昔、判らなかったことが、今になってそうだったのかと納得する時があります。
小さい頃、わがままを言ったり、自分勝手な振る舞いを友達にしたらどうなったでしょうか?
嫌われたり、仲間外れにされます。
嘘を付いたらどうなったでしょう?
信じてもらえなくなります。
仲間外れになるのも、信じてもらえなくなるのも、子供にとってはつらものです。
仲間外れにされた理由が判らなければ、「何でだろう?」と思います。
友達から、理由を言われることもあります。
判らなければ、そのままの状態が続いてしまいます。
ようやく理由が判ると、そのままでは嫌なので、改めようとします。
改めたのなら、また仲間に入れてくれるでしょう。
そんなことを繰り返しながら、目に視えない「決まり」のようなものを学んでいたと思います。
ところで、わがままを言ったり自分勝手なことをすると、何故、仲間外れにされてしまうのでしょう?
それは、その行為が「自然法則」に反しているからです。
自然法則とは、神が定めた決まりです。
自然法則は、空間や時間を超越して働いています。
宇宙のどこに行こうとも、過去や未来のいかなる時でも、変わりなく働いています。
自然法則を創った存在は、神と呼ばれています。
神には心があります。
自然法則の中に、神の心が投影されています。
基調となっているのは「愛」です。
わがままや自分勝手な振る舞いは、他者を思いやらずに自分のことだけを考えているので、自然法則に反しています。
利己的な行いをして全体の調和を乱してしまうと、自然法則の働きによって、苦痛を伴う出来事が起きるようになっています。
全ての人は、小さな神を宿しています。
神は良心となって、私たちの心に顕現しています。
自分勝手なことをしていると、友達の心にいる神が「いけない」と認識します。
すると、いけないことをする子を咎めたり、遠ざけたりします。
自然の成り行きで、仲間外れになります。
神は友達を通して、自分勝手な子を戒めています。
「わがままはいけない」と、いくら口で教えても、どうしてなのか子供には判りません。
頭で理解しようとしても難しいでしょう。
地上を生きる私たちには、肉体や精神(地上的な自我)が存在しています。
外部から打撃や侵襲を受けて、肉体に苦痛を感じると、それを回避する行動を取ります。
仲間外れになり、精神的に苦痛を感じると、わがままな部分に気付いて、それ改めようとします。
自分だけでなく、周りの人のことまで考えるようなります。
私たちが死んだ後に赴く世界では、そのような苦痛が存在しません。
たくさんの自然法則を、効率よく学ぶために、地上に生まれて来ています。
神の叡智は無限です。
私たちは永遠の時をかけて、自然法則の働きを学んでいます。
前回のブログにも書きましたが、16年ほど前、私は重い行政処分を受けました。
苦痛の体験を通して、大切なことを学びました。
日本の医療は保険制度によって成り立っていて、国民は保険証を持って病院を受診しています。
治療費の一部を患者さんが負担し、残りを医療機関は国などに請求します。
その時に、してはいけない請求をしてしまったのです。
本当の自分(魂)は「いけない」と訴えていました。
ところが、「誰もがやっていることだから問題はない」と、表に現れている意識(以下自我)は言い訳をしていました。
もちろんですが、誰もがやっていることではありません。
魂にある良心は、瞬間的に正しい答えを出しています。
自我はその答えを、都合の良い解釈、屁理屈を考えて、掻き消そうとしています。
良心と自我の間で対立が起きますが、それを精神的な葛藤として感じています。
どちらが勝つかで、その先の行動が決まります。
自分に嘘を付くとは、魂(良心)の訴えに従わずに、自我の要求に負けてしまうことです。
それが続いてしまうと、いつしか魂の訴えは聴こえなくなり、当然のことのようになってしまいます。
指し示す方向が困難であったり、自分の益にならくても、後悔しないために、良心の訴えに従うべきです。
自然法則の働きは、誰にも止められません。
正確無比に結果が生み出されます。
因果律が作動して、自分の過ちに気付き、償うための結果(出来事)が生じます。
私に処分の決定が出た時には、すでに霊的真理を受け入れていたので、不運を嘆いたり、憤りを感じることはありませんでした。
