2020年9月27日日曜日

死によって失われないもの

 




人は言葉によって、コミュニケーションをしています。

言葉(文字)から受ける印象は、大きなものがあります。

「生」と言う漢字は、植物や木が地上に生じてきた様子を表しているそうです。



「死」はどうでしょう。

漢字の由来は、左側の「歹」が骨、右側の「ㇶ」が人の意味があるそうです。

人が骨になる説と、骨の前で人が弔っている様子を表している説があるようです。

そんな成り立ちがあるからでしょうか、正直なところ、この漢字から受ける印象は良くありません。

暗くて、終わりの様なイメージしか湧いて来ません。




それでは、「死ぬ」に代わる言葉として、何が適切でしょうか?

「亡くなる」は、無くなるに通じてしまうので、あまり良くありません。

「他界」は妥当です。

「旅立ち」も良いと思います。

死とは次の世界に移行する現象です。

行先は明るく自由な世界なのですから、暗さを感じさせる言葉は相応しくありません。




「死別」はどうでしょう?

どうもしっくりと来ません。

肉体はなくなり、視えなくなってしまうのは事実ですが、両者が思い合っていれば、別れることはないからです。




親しい人が、遠い国に行ったとします。

どんなに離れていても、電話やメールをすれば、コミュニケーションは取れます。

しかし、死んでしまうと、いかなる通信手段をもってしても、コミュニケーションは取れなくなります。

そのことで、死は永遠の別れと思ってしまう人がいます。




ところで、別れとはどんな時のことを指すのでしょうか?

信じていた人に裏切られて、袂を分かったとしたら、その時は別れです。

真の別れとは、心が離れてしまうことです。

たとえ傍にいたとしても、心が離れていれば、別れているのです。




では、思い合っている人が死んでしまったらどうでしょう?

肉体はなくなりますが、心はそのままです。

心が離れてしまったわけではないので、別れでも何でもありません。

生前と同じように、心はつながっているのです。




向こうに行った人は、「死」をどの様に感じていたのでしょうか?

肉体を失うことで、地上にいる時と状況が大きく変わったことに戸惑っていたでしょう。

意識があり、記憶もあり、性格も変わらずに居るのに、地上の人に骨になってしまったと思われています。

居ることを伝えたいのに、どうしても伝えられません。

そんことなど知らずに、地上の人はただ悲しむばかりです。




真実は2つに1つです。

死んで無になるのか、それとも生き続けるか、そのどちらかです。

どちらも決定的な証拠はありません。

白黒はっきりしないところに、神の意図が隠されていると思います。




無になるとしたら、生きている意味を見い出せません。

人生はうたかたの夢幻です。

どうせ無になるのなら、楽しいことだけをして、苦しいことは逃げてしまえば良いはずです。

人のことなど、どうでも良いはずです。




しかし、苦しくても逃げ出したくはありません。

人のために何かをしたいと言う気持ちもあります。

それは、生まれて来た目的と深く関わっていることであり、無にならないことを、心の奥にいる本当の自分(魂)が知っているためと考えられます。




無になるのなら、地上の人がどう思っていようと関係ありません。

生きているとしたらどうでしょう?

信じてもらいたい人に、存在を信じてもらえないのは、つらくないわけがありません。

いないことにされてしまったと、嘆き悲しんでいるでしょう。

もし死んだ人のことを思うのであれば、たとえ姿が視えなくなり、確証が得られなかったとしても、生きていると信じるべきです。




当たり前の話ですが、電球の明かりは、電気が流れて点きます。

明かり本質は、電球ではなく電気です。

しかし、電気は目に視えず、実体もありません。

電線を触ってビリっと来た瞬間、何かが流れているのが判り、電気の存在を実感します。




愛もそうです。

愛も目に視えず、実体もありません。

それでも、ほとんどの人が信じています。

その理由は、愛を実感したことがあるからです。




愛を実感しているのが、魂です。

そして、愛が生まれるのも魂です。

肉体は物質的次元の存在ですが、魂は霊的次元の存在です。

肉体は荼毘に付されて消滅しても、魂は不滅なため、愛は変わらずに存在しています。

愛の存在を信じられる人ならば、魂の存在も信じられるはずです。




魂を引き付ける力が愛です。

愛によって魂が引き付けられるので、傍にいるのです。

愛し合う者同士に別れはありません。

「死別」は誤りです。




人生にはシナリオがあります。

けれども、全く判らないようになっています。

一寸先は闇です。

出来事は何の前触れもなく起こります。




それが、死の場合もあります。

最愛の人の死であれば、これだけは起きて欲しくなかった出来事に違いありません。

変えようのない現実を前にして、全てが失われてしまったと思う人もいます。




肉体は失われましたが、霊的なつながりが失われることはありません。

両者の関係はそのままです。

愛されていた人は、引き続き愛されています。

けれども、想いを表現する肉体がもうないので、地上の人にどうしても伝えられません。




今、あるのは魂だけです。

1つだけ伝える手段が残されています。

それは、地上の人の魂に、自分の想いを吹き込んで伝えることです。




鍵を握っているのは、地上の人です。

魂の存在を否定したならば、自分の存在も否定されてしまいます。

せっかく想いを吹き込んでも、気のせいとして受け流されてしまいます。

そんな虚しい努力が、いたるところで、どれ位繰り返されているのか判りません。

声を聴きたくても聴けない地上の人の悲しみは、想いを伝えたくても伝えられない霊界にいる人の悲しみの裏返しなのかもしれません。

お互いに、涙を流しています。




神はわずかですが、地上と霊界のつながりを残してくれています。

信じてもらえれば、存在が肯定され、想いを伝えられる可能性が残されます。




人間は肉体を携えた霊的な存在です。

五感が圧倒的に優位になっている地上では気付きにくいのですが、元々備わっている霊的な能力があります。

その能力が発揮されれば、言葉を超えたコミュニケーションは可能です。




目に視えず、確証もないけれど、それでも信じられる人を神は祝福します。

次元を超えてつながることが許されます。

地上の人が条件さえ整えてくれれば、霊的につながれるのです。
          
変わらずに愛されていると、素直に信じて下さい。

信じることでリンクが張られ、そのリンクを通して伝わって来る幽(かす)かな想いを感じ取れる日が、きっと訪れると思います。




参考ページ:「亡くなった愛する人とつながる」





2020年9月20日日曜日

不安のメカニズム



世界中で猛威を振るっている新型コロナウイルスですが、これまでに3000万人を超える人が感染し、死亡者数は100万人に迫る勢いです。

多くの人は、この未知のウィルスに感染したらどうしよう、運が悪ければ死んでしまうかもしれないと怖れを感じています。

喉が痛かったり、咳が出たりすると、もしかしたらと不安になってしまいます。




これまでの人生でも、いろいろな局面で不安を感じていたと思います。

試験に落ちたらどうしよう、仕事で失敗をしたらどうしよう、悪い病気ではないのか等々、小さいものを含めれば、大変な数になるでしょう。




不安が生じると、心が落ち着かず、不安定になります。

穏やかさが失われて、一種の苦しみのようなものを感じます。

少しでも早く、解消したいと思います。




私たちは、過去から未来に向かって生きています。

過去を悔やむことはありますが、過ぎ去ったものに不安を感じることはありません。

今から起きること、未来に対してのみ、不安が生じます。




例えば病気です。

苦痛を感じていれば、ずっと続くのかと思うと穏やかな気持ちではいられません。

この先、どうなるのだろうかと不安になります。




隕石が、1年後に地球に衝突するとします。

ほとんどの人は大きな不安を感じるでしょう。

しかし、感じていない人もいます。

当たり前の話ですが、そのことを知らない人、あるいは動物たちは感じません。

先のことを考えなければ、不安にはならないのです。




不安は、大脳での思考の副産物です。

あれこれと考え、先を予測してしまうことで生じてしまいます。

未来を予測する能力がある者にだけに、不安は生じます。




しかしながら、不安に実体はありません。

精神上に作られたものだからです。

もし、何も考えていなければ存在しないからです。




けれども、何も考えていないのに、漠然とした不安を感じることがあります。

それは、過去に生じていた何かしらの思念(想い)が、時を経て、不安と言う形になって表に出て来ているせいかもしれません。

あるいは、不安を生じさせる思念を、他者から受け取っていたせいかもしれません。




今を生きるのが大切と良く言われます。

それは、先のことをあれこれ考えないで済むからです。

不安が生じずに、自分の持てる力が出せるという意味があると考えられます。




それでは、恐怖や不安はどんな弊害があるのでしょうか?

「恐怖心と心配の念は、私たちが特に不断の警戒を要する敵です。なんとなれば、それが霊力が作用する通路を塞いでしまうからです。」

また「恐怖心、信念の欠如、懐疑の念は、せっかくの霊的雰囲気をかき乱します。私たち霊は信念と平静の雰囲気の中において初めて人間と接触できるのです。恐れ、疑惑、心配、不安、こうした邪念は私ども霊界の者が人間に近づく唯一の道を閉ざしてしまいます。」とシルバーバーチは言っています。




恐れや不安は、生まれた後に私たちの精神上に形成される、地上的な自我の働きによって生じると考えられます。

自我は、自分を脅かそうとするものから、自分を守ろうとして活動しています。

脅かす可能性があるものを脳が認識して、先を予測してしまうと不安が生じます。




私たちには、顕在意識である地上的な自我の他に、潜在意識である本当の自分とも言える「霊的な自我」が存在します。

いわゆる「魂」です。

地上的な自我は、霊的な自我を表現するためにある地上の媒体であり、本来は協調的に働いています。

しかし、霊的な自我と地上の自我の両者の働きが拮抗する時があります。

自分を脅かすものに対して不安が生じ、そのために自我の働きが強くなり、相対的に霊的な自我の働きが弱くなります。




霊的な自我が活動している時は、意識は外に向かっています。

その逆に、地上的な自我の働きが強くなると、意識は内に向かいます。

言い方を変えると、霊的な自我は全体を意識し、地上的な自我は個(自己)を意識しています。

従って、大きな不安に襲われた時には、自分のことで頭が一杯になり、周りのことは目に入らなくなります。




前に進んで行こうとする力、乗り越えて行こうとする力は、どこから生まれて来るのでしょうか?

