2014年1月30日木曜日

魂と愛について



私は若い時、自分に問いかけていたことがあります。それは、「何で生きているのだろう?」ということでした。



最も若さに溢れて、自由を満喫している20代前半にも、一人静かにしていると、時折、頭に浮かんできました。

しかし、深刻な悩みというわけでもないので、そのままにしておきました。

同時に、何かしなければいけないという衝動を、いつも感じていました。

突き動かされる何かがあるのに、それが何なのか、何がしたいのかも分からず、何もしていない自分に苛立ちを覚えていた様に思います。

そして2つとも、答えは見つからないまま、時は過ぎていきました。



何かをしなければいけないという衝動は、仕事をすることで、解消された様に思えました。

仕事さえうまくいっていれば、人生すべてがうまくいくと、いつしか思うようになっていきました。



そして7年前、仕事上で絶体絶命と思われる不祥事が起こりました。

ほぼ同時に「シルバーバーチの霊訓」に出会いました。

不祥事をきびしく追求され、追い詰められて行く日々の中で、心の奥で眠っていた魂が、目を覚まし、表に出てきました。



それまで思いもしなかった、大切なこと(摂理)に気付き、私の中で輝き始めました。

若い時に抱いた「何で生きているのだろう?」という問いに対し、「生命は肉体ではなく魂であり、魂を向上させるため」という、永遠不滅の真理を見出すことができました。



苦難に出会う人は不幸な人であるという、世間一般の考えは、「シルバーバーチの霊訓」により根底から覆されました。

苦難の真っ只中にいる時は、早く逃れたい、楽になりたいと思ってしまうこともありますが、「苦難を乗り越えることで魂が向上する」という、神の摂理が厳然と存在し、与えられた試練として立ち向かっていくことを学びました。



子供の頃から、「世のため、人のため(に尽くす)」という言葉を良く聞きました。

立派な心がけを奨励するための、道徳的な言葉と思っていました。

ところがそうではなく、神の心である「愛」を表現することであり、摂理そのものであることが分かりました。

シルバーバーチは「人のために自分を役に立てる」と言っていますが、滅私の奉仕こそが、最も価値あるものであり、魂を向上させることになり、生きている意味を成就していることになります。



広い世界には、貧しい人や、困っている人、病んでいる人のために、人知れず尽力し、生涯を捧げている人たちがいます。

その人たちの姿を見るたびに、本当に幸せな人だと思います。

人を幸せにしようとする想いは、神の心と同調し、深くつながり、神の愛を十分に受け取ることができます。

受け取った神の愛は行動する力となり、想いを成就させていきます。

そして、奉仕の行いにより、人々が幸せになり、その姿を見て自らが喜びを得ます。

摂理に適った想いや行いは、因果律により、自らに喜びと幸せをもたらします。



他者のために、何かをしてやりたいという想いが湧き上がるのは、頭で考えたものではなく、魂の自然な欲求です。

踏切でうずくまっている老人を見て、わが身の危険を顧みずに助けようとして亡くなった女性がいましたが、助けようとする衝動の源は、魂だったと考えられます。

もし、頭で考えたとしたら、助け出そうとする一歩は、とても踏み出せないと思うからです。

魂は神の一部であり、神の心が「愛」であるがゆえに、我を忘れて助け出そうとしたのだと思います。

亡くなった女性は、霊的な摂理など知らなくても、内なる魂の声に、忠実に従って行動したのであり、肉体を失ってしまいましたが、向こうの世界で、魂はより美しく光輝いていることと思います。



そこまで滅私の行いはできなくても、人にやさしくすることはできます。

近所に住む足が不自由な一人暮らしの女性が、道端に座り込んでいました。近所のスーパーで買い物をした荷物が重たいらしく、たまたま自転車で通りかかったので、家まで運びました。

本当に簡単なことでしたが、うれしいことだったみたいで、わざわざお礼にと、お菓子を持ってこられました。

小さなことでも、ためらわずにすることで、とても喜ぶ人がいることを、あらためて実感しました。



やさしい気持ちで笑顔で人と接することも、世の中をほんの少しだけ明るくしていますで、小さな小さな奉仕です。

いやなことをされても、その人を許してやることも、形を変えた奉仕なのかもしれません。

イエス・キリストの有名な言葉に、「愛は摂理の成就なり」というのがあります。

頭で考えてしまうと、意味はさっぱりわかりませんが、もっと深いところでは「愛することは、神の御心」と、理解することができます。



魂は肉体という入れ物に押し込められ、普段は頭による思考により支配されているため、存在を意識することはありません。

しかし、危機的状況になり、頭で解決できなくなると、初めて表に出てきます。

若い時に感じた、何かをしなければならないという衝動は、もしかしたら内なる魂が、しきりに表に出たがっていたのかもしれません。



愛というものを、言葉ですべてを表現することは不可能です。

同じく魂も、言葉で表現することは不可能です。

なぜならば、この世の次元のものではないからです。

言葉で説明できない、証明できないものを、否定するのは、あまりにも愚かです。

愛は、見えるものではなく、感じるものです。

やさしくされると、うれしいのは、「魂」が「愛」を感じ取っているからです。

愛を信じられる人は、同次元の魂も信じられるはずです。

2014年1月26日日曜日

生きている!そばにいる!


昔からの知人であり、仕事でも係わっている人の長男が、昨年の12月に亡くなりました。家族と遠く離れて大学生活を送り、地元での就職も決まり、今春には戻ってくる予定でした。交通事故でした。

父親である知人をはじめ、お母さん、兄弟、おじいちゃん、おばあちゃんの衝撃、悲嘆は、想像を絶するものがあると思われます。起きてしまったことが、いまだ信じられないのかも知れず、悲しみやつらさと向き合っていくのは、これからなのかもしれません。大学生活を終えて、社会のために活躍していこうとしている若者が亡くなる理由は、どこにも見当たりません。

仕事にも誠実で真剣に取り組み、家族思いで、曲がったことが大嫌いな知人が、なぜ、このようなつらい経験をしなければならないのか、わかりません。

これから結婚をして、家族を持ち、たくさんの楽しい思い出をつくっていくことを、疑わなかった知人にとって、突きつけられた現実は、あまりにも非情で過酷と思われます。親として、育ててきた子供を亡くすことは、この世で最もつらい苦難の1つに違いありません。

私は、シルバーバーチの霊訓から霊的真理を学びました。死に対する考え方も一変し、怖いものではなく、魂が肉体から解放されることであり、むしろ喜ばしいことであることも知りました。しかし、まだ未熟なために、いざ自分の子供が突然の事故で亡くなってしまったら、平常心でいることは難しく、大きな悲しみや、喪失感を抱いてしまうような気がします。

ただ、忘れてはならないことがあります。それは、(肉体が)死んでしまった子供の魂は生きていて、目には見えなくても、家族と一緒にいるということです。

人は死んだら火葬され骨になりますが、生命である魂は、肉体とは関係なく存在し続けています。肉体がなくなった以外は、意識も、記憶もあり、性格も、すべてそのままなのです。

肉体のない魂は、地上(物理)的制約は何1つ受けませんので、地上のどこへでも瞬時に移動することができます。子供の帰るところは、ただ1つ、わが家です。家の中のいつもの居場所にいて、家族の様子を見ているだろうと思われます。

もし、家族が悲しみにくれ、会話もなくなり、雰囲気がすっかり変わってしまったら、きっと戸惑うことになるでしょう。大好きな人、愛する家族が、嘆き、悲しんでいる姿を見ることは、堪らなくつらいことです。

何とかして、そばで元気に生きていることを知らせたいと思うことでしょう。しかし、目の前にいることに、全く気付いてもらえないのです。「ここにいるよ!ここに!」と、肩に手をかけて教えようとしても、かけた手はむなしく、体を素通りしていくだけです。向こうの世界に行った人が、この世の人に存在を知らせる手段は限られていますので、自分にはどうすることもできないことを知り、深く失望していると思われます。また、交通事故という予期せぬ死であったため、自分の身に起きたこと、肉体をすでに失っていることに、気付いていなかったり、起きている現象が理解できず、混乱していることも十分考えられます。

一方、家族の心は、亡くなって1、2ヶ月では深い悲しみにより閉ざされていて、周囲とのかかわりを持ちたがらないのかもしれません。私は、死の悲しみを癒すものは、霊的真理の他にないと確信していますが、今、家族に伝えたとしても、素直に聞き入れてくれることは、難しいのかもしれません。

以前、同じく子供を交通事故で亡くされた知人に、「今も生きている」ことを伝える機会がありましたが、残念なことに拒否と思われる言葉を受けてしまいました。亡くなってから日の浅い家族は、ただ帰ってきて欲しい、元気な子供の姿をもう1度この目で見たい、この手で抱きしめたいと、願っているだけです。そして家族以外には、到底この気持ちは分からないと、思っています。私の行動は時期早尚であったのかもしれません。

しかし、亡くなった子供は、家族にどうしても「生きている!そばにいる!」ことを伝えたいのであり、霊的な知識を有するもの以外に、代弁してやることが不可能なことも確かです。

もし、「生きている」という事実が、家族により否定されれば、想いは一方通行になり、両者の魂は、つながることはありません。それは亡くなった人が最も怖れ、悲しむことであり、第2の悲劇と言えるのかもしれません。いくら「生きている」と言われたとしても、にわかには信じられないことは、理解できます。しかし、死ぬと何もかもなくなってしまうことを、証明するものは何もないのに対し、「生きている」ことを証明することは、しかるべき通路(霊能者)がいれば可能です。

すべては摂理に従っているために、証明される機会が与えられていないだけです。死別という深い悲しみは、魂を目覚めさせ、向上させるという、きわめて大きな意味がありますので、つらいことですが苦難にじっと耐える時も必要です。そして時期が来て、愛する人が生きている証が、もたらされることになるかもしれません。

いつの日か知人が、「(魂として)生きているかもしれない」と思うことができたのなら、両者のつながりは確実に深まり、「そばにいる」気配を、感じ取れるかもしれません。さらに「生きている」と信じ、親愛の想いを向け続けていれば、両者の魂が同調して、インスピレーション(直感)という形で、子供の想いが、知人の魂に、届けられることになるかもしれません。何も考えていないのにもかかわらず、心の奥底に思い浮かぶものを感じたのならば、それは向こうの世界から投げかけられた「想い」である可能性があり、見過ごしてはいけないと思われます。

向こうにいる人は、家族に愛する想いを伝えたいのであり、その一念で、向こうから家族の魂に働きかけています。向こうは物質世界ではありませんので、目に映る映像や、耳で聞く言葉で、この世の家族に、想いを伝えることは出来ません。

魂の世界ですから、五感ではなく、同次元の魂に、想いを投げかるしかありません。もし、その働きかけが功を奏し、この世に残してきた愛する人の魂に、想いが“ひらめき”として伝わったのなら、それは願いが叶った瞬間であり、向こうに行ってしまった人にとってこれ以上の喜びはないと思われます。

愛する者同士はいつも一緒であり、離れ離れになることは、決してないのです。




参考ページ: 「愛する人を亡くした人へ」


参考HP:「最愛の我が子やご家族 また愛する人を亡くされた方へ~死の真実を求めて~」一人息子さんを亡くされたお母さんのHPです。








2014年1月22日水曜日

魂に老いはない



私は、今52才です。時が経つのは早いものだと感じています。
同年代の人達は、10年もすると定年を迎えるため、その先の人生設計を真剣に考え始める頃だと思います。経済的な豊かさが、幸福な老後につながると考えている人も多く、それまでに少しでもお金を貯めたり、増やしたりして、老後の生活に備えようとしています。

ところで老後とは何なのでしょう?退職し、年金を受給し始める60代頃から、死ぬまでの間の時間と定義する人もいるでしょう。確かに肉体の老化は誰にでも訪れ、避けることはできません。私も、鏡に映る自分の顔を良く見ると、しわも増えて、年を取ったと感じます。あと30年もすれば、トイレに1人で行くこともできないかもしれませんし、もしかしたら肉体はすでにないかもしれません。

しかし、本当の自分は、鏡に映る姿そのものではなく、その姿を見て何かを感じている魂です。朽ちたり、老いたりするということは、物質特有の摂理であり、形態や性状、そして機能が劣化するということです。魂は物資次元のものではありませんので、その摂理は当てはまりません。

