2016年1月31日日曜日

霊的な病気の意味



私は、メールでのやり取りが苦手です。

まず、字を書く(変換する)のが煩わしく思え、電話で直接、話をした方が、手っ取り早いと感じるからです。

事務的なものであれば、メールで用件を伝えることもありますが、相手にお願いすることがあったり、謝らなければならない時には、メールを使うことは、まずありません。

やはり、電話でやりとりした方が、こちらの気持ちが正確に伝わり、相手もどんな気持ちなのか、判ると思うからです。

いくら適切な言葉を選んで並べたとしても、生の声ほどお互いの気持ちは伝わらないと思います。

絵文字などが使われるのは、こちらの気持ちが伝わっていない不安があるためではないでしょか。



食事をしたり、買い物をしたりすると、帰り際に「ありがとうございました」と、あいさつをされます。

同じ言葉でも、人によって大きく印象は違い、言われて何も感じな時もあれば、少しうれしくなり、また来てみようという気持ちになる時もあります。

それは、同じ言葉でも、感謝などの「想い」が込められているか、いないかの違いだと思います。



音楽も、同じです。

名演奏は、その曲にふさわしい情感が込められた時に生まれると思います。

奏者の想いが音を通して、聴く人に伝わって来た瞬間、感動が生まれると思います。

その証拠に、ホテルのロビーなどに無人のピアノ演奏機が置いてありますが、ミスもなく、完璧な演奏をしているにもかかわらず、伝わってくるものは何もなく、感動はありません。

機械が発生させる音なので、想いが込められていないためと思われます。



伝えるものの本質は想いであり、言葉や行動は媒体に過ぎません。

想いの入っていない言葉や行動は、事務的な連絡や機械的な作業を超えるものではありません。

この世は、想いを肉体により言葉や行動に変換して、表現しなければいけない世界です。

お互いの想いを伝えるには、五感を通すしかありません。

ほとんどの人は、五感で認識できる(物質次元の)ものを実体と思い込んでいますが、それは錯覚です。

実体は、物質を超越していて、五感を超えた霊的次元にあり、魂で感じ取っています。



この世に生きる私たちは、肉体を使って、笑ったり、泣いたり、怒ったりして、自分の想いを表現しています。

しかし、肉体と言う媒体を介しているので、すべての想いを表現できるわけではありません。

愛する人を喪った悲しみを、言葉により伝えられるとは思えません。

言葉よりも泣く方が、より適切な表現と思われます。

強い怒りを、言葉だけで伝えられるでしょうか?

言葉だけで伝えられないからこそ、時に、人は暴力的な行動をとってしまうのかもしれません。

言葉や行動は、想いを乗せている道具(媒体)です。



私たちは、快適な世界に暮らしているように思えますが、実は、想いをうまく表現できない、とても不自由な世界に生きていると言えます。

私たちが後に行くあの世は、肉体という媒体のない世界であり、想いは直接、しかも正確に、相手の魂に伝わります。

想いが全て伝わる世界と、伝えようとしても伝えられない世界では、どちらが望ましく、心地が良いのかは明らかです。

それにもかかわらず、この世の多くの人は、あの世に行ってしまった人を、不憫に思っています。

一足先に向こうに行った人は、この世の私たち見て、とても煩わしい思いをして生きているように見え、きっと可哀相に思っています。



物事を認識して、言語を介して論理的思考をしているのは大脳です。

しかし、思念(想い)は大脳から生まれているのではありません。

人の本質である、魂から生まれています。

「心」や「感情」が未だに解明されないのは、科学が唯物的な考えから抜け出せずに、魂の存在を認めていないためと思われます。



死とは肉体から魂(霊)の永続的な分離です。

魂を失った肉体は、存在理由がなくなってしまうために、土に還ります。

死んで肉体が土に還っても、魂は変わりなく存続していて、そこから想いは生まれ続けています。

単純明快な自然現象にもかかわらず、躍起になって否定する人がいますが、そんな人たちも、いつの日か訪れる死によって、現実と直面し、誤った考えを改めざるを得なくなります。