その力は生きる力であり、霊的な力です。

私たちの中に存在している神から湧き上がって来ます。

不安が大きくなり、霊的な自我の働きが弱くなってしまうと、生きる力も湧き上がって来なくなってしまいます。




不安が生じ地上的な自我の働きが強くなると、それがバリアのように魂を取り囲んでしまいます。

そうすると、背後にいる霊との接触が妨げられます。

インスピレーションによる導きを受けられなくなり、地上の人に向けられた励ましや勇気付けの思念の力も伝わり難くなってしまいます。




私たちは意識していませんが、内と外から生命力とも言える霊的な力を受け取りながら、この世を生きています。

恐怖や不安や心配や取り越し苦労などの念は、地上的な自我の働きを強めてしまうために、霊的な力を受け取る際の大きな障壁となります。




それでは、どうすれば良いのでしょうか?

試験の前に、不安を極力少なくするためには、ひたすら勉強をするしかありません。

まず、不安を解消するための、地上的な努力をしなければいけません。

今を精一杯生きます。




それでも、解消しない時には、霊的な自我の働きを強めるようにします。

そのために、自らの意志によって、自分の中にいる神とのつながりを深める必要があります。

「自分の中には神が存在し、今起きている出来事を乗り越えて行く力が秘められている。」
気持ちを込めて、心の中で唱えます。

そして、背後にいる霊とのつながりを強めるようにします。

「自分には守り導いている存在が付いて、援助の力を授かっている。」

そう強く信じて下さい。




この能動的な行為により、内(神)と外(背後霊)のつながりが強化され、それに伴い霊的
自我の働きが強くなります。

相対的に地上的な自我の働きは弱められ、不安は和らいで来るはずです。




内と外から伝わって来る霊的な力は、愛を帯びています。

両者とのつながりが強くなると、愛を帯びた霊力が流れ込むことで心は安定し、自信に満ちた心境になります。




1つだけ条件があります。

それは、神の存在、霊界の存在を信じていることです。

心から信じていなければ、強くつながることは出来ません。




自分の経験や実績から、自信は生まれるものだと考えていました。

しかし、経験や実績がなくても、自分を信じることさえ出来れば、自信は生まれます。

自分を信じるとは、自分の中にいる神を信じることです。

守り導いている存在を信じることです。

両者のつながりが深くなり、霊力に満たされた状態が、自信の実体と考えられます。




あらゆる出来事は、自然法則の働きによって起きています。

その法則が創造された目的は、生命を向上進化させるためです。

苦難を乗り越える過程で、自然法則の働きにより、魂は向上して行きます。

どんなに絶望的に思えても、最終的には乗り越えて行けるのは、全ての事象は私たちを向上進化させるために起きているからです。

起きることの全てに、神の愛が行き渡っていることを得心できたのならば、不安は生じません。





神の法則の働きに絶対的な信頼を置けたのなら、不安は生じないはずです。

シルバーバーチはこう言っています。

「その秘められた神性を開発しそれを生活の原動力とすれば、心配も不安も悩みも立ちどころに消えてしまいます。なぜなら、この世に自分の力で克服できないものは何一つ起きないことを悟るからです。その悟りを得ることこそあなた方の勤めなのです。それは容易なことではありません。」