これまでに、楽しいこと、うれしいことを経験してきました。そして、つらいこと、悲しいことにも出会い、何とか乗り越えてきました。風に揺さぶられ、雪の重みに耐えてきた木のように、さまざまな出来事を経験して、魂は少しずつですが、強く、たくましくなっていると考えられます。

肉体は成長し、ある時点を境に老化に転じ、最後には朽ち果てます。しかし、魂は成長(向上)し続けるのみで、朽ち果てるのではなく、完成されていくものと思われます。肉体と魂では、たどる道が全く違うのです。老化するのは肉体だけであり、自分そのものである魂に老化はありません。年を取ったと嘆いたり、若さをうらやましく思う必要はないのです。

春になると桜の木は、一斉に花を咲かせます。幹から遠く離れた枝の先端にあるつぼみでも、他のつぼみと同じ時に花が咲きます。それは1つ1つのつぼみは木の一部であり、同じ生命が宿っていて、同調しているからです。1つの魂は、神という無限に大きい木に咲く1輪の花みたいなものです。全体から見れば1輪の花は、あまりにも小さい存在ですが、木を構成している一部には変わりありません。

そして、すべての花は木とつながっているため、同じ生命が宿っています。春に咲く桜の花は、1週間もすればはかなく散ってしまいますが、魂という花は、神の一部としてつながっているため、永遠に咲き続けます。それは、うれしいことでもあり、つらいことでもあるような気がします。

画家にとって色彩が、音楽家には音が、自己表現をするため必要なように、魂を表現するために媒体が必要となります。この世では、媒体として肉体が与えられています。しかし、魂にとって表現媒体となる肉体は、あまりに鈍重であり、思いのままを表現できるわけではありません。手袋をして縫い物をするようなもどかしさや、服を着て水の中を泳ぐようなぎこちなさが、あると思われます。

なぜ、神が地上を生きる魂に、鈍重な肉体を与えたのかわりませんが、きわめて進化の低い未熟な魂が、ありのままを表現してしまったら、秩序や平和を保つことが難しいため、鈍重な肉体を纏わせ、表現が制約を受けることにより、地上の秩序や平和が、どうにか保たれているのかもしれないと、考えてしまうことがあります。

肉体を動かす力は、同じ物質次元の食物から補給するのに対し、霊的次元にある魂は、霊的次元の力、つまり霊力が原動力となります。神とのつながりが深まれば、深まるほど、神の力である霊力が魂に流れ込むと思われます。霊力は、森羅万象を起こす力であり、人にとっては生命力であり、病を癒す力であり、ことを成し遂げさせる力でもあります。

しかし、シルバーバーチが繰り返し注意を喚起していますが、取り越し苦労や、不安感、恐怖心を抱くと、せっかくの霊力を受け取る妨げとなってしまいます。経験的にも、不安でいっぱいな状態で、持てる力のすべてを発揮できたことはありません。一方、ここぞという時に、驚異的な力を発揮して成功や栄冠をつかむ人がいます。そんな人は、障害となる不安や怖れがすべて取り除かれて、揺るぎない自信が生まれ、魂がいつも以上の霊力を受け取り、実力以上の力を発揮したのかもしれません。

神とのつながりを深くして、生きる力である霊力を十分に受け取るためには、自らの心が生みだす迷いや不安を一掃し、心を穏やかにして、神とのつながりを求めなければいけません。神とのつながりを求めなくても、困っている人や傷ついている動物を見て何とかしてやりたいと思った瞬間、つらく悲しい思いをしている人を見て励ましたい勇気付けたい慰めたいと思った瞬間、世の中を明るく平和にしたいと、心から思った瞬間に、神の心と「愛」で同調します。同調をすれば、神とのつながりが深まりますので、霊力が自らの魂に流れ込んできます。そして流れ込んだ霊力は、行動するための原動力となり、肉体により表現(実行)されることになります。

そのことを、心身を病んでいる人にヒーリングをしている時に、実感します。ヒーリングする前は、良き霊力の通路となり、患者の病が癒されることを祈念しつつ、無心になることが必要なのですが、私はまだ未熟なため、心配ごとが心をよぎることもあります。そんな時には、霊界との同調はうまくいかず、治癒力の大きな流れを感じることはできません。しかし、心が穏やかで、愛を誰かに分けてあげたいと思うような時は、すんなりと同調ができて、治癒力がふんだんに流れていくのを感じます。つまり、十分な霊(生命)力を受け取るためには、心を穏やかにすること、他者を思いやる気持ち、愛の想いが、最も大切だと思います。私は霊力が流れていくのを、感覚的に感じることができますが、たとえ感じられなくても、すべての人に同じことが起きていると確信しています。

肉体はどのようなことをしても、時とともに老いていくことは摂理であるため、避けられません。目に見えるものがすべてだと思ってしまうと、魂は存在せず、死ねば終わりという、深刻な事実誤認をしてしまいます。老後は人生の黄昏ではなく、次の世界へ移行する準備期間であり、地上人生の集大成とも言える、大切な時間です。出来るだけ長生きをして、死ぬまでにたくさん楽しいことして過ごすよりも、それまでの経験を活かし、たとえ小さなことでも、こつこつと世の中のため、人のために役立つことをする方が、はるかに賢明です。なぜなら、この世での楽しい思い出は、単なる1つの記憶に過ぎませんが、他者への奉仕は魂を向上させ、永遠の価値を持つからです。誰しも肉体の死の後に、いやでもそのことを知ることになりますが、なるべく早く知っておくのに、越したことはありません。

これから年を取って体が思うように動かなくなったとしても、1人でも多くの人が正しい知識(霊的真理)に出会い、受け入れる手助けをしていかなければならないと思っています。

2014年1月12日日曜日

ヘレン・ケラー



小学生の頃は、校庭で遊ぶのが大好きでした。

じっとしているのが苦手で、読書はあまり好きな方ではありませんでした。

学校の図書館に足を運ぶことはあまりなかった私でも、図書館に偉人伝の本が置いてあるのは知っていました。

シリーズになっていて、エジソン、キュリー夫人、ナイチンゲール、シュバイツァーなどの本が、十数冊置いてあった記憶があります。

その中の1冊に、ヘレン・ケラーの本がありました。



幼少期の病により、視覚、聴力を失ったため、意志の疎通が全くできず、粗暴でわがままで、親も手がつけられない子供になっていったヘレン・ケラーが、サリバン先生と出会い、献身的かつ厳しい教育を受けて、変わっていきます。

もともと優れた知性の持ち主であったヘレン・ケラーは、さまざまな本を読み、勉学を積み、優秀な成績で大学を卒業します。

その後は、盲人の就労支援活動をはじめとして、婦人参政権、公民権活動などを積極的に行いました。あらゆる社会的弱者のために一生を捧げたと言って良いと思います。



サリバン先生との出会いにより、閉ざされていた心が開かれていったことは周知の事実です。

ヘレン・ケラーがサリバン先生により言葉を初めて教えられた時の話は、あまりにも有名です。

その時の様子を著書で、こう語っています。「彼女は私をツタのからまるポンプ小屋へ連れてゆき、彼女がポンプを漕いでいるあいだ、その水をコップで受けるように指示しました。そして空いたほうの手でふたたび力をこめてw-a-t-e-rと書きました。冷たい水の筋が私の手を流れているあいだ、私は全身の注意力を先生の指の動きに集中しながら、じっと立っていました。突然、私の中に不思議な感動が湧きあがりました。おぼろげな意識。遠い記憶のような感覚。それは、まるで死から甦ったような感動でした!先生が指を使ってしていることは、私の手の上を走りぬける冷たい何かを意味しているのであり、こうした記号を使えば私も人に意志を伝えることができるのだということを、私は理解したのです。それは、けっして忘れることのできないすばらしい1日でした!」。

そして、その日のうちに「give」、「go」、「baby」などの単語を30も覚えてしまったそうです。

後にそれが精神的目覚めであったと語っています。

ちなみに「奇跡の人」という映画がありましたが、奇跡の人はヘレン・ケラーのことではなく、教育者としてのサリバン先生のことを指します。

献身的な周囲の支えもあって、たくさんの知識を得ながら自立した女性となり、尊敬をあつめていきます。



しかし、小学生の私には不思議に感じたことがありました。なぜ3重苦の彼女が、誰よりも明るく、前向きに生きてられたのか。

自分が生きていくだけでも、想像を絶するほど大変なのに、世の中のために、人のために、並外れた行動力で社会福祉活動ができたのか。

偉い人だからと言ってしまえばそれまでですが、最近になって、ようやく疑問に対する答えが見えてきました。

偉人伝には書かれておらず、あまり知られていないことですが、ヘレン・ケラーにはサリバン先生とともに、衝撃的な出会いがありました。

それは18世紀に生きたスウェーデンボルグの書籍でした。



その出会いにより、彼女の心に、明るい真理の光が差し込むことになります。

スウェーデンボルグは18世紀に活躍した科学、数学、哲学など、あらゆることに精通した偉大な知性の持ち主であり、ゲーテやユングなど、多くの芸術家や思想家にも影響を与えています。

頭脳明晰で、極めて論理的な思考をするスウェーデンボルグでしたが、50代になり、今までの考えを根底から変える驚異的な体験をします。

それは、生きながらにして死後の世界である、霊界を探訪する体験でした。

魂が肉体から離脱し、霊界を巡り、そこでの人々の暮らしを垣間見てくるのです。

臨死体験をして、すでに亡くなっている人に会ったり、光の体験をする人はいますが、その世界よりも、さらに先にある、霊界を見て巡ることを許されたのです。

その希有な体験と、そこから学び得たものを、世の中に知らせることが、自分に与えられた使命と信じ、多くの著述を遺すことになります。

当然のことながら、優秀な科学者であった、スウェーデンボルグが、ある日を境に霊界などという荒唐無稽なことを言い始めたと、周囲の人は彼の頭はおかしくなってしまったと思いました。

そして理解されないまま、英国の地でこの世を去ります。



そして百数十年の時を経て、彼の著述である「天国と地獄」にヘレン・ケラーは出会うことになります。

視覚、聴覚を失ったことは、周囲の状況を知るということにおいて絶望的なハンディキャップになりますが、周囲からの影響を受けることも最小限となり、内面と向き合うことになります。

幼い頃から、隔絶された心の世界の中で、うごめく何か、叫ぼうとしている何かを、常に感じていたのではないかと思われます。



そして、15,6才の頃に書斎にいながら、意識は遠く離れたギリシャのアテネに行っていたという、いわゆる幽体離脱という決定的な体験をすることになります。

その体験について、「私の霊魂が実在すること、しかもそれは場所や肉体の制約を完全に超えていることを悟ったのでした。

何千マイルも彼方の場所をこんなにありありと“見たり”感じたりしたのは、私が霊そのものであり、そのことにもはや疑う余地はありませんでした」と、後述しています。



内なる魂に目覚めた後に、導かれるようにスウェーデンボルグの著書に出会い、多くの知識や摂理を獲得していきます。

ヘレン・ケラーが書いた「私の宗教」という本の中に、スウェーデンボルグことが多く書かれています。

印象的であった文章のいくつかを紹介すると、「天界での生活とは、すべての物質的制約から自由になった状態と考えるのがいちばんよいだろう、とスウェーデンボルグは明快で信頼すべき啓示をもたらしました。もしそれが本当だとすれば、天界での教育について、私達は明確な観念を持つことができるでしょう。つまり、天界というのは霊の体をまとった魂たちの広大な領域であり、そこではすべての魂がひとつの壮大な“役立ち”のシステムの中に相互に関係しながら結び合わされています。その集団の中ではすべての個人が、自分をより高く向上させ、それによって全体の美を拡大させることのできる可能性や関心や特殊な知識をもっています。そこで、それぞれの個人は、お互いに他人に依存しながらも自分なりの仕方でより完全な成長を遂げ、ますます増大してゆく幸福感に応じてより多くの責任感を持つようになるのです。」と書かれていて、その見出しは「役立ちの生活」となっています。

また「スウェーデンボルグは霊界での引力の法則に相当するものが愛であることを悟り、愛という放射の源泉が、太陽にのように実際にすべての霊魂に生命を与え、すべての被造物に美を与えるのを見た、と証言しています。」と書かれています。