幸いなことに、真理によって無用な苦しみを感じずに済みました。
因果律が働いていることを、苦痛の中で学びました。
誰かに教えてもらったとしても、ここまで納得はしなかったでしょう。
自分にも良心と言う神がいて、それに抗っている自分がいることも判りました。
危機的な状況になって、魂が目を覚まし、そのことに気付きました。
ばれなければ、処罰を受けることはありませんでした。
そのまま一生を終えることになります。
しかしながら、自然法則に反した行いが見逃されることはありません。
オーラにしっかりと刻み込まれています。
死んだ後に、犯した罪と向き合うことになります。
この世の人生を総括する時に思い出し、罪の意識に苛まれ、後悔をすることになります。
そうなるよりも、この世を生きているうちに結果が生じて、苦しくても償った方が良いと思います。
自然法則の働きを知らないと、平気で過ちを犯してしまいます。
SNSなどで特定の人を誹謗中諸しているのが時々ニュースになります。
法律に抵触しない限り、罰せられることはありません。
ほとんどは匿名であり、陰に隠れて陰湿な言葉を投げかけます。
初めての時、良心が咎めたはずですが、我欲に負けて文章を書いてしまったと考えられます。
同じことを繰り返してるうちに、次第に良心の訴えは聴こえなくなります。
そんなことなどすっかり忘れてしまい、やがて死ぬ時が来ます。
忘れていた数々の行為が映し出され、その時の自分の想いを思い出す時がやって来ます。
誹謗中傷をしている自分の姿を見ることになります。
その行為を受けた人がどうなったかも見せられます。(アカシアックレコードを介してと考えています)
人の心を傷つけていたのを知り、犯した罪を自覚します。
もし死んでしまったのなら、大きな罪の意識に苛まれるのは避けられないでしょう。
人は、霊的に成長するために生きています。
犯した罪を償わなければ、成長は許されません。
生命にとって成長が許されないのは、自由を奪われる以上の苦しみと考えられます。
この世で罪が償われなかったのなら、来世で償われます。
おおよその人生が計画されますが、その中に償いのための出来事が組み込まれます。
それを承知して、この世に生まれて来ます。
ある日、何の前触れもなく、予定されていた出来事が起こります。
原因は見つかるはずもなく、「何で自分が」と思ってしまうでしょう。
過去に自然法則に反した行いがないのにもかかわらず、苦痛を伴う出来事が起きることもあります。
そんな時は罪の償いではなく、魂がより高みを目指して、出来事を経験することを望んでいたと考えられます。
もちろん、生まれる前の自分は承知しています。
同じ出来事であっても、償いのための時もあれば、さらに成長するために起きている時もあります。
1つの人生で、償いと成長を同時に行う時もあると考えています。
償いのため時と成長のための時では、何か違いがあるのでしょうか?
誹謗中傷した人は、次の人生で何らかの出来事が起きて、人に非難されたり、社会から糾弾されるようになるかもしれません。
受け入れられずに、運のせいや、人や社会のせいにしてしまい、そこから何も学ぶことができないのかもしれません。
怒りなどの感情が生まれて、余計に苦しむことになるでしょう。
その苦しみが、罪の償いにつながっていると考えます。
一方、成長のためであれば、何らかの法則(叡智)を学ぶはずです。
意味や目的を見い出し、苦しみは大幅に軽減されるはずです。
出来事を乗り越えて行く中で、生まれて来た目的の1つが成就されて行きます。
人生を遠回りをしないためには、法則に従うことが大切です。
法則がどんなものなのかは、霊的真理(シルバーバーチの霊訓)に書いてありますので、読んで下さい。
今、その時間がないのであれば、良心の訴えに忠実に行動しましょう。
人や社会や動物のためになることを心がけましょう。
そう生きていれば間違いはありません。
13 件のコメント:
イクミさん、
読ませていただきました。ありがとうございます。
今の仕事の不安、
別の選択肢の不安、
決断できない抑うつ、
期限はギリギリに迫り、
前門には虎、後門には狼、
八方塞がりで出口は見えず、
この苦しみは何のために?
なぜこんな隘路にはまり込んでしまったのか?
