時の権力者は死を恐れるようです。
秦の始皇帝は、不老不死の薬を探し求めて、日本にまで使者を送ったという記録が残っています。
人間の寿命は決まっています。
どんなに世界中を探しても、いくら科学が発達しても、そのような薬が見つかることはありません。
もし、見つかったとしても、私は飲む気は全くありません。
シルバーバーチの霊訓には、こう書かれています。
「こちら(霊界)では魂の成長に応じた界、つまりその人の知性と道徳性と霊性の程度にちょうど良く調和する界に住むようになります。界の違いはそこに住む人の魂の程度の違いだけで、霊性が高ければ高いほど、善性が強ければ強いほど、親切心が多ければ多いほど、慈愛が深ければ深いほど、利己心が少なければ少ないほど、それだけ高いレベルの界に住むことになります。」
前者を天国、後者を地獄と呼ぶのかもしれません。
地上においても、天国と地獄は存在すると思います。
それは特定の場所を指すのではありません。
私たちの心の中に作り出されます。
愛で満たされ悦びを感じている時、地上にいながら心は天国にいます。
憎しみや嫉妬に苛まれ苦しんでいる時、互いに傷つけ合っている時、地上にいながら心は地獄にいます。
さまざまな出来事が起きるのが地上です。
それによって心は移ろいます。
愛情を感じていた人に裏切られたりすると、怒りや憎しみの感情が生まれて、天国から地獄に落ちてしまう時もあります。
苦しみから抜け出すためには、対象を赦さなければいけません。
けれども、赦そうと思って赦せるものではありません。
こんなに苦しいのは対象(他者)のせいだと思うと、余計に怒りや憎しみがこみ上げて来ます。
それに伴い、さらに苦しみが増して来て、悪循環に陥ってしまいます。
苦しみを生み出しているのは対象ではありません。
自分の心の中に生じた怒りや憎しみです。
地上に生まれて来たのは、霊界では出来ない経験をして、学び成長するためです。
極めて低い界層を除いて、霊界では怒りや憎しみや恨みが生じる対象は存在しません。
そのため、赦すという経験はできないと考えられます。
魂と肉体の間に介在する媒体として、地上の自我(精神)が存在しています。
そこから怒りや憎しみなどの感情が生じています。
本来の自分(魂)は、神とつながっています。
私たちは、神の心を表現しようとする極小の一部です。
神の心は愛です。
そのため、本来の自分(魂)からは、怒りや憎しみは生じることはありません。
約2000年前、イエスは無実の罪で十字架にかけられました。
十字架の上で「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか自分で分からないのです。」と神に祈りました。
全ての感情を打ち消す、最も強いエネルギーが愛です。
命を奪おうとしている対象が赦されることを願うという、極めて高い愛をイエスは表現していたために、怒りや憎しみや怖れは存在していなかったと考えられます。
対象を赦すため、怒りや憎しみを手放すためには、今よりも高い愛が必要です。
そのためには、さらなる魂の成長が必要となります。
「苦しい過程において、魂は鍛えられ、清められ、そして成長する」と言われています。
従って、怒りや憎しみに苦しむのも決して無駄なものではなく、先の赦しへとつながっていると考えられます。
「全ての苦はそれが魂の琴線に触れることによって自動的に報いをもたらし、それが宇宙のより高い、より深い実相について、より大きな悟りを得させることになるのです。」とシルバーバーチの霊訓には書かれています。
苦しみや痛みにより、奥深くで眠っている魂が呼び覚まされ、内在する無限の叡智(神)に仕舞われている真理の1つが明かされることがあります。
その真理を受け入れることにより、対象や出来事の捉え方が大きく変わります。
それに伴い、心の様相も大きく変わります。
怒りや憎しみが鎮まって来たのであれば、対象や出来事を赦す方向へと向かっています。
取り巻く状況は変わらないとしても、心は地獄から抜け出すことができます。
怒りや憎しみ捉われていては前に進んで行くことはできません。
魂には、少しでも上の界層に行きたいと言う根源的な欲求があります。
さまざまな経験を通して、多くのことを学べるのが地上です。
対象や出来事を赦すという経験をすることにより、霊性は向上しています。
より次元の高い愛を表現できるようになり、上の界層に行くための条件を満たすことにつながっています。
そのための計画を携えて、適した環境と人生を選んで生まれて、相応しい出来事を経験しているのかもしれません。