2020年8月2日日曜日

成長したいから苦難が訪れる



東京オリンピックが、1年後に延期になりました。

選手たちは、4年に1度のこの大会で自分の実力を発揮するために、厳しい練習に耐えて来たと思います。

もし、実力を発揮する場がなくなれば、練習へのモチベーションは上がりません。

厳しい練習に耐えられるのは、試合の時に良い結果を出して、悦びを味わいたいからです。





若い時に、何で生きているのだろうと考えることがありました。

十数年前に霊的真理(シルバーバーチの霊訓)と出会い、その答えがようやく見つけられました。

選手が練習を積んだ後に、実力を発揮する場(試合)があるように、これまでの経験が活かされる場があります。

その後の人生にも活かされますが、本当に活かされるのは、死んだ後に行く世界(霊界)においてです。

私たちが、この世界に生きているのはそのためです。




死んだ後に行く世界には、無限の界層があります。

どの界層に行くのかは、その人の霊性が決定します。

頭の良さ、社会的地位は全く関係なく、思いやりがあり、寛容で、無私の行為が出来る人が、より上の界層に行くことになります。




同じ界層には、同じ霊性の人たちが集団で生活をしています。

その人たちのことを「類魂」と呼んでいますが、魂(本質)が類似しているため、同じ様なことを想ったり、考えたりしています。

お互いに気心が知れているので、安心して、平和に暮らすことが出来ます。

それぞれの個性を、集団の中で活かし合いながら生活をしています。

相互扶助の世界と言っても良いでしょう。




肉体はもうないので、地上のように生活して行くために働く必要はありません。

そのため、自分のためではなく、他者のために何かをしようとする気持ちになるようです。

自分にだけ意識が向いている人もいますが、そんな人は趣味や遊びをする位で、他に何もすることがなくなってしまいます。

自由気ままに遊んでいることも許されますが、つまらなさや虚しさを感じてしまいます。

それでは、生きている目的を果たしていないことになるからです。




生きている目的とは、成長することです。

成長していることで、心は満たされ、充足感が得られます。

他者のために奉仕をすること、そして困難や障害を乗り越えて行くことで、私たちは成長しています。

人のためになったり、努力して目的を達成すると、悦びを感じるようになっています。

電車でお年寄りに席を譲ると、ちょっと満たされた気持ちになるのはそのためです。

険しい山を登って頂上に着くと、喜びを感じるのもそのためです。

人は悦びを味わいたいために、成長する方向に進んで行くようになっています。




しかし、地上では肉体があるために、どうしても自分に意識が向かってしまいます。

疲れている時は、目の前にお年寄りが立っていても、座っていたいと思ってしまいます。

体調が悪い時に、険しい山を登ろうとする気持ちにはなれません。

心が肉体の制約を受けるために、成長する方向に進んで行きたくても、行けない時があります。




そして、地上の人は肉体を維持して行くために、食べる必要があります。

そのために働かなければいけません。

人や社会や家族のために、何かをしなければ生きて行けないのが地上の特徴です。




何かをしなければならない真の目的は、食べて行くためではありません。

次に行く世界で、他者のために進んで奉仕をするためです。

地上で肉体という重苦しい媒体を通して、誰かのために奉仕をする習慣を身に着ければ、身軽になった次の世界では自然に出来るようになります。




次の世界では、私たちには果たすべき役割があるようです。

地上の経験を通して学んだことが、自分の役割を果たす時に活かされます。

各自の役割りは具体的に判りませんが、全体のために自分を役立てることであるのは間違いありません。

お互いのために、進んで自分の役割りを果たそうとする世界は悦びに溢れ、とても居心地が良いようです。

その世界を垣間見た人が、「天国」と呼んだのかもしれません。




地上では、困難や障害に遭遇します。

その経験こそが、次の世界で周囲のために自分を活かす力となります。

次の世界で、それぞれの個性を活かし合いながら生きて行くために必要な資質を、地上で身に着けているのですが、そのことが判らないので、何でこんなつらい思いをしなければならないのかと感じてしまいます。

それは、成果を発揮できる本番(試合)があることを知らずに、きつい練習をしている選手たちの気持ちと同じです。








生まれた時よりも、死ぬ時の方が魂が成長していれば良いはずです。

生まれて来た目的を果たしているからです。

成長させているのが、この世でのさまざまな経験です。

人生を大きく変えてしまうような出来事を経験し、今までにない苦しみを味わうことがあります。

必死にもがいている中で、魂は成長しています。

自分の限界を超えるような練習をした選手は、以前は苦しかった練習が、あまり苦しく感じなくなりますが、それは心身が鍛えられて、選手として成長したからです。

経過と共に魂が成長すると、自然法則の働きにより、以前の様な苦しみを感じなくなります。




自然法則を創造したのは神です。

創造した目的は、宇宙に秩序をもたらすためです。

そして、自らの一部である生命(魂)を通して、自らの心を顕現させるためと考えられます。

全ての出来事は、究極的には神の心(愛)を顕現させるために起きていると言えます。




出来事を経験するのは、自らの霊性を高めるため、そして魂を強くするためです。

愛があっても強くなければ表現は出来ず、強くても愛が表現されなければ意味がありません。

人や社会や動物のために奉仕をすることで霊性が高められ、立ちはだかった困難や障害を乗り越えることで魂は強くなって行きます。

魂の成長を促すような出来事が、地上では計画的に起きるようになっています。

従って、打ちのめされ、立ち上がれないような出来事は、目的に反するので絶対に起きません。




地上で起きる出来事を霊的に視ると、幸、不幸が真逆なところがあります。

例えば、労せずして莫大なお金を手に入れたとします。

働く必要がなくなり、好きな物を買ったり、好きな所に旅行に行ったりして、自分のためだけに生きることが出来ます。

ほとんどの人は幸せを感じるでしょう。

しかし、汗水たらしながら働くことや、誰かのために何かをすることで、少しずつ霊性は向上しています。

その人は、向上の機会を失ってしまったことになります。

物的に幸運なことは、霊的には不幸であることが往々にしてあり、次の世界に行って真実を知り、大いに悔やむことになります。




災害で家族や家を失えば、大きな不幸に見舞われたと誰もが思います。

深い悲しみの中で、生活を再建しようと、必死になって生きている人の姿を見かけますが、その人の魂は以前にも増して成長しています。

地上を去った後に、先に逝った家族と再会の悦びを分かち合います。

そして、地上の人生を振り返る時が来ます。

災難に遭って、髪を振り乱して必死に生きていた、その時の自分の姿がスクリーンの様なものに映し出されて、人生で最も成長をしていたことに気付くかもしれません。

物的に大切なものを失った人は、霊的に大切なものを手に入れることで、神の公平は完全に保たれています。




楽しみをあまり知らずに、苦労の連続だった人が亡くなると、哀れに思う人がいますが、それは早合点です。

そんな人の魂ほど大きく成長していて、生まれて来た甲斐があったと思うからです。

次の世界に行くと、つらかった出来事ほど、自分のためになっていたことを知り、悦びになっているはずです。

厳しい人生に挑戦するのを決めたのは、自分自身だったことに気付きます。

あの時、逃げたり、諦めたりしないで良かったと胸をなでおろし、この人生でやっぱり良かったと、深く満足しているはずです。




人は同じ場所に留まっていることは出来ません。

上を目指して成長して行く欲求が、初めから備わっているからです。

地上に生まれて来るのもそのためです。

避けたり、逃げ出したりせずに、つらくても何とかして乗り越えようとするのは、奥深くにいる本当の自分(魂)に、成長したい欲求があるからです。

留まっていると苦しいのは、その欲求が満たされていないからです。

成長とは苦しみからの解放です。

いかなる出来事でも乗り越えて行けることが、自然法則を創造した神によって保障されています。




死の先にも、生きる世界があります。

肉体を介さずに、自分の想いが素直に表現される、真実の世界です。

その世界で、想いを共有しながら生きるために、この世で様々な経験をしています。

同じ経験をすることで想いが共有され、魂のつながりが深まって行きます。

同じことを想い、同じことを感じながら、お互いのために何かをする悦びを感じながら生きるために必要な経験を、今、地上でしています。




40 件のコメント:

ひろみ さんのコメント...

イクミさま、こんにちは。
昨年5月にヒーリングをしていただき、その後何度もコメントでメッセージをいただいた、ひろみです。
いつもこちらで学ばせていただいておりますが、今回のブログ内容は守護霊からのメッセージとしか思えないくらいタイムリーなものでした。

長梅雨からの急激な暑さでこのところ持病の不眠がまた出てきました。
神さまは何度も試練という愛で魂を強くしてくださるとわかっていても、つい逃れたいともがいてしまい、真理を知った者としては情けない状態になりがちです。
去年の苦難をクリアしたのだから、少しは成長しているかと思っていたのですが^^;

でもわたしの場合、体調が良くなるとつい現世的なことに目が向きがちなので、今回も真理を生かすチャンスとかんがえるようにしています。

おっしゃるように、本当の自分は成長したいとおもっていて苦難をありがたいものと捉えているようにかんじます。

>愛があっても強くなければ表現は出来ず、強くても愛が表現されなければ意味がありません。

この言葉に、ハッとしました。
愛を表現するまでに、まだ自分は強くなっていないのだな、と実感しています。

シルバーバーチの述べたように、苦しみを苦しみとかんじない境地を目指して、真理の実践をしていきたいです。

イクミ さんのコメント...

ひろみ様

こんばんは。
ブログを読んでいただき、ありがとうございます。

神は苦難と引き換えに、霊的成長を与えてくれていると知っていても、実際にその最中にいると、逃れたいと思ってしまいます。
それでも、意味があることを知っているのと知らないのでは大きな違いです。

暑さ自体がストレスですので、自律神経のバランスを崩して、この時期に不眠症になる人は多いのではないかと思います。
体調が良くなると現世的なことに目が向きがちになるそうですが、肉体が弱っている方が、魂が優位になるので、人生の学びや成長の多くはそんな時にしているのだと思います。

苦しみを苦しみとして感じない境地になれば、この世に生まれて来る必要はなくなるのでしょうが、一朝一夕と言うわけには行きません。
今の苦しみが、魂の成長を促し、その境地へと導いていると思います。

ラッパ吹き さんのコメント...