想い(思念)が生まれると、精神で指令となり、肉体で言葉や行動となって、外に向かって表現されます。

絶え間なく、想いの表現が繰り返されて、人生は紡がれていきます。

想いは、実体のない、生まれては消える泡のような存在ではありません。

霊的次元では実在そのものであり、物質的なこの世界において、具現化させるエネルギーとなっています。

神と呼ばれる存在から、魂が生命力を受け取って、想いというエネルギーが生じ、精神を経由する中で感情や意志となり、肉体に指令が出され、最終的に言葉、表情、行動と言った(肉体的)表現となって完結されています。



ところが、何かの理由があって、肉体で表現として外に放散されずに、想いというエネルギーが内部に滞ってしまう時があります。

例えば、会社において、上司が理不尽な言動をして憤りを覚えたとしても、それをそのまま表わしてしまえば波風が立ってしまうので、グッとこらえます。

よく考えてみると、私たちは、周囲の環境により自分の想いを素直に表わせない、窮屈な世界に生きていると言えます。

日常でそんな経験をすると、ストレス発散と言って、酒を飲んで騒いだり、体を動かしたり、趣味に没頭したりして、無意識に言い表せなかった想いを解放させようとします。



ところが、深刻な出来事が身に起きた時には、魂から強烈な想いが生じていますが、そんな想いほど、外に向かって表現するのは困難になります。

目の前で惨事が起これば、何らかの強い想いは生じていますが、言葉を失い、立ち尽くすだけです。

ひどい仕打ちを受けて、強い怒りや憎しみが生まれた時ほど、その想いを表現する言葉を見つけるのは困難であり、唇を震わせるだけです。

激しい嫉妬心を、うまく表現する言葉は、どこにも見つかりません。



ストレスが発散できずに溜まったり、強い想いであればあるほど、表現するのが難しくなり、解放されない想いは、内に滞って行きます。

外に解放されなかった、想いというエネルギーが徐々に内部に蓄積してくると、自然法則の働きにより、肉体や精神を変化させる力となります。

現代医学で突き止められていない病気の多くは、この蓄積されたエネルギーが根本原因となっていると考えられます。



肉体は、魂のありさまを表現する媒体です。

魂のありさまの変化は、肉体上の変化として現れます。

怒りや憎しみや忌み嫌う想いが、表現できずに滞ってくると、その蓄積されたエネルギーは、肉体を変化させ、暴力的で攻撃的な病変となって表現されます。

それが、ガンという病態です。

自分に対する怒りや憤りは、自分を責める想いとなり、その想いが溜まってくると、自分を守っているシステムが、自己を攻撃してしまう機能異常を生じさせます。

それが、膠原病という病態です。

直接、外に表現できなかった想いが、時を経て、肉体上に病態となって表現されています。



ガンや膠原病は、科学で対象外の「魂」と「想い」と深くかかわっている霊的次元の病気と思われます。

肉眼や検査で確認できる病変や機能異常は、表現されなかった「想い」という本体が、肉体上に反映されたものと思われます。

心(魂)と病気は密接不可分の関係であり、心(魂)のありようによって、病態は大きく変化すると考えられます。



なぜ、病気となって表現される必要があるのでしょうか?



私たちが生きている目的は、自分を成長させるためです。

成長していくことで、他者との調和が生まれ、世界が平和になって行きます。

それぞれの人生には、この世で自分を大きく成長させるために、予め決められているシナリオがあります。

楽しいこと、うれしいことばかりであれば良いのですが、それだけでは自分を大きく成長させることはできません。

つらいのですが、歓迎されない、出来れば避けたい、不運や不幸と言われるような出来事により、翻弄され、もまれながらも乗り越えて行く中で、大きく成長して行くようになっています。