真っ暗闇の中に、ただ1人置かれたとしたら、不安になってしまいます。

神とは光りです。

不安や恐怖という心の闇を創ったのは、自らの中に光を見い出すためではないでしょうか。




自らの中に神がいます。

常に守り導かれています。

そのことを信じ、強く意識すれば、精神が霊(魂)の支配下に置かれ、不安は和らぎます。

霊は精神に優るのです。





2020年9月13日日曜日

死の後に起きること



最近は、コロナウィルスの流行で旅行に出かける人も、めっきり少なくなりました。

旅行に出かける前に、多くの人は雑誌やインターネットで目的地の情報を入手します。

そうすることで、事前に計画が立てられ、安心して旅行が楽しめるからです。





全ての人は、片道切符を持って旅立ちます。

行先は、あの世です。

全員行くのが決まっているのに、行った先のことを知っている人は、意外と少ないようです。

旅行と同じで、事前に正しい情報を持っているのに越したことはありません。

その理由は、死んだ後に迷わないばかりではありません。

死の後に起きることを知っていれば、この世の生き方が望ましい方向に変わって来るからです。




死ぬ年齢も、原因も、人それぞれ違います。

しかし、起きる現象は皆、同じです。

死とは、肉体から魂(霊)が永続的に分離する自然現象です。




多くの人は、病気で死にます。

その時に、呼吸が苦しそうで、顔を歪めている人が多いのですが、本人は傍で見ているほど苦しくないようです。

自然法則に適った生活をしていると、苦しまずに死ねるようです。




死ぬと肉体は、全く動かなくなり、次第に冷たくなります。

その現象は、生命の本質である魂が抜け出した瞬間から始まります。

それまで肉体に生気を与えていたのは魂なのです。




一時的なブラックアウト(意識消失)の後、自分の肉体の近くに佇んでいるようです。

動かなくなった自分の肉体の傍で、涙を流して悲しんでいる人がいて、それを傍観しています。

ふと周囲に目をやると、昔、親愛の想いを寄せて、既に亡くなった人たちがいるのに気付きます。

しばらくの間、再会の悦びに浸りますが、その時に自分に何が起きたのかを理解する人もいるでしょう。

生気を失った自分の身体が、棺の中に入れられますが、まだ身体に愛着があるので傍に付いています。

しばらくすると、お坊さんが来てお経を読み始めます。

そして、親交のあった人たちがやって来て、自分の遺影に手を合わせて、焼香している姿が見えます。

自分の葬儀が行われているので、本当に死んでしまったと自覚します。

死後のことを知らなくても、客観的な状況から、自分がこの世にいないことを、少しずつ理解して行きます。

荼毘に付され、もう元に戻れないことを悟ります。




死は、さなぎから羽化して飛び立つ蝶に例えられます。

物理的な制約から解放され、自由度が飛躍的に増すからです。

親愛の想いを抱いていた人は、どうしているのだろうと気になった瞬間、その人の元に移動していることに驚きます。

涙を流していれば、そっと寄り添い、傍にいること知らせようとします。

ところが、その声は届かず、触れようとしても、自分の手が素通りしてしまいます。

全く気付いてもらえないことに、愕然とします。

それでも、何かの気配を感じている人もいるようです。

地上の人は五感が優位になっていますが、霊的な感覚も備わっているからです。

しばらくは、この世に関心が向いています。

親交のあった人、思い出の場所など、愛着を感じるところに赴きます。




あの世(幽界)は、この世に似ています。

肉体はもうないはずなのに、呼吸もしていて、食欲もあります。

景色もそっくりです。

そのために、死んだことに気付かない人たちがいます。

似ているのは、新しい環境に戸惑わないための神の配慮と言われています。




あの世は思念の世界です。

想ったことが、立ちどころに具現化します。

肉体を駆使して具現化しなければならないこの世が、いかに煩わしい世界だったのかを実感します。

そんな世界を離れて、自由で快適な世界にいることに喜びを感じます。




願望がそのまま具現化される現象には驚かされます。

眠りたいと思えば、目の前にベッドが現れるのです。

食べたいと思えば、食べたい物が直ぐに現れるのです。

たくさんのお金が欲しい人は、目の前に山のようなお金が現れるので、大いに喜んでいます。

しかし、全く価値を持たないものに喜んでいる姿は、周囲の人に滑稽に映っています。




肉体はもうありません。

そのために、魂(想い)が露わになり、本当の自分が周囲に知られてしまっています。

偽善者はいようがなくなり、表裏も存在しません。

心が素っ裸にされたような感覚です。

恥ずかしい思いをしないために、もっと自分の内面と向かい合っていれば良かったと反省する人もいます。




人は、後悔しないよう、恥じることのないように生きようとしています。

それは、この世の人生を総括する時が訪れることを、魂が知っているからなのかもしれません。

目の前にスクリーンのようなものが現れ、人生が映し出されています。

記憶から忘れ去られていたことも、魂にはしっかりと刻まれています。

あの時はこう思ってこうした、動機までも含めて、この世の全人生を振り返ることになります。




悔やむことがありました。

それは、神の摂理に反する行いをしたことです。

人を欺いたり、傷つけたり、良心に逆らって行動していたことが悔やまれます。




もう1つあります。

成長の機会を逃したことに気付いた時です。

与えられた奉仕の機会を逃したこと、困難や障害から逃げてしまったこと、そんな行動を取ってしまったことが悔やまれます。




悦ぶ時もあります。

人や動物や社会のために、頑張っている自分の姿を見つけた時です。

自分の行いによって、喜びをもたらしていたのを知った時です。

挫けそうになりながらも、起きた出来事を必死に乗り越えて行った自分の姿を見つけた時です。




大切なことが、徐々に判って来ます。

楽しい時ではなく、むしろ苦しい時に、人生の意義があったことを。

苦難を乗り越えようとする中で、魂は成長することを。

この世に生まれたのは、自分(魂)を成長させるためであり、人生に計画があったことを。




後悔が大きいので、もう1度この世に生まれ、想いを晴らしたいと思う人がいます。

過ちを犯して、その償いのために、もう1度この世に生まれなければならない人もいます。

自分の人生は、自分で決められます。

その代わり、責任も取らなければなりません。

そのことを知っていたのなら、人生は違ったものになったかもしれません。

こうすれば良かった、あんなことをしなければ良かったと、悔やむことはずっと少なくなったでしょう。










それからどれ位経ったのでしょうか、本来の住処(霊界)に戻る時が訪れます。

そこには、自分と良く似た人たちがいて、帰るのを待っていました。

自然法則の働きによって、親(ちか)しい魂が集まるようになっているようです。

同じ想い、同じ意識が共有されています。

そこでは、この世から持ち帰った経験や叡智が活かされるようです。

凡例を挙げてみます。

私は歯医者をしています。

霊界では肉体はないので、歯医者はいません。

地上では生活して行くために働いていますが、同時に患者さんの健康を取り戻すためでもあります。

それを続けているうちに、他者に奉仕することに、少しずつ慣れて来ています。

人や社会のために働かないと食べていけないのが地上です。

肉体がない霊界では、食べるために働く必要はなくなり、純粋な奉仕活動になります。

地上時代に働くのは、霊界に行った時に、ごく自然に奉仕活動が出来るようになるためであり、そのための準備をしているようです。




考え方や価値観の違う人たちと共に生きるのが地上です。

上手くやって行くためには、協調性を身に付けなければいけません。

時に、自分を犠牲にすることも必要でしょう。

いさかいが起きないために、認め合い、許し合わなければいけません。

そんな経験をする中で、多くのことを学び、魂が向上して行きます。

1つの魂が霊界に持ち込んだ叡智により、全体にさらなる調和が生まれるようです。




争いはありません。

無用な苦しみや悲しみが生じることもありません。

自分と似たような人たちしかいないので、それは当然です。










穏やかな生活が、どれ位続いたのでしょうか。

全体のために、もっと役に立ちたいと思う気持ちが芽生えます。

そのためには、今の自分にはない資質を身に付けなければいけません。




資質を身に付けるのは、自分のためではありません。

全体のために活かすためです。

生きる目的は、全体のために自分を活かすことです。

活かすことで自分が成長しているのが、霊界では良く判ります。




自分をもっと成長させたくなります。

新たな資質を身に付けるためには、苦しみや悲しみのない今の快適な環境にいるよりも、困難や障害の多い地上に降りて様々な経験した方が、はるかに効率的です。




目的が決まったら、神に祈ります。

祈りは届き、目的を成就させるための、地上の人生が提示されます。

それは過酷な人生に映りました。

しかし、無限の叡智である神によって勘案されているので、乗り越えられることは保障されています。

提示された人生を了承します。

そして、地上で最適な母体を選んで、受胎の瞬間に入り込みます。

肝心の目的をすっかり忘れてしまうので、生涯に渡って守り導く人(守護霊)が付けられます。




霊界の人たちにとって、地上への再生は死に相当するようです。

涙を流しながら見送っている人もいます。

ただ、地上の別れの悲しみとは少し違います。

成長して、再び戻って来るのが判っているからです。




死とは、新たな環境に生まれることです。

生と死を繰り返しながら、人は向上進化して行くように定められています。




全ての事象は、自然法則の働きにより起きています。

どん底に落とされるような経験は、実は高みに導くためだったことを、死んだ後に知ります。

真実を知った時、大いなる存在を如実に感じ、思わず感謝するでしょう。



2020年9月6日日曜日

自分の中に神がいる



少し前まで、私は神の存在を信じてはいませんでした。

正確には、存在しても、していなくても、生きて行く上で関係がないので、どうでも良いと思っていました。

目に視える現実が全てでした。




神の存在を信じている人は、世の中にたくさんいます。

そんな人の中には、高いところから地上を見下ろし、監視しているような存在だと考えている人もいるでしょう。

また、悪いことをしたら罰を与えられ、信じていないと天国に行けないと思っている人もいると思います。




神は自然法則として顕現しています。

自然法則によって、全宇宙を経綸しています。

法則は神の心の反映です。

神の意志を遂行するために、法則は働いています。




シルバーバーチの霊訓を読み始めて、しばらく理解出来なかったことがあります。

それは、私たちが神の子であると言うことです。

何故なら、神の子である実感が全くなかったからです。

人間とはかけ離れた存在であるように思えました。




宇宙を創造したのは神です。

神的エネルギーにより、宇宙は創られています。

宇宙は偶発的に誕生したのではなく、明確な意図を持って、偉大なる存在によって創造されたのです。




話が変わりますが、人間にはいくつの細胞があるのでしょうか?

何と37兆個もあります。

脳細胞、筋細胞、皮膚細胞など様々な種類がありますが、そのどれもが全身の中で大切な役割りを果たしています。

1つ1つの細胞は小さくても、人間にとって必要なものとして存在しています。





NGC2275

私たち人間は、宇宙の片隅に生きる、限りなく小さな存在です。

しかし、どんなに小さくても、神によって創られた、宇宙を構成する一部には変わりありません。

何かしらの役割りがあって、今、ここに存在しています。




全ての創造物は、神的エネルギーが形を変えたものです。

創造物は、生命体と非生命体の2つに分かれます。

地球上の動物や植物は生命体であり、水や土や岩は非生命体です。




目に視える体は生命体であり、生命そのものは目に視えません。

生命とは物質とは次元の異なるものであり、霊(魂)と便宜的に呼ばれています。

霊(生命)が物質(体)を媒体にして活動をしています。




物的な生物には、意識があるものと、ないものが存在しています。

もちろん、人間は意識があります。

意識の源泉、それが魂です。




魂は霊的(生命)エネルギーの供給を受けながら、全宇宙(神)とつながっています。

私たちは無限大のネットワークの一部です。

しかしながら、地上では五感が優位になり霊的感覚が乏しくなるため、霊的なつながりが認識されにくくなっています。

肉体が失われ、五感が取り払われた次の世界に行くと、はっきりと認識されるようになります。




生命は尊いと言われます。

死んでしまったらお終いと思うからなのでしょうか。

しかしながら、それは事実とは違います。

死とは、肉体と魂の永久的な分離です。

生命自体は失われることなく、次の世界で生き続けます。




魂は永遠不滅です。

侵し難い神聖なものです。

何故かと言えば、そこに神が宿っているからです。

いえ、神そのものと言って良いのかもしれません。

神が宿っているので、生命は尊いものだと感じているのではないでしょうか。




生まれたての赤ちゃんを見て、何か神々しいものを感じます。

それは魂が前面に現れているからだと思います。

赤ちゃんは、少し前まで霊界にいました。

自らの成長のために志願して、最適な母体を選んで、地上に生まれて来ています。

お腹の中にいる期間は、霊的次元から物質次元への移行期間のようなものかもしれません。

霊的次元で生きていた余韻を残している存在です。


フリードリヒ2世(1740~1786年)
神聖ローマ帝国にフリードリヒ2世という君主がいました。

彼は知的好奇心から、想像も付かないような実験を行いました。

捨てられた50人の赤ちゃんを引き取って養育しました。

その時にミルクを与え、お風呂に入れて、おしめは交換しますが、アイコンタクトを含め一切のコミュニケーション、スキンシップを排除すると言うものでした。

結果は悲惨なものでした。

数年以内に、全ての赤ちゃんが死んでしまったそうです。

その理由は、科学的に説明がつきません。

フリードリヒ2世ですが、死後とんでもない過ちを犯したことに気付き、酷く後悔したのは想像に難くありません。




どうして、赤ちゃんは死んでしまったのでしょうか?

生まれる前にいた霊界は、霊的エネルギーで満たされています。

魂(霊体)は、そこから生命エネルギーを補給していると考えられます。

いざ地上に生まれ肉体を持つと、今度は物的エネルギー(食物)が必要になります。

胎内にいる時は、母親から物的エネルギーとオーラから霊的エネルギーの両方が供給されていると考えられます。

そして、生まれたばかりの赤ちゃんも、物的エネルギー(ミルク)だけではなく、引き続き霊的エネルギーを必要としているのかもしれません。

必要としている霊的エネルギーの多くは、愛情と考えられます。

人間から愛情を与えられなかった赤ちゃんは、霊的エネルギーが枯渇してしまい、生きていけなかったのかもしれません。

赤ちゃんでなくても、人は人とのつながりの中で、知らずに霊的エネルギーを与えたり、もらったりしていると思います。

それが生きる力となる時があります。



赤ちゃんを見て可愛いと思うのは、愛情を与えなければ、生きて行けない存在であることを外部に認識させるための神の配慮だと思います。

知らない赤ちゃんであっても、一人で泣いていれば、何とかしなければと衝動に駆られるのは、本能と言うよりも、自分の中にいる神が愛情を与えようとしているからではないでしょうか。

困っている人がいれば、助けてやりたくなるのもそうです。

悪いことをすると心が咎めるのも、自分の中に神がいるからです。




もし、人間の中に神がいないとすれば、どうなるのでしょう。

善悪の判断がつかなくなるでしょう。

人を傷つけたり、殺したりしても、咎めるものはなくなります。

罪を犯しても、後悔も反省もありません。




思いやりも、親切心も、優しさもなくなります。

誰かが死にそうになっていても、関心はありません。

助けを求めている人がいても、放って置きます。

世の中は、無秩序、無関心、利己心が蔓延り、地獄絵の様相を呈するでしょう。




現実はどうでしょうか?