イクミさん、

とても大切で重い深遠なことなので、すぐにもコメントさせていただきたかったのですが、頭の中で相反する何かがぐるぐる渦を巻いているようで考えがまとまらずにいました。

かつてのオリンピックのメダリストの多くが今、コーチや監督などからのパワハラや性暴力の被害を打ち明けはじめたように、オリンピック級のアスリートにとってのスポーツの目標や生きる目標に対する試練が本当はとても複雑で醜いものだったことを私たちに教えてくれています。

すみません、どうしてもうまく言葉にできないのです。

美しい生きる目標と苦しいその試練という、私たちが読み聞き観てきたストーリーとは、真実は違うことがあまりにも多くあります。

戦争の悲劇、8/6 広島、8/9 長崎、、
大震災、津波、洪水、、
家族を失い、生きる気力を無くし、それでも立ち上がって、生きて行く。
核兵器禁止活動に、震災復興に、ふるさとの復興に、熱い希望と亡くなった愛する人たちの思いを託して。。

しかし、、
親が子を虐待して殺し、子が親を憎んで殺し、家庭が危険で家にいられず居場所がなく街をさまよう少女たち、、
ソクラテス、リンカーン、トルストイ、(悪妻に悩まされた)
彼ら彼女らの試練は何だったのか、何のためだったのか。。

ベートーヴェンの試練は溢れる音楽の才能に対して絶望的に立ちはだかった難聴だけではなく、永遠の恋人との悲恋があり、ある映画では甥のカールが実は実子だったというストーリーでそれにはハッとさせられました。
ドロドロの泥沼。。

すみません、言葉にならないんです。
生きることと、その試練とは、決して「世間的に、この世的に」胸を張れるような、スポーツ根性ドラマのようなものばかりではないと思えて仕方ないのです。
もっともっと、幾重にも複雑で人に言えないような暗い醜い試練がたくさんある。

神の摂理が絶対公正で完全である以上、そのすべてに意味があり、良きものであることは間違いないはずです。

ただ、多くのオリンピック選手たちが受けた性暴力、レイブは何のための試練だったのか、私にはわからないのです。

私にとっても、私の苦しみは、そんな美しいものではなく、多くはとても醜いドロドロしたものです。
私がたったひとつだけ納得できるのは、私は彼女が受けた苦しみと同じ苦しみを与え給え、と神に祈ったことです。
でも、彼女がこんな苦しみを受けていたとは思いたくない、そんな苦しみ。

すみません、まとめることができません。
そんな醜いものにも、すべてに神があり、すべてが神の摂理の中にある。それば疑いようがありません。
私にはとても計り知れない、神の無限に深い愛と英知。醜さの中の、神。。

ラッパ吹き

ナオヤ さんのコメント...

そうですね。苦しみは、成長のためにありますね。
その一方で、”自分の心を押し殺すことによる苦しみ”、これはシルバーバーチが望んでいることではないように思います。
この間イクミ様もおっしゃっていた、”自分をさらけ出す”ということですよね。

以下の文章を紹介させてください。
昔は、時代がそれを許さなかったのかもですが、今は割と自由だと思います。
だから、色々しがらみはありますが、自分自身を殺さずに、でもやるべきことはやって、生きたいです。

奥さんの気持ちを旦那さんが知らないのが切ないなぁと思いました。
こんな風に思われていたら、すごくすごくショックですよね。。


【以下は四人姉妹がおかあさんの葬儀の済んだ夜に交わした会話の場面から始まる】

「浦和に名古屋に松本と姫路かぁ。ほんとにまぁ、四人姉妹、みんなそれぞれに思っても見なかった人生、生きてるよねぇ」

一番上の姉が呟いた。

「修一兄さんも健良兄さんも陸軍と海軍の生き残りを胸にしまって生きているし。豊一兄さんは養子の淋しさがあったろうし」

「時代とはいえ、七人だよ。おとうさんとおかあさん、苦労したよね」

「これからがようやく二人の人生だったのに。おかあさん、何一つ楽できないでーー」

「でもおかあさん、よく言ってたよね。あんな時代をくぐり抜けてきて、七人の子どもがみんな無事だったのが何よりの幸せだって。それ以上を望んだらバチが当たる、って」

私たちは母を語りながら、県立女学校を出て向学心旺盛だった明治生まれの母の、妻として母として家を守る者としてだけの、自己犠牲に徹した無欲な人生に圧倒されていた。

たとえ母の受けた教育がそういうものであったとしても、それを自らの信念として脇目もふらず一生懸命生きた母の純情は、常に迷妄の中にいる私たちには、人間離れして誇り高く清らかに見えたものである。

「お茶漬けだって美味しい茎のところじゃなくて葉っぱの部分きり、お魚は尻尾ばっかり、食べて。いいところはみんな人に譲るんだもの。この人は本当に心からそれで満足しているのかなってよく思ったものだわ」

「あのね、これだけはわたし一人の胸にしまっておこうと思ってたんだけどーー」

突然、一番上の姉が改まって言った。

「実はね、みんなにまだ話していない、おかあさんの最期の言葉があるの」

母は大方一ヶ月を昏睡状態で過ごした。

その直前、どうしても起こしておじいさまがおいでる方向へ向けてほしいと言うので姉が背中から抱きかかえてやると、震える手を合わせ、親に先立つ不幸を詫びた。母の父親である茅野のおじいさまはその時九十二歳でまだ健在だったのである。そしてみんなに有り難うと伝えるように言い置いた母は、安心したのかそのまま穏やかな寝息を立て、そのあともう心臓の鼓動とわずかな体温だけが生きている証であった。

「おかあさんらしいね」と私達は言い合ったのだった。その母がまだ何か一言を残しているのだという。

「かあさんの人生は失敗だった、ーーって」

えっ、いま何て言ったの? もう一度言って。

「母さんの人生は失敗だったーー」

それ、ほんとう?

心臓が止まるというのはこのことだった。

いきなり母に突き放されたのだ。公開とか恨みとかいうような生易しいことではない。母は最期に自分の人生を否定して去った。父への、私たち娘への、母の裏切り。咄嗟に私たち娘にはそう感じられた。

「おとうさんには絶対に言えないよね」

二番目の姉に私達はうなずいた。

「娘は永久に救われないよ」

ナコちゃんが鼻声で言った。

私は黙ったまま、かつて怪訝に思ったことのある母とのやりとりを胸に蘇らせていた。

三人目の妊娠を電話で知らせたときのことである。母はぽつりと言った。

「郁ちゃんはやりたいことがあるはずだえ。ますます郁ちゃんの時間はなくなるんだねぇ」

たしかにその時も私は母の胸の奥の一つの真相に触れたのを感じたのだ。そして無情にも私はやはり母を見過ごした。

おかあさん。おかあさん。

私は喉もとで母を追いかけながら、母の人生を抱きかかえて光る諏訪湖の夜のしじまに立ち尽くしていた。独りぼっちだった。

母の残した思いもかけない言葉は、以来私の人生に張りついて三十年が経つ。

母は家庭にあって夫や子どもを身を尽くして愛した。ふじ子という自己を生かしたい自分を騙しきった。そして捨てきれるものでなかった自分というのマグマを、せめて娘たちに明かして去ったのだ。わが娘たちよ、わが娘たちよ、と呼びかけながら。

あれから私は四人目の子を産んだ。母と同じ愛と苦悩の上にを生かすのでなければ、本当に母の思いの届く仇討ちにはならないと、勝手に思い定めて。

は、私に人生を死に臨む視点から見つめることを厳しく求めると同時に、私の絶対的な人生の応援歌になった。これだけは譲れないという一線を常に教えてくれるのである。

そして、どんな人にもひそかに燃えるマグマのあることを思い知った私は、以前よりもまして、深く人の悲しみを感じるようになっている。

(柳谷郁子「母の裏切り」による)

ラッパ吹き さんのコメント...

ナオヤさん、

それは、女性、母親だけじゃないですよ。
男も、そう、です。悲しいくらい。

私は、そうなる前にチャンスを与えてもらったんです。
子や夫や父のラベルではなく、仕事や何らかの役割のラベルでもなく、素っ裸のありのままの自分として生きるチャンスを。

そんな真の自分として生きることができている男性が、周りにいますか?

ラッパ吹き

イクミ さんのコメント...

ラッパ吹き様

こんばんは。
引き続き、ブログを読んでいただき、ありがとうございます。

あなたが言われていることは、良く判ります。
オリンピック選手が味わう試練は,傍目から見れば美しくみえるかもしれませんが、好ましくない感情にまみれているものも、たくさんあるのかもしれません。
パワハラや性暴力があったとすれば、それは与えた側の過った自由意思の行使であり、受け取った側は乗り越えるべき試練などではなく、ただ傷ついているだけかもしれません。

人生において味わう試練は、ドロドロとして、時に醜さすら感じさせる、目的が判らないものかもしれません。
戦争や犯罪などで味わう苦痛は、試練ではなく、人間の過ちから生じるものだと思います。
埋め合わせの法則が働くとは言っても、神が望んでいるものではなく、あってはならないものです。
その人の成長のために計画されたもの、あるいは望んだ結果生じたものが、試練と言えるのかもしれません。

彼女が受けた苦しみを与え給えと祈った祈った結果が、これまでの苦しみ、今の苦しみであれば、あなたの祈りの中に真実の愛が込められていて、それが神に届いたのだと思います。
私には、想いを共有して生きる悦びのために必要な試練が与えられているとしか思えません。

あなたが言うように、醜さの中にも神が宿っています。
その醜さが生み出す苦しみの中で、神が望んでいる姿に変容して行くのだと思います。

イクミ さんのコメント...

ナオヤ様

おはようございます。
ブログを読んでいただき、ありがとうございます。

自分をさらけ出して、ありのままに生きようとすることは大切です。
しかし、ラッパ吹き様が言われている様に、それは容易なことではありません。
ありのままに生きようとしても、時代や文化、社会情勢などの外的な要因によって制限を受けると思います。
また、国や性別、どんな親の元に生まれて来たのかによっても違いますが、全て自分が決めていたことです。

死に際に、家族がそのようなことを言われれば、相当なショックを受けるでしょう。
人生に成功や失敗があると言うよりも、満足と後悔があり、自分の想いを押し殺して生きて来たことを後悔していたと受け取っています。

私の祖母の世代の女性は、そんな人生が一般的だったような気がします。
体裁のためではなく、家族のためであれば、その動機は利他的なので、成長を伴っています。
また、霊界では地上で果たせなかった夢や願いが叶いますので、しばらくすれば後悔の念は薄れて来るのではないでしょうか。
どうしても地上で果たしたいのであれば、神の計らいにより、もう1度生まれて来ることになると思います。

ありのままの自分の想いが、様々な制約により表現出来ないのが地上の特徴であり、マグマの様な熱いものを持っている人は多いと思います。
私自身もその1人であり、早く表現をしたいと思いつつ、それが出来ないでいることに、大きなもどかしさを感じています。

匿名 さんのコメント...


お世話になっております。

地上は、魂をきたえる場所だけあって、やはり、過酷なものだと思います。
真理を知る前は、幸せ、幸せといっておりましたが、
魂をきたえに来ているんだから、休む暇なしと思ってしまいます。

また、どうにかしたいと思っても、やはり肉体の世界であり、思う通りにはいかないものです。
これも、地上ならではなんですよね。正気、苦しい限りです。もどかしすぎます。
ま、自分一人で生活しているわけではないですから当然なんですけどね。
自分のやるべきことをやって、あとは霊界にお任せしましょうとは思うものの試行錯誤を重ねながら日々暮らしております。とはいえ、地上的な頭になってしまいますが。

コロナになり、生活様式は変わりましたが、感染者が増えても経済を優先している政府は何の手も打たない。もどかしい限りではございます。でも、これをみんなで考えて、乗り越えれる日がやってくるんだと信じて前に進むしかないのだとも思っております。

「同じことを想い、同じことを感じながら、お互いのために何かをする悦びを感じながら生きるために必要な経験を、今、地上でしています。」このお言葉ですが、まさに今職場のスタッフが同じ思いで、行動しております。働いている場所が、県外のお客様が来る観光施設ではありますが、上司にみんなでコロナで感染が増えているのでと対策をと投げかけましたが、要望は通りませんでした。もはや、危機感なしの状態です。恐怖を抱くのではなく、最高のおもてなしをしようと思うと以前書きましたが…正直、精神的に疲れ始めております。

しかし、生きている以上、困難と苦しみはつきもの。それを、わざわざ経験し来ている。
このコロナが起きてくれたことによって、さらに自分をきたえているようにも感じられてならないです。

この世に生まれてくるって、大変なことなんだなって。
それでも、近くにいてヒントを送ってくれて、見守ってくれているひともいるのだから、
頑張らなければいけないって思ってしまいます。


えり




イクミ さんのコメント...