すばらしい表現だと感じるとともに、その内容は、霊界からの通信と多くの点で符合しているものと思いました。



ヘレン・ケラーは3重苦という、想像を絶する苦難を経験し、若くして魂に目覚め、霊界の存在や神の摂理を受け入れていたことが良くわかります。

障害は神から与えられた試練と受け止め、愛や奉仕が最も大切であり、神の御心に適った行為であることを、深く理解していました。

だからこそ、誰にでも明るく笑顔で接し、優しく弱者を励まし、世の中のために、人のために一生を捧げることができたと考えています。

怯むこと無く、苦難に立ち向かい、他者を愛することで、神に愛された、美しくも偉大な魂の人です。



最後に、心に残った、ヘレン・ケラーの言葉を引用します。

「私は、自分の障害を神に感謝しています。私が自分を見出し、生涯の仕事、そして神を見つけることができたのも、この障害を通してだったからです。」

2014年1月10日金曜日

病気は魂を浄化させる



今日は仕事が休みなので、障害者施設に行ってきました。あたたかい職員の方に囲まれ、皆さん元気にしていましたが、気になるM君は相変わらず部屋で一人でテレビを見ていました。

重度の身体障害があり、いつもベッドで横になっています。知的障害は全くありませんので、普通に会話はできます。昨日は病院に行って診察で疲れてしまい、腰痛がひどくなり顔をしかめて耐えています。今までに何回も手術をしていますが、痛みから開放されたことはなさそうです。腰に手を当ててヒーリングをしながら、話をします。

彼は、こんな思うようにならない体で、痛い思いをしながら生きていて、何の意味があるのだろうかと常に考えています。そして時々「死にたい」ともらします。そこに彼の弟がお見舞いに来ました。彼もまた兄と同じ先天性の疾患があり車いすでの生活ですが、勉学やスポーツにも励み、快活そのものでした。兄をいたわり、気遣う言葉をかけていました。まだ20歳くらいですが、常に前向きに生きようとしているのが、その顔つきや、言葉から感じられました。M君と同じ病気を抱えているのに、何でここまで違うのだろうと思うとともに、同じ病気の弟が心の支えになっていることに安心しました。

M君はこれから数十年、障害と痛みを抱えて生きていくことになりますが、それに負けて投げ出すことは許されません。M君の病いも摂理により生じて、想いや行いのすべてに因果律という摂理が働くからです。つらさから逃げだしても、もっと過酷なつらさが待ち受けているだけです。その日が来るまで、精一杯生きるしかないことを、あらためて伝えました。

摂理は時に冷酷にも見えますが、公正と秩序をもたらします。私も車の運転をしますが、もし交通ルールがなかったらどうでしょう。ある人は猛スピードで車を運転し、交差点で信号機がなければ混乱し、路上駐車した車で道が塞がれるかもしれません。交通を円滑にして安全を保つためにはルールが必要です。宇宙が開闢し、地球という惑星が誕生して太陽の周りを回っているのも、海中に生物が発生して進化して人間が生まれたのも、種が芽を出すのも、そして花を咲かせ散っていくのも、目に見えない摂理に則って行われています。

すべてを支配している摂理の枠から出ることは出来ませんが、摂理があるからこそ、世界の秩序と公正は保たれています。人が生まれ、死んでいくのも、病気が生じるのも摂理に従ってのことです。想いや行いのすべてに摂理は寸分の狂いもなく働いています。

ただ、この世では因果律の働きがわかりにくくなっていて、結果として生じた出来事と、原因となる過去の想いや行いの関係を、明確に結びつけることは、容易ではありません。そのため生じた出来事を偶然とか運として片付けてしまいがちです。今、起きている出来事は、過去のどこかで蒔いた種の結果に過ぎません。因果律という摂理が確かに存在することを、気付かせるためには、何かしら体感的なものが必要となります。

病気の苦痛は最も体感的なものであり、そのつらい経験により、過去の過ち(摂理に背いた想いや行い)に気付き、それを正し、摂理に則って生きていくようになります。そして健康な時に追い求めていたことより、はるかに大切なことに気付くことになります。

それは「生命」であり、「愛」です。それ以外のことは取るに足らないことばかりです。生命は肉体を超えた魂であり、魂は神の一部であるために、愛が最も大切であることを強烈に意識していきます。生命と愛の大切さに目覚めたことは、魂が目覚めたことを意味します。生きている目的は、魂を向上させるためです。そのためには、まず魂が目覚める必要があります。

病気になると、何も悪いことをしていないのに何で私がと思ってしまうのは、この世という限られた視野から眺めているためであり、霊的次元から見れば、魂を深い眠りから目覚めさせるための、けたたましい目覚まし時計の役割を果たしています。

すべての出来事は、決して偶然や運、不運ではなく、何らかの原因により起きていることが判ってくることは、因果律という最も根源的な霊的真理を受け入れつつあることになります。もし因果律がなく、病気というものも存在しなければ、摂理に背いていても気付かせるものはなく、魂は際限なく神から遠ざかり、暗く、陰鬱な世界を、あてどもなくさまようことになると思われます。そのままでは、愛というものからかけ離れた荒涼とした世界に、魂が迷い込んで抜けられなくなってしまうかもしれません。

因果律の働きにより、摂理に背けば神から一歩遠ざかり、遠ざかっていることを苦痛により知らされ、摂理に沿うように軌道修正されていきます。この世に生まれた時の魂は無垢でも、さまざまな想いや行いにより、魂のありさまは変わっていきます。摂理に適った想いや行いを積み重ねていくと、魂は美しくなり、輝きを増していきます。反対に摂理に背いた想いや行いにより、魂は汚れていき、輝きを失っていきます。病気は、大切なことに気付かせ、神に向かっての正道を歩ませるためにあります。そして、耐えがたいと思われる苦痛により、魂の汚れは浄化され、本来の輝きを取り戻していきます。

苦痛は人を不幸にさせるものではなく、魂を浄化させ、神への道へと導くものです。

2014年1月1日水曜日

不安と恐怖に打ち克つ



悲しくつらい出来事があると、心は痛みます。肉体の痛みは、鎮痛剤である程度少なくすることはできますが、心の痛みはそんな訳にはいけません。

肉体の傷は目に見えますが、心の傷を見ることは出来ず、傷の深さは本人すら計ることはできません。

さまざまな出来事や言葉により、心を傷つけられ、痛みを生み出しますが、肉体の傷もふさがっていくように、心の傷もいつかはふさがり、痛みはなくなってくるはずです。

目の前にある現実を受け入れると、時として耐えられないと思うほどの痛みに襲われることもありますが、神はこの世に時を与えていますので、時間とともに心が癒されていきます。



人は肉体を携えた魂です。神へと続く階段を魂が1段1段登っていく永遠の道です。

心の痛みを感じなくなっていくのは、魂が1段、向上した結果だと思われます。

平地を歩くのとは違い、上に登って行くためには力が必要になります。より高く登っていくにつれ、階段は急になり、出会う苦難は厳しいものとなってきます。

そうでなければ苦難と感じないはずであり、苦難と感じないようであれば魂の向上は得られません。

今度ばかりは乗り越えられそうにないと思われる苦難であっても、乗り越えられるはずです。

なぜならば、今までも乗り越えてきたからこそ、神の法則に従って与えられたはずだからです。

しかし、事実があまりにも深刻で、衝撃的であったりすると、まともに受け入れてしまうと、重圧に耐え切れなくなり、感情のコントロールを失い、耐え難い悲しみや不安や絶望感に襲われるのではないかと思ってしまうことがあります。

心がバラバラにされ、修復不可能な状態に陥ってしまうのではないかと、無意識のうちに心を守る防衛反応が働き、その事実を心の奥に封印してしまう場合があるのかもしれません。

正面から向き合うことなく、事実を受け入れなければ、なかったかのように過ごすことができるのかもしれません。



繰り返しになりますが、人は魂を向上させるために生きています。

経験したこともなく、全く予期しなかった、つらい出来事でも、無我夢中で危機を切り抜けていく過程で、魂は鍛えられ向上していきます。

これは無理だと思われたことでも、乗り越えられるはずです。もしそうでなければ、この世は挫折だらけになり、絶望感と無力感に包まれたものとなってしまいます。

とても耐えられないと思われた出来事も、実は乗り越えていくことが出来たのです。

しかし、封印してしまうと、つらさからは逃れられ、一見賢明な方策に思えますが、苦難を乗り越えて魂を向上させる機会を1つ失ったことを意味します。

事実が心に封印され、忘れてしまったかに見えても、その事実を消すことは出来ません。その時に表すことのできなかった、はりさけそうな想いが、たくさんあるはずです。

事実に対して、悲しみ、恨み、怒り、憎しみなどの様々な想いが、たとえ表現されなくても無意識のうちに、心に湧き上がっています。

そして幾重にも積み重なっていき、心のしこりとなっていきます。

そして魂に影響を与えていき、魂のありさまが変わっていきます。

肉体は魂に従いますので、病気として表在化していくことになると思います。

よって肉体に顕れた病変は、封印された出来事から生み出された、悲しみ、怒り、憎しみなど様々な負の感情の集まりが形を変え、目に見えるものとして顕れたものと考えられます。



もしその出来事を、誰かのせいにしたり、不運を嘆いたり、人を妬んだすることで、正面から向きあうことをしなかったとしても、摂理に背いていることになり、同様の結果を生じることになると思われます。

つらくても正面から受け止め、悲しむ時は悲しんで、痛みを感じながら、乗り越えていくことが、摂理に叶った取るべき道だったはずです。

心の痛みやつらさを経験することより、魂は向上しますが、その事実を封印してしまい、痛みやつらさを感じることがなければ魂の向上は得られません。

この世で与えられた苦難として、痛み苦しむはずだったのであれば、何らかの別の機会で相応の苦難が与えられることになるはずです。

そして事実を受け入れた時に味わったであろう心の苦痛と、同等の苦痛を後に経験し、魂を向上させることになると思われます。

神の摂理は完全であり、形を変えて苦痛が与えられて、魂を向上させることになります。

病気として与えられた苦難を、今度は乗り越えていかなければいけません。

乗り越えられないと思わせるのは、病気に対する誤解であり、恐怖であり不安だと思います。

病気に限らず、不安や恐怖は、ことを成し遂げる時の妨げとなり、力を十分に発揮できなくなります。

病気を魂の次元で理解し、不安や恐怖を払拭できたのなら、必ず乗り越えられるはずです。



前にも書きましたが、不安や恐怖に心が支配されると、十分な治癒力を受け取れなくなります。

不安や恐怖を感じたり、摂理に背く想いを抱いてしまったりして、事実と向き合わなかった過去と同じ過ちを、病気として形を変えた苦難において、繰り返してはいけません。

摂理に背いた想いを抱かないか、不安や恐怖を退け正面から向き合うことが出来るのかを、試されているのです。

もしそれが出来たならば、病気は乗り越えられて、治癒につながっていくはずです。

病気は不安や恐怖に打ち克つことが試されている苦難なのだと思います。



不安や恐怖に打ち克ち、魂が肉体を支配すれば、神からの治癒力を存分に受け取ることができ、病気の進行は抑えられ、痛みを感じることはないと思っています。

反対に不安や恐怖に支配されたら、ガンを抑えこむ力は減弱し、病気は進行し、痛みを感じることになると考えています。



ガンは死という誤った認識があまりにも広まり、多くの人が不安や恐怖を感じています。

ガンは肉体を蝕む得体の知れない病気ではなく、魂を向上させるために与えられた試練です。

神は愛であり、死に至らせるための病としてではなく、過ちを正し、大切なこと(摂理)に気付かせるために与えた病です。

ガンは肉体に対する治療も必要ですが、それ以上に魂のありさまを変えていくために、心を意識し続けなければいけません。

心を穏やかにして、すべてに感謝し、他者を慈しみながら日々を過ごせば、魂の平和、協調、調和が取り戻せるはずです。

そうすれば支配下にある肉体も従い、ガンも癒やされていくはずです。

病巣をなくすのが治療ではなく、不安や恐怖に打ち克ち、心を穏やかに平和に保つことこそ、根本的な癒やしになります。









2013年12月28日土曜日

すべては魂の向上のため



赤ちゃんのつぶらな瞳を見ていると、魂そのものであり、神の一部であるということを、感じることがあります。



役目を果たすために、どこか遠いところから、この世に降りてきて、生まれた直後に泣き叫んでいるのは、もちろん呼吸をするためなのですが、この先の大変さを魂が分かっているからと思えてしまうことがあります。