従って、この世に生まれた限り、誰もが苦難に出会うことになっています。



自分を成長させているのは、それだけではありません。

人や動物、そして社会のために、役に立ちながら成長していきます。

従って、どんな人にも、奉仕の機会が必ず訪れるようになっています。



多くの人は、身に起きる出来事を、偶然起きたと思いがちです。

しかし、生まれる前に自分が自分にした約束があって、それが人生のシナリオに従って起きていると考えた方が良さそうです。

最悪と思える時に起きるのは、自分(魂)の成長にとって最適な時だからです。

身に起きた出来事を、無我夢中で乗り越えて行く最中で、自分(魂)は確実に成長して行き、この世に生まれた目的を果たしていると考えて、間違いありません。



しかし、シナリオとは関係なく、他者の身勝手な言動によって、自分が傷つけられてしまうことがあります。

肉体が傷つけられると、血が噴き出るように、魂が傷つけられると、想いが溢れ出てきます。

溢れた出た想いが、うまく表現できないと、内に滞ることになります。

滞った想いにより、何かと出会ったり、何かをしようとした時に、無意識のうちに抵抗してしまったり、拒絶してしまう時があります。

一般的に、それを「トラウマ」と呼びますが、それは過去に起きた出来事の「記憶」ではなく、出来事から生じた「想い」によって、引き起こされていると考えられます。

その時の想いが、怒りや憎しみを伴うものであったならば、その後の人生で起きる出来事により、同じ様な想いを生じさせてしまうことになります。



親による子供の虐待ほど、痛ましいものはありません。

それは親、自らが虐待を経験し、そこから生じた想いが表現されずに滞っていて、時を経て自分が子供を育てる時に、過去の情景が思い出され、滞っていた想いが表に出てきて、自分の子供に向かって表現されていると思われます。

親は、子供を嫌ったり、憎んでいる訳ではないはずです。

過去に生じた想いはそのまま残り、後に、それを喚起させる出来事に遭遇すると表在化し、肉体的表現に変わると考えられます。

解放されなかった想いは消えずに、内に潜伏していて、その後の人生に、深刻な影響を与えていると言えます。



現代社会では、頭をフルに働かせる生活を強いられています。

そのために、頭脳優先となり、自分の想いに気付きにくくなっています。

周囲に合わせ、円滑に生活していくために、自分の想いに長い間ふたをしたまま、機械的に生きていると言えます。

そんな生活をしている限り、内に溜まっている想いに気付くことは、まずありません。



自分を成長させる出来事は、シナリオに従って起きます。

霊的次元から見ると、魂を成長させるためにある試練であり、好機ですが、この世に生きる私たちにとって、困難や障害にしか見えないことが多くあります。

シナリオに従って出来事が生じた時に、ありのままの自分(魂)は、すぐさま進むべき方向を指し示します。

その想いに従って、進んで行くのが、シナリオに沿った生き方です。

しかし、内に溜まった想いが、ありのままの想いを表現する、大きな障害となっています。

怒りの想いが内に溜まっていて、人に優しくすることができるでしょうか?

自分を責めている時に、何かに挑戦しようという気になるでしょうか?

内に溜まった想いがあると、シナリオとは違う方向に行ってしまい、予定されたこの世での成長が得られなくなる可能性があります。



内にある想いに早く気付いて、解放してやらなければ、この世で予期した成長は望めません。

霊的な成長を続けている人間にとって、魂から湧き上がる想いに忠実に生きられないのは、大きな損失となっています。

生まれてきた目的を果たせずに、無為に地上の時を過ごすことにつながってしまうからです。



病気は、霊的次元の想いを、肉体次元に具現化させ、五感で認識させるためにある、自然法則(神の摂理)の働きによるものです。

因果律の働きにより、見えないものを見える形にして、内にある想いに気付かせるものです。



ほとんどの病気には、誰もが避けたい苦痛が伴います。

なぜ、苦痛を味わなければいけないのでしょうか?