えり様

こんばんは。
ブログを読んでいただき、ありがとうございます。

そうですね。
真理を知る前は、漠然と幸せな人生を送りたいと思っていましたが、知ってからは次から次へと課題が生まれて、私も休む暇なしのようです。

コロナの流行は収束する気配がありません。
霊的真理を知っていても、肉体を持つ身であるので、感染の怖さはどうしても生じてしまいます。
怖さが生じると、たちまち意識は地上的な次元に引き戻されてしまいます。

職場の上司の人は役人的で融通が利かないように感じますが、スタッフは良い人ばかりで、連帯感も強そうですね。
私もそうですが、お客さんが来なければ仕事が成り立たないので、リスクを背負ってでも続けざるを得ないのはつらいところです。
世界中の多くの人が、同じジレンマを抱えています。
それでも、何日も気を張り詰めていると、疲れてしまいますね。
これからお盆にかけて、忙しくなるのでしょうから、ストレスを溜めないように注意して下さい。

守護霊が見守ってくれていると信じていれば、無用な危害が加わららないように導いてくれると思います。

ナオヤ さんのコメント...

ラッパ吹き様、イクミ様

読んでくださりありがとうございます(^^)

誤解しないでいただきたいのは、私はこの"おかあさん"を責めるつもりはないです。むしろ「分かるな〜」と思います(←生意気ですね笑)
母親ばかりが大変な思いをしていて、男性は大変でないということを言いたいわけでもなく、母親という枠組みを越えてこの"おかあさん"から学べることはたくさんあり、それを自分に生かしていくことが大切だと考えます。

"ありのままに"と言いましたが、"ありのままに"と言うよりも、"自分をしっかりと満たしてあげること"と言った方がニュアンスが近いかもしれません。

自分をしっかりと満たしてあげながら、その上で、生きていくことは大変で当たり前という覚悟を持って、「能動的に」「自分の責任で=自分を犠牲者にせずに=誰かを加害者にせずに」自分を与えていくということが大切なのではないかと思いました。

>霊界では地上で果たせなかった夢や願いが叶いますので、しばらくすれば後悔の念は薄れて来るのではないでしょうか。

おそらくそうだろうなと思います。が、私は、霊訓を知ったからこそ、むしろしっかりと地上世界に執着して、"なぜこのようなことが起こったのか、どこが原因なのか、どうすればそれを変えられるのか、その中で自分にできることは何なのか?"論理的に分析して、一つ一つ地道に実行・改善してゆき、たとえ地上世界で人生が終わりだったとしても納得のいく人生を送りたいと思うようになりました。

今回の件で言えば、時代背景は今と異なりますが"なぜ私は自分の思いを外に出せないのか?変えられるところはどこか、それを変えるためにはどうすればよいのか?変えられないところはどこか、それをなるべく納得のいく形で受け入れるにはどう工夫すればよいのか?"ととことん自分と向き合って具体的に取り掛かることのできる課題を設定することです。それはまさに、ビル・エヴァンスさんの言う"事柄を明白にし、現実に直面し、それを分析する力を持つ"ということだと思います。

実際、うまくいかないこと、思い通りにいかないこともたくさんあるでしょう。が、たとえそうだったとしても、血と涙を流しながらやれるところまで諦め悪く奮闘します笑 完全燃焼できれば失敗しても幸せだと思います。

因みにですが、私が「ありのまま」に生きているなと感じる方、いらっしゃいます。素敵だなぁと思い、私は憧れています。以下のようなことをおっしゃっています。

“「私は何者でもないし、何者でもある」と考えてみよう”

自己限定のない生き方をすることが、能力開発の基本です。それは、自分の考え方を職業や年齢や性別で制限しないことです。
例えば、私は医師ですが、一日のうちの何割かは医師としての枠を取り外して物事を考えています。患者を前にした時の私は医師ですが、自分の研究テーマを追求している時はもはや医師であることを忘れ、自分のあらゆる人生経験で得た情報を活用して目標テーマの攻略法を考えます。また、私は僧籍を持っていますが、日常はその枠を外して生きています。さらに教師でもあり、夫でもあり、父親でもあり、とさまざまな社会的な看板を抱えていますが、私はそれらのいずれでもあるし、いずれでもないのです。
看板がなければ私がない、ということはありません。看板が出来上がる以前から、私は私です。社会的ラベルが発生するはるか以前の自分の原点に絶えず立ち戻って、そこから自分の人生を見つめ直して立て直していきたいと考えます。
過去の自分の軌跡には執着しません。いつも未来のよりよい人生を求め、よりよい生き方があると本当に思えるならば、いつでもすべてを捨てる心の用意をしています。実際にはそんな機会はないかもしれませんが、このような考え方は、心の自由を確保する上で、必要なのです。また、その決断がいつでも下せるように、人生その時その時の仕事や人間関係を完結させておく心構えが必要です。事故経験を経て、私は一層その感を強くしました。
他人を見る時も同様です。地位や職業にプライドを持つ人もいるし、逆のこともあります。それと関係なく、先入観を離れて相手を眺めたいものです。地位や立場を離れた生の人間を見ないと、世の中も見えてきません。

ラッパ吹き さんのコメント...

ナオヤさん、ありがとうございます。

この柳谷郁子さんのお母様を責めることは誰にもできないと思います。
そして、そのお母様がいちばんそのご自身の生き方を悔やんでいたからこそ、娘たちよ娘たちよと、心からのあの言葉が出たのだと思います。

エリザベス・キューブラー・ロスの講演を起こした本にこんなところがあります。

(以下、引用)
問題なのは、本当に直感的なのはごく一部の人間だけで、私たちの多くは自分自身の声に耳をかたむけず、ひとの言うことばかり聞いているということです。それは私たちが条件つきの愛で育てられたからです。「学校でいい成績をとったら愛してあげる」とか(中略)

両親から愛されるためなら何でもする。本当に何でもする、という人がいかに多いことか。そういう人たちは、愛は買えると思っているのです。愛を買おうと思って、彼らは一生うろうろ探し回ります。でも、愛は見つからない。真の愛は買えないからです。そういう人たちは死の床で悲しそうに言います。「私はいい暮らしをしてきました。でも本当には生きてきませんでした」。 私が「本当に生きるってどういうことですか」と聞くと、こう答えるのです。「私は弁護士として(あるいは医者として)成功しました。でもじつは大工になりたかったんです」。
(中公文庫 「死ぬ瞬間」と死後の生 p88〜89より引用)

この本には「苦しむことの意味」という節があって、イクミさんが書いてくださったことと同じことを彼女も言っています。
(以下、引用)
あなたが経験する試練、苦難、喪失など、あなたが「もしこれほどの苦しみだと知っていたら、とても生きる気にはなれなかっただろう」と言うようなことはすべて、あなたへの贈り物なのです。それはちょうど・・・(聴衆のほうを見て)熱い鉄から刃物をつくるとき、何が必要ですか。鍛えることですね。

すべての苦難は、あなたにあたえられた成長のための機会です。成長こそ、地球というこの惑星に生きることの唯一の目的です。
(同書 p75)

私たちは、意思が強いことが美徳だと刷り込まれてきました。でも、それは自分の声をねじ伏せて他者の価値観に無理矢理に従って生きることを強いるためだったのではないでしょうか。そんな風に生きてロボットのようになってしまった人をたくさん見てきました。
鬱になる人も、実は意思の力自己抑制の力が強い人が多いのだそうです。鬱はその圧政に対する心身の反乱なのです、と。(泉谷閑示 医師)

ビル・エヴァンスはジャズピアニストですが、それがラベルだとは感じられません。彼は、あの動画で言っていたように、持てる力をすべて音楽に注ぎ込みました。ビルは自分自身の声を聞き、それに従ったのだと思います。

Go for beauty and truth, and forget the rest. (美と真実を追求し、他は忘れろ。)
ビルが亡くなる少しまえにトニー・ベネットに電話して言った言葉、私も自分の声に従って、そう生きたいと強く強く思っています。

ラッパ吹き

イクミ さんのコメント...

ナオヤ様

おはようございます。
昔は仕事一筋で生きる人生は素晴らしいと思っていました。
仕事を通して学び成長する部分も確かに大きいのですが、仕事を取ったら何も残っていないのでは空し過ぎます。

自分には何が残っているのだろうと考える時が良ありましたが、今は大切なものが残っています。
それは霊的真理です。

この世を生きている人間から、あらゆるラベルを剥ぎ取って、最後に残ったものが真の自分です。
向こうに持って行けるのは、それだけです。
真理を知っている者が、知らない人に広めること、それが真の自分がするべきことだと考えています。

イクミ さんのコメント...

ラッパ吹き様

おはようございます。
自分自身と真剣に向かい合って来た、あなたらしい温かく適切な文章が、私の心にも響きました。

ナオヤ さんのコメント...

ラッパ吹き様、イクミ様

>この世を生きている人間から、あらゆるラベルを剥ぎ取って、最後に残ったものが真の自分です。
向こうに持って行けるのは、それだけです。

全くその通りだと思います。肩書や立場、お金など無意味です。本質ではありません。だからこそ、私は”自分自身”を充実させたいと考えて生きてきました。また、シルバーバーチも言っているように、自分の良いところ悪いところ全てが曝け出されることになります。それは自分はこうだと思いこんでいたり、周囲に装っていたものとは違います。地上世界でこしらえた個性をそのままたずさせて向こうに行くことになります。

向こうに行った際に携わることになるであろう仕事に備え、せいぜい100年弱をこの地上世界で暮らしているということになります。

私は、だからこそ、せっかくもらった”地上世界での自分の仕事や家庭での出来事、その他全ての出来事”を「教科書」として最大限活用したいと考えます。

そのためには、やはり"事柄を明白にし、現実に直面し、それを分析する力を持つ”とともに、たとえ地上世界で人生が終わりだったとしても納得のいく人生を送るんだ!という気概があった方が良いのではないでしょうか。向こうの世界のことを忘れないことも重要ですが、”この世で成長する”という目的を果たすためには、「今」に集中するということはとても大切なことのはずです。

せっかく「教科書」を読んでいるのですから、それをしっかり味わわないと、勿体ないですよね?

辛い出来事が起こった時に、それを”苦しみは成長に必要なものだから”で終わらせない。そこから学べるものは学び尽くすんだという気概で、きちんと原因を分析し、現実を変えていくような行動を起こす。

人間は変わっていけるのではないでしょうか?自分次第で「苦しみから得られる成長の大きさをより大きくする」ことも出来るのではないでしょうか?それこそが、自分で自分を救うということなのではないでしょうか?