子供にとって親は必要な存在であり、強者です。

しかし、親が上で子供は下であり、親の意見に子供は従わなければいけない、などということは大間違いで、1つの魂として見れば、対等の関係です。

肉体は遺伝しますので、容姿は似通ったところがありますが、魂は別次元のものであり遺伝はなく、反映している心、性格は親子でも肉体みたいに似ていません。

数十年、早くこの世に生まれてきただけであり、魂に年齢は関係はなく、親よりも魂が向上している子供もたくさんいると思います。



幼い子供が生まれながらの難病で苦しみ、治療のかいもなく亡くなってしまうことがあります。

小さいながらも親や周囲の人を気遣い、決して弱音をはかない子がいて、周囲の人を驚かさせます。

そんな子は、この世を長く生きて大切なこと(摂理)を学ぶ必要はなく、自分に足りなかった部分だけを、病気という苦難を通して学びとり、それが終わると早々と、次の世界に行ってしまうのかもしれません。

幼いのは肉体だけであり、魂は向上していて、成熟した大人なのかなと思うことがあります。

子供に先立たれた親は、深い悲しみを味わうことになりますが、その耐え難い苦痛が、魂を向上させることにつながります。

つまり、短い生涯であっても、その親の子供として、病気を抱えて生まれてきたのは、それぞれの魂の向上を成就させるために、必要だったということになります。



魂は、自らに足りないものを自覚して、その部分を補うために、適切な試練が得られる、環境を選んで生まれてきます。

災難や不幸と思われることは、摂理に背いた想いや行いをして因果律が働き、その結果として表れたものもありますが、魂の向上させるために、あらかじめその人に計画されている場合も多いのではないでしょうか。



休みの日で時間があれば障害者施設にボランティアに行っています。

ボランティアと言っても、遊び相手や話し相手になっているだけなのですが、良く来たと、笑顔で歓迎してもらえると、うれしくなります。

そこでは足が不自由で車いすの人、身体は健康だけど知的障害がある人、身体が不自由で知的障害がある人など、様々な種類や程度の異なる障害を抱えた人達が共に生活しています。

一人ひとりの意見は尊重されますが、集団生活なのでわがままや規律を乱す行動は許されません。

そんな中で、自分の置かれている立場を十分に理解して、残された能力を活かしながら、精一杯生きてるのを見ていると、こちらが元気をもらいます。



抱えている障害は、生活していく上で大きな支障となり、健常者にはわからない大きな苦痛となっていると思います。

中には、障害が重度で、食事をするのも、ベットで寝返りをするのも、着替えるのも介助が必要で、常に人の手を借りなければ、生きていけない人もいます。

ベッドに横たわったまま、身体を動かすことも、話すこともできず、一生を終えるであろう人を見て、以前の私でしたら、かわいそうにと同情したり、生まれてきた意味があったのだろうかと思ったことでしょう。



しかし、霊的真理を知った今は、肉体で魂の表現がほとんどできないという、最も過酷とも思われる試練は、大切なこと(摂理)を学び魂の向上をさせるために、その人に必要だったのかもしれない、あるいは前世での罪の償いを今、果たしているのかもしれないと、考えるようになりました。

どちらにしても、その人の魂の向上にとって不可欠なものであり、目的があって不自由な身体を選んでこの世に生まれてきたことになります。



一人では生きていけないこと、人に助けてもらうことを通して、愛がもっとも最も大切であることを、心身の障害を通して学んでいるのかもしれません。

もしかしたら、全人生をかけての苦難に耐えられるほど、すでに魂が向上している人であり、さらなる向上を得るためなのかもしれませんので、安易な同情は慎まなければいけないと感じています。



すべてのことに無駄はなく、意味を持っている、と言われても、この世では目に映るもの、耳に聞こえるものが、すべてに思えてしまうため、目に見えない霊的法則が働いていることは、どうしても分かりにくくなってしまいます。

高い次元から見ると、すべてのことは神の法則である因果律に従っていて、その叡智により計算しつくされた上で、絶妙の時期に、かかわる人すべての魂の向上のために、最適な形で出来事が生じていることが、手に取るように分かるため、シルバーバーチは神の完璧な叡智には驚嘆させられる、と言っているのかもしれません。



私を含めて、魂を表現をする自由を与えられた人は、存分に愛を表現していくべきであり、この世ではそのための手段として肉体が与えられたのだと思います。






参考ページ: 「早世した子供たち」

2013年12月25日水曜日

生きることは愛すること



私には伝えたいことがあります。

それは「シルバーバーチの霊訓」という本の存在であり、その中に書かれている数多くの真理です。



私にとって当たり前になってしまいましたが、苦難を経験して、魂に受け入れる準備ができた人にとって、その出会いは人生に一大革命をもたらします。

こうしてブログを書いているのも、霊的真理を受け入れる時期が来た人が、最短で「シルバーバーチの霊訓」にたどり着いて欲しいためであり、時期はまだでも、苦しみの最中にある人にとって、霊的真理が大きな安息となると考えているからです。



数ある中でも、「生命は霊(魂)」ということ、「霊(魂)は神の一部」であるということ、そして「神は愛」、という真理は、きわめて重要と考えています。



「死」については、実際に死んでみないと分からないと考えていましたが、幸いにして明白なものとなり、心の安らぎが得られました。

死は生の一部であり、存在がなくなってしまうことではありません。

存在の本質である生命は魂であり、表現するものが肉体です。

死とは、表現する媒体が変わるということです。



次の世界では、肉体はなくなるため、自由に魂の表現ができるようになります。

客観的なことを言葉で表現することは比較的簡単ですが、心で想ったことは主観的であり、表現するのはとても難しいです。

つい先日、まだ薄暗い空に、朝日を浴びて光り輝いたピンク色(ルノワールの肌色?)のひつじ雲を見ました。

見て感じたことを言葉に表すと、「美しい」とか「きれい」ということになりますが、それでは表し足りません。

美しいという言葉は、あまりにも大まかで広すぎるのです。

また、ある人が美しいと感じるものでも、別の人にはそう感じていないこともあります。

赤色という言葉から思い浮かべるのを、ある人はトマトの赤だったり、ある人は赤鉛筆の赤かもしれません。

と言うように、言葉で自分の思いのすべてを、正確に他の人に伝えるのは無理です。



次の世界は肉体のない世界です。

自分の想いのすべては、言葉ではなく思念として正確に伝えることができます。

もどかしく、わずらわしい言語という記号は必要ありません。

今までの経験から私は、次の世界では魂で感じたことはバイブレーションとして伝わり、バイブレーションを受け取った相手の魂は同じ感覚となるため、想いを共有できる、と思っています。

音叉と同じく、同じ波長となり魂が共鳴し合うと言うことです。



次の世界では、食事の心配をすることもありません。

養う肉体がないのですから、食べる必要がないわけです。

お金の心配をすることもありません。

服を買ったり、家を買ったりすることはなく、もし欲しければ直ちに具現化しますので、買い求める必要がないからです。

信じられないかもしれませんが、夢みたいな世界が、次に待っています。



もし、次の世界が、そんなにすばらしい世界であるならば、なぜ、この世が存在し、今、生きているのかと思うかもしれません。

生きるためには、お金が必要です。そのためには働かなければいけません。

嫌いな人と会って、話をしなければいけないこともあります。

さらに戦争が世界各地で今も起こっていて、人が人を傷つけています。

苦労をしたり、苦痛を味わったり、見たくないものを見たり、聞きたくもないことを聞いたり、望むことばかりではありません。

この世界が次の世界と大きく違うのは、両極性の世界であると言うことです。

「シルバーバーチの霊訓」に詳しく書いてありますが、愛と喜びに対して憎しみと悲しみ、平和と調和に対して戦争と混沌、すべて対になっているのが、この世です。

もし「神は愛」というならば、神の創った世界に戦争など起こるはずがない、と考えてもいいはずです。

戦争は摂理に背いた考えや行為により引き起こされ、国土は破壊され、人は傷つくことになります。

そして悲惨な光景を目の当たりにし、苦痛を感じながら、愚かさに気付き、平和の大切さを知ることになります。

戦争は他者(国)を愛する気持ちがあれば起こりません。

平和のために「愛」が必要不可欠なことを知ります。

大切なこと(摂理)をより際立たせ、気付かせるために、両極性であるこの世を、神が用意したのです。

生きるということは、魂を向上させる道を進んで行くことです。

霊性を高め、神に向かって1歩1歩近づいていく道です。



この世では魂の表現を肉体で行います。

肉体は生存するために、いろいろな要求をしてきます。

食べたい、寝たい、休みたいなど、動物的、本能的な要求です。

もし、肉体がすべてであれば、自己の生存のみを追い求める、殺伐とした世界となるはずです。

しかし、この世はそのような世界にはなっていません。そして誰も望んではいません。



それは、「生命は魂」であり「魂は神の一部」であるため、人は神の愛を表現しようとするからです。

人のために何かをしたい、社会のために奉仕をしたいという欲求は、生まれた後に身に付けるのではなく、もともと魂に内在する欲求であり、神の愛を表現しようとするものです。

しかし、愛を表現するためには、常に自己(肉体)の要求に打ち勝たなければならず、自己犠牲が必要となるため、魂の強さが求められます。

肉体など初めからなければ、愛を存分に表現できるのではないかと思われますが、魂が肉体という重いよろいをまとっているのは、負荷がかかり苦しむ中で、魂は鍛えられ、強くなっていくからです。



アウシュビッツの強制収容所では、1日の食べ物はパン1切れだったそうです。

そのため収容されたすべての人が、ひどく飢えていたと思われます。

そんな中で、その貴重な1切れのパンを子供に渡した人がいたそうです。

自己(肉体)の要求に打ち克ち、この世で最高の愛を表現していると思いました。



そこまでできなくても、会社帰りで疲れていても、目の前にお年寄りがいたら席を譲る人はいます。

休みの日に被災地に赴き、困っている人のためにボランティアをする人もいます。

それぞれが自己への要求を犠牲にして、人のため、社会のために行動しています。

この世を生きているうちに、そんなことがいく度となく繰り返され、たとえ1つ1つの想いや行いは小さくても、積み重なれば大きなものとなり、より高い愛、より強い愛を表現できるようになっていくのではないでしょうか。



もし人生が喜びばかりであったならば、大切なことを学ぶことは出来ません。

災難とも思える、悲しみや苦しみの経験を通して、最も大切なのは愛であることに気付くとともに、魂が向上していきます。

そして苦痛を味わっている人に対して、愛を表現することができるようになります。



「生命が魂」であり、「魂は神の一部」ということから、「生命は神のもの」ということになります。

そして「神は愛」ということをつなげていくと、「生きることは、愛すること」ということになります。

2013年12月20日金曜日

心のしこり



世の中で起こることすべてに、原因があります。

私が、保険医の取り消しという処分を受けたのも、不正な行為をしたという明確な原因がありました。

交通事故でも、スピードの出しすぎ、注意力の散漫、あるいは寝不足など、何らかの原因が存在して起こります。

最近、春や秋が短くなってきたのを感じていますが、これも地球温暖化の現れと考えられ、人間が出すCO2が原因と推察されます。



一見、偶発的、突発的と思われる事象にも、必ず原因が存在します。

病気も、何らかの原因があって生じたのは間違いのないことです。

一見、関係のないこと事象が原因となって、結果として表に現れてくることがあります。



ある女性に虫歯ができて、私の歯科医院を訪れたとします。

虫歯を削って取り、そこに樹脂を詰めて治療が終わります。

しばらくして別の歯に虫歯ができて、痛くなりまた来ます。

再び治療をします。

また別の歯に虫歯ができて来ます。

これは普通ではないと考えて、患者さんに「最近、甘いものをたくさん食べていませんか?」と尋ねます。

すると「食事はあまり食べないで、お菓子ばっかり食べています。」と答が返ってきます。

「一体、どうしたのですか?」と聞くと、「実は、付き合っていた彼と別れてしまい、紛らすために甘いものばかりを食べていました。」と答えたとします。

虫歯の原因が失恋のせいだとは、本人も意識していません。

今後、虫歯にならないために、歯ブラシを良くすることも大切ですが、失恋による「さみしさ」が原因となっていることに気付き、甘いものを食べて「さみしさ」を紛らすことをやめなければいけません。