そうではありません。

それは、私たちの中に神が宿っているからです。




もし、それぞれの人や動物に神が宿っているのであれば、傷つけたり、殺したりすることは許されません。

差別はあってはいけないはずです。

生命に優劣はなく、同等の価値があるからです。

全ての人そして動物も、神聖なものとして敬うのが当然ではないでしょうか。



虐待され食肉となる牛

神聖な生命を傷つけようとする行為は、明らかに神の摂理に反しています。

その行為は、同時に自らの神聖なもの(魂)を傷つけていることになります。

因果律の働きによって、相応の苦痛がもたらされて、過ちを償うことになります。




私たちは、全知全能の神ではありません。

自分の中に宿っている神を、少しでも多く表現しようとする、進化の途上にある存在です。

生まれる前にいた霊界では、魂から生じる想いが、ストレートに外部に表現されています。

地上に生まれると、魂から生じる想いは、精神を経由して、肉体で表現されるようになります。

精神上に、地上的な自我(以下自我)が形成されて行きます。

自我は、肉体や外部からの影響を強く受けていて、性質上、自分を守ろうとするため抑制的に働いています。

溺れている人がいても助けられないのは、自我の働きにより、神性の発現が妨げられているからです。

自我に打ち克って、より多くの神性を発現させることが、この世に生まれて来た目的であり、それが魂の成長につながります。

霊界に戻った時に、より一層の神性が発揮されるようになると考えられます。




自分は神であると尊大になるのは論外です。

しかし、自分の中にいる神を意識することで心に安らぎを見い出し、自信を持って生きるのは望ましいことです。

自分の中に神がいるのであれば、怖れるものは何もありません。

遭遇する難局を乗り越えて行く力が、自分の中に秘められているからです。

自分の中にいる神を強く信じて、迷わずに進んで行きましょう。




神は、救いを求めている人の傍に来て、助けてくれるような存在ではありません。

自らの中に神を見い出し、そこから湧き出る力によって、現状を打破することで、結果的に救われると考えられます。




2020年8月30日日曜日

霊的につながっている


小学校の時に、いつも一緒にいる友達から、仲間外れにされたことがあります。

昔のことで、いきさつは良く覚えていませんが、何か怒らせるようなことをしてしまった
のではないかと思います。

近くにいて無視されるのは、とても嫌な経験でした。

しばらくすると元に戻り、ホッとしました。




人と人は、誰かとつながっていないと、不安になる生き物なのかもしれません。

友達はいなくても、家族同士が仲良かったり、また共通の趣味の人がいたり、行きつけの
店で会う人がいたりして、どこかでつながっていると思います。

今は、SNSを通して、つながっている人もたくさんいます。




もし、人間が肉体だけの存在であれば、孤独を感じることはないでしょう。

肉体は元々、別々なのですから。

肉体(大脳)を超えたところで孤独を感じています。




私たちの本質は魂です。

魂は、意識の本体であり、生命そのものです。

個と個は独立していますが、それは肉体の話です。

肉体に宿っている霊は、完全に独立していません。

1つ1つが全体の構成要素であり、関連性を持ってつながっています。



クロード・モネ「積みわら₋夏の終わり」










上の絵のように、様々な色彩の点や線がたくさん集まって、1つの絵画が構成されています。

どんなに小さい点であっても、その場所に必要だったから描かれたのです。

広大な宇宙の中で、1人の人間は限りなく小さな存在です。

けれども、全体の中で何かしらの役割りを担っています。

存在意義のないものが、この宇宙に誕生することはありません。




誰とも接することなく、孤立無縁の様に思えても、霊的にはつながっています。

例えが少々強引かもしれませんが、パソコンやスマホが肉体で、ネット上のIDが魂(霊)と言えるのかもしれません。

精緻で無限大の霊的なネットワークがあり、全ての人(魂)は全体とつながっていて、意念を向ければ、思念が届くようになっています。

それが、肉体と言う媒体に阻まれて感じられなくなっているのが地上です。




霊的なつながりは、物理的な制約を受けません。

遠く離れた場所で、別々に暮らしていても、お互いが想っていれば、つながっています。

たとえ、この世にいなくても、存在を信じ意念を向ければリンクが張られて、次元を超え
てつながることが出来るのです。




磁石は、磁力によって引き付けられています。

人と人を引き付けているのは、霊的な力です。

最強の力は愛です。

両者に愛あれば、霊的に強くつながります。

どんなに近くにいたとしても、愛がなければつながりは脆弱です。




愛はさまざまな形態を取ります。

情愛、友情、同情、慈悲、哀れみ、寛容心は不滅の霊性であり愛の諸相と、シルバーバーチは言っています。

その様な想いを向ければ、見たことも、会ったこともない人でも、霊的につながることが出来ます。




その根拠があります。

私は、これまで多くの人たちにヒーリングをして来ました。

信じられないかもしれませんが、世界のどこにいようとヒーリングの力は届きます。

依頼の連絡が届いた時点で、目に視えないつながりが出来上がります。

そのつながりを通して、力が伝わります。

住所、名前などの情報は一切必要ありません。

こちらが意念を向ければヒーリングが成立する、そのことから想いを向ければ遠く離れた人でもつながることが、少なくても私の中では実証されています。




想い(思念)が視えないのが、地上です。

視えない想いを、肉体を使って言葉や行動により表現して、視える形にしなければなりません。

視える形となって表現されたものに込められた想いを、霊的な感覚によって感じ取っています。

込められた想いが、愛に根ざしたものであれば両者の距離は近くなり、反していれば遠ざかります。




それぞれの人間は、何かしらの役割を持って生まれて来ています。

役割りとは、仕事もそうでしょうが、人や動物や環境にどんな影響を与えているのかと言う意味が大きいと思います。

人は、出会う人に何かしらの影響を与えています。

同時に、影響を受けています。

もし、肉体だけの存在であれば、個は確立されているので、お互いに影響し合うことはありません。




人とのつながりの中で、反発することがあります。

地上はさまざまな個性の魂が入り混じる世界なので、それは仕方ありません。

共感して、考え方が変わる時があります。

誰かの一言で、人生が変わる時もあります。

自分の本質は可変的なものであり、つながりの中で変わって行きます。




私たちは、絶え間なく変化をしている存在です。

変化する方向は、自然法則の働きによって、定められています。

お互いに影響し合いながら、より神の心(愛)を表現する方向に変化して行きます。

個と個はつながり、愛によって1つになるのが、神の心だと考えられます。




つながりを感じているのは、霊的な部分です。

普段の生活で働いているのは、頭(大脳)です。

頭が活発に働いている時は、霊的な部分は休んでいます。

従って、日常生活で頭が働いている時には、つながりは意識されず、人と接触しているだけであり、それぞれが孤立した存在に思えてしまいます。




しかし、非日常的な状況になると違って来ます。

それまで眠っていた霊的な部分(魂)が呼び覚まされて、つながりを意識することがあります。




東日本大震災により、1万人以上の人が津波により亡くなりました。

多くの人が亡くなった人に哀悼の念を捧げ、そして残された家族に同情しました。

一時ですが、同じ日本人としての絆を感じた人も多かったのではないでしょうか。

同じ想いになった時、霊(魂)は同調しており、つながりが意識されます。




私たちが想像もできないほど、貧しい国々が世界には存在します。

栄養が足りず、衛生状態が悪いために、亡くなって行く子供たちが後を絶ちません。

スーダンの難民キャンプの子供
そんな子供たちを見る度に、悲しくなり、何とかならないかと思います。

同じ人間として、許されることではないと感じますが、それは私たちに霊性が存在しているからです。

同じ人間として、同胞意識があるからです。

霊的なつながりがあるからこそ、同胞意識が生まれます。






動物が虐待されたり、殺されたりするのを見ると、心が痛くなります。

痛みを感じているのは、霊的な部分です。

私たちの中にいる「良心」と言う神が、摂理に反する行いに対して、痛みを感じています。

同じ地球に生きて、同じ生命としてつながっているからこそ、その様な気持ちになると思います。

あらゆる生命は霊的につながっているのですが、そのことに気付かない人間は、摂理に反したことを平気で行ってしまいます。




霊的なつながりは、同じ想いになった時に強くなります。

双方が、愛によってつながった時、両者の関係は最も強固なものとなり、大きな悦びとなります。





私たちは、拒絶されたり、嫌われたりすれば、心に苦痛を感じます。

また、信じてもらえなかったり、認めてもらえなかったりするのも、大きな苦痛となります。

怒り、憎まれたり、恨まれたり、妬まれたり、蔑まれたりするのも、とても嫌なものです。

そのどれもが、つながりを断とうとするものです。

つながりが断たれるのを感じるのは、人間にとって最大の苦しみの1つです。




逆に、信じてもらえたり、受け入れてもらえたり、認めてもらえたりすれば、悦びとして感じます。

それは、他者とつながったと感じるからです。

親切にしてもらったり、優しくしてもらったり、労わってもらうとうれしいのは、つながりを強く感じるからではないでしょうか。




この世に生まれた目的の1つは、他者とのつながりを深めることです。

生まれる前にいた世界と違うところは、周りに自分と違う人、似ていない人がたくさんいるところです。

つながるためには、お互いに認め合い、許し合わなければなりません。

自己犠牲も求められます。

そんな苦労をする中で、大切なことを学び、成長するようになっているのが、地上の良いところであり、難しいところでもあります。




お互いが信じられなくなり、離れて行く人がいます。

そんな人たちは、つながりが失われているために、想いは通い合わなくなっています。

悲しく、つらいことです。

この世から大切な人がいなくなって、深い悲しみ、苦しみを味わっている人もいます。

五感に触れない、悲しみ、寂しさは、どうしても避けられません。

しかし、その苦しみは残された人の無知から生じている時があります。

存在がなくなってしまった、もう会えないと事実誤認をしてしまうと、向こうにいる人にとって、地上の人とのつながりが断たれてしまったと感じるでしょう。

少なからず、苦しみになっていると思います。

無知から生じた苦しみが、因果律の働きによって、自分に返って来ているのかもしれません。

肉体はなくなっても霊的につながっている、確証は持てなくても、そう信じることによって、双方の苦しみは和らぐと思います。




つながりが断たれて苦しむのは、個と個がつながるためにあると考えられます。

自然法則の働きによって、お互いがつながることを促されています。




地球上の全生命が、物質の壁を取り払い、再び1つになって行くのが、神の意志と考えられます。

それを主導しているのが人間であり、愛によってのみ成就されます。


愛犬しろ


















2020年8月23日日曜日

叡智(知識)が苦しみから解放させる



私は歯科医ですが、虫歯の治療が好きだと言う人に、今までお目にかかったことはありません。

理由は苦痛を伴うからです。

麻酔をすれば、ほとんど痛みを感じずに治療が出来るのですが、歯を削ると神経に触れて痛くなると、頭に刷り込まれているようです。


痛みなんてなければ良いのにと、つい思ってしまいますが、もし痛みを全く感じなかったとしたらどうでしょう?

