2026年8月9日日曜日

この世を生きている意味はあの世を知れば分かる


子供の時、死ぬのが怖かったです。

意識が消滅して、自分が失われてしまうと思ったからです。



人間の本質は魂(霊)です。

肉体を失ったとしても、生命は変わりなく存続し、意識はそのままです。

そのことを知り、死は怖くなくなりました。



あの世は、この世の延長線上にある「おまけ」のような存在ではありません。

私たちの本来の住処です。



あの世では肉体がありません。

自分(肉体)に向いていた意識は、周りに向けられるようになります。



この世を生きて行くために遣っていた力は、周りのために何かをしようとする力となります。(低い界層は除く)

その力の源は、無限の愛である神だからです。



あの世では、自分の好きなことだけをしていても生きて行けます。

けれども、好きなことばかりをしていても、どこかに物足りなさ、虚しさを感じるようになります。

周りのために奉仕をして、霊的な悦びを感じながら生きる方を、自然に選択するようになります。



しばらくすると、より次元の高い奉仕をしたくなります。

そのために自分に足りない資質を自覚するようになります。

その資質を身に付けるためには、それに相応しい経験をしなければいけません。



あの世では起こり得ない出来事を経験するために、この世に生まれて来たと考えられます。

また、この世で借り(カルマ)を作ってしまい、それを返す(償う)ために生まれて来た人もいます。

いずれにせよ、自分を成長させるために、この世に生まれる必要があったのです。



生まれる前の自分は、そのことを承知していましたが、いざ生まれると、その時の記憶はなくなります。

もし、あの世にいた時のことを覚えていたとしたら、戻りたくなってしまう人も少なくないでしょう。

生まれる前の記憶がなくなり、死が怖いものであった方が、この世での目的を果たすために都合が良いと考えられます。



「人生は楽しむもの」とよく言われます。

苦労などなく、楽しいことばかりだったら、どんなに良いだろうと思っている人がほとんどかもしれません。

シルバーバーチの霊訓にはこう書いてあります。

「霊的な宝はいかなる地上の宝にも優ります。それはいったん身に付けたらお金を落とすような具合になくしてしまうことは絶対にありません。苦難から何かを学び取るように努めることです。耐えきれないほどの苦難を背負わされるようなことは絶対にありません。何らかの荷を背負い、困難と取り組むということが旅する魂の本来の姿なのです。それは勿論楽なことではありません。しかし魂の宝はそうやすやすと手に入るものではありません。もしも楽に手に入るものであれば、何も、苦労する必要などないでしょう。痛みと苦しみの最中にある時はなかなかその得心がいかないものですが、必死に努力し苦しんでいる時こそ、魂にとっていちばんの薬なのです。」

楽しいばかりの人生では、得るものは少ないようです。

霊的な宝(学び)を手に入れるために、この世にしかない苦しみという触媒が必要なようです。



また、このようにも書かれています。

「要するに理解が行き届かないから苦しい思いをするのです。十分な理解が行けば苦しい思いをしなくなります。」



マラソン選手の中には、月に1000キロ以上走る人もいるそうです。

「走った距離は裏切らない」と言った人がいましたが、過酷な練習の中で、自分の限界が進展して行くのを知っているのだと思います。

試合で最高の結果を出すという「目的」があるからこそ、苦しい練習にも耐えることができるのだと思います。


もし私が、目的を告げられないまま、何十キロも走らされることになったらどうでしょう。

「何で」「どうして」という疑問を抱きながら、走りたくもないのに走ることになります。

苦痛以外の何ものでもなく、途中で走るのを止めてしまうでしょう。



人生も同じです。

生きる目的が分からないと、生きるのが苦しく感じられます。



それぞれの人生に、明確な目的があります。

その目的を果たすために、経験しなければならない出来事があります。



出来事の目的(原因)が分からないと、「何で」「どうして」という疑問が生まれて、憤りを感じてしまう人もいるでしょう。

分かっていれば、納得できるような気がしますが、一概にそうとも言えないようです。



もし、人生で起きる出来事が、予め分かっていたとしたらどうでしょう?

例えば、50歳で命にかかわる病気になることが分かっていたとしたら、そのことが気になってしまい、平常心で生きられなくなるかもしれません。

病気にならないために、あらゆる手を尽くそうとする人もいるでしょう。

そのことに意識が行き過ぎて、それ以外の目的を果たせなくなってしまう可能性があります。



出来事の目的を、知っていたとしたらどうでしょう?

大切な人を失った人がいたとします。

仮に、別れの目的が最も大切なもの(愛)を学ぶためであったとします。

知っていたとしても、そんなことはどうでも良くなってしまう人が多いのかもしれません。

ただ、前と同じように一緒にいたいと思うだけかもしれません。

悲しみ、苦しんだ末に、目覚めた魂が学ぶべきものであり、頭で知っていても何の意味もありません。



人間には、考えや感情があります。

誤った考えや、好ましくない感情に捉われてしまうと、魂の成長に関わる学びが疎かになってしまう恐れがあります。

苦しんだとしても、分かっていない方が良いとの配慮があるのでしょう。

学び成長させるために出来事は起きている、そう信じることで目的は果たされて行くと思います。



死んであの世に行くと、この世の人生を振り返る時が来ます。

そこで出来事の意味を知ります。

出来事を通して、予期していた学びが得られたのを知ったのなら、思わず安堵するでしょう。



この世の経験を通して学んだことは、あの世で活かされます。

足りなかった資質が身に付けられ、より次元の高い奉仕ができるようになったのなら、生まれて来た目的を果たせたことになります。

この世の苦しみや悲しみは、学び成長した悦びへと変わります。



ふと、こんな疑問が生じました。

熊本で大きな地震が起きました。

つらい思いをされている人たちがいますが、それにも意味があるのか?

不自由な環境に耐えながら、生活を再建して行かなければいけませんが、その経験も何らかの影響を魂に与えているはずです。

シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。

「人生の苦難は魂が向上して行くための階段です。困難、障害、不利な条件ーこれらは魂の試練なのです。それらを克服して行くことによって魂がいっそう充実し、向上し、一段と強くそして純粋になってまいります。」

その先で、大変な出来事が起きたとしても、あの時の苦しさから比べれば大したことはないと思えたのなら、魂が強くなっている証拠です。

同じように苦しんでいる人を見て、手を差し伸べたくなったのなら、魂が純粋になっている証拠です。

出来事を経験した者にしか得られない学びや成長があり、それにより神の公正が完全に保たれていると考えています。



まとめになるような文章を、シルバーバーチの霊訓の中に見つけました。

「人生の目的は至って単純です。霊の世界から物質の世界へ来て、再び霊の世界に戻った時にあなたを待ち受けている仕事と楽しみを享受する資格を身に付けるために、さまざまな体験を積むということです。そのための道具としての身体をこの地上で授けてもらうというわけです。地上があなたにとって死後の生活に備える絶好の教訓を与えてくれる場所なのです。その教訓を学ばずに終われば、地上生活は無駄になり、次の段階へ進む資格が得られないことになります。」

シルバーバーチの霊訓より

この世を生きている意味は、あの世のことを知れば分かるようになります。




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