シルバーバーチも言っています。”一つ一つの経験から教訓を学ぶことです。難しいと思った時は、怯(ひる)まず自分にムチ打つのです。そうすればそれだけ前より強い人間となります。”

例えば、私は恋愛で失敗しまくっていた時に、自分自身を徹底的に分析しました。そこで得た結論は、”実は相手のことを考えているようで自分しか見ていなかった。だから常に人の気持を考えてからの言動を心がけよう。”ということです。今書いてみるとめちゃくちゃ当たり前のことですね^^;

その努力のお陰もあってか、私のことをいいと言ってくれる人も出てきました。 あの時、失敗して本当に良かったなぁと思いますし、失敗なくして今の自分はあり得ないと思っています。

もし、私が”苦しみはこの世では必要なことだから、この苦しみに耐えれば成長でき、向こうの世界で幸せになれる”と考えて何もしなかったら、この大切な事実に気づくことは出来なかったのではないでしょうか?また同じ失敗を繰り返していたのではないでしょうか?成長する機会を逃していたのではないでしょうか?果たしてそれで本当に向こうの世界で幸せになれるのでしょうか?

伝え方が下手くそで申し訳なかったのですが、私が伝えたかったのは、”苦しみは成長に必要だけれど、それに甘んじることなく出来る努力はしたい。その方が成長が得られると思うから。”ということです。それは、決して”自分の声をねじ伏せて他者の価値観に無理矢理に従って生きる”ということではないはずです。

ラッパ吹き さんのコメント...

ナオヤさん、

すれ違いが起きてしまったようで、私
こそ、うまく思いが伝えられず申し訳ありませんでした。

すれ違っているのは、たぶん、苦しみから学ぶこと、それをナオヤさんの言葉で「能動的に」するのか、「甘んじる」=ただ耐えるだけ、なのか、ではないかと思います。いかがですか?

私が自分の苦しみから感じた/感じている、のは、苦しみに直面して闇の中どん底でのたうち回っている時、脳裏に浮かぶのは、学ぶか甘んじるか、というより、生きるか死ぬか、なんです。
耐えて生きるか、耐えきれずに死ぬか。

耐えて生きることはとてもとてもつらいです。でも、ただただ耐えて生きることで、いつか必ず学びが得られる。いつかは、、大抵、わかりません。。それは、私の実感からは能動的に教科書を学ぶように、する/できるものではなくて、私の思いでは「思い知らされる」と言う言葉が近いです。

そんな、本当に魂に深く刻みこまれる学びは、この世の小さな自分の限界を遥かに超えています。とても耐えきれない、んです。ギリギリではありません。身も心も打ち砕かれるんです。シルバーバーチの言葉でも、万事休す、もうだめだ、そんな苦しみがあるのです。

神谷恵美子さんの名著「生きがいについて」に、小説家パール・バックの言葉が引用されています。パール・バックは沢山の元気な子どもたちに囲まれた幸せな母親としての人生が夢でした。(柳谷郁子さんのお母様みたいですね)でも、彼女が最初につまりひとりだけ授かった娘さんは、、精薄児だったんです。母親さえ認識できない、一生幼い子どものままの。その、パール・バックの悲しみと絶望と、、そのどん底の悲しみと苦しみの暗闇、心の底から願った生きがいを粉々に打ち砕かれたこの世の生の中で、彼女が何を感じ何に気づき何を生きがいにして生きたか、ぜひこの名著を読んでください。
精神科医として、らい病の方たちに接してきた神谷さんの言葉は、必ず医師のナオヤさんの糧に、ナオヤさんの患者さんのために、なるはずです。

前に挙げたエリザベスの講演を起こした本にも、パール・バックにそっくりの女性のケースがあります。(前に引用したところの直後です。p75)
その若いお母さんにとって2人目の待ち望んだ娘さんが、精薄児だったんです。それを知った父親は出て行ってしまった。2人の幼い子を抱えて仕事もお金もなく、絶望し、怒り、神を呪い、、
その若いお母さんが、苦悩の果てに何を見出したか?
彼女が書いた「お母さんに」という詩をエリザベスが紹介してくれています。とても、とても、感動的な詩です。
その詩の後のエリザベスの言葉を引用します。

(以下、同書p79から引用)
この同じ母親が、つい数か月前には、プールサイドで赤ん坊をはいはいさせ、自分が台所に行くふりをしているあいだにプールに落ちて溺れてしまえばいいと願ったのでした、彼女の内部で、大変な変化ぎ起きたのです。

このお母さんは、能動的に教科書から学ぼうと出来ていたでしょうか?
その娘さんを殺していたかもしれません。。

それほどの苦しみからしか、この世を生きる私たちには、真の意味で魂に刻みこまれるように深く真実を学べないのかもしれません。

どうか、どうか、すれ違いが解けますように。

ラッパ吹き

ラッパ吹き さんのコメント...

イクミさん、ナオヤさん、

すみません、言葉足らずで心配になったので補足させてください。

神谷さんのお名前、ミスしていました。神谷美恵子さん、です。
「生きがいについて」は、私が持っているのはみすず書房刊の著作者I ですが、先日書店で新しい体裁で復刊されたものを見ています。

補足したいと思ったのは、エリザベスの本のお母さんのケースです。

「能動的」に学ぶのか、甘んじるのか。。
この表現にナオヤさんの思いが込められているのがよくわかるので、この若いお母さんがどう学んだのか、エリザベスの講演から引用させてください。

これを能動的と言うのか、甘んじると言うのか、それは視点の置き方だけだと思うのです。彼女がしたことは、こうです。

(以下、前掲書p76から引用)
やがて彼女は、こういう子どもをもつことには、それなりの意味があることに気づきました。そこで、最終的に彼女が自分の問題をどう解決したのを、みなさんにお話したいと思います。あるとき彼女は、この世には何ひとつ偶然というものはないのだ、ということに思い当たりました。彼女は子どもの顔をじっと見て、この植物のような小さな人間がこの世に生きていることに、いったいどんな意味があるのだろうかと必死に考えました。そしてとうとう答えを見出したのです。その答えは、彼女が書いた詩の中に書かれています。それをここで朗読しようと思います。
(引用、ここまで)

能動的に学んだ、と言ってもいいと思います。追い詰められて学ばされた、と言ってもいいと思います。
このお母さんは、この”植物のような小さな人間”をプールで溺れさせるところだった。でも、必死に考えて考えて、ついに見出した。

どうか、すれ違いが解けますように。

ラッパ吹き

イクミ さんのコメント...

ナオヤ様

最後のご質問について、私なりに書いてみます。
自分の失敗や過ちから生じる苦しみであれば、努力次第で和らげられることが出来るかもしれません。
しかし、自分ではどうすることも出来ない、ただ耐えるしかない苦しみもあります。
このブログにコメントをしていただく方の多くは、そんな苦しみを抱えられています。
もがき、苦しみぬいた末に、真理に辿り着く人がいて、ラッパ吹き様もその一人だと思います。

苦しみを癒やすのは、結局は自分しかありません。
霊的に成長すること、言葉を超えたものを魂が学び取ることによってのみ、癒やされると考えています。
学び成長し、自らの元に近づけるために、神は苦しみを創造したと考えています。

あなたが言われるように、苦しみを享受するだけでなく、理性的に解決するために努力するのは大切です。
それもまた、学び成長することにつながると思います。

ナオヤ さんのコメント...

>神谷恵美子さんの名著「生きがいについて」

さっそくメルカリで購入して読んでみます。

>すれ違っているのは、たぶん、苦しみから学ぶこと、それをナオヤさんの言葉で「能動的に」するのか、「甘んじる」=ただ耐えるだけ、なのか、ではないかと思います。いかがですか?

そのとおりです。”「能動的に」学び、苦しみを乗り越えるための具体的な努力をすること、なのか、「甘んじる」=ただ耐えるだけ、なのか”です。

>耐えて生きることはとてもとてもつらいです。でも、ただただ耐えて生きることで、いつか必ず学びが得られる。いつかは、、大抵、わかりません。。それは、私の実感からは能動的に教科書を学ぶように、する/できるものではなくて、私の思いでは「思い知らされる」と言う言葉が近いです。
そんな、本当に魂に深く刻みこまれる学びは、この世の小さな自分の限界を遥かに超えています。とても耐えきれない、んです。ギリギリではありません。身も心も打ち砕かれるんです。シルバーバーチの言葉でも、万事休す、もうだめだ、そんな苦しみがあるのです。

>このお母さんは、能動的に教科書から学ぼうと出来ていたでしょうか?
その娘さんを殺していたかもしれません。。
それほどの苦しみからしか、この世を生きる私たちには、真の意味で魂に刻みこまれるように深く真実を学べないのかもしれません。

イクミ様の書かれているように、私には想像のつかないほど重い苦しみなのかもしれません。正直、人生経験乏しい私が推測で述べてしまっていることを申し訳なく思っておりますし、偉そうな私の話に付き合ってくださりありがとうございます。これからの経験で考え方が変わるということも十分に考えられることです。


確かに、実際に体験して苦しまないと深く真実を学べないというのは事実だと思います。だから苦しみは無くてはならない大事なものなのでしょう。そのような状況で「能動的に」というのは厳しいかもしれません。ですが、少なくともそのお母さんも、苦しみを乗り越えるための具体的な努力をされたから変われたのだと思います。その苦しみに甘んじていただけでは無いと思います。

ですので、「能動的に」学ぶは無理でも、自分を変える具体的な努力は必須だと思います。

シルバーバーチ:“当然のことながら過去は今体験している結果の原因をこしらえたわけですが、その結果に対する対処の仕方が、変わって将来の結果を生み出す原因となるわけです。ですから、今こそ良いタネをまくように努力するのです。”

耐えているだけで、何もタネを撒かなかったら何も変わりません。だから「思い知らされた」ことを元に、小さなことから自分の行動を変えていくことが重要だと考えます。

行動を変えても変えても、もうどうしようもない。何をすればよいのかも分からないと途方に暮れていると、救いの手が差し伸べられることがあります。

”時には万策尽き、これにて万事休すとあきらめかけた、その最後の一瞬に救いの手が差しのべられることがあります”

これは本当です。ですが、あれもこれも全てやったけど駄目だった。本当の本当に万策尽きないと救いの手は差し伸べられません。初めから期待していては駄目だと考えます。

そして、余裕があったら、やはり「能動的に」学ぶことが大切ですね。それにより同じ苦しみからでも学べることが増えると思います。

私は、絶対に「能動的に」学べと言いたいのではないです。「能動的に」学んだ方がお得ですよね?と言いたいです。

どっちを選ぶのかはその人次第だと思います。私はなるべく後者を選べるように努力したいし、周りの人にもオススメします。その方がよりよい未来を創ることが出来るからです。

今の苦しみから最大限学び尽くしてしまえば、未来の苦しみの中には無用になるものもあるのではないかと思っております。子供達にもそんな風にエールを送りたいです。

“苦しみからは逃れられない。だからどうしようもない。耐えるしかない。”と無力感を感じるより、”自分次第で、どんどん学んで未来の苦しみを減らせるかもしれない。頑張ろう♪”の方が同じ苦しい地上世界を生きるのでも随分と違いませんか?笑

シルバーバーチ:“そのこととは別に、同じく苦しむのでも、地上には無用の苦しみが多すぎるという事実を指摘したいのです。みずから背負い込んでいる苦しみ、みずから好んで無知と愚かさの道を選んだために引き起こしている苦しみ、偏見が生み出している苦しみ、迷信に捉われているために生じている苦しみ――わたしが取り除きたいのは、そうした無くもがなの苦しみです。”

ラッパ吹き さんのコメント...