虫歯になっても放置してしまい、抜かなければいけない状態になってしまう人が続出すると思います。

痛ければ、歯医者に行って治すしかありません。

痛みによって、身体の異常を知ることが出来て、結果的に自分が守られています。




ご存知でしょうが、虫歯の原因は、歯の表面に付いている汚れ(プラーク)です。

歯の汚れの中にはたくさんの細菌がいて、細菌が出す酸によって歯が溶かされて、虫歯になることが証明されています。

ほとんどの人は、そのことを知っていますが、中には知らない人もいます。

知らない人は、虫歯で痛くてどうしようもなくなり、歯医者に来ます。

そこで、歯の汚れと虫歯の因果関係を知って、歯ブラシの仕方を教えてもらいます。

正しい知識を身に着けて、実行すれば、後は痛い思いをしなくても済みます。




お口の中に異常はなくても、定期的にメンテナンスに来る人もいます。

目的は、病気を予防するためです。

そんな人は、正しい知識を持っていて、お口の中を清潔にしているため、病気にならないので、痛い思いをしなくて済みます。




正しい知識がないと、人は苦しい思いや、痛い思いをするようです。

幼い子供は、何も知らずに危ないことをして、怪我をすることもあります。

フグに毒があるのを知らなければ、食べて死んでしまうかもしれません。

知識を持つのは、身体や命を守ることにつながっています。




宇宙には自然法則が働いています。

目に視える物質的次元、目に視えない霊的次元のそれぞれに法則が働いています。

霊的次元に働いている法則は、愛を帯びていると思います。

なぜなら、法則を創った存在が無限の愛であり、全ての生命に愛を顕現させるために法則が働いていると考えられるからです。




私たち人間から、いろんな想い(思念)が生じています。

目に視えない想いにも、霊的次元の法則が働いています。

今も、どこかで戦争が起きています。

戦争の元となっているのは、怒りや憎しみや恨みの想いです。

怒りや憎しみや恨みの想いは、霊的次元の法則に反していて、愛の対極にあります。

その想いを行動によって表現すれば、攻撃的なものとなり、相手に苦痛を与えることになります。




自然法則の根幹を成しているのが「因果律」です。

物理学の授業で、作用、反作用の法則を習いましたが、それに良く似ています。

自分から出たものと同じものが、自分に返って来ます。

相手に苦痛を与えたのならば、今度は自分が同じ苦痛を味わうことになります。

因果律の働きを知らなければ、自分が味わっている苦痛は、全て相手のせいと考えます。

相手もそう考えたならば、怒りや憎しみの想いが増幅して行き、やがて戦争になります。




因果律の働きを知り、闘いに勝利を治めた人がいます。

インド建国の父と呼ばれたマハトマ・ガンジーです。

彼が貫いたのは、暴力なき抵抗です。

ガンジーはインドを植民地支配から脱却させるために、国民に非暴力を実践することを求めました。

力ではなく、言葉と行動で、イギリスから独立しようと考えました。

もし、力によって独立しようとしたのならば、多くの国民の生命が失われた上に、力によってねじ伏せられたと思います。

暴力には暴力が返って来ます。

非暴力には非暴力しか返って来ません。

そして、国民の強い想いが、やがて具現化して行きます。

指導者に霊的な知識があったので、インドは無用な血を流さずに、目的を成し遂げました。




自然法則は、宇宙を司る原理原則であり、不変にして不滅です。

知っているか、知らないかにおかまいなく、厳格に働いています。

知らないで法則に反した行動をしてしまうと、因果律の働きにより、苦痛を伴う出来事が起きます。

苦痛によって、自分の過ちに気付いて、改めることになります。

それで、自然法則の働きの1つを学んだことになります。




知識は無限に存在します。

しかし、私たちが得られる知識は限られています。

物質的次元の法則、例えば物理法則であれば、本を読んだり、先生から教えてもらい得ることができます。

しかしながら、霊的次元の法則はそうは行きません。

自らが、ふさわしい経験をするしかありません。

言葉に言い表せない大切なことは、人から教えてもらうことが出来ないので、実際に自分が経験して学ぶしかありません。

それが、自分だけの叡智となります。




病気になるのは、誰でも嫌なものです。

何で自分だけが、こんな思いをしなければならないと、憤りを覚える時もあります。

病気が深刻になると、それまで捉われていたものに関心がなくなり、大切なものに気付く人がいます。

人と人を結びつけている想いより大切なものはないことに気付く人もいるでしょう。

病気は、叡智を学ぶための触媒の1つと考えられます。

苦痛の経験を通して学んだことは、魂に刻み込まれて、忘れることはありません。




この世に生きている理由は、様々な出来事を経験して、叡智を学ぶためと言えます。

出来事が起きて学ぶと言うよりも、学ぶために出来事が計画的に起きていると考えられます。




自然法則の働きを学ぶほど、魂は成長して、苦痛から解放されることになります。

シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。

「要するに理解が行き届かないから苦しい思いをするのです。十分な理解がいけば苦しい思いをしなくなります。」

どれほどの経験をすれば、そんな境地に至るのか想像も付きません。

しかし、そんな境地に至るため、私たちはこの世に生まれて来ているのは確かです。




霊的真理に書かれている自然法則の働きを強く信じ、自分のものとすることが出来たのであれば、多くの苦しみを経験しなくても済むのでしょうか。

自らの経験により1つの叡智を学び、その真実性を確信することで、他の叡智まで同時に魂が受け入れられたのであれば、大変な近道をしたことになります。

知識を持つことで病気になるのを免れるように、霊的な知識を持つことで無用な苦痛を経験しなくて済むのだとしたら、何と素晴らしいことでしょう。

ガンジーの為したことと変わりありません。

広めて行くことは極めて重要と考えられます。




叡智(自然法則の働き)を学び、実践するほど、魂は進化します。

神の摂理に従って生きるようになり、神の心を表現するようになります。

進化している人ほど多くの叡智を学んでいて、摂理に従って生きているので、苦痛から解放されていると考えられます。




私たちは、日々、起きている出来事に怖れや不安を感じてしまいます。

そんな時こそ、神と神の摂理(自然法則)の働き、そして背後にいる霊的な存在へ、絶対的な信頼を置くように努めるべきです。

見えざる力、見えざる法則の働きによって、私たちは良きに計らわれています。

悪い方向に向かっている様に思えても、自然法則の働きによって、良い方向に向かっています。




多くの人は、自分の中に神がいると思わずに、外に見い出そうとしています。

外には自然法則として顕現しているだけです。

神は手を差し伸べて、助けてくれる存在ではありません。




自分の中に神が宿っています。

神がいる実感はないかもしれませんが、真実です。

これは極めて重要な知識です。

良心があり、愛する心があるのは、自分の中に神が宿っている確かな証拠です。

それが自覚できるのであれば、信じることはできるはずです。

信じることで、神の力が顕現し始めて、怖れや不安はなくなります。

神は克服すべきものとして、怖れや不安を創ったと考えられます。

私たち地上の人間が、神の一部であることを自覚するために、創ったと考えられます。




怖れや不安は、苦しみとなります。

苦しみから逃れるために神に願うのではなく、自分に宿る神を強く信じることによって和らぐと考えられます。




苦しみとは、魂の未熟さの現れです。

未熟な自分を完成させて行くために、この世に生まれ、不可欠な出来事を経験しています。

もがき苦しむ中で、言葉を超えた叡智を手に入れ、自分自身(魂)が変わることで、苦しみから解放されます。




人を憎んだり、恨んだり、蔑んだりしてはいけないのは、どうしてでしょうか?

動物を傷つけてはいけないのは、どうでしょうか?

その人、その動物の中にも、神が宿っているからです。

神に対して行っているのと同じだからです。




自分の中に宿る神を信じるとは、自分(魂)を信じるのと同じです。

信じることによって、内部から神の力が湧き出します。

神の力は無限です。

強く信じるほど、強く力が湧き出します。

自分の中に宿る神を信じることで、そこから湧き出す力によって、あらゆる出来事は乗り越えることが出来ます。




乗り越えるのを妨げているのが、地上的な自我です。

そんなことはあるはずがないと否定します。

あれこれと想像し、考えを巡らして、怖れや不安を生じさせ、意識を物質的次元へと縛り付けます。

自分の中にいる神に意識を向けて、自分のものとすることで、怖れや不安はなくなります。




「自分の中に神がいるので、乗り越えられないことはない」

この世を生きる私たちにとって、最も大切な知識(真理)の1つです。

心の中で繰り返し唱え、強く信じることで、怖れや不安がなくなり、内から湧き出す神の力によって、いかなる苦難であっても乗り越えられるはずです。






2020年8月16日日曜日

魂が存在する主観的な証拠



今年はコロナウィルスの流行で、お盆に帰省した人が大幅に減ったようです。

私は霊的真理と出会い、亡くなった人は魂となり生きていて、愛情で結ばれた人の傍にいることを知りました。

そのために、敢えてお墓参りに行く必要はないと思っていました。




それでも、時々はお墓参りに行きます。

雑草が生えていたり、人が来た気配がないと、故人が不憫に思えるからです。

草むしりや清掃をして、お墓がきれいになると、何だかうれしい気持ちになります。

そんな時は、向こうで喜んでくれていると思っています。




お墓の前で手を合わしている時に、その人のことを想います。

その想いは、本人に届いていると信じています。

自分のことを忘れずにいてもらえれば、うれしいに決まっています。

みんなが集り、故人のことを話している時も、その場にいて、この世にいた時のことを懐かしんでいると思います。

お盆で帰省するのは、地上の人だけではありません。

地上の人の想いに引き付けられて、霊界に行ってからしばらく経つ人も来ていると思います。




墓参りに行けない人は、故人に対して失礼なのでしょうか?

墓前に行き、形式的にお線香を上げて、手を合わせてもらうよりも、行かなくても思い出して、親愛の念を向けてくれる方が、よっぽどうれしいはずです。

どこで何をしてもらうかよりも、どんな想いでいるかの方が、ずっと関心があると思います。




自分が逆の立場になったらどうするのか考えてみれば判ります。

親愛の想いを向けてくれる人に対し、何とかして応えようとするのは、ごく自然の成り行きです。

無用な危害が加わらないよう、正しい方向に進んで行くように、地上の人に想い(思念)を向けて導いているはずです。

地上から向けられた親愛の想いは、因果律の働きによって、どうしても地上の人に返したくなります。




それでは、お墓参りに行く人たちは、故人が生きていると本気で思っているのでしょうか?