Mikiさんの心に浮かんだお言葉、
「過去世からのもの」
己を許す
創造主にすべてをお任せする
すべてをあるがままを受け入れる
頭で考えるのではなく、自然に身を任せる
考えても何もでては来ず、直感を感じようとして、さまよっています。
ラッパ吹き
ラッパ吹き様
こんばんは。
その後、少し落ち着かれたでしょうか。
早速、読んでいただき、ありがとうございます。
この世を生きていると、悩みは不安は付きものですが、神と法則を信じるほど、そこから解放されると思います。
全て良きに計られているはずなのですが、目の前の現実に捉われてしまうと、そう思えなくなってしまいます。
肉体を持つ地上では神の存在を感じるのが難しい世界です。
その中で信じようとすることに、大きな意味があると感じています。
Miki様の心に浮かんだことは、ラッパ吹き様が苦しみから解放されるために、大切なことだと思います。
成長できるように祈り、直感を感じたら、それを信じて行動して下さい。
イクミさん、
不安や重圧は消えませんが、今は居ても立っても居られない切迫は少し薄らいでいます。みなさんにヒーリングいただいていなかったら、どうなっていたことか。。
神は厳然として有り、万物の創生の第一原理であり、霊界もこの物質界も神の創り給うた世界であり、それはひとつであり、、
それは、信じるか否かではなくて、ただただ事実としてあり、、
科学者と同じように、それは疑うべくもない真理です。そう思います。
「信じているのではない。知っているのだ。」(ユング)
わからないのは、何のためにこの苦しみを選んで私は生まれてきたのか、です。
不条理はこの物質界には数えきれないくらいにあって、ビル・エヴァンスも、カミーユ・クローデルも、ゴッホも、神谷美恵子さんも、アンネ・フランクも、コロナで亡くなったたくさんの人たちも、大震災で亡くなった人たちも、、、、
どう生きるべきか?
ではなく、
お前はどう生きたいのか?
と、問われたなら、
答えはひとつ、
音楽をしたい、音楽がしたい。
それだけなのですが。。
言葉が繋がらない、思考がつながらない、
頭が回らなくて考えられないんです。
守護霊様のお言葉、、
“自分の頭で考えるのではなく、自然に身を任せるのじゃ。”
だから、考えられないように思考を阻んでくださっているのか、、
考えるな、HeadではなくHeartの声を聴け、と、、
“生きることなど忘れてしまえばいい、そうしたら生きられるだろう。”
そんな、どこかで聞いた言葉が浮かびました。
まるで精神分裂病者が書いた文章みたいですね。。
それを、そのまま、ありのままに、、
ラッパ吹き
ラッパ吹き様
切迫感は少し和らいだのですね。
不安や重圧は誰しもありますが、ラッパ吹き様はそれがとても大きく感じられてしまうのではないかと思います。
感性が豊かなことの代償なのかもしれません。
神の存在は心から信じられていると思います。
法則の働きにより、良きに計られていることも理解されているのに、そこまで不安が襲って来るのは、何か強烈な体験を過去にされたとしか考えられません。
助けてもらいたくて仕方がなかったのに助けてもらえなかった、その時の想いが魂に刻み込まれてしまっているような気もします。
これから起きることに不安を感じているようで、実は過去の不安が呼び覚まされているのかもしれません。
トラウマと言っても良いと思います。
不安などの強い想いが、精神的エネルギーを消費してしまい思考力を低下させて、うつ状態を引き起こしている様に思います。
常に助けを求めているのですが、どうしてなのか、何に対してなのか判らずにいると思います。
守護霊はもちろん、その答えを知っていますが、何かを学ばせるために、敢えて沈黙を守っている様な気がします。
いくみ様
おはよう御座います。
私は1円たりとも間違いの許されない世界で生きてきました。監査も常にあるので気が抜けませんでした。
自らの意思とは関係なく、そのような環境に置かれていたのです。
もし自らの意思が活かせる職業だったのなら、私はまた違った行動をする可能性もゼロではなかったと思います。
世の中には、例えば個人事業者であれば、お客さんから受け取った報酬を全てきちんと確定申告している人は一体どのくらいいるのでしょうか?
