最近、終活をしている人が多いようです。
備えあれば憂いなしですが、昔は死んだ時のことを考えるなんて縁起でもないと考える人が多くいたので、時代は変わったものです。
死後の世界や魂の存在を、頭ごなしに否定する人が少なくなって来ているように感じられます。
それに伴い、死に対する考えが少しずつ変わって来ているのかもしれません。
死は忌まわしいものでも、怖いものでもありません。
肉体から魂(意識)が解放され、本来の住処に戻る現象であり、喜ばしいことです。
死後の世界が明らかされれば、死を恐れずに、安心して生きて行けると思いますが、そうはなっていません。
明らかされないのは理由がありそうです。
オーストラリアでこんな調査結果が出ました。
16歳から85歳までのオーストラリア人のうち約150万人(7.4%)が自殺の計画を立て、約97万人(4.9%)が生涯のどこかで自殺未遂を経験しています。
計画を立てないまでも、死んでしまいたいと思ったことのある人はずっと多く、日本人の若年者の44.2%が希死念慮を経験しています(日本財団の調査より)。
死にたいと思ったことのある人は、想像していた以上に多いです。
あの世があり、死んでもそこで生き続けることが明らかになったらどうなるでしょう。
自らの意志で行ってしまう人は、少なくないと予想されます。
この世では、時に生きているのがつらくなるような困難や苦難に遭遇します。
そんなこの世を生きている目的は、自分(魂)を成長させるためです。
シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。
「地上の人類はまだ痛みと苦しみ、困難と苦難の意義を理解しておりません。が、そうしたものすべてが霊的進化の過程で大切な役割を果たしているのです。」
そしてこうも書かれています。
「苦しみの淵を味わわずに、魂の修練は得られません。底まで降りずに頂上まで上がれません。それ以外に霊的修練の場はないのです。あなた自らの苦しみ、自ら艱難辛苦を味わい、人生の暗黒面に属することの全てに通じて進化が得られるのです。」
あの世は、苦から解放された世界です。
この世を生きた方が、より自分を成長させることができると考えられます。
快適なあの世を離れて、苦のあるこの世に生まれて来たのは、自分を成長させようとする意志があったからです。
この世に生まれると、肉体で自己表現するための自我が生まれます。
その自我は、肉体の成長と共に発達して行きます。
多くの人はその自我を自分だと思っていますが、その奥に真の自我が存在しています。
死んであの世に行くと肉体がなくなり、この世で自己表現していた自我もなくなります。
あの世は真実の世界と言われます。
それは、真の自我が露わになり、嘘偽りのない、本当の自分の想いのみが表現されるようになるからです。
五感に触れない極めて大切なものが2つあります。
1つは「愛」であり、もう1つは「神」です。
あの世に行くと霊的な感覚だけになり、それらの存在がありありと感じられるようになります。
神は無限の存在です。
全宇宙であり、全宇宙を支配している法則であり、全宇宙と法則を創造した意識であると考えています。
その意識は完全なる愛です。
その意識に触れると、愛を実感し、悦びに満たされます。
霊的に成長し、神の意識に近づくことで、より深い悦びが得られるようになります。
深い悦びを得たいがために、私たちは成長する方向へと進んでいると考えられます。
神は遠く離れたところにいる存在ではありません。
私たちの内にもいます。
私たちは完全な愛を秘めた存在ですが、表現媒体である自我が不完全なために、表現することができないだけです。
あの世に行ってしばらくすると、自分の不完全さを自覚して、足りない資質が意識されるようになります。
足りない資質を身に付けるために、苦のあるこの世に生まれて来ています。
6歳くらいの時に、自転車の乗り方を覚えました。
本を読んだり、口で教えてもらって、乗れるようになるわけではありません。
サドルにまたがり、時に転んで痛い思いをして、試行錯誤を繰り返しながら、乗れるようになります。
それと同じで、実際に自分で経験しなければ、霊的な資質を身に付けることはできません。
身に付けるのに相応しい経験をすることになります。
例えば、「勇気」です。
真の勇気とは、良心に従って行動しようとする力であり、成長して行くために不可欠な資質です。
身に付けるために、怖れや不安を克服して、乗り越えて行かなねばならない経験をすることになるかもしれません。
「寛容」は、自己犠牲を伴う愛の表現であり、神の意識に近づくために重要な資質です。
身に付けるために、他者の過ちを許さなければ、前に進んで行くことができない経験をすることになるかもしれません。
どんな出来事を、いつ経験するのかは、知ることはできません。
完全なる神によって立てられた計画であれば、最善の出来事が、最善のタイミングで起きるはずです。
けれども、この世の人にとっては、最悪の出来事が、最悪のタイミングで起きたと感じられるかもしれません。
少し長くなりますが、シルバーバーチの霊訓にはこう書いてあります。
「何もかもがうまく行き、鼻歌まじりののん気な暮らしの連続では神性の開発は望むべくもありません。そこで神は苦労を悲しみをそして痛みを用意されるのです。そうしたものを体験して初めて霊的知識を理解する素地が出来上がるのです。(中略)霊的な宝はいかなる地上の宝にも優ります。それはいったん身につけたらお金を落とすような具合になくしてしまうことは絶対にありません。なんらかの荷を背負い、困難と取り組むということが旅する魂の本来の姿なのです。もちろん楽なことではありません。しかし魂の宝はそうやすやすと手に入るものではありません。もしも楽に手に入るものであれば、なにも苦労する必要はないでしょう。痛みと苦しみの最中にある時は中々、その得心が行かないものですが、必死に苦しんでいる時こそ魂にとって、一番の薬なのです。」
生きるのがつらくなるような出来事を経験しているのであれば、それを不運や不幸と思わない方が良いのかもしれません。
自分のために起きていて、自分で決めていたことかもしれないからです。
人生を嘆いたり、運命を呪ったり、神を恨んだりしてはいけません。
予期していた資質を身に付けて、成長して行く妨げになるからです。
不平不満や愚痴を言ったり、誰かのせいにしてしまうと、自分を変える力が削がれてしまいます。
あの世に行くと全てが明らかになります。
たとえ今は分からなかったとしても、自分を望ましい方向に変えるために起きていると、強く信じましょう。
あの出来事があったからこそ、今の自分がいると思う時が必ず来ます。
この世の苦の経験は、霊的な資質を身に付け、成長することにより、完全に報われています。
あの世での生きる悦びにつながっていたことを知り、神に感謝するでしょう。