もしかしたら、あの世で魂となって生きているかもしれないと思う程度の人が、ほとんどかもしれません。

魂が存在する客観的な証拠が示されないので、それは当然です。




地上には70億を超える人がいます。

その個性は、誰一人として同じではありません。

個性(性格)について、長い年月に渡り科学的な研究が続けられています。

しかしながら、全く説明がつかず、研究は行き詰まってしまったように感じます。

個性が、大脳の働きを超えたものから生まれていることを認めない限り、状況は全く変わらないでしょう。




人間は魂(霊)、精神、肉体からなる存在です。

個性は、大脳が作り出しているのではありません。

最も高次にある魂に、個性が存在しています。

それが精神に反映され、大脳を介して肉体で表現され、認識されていると考えられます。




その人の本質は、魂です。

魂は生命そのものです。




私たちは、様々な出来事に遭遇します。

それに対し、どの様に行動したかによって、個性は変化して行くと思います。

どう行動するのかを決める自由が、私たちに与えられています。

同時に決めた責任も、自分に課せられています。




これまで様々なことを決めて、行動して来た結果として、今の自分があります。

自分の行いは、全て魂に刻み込まれています。

それが個性となって反映され、行動や言葉や表情やしぐさとなって表現されています。

まだ、何も経験していない赤ちゃんにも個性があります。

それは、窺い知ることの出来ない過去世における行動が、魂に反映されているためと考えられます。




宇宙には、絶対的な神の摂理が働いています。

さまざまな出来事が起きる究極の目的は、私たちが神の心に近づいて行くためと考えられます。

摂理に適った行動をすれば、神の心に近づき、反した行動をすれば遠のいてしまいます。

過った行動によって、歪められた個性が外部に表現されると、苦痛を伴う結果が生じて、自分自身に返って来ます。

わがままな人は、これまでの利己的な行動によって個性が培われています。

それが外部に表現されると、孤独と言う苦痛を味わうことになります。

苦痛によって、歪んだ個性が神の心に適うように改められて行きます。




もし、魂が物質的次元の存在であればどうでしょう?

肉眼で存在が確かめられるので、誰もが認めるでしょう。

しかしながら、魂は霊的次元の存在です。

残念ですが、地上の人は確かめることは出来ません。

自分の目で確かめられないものを、人は否定してしまいがちです。




それでは、愛はどうでしょうか?

五感には触れず、客観的に証明されていません。

証明されていないにも関わらず、ほとんどの人は愛は存在していると信じています。

それは、愛を実感したことがあるからです。




愛も、魂と同じ霊的次元の存在です。

目に視えない魂から、目に視えない愛が生じています。

霊的次元の存在を信じるためには、自らが実感するしかありません。

あくまでも、主観的なものです。

愛は、魂にある霊的な感覚によって実感されています。




それでは、霊的な感覚とはどの様なものなのでしょうか?

初対面で、言葉を交わさずとも自分と合う人と、合わない人が判る時があります。

そんな時は、霊的な感覚によって、相手のオーラ(霊的大気)を感じ取っていると考えられます。

泣いている人がいると、思わずもらい泣きをしてしまうことがあります。

そんな時は、相手の悲しみの想いを、霊的な感覚が感じ取っていると考えられます。

頭で考えてではなく、直感によって行動している時も、霊的な感覚が活発に働いていると考えられます。




難しい数学の問題を、頭を使って解いている時は、霊的な感覚は働いていません。

数字や文字を使った知的な作業に、霊的な感覚は必要はありません。

しかし、行動や言葉から相手の想いを感じ取る時には、霊的な感覚が働いています。

叱られた時に、自分のことを思って言ってくれたのか、そうでないのかが判ります。

謝ってもらった時に、口先だけなのか、本心から言っているのかも判ります。

その判別しているのが、霊的な感覚です。

行動や言葉に込められた想いを、霊的な感覚が認識しています。

俗に第六感と言われるものが、この感覚に該当すると思われます。







赤ちゃんが、こちらを向いて微笑んでいます。

思わず、可愛いと感じます。

これは大脳で考えた結果でしょうか?

そんなはずはなく、魂から瞬時に生じています。




溺れている人がいたら、どうでしょう?

衝動的に、助けたいと思います。

頭で考えた結果であるはずがありません。

奥深くにいる魂の欲求の現れです。

魂は神の一部として、全体とつながっています。

魂に神性が存在しているので、わが身を顧みずに人を助けようとします。




行動に移す前に、何かが咎めるのを感じたことはないでしょうか?

例えば、道端に一万円札が落ちていて、拾ったらどうでしょう。

誰も見ていないし、誰のかも判らないので、もらってしまおうかと思います。

ところが、「そんなことはしてはいけない」と心の中で、何者かが訴えています。




小学校の時のことです。

夜中にふざけて暗闇に向かって石を投げました。

朝になって、ちょっとした騒ぎになっていて、よく見ると車のフロントガラスがくもの巣状に割れてしまいました。

自分の投げた石が当たったと瞬間的に判りました。

学校で授業が始まっても、そのことが頭から離れません。

いたたまれなくなり、家に帰って母親に自分が石を投げたことを告げました。

「しらばっくれていないで白状しろ」と、心の中で訴えている何者かを感じていたからです。

ばれさえしなければ、何の問題もなかったはずです。

しかし、そうは行かなかったのは、自分の中に「良心」が存在していたからです。




目に視えない自然法則の働きによって、宇宙が経綸されています。

自然法則の働きに背いて行動すると、どこかで償いが必要となります。

その行動が成長の妨げとなってしまうので、心の中で良心が警鐘を鳴らしています。




悪いことをしてはいけないと思うのは、人からそう教わったからではありません。

生まれながらにして、良心が備わっているからです。

過ちを犯そうとすると、心が咎めるように、初めからなっています。




もし、私たちが霊的な存在でなければ、霊(神)性を宿すことはありません。

良心が存在する理由は、どこにも見つけられません。




全ての人の魂に、良心が内在されています。

意識の中に善と悪があるのは、魂に良心と言う絶対的な基準が存在しているからです。

無意識の内に善悪を判断し、神の摂理(自然法則)の働きを遵守しようとしているのが魂です。




いつもの自分とは別に、別の自分がいます。

成長に大きく関わる時に、別の自分が表に顔を出して、いつもの自分に問いかけたり、忠告したりしています。

その別の自分こそが、本当の自分であり、魂です。







2020年8月9日日曜日

霊界の存在を信じる




シェラーグ・ボルテン(ノルウェー)水田秀樹氏のブログより

断崖絶壁の前に立つと、思わず足がすくみます。

これは心が恐怖を感じているからです。

何故、感じるのかと言えば、身を守りたいと言う欲求が、私たちに備わっているからです。




それでは、身を守りたい欲求は、どこから生じているのでしょうか?

私たち人間は、魂(霊)、精神、肉体によって構成されています。

本当の自分とは、肉体ではなく魂です。

魂とは生命そのものであり、大生命である神の一部を構成するものです。

個々の魂には「霊的自我」が存在し、そこから自分の偽らざる想い(思念)が生じています。




そして、精神上には「地上的自我」が形成されています。

霊的自我から生じた思念は、地上的自我を通して、肉体によって表現されています。

私たちは、地上的自我と霊的自我(魂)の間で、バランスを取りながら生きていると言えます。

しかし、地上的自我の働きが強くなると、それに負けて、霊的自我から生じた本当の自分の想いが表現されにくくなります。




霊的自我は、成長して行くことを志向しています。

成長は、他者に愛を表現すること、困難や障害を乗り越えて行くことで得られるので、そちらの方向へ進んで行こうとします。

一方、地上的自我は、肉体と強く結びついています。

そこから、身を守りたい欲求が生じていると考えられます。

地上的自我は、安全に生きることを志向していますので、その働きが強くなると恐怖や不安が大きくなります。

また、快適に生きようとするためのに、お金、地位、名誉などへの欲求が高まります。

逆に弱まり過ぎると、危険にさらされても恐怖を感じなくなり、身を守れなくなります。

霊的自我と地上的自我の関係 その1

登山家を例に挙げます。

霊的自我は、自分を成長させようとするために、危険を伴う険しい山に挑戦しようとします。

一方、地上的自我は、肉体を守ろうとするために、理由を考えて止めさせようとします。

駅のホームから、線路に人が落ちたとします。

霊的自我は、良心に従い助けようとしますが、地上的自我は、自分まで巻き込まれてしまうと考え、抑止します。

道端で子猫がないていたとします。

霊的自我は心配になり、近寄ろうとしますが、地上的自我は、飼うことになると大変なので、止めさせようとしています。

このように、人生のさまざまな場面で、両者の間でせめぎ合いが起きていると考えられます。

地上的自我は霊的自我に対し、この世では抑制的に働くように仕組まれていると考えられます。




精神は肉体に優り、魂(霊)は精神に優ります。

霊的自我(魂)から生じた本当の自分の想いが、地上的自我(精神)を通して、肉体で表現されているのが健全な姿です。

ありのままの自分が表現されています。

しかし、いろいろな理由から地上的自我の働きが強くなると、本当の自分の想いが表現され難くなります。




地上的自我が強くなったものを「エゴ」と呼ぶのならば、エゴが要求するままに生きている人は多くいます。

エゴから発する考えは、神の摂理に適っていないことが多く、要求のまま生きていては、予定されていた成長が得られなくなってしまいます。

利己的になったり、傲慢になったり、見栄を張ったりするのも、エゴの特性と考えられ、成長しないばかりか、業(カルマ)が生じてしまうかもしれません。

業(カルマ)が蓄積して行くと、ある時に因果律が作動し、苦痛を伴う出来事が生じると考えられます。

また、地上的自我の働きが強くなり、本当の自分の想いが表現されないと、内に溜まってしまいます。

内に溜まった想いが、因果律の働きにより、病気として肉体上に表現されるかもしれません。

いずれの場合も、事象が引き起こす苦痛によって、奥で眠っていた本当の自分が目を覚ますことになります。

それまで「自分」と認識していたのは地上的自我です。

それに代わって、霊的自我(本当の自分)が表に現れて主導権を握り、子供の時の様にありのままの自分が表現されるようになります。

これが魂の目覚めです。




霊的自我(魂)は、この人生をどう生きれば良いのかを知っています。

その声に耳を澄ませて、素直に従えば、予定されていたシナリオに沿って、成長しながら生きて行くことが出来ます。




そして、守り導いている霊界の存在(背後霊)が付いていることも忘れてはいけません。

霊界の存在も辿るべき人生が判っていて、地上にいる人の成長を願いながら、生まれて来た目的が果たされるように導いています。

危害が加わりそうになったり、進んで行くべき道を誤りそうになった時に、思念(インスピレーション)を送って、回避させようとしています。




ところが、強くなった地上的自我は、援助をしようとしている霊界の存在にとって、取り囲んでいる壁のような存在です。

インスピレーションを伝えようとしても、霊的自我(魂)まで到達しなくなります。

エゴが強い人は、人の意見を聞こうとしません。

そればかりか、霊界からの助言や警告も受けられなくなってしまいます。

霊界の存在にとって1番厄介なのは、地上の人の恐怖や不安や取り越し苦労の様です。

恐怖や不安も、地上的自我から生じているので、それが大きくなってしまうと、霊的な感受性は低下してしまい、援助(インスピレーション)を受けられなくなってしまいます。
霊的自我と地上的自我の関係 その2

