2013年12月15日日曜日

内から湧き上がる思いに従う



6年前、仕事上の不正を公の場で追求されました。

その時は、まさに針のむしろでした。



過ちを行おうとした瞬間、「本当にいいのか?」と問いただす自分がいましたが、「大丈夫だ、みんなしていることだから」という考えに、それは打ち消されました。

シルバーバーチの言う、「良心」という神の監視装置(モニター)が働いたにもかかわらず、それを身勝手な理屈を付けて無視したのです。

心がとがめることを、してはいけないのです。



不正を追求されている期間は、今まで味わったことのない後悔の念、自責の念にさいなまれました。

自分がした過ちの1つ1つが、目の前に晒されていくのは、耐え難い苦痛です。

その1つ1つを担当者から「間違いありませんね」と繰り返し、問い質された時は、まるで神に裁きを受けているような気持ちになりました。

その問いに対する私が選択する答えは2通りありました。

1つはありのままを正直に話し、過ちを認めること。

もう1つは、仕事や生活を守るために、否認することでした。

過ちを認めるのは、人として当然のことですが、その先に待ち受けている現実を考えると身震いがしました。

しかし、「ありのまま、正直に」という内から湧き上がる思いに従い、「はい、間違いありません」と過ちを認める答えをしました。

限りなく暗い将来に進む方向でしたが、「乗り越えられない苦難はない」というシルバーバーチの言葉を信じて、迷いなく進んでいきました。

その結果、恐れていた最も重い行政処分が、私に下されることになりました。

人生最大の屈辱です。

その処分に伴い、多額の返還金の支払いと、歯科医業停止2ヶ月が課せられました。

何よりもつらかったのは、その記事が新聞に載り、多くの人達の知ることとなり、信用が失墜し、多くの患者さんが去って行ったことです。

「信用してたのに」と、面と向かって患者さんに言われた時の気持は、言葉にすることはできません。



しかし、出口の見えない重苦しい日々が長く続く中で、霊的真理が紛れも無い真実であると確信していくとともに、それを手にすることができた大きな喜びを感じていました。

人は生きていると、どちらかを選択しなければならない、重要な局面に出会います。

もし、内から湧き上がる思いが、望まない方、困難な方を指し示していても、後悔しないために素直に従った方が良いと思います。

もし感じなければ、より正直な方、より自然な方、より人のためになっている方を選択するのが賢明と思われます。

そちらの方が、摂理に適っていると考えられるからです。



万有引力の法則により、石を空に向けて投げても、必ず地面に落ちてくるように、神の摂理に背いたら、苦痛を経験して気付き、必ず従うことになります。

摂理に背いたことをして、何の反省も償いもすることもなく、この世を終えたとしても、次の世界で因果律は働き、罪を償うことになります。

人は死んでしばらくすると、この世に生まれてから死ぬまでに想ったこと、行ったことの一部始終を、自ら振り返ることになります。

この世での想いと行いのすべては、魂に刻み込まれていますので、それを1つ1つを検証していくことになります。



この世で償われなかった摂理に背いた行いも、魂に刻み込まれていますので、目の当たりにすることになり、そこで自らの過ちに気付き、後悔し、自責の念を持つことになります。

その過ちを償うために、相応の苦難の人生を自らが望み、もう1度この世に生まれくることもあります。



それとは反対に、摂理に適った行いは、たとえ人知れず、ささやかな行為であっても、世の中を良くし、人を元気にし、明るくし、幸せにしています。

そのことを知り、幸福感に包まれることになります。



私が不正を質されている時に、正直になれずうそをつき、罪を免れたとします。

ホッと胸をなでおろし、前と変わらぬ日常に戻っていったことでしょう。

時とともに、そんなことがあったことさえ忘れてしまうことでしょう。

そして、この世を去る日がきます。

私にも次の世でこの世のすべてを検証する時がきます。

その時、うそをつき苦難を逃れたことを、目の当たりにすることになります。

苦難を逃れたために、魂の向上が得られなかったこと、そして最も大切なものを掴み損ねたことを、深く後悔することになると思います。



正直者が馬鹿を見ることはありません。

内から湧き上がる想いは、そのことを知っている魂の声だったのかもしれません。







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