中公文庫 「死ぬ瞬間」死後の生 p87から引用


おかあさんに

おかあさんって何かしら。
それは特別なもの。
わたしがこの世にやってくるのを、何か月も待っていてくれた。
生まれたとき、あなたはそこにいた。
生まれてからほんの数分のわたしを見た。
おむつを換えてくれた。
あなたは長いこと、どんな子が生まれてくるのだろうか、と
あれこれ思いめぐらしていた。
上の子のようにおませだろうか。
学校に行き、大学に進み、結婚するのをずっと見守ってやろう、と。
どんな子だろう。家族の誉れになるだろうか。
でも神様はわたしに別のプランを考えていた。わたしはわたし。
わたしのことを「おませ」と言った人はいない。
わたしの頭の中では、何かがちゃんとつながっていない。
わたしは一生、神様の子どもでいる。
わたしはしあわせ。
わたしはみんなを愛し、みんなもわたしを愛してくれる。
言葉はうまく話せないけど、
愛も、ぬくもりも、やさしさも、心づかいも、伝えることができるし、理解もできる。
わたしの人生には特別な人たちがいる。
時どきわたしは笑い、時どきは泣く。
なぜかしら。
わたしはしあわせ。特別なお友だちから愛されているから。
それ以上、何がほしいというの。
たしかにわたしは大学には行かない。結婚もしない。
でも悲しまないで。神様はわたしを特別な人間にしてくれた。
わたしはひとを傷つけない。愛するだけ。
たぶん神様は、愛することしか知らない子どもを必要としている。
洗礼のときのことを覚えていますか。
あなたはわたしを抱いてくれた。
泣かないかしら、落とさないかしらと、びくびくしながら。
わたしは泣かなかったし、落ちなかった。
神様と、おかあさんと、わたし。
とても楽しい日だった。
あなたはやわらかくて、あたたかくて、わたしに愛をくれる。
でも、あなたの目のなかにはなにか特別なものがある。
わたしにはそれが見える。
ほかの人たちからも、それと同じ愛が感じられる。
こんなにたくさん愛してもらえるなんて、
きっとわたしは特別なのね。
世間の目から見たら、わたしはいい子ではない。
でもわたしは、
ほかの子にはできない約束をしてあげる。
わたしは、愛と、善と、無垢しかしらないから、
わたしたちは永遠を共有することができるわ、おかあさん。

ナオヤ さんのコメント...

色々と自分の思っていることをそのまま書いてしまいました^^;

“自分の言いたいことを言うのではなく、言うべきことを言う”、これは本当に難しいことだなと実感しました。

先輩方からしてみれば、それは違うのではないか、という部分も沢山あるのだろうと思います。今後、自分自身が”ただただ耐えるしか無い”出来事に出逢って、”ああこんなに辛かったのか、、。自分の意見は的外れだなぁ”と考え方を改める日が来るかもしれません。

ラッパ吹き様のおっしゃるように、人間は痛い目に遭って相手の立場を身を以て体験して初めて気づくということもあります。

読書会でも同じような内容を発表する機会がありましたが、散々に言われてしまいましたね。。 残念でした。

私自身は、困難を乗り越えるのにとても有効であり、シルバーバーチの意図するところでもあると思っていました。なので紹介してみたのですが、流していただけると嬉しいです。


イクミ様のコメントからもありますが、私は、かなり理性で考える方に偏った人間です。おそらく守護霊もそうで、そこからの影響も結構受けています。言葉を越えたものを学び取ることはおそらく苦手なのだと思います。

私は今回の出来事から、”言葉を越えた学びも存在する。自分が本気で良いと思ったものが相手にとってはそうでないこともある”ということを教訓にしようと思います。(←結局言葉ですね笑)

コメント欄をかなり荒らしてしまいました。。もうここには居られません。これにて失礼いたします。 私も頑張りますので、皆様も頑張ってくださいね!私達は絶対幸せになれると思います。本気で幸せを祈っております。 向こうの世界でお会いしたときはよろしくお願いします笑

イクミ さんのコメント...

ナオヤ様

前にも書いたと思いますが、あなたは若くして霊的真理と出会いました。
私があなたと同じ年齢の時は、思い出すのも恥ずかしい位です。
私も、おそらくラッパ吹き様もそうですが、あなたの2倍以上の年月を生きて来ています。
これから経験する様々な出来事を通して、真理の理解を深めて行かれると思います。

今は、国試を通ることに専念して下さい。
晴れて医師になった時は、今までにない大変な状況になっている可能性はありますが、そんな時こそ理解が深まる好機になると思います。

私から3つのお願いがあります。
先輩として認めてもらえるのであれば覚えておいて下さい。

医者はあなたのラベルの1つに過ぎなことを忘れないで下さい。
迷った時は、患者さんのためになる方を選択して下さい。
肉体だけでなく、人間の奥深くを診れる医者になって下さい。

仕事で良き師に巡り会えることを祈っています。

コメントを荒らしたなんて思っていませんので、何も心配しないで下さい。

ラッパ吹き さんのコメント...

ナオヤさん、

イクミさんと同じく、私もナオヤさんのコメントが荒らしだなんて思っていません。真摯な気持ちを書いてくださっていると感じています。悪意は微塵も感じません。
私が大学生の時は、まだ何も知らず、バイクでやっと人生を学び始めたばかりでした。

理性に偏ったというナオヤさんの言葉、私も身に覚えがあります。
シルバーバーチも神が与えた理性で検証しなさい、理性が納得しないことは受け入れないことです、と述べられています。それにはキリスト教のドグマや神学を盲信することを戒める意味があったと思います。

理性、知性にも肉体の脳の現世的、物質的なものと、魂から発する霊的なものがあると思います。
音楽を深く学ぶにつれて、それが良くわかるようになりました。私たちが生きるこの現世で音楽を演奏するにはどちらも必要なんです。物理的な知性が欠けていれば演奏はできないし、霊的な知性、愛が欠けた音は心に響かない死んだ音になります。

エリザベス・キューブラー・ロスや神谷美恵子さんが医師としてしてこられたことを読んできて、きっと医師の方々も同じではないかと、私は思います。

若くして霊的真理を受け入れることができたナオヤさんは、決して現世的な知性だけに偏重しているはずがありません。そんな人だったら、鼻で笑って相手にしてはいなかったはずです。そんな人だった有名な脳外科医が臨時体験を経て考えを一変させた例があります。

どうか、ご自分を責めたりせず、エリザベスや神谷さんのように、イクミさんのように、患者さんを肉体だけでなく心と魂も含めて深く癒すことのできる医師になってください。

これからも、ナオヤさんのコメントから学ばせてください。

ラッパ吹き

匿名 さんのコメント...

いつも素敵なブログをありがとうございます。

部外者がしゃしゃり出るのもアレだなと思いつつも、つい言葉を出してしまったことをお許しください。


ナオヤ様のコメントが荒らしだとは全く思いませんでした。

荒らしというのは、罵詈雑言を一行一文で何度も何度も行うことであると思っています。(私の主観ですが)
ナオヤ様を含めたお三方のやりとりは、とっても素敵だと思いました。
というのは、私の知らない一説を引用したり(そして丁寧な引用元を記してくださっている)、それに対するご自分の意見、相手の意見の咀嚼をしていたからです。

人と人とのやりとりは、ある物事に対して、いろんな方面から見ることができるものだと思っています。
そして私は傍観者ではありますが、多角にわたる意見を聞き、知らない本を知ることができて、うれしく思っています。

ですので、どうか、また議論をお聞かせください。


======================
話は変わりますが、

「母さんの人生は失敗だったーー」
それ、ほんとう?
心臓が止まるというのはこのことだった。
いきなり母に突き放されたのだ。公開とか恨みとかいうような生易しいことではない。
母は最期に自分の人生を否定して去った。父への、私たち娘への、母の裏切り。咄嗟に私たち娘にはそう感じられた。

~略~

三人目の妊娠を電話で知らせたときのことである。母はぽつりと言った。
「郁ちゃんはやりたいことがあるはずだえ。ますます郁ちゃんの時間はなくなるんだねぇ」


この本の一部だけをお借りしての私の感想です。
私は、お母様の優しさを感じました。
自分は好きなことができなかったけど(だから失敗といった)、郁ちゃんには自分を素直に出しながら生きてほしいな、という気持ちを感じました。
ただの一部を読んだだけですし、全文を読んだわけではないので、もしかしたら明後日のことを言ってるかもしれません。すみません。
ですが、主人公が娘であるということから、母の心情というのはわからないと思います。
聞いた主人公は裏切りと感じたと書いてあります。傷ついたでしょう。

亡くなった母からの言葉を、主人公が積極的に省みて、次に生かそうというのはできると思います。
けれど、亡くなった方の言葉は、いつまでもずっと心の傷として残るかもしれません。それは、省みた結果、きちんと咀嚼できたとしても、です。
それは別物かなと思います。次に進むために自分の糧とすること、これも大事で、亡くなった方の言葉からの傷を自分でゆっくりと磨く・癒すのもまた大事だと思います。
出来るようになるには、時間がかかるのか、別の誰かの言葉なのか、自分で気づく何かなのか。それも毎度なにかぶつかったときに変わることで、タイミングなどもあるかなと思いました。

ほんと、一部だけの文の感想で申し訳ないです。また、私の意見です。他にもたくさんの感想、言葉があると思っています。


話はまた変わりまして。
原爆の日ですね。
ヒロシマ、ナガサキ、そしてフクシマという言葉が生まれてしまい、今後そういう言葉が生まれないようにと願わずにはいられません。
子供のころ、歴史の授業(戦争の話)が怖くて、へらへらしていました。本気で聞いたら、苦しくて涙が出るからです。そして、非核三原則だというのを学び、でも原爆・原子力はダメっていうのに、発電所はなぜ・・・と思ったり。
いまだに頭が悪いので、違いが分かっていません。でも、3.11で起きたことが、哀しいです。
今のコロナの状況も誰が悪いというわけではなく……、じゃあ戦争は誰かが悪かったのか。誰かのせいにするのが解決にはならないし……。

でも、とにかく、みんなが元気になれるように世界になるよう、祈っています。

とりとめなく、また乱文(いつもですが)失礼しました。


ゆらり







イクミ さんのコメント...

ゆらり様

おはようございます。
ご心配してくださり、ありがとうございます。
あなたにも、そう言っていただけるとうれしいです。

あの文章から、あなたはお母様の優しさを感じたのですね。
地上では言葉を使って、思念や概念の伝達をしているので、同じ文章でも、受け取る側で解釈はそれぞれ違って来ます。
今日は原爆の日ですね。
終戦から75年経ちますが、何でこんな悲惨なことが起きたのかと、私も考えてしまいます。
国と国とのやり取りも言葉を介して行っています。
違う言語であれば、伝えたいことが、伝わらない可能性が、より一層高くなると思います。
齟齬が生まれて、それが増大すると不信感となり、不信感が怖れや怒りを生んで、思わぬ行動を取ってしまうこともあります。
そこに至る前に必要だったのは、お互いを信じること、認め合うことだったと思います。
そして、言葉や行動に込められた、相手の想いを感じ取る感性が必要だったような気がしています。

ナオヤ さんのコメント...