援助をしようとしている霊界の存在にとって、地上の人の恐怖や不安、取り越し苦労は大きな障壁となります。

私は遠隔ヒーリングを行う時に、受ける人にリラックスするようにお願いしています。

受ける側に不安感や緊張感があると、それが障害となり、霊力が伝わりにくくなると感じているからです。

上図の様に、恐怖や不安を感じている時は、地上的自我が強くなっていることを意味し、バリアの役目を果たしてしまい、インスピレーションを含めた霊力が伝わる際の妨げになると考えています。




もし、恐怖や不安を感じたらどうした良いのでしょう?

霊的自我の働きを再び強めてやれば、良いと思います。

そのために、私たちは神の一部であることを強く意識するのも良いでしょう。

そして、霊界の存在が守り導いてくれていると信じることも大切です。

そうすれば、地上と霊界のつながりが深まり、霊的自我が強くなると考えられます。




霊界は、地上のような恐怖や不安は存在しません。

穏やかで安らかで平和な境涯です。

良きに計られている、見守ってくれている強く信じるとことによって、霊界と同調することが出来れば、心の平穏を取り戻すことが出来ると思います。




朝起きると、今日1日の予定が頭に浮かぶ時があります。

大丈夫だろうか、上手く行くだろうかと、思うこともあります。

今でしたら、新型コロナウィルスの感染が不安です。

そんな時に、寄り添ってくれている存在を意識し、乗り越えて行けるよう、守ってもらえるように祈ります。

すると不安や心配が和らぎ、平穏な気持ちに一瞬にして変わるのが感じられるかもしれません。

霊界の存在は、いつもこちらの想いに応えてくれていて、勇気付けて、励ましてくれています。




自分がこれからすることに、怖れや不安を感じることがあります。

問われるのは、言動の動機となっている想いです。

動機が、怒りや恨みや憎しみや嫉妬など、摂理に反する想いに根差しているのであれば、結果として苦痛となって自分に返って来ます。

エゴから発している、自己保身的、自己満足的なものであれば、それは利己的なので、良い結果をもたらしません。

静かに自分に問いかけて、摂理に適っている、あるいは反することがなければ、外に向かって表現しても、怖れることはありません。




恐怖や不安は、地上的自我が作り出した心の蜃気楼です。

実際には存在していません。

存在しないものに振り回されて、自分や他者を信じられずに、想いが表現されなくなってしまわないように、払いのける不断の努力が必要です。

地上では恐怖や不安は付きものであり、それ払拭するように努めるのが、生まれて来た目的の1つになっていると考えられます。




思念は具現化する力を秘めています。

けれども、精神で作られた恐怖や不安には、その力はありません。

ただし、思念が具現化される妨げとなります。

恐怖や不安や取り越し苦労は、霊的な援助を授かる通路を塞いでしまいます。

地上的な欲望、思い込みや固定観念も、インスピレーション伝達の妨げとなります。

霊的な通路を塞がないために、霊的自我の働きを高める必要があります。

それには、自分の中にいる神、背後で見守っている霊の存在を強く信じ、霊界と一体化を計るのが有効と考えらます。











2020年8月2日日曜日

成長したいから苦難が訪れる



東京オリンピックが、1年後に延期になりました。

選手たちは、4年に1度のこの大会で自分の実力を発揮するために、厳しい練習に耐えて来たと思います。

もし、実力を発揮する場がなくなれば、練習へのモチベーションは上がりません。

厳しい練習に耐えられるのは、試合の時に良い結果を出して、悦びを味わいたいからです。





若い時に、何で生きているのだろうと考えることがありました。

十数年前に霊的真理(シルバーバーチの霊訓)と出会い、その答えがようやく見つけられました。

選手が練習を積んだ後に、実力を発揮する場(試合)があるように、これまでの経験が活かされる場があります。

その後の人生にも活かされますが、本当に活かされるのは、死んだ後に行く世界(霊界)においてです。

私たちが、この世界に生きているのはそのためです。




死んだ後に行く世界には、無限の界層があります。

どの界層に行くのかは、その人の霊性が決定します。

頭の良さ、社会的地位は全く関係なく、思いやりがあり、寛容で、無私の行為が出来る人が、より上の界層に行くことになります。




同じ界層には、同じ霊性の人たちが集団で生活をしています。

その人たちのことを「類魂」と呼んでいますが、魂(本質)が類似しているため、同じ様なことを想ったり、考えたりしています。

お互いに気心が知れているので、安心して、平和に暮らすことが出来ます。

それぞれの個性を、集団の中で活かし合いながら生活をしています。

相互扶助の世界と言っても良いでしょう。




肉体はもうないので、地上のように生活して行くために働く必要はありません。

そのため、自分のためではなく、他者のために何かをしようとする気持ちになるようです。

自分にだけ意識が向いている人もいますが、そんな人は趣味や遊びをする位で、他に何もすることがなくなってしまいます。

自由気ままに遊んでいることも許されますが、つまらなさや虚しさを感じてしまいます。

それでは、生きている目的を果たしていないことになるからです。




生きている目的とは、成長することです。

成長していることで、心は満たされ、充足感が得られます。

他者のために奉仕をすること、そして困難や障害を乗り越えて行くことで、私たちは成長しています。

人のためになったり、努力して目的を達成すると、悦びを感じるようになっています。

電車でお年寄りに席を譲ると、ちょっと満たされた気持ちになるのはそのためです。

険しい山を登って頂上に着くと、喜びを感じるのもそのためです。

人は悦びを味わいたいために、成長する方向に進んで行くようになっています。




しかし、地上では肉体があるために、どうしても自分に意識が向かってしまいます。

疲れている時は、目の前にお年寄りが立っていても、座っていたいと思ってしまいます。

体調が悪い時に、険しい山を登ろうとする気持ちにはなれません。

心が肉体の制約を受けるために、成長する方向に進んで行きたくても、行けない時があります。




そして、地上の人は肉体を維持して行くために、食べる必要があります。

そのために働かなければいけません。

人や社会や家族のために、何かをしなければ生きて行けないのが地上の特徴です。




何かをしなければならない真の目的は、食べて行くためではありません。

次に行く世界で、他者のために進んで奉仕をするためです。

地上で肉体という重苦しい媒体を通して、誰かのために奉仕をする習慣を身に着ければ、身軽になった次の世界では自然に出来るようになります。




次の世界では、私たちには果たすべき役割があるようです。

地上の経験を通して学んだことが、自分の役割を果たす時に活かされます。

各自の役割りは具体的に判りませんが、全体のために自分を役立てることであるのは間違いありません。

お互いのために、進んで自分の役割りを果たそうとする世界は悦びに溢れ、とても居心地が良いようです。

その世界を垣間見た人が、「天国」と呼んだのかもしれません。




地上では、困難や障害に遭遇します。

その経験こそが、次の世界で周囲のために自分を活かす力となります。

次の世界で、それぞれの個性を活かし合いながら生きて行くために必要な資質を、地上で身に着けているのですが、そのことが判らないので、何でこんなつらい思いをしなければならないのかと感じてしまいます。

