2024年8月25日日曜日

本当の自分の想い


霊界は思念の世界と言われています。

地上にいる私たちには理解しがたい現象が、そこでは日常的に起きています。

その1つとして、思念が立ちどころに具現化することが挙げられます。

例えば、車に乗りたいと思えば目の前に車が現れ、食べたいと思えば食べたいものが目の前に現れます。

そして、想ったこと(思念)は波動となって相手に直接伝わります。

まるでSF映画の世界のようです。



地上では、想うだけでは何も始まらず、何も伝わりません。

物質(肉体)を介して表現しなければいけません。

地上は労力を使って自己表現しなければならない煩わしい世界ですが、そこに生きる意味があると思います。



そんな世界に生まれて来たのは、自分を成長させるためです。

降りかかる困難や障害を乗り越えることや、人や動物や社会のために何かをすることで成長します。

生きている限り、困難や障害が次々と生じます。

仕事や家事など、誰かのために何かをしなければ生活が成り立ちません。

今いる環境を精一杯生きているだけで、自然に成長していると思います。



地上の人間は、肉体、精神、魂(霊)により成り立っています。

肉体と魂の間に精神(地上的な自我)が介在し、自己表現しています。

地上的な自我は、肉体と深く結びついていて、安全に快適に生きること志向しています。

崖の上に立つと怖くなるのは、地上的な自我が肉体を守ろうとしているからです。



霊界に行くと、肉体はなくなり霊体になります。

魂と霊体の間には霊的な自我が介在し、自己表現するようになります。

霊的な自我は、魂と深く結びついていて、神の心(神性)を表現しようとします。



地上の人間には肉体と目に見えない霊体があり、地上的な自我と霊的な自我の両方が存在しています。

霊的な自我から生じた思念は、地上的な自我によって具体化されて、肉体で具現化されています。

その行程が円滑に行われているのが健全な状態です。


福島原発を襲った津波 出典:朝日デジタル
2011年3月11日、東日本大震災が起こりました。

福島原発は津波に襲われて、機能が停止しました。

高熱を発している核燃料を冷却できないと、炉心溶解(メルトダウン)を起こし、放射能汚染を引き起こします。

それを防ぐためには、一刻も早く海水を注入して冷却するしかなく、原発の所長は会社の上層部にそのことを伝えます。

けれども、海水を注入すると廃炉になってしまうために許可されません。



良心に従って海水を注入することを、所長の霊的な自我は強く訴えていたと考えられます。

けれども、地上的な自我は会社組織における自分の立場を考え、上層部の命令に従おうとします。

命令を無視すれば会社から責任を問われてをクビになる可能性があり、命令に従えば深刻な放射能汚染を引き起こします。

両者の自我の間で、激しい葛藤が起きていたと想像されます。

翌日になって、所長は上層部の命令を無視して海水を注入します。



所長ですが、事故から1年後に脳卒中となり、2年後には食道がんになり、58歳の若さで亡くなりました。

唯物的な医学ですが、近年になり精神が肉体に及ぼす影響を認めるようになったので、病気になった原因を、事故当時のストレスと片付けるかもしれません。

そうではなく、内部で激しい葛藤が起きて、表現できない思念が蓄積したために病気になったと私は考えています。



思念はエネルギーです。

霊的な自我から生じた強い思念が、地上的な自我に遮られて表現できずに内部に滞り、それが閾値を超えると、因果律の働きによって肉体を変化させるエネルギーになることがあると考えています。

先程の原発の所長は極端な例かもしれませんが、社会のために貢献したいと思っている人が、自社の利益しか考えない会社で働いていると、体調を崩したり、病気になることは良くあると考えられます。

もし私が公務員になって保健所に配属され、動物たちを殺処分するガス室のボタンを押す仕事を任されたとしたら、きっと病んでしまうでしょう。

現代社会において、本当の自分(霊的な自我)の想いに忠実に生きられずに病気になる人は少なくないと考えています。



地上の人生には、学び成長するための計画があります。

誰かのために何かをしたり、困難や障害を乗り越えようとするのは、霊的な自我の働きによるものです。

一方、お金を儲けて贅沢に暮らそうとしたり、安楽な方向に進もうとするのは、地上的な自我の働きによるものです。

地上的な自我の働きが強くなり過ぎてしまうと、生まれる前に立てられた計画から逸れて、学びや成長とは関係のないことに貴重な地上の時間を費やしてしまう可能性があります。