>医者はあなたのラベルの1つに過ぎなことを忘れないで下さい。
迷った時は、患者さんのためになる方を選択して下さい。
肉体だけでなく、人間の奥深くを診れる医者になって下さい。

>患者さんを肉体だけでなく心と魂も含めて深く癒すことのできる医師になってください。

ありがとうございます。医師というラベルを含め、様々なラベルの発生する前の「自分」で居たいと思います。良い意味でいつまでも子どもでいたいなぁと思います。
そうですね。やはり、自分の成績のためよりも、患者さんのためと思ったほうが、国家試験の勉強もやる気が出ます。患者さんのことを考えるということ=頑張るエネルギーを貰うということなのだと思います。霊的な視点も忘れずに、患者さんの為になると思う対処をしたいですね。
肉体を自信を持って診て、さらに内面にアプローチできたら最高ですね。これ以上に勝る喜びは無いと思います。これらの基本を忘れずにいようと思います。基本を忘れると何事も失敗しますが、実は一番忘れやすいものですね^^;

>それは別物かなと思います。次に進むために自分の糧とすること、これも大事で、亡くなった方の言葉からの傷を自分でゆっくりと磨く・癒すのもまた大事だと思います。
出来るようになるには、時間がかかるのか、別の誰かの言葉なのか、自分で気づく何かなのか。それも毎度なにかぶつかったときに変わることで、タイミングなどもあるかなと思いました。

そうですね。傷を自分でゆっくりと磨く・癒すのも大事ですよね。頑張ろうと思ってもどうにも頑張れない時はあります。前を向こうにもどうしても向けないときもある。ヨガをやっていても、どう頑張っても自分の意思通りに体が動いてくれないことがあります。そんな時は無理をせず、ゆっくり休んでほしい。自分にとことん優しくしてほしいです。傷を癒やすことで、前を向く原動力にもなりますね。


~以下補足しますね〜

私が出逢った霊能者は、私に決して優しい言葉を安売りしませんでした。当時の私にはかなりキツかったですが、”どのようにすれば自分の心を癒やして前を向けるようになるか?私に欠けていることは何なのか?何をしたら変われるのか?”を忌憚なく伝えてくれました。厳しい言葉が沢山並んでいましたが、愛がありました。本気で私の将来のことを考えてくださっていたのだと思います。

“ご相談の前に”

ご相談をお考えの皆様へ、勘違いをされると困りますので、はじめに申し上げておきます。
私の能力は、世間では霊能力と言われております。
しかし、あなたの困難を簡単に取り除いてあげることはいたしません。
心の傷も、霊障も、同じことです。
霊障であれば、簡単にとり除くことも出来ます。あなたは、楽になるでしょう。
ただ、あなたが救われることとはまったく違う意味なのです。
その霊も、困難も、あなたが引き寄せたものなのです。
それを、無理やり、いとも簡単に取り除いてしまったら、あなたは向上の余地がございません。
あなたが幸せになるには、幸せになるための努力が必要なのです。
正しい努力に比例して報酬が得られるものなら、私の除霊一つであなたが幸せになれるはずもありません。
もしあなたが「何の努力もなしに今の困難を乗り越えたい」「今の困難は霊の仕業で、私は関係が無い」「私は、被害者だ」
こう思われるのでしたら、私には相談なされないでください。相談なされたところで、何の解決にもなりません。
あなたの望みを叶えてくれる「優しい」霊能力者をお探しくださいませ。
ただ、その先には必ず落とし穴が待っています。
楽を望むものは負け組みです。努力を惜しまないものは勝ち組です。
「困難を乗り越えるには努力が必要だ」「本気で、幸せを手に入れたい」そう思える人は私にご相談くださいませ。
私の霊視結果、指導は厳しいです。それでも、素直に受け止めて頂ければ、必ず幸せになれます。

“何事にも代えがたい幸せ”

幸せ探しの旅をしている人、不幸や悲しみに苦しまれている人、頑固な病に苦しまれている人
気付いて下さい・・
幸せは自分自身の力で掴むものなのです。
たとえそれが霊的な因縁であろうと、他人に巻き込まれた不幸であろうと、ご自身の力で・・
数々の霊能者や占い師に頼ってきてしまった人、もう終わりにしませんか?
自分の人生は自分で切り開いてゆくのです。
私は「幸せになるために」
このお手伝いをするだけです。
決して、私が皆様の未来を変えたり、不幸を簡単に取り除くことはいたしません。
それでは意味が無いのです。
なぜなら・・
他人の力では幸せを掴むことは出来ないのです。
ご自身の力で困難を乗り越える喜びが何物にも代え難い幸せといえるのですから。

“カルマ”

カルマ「業」とは簡単に申し上げると「前世(過去)においてなした行為や学びが、良いものでも、悪いものでも、いずれ必ず自分に返ってくる」という因果応報の法則の事です。
つまり、前世の行いが悪いものであれば、その行いが現在に返ってきてしまうというもの。
御相談者様の中には、カルマのせいで、今何をやってもうまくいかない、この人生は辛いことばかりだと嘆く人が多い。
ただ、それも自分が招いたものであって、誰のせいでもない。
カルマのおかげで困難ばかりかもしれないが、マイナスではなく、その困難をどう楽しく、乗り越えようか考えるほかない。
ほかに方法がありますか?

当時で35年間、活動していらっしゃいましたが、やはり”その人自身が自分を変えていく”以外に人が救われる道は無いということを一番実感していらっしゃったんだろうなと思います。
また、少々キツイ言い方になりますが、「本気で、幸せを手に入れたい」と思っていない方もいらっしゃるということでしょう。人間心理とは不思議で、長い間苦しんでいると、無意識のうちに、「努力するくらいであれば、不幸なままのほうが良い」「幸せになるのが怖い」「自由よりも不自由がよい」と思ってしまうことがあります。そのことは、シルバーバーチも”(前略)なのに地上の人間はなぜ知識よりも無知を好み、真理よりも迷信を好み、啓示よりも教理を好むのでしょうか。それがどうしても理解できないのです。私の理解力を超えた人間的煩悩の一つです。”と言っています。
私自身、苦しみ続けているうちに、いつの間にか”苦しんで成長すること”ではなく、”苦しむことそのもの”が目的となっていた部分がありました。

だからこそ、苦しすぎてどうにもならない時もある。でも、ずっとそこに留まらないで、可能なペースで少しずつ変わっていってほしい。私もそうありたいなと思っております。

生きていれば、苦しいこと、悲しい出来事もたくさん起こるけれど、「色々あったけど、楽しんで乗り越えられた。生きてきてよかったなぁ。」と皆さんと向こうでハグしながら言い合いたいです。

私は幸せそうに生きている人を見るのが好きです。

イクミ さんのコメント...

ナオヤ様

こんにちは。
何と返信すれば良いのか、考えあぐねていました。

私も30年近く医療職として従事して来ましたので、今の時点で感じたままを書いてみましたが、ご自分のお考えも既にあるのでしょうから、それに向かってお進み下さい。

会われた霊能者は、その時のあなたに必要なことを伝えてくれたと思います。
正しいことを言われていると思います。
私も、コメントを下さる人に、必要な言葉を伝えて来たつもりです。
励まし、勇気付けたいと思いながら、(インスピレーションの助けを借りながら)書いて来ました。
今、苦しまれている人の中には、前世のカルマが原因の人もたくさんいるでしょう。
しかし、それだけではなく、敢えてその試練に挑戦し、成長を望んでいた人もいます。
そのどちらかは、私には判らないので、カルマとは言わないようにしています。
ただ、カルマにせよ自分の成長のために起きていることに変わりはありません。
どちらにせよ、霊的に意味があり、振り返った時に、乗り越えられた悦びを感じるはずです。

苦しい時に、状況を打破するために努力をすることは必要です。
必要と言うよりも、誰も苦しみを味わいたくないので、そうせざるを得ないのではないでしょうか。
留まっていれば苦しいだけです。
苦しさの中で、自分が変わって行くことが成長であり、成長することで苦しみから解放されて行くと考えています。
学び成長するために、この世に苦しみが存在すると思っています。
ただ、過去の過ちから苦しみが生じているのであれば、(他者のために奉仕をして罪を相殺はされるでしょうが)その償いが終わるまでは、変わる(成長する)ことは許されません。

私なりに意見を書いて来たつもりですが、あなたの求めているものではなかったのかもしれません。
世の中には、見習うべき人がたくさんいます。
これから先、良い指導者と巡り合い、正すべきところを指摘され、厳しい助言をしてくれると思います。

幸せそうに生きている人を見るのが好きなのですね。
私も同じですが、真理を知ってから関心は不幸を感じている人に関心は向いています。

「幸せ」ですが、昔は私も努力して掴むものと思っていましたが、今は穏やかに過ぎる時間の中で、ふと感じるものと思っています。
もう若くない証拠かもしれません。

失礼なことを、知らずに書いていたのであれば、どうぞご容赦下さい。

ラッパ吹き さんのコメント...

イクミさん、
実は私も躊躇していたんです。何を書いても今のナオヤさんには反感を呼ぶような気がしていて。
でも、以下、書きかけていたものを心のままに書いてみます。

ナオヤさん、
唐突ですが、フーテンの寅さん、観たことありますか?
渥美清さんが長年主演した、山田洋次監督の映画です。昨年末からお正月に50周年記念の第50作が封切りされました。これが予告編です。
https://youtu.be/-dL5OHWsW8w

イクミさんや同世代の私にはとても懐かしい昭和の優しい風景や人の心のひだが、幸せということの本質がふんわりと暖かく、時に胸えぐるように描かれた映画です。たくさんあるシリーズのどれを観てもそれがあるはずです。どの作品を選んでもハズレはないと思います。

DVDもあるので観てみていただけたら嬉しいですが、寅さんの珠玉の名台詞を精選してまとめてくれた素晴らしい本もあります。
(文春新書 「いま、幸せかい? 「寅さん」からの言葉」 滝口悠生 選)

♫俺がいたんじゃお嫁にゃ行けぬ
わかっちゃいるんだ妹よ
いつかお前が喜ぶような
偉い兄貴になりたくて
奮闘努力の甲斐もなく
今日も涙の
今日も涙の日が落ちる
日が落ちる

これがオープニングの主題歌です。渥美清さん本人が歌っていて、50作では亡き渥美さんに代わって桑田佳祐さんが歌っています。

「奮闘努力の甲斐もなく 今日も涙の日が落ちる 日が落ちる」

この歌詞に、たくさんの人生の場面が凝縮されている気がします。

話が飛躍すると思われるかもしれませんが、エリザベス・キューブラー・ロスの著書に、ある同僚の医師の話があります。

(中公文庫 「死ぬ瞬間」と死後の生 p205 節タイトル「いやなやつ」から引用)
その医長は、私たちと同じように、治療し、手術し、延命をはかるという医学教育は受けましたが、それ以上のことは習っていませんでした。それが問題で、だから彼の患者はみんな死んでいったのです。
ある患者は、ガンがすでにあちこちに転移していて、腫瘍が日に日に大きくなるのが目に見えるほどでした。ところがこの医者は自己防衛が強いあまり、明らかな行き過ぎを犯し、患者にこう言っていました。——ガンは治っています。病状が良くならないのは、あなたが病気だと思い込んでいるからです。
(引用ここまで)

引用していてもとてもつらいところですし、その後がとてもとても感動的なので、あとはぜひ本を読んでください。

今のナオヤさんに解っていただけるかどうか、私には判りません。

ある種の「努力」が必ず真の幸せをもたらすわけではないんです。悲しいくらい。そんな、方向を誤った「努力」や、そんな誤った努力を強いることが、患者さんや相談者や友だちや誰かをさらにひどく苦しめることが、たくさんたくさんあるんです。

寅さんは、エリザベスは、神谷さんは、そんな絶望のどん底にいる人から何を聴き、何を受け止め、何をしてあげていたのか、、、、
どうか、それがわかる医師になって欲しい。ナオヤさんの患者さんのために。

ちなみに、私がシルバーバーチやそのほかの信憑性のたかい霊訓を読んできて、除霊や霊障の排除を私は「しません」という言葉を使った人を知りません。
信頼できる霊訓などでは、それは「できない」あるいは「しても根本的な解決にならず、原因を排除できなければ元に戻ってしまう」とされています。
ウィックランド夫妻の除霊による統合失調症の何例にも及ぶ治療歴は、強力な霊団の支援によるものです。彼らは、「私は安易に除霊いたしません。」などと言っていたでしょうか?