原因がはっきりしていると思われる虫歯でさえ、このように見えない隠された原因があります。



ガンという病気はどうでしょう。

医学的に遺伝的素因、環境的素因が原因と言われていますが、解明が進まず、依然として不明なことが多いことは事実です。

不明なことの中には、現代医学で認めてられていない、心や魂に関わる原因が関係していると考えられます。

人は生きていると、さまざまな出来事ことを経験します。

うれしいことばかりであればいいのですが、悲しいこと、つらいことも、たくさんあります。

悲しいことが起こると、人は涙を流します。

涙は悲しいことを早く忘れるために、神が与えてくれたものなのかもしれませんが、いくら涙を流しても、起こってしまった悲しい事実を消すことはできません。

その悲しみが心を大きく支配してくると、何も考えられず、何も手につかない状態になってしまいます。

この世に生まれてきたのは、魂を向上させるためですから、何も手につかない状態のままでは、その目的を果たすことはできません。

悲しみの想いを持ち続けることにより、魂のありさまが変わっていき、それが肉体上に病気として顕れることになります。



そして、苦痛を通して過ちに気付き、本来の心を取り戻していくことになります。

病気は、大切なこと(摂理)に気付くためにある、神の摂理だと考えられます。



病気の原因を知るためには、過去にあった心を支配することになった、つらい出来事を振り返らなければいけません。

そして、向き合うことから始まると考えられます。

そのことは記憶としては忘れかけていても、魂にはしっかりと刻み込まれていて、心や肉体に影響を与え続けています。

身にふりかかった、つらい出来事を、誰かに話を聞いてもらったり、相談したりすると、その胸のうちにある感情が表に出てきて、意識することができたかもしれません。

しかし、誰にもわかってもらえなかったり、話すことができなかったりして、感情の持って行き場がどこにもなかったりすると、怒り、憎しみ、恨み、嫉妬などの摂理に背いた想いに心が支配され続けていたとしても、意識することは難しいと思われます。



人間は未熟ですから、その様な想いを持つことは避けられないのかもしれませんが、たまり続けていくと心に(摂理に背いた想いの)しこりができてしまいます。

徐々に大きくなった心のしこりは、魂にも影響を与えていくことになり、神の心である平和、協調、調和が、魂から失われていきます。



生まれてきた目的は、他者を愛すること、困難を乗り越えることで、魂を向上させることにあり、神の心を抱き、それを表せば向上しますが、摂理に背いた想いを抱いていては望めません。



ガンが肉体上に顕われたのは、苦痛を通じて大切なこと(摂理)を学び、魂が本来あるべき姿を取り戻していくためと思われます。

ガン患者さんの多くは、心のしこり(想い)が原因でガンになったと思っています。

ただ、検査で調べてわかるものではありませんし、それを証明する根拠はありません。



もし信じてもらえるのであれば、心のしこりを作ってしまった過去の出来事(原因)と、あらためて向き合って下さい。

心の傷であり、早く忘れてしまいたいことであり、決して簡単なことではありません。

しかし、病気を治すためには、心のしこりに閉じ込めれた想いを手放してしまうことが必要です。

手放すためには、その時はとてもできなかったこと、その出来事を許して、受け入れなければなりません。

許せなかった、受け入れられなかったから、心のしこりが生まれてしまいました。



そのためには「愛」が必要です。

しかし、病気により痛みや苦しみを経験し、魂が向上して、最も大切なのは「愛」だと気付かれたのならば、許すことも、すべてを受け入れることもできるはずです。

許し、そして受け入れれば、心のしこりはなくなり、魂が癒されて、肉体もそれに従い、病気が癒されていくことになるはずです。

2013年12月15日日曜日

内から湧き上がる思いに従う



6年前、仕事上の不正を公の場で追求されました。

その時は、まさに針のむしろでした。



過ちを行おうとした瞬間、「本当にいいのか?」と問いただす自分がいましたが、「大丈夫だ、みんなしていることだから」という考えに、それは打ち消されました。

シルバーバーチの言う、「良心」という神の監視装置(モニター)が働いたにもかかわらず、それを身勝手な理屈を付けて無視したのです。

心がとがめることを、してはいけないのです。



不正を追求されている期間は、今まで味わったことのない後悔の念、自責の念にさいなまれました。

自分がした過ちの1つ1つが、目の前に晒されていくのは、耐え難い苦痛です。

その1つ1つを担当者から「間違いありませんね」と繰り返し、問い質された時は、まるで神に裁きを受けているような気持ちになりました。

その問いに対する私が選択する答えは2通りありました。

1つはありのままを正直に話し、過ちを認めること。

もう1つは、仕事や生活を守るために、否認することでした。

過ちを認めるのは、人として当然のことですが、その先に待ち受けている現実を考えると身震いがしました。

しかし、「ありのまま、正直に」という内から湧き上がる思いに従い、「はい、間違いありません」と過ちを認める答えをしました。

限りなく暗い将来に進む方向でしたが、「乗り越えられない苦難はない」というシルバーバーチの言葉を信じて、迷いなく進んでいきました。

その結果、恐れていた最も重い行政処分が、私に下されることになりました。

人生最大の屈辱です。

その処分に伴い、多額の返還金の支払いと、歯科医業停止2ヶ月が課せられました。

何よりもつらかったのは、その記事が新聞に載り、多くの人達の知ることとなり、信用が失墜し、多くの患者さんが去って行ったことです。

「信用してたのに」と、面と向かって患者さんに言われた時の気持は、言葉にすることはできません。



しかし、出口の見えない重苦しい日々が長く続く中で、霊的真理が紛れも無い真実であると確信していくとともに、それを手にすることができた大きな喜びを感じていました。

人は生きていると、どちらかを選択しなければならない、重要な局面に出会います。

もし、内から湧き上がる思いが、望まない方、困難な方を指し示していても、後悔しないために素直に従った方が良いと思います。

もし感じなければ、より正直な方、より自然な方、より人のためになっている方を選択するのが賢明と思われます。

そちらの方が、摂理に適っていると考えられるからです。



万有引力の法則により、石を空に向けて投げても、必ず地面に落ちてくるように、神の摂理に背いたら、苦痛を経験して気付き、必ず従うことになります。

摂理に背いたことをして、何の反省も償いもすることもなく、この世を終えたとしても、次の世界で因果律は働き、罪を償うことになります。

人は死んでしばらくすると、この世に生まれてから死ぬまでに想ったこと、行ったことの一部始終を、自ら振り返ることになります。

この世での想いと行いのすべては、魂に刻み込まれていますので、それを1つ1つを検証していくことになります。



この世で償われなかった摂理に背いた行いも、魂に刻み込まれていますので、目の当たりにすることになり、そこで自らの過ちに気付き、後悔し、自責の念を持つことになります。

その過ちを償うために、相応の苦難の人生を自らが望み、もう1度この世に生まれくることもあります。



それとは反対に、摂理に適った行いは、たとえ人知れず、ささやかな行為であっても、世の中を良くし、人を元気にし、明るくし、幸せにしています。

そのことを知り、幸福感に包まれることになります。



私が不正を質されている時に、正直になれずうそをつき、罪を免れたとします。

ホッと胸をなでおろし、前と変わらぬ日常に戻っていったことでしょう。

時とともに、そんなことがあったことさえ忘れてしまうことでしょう。

そして、この世を去る日がきます。

私にも次の世でこの世のすべてを検証する時がきます。

その時、うそをつき苦難を逃れたことを、目の当たりにすることになります。

苦難を逃れたために、魂の向上が得られなかったこと、そして最も大切なものを掴み損ねたことを、深く後悔することになると思います。



正直者が馬鹿を見ることはありません。

内から湧き上がる想いは、そのことを知っている魂の声だったのかもしれません。







2013年12月12日木曜日

病気は必要だった



6年前、私は仕事で過ちを犯し、保険医取り消しという歯科医師として致命的ともいえる行政処分を受けました。

以前の私であれば、大して悪いこともしてないのに、何で自分だけがこんな処分を受けなければならないのかと思ったことでしょう。

しかし、すでに「シルバーバーチの霊訓」と出会っていましたので、過ちを犯したのは紛れもなく自分自身なのだから、罪を償うのは当たり前なことと素直に受け止めることができました。

そう思ったからと言っても、つらい現実から逃れることは出来ません。

人からの信頼をはじめ、多くのものも失いました。

この思ってもみなかった苦難から学んだことは、「摂理に背くと、因果律という神の摂理が寸分の狂いもなく働き、つらい経験をして償わなければならない」ということでした。

仏教で言う「因果応報」であり、キリスト教の「蒔きし種は自らが刈り取る」ということです。

よほど痛い思いをしない限り、鈍感な私には、わからなかったのかもしれません。



2度と経験したくない苦難を通して、それまで意識もしなかった、真の自分である魂が、硬い殻を突き破って表に出てきました。

何もなければ、自分が殻の中にいることすら気付かず、心の奥に押し込められたまま、じっとしていたことでしょう。

苦難があったからこそ、そこにじっとしているわけにもいかず、殻を突き破り、外に出てくることができました。

外の明るい世界を見てしまったので、もう暗い殻の中に戻りたくはありません。

真に、生き始めることができたのは、その時からです。



以前は、仕事で人より成功して、良い暮らしをしたいという願望が強かったのですが、家族で仲良く暮らしていければ十分満足と思えてきました。

当たり前のことに、ようやく気付くことができたと思っています。

何気ない日常に感謝の気持ちを持つことが多くなりました。

りんごを食べて感謝。

そこに家族がいて感謝。

犬がそばに来てくれて感謝。

朝日を見て生きていることに感謝。

青い空に浮かぶ雲が美しく感じられることに感謝。

ふとした瞬間、感謝の気持ちが高まり、涙が出てくることがあります。

それは愛されていることを、魂が実感しているからだと思います。

自分の幸せを追い求めて、あわただしく生きるのではなく、他者の幸せの中に、ささやかな歓びを見出しながら、穏やかに生きることにしました。



すべての苦難は、その人に大切なことに気付かせるために、必要なものです。

苦難は不幸なことではなく、大切なことに気付かないままでいることこそが、不幸です。

病気は、健康な時には意識もしなかった、「生命」と「愛」に目覚めさせるために必要なものです。

「生命」と「愛」の大切さに気付たということは、魂が目覚めて、今まさに殻を突き破って、外に出ようとしているところだと思います。



「生命」とは肉体ではなく「魂」であり、「愛」は「魂」を通して流れる神の心です。

人に親切にすると、心があたたかいもので満たされるのを感じるは、その行為を通して神の愛が流れていくのを、魂が感じるからです。

人に優しくされるとうれしくなるのは、優しくしてくれた人の魂を通して、神の愛が流れ込むからです。

魂は他者を愛することで、美しくなります。

魂は苦難を乗り越えることで強くなります。

この世に生まれてきたのは、魂を美しく、強くさせるためであり、それ以外にありません。



病気は、魂が殻を突き破るために必要だったのであり、外に出てしまえばもう必要はないはずです。

摂理に背いた罪は苦痛を通して償うことになりますが、苦痛により魂が目覚めたのであれば、今度は摂理に従い他者を愛することで償えるはずです。

生きていることに感謝し、その歓びを他の人にも分けてあげましょう。

大きなことはできなくてもいいです。

自分なりに、少しずつ、生きている歓びを込めてしましょう。

2013年12月8日日曜日

ガンの痛み



歯医者として仕事をしていると痛みを抱えてくる人は多くいます。

歯の神経が死んで急性の炎症を起こすと、あごまで大きく腫れてしまい、歯に少しでも振動が加わると激痛が走り、治療をすることが出来ないこともあります。



痛みのつらさは、体験している患者さんでなければ理解できません。

歯の痛みの場合は、神経の治療などをして抗生物質と鎮痛剤を処方すれば、解決することが多いのですが、ガンに伴う痛みはそういうわけにはいかず、患者さんを大変苦しませることになります。



ガンが広がり、神経を圧迫したり、骨や脳に転移などをすると、時として耐え難い痛みが襲うことがあると思われます。

近年、有用な鎮痛剤が開発されていますが、完全に痛みを取り去ることはできていません。

痛みは、身体に異常があること知らせる重要なシグナルですが、ガンによる行き過ぎた痛みは患者さんの生活の質を著しく低下させ、心を不穏にさせます。



局所のガンの痛み刺激は、末梢神経から中枢である脳に伝わり、精神により痛みとして表現されます。

楽しい、うれしい、悲しいなどの感情もみな精神、心の表現ですが、心を表現する感情は通常1つであり、うれしさと悲しさを同時に表すことは出来ません。

痛いとかつらいということも、一種の感情表現であり、激しい痛みを感じている時は、楽しいという気持ちには決してなれません。



一方、楽しいという気持ちに満たされていれば、痛みを感じなくなることもあるでしょう。

ガンの痛みを感じているよりも、楽しくうれしい気持ちでいた方が良いに決まっています。

できるだけ楽しい思いをして過ごし、痛みを感じにくくした方が賢明だと思いますが、毎日が楽しいことばかりであるわけがありません。



やらなければいけないことも、いやなこともたくさんあります。

ただ、不快に感じた瞬間にストレスとなり、ガンの痛みを呼び起こすことに繋がりかねませんから、たとえいやなことでも、しなければならないのであれば、気持よく前向きにした方が、病気のためには良いと思われます。