ガンになり医者から見放された人の中に、医学的に説明のつかない治癒をした人たちがいます。

その人たちに共通しているのは、今までの生き方や考え方が根本から変わったことです。



病気は自然現象です。

偶然はなく、そこには自然法則の働きがあります。

神の意図が、病気に隠されていると思います。



病気により、肉体は苦痛を味わい、精神は追い詰められます。

そして、それまで眠っていた魂が目覚めます。

地上的な自我に代わって霊的な自我が主導権を握り、計画されていた人生を再び歩み始めます。

病気が消滅したのは、本来の姿を取り戻したからです。

本当の自分の想いに気付かせてくれた病気に、心から感謝している人も多くいます。



神の心は愛です。

人を苦しめたり痛めつけたりするためではなく、自然法則の働きを学び、成長する方向へと導くために、病気は創られたと考えられます。





2024年8月18日日曜日

残された人のために生まれて来た子


以前、読んだブログが心に残っています。

そこには、生まれてから十数分で、お母さんの胸で息を引き取った赤ちゃんのことが書かれていました。

長くは生きられないことを、そのお母さんは承知していました。

どんな気持ちで我が子を産んで、そして看取ったのか、想像もつきません。



生まれて直ぐに死んでしまうのであれば、こう思う人も少なくないでしょう。

「この子は何のために生まれて来たのだろう?」



死に偶然はありません。

100歳を超えて亡くなるのも、生まれて十数分で亡くなるのも、その人の寿命です。

この世での目的を果たした時に、寿命が訪れます。



私たちは、学び成長するためこの世に生まれて来ています。

そのために、この世でしかできない経験をしています。

十数分しか生きられなかったのであれば、この世での経験はほとんどありません。

学ぶことも、成長することもできなかったことになります。



生れて来たことに意味はなかったと、そのお母さんは思えるはずもありません。

どうにかして、生まれて来た意味を見つけようとするでしょう。

悲しみ、苦しみ抜いた末に、ある結論に行きつくかもしれません。

「自分の成長のためではなく、残された人の成長のために生まれて来た。」



子供を失うのは、最も過酷な試練の1つに違いありません。

そのつらさは、経験した人でなければ分かりません。

もし、あの世で生きているとしたら、つらいこの世に別れを告げて、会いに行きたい衝動に駆られる人は少なくないでしょう。



けれども、どうしてもそれができません。

その理由は、あの世に帰ってから、はっきりと分かります。

衝動を抑えて、この世を生き抜くと、生れる前の自分が誓っていたのかもしれません。

生きる意味を見失いながらこの世を生きることが、生まれて来た目的の1つなのかもしれません。



赤ちゃんが母体に宿るのは自然現象です。

偶然ではなく、自然法則の働きによるものです。

自然法則の働きは、神の御業であり、そこに失敗や欠陥が入る余地はありません。

従って、耐えられない魂に、赤ちゃんが宿ることありません。

親子になれたのは、耐えられる魂だったからです。



この世で学び成長する必要の少ない人ほど、早く逝くと感じています。

お母さんの胸に抱かれながら、十数分で逝った赤ちゃんは、極めて成長した魂である可能性が高いと考えられます。

自分との別れを通して、大きく成長するであろう魂を、親として選んだと考えられます。

また、格段の成長を願って、この世で親子となり早く別れる人生を選んだ似通った魂もいると思います。



もしそうならば、長く生きられなかったと嘆いたり、自分を責めたりするのは全くの見当違いです。

明確な目的があったので、哀れむ必要もありません。



親は、我が子の健やかな成長を願っています。

早く逝った子は、親の霊的な成長を願いながら見守っています。

高い愛がなければ、お母さんに宿ることも、早く逝くこともできません。

限られた時間の中で、眩しいほどの愛を放っていたはずです。

死によって両者の関係性が失われることはありません。

これからも、目に見えない愛に包まれながら、生きて行くことになります。




平坦な道から、きつい坂道に変わってしまいました。

坂道は続くでしょう。


果てしなく続くと思われた坂道ですが、終わりになる時が来ます。

坂道が終わった瞬間、視界が広がります。

そこで、片時も忘れることのなかった、あの時のままの子と再会するでしょう。


ふと周りを見ると、きつい坂道を長い間歩いて来た分、高みに導かれていたことに気付きます。

平坦な道を歩いて来た人とは違う景色を見ることになります。


それまでの苦しい道のりが、魂の学びや成長として報われていたのを知り、時に恨むこともあった神に深く感謝するでしょう。

もう、悲しい別れを経験する必要はありません。







2024年8月11日日曜日

神性でつながっている



小学校低学年の時、道端でないていた子猫を、家に連れて帰ったことがあります。

直ぐに母親に見つかり、元いた場所に帰して来なさいと言われました。

しょうがなく元の場所に置いて来ましたが、しばらくするとその子猫は家に戻って来てしまいました。

どうしても飼えなかったので、自転車に乗せて隣町まで行き、後ろめたさを感じながら置いて帰った覚えがあります。



可哀想に思えたのも、後ろめたさを感じたのも、子供心に良心があったからです。

そもそも良心とは何でしょうか?