きっと反感をもたれるかと思います。

将来のナオヤさんの患者さんたちのために、あえて書かせていただきます。
どうか、真のナオヤさんの魂に届きますように。

ラッパ吹き

ナオヤ さんのコメント...

イクミ様


イクミ様のメッセージを否定しようと思って霊能者のメッセージを紹介したわけではないんです(泣)

私はこれまで”そういう考え方もあるよなぁ〜”と思いながらイクミ様のメッセージを読んできました。失礼だなと思っていたら、わざわざ読みに来ないですよ。

今回のコメントは、”こういうことを言っている人もいて、私はその考え方が好きで、こういう生き方をしてくれる人が増えてくれると嬉しいな”とただただ思っているだけなんです。。。

過激なのは承知しています。言葉の選び方がどこか誤解を得やすいものだったかもしれません。でも、イクミ様やこのブログを読んでいる方々だったら理解してくださる方も居るかもしれないと思ってつい紹介してしまいました。

おっしゃるように、これから色んな師に出逢って、頭をかち割られることもあるかもですね^^; その時は思いっきりかち割られようと思います笑 

やはり私はこれにて失礼します。もうコメントはしません。お約束します。

振り返ってみれば私の方こそこれまで色々失礼なことをしてしまったと思います。

今までありがとうございました。

ラッパ吹き さんのコメント...

イクミさん、

すみません、ナオヤさんのコメントを見て少なからずショックでした。
イクミさんが心痛めていらっしゃるかもしれないと気になっています。
どうか、ご自分を責めないでください。

この世は悲しいことが多いですね。。

ラッパ吹き

イクミ さんのコメント...

ラッパ吹き様

こんにちは。
心配していただき、ありがとうございます。
ナオヤ様はあなたのを見る前に、コメントをされました。
とても熱が入ったものでしたね。

あなたが書いてくれたことをうれしく思います。
シルバーバーチは苦しんでいる人がいたら、(いろいろ要求せずに)すぐにヒーリングをしてあげなさいと言っています。
それを忠実に実行しているつもりです。
憑依や霊障はそれと少し違い、自分の波長を高める努力が伴わないと、病気のぶり返し以上に大変な思いをするのでしょう。
ナオヤ様の将来を思って、霊能者は厳しいことを言っていたのが良く判ります。
私もそうしたいところもあるのですが、相手の気持ちを考えてしまうと、言えないところがあり、改めるべき点なのかもしれません。

最も大切なものは愛です。
そのことを念頭に活動を続けてきたので、婉曲的に否定された気持ちになり、悲しくなりました。
でも結局は、私自身の力不足なので、気を取り直して進んで行きたいと思っています。

匿名 さんのコメント...


今日もお疲れ様です。

コメントが増えているのでのぞかせていただきました。

いろいろ意見があっていいと思います。

霊的真理を知っていてもどうしようもないことがあります。
ひたすら、この事象に耐えれるようにお導きくださいと願うしかないこともあります。
ましてや、霊的真理を知ったものはどん底まで体験しなければならないと書かれています。
成長するって、簡単ではないんですよね。

霊界からわざわざ体験しに来るんですから、地上で生きることはものすごく大変なことだと思います。

霊能者の方の話は事実だと思います。
霊的真理を知っている方にとっては当たり前のようなことだと思います。
遠隔治療をしてくださる方の中にも霊能者の方と同じことをおっしゃっている方がいらっしゃいます。
でも、私は、事実かもしれませんが、困っている人・弱っている人、真理を学んだことがない方にこのように言うのは酷なように感じられます。真理を知らなければ、正直、この人は何を言っているの?とさえおもってしまうでしょう。もし、仮に自分だったら正直メンタルがボロボロになります。なので、イクミさまのように優しく、安心できる方に相談したいと思ってしまいます。イクミさまは、突き放さず、本当に、優しく諭してくださると思います。厳しい方は、本当にものすごく厳しいです。怖いです。

いくら、真実かもしれませんが、みんな学びが違うわけですし、人に寄り添うことによって救われる気がします。自分も、人には優しく接したいと思います。他人の人生を背負うことはできませんが、自分でしか自分を救うことはできないと実感はしていますが、話を聞いたり、ほんの少しでも気持ちを軽くしてあげれることは、人の役に立ったと言えるのではないでしょうか。真実は、時がくれば自然と学ぶようになっていると思うし、各々の守護霊さんが導いてくれているはずです。言い方で、ものすごく変わると思います。

わたしは、シルバーバーチの霊訓は正直何を言っているか理解不能でした。
難しい人には難しい話だと思います。準備ができた人にしかわからないとも言われています。
真理普及は、霊界主導の計画ですから、自分ができる努力をしていければと思います。

みんな学びも違えば、魂のレベルも違います。
でも、みんな一生懸命生きています。
悩みのない人なんていない。だって、自分の課題を克服しに来ているんだもん。

こちらのブログで、意見交換できる場所があるって素晴らしいことだとも思います。
救われる人もいるだろうし、そうなのかとヒントになることもあるだろうし、
目からウロコと思えることもあると思います。


意図が違っていたら、すみません。

わたしも未熟物の一人です。




ナオヤさまへ

霊的真理を知っているお医者様はものすごく貴重だと思います。
頼もしい限りです。ありがとうございます。
わたしも、はやく、みんながみんな霊的真理を知って生きていける世の中になればと思っています。


えり




イクミ さんのコメント...

えり様

こんばんは。
私への励ましのコメントと受け取りました。
ありがとうございます。

私にとって、シルバーバーチの霊訓はバイブルと言って良い存在です。
信じても良いと思ったのは、文章からシルバーバーチの高い人間性や愛が感じられたからです。
シルバーバーチは慈しみの心で接し、全ての地上の人の心に寄り添っていたと思います。
あまりにも高い存在なので、こんなことを言うのも憚られますが、ほんの少しでも近づきたいと思っているのは事実です。
皆さんも同じでしょうが、どんな人よりも敬愛しています。
たった一人の人(霊)に傾倒し過ぎているのかもしれませんが、時が経過するごとに霊訓に書いてあることの真実性が増して行くので、その傾向はますます強まっていると思います。

そうですね。
人との出会いは、霊界によって計られていることが多いと感じています。
必要としている人が、それに応えてくれる人の元に導かれるので、厳しい忠告が必要な人には、それにふさわしい人のところに導かれると思います。
私はこのままで良いのかもしれません。
自分の思いを後押ししてくれるようなコメントをいただき、うれしいです。

お仕事は気を遣い大変でしょうが、あなた方のサービスを求めて来られる人のために、これからも頑張って下さい。

てる さんのコメント...

イクミ様

こんにちは。

ヒーリングをしていただいた二日後位から心身共に急速に回復し、かなり元気になりました。

短い夏休みにも、何処にも行けない息子とお友達とのお泊まり会の予定が入っていたため、「こんな状態では無理かな」と思っていたので、回復し、無事に楽しかったお泊まり会もすることが出来て、本当にありがとうございました。

皆様のコメントを読ませて頂きながら、私も、ナオヤさんが霊能者の方からの言われた言葉は納得のいく部分が沢山ありました。
比べるのは少し違うかも知れませんが、色々な人性格の人がいる様に、霊能者の方も、厳しい言葉を選んで伝える方もいれば、イクミさんのように、どこまでも優しい伝えて下さり方もいます。でも、きっと、どちらも、根底にあるのは、相談者への愛なのだと想います。

厳しい言葉によって、知る人もいれば、優しさ言葉によって、救われる人もいる。
そんな風に感じます。

私は、人生最大の悲しみの底で、イクミさんの言葉により引き上げて頂くことができました。
二歩進んでは三歩下がる様な毎日の中でも、いつでも温かくアドバイスをくださるイクミさんのおかげで、(勿論彼や守護霊さんも)今日もまた、元気を取り戻して生きていけています。

私は、イクミさんのようには、全く霊訓を読み込めてはいませんし、まだまだ理解もできていないのですが、迷った時、悩んだ時、こちらのブログでの、イクミさんと皆様とのやり取りから、ヒントを頂いたり学ばせて頂いています。

えりさんのコメントにもありましたが、私も、若くして霊的な事への理解のあるナオヤさんのようなお医者様が居てくださる事を、とても心強く想いました。。

ごめんなさい、まとまりのない文章になってしまいましたが、今感じている事をコメントさせていただきました。

いつも、ありがとうございます。

イクミ さんのコメント...

てる様

こんにちは。
体調が良くなって、息子さんのお泊り会に参加出来て良かったですね。

私の言葉が引き上げたと言ってもらえるとうれしいのですが、ご自身が試されていて、信じる方を選択されたので、今のあなたがあると思います。
本当に良かったです。
えり様が言われているように、自分を救うのは自分です。
霊能者の方も、そのことを真剣に伝えていたのだと思います。

私もそうでしたが、霊訓は直ぐには理解出来ないので、焦る必要はありません。
まず、シルバーバーチと言う愛に溢れた霊が言っていること、信じるようにして下さい。

現代医学は唯物的な考えをしているので苦労されるでしょうが、ナオヤ様は真理を規範とする数少ない医師になると信じています。

感じたことを、率直に書いていただき、ありがとうございます。
とても励みになりました。

匿名 さんのコメント...