バレずに一生を終える人は意外と多いのではないかと思います。
間違いが許されない人、間違いを自ら申告する人、間違いを明るみにされてきちんと償う人、明るみにされないまま利益を受け続ける人・・・。
様々いますが、死後どのような違いになってくるのでしょうか。
生きている間に反省できなくとも、他界後に反省する機会に恵まれるのでしょうか。
イクミさん、ユーリさん、
ユーリさんのコメントで、気づいたことがあります。
“バレずに・・・人”
たとえバレなくても、、
どこかで、誰かが、いつか、必ずその影響を受けている。
私も今、その過去の負の遺産に苦しめられているんです。それに気づいたんです。
影響を受けているのは私だけではありません。たくさんの人が、そうとは知らずに苦しめられています。
人が作ったもの、法や人の倫理は、相対的で流動的です。
しかし、神は、自然法則です。絶対基準であり、間違いを犯すことはありません。
神は、すべてをご存じです。自然法則ですから、極大から極小まで、この宇宙、霊界も物質界もそのすべてを隅々まで経綸されている法則として、そのすべてに働きます。例外はありません。逃れることはできません。
であれば、いずれ(今生のうちか、死後の霊界でか、あるいは来世か)必ず何かが起こる。自ら作った原因が、法則で定まっていり何かの結果を生じさせる。
それは、「償い」でもあり、「学び」でもあり、「試練」でもあり、「苦しみ」でもあり、、それも、それさえが、神の愛なのだと思います。
私の苦しみも、きっとそのひとつに違いないんです。
「過去世からのもの」Mikiさんの心に浮かんだこの言葉が、私の苦しみの原因は私の過去世の過ちにある、ということだとすれば、、
ユーリさん、その「バレずに、、、人」のひとつの例がここにいる私だと、言えるのではないでしょうか。
ラッパ吹き
ユーリ様
おはようございます。
早速、読んでいただき、ありがとうございます。
忘れたい、お恥ずかしい話なのですが他山の石になればと書きました。
経済を通して、内側まで見えてしまう仕事に就いていたのですね。
個人事業主の税務の申告は、その人の良心にかかっています。
受け取った報酬をきちんと申告しない人もいれば、必要経費の計上に問題がある人もいます。
片や公明正大に行っている人もいます。
公明正大に行っている人は、そうでない人から見るとバカ正直です。
日本のことわざで、正直者は馬鹿を見るというのがありますが、果たしてそうなのでしょうか?
全ての人は、死後にこの世の人生を、自然法則に照らし合せながら、振り返る時が来ます。
その時、正直な人は、自分の生き方は正しかったと、胸を撫で下ろすと思います。
片や、我欲に負けて、自分に正直になれなかった人は、恥ずかしい思いをしたり、悔やんだりします。
反省では足りないほど、過ちが大きくなると、地上に生まれて償わなければなりません。
地上での借金は、地上で返します。
霊的な借金がある人は、霊的な預金(成長)をすることが許されません。
人間には成長したい欲求があるので、償いの人生(出来事)を甘んじて了承し、この世に生まれて来ます。
それら全てが自然法則の働きによるものであり、何人も抗えません。
いくみ様、ラッパ吹き様
私自身が、お金に厳しい世界でのOLが長かったこともあり、一部の個人事業者の方々には、お金に対する適当さを感じざるを得ませんでした。
サラリーマンとして、朝から晩まで真面目にコツコツ働いて、きちんと納税することにバカバカしさを感じたり、不公平さを感じていたのです。
だからこそ、以前霊視をしてもらったときに、何の結果も得られなかったときは、悔しさや怒りが倍増していたのだと思います。
その感情は、もちろん、私が未熟なせいもありますが、やはり、金額・労働時間・成果など、
私自身が真面目に向き合ってきた「労働」と「お金」について、あまりにも感覚がかけ離れていたからだと感じています。
「正直はバカを見る」は、私も違うと思っています。
しかし、地上で犯した罪が、地上にいる間に償ったり反省したりできなければ、死後や生まれ変わったあとに、辛い思いをしながら成長を続けていくのですね?