誰かに教えてもらったわけではありません。

生まれながらに備わっているものです。



地上の人間は、「肉体」「精神」「魂(霊)」から成り立っています。

魂(霊)から生じた意念は、精神を介して、肉体によって表現されています。

魂と肉体の間に形成された精神(自我)からは、感情や欲求が生じています。



生まれながらに備わっているものに「本能」と呼ばれるものがあります。

肉体と最も密接に関係した精神的な欲求が本能と言えます。

身に危険が迫ったら、回避しようとするのは、自己防衛本能と呼ばれるものです。



「神の御国はあなた方の中にある」

イエス・キリストはこう言いましたが、私たちの魂には神が宿っています。

神性が、良心という形で顕現しています。



ほとんどの人は、自分の神性を意識せずに生きていますが、ふとしたきっかけで表に出て来ます。

20数年前、駅のホームから転落した人を助けようとして、2人の青年が亡くなりました。

身の危険を冒してまで助けようとしたのは、神性が顕現したからです。

人を助けようとする神性と、自分を守ろうとする(自己防衛)本能は、相反する働きをしていますが、神性が優ったのです。

自己防衛本能から生まれる死の恐怖は、神性(愛)により駆逐されたと考えられます。



子供の時、我が儘な言動ばかりをしていると、友達から仲間外れにされます。

我が儘な言動に対して、友達の神性が反応しています。

人の言動が、自然法則の働きに反しているかどうかを神性は瞬間的に判断し、そのような行動が取られると考えられます。



成長に関わる局面においても、神性は表に出て来ます。

成長を妨げてしまうような、悪い(法則に反した)行いをしようとすると、言語を超えた抑制する力が働いて、押し留められる時があります。

その力の中に、神の心を感じることができます。

私たちは成長する方向へと導かれているのです。



神性の真髄は愛です。

シルバーバーチの霊訓には「霊的成長は思いやりの心、寛容の精神、同情心、愛、無私の行為、そして仕事を立派に仕上げることを通して得られます。言いかえれば内部の神性が日常生活において発揮されてはじめて成長するのです。」と書かれています。

誰かのために何かをすることで成長が得られます。

寛容の精神は、他者を認め、許すことにより発揮されますが、その行為は間接的に他者に愛を表現していると考えられます。

多くの仕事は社会奉仕や貢献につながっていて、困難や障害を伴うものが少なくないので、それを仕上げ(乗り越え)ようとする中で、神性が発揮されると思います。



シルバーバーチはこうも言っています。

「あなたの奥にはいわゆる”神“の属性である莫大なエネルギーの全てを未熟な形、あるいはミニチュアの形、つまり小宇宙の形で秘めているのです。その秘められた神性を開発しそれを原動力とすれば、心配も不安も悩みも立ちどころに消えてしまいます。なぜなら、この世に自分の力で克服できないものは何1つ起きないことを悟るからです。その悟りを得ることこそあなた方の務めなのです。それは容易なことではありません。」