哀しい結果となってしまったような気がして、コメントをどうしたらよいのかずっと考えていました。
私がむやみにしゃしゃり出たのが悪かったのかもしれません。全く違う未熟な考えもあると伝えたかったのもありました。
イクミ様、ナオヤ様、ラッパ吹き様、申し訳ありませんでした。


言葉は違えど、考えている方向は一緒だったと思ったのです。
相手を思い、もっと魂として成長してほしい、そんな思いが伝わる言葉達でした。
けれど、言葉を使っているから、書いている人と見る人の感じ方に相違があっただけだと思いました。
だから、誰が偉いということもなく、そして誰も悪くなくて、誰もが優しかったと、そう感じました。


私は言葉を紡ぐのが下手で、どういったらいいだろうか、どう表現するといいんだろうと考えてしまいます。
多分、相手が傷つくがいやだからです。厳しく言うときもあります。でもなるべく言いたくないです。


私は、イクミさんは優しい言葉をかけてくださっていると思います。けれど、優しさのなかには、ちゃんと厳しい言葉も含まれています(攻撃という意味ではなく)。私は、その言葉に何度も救われました。社会的概念とあちらの世界の概念が違うから、正しいことをしたのだと肯定してくださったことが、とてもありがたいものでした。今でも感謝しています。
そういう優しい気持ちと言葉を伝えてくれるイクミさんの言葉が大好きです。

厳しい言葉が悪いわけではなく、優しい言葉だけが良いのでもない。
ただ、なにかに導かれるように出会って、その人の向上に合う相応の言葉がかけられるのだと思います。



時に人は、自分の努力ではどうしようもない無力感と苦しさに溺れることがあります。まさに戦時中などそうではなかったでしょうか。そういう時はどのような行動がふさわしいだろうかと考えると、人の年齢状況によって変えると思います。優しい言葉、言葉よりも手を差し伸べる、叱咤激励、一緒に泣く、そして一緒に耐える、これらは想像でしか語れない世代ではありますが、皆の思いは未来に向かっていたのだと思います。


本日は終戦の日ですね。世界中の人々の、少なくとも平和を願う方々の思いがひとつになるような気がします。
戦争をしてきて終わった日に思いがひとつになるというのは、少し皮肉な気がします。
もっと早く思いあえることに気が付いたら、哀しい戦争が起きなかったんじゃないかと、思います。
でも、それは平和な時代に生まれた今の私だから「皮肉だ」と思うのかもしれません。

「国のために」そんな国を愛する思いから始まったのかもしれません。

私にはわかりません。けれど、過去の戦争や現代に蔓延る争いを見ると、再び戦争を起こすことはよくないと、そう思います。


途中から変なことを書いてしまいました。申し訳ありません。
とにかくお伝えしたかったのは、どうか、気に病まないで下さいということでした。
いつも、ありがとうございます。

ゆらり

イクミ さんのコメント...

ゆらり様

こんにちは。
あなたはしゃしゃり出たわけではありませんので、気にされないで下さい。

あなたにそう言っていただけるとうれしいのですが、私に欠けていたものがあったので、このような結果になったと思います。
私はブログのタイトルにシルバーバーチの霊訓が入っています。
いろいろな考え方が交叉しても、霊的真理と言う絶対的基準があるので、結局はそこに収束して行くと思います。
私はコメントを真理に照らし合わせて書いているつもりですが、自分の感情や固定観念が入り交じってしまっているのかもしれません。
未熟な人間として、許してもらうしかありません。

すべての行動に問われているのは、動機です。
コメント受けた件の、あなたの動機は摂理に適っていたので、そのことをお伝えしたのですが、結果的に前向きになれたのならうれしいです。
適っていなければ、必然的に厳しい言葉になったと思います。

今日は終戦記念日ですが、戦争で死んで行った人は霊界で、地上が平和になることを願っているのに違いありません。
悲しんでいるのであれば、そうなるように努力して欲しいと願っている様な気がします。

お国のために死んで行きましたが、人類のため、世界のためであれば、戦争は起きないはずです。
国のエゴによって、多くの人が犠牲になっているのは、今も全く変わりありません。
摂理に適っていなければ苦痛を味わう、こんな単純なことに気付いていません。
世界を動かしている人たちが、1度宇宙空間に出て、眼下に地球を眺めながら、進むべき方向を話し合えば、摂理に適った発想が生まれて、少しは平和になるのでないでしょうか。
コロナの流行という全世界的な危機をきっかけにして、1つにまとまって行くことを願っています。

私の方が、取り留めもないことを書いてしまいました。

あなたの想いを、ありがたく受け止めさせていただきます。

匿名 さんのコメント...


イクミさまのブログをご覧になられる方々は、みなさまきっと、優しくて、一緒に向上できたらいいなと思う仲間が集っているような気がします。

今回のことは、ナオヤ様の心の叫びでもあったように感じられます。
しかも、出会ったこともないわけですが、みなさま、ナオヤ様のことを気にかけていらっしゃる。
ナオヤ様からは、ほっといてくれと言われそうですが、みんな心配してますよ~、仲間ですよ~。
知らんぷりして、コメントにもどってきてくださ~い!!!

このお盆時期にこのようになったこと…なんだか霊界からのお導きにも感じられてなりません。

厳しいよりも、癒してくださる方がいるほうが心地よいです。素敵な世の中が作れると思います。
人は人を裁くことができません。
誰が悪いわけでもなく、みんなが優しくできたら、みんなが救われるということだと思います。
地上は、いろんな意見を持った人の集まりだから、このように議論して、住みやすい世界づくりをみんなでしていくしかないのだと思います。
わたしも、癒しを求めてこちらのブログに来ます。
本当に、ありがとうございます。

優しくするのは、言葉では簡単ですが、実際はものすごく難しいです。
ごめんなさい。私も人間なので間違えた方向に行ってしまいます。

みんなで、ナオヤ様の心のが癒されることを祈っております。

えり

ラッパ吹き さんのコメント...

イクミさん、えりさん、ゆらりさん、てるさん、

ずっと黙っていてすみません。。
私自身が逆上していけない反応をしてしまって、コメントをやめようとしていたんです。。

イクミさんが書いてくださった通り、ゆらりさんは何も悪くありません。どうかお気に病まないでください。
ナオヤさんにはナオヤさんの辿るべき道がある、ただそれだけだと思います。

みなさんが異口同音におっしゃっていること、優しい言葉も、時に厳しい言葉も意味がある。愛によるものなら。

スイス生まれでアメリカで活動した精神科医のエリザベス・キューブラー・ロスという女医さんがいます。彼女の言葉で言えば、自転車の補助輪をつける愛と、その補助輪を外す愛。

子どもたちが自立して自分の力で力強く生きて行けるようになるためには、どちらも必要なんです。
補助輪を外す愛は、付ける愛より遥かに遥かに難しい。またエリザベスの言葉で言うと、子どもが12 歳、日本なら小学六年生、になっても靴の紐を結んであげる母親(これも日本なら、小学六年生の子どもを、朝起こしてあげ、着替えさせてあげ、靴下を履かせてあげ、ご飯をあーんして食べさせてあげ、学校にまで付いて行く、ような。そんな親が現実にいるんです。。)
そんな親は、補助輪が外せない、自分の思いにNoが言えない親なんです。

しかし、ナオヤさんが書いていたあの霊能者の言葉は、しっかり読めばわかりますが、ナオヤさん個人に向けたものではないはずです。あれは、勧誘のパンフレットなのかhpのトップページなのか、「お客様」=潜在顧客むけの勧誘マーケティングワーズです。「○○な方」、そんな言い方をナオヤさんに向けて言ったのならそれこそおかしな日本語です。

愛に発した、補助輪を外す愛からの言葉なら、きっと届きます。

私がどうしても強い違和感を拭えなかったのは「私は(やろうと思えば簡単にできるけれど)安易に除霊いたしません。」とあったことです。

除霊が簡単にできる?
ウィックランド夫妻の統合失調症患者への長年にわたる多数の除霊治療が「簡単に」できたものであるはずがありません。除霊が簡単なはずがないんです。
「霊障」?霊が悪さをしている?
シルバーバーチがそんな言葉を一度でも使ったことがありますか?霊訓には無いはずです。

わかっていただけるでしょうか。
あのナオヤさんが書いた霊能者の言葉は、例えばスポーツ根性ドラマの「巨人の星」の星一徹が星飛雄馬に言うような言葉です。それに惹かれてしまう人は一定数必ず確実にいるんです。かつてのオウム真理教も同じです。あれにそっくりなんです。
そんなメッセージを愛だと誤解して教祖麻原に心酔して大量殺人までしてしまった、極めて高学歴のオウム信者の若者たち。。

シルバーバーチの霊訓はじめ、スティントン・モーゼスによるインペレーターの霊訓、アラン・カルデックによる聖ルイ(ルイ王朝の、きわめて優れた王とされあルイ9世)の霊訓を読んでも、そんな言葉はありません。

邪霊、未熟霊、悪さをするいたずら霊、みな未熟な霊とされています。未熟なだけで私たちと同じ霊なんです。「祟り」や「霊障」など、キリスト教で言う「悪魔の仕業」のようなことは無いと言っています。「悪魔」はキリスト教が捏造した概念です。

未熟な霊がいたずらや困らせることはあるでしょうが、霊障と言う概念は間違いです。

私はその自称「霊能者」は、少なくともスピリチュアリズムも霊的真理も知らない人、自分には「除霊がたやすくできる」力がある、と自惚れている人と映りました。ですから、私はその自称霊能者をまったく信用できないんです。

私の周りには偏差値秀才がそれはそれはたくさんいました。それも偏差値75超のトップ オブザ トップスです。私自身は落ちこぼれの雑草で彼ら彼女らの正反対です。
そんな偏差値秀才は、、人の言うことをまったく聞き入れないんです。学びもしないんです。自分が間違うはずがないと思っているからです。

ナオヤさんがいつか気づいてくれることを祈ります。願わくば、彼の患者が苦しみを受けることになる前に。
神よ、どうかナオヤさんを導き給え。

ラッパ吹き

イクミ さんのコメント...

ラッパ吹き様

おはようございます。
それぞれに感じることがあり、皆さんがコメントを下さったと思います。

この様なことには、偶然はありません。
あなたが書いたコメント、私が書いたコメント、そしてナオヤ様が書いたコメント、それぞれに何かしらの意味があって、結果が生まれたと思います。
ナオヤ様がこのブログから離れる時期だったのかもしれません。

ナオヤ様が言っていたことに、異議を唱えるのはやめましょう。
本人不在で、反論ができないのですから。
霊能者は、除霊をしても自分が変わらなければ、繰り返すと伝えたかったので、ナオヤ様の魂に響いたと思います。
いずれにしても、ナオヤ様にとって、魂の存在を確信し、霊的真理に出会うきっかけとなった、大切な人だと思います。

あなたの言っていたことは、ナオヤ様も感じていたのではないでしょうか。
偏差値が高くなると、自尊心も高くなる傾向はあり、きっとナオヤ様の周囲にも、そんな人がいるでしょう。
反面教師として見ていると思います。
一方、最高峰の医学部を卒業して、人間的にも素晴らしい先生はたくさんいるのも事実です。
総合的に優れている人を目標にして、ナオヤ様は進んで行くと信じています。

あなたの真っ直ぐなお気持ちも、届いていると思います、

ラッパ吹き さんのコメント...

イクミさん、
ありがとうございます
そうですね、おっしゃる通りです。
冷静に受け止めてくださって感謝しています。

風にほんのりと秋の気配を感じるようになりましたが、まだ残暑が続いています。どうぞご自愛下さい。

ラッパ吹き