようになるよ」

と、繰り返し言っています。

最初は、変なことを言うおじさんだと思ったでしょうが、それは彼が望んでいることでもあるので、今は言う度に、声を上げて喜んでくれます。



今日は、ある質問してみました。

「一番大切なものは、何だか判る?」

彼にとって、物やお金などは、何の価値もなさそうです。

健康な身体は大切なのでしょうが、その望みが叶うことはありません。



私は、「答えは愛だよ愛」と、胸に手を当てて言いました。

すると、彼は目を輝かせて、叫びながら、最大級の喜びを全身で表現していました。



何よりも愛が大切であることを、肌身に感じていると思いました。

彼は、仕事で事務的にされる行いであっても、施しとして愛を感じているのかもしれません。

1日たりとも、人の手助けなしには生きて行けませんので、周囲への感謝の思いは、言葉に出来ないほど、大きなものになっているのかもしれません。



手助けを受けなければ生きて行けないのは、障がいのある人に限ったことではありません。

健常者である私たちも、たった一人になったとしたら、生きて行けません。

自由にどこへでも行くことは出来ても、食べ物を確保することはできるのでしょうか?

毎日食べている米は、スーパーで簡単に手に入りますが、自分の手で1から作らなければならないとしたら、大変な労力が要ります。

着る服を調達するために店に行きますが、もし、服屋がなくなってしまったとしたら、どうすれば良いのか、判らなくなってしまいます。

実は、私たちも、一人では生きて行けていけないのです。

生活の全てに渡って、人の助けが必要なのは、彼と何も変わりありません。

あまりにも当たり前になってしまっているために、何も感じなくなっているだけです。



誰かに助けを請わないとしても、世の中から多大な助けを受けながら、私たちは生活しています。

本当は、そのことに感謝しなければいけないのですが、何事にも感謝せずに、1日を送っているような気がします。



日々、感謝しながら生きている彼と、感謝の気持ちを忘れてかけてしまっている私では、どちらが謙虚に、大切なことを学んでいるのかと、つい考えてしまいます。

身体的な障がいは不幸なことではなく、人を謙虚にさせ、大切なことを学ぶための、1つの手段になっているのかもしれません。



大切なことは、大きな意味での愛であり、愛を学び、そして表現するために、この世に生きていると言えます。

私の答えに彼が大喜びしたのは、身体的な障がいを通して一番大切なものが、すでに判っているからだと思います。

身体の大切な機能の多くを失ないましたが、その代わりに永遠の価値を持つ愛について、深く学んでいると思います。



この世では、衣食住の全てに、人や社会からの手助けが必要であり、それなしには生活はできません。

手助けをしてもらうために、その対価であるお金を払っています。

そして、人や社会に何らかの手助けをして、お金を得ています。

仕事とは、人や社会の手助けをすることに、他なりません。

お金を得ることはできませんが、家事も、人(家族)のために手助けをしているのに変わりはありません。

生活のほとんどは、手助けをしてもらって成り立っているのですが、お金が介在すると、その意識は希薄になってしまいます。



少し話はそれますが、人の身体には、60兆個(一説では37兆個)の細胞があると言われています。

1つ1つの細胞は小さくても、それぞれに働きがあり、全体の機能を維持するために必要不可欠なものです。

1つの細胞は、全体のために働きながら、全体とつながり生きています。



人も同じです。

1人1人は独立している様に見えて、全体(社会)を構成する一部であり、全体とつながることにより生きています。

1つの細胞が人体から切り離されたら生きて行けないように、人間は全体(社会)から切り離されたら生きて行けません。

人は、全体のために働きながら、全体とつながり生きています。



ところが、彼は社会(全体)のために働くことは出来ません。

自分のために、周りに働いてもらうだけです。

それで生きている意味があるのと、思う人がいるかもしれません。



この世の中の人は、それぞれの目的があって生きています。

彼が生きている目的は、人に手助けしてもらうことだと思います。



人が働くのは、もちろん生活のためであり、食べて行くためです。

しかし、それは表面的なものであって、本当は自分の喜びのためにしているのかもしれません。

なぜなら、感謝された時に喜びを感じるように、人は出来ているからです。

お金を得るためだけなら、働くことに、喜びを感じるはずがありません。

自分の行いにより、人が喜び、笑顔になり、感謝された時に、幸せを感じるようになっていると思います。

お金を得る以上のものを、働くことにより、得ようとしているのかもしれません。



そして、手助けの中に、想いが込められている時があります。

それは、人に喜んでもらおうとする想いと考えられます。

手助けをされた側は、その想いを無意識に感じ取り、喜びとなります。

想いを受け取り、喜びとなった人は、因果律の働きにより、同じものを相手に返そうとします。

目に見えない想いを受け取った人が、喜びを感じた時にするお返しが、感謝だと思います。



彼は、「ありがとう」と口にすることは出来ませんが、手助けしてくれる人に感謝の想いを放っていると思います。

その想いが、手助けする人の魂に伝わり、喜びとなっていると思います。

手助けすることにより、人は喜びを感じていますが、見方を変えると、彼は手助けをしてもらうことで、人に喜びを与えているとも言えます。



人のために、何かをして喜ばれると、喜びを感じるのは、何故なのでしょうか?

何かをする原動力となっているのは、愛のような想いだと思います。

愛のような想いは、神の心と一致しているために、相手に伝わると喜びとなります。

それが、因果律の働きで返ってきて、自らの喜びとなります。

人は生きて行くために、手助けをしながら、人に愛を伝えているような気がします。

伝えた愛が、自分に返って来て、喜びとなっていると思います。



この世の人は死ぬと、例外なく、肉体のない世界に移行します。

そこでは、食べて行くために、人の手助け(仕事)をする必要はなくなります。

あくまで自主的に、進んで、人の手助けをするようになります。



あの世が、真の世界です。

その予行演習をしているのが、この世です。

大切なことを学びながら、強くなるために、この世があり、あの世で悦びに満ちた生活をするためです。



愛情を感じる人のために、何かをするのは難しくはありませんが、愛情を感じない人のために、何かをするのは、容易ではありません。

どんな人にも手助けが出来て、より大きな愛を表現して行くために、この世があると思います。

肉体を維持し生きて行くために、人は働かなければいけませんが、その中で、お金を得る以上の、喜びを見つけ出し、愛の表現の仕方について学んでいます。

そうしないと、次の世界に行った時に、人のために手助けをして、自分(魂)を成長させることが出来なくなるからです。



彼は肉体的に多くのものを失っていますが、霊的に多くのものを得ていると考えられます。

障がいは、彼の魂を成長させ、愛について深く学ばさせる触媒となっています。

そして、仕事を超えた奉仕の心を通して、手助けする人の魂を成長させています。



不幸と呼ばれるような状況下で、魂は大きく成長し、何かを学んでいます。

次の世界に行った時に、その意味を知り、悦びに満たされます。



少し先になりますが、彼にも不自由な肉体から解放される時が訪れます。

ご両親と再会し、言えなかった想いの全てを伝えるでしょう。

そして、苦しかった分、つらかった分、自分(魂)が大きく成長していたことに、きっと驚くでしょう。

深く愛を学んだ彼は、秘めた想いを抱きながら、この世にまた生まれて来るかもしれません。

今度は、物言えぬ障がい者や弱者のために、一生を捧げるかもしれません。



全ての経験は、次に活かされます。

この世の中に、意味のないものは存在しません。




参考ページ: 「この世の出来事の意味を知る時」





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