目に見えず、人にも知られない想いにも、自然法則(神の摂理)が働いています。

どんな想いを抱いていたか、問われています。

想いには、摂理に適ったものと、反したものがあります。

摂理に適った想いを、短く一言で表現すると「愛」です。

摂理に反した想いは、愛に反する、怒り、憎しみ、恨み、嫉妬、貪欲、不寛容、傲慢などです。

もし、病気により苦痛を感じているのであれば、何かしら摂理に反した想いを抱いていたことになります。



病気の苦痛は、摂理に反した想いを抱き続けた償いであるとともに、魂を目覚めさせる触媒となっています。

それまでは、内にあるさまざまな想いにより作り上げられた、見せかけの自分や歪められた自分が、主導権を握っていたと思われます。

苦痛により、見せかけの自分や歪められた自分は吹き飛ばされ、それまで奥で眠っていた、本当の自分が目を覚まし、表に出て来ます。



自分ではどうすることも出来ないほど、内にある想いが溜まっていたのです。

病気にならない限り、内にある想いを解放させることは、出来なかったのです。

病気は、肉体と敵対しているものではなく、想いが肉体上に現れたものであり、その想いを解放させて、本当の自分を取り戻すために存在しています。



人(魂)は、神が創った、神の一部です。

私たちは、食物から栄養を摂取して生きているように見えますが、それは肉体に限られています。

体感されませんが、魂は神と呼ばれる存在から、生命(霊)力を受け取って生きています。

魂が目覚めると、神とのつながりは、より一層深まって、生命力が存分に流れ込みます。

流れ込む生命力は、愛を帯びているので、内にある(愛に反する)想いは、魂との親和性を失います。

根強く居座っていた想いが、ようやく解放されていきます。

想いが解放され、魂は浄化され、因果律の働きにより、肉体上の病変や機能異常は消失していきます。

本当の自分が姿を現したのなら、病気はその役割を終えて、心身は癒されるはずです



大きな病気を克服した人の中には、別人のように活き活きと、明るく生活するようになった人を見かけます。

そんな人たちは、人には言えない苦痛を経験した末に、本当の自分(魂)に目覚め、本来の生き方を取り戻した人たちだと思います。

より輝いて見えるのは、想いという障害物がなくなり、生命力が外に溢れ出しているからです。

より奉仕的な生活をするようになるのは、愛の大切さに目覚め、内から湧き上がる想いを素直に表現できるようになったからです。

病気をきっかけに人間が変わったように見えますが、実際は、人間を変えるために病気が存在していると思われます。



霊的な病気には、霊的な目的が隠されています。

根本原因は、表現されなかった想いです。

目的は、内にある想いの表在化と解放です。

魂の治癒過程における、心身上の現象が病気です。



生きる目的は、自分(魂)を成長させるため以外にありません。

より強く、より美しい自分になるためです。

困難や障害を、1つ1つ乗り越えて行くことで、強くなっていきます。

優しさや、思いやりを表わすことで、美しくなっていきます。



病気は、偶然や不運ではなく、人を成長させるためにある自然法則であり、私たちを良い方向に導いているとしか思えません。







参考ページ: 「健康と病気 ~霊的視点からの私見~」














5 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

はじめまして、kitaというものです。
突然のご連絡申し訳ありません。

私もシルバーバーチの著書を読んでいる一人です。

読書会に参加したいというわけではないのですが、シルバーバーチの本を読んでいる方々に知っていただきたいことがあり連絡をさせていただきました。

実はウィキペディアのモーリス・バーバネル(シルバーバーチ)のページで宗教団体である「幸福の科学」の主張が掲載されており、誤解を招きかねない状況になっております。

幸福の科学という団体が何を主張されようと勝手ですが、ウェブの百科事典であるウィキペディアに関係性があるような主張がされているのは大いに問題があると私は感じています。

特に何をお願いしたいというわけではございませんが、シルバーバーチの読者の方々にこの問題のあるウィキペディアのページを読んでいただきたいと思い連絡を差し上げました。
(もしかしたらウィキペディアのページが編集されている場合もありますが、その場合は編集履歴から過去の投稿を読むことも出来ます。)

もし読んでいただいた内容に問題があると感じた場合、ウィキペディアは誰でも編集や議論ができます。

私は公平で中立な視点から見たシルバーバーチを紹介するページをウィキペディアにはのせるべきと感じています。シルバーバーチと「幸福の科学」という団体となにか関連があると誤解されるような主張を一般の記事にのせるべきではありません。

以上、迷惑なご提案を申し訳なく思いますが、よろしければシルバーバーチをよく知る人たちに一度読んでもらい判断してもらえると嬉しいです。

尚、このメールに関する返信は特に必要ありませんので、お気にいらないようであればそのまま私のことは無視していただきゴミ箱に捨てていただいてかまいません。

よろしくおねがいいたします。

イクミ さんのコメント...