それは、成果を発揮できる本番(試合)があることを知らずに、きつい練習をしている選手たちの気持ちと同じです。








生まれた時よりも、死ぬ時の方が魂が成長していれば良いはずです。

生まれて来た目的を果たしているからです。

成長させているのが、この世でのさまざまな経験です。

人生を大きく変えてしまうような出来事を経験し、今までにない苦しみを味わうことがあります。

必死にもがいている中で、魂は成長しています。

自分の限界を超えるような練習をした選手は、以前は苦しかった練習が、あまり苦しく感じなくなりますが、それは心身が鍛えられて、選手として成長したからです。

経過と共に魂が成長すると、自然法則の働きにより、以前の様な苦しみを感じなくなります。




自然法則を創造したのは神です。

創造した目的は、宇宙に秩序をもたらすためです。

そして、自らの一部である生命(魂)を通して、自らの心を顕現させるためと考えられます。

全ての出来事は、究極的には神の心(愛)を顕現させるために起きていると言えます。




出来事を経験するのは、自らの霊性を高めるため、そして魂を強くするためです。

愛があっても強くなければ表現は出来ず、強くても愛が表現されなければ意味がありません。

人や社会や動物のために奉仕をすることで霊性が高められ、立ちはだかった困難や障害を乗り越えることで魂は強くなって行きます。

魂の成長を促すような出来事が、地上では計画的に起きるようになっています。

従って、打ちのめされ、立ち上がれないような出来事は、目的に反するので絶対に起きません。




地上で起きる出来事を霊的に視ると、幸、不幸が真逆なところがあります。

例えば、労せずして莫大なお金を手に入れたとします。

働く必要がなくなり、好きな物を買ったり、好きな所に旅行に行ったりして、自分のためだけに生きることが出来ます。

ほとんどの人は幸せを感じるでしょう。

しかし、汗水たらしながら働くことや、誰かのために何かをすることで、少しずつ霊性は向上しています。

その人は、向上の機会を失ってしまったことになります。

物的に幸運なことは、霊的には不幸であることが往々にしてあり、次の世界に行って真実を知り、大いに悔やむことになります。




災害で家族や家を失えば、大きな不幸に見舞われたと誰もが思います。

深い悲しみの中で、生活を再建しようと、必死になって生きている人の姿を見かけますが、その人の魂は以前にも増して成長しています。

地上を去った後に、先に逝った家族と再会の悦びを分かち合います。

そして、地上の人生を振り返る時が来ます。

災難に遭って、髪を振り乱して必死に生きていた、その時の自分の姿がスクリーンの様なものに映し出されて、人生で最も成長をしていたことに気付くかもしれません。

物的に大切なものを失った人は、霊的に大切なものを手に入れることで、神の公平は完全に保たれています。




楽しみをあまり知らずに、苦労の連続だった人が亡くなると、哀れに思う人がいますが、それは早合点です。

そんな人の魂ほど大きく成長していて、生まれて来た甲斐があったと思うからです。

次の世界に行くと、つらかった出来事ほど、自分のためになっていたことを知り、悦びになっているはずです。

厳しい人生に挑戦するのを決めたのは、自分自身だったことに気付きます。

あの時、逃げたり、諦めたりしないで良かったと胸をなでおろし、この人生でやっぱり良かったと、深く満足しているはずです。




人は同じ場所に留まっていることは出来ません。

上を目指して成長して行く欲求が、初めから備わっているからです。

地上に生まれて来るのもそのためです。

避けたり、逃げ出したりせずに、つらくても何とかして乗り越えようとするのは、奥深くにいる本当の自分(魂)に、成長したい欲求があるからです。

留まっていると苦しいのは、その欲求が満たされていないからです。

成長とは苦しみからの解放です。

いかなる出来事でも乗り越えて行けることが、自然法則を創造した神によって保障されています。




死の先にも、生きる世界があります。

肉体を介さずに、自分の想いが素直に表現される、真実の世界です。

その世界で、想いを共有しながら生きるために、この世で様々な経験をしています。

同じ経験をすることで想いが共有され、魂のつながりが深まって行きます。

同じことを想い、同じことを感じながら、お互いのために何かをする悦びを感じながら生きるために必要な経験を、今、地上でしています。




2020年7月26日日曜日

地球規模の因果律の働き ~地球温暖化~



梅雨明けが長引いています。

何十年かに一度と言われるような集中豪雨が、どこかで毎年のように起こり、多くの人が亡くなり、甚大な被害が出ています。
2020年7月熊本豪雨
異常気象と言うよりも、常態化しつつあると感じているのは私だけでしょうか?




近年の気象変動は、地球温暖化が原因と言われています。

地球温暖化は、大気中に含まれる二酸化炭素(以下CO₂)の量が増えることで、太陽から受け取ったエネルギーが大気圏外に放射されにくくなるために起こると考えられています。
一般財団法人 家電製品協会のHPより


地球上で、CO₂をたくさん出しているのは、言うまでもなく人間です。

CO₂は目に視えるものではありませんので、自分が出していると言う認識に欠けてしまいます。




「ゆでガエルの法則」をご存知でしょうか?。

カエルは、いきなり熱いお湯に入れると驚いて逃げ出します。

しかし、常温の水に入れて徐々に水温を上げていくと逃げ出すタイミングを失い、最後には死んでしまいます。


ゆっくりと進む環境の変化に、生物が対応するのは難しいのです。

今まさに、私たち人間はゆでガエルになりつつあります。

少し危ないのかなと思っている程度ですが、実際は危機的な状況にあります。






人間が出したCO₂によって、人間が苦しむのは仕方がありません。(余分なCO₂を出していない生活をしている人間もいますが)

しかし、何の罪もない動物たちが、温暖化の被害を被るのは許されることではありません。







北極クマのこの惨状は、地球温暖化による海氷の減少により、餌となるアザラシの捕獲が十分に出来ないことが原因と考えられます。

人間が出すCO₂が原因で温暖化が進行し、数知れない動物たちが苦しめられ、死に追いやられている現実を直視しなければいけません。




ところが、人間はそんな現実に目を背けて、身勝手な活動を続けています。






人が生きて行くのに必要なのは、水と食料と衣料と居住です。

時代と共に、物的な欲望が肥大化し、生きて行くのに必要のないものまでも欲しがるようになりました。

大きな家に住み、たくさんの物に囲まれ、好きなところに行ける生活が豊かだと思っている人は多くいます。




1人の人が出しているCO₂を、見える化してみます。

呼吸によって出しているCO₂の量は1日約1Kgです。

平均すると1年間で11.4Kgの衣服を買っていますが、これは車で2400㎞を走ったのと同じCO₂を出している計算になります。

部屋で2.0kW(6畳用)のエアコンを16時間稼働させると、1日に16Kg 以上のCO₂を出していることになります。

燃費が10㎞/ℓの車で100km走ると、23KgのCO₂を排出しています。

1人の日本人が1年間に出しているCO₂は、9トン強と言う膨大な量です。




人や動物が出しているCO₂は、植物が光合成をすることによって酸素に還元されます。

動物と植物は完全な共生関係にあり、その関係は何十億年も崩れることはありませんでした。

何年か前から、朝の散歩で通る河の護岸に、見たこともない樹木(下の写真)が生い茂るようになりました。

その樹木は驚くほど速く成長し、数年で見上げるほどの高さになりました。

名前は「マルンガイ(西洋わさびの木)」と言い、主に(亜)熱帯に生育し、他の樹木の20倍ものCO₂を吸収するのが特徴です。

大気を浄化するような樹木が人知れず育っているのを見て、大自然の絶妙な営みを感じました。

ボストン大学の研究では、CO₂の増加に伴い、砂漠化と並行して、33年間で米国の約2倍の面積が地球上で緑化されているそうです。

このような植物が世界中のいたるところで繁茂することによりCO₂を吸収し、大気の濃度を一定に保とうとしているのですが、人間が出しているCO₂の増加には追い付けないようです。




多くの人は、因果律の働き知っています。

物を買ったり、移動をすればCO₂が出されて、温暖化が促進されることを。

それでも、今の生活を変えようとしないのは、自分一人ではどうにもならないと諦めているのか、それとも変えたくないのかのどちらかです。

どちらにせよ、地球全体から見れば、利己的な考えであることに変わりありません。




そんなことを言っている私も、車で通勤し、照明やエアコン、パソコンなどの家電製品を使い、たくさんのCO₂を出しながら生活しています。

現代社会に生きる私たちにとって、他の動物のように呼気からCO₂の排出だけで生活することは不可能です。




出来ることと言えば、物をあまり買わないことです。

しかし、必要なものだけを買っても、CO₂を出しています。

ネット通販の過剰包装には目を疑うものがあります。       
消しゴム1個を注文すると(過剰包装を訴えるサイトより)
電気を極力使わないようにしなければいけません。

しかし、猛暑の中、エアコンを使わずに生活するのは至難の業です。

出来るだけ移動をしないことも大切です。

しかし、人に会ったり、用を足すために、いろいろな場所に行かなければなりませんし、旅行の1つもしなければ、人生が物足りなく感じてしまいます。

今の生活を変えようと思っても、なかなか変えられないのが実情です。




そんな人間の事情におかまいなく、CO₂の排出は増え続け、温暖化は急速に進行しています。

自然法則は厳格です。

法則に反した行いには、報いが返って来ます。

人間の行き過ぎた欲望が、地球温暖化となって返って来ています。




そのことに気付いている人は多くいても、自助努力ではどうすることも出来ない段階になったので、次の因果律が作動してしまったのかもしれません。

勧告から、強制執行に移ってしまった様な気がしています。




新型コロナウイルスの流行が起きました。

その後、世界中の人々の移動は止まりました。

工場の稼働も止まりました。

どこにも出かけられず、家の中にいることを強いられました。

店舗は休業し、生活必需品以外のものは買えなくなりました。

自宅で仕事をするようになりました。





その結果、全世界で今年4月におけるCO₂の排出が最大17%削減されたそうです。

スモッグがなくなったインド・ニューデリー


水路が浄化されたベネチア

緊急事態宣言下の澄み切った空の東京
一瞬ですが、世界中の街が本来の健全な姿を取り戻しました。




環境省が出した「地球温暖化と感染症」という報告書があります。

その中に「温暖化によって媒介動物の分布域が拡大する傾向や、高温化に伴って感染力が増大する傾向などが見られることは、温暖化による影響評価を試みている多くの研究成果が示唆しています。」と書かれています。

新型コロナウィルスの流行は、大量のCO₂を出す人間の過った生き方と因果関係がありそうです。

人間の飽くなき物的欲望が、ウィルスを流行させてしまったのではないでしょうか。




誰もが、ウィルスの感染を怖れています。

地球規模で人間の行動を変容させられるのは、ウィルスだけです。

地球環境を改善する最も有効な手段が、ウィルスの流行だったと思います。




ウィルスの流行が終わった後、人はどうなっているのでしょうか?

大不況が到来すれば、物が売れなくなるでしょう。

生命の危機に晒されて魂が目覚めて、物的なものに喜びを感じなくなる人が現れるような気がします。

余暇を、旅行ではなくボランティアなど奉仕活動に充てる人も出て来ると思います。

内面的な変化から、CO₂を出さないような生き方に変わる人が増えるでしょう。




ウィルスの流行は突発的なものではありません。

自然法則の働きに従って起きています。

全ての事態に備えたプログラムが、自然法則の中に包摂されていて、人間を含めた生物の行動が制御されていると考えられます。

また元に戻ってしまい、さらに温暖化が進んだのなら、もう一段階進んだ因果律が作動するような気がします。

致死率や感染率が高いウィルスが出現して、人間が大胆に間引きされて、徹底的な行動抑制を強いられるかもしれません。

その結果、ようやく温暖化に歯止めがかかるのかもしれません。




頭の中で判っているだけではだめであり、それを行動に移さなければなりません。

行動に移さなければ、自然法則の働きによって、痛みや苦しみを感じながら、変わって行くしかありません。




ウィルスの流行は、人間にとって災い以外の何者でもありません。

しかし、地球全体から見れば浄化の一環です。

今まで温暖化で苦しめられて来た動物たちにとって、この現象は恩恵そのものであり、救いのように感じられるでしょう。