また、ささいなことに喜びを見出し、ありふれたことにも感謝することは大切であり、その気持ちはドーパミンという脳内ホルモンの分泌を促すことになります。

ドーパミンはガン患者さんにとってすばらしい作用があり、痛みを抑制するとともに、ガン細胞を攻撃するNK細胞の活性高めると言われています。



この様に、精神と肉体は相互に影響し合っています。

前にも書きましたが、精神は魂の表現媒体であり、魂のありさまは精神に顕れて、肉体に影響を与えます。

ガンは秩序のない無法者というべき組織ですが、自分の身体の一部であることには変わらず、魂の支配下にありますので、魂からの指令であれば従うはずです。



医学的にガンの原因は不明な点も多いのですが、私は平和、協調、調和を乱した魂のありさまがガンとして肉体に顕れ、そのことを自覚させ、罪を償うための摂理として、痛みがあると考えています。

したがって、肉体上のガンを鎮めていくために最も有効な手段は、平和で穏やかな心を保ち、取り巻くすべてに感謝し、愛することだと思います。

平和で穏やかな心により、ガンの増殖が止まり、愛する心により、存在自体が脅かされると考えています。



もし、ガンという病気を憎み、敵対して闘おうとすると、穏やかな心や、愛する心が保てなくるため、ガンは活性化し、増殖を始めるのではないかと思われます。

ガンという病気も意味があってなったのですから、否定するのではなく、例えば「あなたには本当に大変な思いをさせられているけど、お陰で大切なことにも気付くことができた」と存在を認めてみるのは、おかしなことでしょうか。

また、強い恐怖心を持ったり、必要以上に不安になったりすると、生命力である治癒(免疫)力が低下し、ガンの増殖を許してしまうと考えています。

患者さんが強い痛みを感じる時は、ガンが活性化して増殖している時だと思われますので、怖れや不安な心を拭い去り、平和で穏やかな心を保ち、愛に満ちた時を過ごすことが、何より大切だと思います。

もし、痛みやつらさに挫けそうな時は、「全ては私の魂の向上ためにある。耐えられない痛みは決して与えられない」と強く自分に言い聞かせて下さい。

それは真実ですから。



ガンが増殖するか、鎮静化するか、あるいは縮小するかは、ガンと治癒力とのせめぎあいの中で決まります。

繰り返しますが、恐怖心や不安感を克服し、穏やかで平和な心を保ち、愛に満ちた時を過ごすことにより治癒力が最高に高まり、ガンの進行と痛みを押さえ込むことにつながると考えています。

愛する人、親しい人、気にかけて来てくれる人と、楽しく語り、笑い、喜び合い、励まし合う、そんな時を過ごすことは、どんな抗ガン剤、鎮痛剤よりも効果があるのではないでしょうか。

2013年12月5日木曜日

何で生きているのか



20代前半の私を悩ませていたのは「何で生きてるのか」ということでした。


いくら考えても答えは見つかりません。

目標に向かって一生懸命に生きている人や、ひたむきに何かに打ち込んでいる人は、力強く、輝いて見えて、うらやましく思えました。

大学を卒業して歯科医師になった時も、恥ずかしながら人のため、社会のために貢献するぞ、という強い意気込みがあったわけではありません。

「何で生きているのか」という悩みは、あわただしく過ぎる日々の中で、置き去りにされていきました。



それから結婚して、故郷に戻り、仕事や家庭のことに追われながら、20年近くの時が過ぎました。

44歳となった時に、治癒力の出現と、仕事上の深刻な問題が立て続けに起こりました。

まもなくして、「シルバーバーチの霊訓」に出会い、霊的真理を受け入れることになります。

そして「何で生きているのか」という、若き日からの悩みに終止符が打たれることになります。



52年前、私はこの世に生まれました。

その時にできたことは、自分の要求を知らせるために、泣き叫ぶことだけだったと思います。

泣き叫ぶ私に、両親はその要求を満たすべく、昼夜を問わず無償の奉仕を私にしてくれたと思います。

数年後、幼稚園に入り同じ年の子供と時を過ごすことになります。

相変わらずわがままなことばかりを言っていたと思いますが、その中で他の子供たちと仲良く遊んだり、時にけんかをしたりして、自分以外の存在を意識していくことになります。


小学校に入学しますが、幼いと言えどもすでに一人ひとりに個性があります。

泣き虫な子、よく笑う子、怒りっぽい子、先生の言うことを素直に聞く子、聞かない子、勉強が好きな子、嫌いな子など誰一人として自分と同じではありません。

性格や考え方の違う子に囲まれながら、お互いに違いを認めていきます。



学年が上に行くに従い、近くに集まる仲間が出来始めていきました。

時々、仲間から反発を買い、孤独を味わったりもしましたが、それは決まって、うそをついたのがばれた時、周囲を無視し、わがままを言った時でした。

仲間はずれになりたくないので、反省し同じことをしなくなった様に思います。

中学、高校では他者とぶつかり合い、競い合う中で個性が磨かれていったと思います。

大人になり社会人になると、多くの時間を患者さんのために費やし、1人前の歯科医師となるために努力しなければなりませんでした。



過去から現在の振り返ると、あらためて摂理のもとに生きていることを、実感します。



子供の時、わがままばかり言ったり、自分のことしか考えていないと、たとえ子供といえども摂理が働き、友達に嫌われ、一人ぼっちにされます。

その苦痛を味わうことで、他者のことも考え、仲間との協調が必要なことを学んでいったと思います。

大人になり仕事に就きましたが、働くということは、自分の感情を抑え、他者のために奉仕することに他なりません。

働くことを通して、シルバーバーチが繰り返し言っている「人のために自分を役に立てる」ことを少しずつ実現していくとともに、その大切さを学んでいったと思います。

また、「役に立つ喜び」も患者さんの喜ぶ顔を見て実感していくことになります。



そして、機が熟して結婚をしましたが、独身の時と違い、仕事が終わった後も自分以外の人(配偶者)のことを考え、大事にしなければいけません。

さらに子供が生まれると、自分の楽しみよりも子育てを優先しなければならず、家族を中心に物事を考える様になってきました。



ありふれた人生のイベントは、自分から他者に意識を向かわせ、他者のために奉仕していく方向に進ませるためにあったと思います。

過去に数々の過ちを犯し、その度に痛い思いをしながら、知らず知らずのうちに、神の摂理を学んできたと思います。

人生のあらゆることが、摂理の支配下にあり、摂理を信じる信じないかにおかまいなく、それに沿って人生が展開してきたと思います。

「何で生きているのか」という私の答えは「人のために生きている」ということであり、これからも変わることはないだろうと考えています。

2013年12月1日日曜日

死について



命にかかわる病気になってしまった人に、伝えたいことがあります。

余命を告げられた人も、最後まで見ていただければ幸いです。

私は幸いにして健康であり、深刻な病気を経験したわけではありません。

病気のつらさや痛み、怖れや不安は経験した人でなければわからないことなので、安易な同情の気持ちで書く気はありません。

病気に怯えている人、死の恐怖と闘っている人に、真実を知ってもらうことにより、少しでも心が安らぎ、穏やかになってもらいたいと願っています。



病気の人を、恐怖に陥れる元凶は「死」です。

10年前の私は、死は生の終局だと考えていました。

時折、メディアを通じて死後の世界のことを語る人を見ましたが、それは脳が作り出した空想もしくは幻影の世界であると思っていました。

死後の世界が存在することを、証明できるものは何ひとつなく、体験者の主観的なものだったからです。

世界各地のことを知りたければ、現地に行った人から直接話を聞いたり、書籍、インターネット等で調べて多くの情報を得ることができます。

しかし死んだ後の世界について容易に知ることは出来ません。

たとえ知識を入手できたとしても、それが正しいかどうかを検証することは不可能です。



宗教においても死後の世界を説いてますが、キリスト教は天国と地獄、仏教では極楽と地獄というように統一されたものではないため、どれが正しいのかわからなくなってしまいます。

宗教や文化や地域によって違うため、どうしても普遍的なものではないと感じてしまいます。

そんな分からないことを考えても仕方がないと、思っている人もきっと多いのではないでしょうか。



もし、死後の世界が存在しないとすれば、死がもたらすものは「無」です。

生命は肉体の死とともに終わります。

一方、死後の世界が存在するのであれば、生命は肉体の死の後も存在し続けるということになります。

死がもたらすものは「肉体からの解放」であり、肉体を超越した何らかの存在を認めなくてはいけません。

多くの人はそれを魂(霊)と呼びます。

2つに1つであり、どちらかが真実です。



人間の身体は様々な組織から成り立つ、精密な機械と言って良いと思います。

機械は指示をしなければ動かすことはできません。

身体を動かしているのは脳からの命令ということになりますが、脳は自動的に命令を出しているのではありません。

すべての命令を出しているのは精神です。

精神が、脳という器官を通じて命令を出し、身体を動かしています。

精神を大脳の働きとして説明しようとすれば、電気的、化学的反応により作り出された実体のない幻影ということになります。

本当に精神とは実体のない幻影なのでしょうか。

そうではなく、五感で認識することのできない非物質的次元のものと考えることに無理があるのでしょうか。



精神は、様々な感情を表現します。

もし、脳が電気的、化学的反応を繰り返す機械ということであれば、満開の桜を見て美しいと感じることもないでしょう。

ニコッと微笑んだ赤ちゃんを見て、かわいいと感じることはないでしょう。

愛する人を喪って、涙を流すこともないでしょう。

脳という機械に、そんな感情が入り込む理由は見つかりません。

魂が感じとって、精神(心)を動かしています。

例えて言えば、魂という譜面に曲が書かれていき、精神(心)は曲を表現する楽器です。

曲がなければ楽器の存在意味はなくなり、楽器がなければ曲を奏でることはできません。

精神(心)は魂の表現媒体なのです。

目に見えない精神(心)の存在を認めながら、魂の存在を否定するのは不合理だと思います。



死の正確な知識を最も必要としているのは、愛する人を亡くされて深い悲しみに沈まれている人たちであり、病気を患い死の恐怖と闘っている人たちです。

何回でも、その人たちに伝えます。





人は死んで無になるのではなく、心、意識は存在し続けます。

生命とは、肉体を超えた魂です。





肉体は死んでも、この世に残した愛する人に寄り添い、見守ることができます。

そして、亡くなった愛する人と、肉体の死後すぐに再会することができます。

しばらくして、この世に遺した愛する人を、出迎えることになります。

愛するもの同士に、永続的な別れがないことは、紛れもない事実です。

信じられなくても、いずれ現実のものとなります。

死が訪れるのは多少の遅い早いがありますが、誰も避けられない自然の摂理であり、悲しむべきことではありません。



この世は、様々な経験を通して大切なことを学ぶためにある、いわば学校であり、死は卒業を意味します。

卒業後には、この世で学んだことを活かすことのできる、すばらしい世界が待ち受けています。

死に対する無知は恐怖を生み出し、正しい知識は恐怖を打ち消します。

限られた人だけが知っているのは、あまりに不公平です。



(肉体の)死の後にも生があります。そのことを前提に生きて下さい。

死の悲しみや恐怖から、心が解放されることにより、今、本当にするべきことが見えてきます。

この世も次の世も、愛が最も大切であるのことに変わりはありません。

悔いの残らぬように、この世で愛を存分に表現しましょう。

美しい曲を奏でていきましょう。





2013年11月14日木曜日

ガンを愛する



少年の時、私も宇宙飛行士になりたいと思っていました。

宇宙空間から地球を眺めたかったからです。

スペースシャトルに搭乗した宇宙飛行士の方も、きっと皆そうだと思います。

船窓から地球を眺めて国境線がどこにも見えないことに感慨を覚えるそうです。

地球は限りなく美しい1つの生命体だと言われた方もいます。



地球には多種多様の生物がいて、周りの環境に調和して生きています。

人にはそれぞれ住む国があり、文化や宗教も様々です。肌の色や顔つきも違いますが、広大な宇宙から見れば大した差ではありません。

同じ仲間です。



しかし、地上では争いが絶えることがありません。

お互いを認め合わず、敵対し、さらに好戦的な組織が次々と生まれていきます。

組織を構成している個々の人間は、初めから敵意を抱いていたのではなく、過去に侮辱を受けたり、家族や友人を傷つけられたり殺されたりして、怒りや憎しみの気持ちが生まれて、銃を手にしたのかもしれません。