いくみ様やラッパ吹き様のように、反省する心や人の気持ちがわかる人になれるよう心がけていきます。
ラッパ吹き様
今の不安や怖れによる苦しみは、何が原因生じているのか、定かではありません。
ただ言えるのは、その人にとって必要なために、因果律の働きによって生じているということです。
神の意思によるものなので、安心していれば良いのですが、目的が判らなければ、どうしても不安になってしまいます。
言われるように、いずれにしても神の愛のなせる業です。
難しいのですが、そのことを強く信じ、身を委ねることで、苦しみから解放されて行くと思います。
答えが与えられない中で、神とのつながりを深くするために生じているような気がしています。
ユーリ様
人間の計算には間違いがありますが、神の罪と償いの収支は完璧です。
不公平、不公正は全くありません。
最近はコンプライアンスが厳しくなったせいか、不適正なことをやっている会社は、その結果が早く出るようになったと感じています。
これからは、自分の利益だけではなく、社会の利益になるような考えを併せ持った会社しか生き残れなくなると思います。
社会全体にも自然法則が働いていて、少しずつ進歩していると思います。
いくみ様
社会は進歩しているのですね。そう考えたら救われます。
話は少しだけ逸れますが、私の家族や友人が霊的真理を信じないのは、「霊視=お金がかかる」と思っているからです。
信じない人は、前にいくみさんがおっしゃっていた通り、自分の力で道を切り開いてきた(家族を養ってきた)男性に多いです。
私もその気持ちはわかります。
私は結婚後は、非正規社員もいくつか経験しましたが、努力の割に収入は微々たるものです。特に地方に行けば行くほどです。だから一万円でも稼ぐのに、大変な努力が必要だと知っています。
お金を払える人が霊視を受けられる。払えない人は霊視を受けられない。というのは、明らかにおかしい話です。一時間一万円の霊視でも、その一万円を稼ぐのに10時間以上努力しなくてはならない人は山程いると思います。
お金があまりなくても受けたい人がミディアムシップを受けられる世の中になってほしいです。
私は以前、「お金より愛が大切」と書いたことがありますが、しかしこの世はお金なくして生きていくことができません。
お金と霊的真理が変に結びついてしまっている現代ですが、私はもうお金を払って霊視を受けることはないです。
いくみ様が以前仰っていたように、「信じること」を大切にしていきたいと思っているからです。
ユーリ様
こんにちは。
社会は少しずつ進歩しています。
そのことは、例えば動物の殺処分数の減少や社会福祉の充実などで見て取れます。
霊視=お金がかかると思っている人は多いようです。
それが営利目的に映って、不信感を買っているような気がします。
昨日の話ではないですが、領収書を切らなければ、きちんと納税をしているのかと疑問を持たれてしまいます。
どれ位、支払わなければならないのか判りませんが、霊的真理を知っているミディアムならばあまり取らないはずです。
何故なら、霊能力は神から与えられたものであり、より多くの人が享受するべきものと思っているからです。
ミディアムとして生活して行くのであれば、もちろんそれなりの報酬はもらわなければなりません。
しかし、その金額を何とも思わない人もいれば、生活に支障を来たしてしまうので、受けられない人もいます。
それでは霊界の意向に沿いません。
霊界はミディアムが生活に困らないように取り計らっていますので、定額でなくご喜捨と言う形にしても、生活は成り立つと思います。
余裕のある人がたくさん払うことで、余裕のない人の分を補ってくれると思います。
言われることはその通りです。
この世は、愛があっても、お金がないと生活して行けません。
私の仕事もそうであり、患者さんを良くしたい気持ちがあっても、技術が伴わなければ、何にもなりません。
理想と現実のどちらに偏ってもいけないのが地上だと思います。
魂と霊界が存在するのは事実です。
信じる、信じないは個人の自由ですが、ユーリ様は信じる方にかけていただいているので、うれしく思います。
いくみ様
私が霊界をなかなか信じられなくて苦しんだ理由は、霊にお金が絡んでいることによる、怪しさや疑いのような気持ちが私の心の奥底に潜んでいたからだと気付きました。
理想と現実のどちらに偏ってもいけないと、本当に、今になって実感しています。
母の死がなければ、そんなことを考えることもなくただただボーッと生きていたかもしれません。
信じるということが、母を大切にすることに繋がると、ようやく知ることができて、いくみ様のブログには感謝しております。
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