日本人の平均寿命は85歳位です。
個人差はありますが、単純に計算すると生まれてから3万日経つと、そろそろ死ぬ時が近づいていると言えます。
3万日は気の遠くなるような日々に感じますが、私もすでに2万日を超えています。
これまで生きた日々の上に、今日があります。
年を取るごとに、1日の重みが増して行くように感じるのは、私だけなのでしょうか。
これから先も重みが増し続けて、臨界点を迎えて一気に軽くなる時が来ます。
ずっと先のことだと思っていましたが、少し死を意識するようになりました。
霊的真理と出会って良かったと思うことの1つに、死は次の世界に移るための自然現象と、はっきりと判ったことです。
その現象を「鳥かごから大空に向かって鳥が放たれる」、あるいは「さなぎから蝶が飛び立つ」と例えていますが、それ以上に劇的な変化と考えられます。
肉体がなくなっても意識が存在し、思念が直接伝わる世界に移った時の感動は、言葉では言い表せないと想像されます。
そんな知識を得て、死は怖くなくなりました。
むしろ、早く来れば良いのにとさえ思います。
およその寿命は決まっていますが、その時がいつ来るのか分りません。
30年後だとしたら、ずっと先のように感じられ、生き方を変えることはないでしょう。
あと1年後だとしたらどうでしょうか?
どう過ごすのか、じっくりと考えます。
仕事に追われて生きて来たのであれば、家族や友人と一緒に過ごす時間を増やす人もいるでしょう。
喧噪から離れて、自然の中でゆっくりと過ごす人もいるでしょう。
世の中のために、何かをしようとする人もいるでしょう。
長く生きられないと判っているのに、お金や地位や名誉を欲しがる人はあまりいません。
愛情や友情など、目に視えないものを大切にする人が多いと思います。
あと1週間になったらどうでしょう。
後悔がないように、わだかまりがあった人と会って、仲直りをしたくなるかもしれません。
一番好きな場所を訪れるかもしれません。
何もせずに、ただ平穏に過ごすのかもしれません。
最後の1日になったらどうでしょう。
今までお世話になった人に、ありがとうと感謝の気持ちを伝えて、別れのあいさつの代わりにするような気がします。
できれば苦しまずに、眠るように逝ければと思います。
死を意識することによって、地上的な意識から、霊的な意識に変わると考えられます。
大切なもの、価値のあるものに、限られた時間を費やすと思います。
最後にしたいことほど、本当に大切なものと考えられます。
感謝の想いを伝える、心穏やかに過ごす、そんなありふれたことが、何よりも大切なのかもしれません。
今日1日が最後だと思って過ごせば良いのですが、頭ではまだ先と考えてしまうので、なかなか難しいです。
生活して行くため、社会との関わりがあるので、そう簡単に生き方を変えるわけにも行きません。
さまざまな地上的な欲求やしがらみがあり、思うほど大切ではないことに、多くの時間を費やさなければならないのは確かなようです。
命に関わる病気になれば、そうは行きません。
否が応でも死を意識するようになります。
霊的な意識に変わり、本当の大切なものに気付き、どうでも良いものを切り捨て、生き方を変える人もいるでしょう。
自分の意思で変えるのは難しいです。
病気は、本来の自然な生き方に強制的に戻すために創造されたのかもしれません。
死は不幸な出来事なのでしょうか?
多くの人は死を疎ましがります。
秦の始皇帝は不老不死の薬を探し求めたそうですが、現代においてもそんな薬があれば手に入れたいと思う人はたくさんいるでしょう。
もし「不死」の薬が与えられたとしたら、喜ぶどころか極めて重い懲罰が課せられたように感じてしまいます。
死ねないことこそ、不幸だと思うからです。
この世は学校に例えられますが、その通りです。
死後の世界(霊界)は実社会です。
実社会である霊界で、自分をより役に立てるために、この世という学校に生まれて来ます。
学校では、国語、算数、理科、社会などの教科を学びます。
この世という学校では、親切、同情、寛容、慈悲、哀れみ、友情、無私の愛について学んでいると考えられます。
それらは魂の資質であり、全てが愛に通じるものです。
神の心と言って良いでしょう。
自分に足りない資質を補うために、最適な出来事を経験することになります。
この世は、さまざまな魂が混在し、肉体を介して表現をしなければいけません。
そのために、判り合えず、時に争いとなります。
苦しい思い、痛い思いをしながら、信じること、勇気を出すことの大切さを学んでいます。
いくら愛があっても、それらがないと表現できません。
苦痛が取り払われている霊界では、地上ほど学ぶことはできないと思われます。
死は、この世という学校の卒業です。
しかし、誰でも卒業できるわけではありません。
あの世に行きかけて、まだ早いために、この世に帰って来る人がいます。
地上にいる人たちは、九死に一生を得たと喜びますが、本人にとって喜ばしいことなのでしょうか?
元いた住処に帰れるはずだったのに、引き返して来たことになります。
再び重い肉体を纏って、学ばなければなりません。
つかの間でもあの世を経験した人の多くが、そこに留まりたい衝動に駆られたと、後に語っています。
世の中には、この世を早く卒業してしまう人がいます。
残った人は、早すぎる死を嘆き悲しみます。
そんな人は、この世に入学した時点で、すでに多くのことを学んでいたのかもしれません。
魂の資質(親切、同情、寛容、慈悲、哀れみ、友情、無私の愛)を、十分に身に付けている優等生が多いと感じています。
学ぶことが少なければ、学ぶ時間は少なくなって当然です。
短い期間で目的を果たして、飛び級で卒業することが許されたと考えられます。
いつ卒業するのかは、予め決まっています。
偶然はありまぜん。
世の中には、社会を経験してから、再び学校に入り直す人がいます。
それなりの目的があってのことです。
それと同じで、霊界にいる者がこの世という学校に入り直すのには、明確な目的があります。
この世で学んだことは、あの世で活かされます。
自分を活かそうとするほど、まだ足りない資質があり、学ぶべきものが残されていることを強く意識するようになります。
そこで、地上と言う学校に再び入学し、計画的に学ぶことを志願します。
学校の勉強が楽しいものではなかったように、この世で大切なことを学ぶのも楽しいものではありません。
それでも、この世に戻って来るのは、成長したい根源的な欲求が魂にあるからです。
目的を果たした時、死によって地上から解放されます。
その時は自然法則に計られているので、勝手に早めることは許されません。
死にたくないのは、学校に居続けたいのと同じです。
学生のままでは、何のために学んでいるのか判りません。
卒業して実社会で活かさなければ意味がありません。
死はこの世の卒業です。
大変な思いをした人ほど、解放された悦び、そして成長した悦びを感じるはずです。
苦労して学んだことを、活かせる時が来たのです。



