いかに過激な組織であっても、彼らは彼らなりの理由があります。

9.11テロは赦しがたい非人道的な行為です。

米国は首謀した組織を壊滅させるべく、中東の国々に侵攻して、圧倒的な武力により鎮圧させようとしました。

結果はどうでしょう。

平和は生まれず、混迷が深まるばかりです。

原因は組織ではなく、怒りや恨みそして憎しみにあるからです。

組織を消滅させても、あらたな憎しみを生み出すだけであり、争いが治まることはありません。



力ずくで問題を解決しようとすると一旦は静かになりますが、根本的な原因は依然としてそのままであり、さらに大きな争いが起きることになります。

お互いを認めあい、同じ人間という同胞精神のもと憎しみや怖れを抱かなくなれば、傷つけあうことはなくなるでしょう。

相手と共に生きようとする気持ちを持つことが、平和への第一歩だと考えられます。



話は変わりますが、からだの中にも様々な組織があり、それぞれが欠かすことの出来ない存在として調和して働き、肉体を維持しています。

組織の細胞は絶えず新生していますが、時に細胞分裂が正常に行われず、ガン細胞を造り出してしまいます。

免疫システムの監視をくぐり抜けたガン細胞は増殖を続け病気として発症し、多くの人は恐怖を感じ、それを異端な組織として手術をして肉体から取り除こうとします。



取り除けば肉体上の健康を取り戻しますが、しばらくの期間を経て再発してしまうことがあります。

残された治療法として、抗ガン剤の投与が開始され、終わりのないガン細胞との徹底抗戦が始まります。

敵であるガン細胞は、薬の攻撃を受け撤退していきますが、味方である正常細胞も大きなダメージを受け、強い副作用として現れます。

薬という援軍により、劣勢に回ったかに見えたガン細胞は、耐性という戦略をとり、失地を回復していきます。

より強くなったガン細胞を攻撃するために、さらに強い薬がを投入されることになりますが、強い薬ほど副作用も強くなるのが一般的です。

薬によりガンは強力になっていくのに対し、身体は副作用により徐々に衰弱していきます。

そんな戦争みたいなことが繰り返されていくうちに、身体は傷つき、消耗して力尽きていきます。

そして両者が負ける引き分けとなります。



戦争が生み出すものは、平和ではなく憎しみであり、新たな戦争です。

神の摂理である因果律が働いて、そうならざるを得ないのです。

ガンという病気も、同じに思えてなりません。



薬でガンを攻撃すれば因果律が働き、結果として強く攻撃性を増したガン細胞が生まれてくると考えられます。

根本的な原因は肉体次元ではなく霊的次元にあり、平和、協調、調和を欠いた魂が肉体上に顕れたものがガンであると考えられるからです。

もし、魂が平和、協調、調和を取り戻したなら、肉体のガンも鎮まっていくはずです。

戦争も人々が平和、協調、調和の心を取り戻したのなら、治まってくるでしょう。

すべてを解決することができるのは、「愛」しかありません。

遠い昔、ユダヤの地で「汝の敵を愛せよ」と言った人がいました。

実に難しいことですがそれしかありません。

できたのならすべてが好転します。



ガンは、自らの原因で作り出した、自らの体の一部です。

敵対して攻撃するのではなく、自らの一部として受け入れ、共に生きていこうとし、愛の心でガンさえも包み込むことができたなら、因果律の結果としてガンの存在理由はなくなり、身体に平和が訪れるのかもしれません。





参考ページ: 「ガンは愛により癒される」 




 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2013年11月13日水曜日

ガンの治療について



以前に、「抗ガン剤と自然治癒力」というタイトルでブログを書きましたが、いろいろなことが整理されつつありますので、改めて書きたいと思います。

個人的な意見として、ご覧下さい。



ガンという病気には様々な治療法がありますが、手術をして根治を目指す患者さんがほとんどだと思います。

しかし、手術によりガン組織が、体から取り除かれたかに見えても、ガン細胞は体のどこかで生き残り、年月を経てまた姿を現すことがあります。

人は肉体、精神、霊から成り立っているため、病気には肉体的、精神的、霊的次元での原因があります。



外傷などは、物理的な侵襲が体に加わり起こるので、原因は肉体的次元のものです。

精神(心)的次元に原因がある病気として、胃潰瘍があり、強いストレスを感じることにより、肉体に変化(病変)を起こします。

現代医学により原因が解明されていない多くの病気は、霊的次元で原因が存在すると推察されます。



ガンは、平和、協調、調和を欠いた魂のありさまが、病気として肉体に顕れたものと考えています。

神の御心は愛であり、平和、協調、調和の心も愛から生まれます。

それらを欠くことをは、摂理に背いたことになり、病気などを通し相応の苦痛を経験することになります。

ガンという苦難を通して、生命や愛の大切さに気付けば、心は平和、協調、調和を取り戻し、生き方も摂理に適ったものに変わっていくと思われます。

つらく苦しい経験であっても、魂のありさまが変わり、摂理に適った生活をし始めることができたなら、ガンという病気になったことに重大な意味があったことになります。



しかし、病気になったのは運が悪かっただけ、取り去ってしまえばお終いと思ってしまうと、大切なことに気付くことはありません。

手術で肉体上の病気はなくなったように見えても、霊的次元での原因は存在し続け、肉体上に再び顕れることもあるでしょう。

再発はガン患者さんにとっ、て最も避けたかった事態です。

その心境は経験したものでなければ、とても分からないと思います。

この過酷で深甚な経験は、魂にまで響くことになり、生命というものを強く意識させるとともに、愛こそがもっとも大切だと気付かせることになります。

これらすべてのことは、内在する魂を目覚めさせるためにある、神の摂理です。



ただ、患者さんには家族があり、仕事があり、その先の人生がありますので、何とか生きていたいと強く願うのは当たり前のことです。

そんな時に、医者から提示されるのが抗ガン剤治療であり、少しでも良くなって欲しいという思いから受け入れます。

周知のことですが、抗ガン剤はガン細胞の増殖を抑制すると同時に、数々の副作用があり、患者さんを容赦なく苦しめることになります。

病気の苦痛は神が創った摂理であり、大切ものに気付き、魂を目覚めさせるという大きな意味を持ちます。

しかし、副作用の苦しみは人間が作った薬から生み出されるものであり、病気の苦痛とは違い何ら意味を持たないと考えています。

そればかりか、大切なものに気付く機会を奪い、愛する者とすばらしい時を過ごす大きな妨げになっていると思われます。

全く不必要な苦痛であり、貴重な時間が奪われていると思えてなりません。

また、薬を研究開発のため、罪のない動物たちを実験材料にしていることも、摂理に大きく背いた行為です。



そして、抗ガン剤には、骨髄機能の抑制という大きな副作用があります。

骨髄は血液を造り出し、その中にガンなどの異物を排除してくれる免疫細胞が含まれます。

免疫細胞が少なくなれば免疫機能は低下します。

つまり、抗ガン剤はガン細胞の増殖を一時的に抑えることになりますが、免疫機能を低下させることにもなります。

例えて言えば、皿の汚れをガン、洗剤は抗ガン剤、そして流水は治癒(免疫)力とすると、水道の蛇口を絞ってしまう様なものです。

洗剤をいくら使って皿から汚れを排除したとしても、流水が少なくなってしまえば皿から汚れは流れ落ちず、きれいになりません。

神が創った免疫システムの働きを、人間が作った薬により抑制されてしまうことが許されるのでしょうか。



再発したガン組織はある程度の大きさになっていて、全身に転移していることもありますので、免疫力ですべて消滅させることは難しいのかもしれません。

しかし、神から与えられた免疫という治癒力を十分に発揮することができたなら、進行を遅らせたり、止めたりすることは十分可能だと思います。



治癒力を最大限に発揮させるには、心を穏やかに生活して、病気は必ず治るという強い信念を持つことだと思います。

すべてのものを慈しみ愛する気持ちも大切です。

つらい抗ガン剤の副作用により、心が不穏になり、信念が揺らいでしまって、治癒(免疫)力が低下することが何より心配です。






参考ページ: 「ガン(癌)は怖くない!」      

         
         「ガンの自然治癒」


       
         「ガンは愛により癒される」

        
         「ガンは魂のかさぶた」









2013年11月9日土曜日

ガンとは何なのか



子供の頃、ガンは怖い病気だけど、大人になる頃には医学が進歩して治療方法が見つかり、死んでしまうことはなくなっているだろうと漠然と考えていました。

大人になった今でも、残念ながら決定的な治療法は見つかっておらず、死因のトップはガンです。



近年の検査器機の進歩は目覚しく、より早期の発見が可能となり、手術方法も日々改良され、抗がん剤などの薬も多数開発されています。

それにもかかわらず、ここ数十年、ガンの死亡率に大きな変化は見られません。

また、ガンを発生させるリスク因子の究明も進み、発がん物質の使用を規制したり、個人においても健康志向の高まりとともに、禁煙する人や食事内容に気を遣う人が増えてきています。

ガンを予防する知識の普及にもかかわらず、ガンの罹患率は減少するどころか増加傾向にあります。これはどう解釈すればいいのでしょう。



結核などの細菌感染症で亡くなる方は、抗生物質の発見により激減しました。

原因は細菌という顕微鏡により目で確認できるものであり、それを消滅させれば治癒となります。

細菌感染症と同様に、ガンも手術により身体から取り除き、残っているガン細胞を抗がん剤で死滅させるという考えに則って治療は行われていますが、実際には日本で約30万人もの方がこの病気で亡くなっています。

ガンという病気は、そんな単純なものではないのかもしれません。

ガンの発生は、遺伝的要因や環境的要因など複数の因子が関係してると言われ、免疫力もガンの発症に強く関わっていると考えられます。

最近の研究で、強いストレスを感じるとNK細胞(免疫)の活性が低下することが分かっています。

NK細胞はウィルスやガン細胞を探知して攻撃する細胞ですから、ストレスによりNK細胞の活性が低下すれば、ガンが発生しやすくなると考えられます。



ストレスを感じているのは心ですから、心とガンは密接な関係があることは明白で、ガンの罹患率が年々増加してきているのは、ストレスを強く感じさせる世の中になってきているためと考えてもおかしくはありません。

経験的に、多くのストレスは人間関係や過労から生まれると思います。

そして、余裕のない社会や個人の心が、多くの人の心に新たなストレスを、次々と生み出していきます。

社会がゆとりを失い、気持ちに余裕がなくなると、他者のことまで考えなくなりがちです。

どうしても自分優先となり利己的になっていきます。

利己的な心は神の心である「愛」と対極にあり、摂理に反するものとなります。

摂理に反した利己的な考えを国が持てば、他国との友好が崩れ、戦争となるかもしれません。

個人が持てば、他者との協調は失われ、孤独になったり、時として病気を経験することになるかもしれません。



ガン細胞の発生は、細胞分裂時の遺伝子の複製ミスにより、起こると言われていますが、細胞分裂は自然の摂理により営まれています。

人がすることにはミスがありますが、摂理を創造した神がミスを起こしているとは考えられません。

1つ1つの細胞は、肉体の上位にある魂の支配下にあり、常に影響を受けていると思います。

利己的な心により平和、協調、調和を欠いてしまった魂が、細胞分裂という動的できわめて繊細な営みに影響を与えて複製ミスが起こり、平和、協調、調和を欠いたガン細胞を生じさせてしまっているのかもしれません。

複製ミスを起こすこと自体も、摂理の1つだと思います。

たとえガン細胞が生じたとしても、自然治癒力として与えられている免疫システムにより感知され、死滅させられるはずですが、不安や心配、恐怖などの心を持ち続けると、治癒力が十分に働かずガン細胞の増殖を許すことになり、病気として発症することになります。