Kita 様

ご連絡、ありがとうございます。
ウィキペディアのモーリス・バーバネルのページを見ました。

やはり、バーバネルのページに、突然、幸福の科学の名が出てくることに、とても違和感を感じました。
シルバーバーチの霊訓を愛読している人であれば、多分、同じ様に感じるでしょう。
なぜ、ここに出典させるのか、全く理解できませんが、不自然なことを承知で書かざるを得ない事情があるのかもしれません。

シルバーバーチが、この世の人間と2度と接触することはないのは、本を読んでいる人であれば誰もが知っています。
大川氏がシルバーバーチと接触したというのは、限りなく疑わしいと思われますが、否定する根拠を私たちが呈示するのは不可能です。
書籍になっている霊言に関しても、同じです。
自分たちの牙城を守ろうとする気持ちが、とても不自然な形となって現れていて、哀れにさえ思います。

文言が削除されるのを望みますが、削除するには正当な根拠が必要であり、第3者から見て納得し得るものでなければいけないと思います。
根拠となる資料は見当たりませんので、多数の同様な意見が出されれば、第3者の賛同を得られるかもしれません。
たとえ、完全な削除は無理でも、導入部ではなく末節に、記載されるべきだと考えます。

何も知らない人を欺き、霊的真理に辿り着くのを、明らかに妨げているのであれば、それは断固阻止しなければいけません。
幸いなことに、バーバネルのページに書かれているので、すでにシルバーバーチの霊訓に辿り着いた人が、このページを見ていると思われます。
両者を比べてみれば、どちらが真理に近いのか歴然であり、適切な判断を下されると信じています。

Kita様の、純粋な熱意を感じました。
きっと、良い方向に向かっていくと思います。
私は時々思うのですが、シルバーバーチが望んでいるのは、自分を信奉する者としてではなく、神の摂理を深く知り、実践する者として生きて行くことであり、それが自然に真理の普及につながっていくと考えています。

また、何かありましたら連絡して下さい。

匿名 さんのコメント...

イクミ様 なおみです。
先日はヒーリングで助けていただきありがとうございました。

以前は見ていなかったこちらのコメントを、初めて知りました。なんだか先日の反対勢力の妨害の件と関連しているような気がします。

先日、私は騙されやすいというお話しをしたと思いますが、実は約20年前、幸福の科学に入信していました。

その少し前から、霊的覚醒が起こり何かと不安定な霊能力を、どうあつかったらよいか自分でも、その答えを探していたのです。

ちょうど、その頃、幸福の科学の月刊誌が家のポストに入っており、ここに答えがあるかもと思い、まるで導きのような感じに思え、入信しました。

実際、スピリチュアリズムと教えが、かなり一致しており、その当時の私は、まだまだ知識がなかったので、違和感もなく、そこで霊的知識などを身につけ、霊的成長できたと思います。

幸福の科学の教えに従って、利他愛の実践に励み、また悩み事の解決につながるような書籍も大川氏は、たくさん出しており、レベルの低かったその当時の私には、幸福の科学は、自分にとって成長できた場所でした。

それまでの私の置かれた環境が、あまりにも裏街道だったので、やっと表街道に出てこれたと、その当時は感激したものです。

しかし、幸福の科学の書籍には、確かにいいことは、たくさん書かれているのですが、実際の大川氏に会った時に、幻滅しました。

書いている張本人が、教えを守っておらず、どう考えても偽物だとわかり、退会しました。

しかし、なぜか私には騙されたと感じる怨みのような想いはなく、むしろ楽しかったし、成長もできたから良かったと思いました。

幸福の科学の信者には、たくさんの愛あふれた方がいて、そういう人たちと出会えたことも良かったと思ったものです。

今、考えると本来この方たちもスピリチュアリズムに導かれるはずだった人だと、よく分かるので、間違いなく幸福の科学が、妨害行為をしているのですが、やはり騙されている真っ最中には、なかなか見抜けないものです。

それで、本題なのですが、ウィキペディアのモーリス:バーバネルを私も確認しました。後世での言及、影響等の所に幸福の科学のことが、書かれており、あれはどう考えても反対勢力の狡猾な陰謀だと思います。

今現在の時代では、全て幸福の科学がシルバーバーチやスピリチュアリズムを受け継ぎ活動しているようなニュアンスを醸し出しています。

実際、幸福の科学情報によれば、騙されたことに気付いた古い信者は退会しているようですが、若い世代などを中心に、また新たに信者になっている人も結構いるようです。

大川氏は統合失調症らしいです。なので、あれだけの偽霊言を出しているのでしょう。

それで、統合失調症はヒーリングで治るかもしれないので、イクミ様に遠隔ヒーリングを大川氏にお願いしたいのですが、いかがでしょうか?