神的エネルギーによって、宇宙は創られています。

そして、同じ神的エネルギーによって、私たちは生かされています。

宇宙全体から見れば、私たちは極小の存在です。

しかしながら、全体を構成する一部に変わりありません。

同じ神的エネルギーによって、全体とつながっています。

そして、無尽蔵にある神的エネルギーを全体から受けることができるので、克服できないことはないと解釈しています。



私はヒーリングを行います。

エネルギーが流入し、外部に放たれて行くのがはっきりと分かります。

全体からエネルギーを受け取ることなしに、ヒーリングは成立しません。



全ての人(生命)も同じです。

意識できなくても、全体からエネルギーを受け取っています。

そのエネルギーによって、生命活動が営まれています。



今、オリンピックが行われています。

メダルを取った選手がインタビューで良く口にする言葉があります。

それは「自分を信じて頑張った」です。

自分を信じるのは、自分の神性を信じることに通じています。

たとえ神を信じていなくても、自分を強く信じることによって、全体からより多くのエネルギーを受け取り、想像以上の力を出せることがあります。



私たちは1人で生きていると思っています。

それは肉体(物質)的次元の話です。

霊的次元では、同じエネルギーが流れることによって、全生命はつながっています。



死んで霊界に行くと肉体が見えなくなります。

それまで分からなかった霊的なつながりが、はっきりと分かるようになります。



個は全体に包み込まれています。

個は全体の一部として、他の個を包み込んでいます。



全体に心(意識)が存在していることを実感します。

その心を、より発揮できるようになるために生きていることを思い出します。



いざ地上に生まれてしまうと、霊的な眼が閉ざされ、物質しか目に映らなくなり、それが分からなくなります。

だからこそ、私たちは霊的な存在であり、同じ神性でつながり一体であると、強く信じる必要があります。

信じることで、神的エネルギーの恩恵に与ることができます。

生きる不安や心配が和らぎ、力強く生きて行くことができるはずです。





2024年8月4日日曜日

信じることは愛すること


死を不幸だと思っている人はたくさんいます。

少なくても、死んだ人にとって不幸ではありません。



死後も、変わりなく意識は存続しています。

そこで新たな生活が始まります。



その世界では、生きるために働く必要がありません。

人間関係で苦労することもありません。

それだけでも、地上より快適な世界であることが窺えます。



死を不幸だと思っている人は、亡くなった人のことをこう言います。

「まだやりたいことがあっただろう。可哀想に。」



霊界にいるシルバーバーチはこう言っています。

「霊の本来の探求心を心ゆくまで満足できるようになった人をなぜ悼むのでしょう。」

さまざまな制約があり、やりたいことができないのが地上です。

心ゆくまでできるのなら、これほど幸せなことはありません。



発想の転換が必要です。

死んだ後の世界こそ、本来の住処です。

その世界において、自分の役割りを果たすのに必要な資質を身に付けるために、この世に生まれて、さまざまな経験をしています。

死は、目的を果たした人が、元いた世界に戻る自然現象です。



死んで、想いが変わるはずがありません。

地上の人の想いが知れるようになるので、愛しさはむしろ強くなっていると考えられます。



愛しさにより、魂は引き付けられます。

傍に寄り添うのは自然の成り行きです。

残念ながら、地上の人にその様子は全く見えません。



薄ぼんやりとでも、寄り添っている姿が見えたのなら、地上の人は安心するでしょう。

けれども、話しかけても、声帯は失われているために、返答はありません。

抱きしめようとしても、両腕は身体を素通りしてしまいます。

余りのもどかしさに、いっそのこと向こう行ってしまおうと考える人もいるでしょう。

自ら行ってしまうのは自然法則の働きに反しています。

会えなくなるのも知らずに行ってしまう過ちを犯さないために、神の配慮により分からないようになっていると考えられます。



存在が判り、話しができるのであれば、別れの意味は希薄になります。

深い悲しみや孤独を味わうことで、魂が目覚めます。

目覚めた魂が、大切な教訓を学んでいます。

その教訓は、向こうに持って行ける霊的な財産となります。



肉体がなくなっても生きているのは、私にとって揺るぎのない事実ですが、客観的に証明することはできません。

確かな能力のある霊媒の元に行けば得心できるでしょうが、その機会に恵まれなければ信じるしかありません。



地上にいる人と、向こうにいる人の違いは、肉体があるかないかだけです。

人の本質は魂です。

信じることによって、地上にいる魂と向こうにいる魂はつながることができます。

つながれば、想いを受け取ることもできます。

ふと心の中に思い浮かんで来たものがあれば、それは伝わって来た想い(インスピレーション)かもしれません。

どうぞ、気のせいにしないで下さい。



信じることができれば、愛し合うことができます。

愛せない苦しみから解放されます。

愛されていないという錯覚からも解放されます。



地上に生きている人を愛するのと、向こうにいる人を愛するのでは、どう違うのでしょうか?

目の前にいるのなら、存在を信じる必要はありません。

言葉や行動によって、想いを窺い知ることができ、想いを伝えることもできます。



向こうにいる人は、五感に触れません。

五感に触れなければ、どうしても頭で存在していないと考えてしまいます。

存在を否定するのを、信じようとする意志によって打ち消す必要があります。



信じようとする意志は、向こうにいる人にとって、愛されているように感じられます。

その上で、想いを向けてもらえれば、地上にいた時よりも愛されていると感じるでしょう。



その想いに応えて、地上の人を導いてくれます。

導くことは、地上にいる人への愛情表現です。



いつの日か、向こうに行く時が来ます。

不公平や不公正が存在していないことに気付きます。

愛を学び、成長するために、無限の叡智によって計画されていたことを知ります。

次元の違いを乗り越えて、信じ続けたことは、深い愛で結ばれることによって、完全に報われています。



心に残った記事がありました。

ある男性に「死ぬ時に持って行けるものが1つあるとすれば、何を持って行きますか?」と聞きました。

その男性は「花束」と言いました。

「なぜ花束なのですか?」と尋ねると、「先に逝った妻と久しぶりに会うから」と答えました。

その男性は信じているのでしょう。

向こうにいる奥さんは、信じてもらえていることが、何よりうれしいのに決まっています。