つまり、ガンという病気の発生、発症すべてに神の摂理が働いていて、霊的な原因は摂理に背いた心ということになります。



原因がわかれば対応は見えてきます。

摂理に適うように、他者を慈しみ愛する想いを持ち、表現しましょう。

生きていることに感謝して、心を穏やかにして過ごしましょう。

自分が作った病気なら、自分が病気を治すことも可能なはずです。

末期ガンというのは人が考えた概念です。

そんなものは存在しません。

ガンも自分の肉体の一部であり、魂の支配下にあります。

あなたの魂はすべてを乗り越えていく力を秘めています。

従って病気は治ります。

2013年11月3日日曜日

病気の癒やし



ヒーリングについては、わからないことだらけです。

直接、触れて行なうこともあれば、遠く離れた場所にいる患者を思い描き治癒力を送ることもあります。

どちらも同等の効果があると言われており、私の経験からもそうだと思います。



ラジオの電波は、距離が遠くなったり、山が立ちはだかったりすると、受信しにくくなりますが、治癒力は距離や地形的な制約を全く受けないことからも、地上的(物理的)なものではないことが分かります。

しかも、一面識もない方であっても、正確に力は届きます。

ヒーラー側からの思念により患者との間にリンクが出来るということですが、リンクが出来たという実感はありません。

私がヒーリングの時にすることと言えば、穏やかな気持ちを保ちながら病気が癒されていくイメージを思い描き、あとは委ねるだけです。

しばらくすると、左腕から指先に向かってしびれが伝わっていく感覚が、次第に強くなっていき、どこかに向かって放散していきます。



会ったこともない方に力が届けられること自体、私の理解を超えていますから、今回はうまくいくのだろうかと気になります。

後で、ヒーリングしている時の様子を聞かせてもらうことにしていますが、多くの人が眠気を感じてうとうとしたり、患部がぴりぴりしたり、体が暖かくなるのを感じたりする様です。

痛みなどの症状がその場で改善していたり、あるいは症状の改善があったことを教えてもらうと、今回もうまく力が届けられたと安堵し、うれしくなります。



ただ、病気がどの様なメカニズムで癒やされるのか、私には分かりません。

シルバーバーチの霊訓の中に書かれているところがありますが、言語で説明しにくいことだけは確かな様です。

また、霊訓の中で病気について度々述べられていますが、その中に(患者自身で)「治せない病気はない」と言っているのが特に心に残ります。

肉体を支配している魂が、病気を追い出すよう命じればできるということなのです。

医学では魂(霊)の存在を否定してるので、ナンセンスなことと一蹴されてしまうでしょうが、魂をはっきりと自覚した上で、相応の段階まで進化していればきっと可能なのでしょう。



魂を表現しているのが肉体であれば、魂の不健全さは時として肉体に病気として顕れます。

熱心なキリスト教信者の肉体に現れる聖痕(スティグマ)も、魂のありようが肉体上に顕れた典型ではないかと考えています。

もしそうであれば、魂が浄化されていけば肉体も浄化されるということであり、病気も治癒していくことになります。

ただし、浄化されるには相応の期間、病気の苦痛を経験しなければいけません。

病気になったのは因果律の結果であり、手術をして病巣を取り除いても、薬で症状が改善しても、それは肉体次元での対処療法に過ぎず、根本原因に対する霊的な償いは必要となります。

原因となっているのは、摂理に背いた想いや価値観にとらわれた生き方と、不自然な生活習慣にあると考えられます。

もう1度、静かに見つめ直し、過ちに気付いたら素直に認め、改めることが何よりも大切です。



摂理を一言に集約すれば「愛」です。

摂理に背いた想いとは憎しみであり、恨みであり、妬みであり、生きているだけで幸せなことなのに、多くのものを求めようとする生き方です。

摂理に適った生き方は、他者の気持ちを察し、いたわり、やさしくすることから始まると思います。

許すことも「愛」の一つの表現です。

病気になった運命を恨んだりしてはいけません。

何かの意味を持って病気になったと受け止め、すべてを受け入れ、病気さえも許すことにより、心の平穏が保たれると思います。

その心の平穏さが、肉体の調和を乱している病気を、鎮めていくのではないでしょうか。



子供のころ私も、親や先生に良く叱られていました。

何か悪いことをして叱られることがほとんどであり、それに気付き、反省し、時に罰を受けて、最後は許してもらった記憶があります。

病気になるということは、人に代わって神に叱られているということであり、摂理に従うように促されているのだと思います。

つらくて、痛くて、苦しくて、耐えられない時を送っている方ほど、多くの償いをされているわけですから、許される時が近づいているはずです。

もしかしたら、明日の朝かもしれません。

2013年10月26日土曜日

苦難は不幸なことではない



人は、様々な悩みや苦しみを抱えながら生きています。

どんなに避けようと思っても、人は生きている限り苦難に遭遇することになっています。

なぜなら生きる目的は魂を向上させるためであり、苦難に立ち向かい乗り越えようとすることにより、向上が計られるからです。



だいぶ昔の話になりますが、学生時代に1番いやなものはやはり試験でした。

その期間だけは自由を奪われ勉強を強いられ、点数で評価されるからです。

こんなのものがなければいいのにと、何度思ったことでしょうか。

しかし、今、振り返ってみると、実は真剣に学習するために、必要なきっかけであったように思えます。

もし、試験がなくなれば、もろ手を挙げて喜んだかもしれませんが、緊張感がなくなり勉強に身が入らず、学ぶことも学ばずに卒業することになったのかもしれません。

少なくても、私の場合はそうです。

それと同じで、もしもこの世で苦難がなかったとしたら、一見すると安楽で幸せそうな人生に思えますが、立ち向かって乗り越えようと奮闘努力することはなく、そこから学び取ることもありません。

そして、目覚める機会がなくなった魂は眠り続けたままとなり、向上することができません。

従って、「生まれてきた意味を成就するために苦難がある」ということになります。



私も、40代半ばでかつてない苦難が訪れました。

一刻も早く抜け出したいとばかり思っていましたが、予想に反して状況は悪化していきました。

そして、最悪の結末を迎えることが現実味を帯びてきて、経験したことのない惨めさと後悔と不安の思いの中で、「シルバーバーチの霊訓」と出会い、貪るように読んでいきました。

晴れた日の山登りに、避難所は必要ありません。

しかし、嵐が吹きすさぶ時には、安心できる場所を捜し求めます。

襲ってきた嵐(苦難)から身を守ってくれたのは、「霊的真理」という堅牢な山小屋でした。

地上で起こるいかなる嵐からも守ってくれます。

山小屋に逃げ込み嵐が去り出てきた時に、新しい自分になっていました。

そして、「苦難は因果律の結果」であり、「この苦難は不幸ではなく、大切なことに気付き、真の自分を見出すためにあった」と思いました。



前にも書きましたが、ふいの治癒力の発現と、経験したことのない苦難の始まりが、わずか1ヶ月の間に続けて起きたことは、「何らかの計画があり、それに沿って生きている」ことを自覚するためであったと確信しています。

シルバーバーチは、「計画」のことをブループリント(青写真)と呼んでいますが、私だけでなくすべての人に、あらかじめ決まっていた計画があり、それに沿って生きています。

計画の目的は、魂を向上させるためですが、人には自由意志があるため計画通りに行くとは限りません。

遭遇した苦難が、あらかじめ決まっていた計画なのか、この世で摂理に背き作ってしまった原因に対する結果なのか、はっきりと知ることは出来ません。

ただ、今回の経験から、あらかじめ計画されていた事象と因果律で生じる苦難が、魂を目覚めさせるため絶妙のタイミングで組み合わさっていると感じました。



苦難の始まりでは、早めに回避しようと頭で対策を考えます。

事態が悪化していくと他者に助けを求めたり、あらゆる手段を講じて何とかならないかと考えます。

どんなに考えてもどうにもならないことがわかりはじめると、思考が停止して、奥深いところである「魂」が前面に出てきます。

肉体(頭脳)の上位に存在する真の自分であり、思考に代わって、直感として進むべき方向を指示していきます。

頭で考えることは、他人の言動に影響を受けたり、権威に弱かったり、情緒に流されたりして、移ろい易いものです。

しかし、魂の声である直感は、奥深いところにある正直な自分の気持ちや願望であり、素直に従えばたとえどの様な結果になったとしても、後悔することはないでしょう。



また直感は、この世に生きる私たちを、暖かく見守る存在から送られた思念であることも少なくありません。

より良き人生を歩むために、常に導いてくれているありがたい存在です。

霊的な視点から眺めていますので、魂の向上にとって最善の選択をするように働きかけます。

苦難が降りかかってきても、運が悪かったと自分を納得させてはいけません。

ましてや人や社会のせいにしてはいけません。

そして苦難から逃げ出しては決していけません。

どちらも魂が向上する機会を自ら放棄したことになり、生まれてきた意味を1つ失うことになるからです。



どんなに苦しくても、つらくても、痛くても、必ず乗り越えられます。

乗り越えられる苦難しか与えられません。

乗り越えられる人だからこそ与えらたのです。

嵐は去り、陽が差し込む時が必ずきます。



つらくて耐えられない時は、こう言い聞かせてください。

自分(魂)が成長するために、この経験がどうしても必要なのだと。


2013年10月19日土曜日

病気になった意味



内面にあるものは外面に出ます。

悲しくなると泣く、おかしくなったら笑う、恥ずかしくなったら顔が赤くなる、心に思ったこと感じたことは肉体で表現されます。

そうであるならば病気も内面にある何かが、肉体に上に表現されていると考えてもおかしくありません。



例えば、「ガン」はどうでしょう?

正常な細胞と違い、無秩序に分裂を繰り返し増殖してく病気であり、周りの組織を押しのけて拡がり、ちぎれて遠隔地に転移をする、人体との協調性もなく調和もない、言わばわがままな細胞の塊です。

摂理に背いた悪感情を長く持ち続けると、人は病気になります。

悲しみをいつまでも引きずっていたり、憎しみや恨みや嫉妬心で、心が埋め尽くされていたり、欲を張った心や落ち着きを欠く心も、病気の原因となります。

内面にある魂は、外面にある肉体の上位にあり、肉体は魂に従います。

不健全な魂のありさまは、肉体に病気として顕れます。

もしかしたら肉体に顕れているガンは、平和、協調、調和を失いかけた魂の反映であるのかもしれません。

つまり、人体の調和を乱すガンを生みだしているのは、調和を乱しかけた心であり魂である可能性があります。



もちろん、遺伝的素因により乳ガンや大腸ガンになったり、タバコ、放射線などの外的要因によりガンが発生しやすくなるのは確かなことです。

また、摂理に適った生活をしている人でも、耐えなければならない試練(予定されたこと)として、ガンを経験しなければならないこともあるでしょう。

しかし、多くは摂理に背いた心を抱き続けていたことによってガンが生じたのではないかと考えています。



最愛の人を失ったら悲しくなるのは当然です。

信じている人に裏切られたら、憎しみを覚えてしまうこともあるでしょう。

突然、職を失ったら挫折感を感じてしまうかもしれません。

しかし、好ましくない感情にいつまでもとらわれていると、自然治癒力(生命力)を十分に受け取ることが出来なくなり、病気を発症させることになります。

ちなみにヒーリングは、患者に治癒(生命)力を強制的に注入する行為であり、自然治癒力が実在することを証明するものでもあります。



病気になると苦痛や不自由さを伴いますので、そこから何とか抜け出そうとします。

医者にかかったり、生活習慣を変えてみたりするなど、病気を治すことにどうしても意識が向きますので、結果的に摂理に背いた悪感情を抱かなくなります。

誤った価値観、不自然な考え方や生活習慣は、人から忠告を受けたりしてもなかなか変えることはできません。

根底から変えるためには、何か強烈な体験が必要となってきます。



ガンは、(地上の)生命を脅かす病気であり、人には理解してもらえない痛みやつらさを伴いますので、心より深いところにある魂にまで響きます。

健康な時に気付かなかった、真に大切なことを呼び起こさせることになります。

真に大切なこととは「命」であり「愛」です。いずれも肉体を超えた霊的次元のものです。

ほとんどの人が、目に映るもの、証明されたものしか信じないのは、科学を信奉する現代社会において当然なことなのかもしれません。

しかし、科学は叡智を結集してもなお、「生命」をとらえることができません。

それは、生命とは肉体を超えた「魂」であるからです。

もし、科学で証明されないものを否定するならば、「愛」は存在しないことになります。

生命は肉体であり、誕生とともに生まれ死とともに消滅するということであれば、生きている意味はきわめて希薄になり、「愛」の入り込む余地はありません。



生命は魂であり、魂の向上のために、この世に生まれてきました。

そのつらさも痛みも、魂の向上のためにあります。

内面(魂)にあるものが、外面(肉体)に顕れ、外面に顕れたもの(病気)により、内面(魂)を知ることになります。