まだまだ、本人に煩悩が残っている可能性もあるので、無理かもしれないですが、ヒーリングはやってみないと分からないところもあると思うので、可能性にかけてみたいと思うのです。

もし、ヒーリングが成功すれば、大川氏だけでなく、たくさんの信者も解放されることになると思うので、大きな愛の実践になると思うのです。

もちろん、大川氏に伝えないままのヒーリングになるので効果は期待出来ないかもしれないですが、少しの望みでもあれば、その可能性にかけてみたいと私は思うのですが、いかがでしょうか?

勝手な私の意見ばかり延べて申し訳ないですが、イクミ様はどう感じられますか?

  

イクミ さんのコメント...

なおみ様

こんにちは。
そうですか、20年前に、幸福の科学に入っていたのですね。
私も、11年前に突然ヒーリングの力が出現し、この現象をどのように理解すれば良いか判りませんでした。
幸運にも直ぐにシルバーバーチの霊訓と出会い、霊的真理を知ることが出来ましたが、何かを拠り所にしたい気持ちは、良く理解できます。
シルバーバーチの霊訓の中で、メジスト派の牧師がたくさんの人に間違った教えを説いてきて悔いていると言ったのに対して、その無駄に思える道のりが、真理にたどり着くまでにその人に必要だったと答えて、慰めていたと記憶しています。
あなたにとっても、本物の霊的真理に出会うために、きっと必要な行程だったと思います。
私は、大川隆法氏に会ったことがないので、良く判らないのですが、言っていることと、やっていることが一致していないのを見て、幻滅してしまったのですね。
名誉欲や虚栄心で、宗教活動をしているのならば、その罪はとても大きく、他人事とは言え心配になります。
本屋に行って、よく著書を目にしますが、霊言と言われる本を見る度に、恥ずかしさを覚えます。
一般の人がその本を見て、彼のことをどう思うのか、これ以上醜態をさらさないで欲しいです。
あなたが言われるように、憑依による統合失調症が起きている可能性は高いのかもしれません。

大川隆法氏へのヒーリングですが、申し訳ありませんが、行うつもりはありません。
仮に、一時的な効果が認められたとしても、彼の魂がまた呼び寄せてしまうと思います。
また、有名な人を、自分の考えで、ヒーリングをすることも許されていないと考えています。
霊界の働きかけで、導かれて来る人を中心に、行いたいと考えています。

世の中には、変わって欲しい人はたくさんいます。
でも、変えるのは難しいので、自分だけでも変えて行きたいと思っています。

匿名 さんのコメント...

イクミ様 なおみです。
お返事いただきありがとうございます。

確かに、ヒーリングも伝道も基本は時期の来た人を対象に行うものですね。

そのことを分かっていながら、イクミ様にご無理を言って申し訳なく思います。

つい私も、こういったコメントを知ると、自分が以前幸福の科学にいただけに、なんとかならないものかと思ってしまいます。

そうですね。こういった場合は時期が早く来てくれることを祈るしかないですね。

騙されている信者にも自己犠牲的な素晴らしい人が多くいることを知っているので、その人たちがスピリチュアリズムにたどり着き、本物の霊界の道具として活動していただければ、どんなにかいいのになどと思ってしまいます。

しかし、やはりどれだけそう思ったところで、時期が来ない限りどうすることも出来ないですね。

私もスピリチュアリズムにたどり着くまでは、こういったヤキモキとした思いを、きっと守護霊に感じさせていたに違いありません。

なので、私も今、守護霊の気持ちを味わっているのでしょう。ここは、忍耐と祈りで乗り越えて行くしかないですね。